せきにんじゅうだい!   作:かないた

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#1

 ――知らなかった。知らなかったからしょうがない。私のせいじゃない。

 いや、違う。…………これは私のせいだ。私たち大人のせいだ。彼女らを巻き込んだ、大人のせいだ。

 

 私立巡ヶ丘学院高校国語教師 佐倉 慈

 

 

 

 高校の国語教師、佐倉 慈はため息と共に手に持っていた「職員用緊急避難マニュアル」と書かれた冊子をテーブルの上に置いた。何時見てもふざけたことを言っていると、忌々しげに冊子を睨みながら慈は再びため息をつく。

 彼女が今いるのは私立巡ヶ丘学院高校の三階にある生徒会室だった場所だ。学校の中の部屋にしては妙に生活感に溢れ、日用品が少なくない。陽が差し込む窓は僅かにヒビが入り、そこから見える光景は地獄のような様だった。

 「……………部活、なのかしらね」

 学校内に残る生徒たちだったモノ。身体は酷く腐敗しところどころ欠損も見られ、屍がそのまま歩いているかのような姿に慈は心が痛む。心は死に、息も絶え、身体は腐り、染み付いた習慣のみでこの場に残り続ける彼らにも生きていた時間があった。

 しかし、何度もこれまで確認したあのマニュアルからして、こうなることは最初からわかっていた。この巡ヶ丘という土地は最初からそうなるように作られた場所。知るのが遅過ぎたが、そうとしか思えなかった。

 一人の教師として、最後の大人としてこの地獄を作り出した者たちを許す事は出来ない。しかし、復讐を簡単にするわけにもいかない。慈にはまだ持つべき責任と義務があるのだから。

 ガラリと、一人思考をしていた慈の背後で部屋の引き戸が開く。入って来たのは桜色のショートヘアに猫の耳を模した帽子を被っている少女。

 「めぐねぇ!おつかれさま!」

 明るく、笑顔で挨拶をしたのはこの生徒会室もとい“学園生活部”の部員である三年生の丈槍 由紀だった。慈は彼女の笑顔を見て、それまで浮かべていた憂い顔をふっと緩めて柔和な笑みを浮かべる。

 「もぉ。丈槍さん?めぐねぇ、じゃなくて佐倉先生でしょ?」

 「あ、はーい。先生」

 親しみをこめてめぐねぇ、と呼ばれるのは嫌いではないが自分は先生だ。教師ならば誰もが、生徒に好かれていれば起こることだ。このやりとりはもはや、様式美のようなものだ。

 由紀はそのまま部室に入ると室内中央の長テーブル二つ横にならべたところにある自分の席に背負っていたリュックを置くと、被っている帽子を脱いだ。

 それを見た慈の顔つきがすぐに変わる。優しい先生から、慈本来の女性としてのものに。

 「ふぅ。………めぐねぇ、またそれ見てたんだ」

 「えぇ、ゆきさん。見るたびに、酷いと思うわ」

 「りーさんとかくるみちゃんには怖くて見せられなかったけど、ほんと、なんなんだろうね」

 そこには入室した時の高校三年生にしては幼い雰囲気を持っているゆきの様子はなく、年相応の少女らしい由紀がいた。

 二人はしばらく沈黙を続け、再び慈が口を開いた。

 「当面は地下へ向かっての制圧と探索ね。マニュアル通りなら多分、この“緊急事態”に対応するための資材があると思う」

 「そだね。でもまだ“皆”いるし、そう簡単に行くかな?」

 「無理でしょうね。実質、戦えるのがくるみさん一人。ゆうりちゃんと私、それにゆきさんは戦えない」

 「あはは…………ほんと、くるみちゃんがいなかったらどうなってたんだろ」

 “彼ら”とまともに戦えるのは今、校内を見回っている学園生活部の恵飛須沢 胡桃一人だけだ。陸上部だったことにしても、小柄なはずの女の子がスコップを軽々と振り回し、強度が低下しているとはいえ人体を切り裂くほどの膂力を持っている事は二人にとっても驚愕に値し、この追い込まれた状況下で貴重な“力”だった。

 自身の生徒を一種、駒のような見方をしてしまった慈は心の内で罪悪感に苛まれるがそれを抑え込んで話を続ける。大人だからこそ、こうして“共犯者”がいてくれるからこそ、冷静に冷徹に最適解を求めて。

 「ま、当分はそんな感じで。じゃあね、“めぐねぇ”」

 「………えぇ、またね。“ゆきさん”」

 唐突に由紀が別れの言葉を告げると手に持っていた帽子を被り直す。僅かな間の後、顔を少し下げてから再び上げた表情は幼い、無垢な瞳を宿していた。

 「はっ!ぼーっとしてたよぉ!」

 「ふふ。そろそろお昼ね、準備しましょう。丈槍さん、手伝ってくれる?」

 「はーい!」

 丈槍 由紀が現実を直視していられる時間は短い。元々強い心の持ち主では無かったが、それでも地獄の中で慈の次に思考を巡らせられる由紀はこの部屋に入って数分間のみ元に戻れるように自身に暗示をかけた。

 それを知っているのは幼児退行をする前に最後に話した慈のみ。残りの生徒は知らない。由紀は現実に耐えきれず精神が退行したとしか。

 「今日は何にするの?」

 「そうねぇ、カレーにしましょうか」

 「ホント!?めぐねぇ、ありがと!」

 「もー。だからめぐねぇじゃ――」

 

 

 

 学園生活部とは学校内で生活し、暮らすという名前そのままの部活動で発案者は慈と………由紀の元クラスメイトである若狭 悠里だ。暗示による精神の一時的回復というものを抜きにすれば“事件後”のゆきは塞ぎ込んでおり、生き残った四人の空気もあまりいいものではなかった。

 だから、それを解決するために擬似的な学校生活を再現し精神に安定をもたらそうとしたのである。そのためにこのサバイバル生活を部活と定義した。

 その効果はなかなか悪くないもので、少なくとも悠里の精神は救われた。

 テーブルの上座に座る慈の右前方に悠里はいた。彼女は何やらノートを開いてデータを記入していた。

 「ふむ。電気が足りないわね」

 「ここんところ、雨ばっかりだったしな」

 家計簿をつけている悠里に声をかけたのはツインテールの少女、ゆきと同じ三年生の恵飛須沢 胡桃。この四人の中で唯一“彼ら”と正面切って戦える力の持ち主だ。

 「そうねぇ、電気もそうだけど物資もたりないんでしょう?」

 家計簿を覗いた慈がそう言うと、悠里は「はい」と少し困ったような顔を見せる。

 ここでの生活はそれなりの長さだが、その中で四人が苦心したのはせいぜい風呂といった衛生環境のごく一部。それ以外は実を言えば何の困難も無く、普通の生活を出来た。

 電気や水道も通り、果ては浄水施設や高出力の太陽光発電すらもこの高校は備えている。

 しかし、それらは良くともやはり食物の確保だけは継続的に行わなければならないものだ。幸いにも何故か“あの日”は学校の購買部に在庫の追加があった日であり多少の危険を顧みなければ相当な期間の生活が可能であると慈、悠里は判断していた。

 「なら、近いうちに購買部に買い物にいきましょう。電気は放っておくしかないわよね」

 「そうですね」

 「あいよ」

 慈の決定に悠里と胡桃は頷く。ゆきは安全が確保されている三階をうろついているためいない。

 「そういえばめぐねぇ」

 「佐倉先生です」

 「おっと悪い。仮に購買部に行くとしてそれはいつに?」

 「出来るだけ早めに決行しましょう。二階の制圧を急ぎたいから、まずは整えてから、ね」

 「二階の制圧か。ま〜た人使いが荒くなりそうだなぁ」

 手を頭の後ろに回して胡桃は呆れたようにそう言うと、テーブルの上のコーヒーに口をつける。大量に在庫が残っていた粉コーヒーの味は学生用らしく大したものではなかった。

 慈は胡桃の言葉にごめんなさいね、と苦笑いする。

 「謝られても困るよ。……言うなれば運命共同体。互いに頼り、互いに庇い合い、助け合う。ってな」

 「何よそれ」

 「知らねーのか?りーさん」

 「またアニメの話?」

 じゃれあいを始める悠里と胡桃の姿をほのぼのと見守りつつ、慈は次の行動。購買部への定期買い出しをどうするか考える。

 現状の巡ヶ丘高校は地上三階・地下二階の建物だがその中で“彼ら”を排除し制圧、安全を確保出来たのは三階の全域と二階の中央階段まで。三階の階段から徐々に制圧を続けているが、胡桃しか戦えないため効率が非情に悪い。

 数が圧倒的に足りていない。今の最大の問題はそこだった。

 しかし、それはもうどうしようもない。生存者はこの部活の四人のみ。ならば少ない数を使って上手くやっていくしかない。それに、購買部付近の制圧も今回の買い出しが終われば間違いなく実行に移す。

 それが終わればようやく本腰を入れて校内内部の完全制圧、マニュアルに記された地下施設の確認が行える。たった四人、実質一人で校舎一つを制圧出来たのならそれだけで上出来だ。生徒の心の準備が出来るまで確実に現状維持が可能な拠点が出来る。

 慈はそこまで考え、メモを書いていたペンを止めてメモ帳をポケットに隠した。これからのことは自分一人ではなく、短い時間を使って由紀が考えたものも存在し、慈はこれを悠里と胡桃に見せる訳にはいかなかった。

 「――あいつらが思った以上に柔かったのが救いだな」

 「よくもまぁ、あんなに綺麗にスコップでずんばらりと出来るものね」

 「簡単さ。全身の力と遠心力、あとはブレずに先端を脆い部分にぶつける。これだけだ」

 どうやら話は胡桃がいつも使用している“スコップ”でどうやって“彼ら”を倒しているのかに移っていたようだ。慈からしても悠里と同じく、そんなことを普通はできないという感想を抱くのだが、現実として胡桃はそれをこなしているので何も言えない。

 「そういえば最初の頃は色々武器を作ったよな。物干し竿の先に出刃包丁つけて槍。火炎放射器に、弓。どれもこれも結局使ってないが」

 「そりゃ………ねぇ。私もめぐね、佐倉先生もくるみと違ってか弱いから」

 「りーさん、屋上」

 「冗談よ、冗談。でも実際どれもこれも使った結果、くるみが最後はスコップのほうが使い易いって言ったんじゃない」

 「あれは取り回しの良さと災害用だから先端が鋭くて、刺突、斬り、殴打が可能な万能道具だからな。槍は長過ぎるし、弓はそもそもまだ校内じゃ使わないし、火炎放射器なんか下手に使ったら自滅するし」

 席から立ち上がり、得物であるスコップを巧みにさばいてみせる胡桃に、悠里と慈は流石といった印象を受ける。元々そういった才能でもあったのか、だとしたら悲しいことだがと同じく二人は考えたのだが。

 「銃でもありゃいいんだろうけど音出るし、逆に素人が使うと危ないからせめてボウガンとかがありゃいいんだろうな」

 「作ってみる?」

 「めぐねぇ、作れんのか?」

 「言ってみてアレだけど、わからないかな」

 ただ、この提案自体は悪くないと慈は思った。音に反応する“彼ら”を静かにアウトレンジから攻撃可能な武器。弓では扱いが難しいがボウガンなら誰でも扱える。

 一階に技術室があったはずだ。道具を上に上げて制作してもいいかもしれないと慈は計画に一つ、武器の拡充を加えた。

 「っと、さーてそろそろゆきが戻ってくるな」

 くるみがそう言って学園生活部室内の時計を見て言う。時刻は午後四時。授業が終わる時間帯だ。

 たったっと、廊下を走る音が聞こえて、部室の扉が勢いよく開かれた。

 「たっだいまー!」

 「おかえりなさい、ゆきちゃん」

 「おう、おかえり」

 「おかえり、丈槍さん」

 元気のいい笑顔で、ゆきは入ってくると背負っているリュックを彼女の席の足下に置いてから椅子に座った。

 「授業はどうだった?」

 「いつも通りだったよ。でも、今日は居眠りしちゃったから怒られちゃって」

 「ゆきちゃんらしいわね」

 まるで、普通の学校生活を送っているかのように………いや、事実としてゆきには荒廃した血しぶきの広がる教室や廊下が映っていない。現実逃避し、自ら作りだした幻想の世界で生きているゆきには。

 「それに今日も不良さんいたから怖かったしー」

 「それはどこ?丈槍さん」

 「あっ、めぐねぇ!そうだよめぐねぇは先生だし、あの不良さんたちどうにかしてよ〜」

 ゆきの言う不良とは彼女の幼児人格が作りだした幻想の中で、彼女を危険から遠ざけるためのものだ。正常な由紀の人格が無意識下でゆきに危険を知らせているのかもしれないと、慈は読んでいる。

 「あのね、出て左の奥の階段のところ。二階だったかな」

 「そう。じゃあ、先生注意してくるから。それと、めぐねぇじゃなくてさ・く・ら・せ・ん・せ・い!」

 「はーい!」

 「わかってるのかしら………」

 思わずそんなことを呟きつつ、慈が席から立つとさっきまでスコップを弄んでいた胡桃が何も言わずについてくる。もう最近はだいたいこうなるまでに習慣化が進んでいる。

 「あれ?くるみちゃんもいくの?」

 「おう。めぐねぇだけじゃ、不良相手に心配でよ」

 「もう、くるみさんまで。話を聞いてた?」

 「へへっ、聞いてるよ。先生」

 おどけた調子で言いつつ、慈は「いってきます」と告げて部屋から出た。胡桃はそのまま慈の前に出て、スコップを構える。

 二人の顔からは数秒前までのおどけた様子がなくなっていた。

 「で?ゆきが言うには二階の降りたところ、踊り場に“不良”がいるって言ってたが」

 「奥のって言うから、おかしいわね。もうゾンビはいないはずだけど」

 「まぁ、行ってみないとわからんし、もしそうなら最悪の場合上がってくる。始末しねぇと」

 「そうね、くるみさん」

 二人はそう話してから足早に廊下を歩く。制圧に加え清掃もしたため、騒動後からすれば劇的なまでに綺麗にされているが二階はまだそのままだ。階段近くの一つ目の机を利用したバリケードをまず一つ乗り越え、中央の階段を通り過ぎる。こちらから行ってもいいが、二階中央はまだ制圧が済んでいない。

 “彼ら”がいたら、降りた先のバリケードを越える事ができないかもしれないからだ。

 「ついでに、軽く何か持って帰る?」

 「装備が心もとないと先生は思うな」

 「それもそっか」

 決行はまだ少し先だ。今無理していく必要もない。慈はそう思った。尤も、慈も戦力に数えられるならやっていたかもしれないが。

 「少し降りて、確認しましょう」

 「りょーかい」

 目的の階段まで来ると、音を出来るだけ立てずに二人は降りてその途中で下のフロアを覗き見る。

 そこにいたのは血だるまで這いずっている“彼ら”だった。元は大柄な男子生徒だったのだろうか、足がひしゃげており腕だけで匍匐しているようだ。

 「ッ…………コイツ、どうやって」

 「バリケードの下を無理矢理くぐったのでしょうね」

 「想定外だった。まさか這いつくばってるタイプがいたとは」

 「今回はいい授業になったと思ったほうがいいかもしれないわね」

 「先生の言う通りだこって。……………んじゃ、やるか」

 くるみはスイッチを入れたかのように言葉の最後を抑揚なく言うと、スコップを両手で構え、階段の踊り場に立つ。そしてそのまま――

 

 「おやすみ」

 

 ――踊り場から跳んで“彼”の頭部をスコップで粉砕した。

 ビシャ、と液体が飛び散りその場に黒に限りなく近い赤い水たまりを作るが胡桃は気にせずに体勢を立て直してスコップについた血を払った。

 「ふぅ。最初から倒れてるからやりやすいな」

 「おつかれさま、くるみさん。始末しましょう」

 「そうだな」

 

 

 

 残骸を始末し終えた慈と胡桃が学園生活部の部室に戻ってきたのは数十分後のことだった。

 「ただいま〜」

 「ただいま、ゆきさん。ゆうりさん」

 二人の帰還に、ゆきとゆうりは朗らかに「おかえりなさい」と応えた。胡桃は掃除したスコップを机に立てかけるとそのままパイプ椅子に腰掛けた。

 「ふぅ。疲れたよ」

 「おつかれさま、くるみ」

 「ねぇねぇ!めぐねぇ、くるみちゃん!不良の人は!?」

 「もういねぇよ」

 「風紀委員の子に預けてきたわ」

 「そっか。よかった〜」

 ゆきが心底安心したかのように胸を撫で下ろす。慈はそれを見つつ、悠里に近づいて耳打ちする。

 「…………バリケード、下も有刺鉄線をグルグル巻きにしないとダメよ」

 「………わかりました」

 今回突破されたバリケードは悠里が作ったものだったが“彼”を倒した胡桃と慈が確認すると、高さはともかく有刺鉄線の巻きが甘く、ところどころ、生者なら抜けられそうな場所があった。それが偶然、下にあり無理矢理“彼”は突破したようだった。

 上座まで歩いた慈は気分を切り替えるようにくるりと振り返り、パンパンと手を叩いた。

 「じゃあ、くるみさんはお風呂に入ってきてね」

 「ウッス」

 「ゆうりさんとゆきさんはお夕飯を作るから手伝ってくれるかな?」

 「はい」

 「はーい」

 夜は長い。だから早めに食事をとって備えておく。どれだけ最善を尽くしても、最悪を想定して動く。このサバイバル生活で、それだけは全員が共通し学んだことだ。

 平和な日常を謳歌していた彼女らが巻き込まれた地獄はそれを僅かな時間で徹底させるほどに悲惨で、過酷だった。

 料理をしながら、慈は少なくなってきた缶詰をちらりと見る。

 「(……………購買部の缶詰は底が見え始めて来た。やっぱり、少しだけ補給の手段を増やすことを考えたほうがいいかもしれない)」

 現状の把握を誰よりも先にしなければならないと思い続け、慈はその思い通りに把握していた。家計簿をつけている悠里と同じぐらいには。

 ようやく落ち着いてきた日常だが、それでもこのままというわけにはいかない。半年以上は間違いなく保つがそれから先は?状況によっては築き上げた拠点を手放さなければならない。

 早め早めの判断と状況把握をしなくては。急かしすぎないように、慈は自分との議論を重ねて行く。出来る事なら明日、由紀と話せればと考えつつ。

 「あー!めぐねぇお味噌とかし過ぎー!」

 「え?あ、ごめんなさい!」

 「もぅ!」

 可愛らしく、明るく、無垢でいてくれるゆきに感謝しつつ慈は日常を続ける。慈だけでなく、悠里も胡桃も。こんな状況だからこそ、偽りとはいえ“いつも通り”にしてくれているゆきの笑顔に救われている。

 既に彼女らは数多の犠牲の上に立っているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――いや!開けて!やだっ!?あ、あぁぁぁぁぁぁ!

 ――や、やめっ

 ――きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 ――死にたくない!じにだぐなっ

 ――お願い、開けて!

 悲鳴が扉の向こう側から聞こえる。それと同時に何かが喰いちぎられる音、液体が飛び散る音。

 そして、人ではない者のうめき声。

 扉を抑えている私とゆうりさんとゆきさんはとても酷い顔をしている。聞こえてきた声の中にはクラスメイトもいた、同僚もいた、後輩もいた。

 彼ら、彼女らは声を上げている。私たちは必死の形相で、無言で抑え続けている。扉の下からはどんどん赤い川が流れを作っている。むせ返るような鉄臭いにおいがあたりを満たし、吐き気を催す。

 それでも抑え続ける。その先にいるであろう全ての者たちが変わってしまうまで。

 この屋上に、全てをかくまう事はできない。

 

 

 

 

 「なに、これ」

 「…………あっ」

 一番見せたくない人に、それは見られた。彼女を彩る笑顔は消え失せ、“あの日”以来あまり見なくなった顔がその手に持ったマニュアルに注がれる。

 「厳密な選別と隔離を…………?」

 彼女の口から放たれた、信じられない言葉。それがこの状況を作り出した者たちの総意。初めから誰も救う気など無く、私たちが所詮はモルモットであったという証明。

 ただの指示書だと思いたかった、そうではないという確信もこの時になってあった。

 そして、今、それは凶器だった。ヒビだらけになった繊細な心を容易く破壊する程度には。

 

 

 

 

 


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