七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 惜別の羽を纏い、ただ己が肉体は殺すためにあるのだと、理念に従いし殺人鬼は、やがて行く果てが修羅道であろうとも、遂に望外の事だった。



第八話 人殺の鬼 Ⅱ

 十一時を過ぎたあたりで屋敷を抜け出そうとした志貴は、廊下で思わぬ場面に遭遇した。壁際に備え付けられたソファで翡翠が眠っているのである。疲労が溜まっているのであろうか、と志貴は思いながら側を通過したが、給仕姿のままである翡翠の顔が未だ青みを残しているのを見出し、先刻に彼女が志貴の出血で慌てふためいたのを思い出した。やはり、血が苦手なのだろうか。肘掛に身を寄せる姿で眠りに伏す翡翠は安寧の眠りとは程遠い様子で、唇も少し震えている。だったら悪い事をしたな、と思う。

 

 

 きっと嫌な夢を見ているのだろう。時折動く口元から寝言のように言葉が零れるが、一体何を言っているのか志貴には上手く聞き取れなかった。

 

 

 とは言え、折角眠っているのに起こすのは悪いと、「ごめんな、翡翠」と志貴はそのまま翡翠の傍らを素通りし、屋敷を抜け出した。

 

 

 坂道を下り、徐に振り返ると豪奢な遠野邸が見えた。随分と遠いな、と何故か感慨が浮かぶ。自らが帰る場所であると言うのに、少しでも離れるとまるで他人の家だ。最近まで有間の家に厄介になっていた身の上なのだから、それも仕方のない事やも知れないが、それでもいつかは馴れなければいけないのだ。何せ、自分は遠野の人間なのだからと、彼は自分に言い聞かせた。

 

 

 坂道を下りながら思うことはこれから赴く時南医院にいるであろう殺人鬼である。あの本に七夜の名が記されているのならば、きっと遠野と七夜には何かしらの繋がり、あるいは因縁があるに相違ない。これからはより覚悟を決めていかなければならないだろう。それが一体どのような覚悟なのか分からぬまま、志貴は時南医院へと向かった。

 

 

 時南医院までの道のりを志貴は心持ゆったりとした足取りで歩いた。昼には化物を探す必要性はなく、また影の住人であると言う事実にようやく思い立った志貴は、少なくとも明るいうちは大丈夫だろうと判断したのである。だから、道行く人々を観察し、三咲町に思いを馳せる余裕さえ今の彼には出来ていた。

 

 

 昼頃ということだけあり、人通りは多かった。夜とは異なり、僅かな騒がしささえある。子連れの親子、友人同士、携帯を弄りながら歩むサラリーマン姿の男性が通り過ぎ、どこか遠くで車のパッシング音が聞こえた。まずもって長閑な風景である。眼の前にある光景を見ると、ますます自らが場違いな世界に足を踏み入れた違和感が浮上して、せめて今の間ぐらいはこの空気を楽しもうと深呼吸をしたが、肺に入ってきたのは穢れた空気のみで、思わず顔を顰めた。空を見上げると雲が多い。雨が降る様子はないが、今日は涼やかに過ごせそうである。

 

 

 それからしばらく経ち、時南医院の扉を志貴が開いたのは時計の針が三十分をさした頃合だった。閑静な住宅地にある時南医院は一見すれば病院とは分からぬような住まいであり、まさか周囲の住人もここに殺人鬼がいるとは思いもよらないだろう。志貴だってシエルから居場所を聞き出さぬ限り、このような自分に縁のある場所を殺人鬼が根城にしているとは思えなかった。それほどまでにこの場所は潜伏地としては好条件である。

 

 

 室内に入ると空気が沈んでいくような静寂が隅々まで広がっていた。そして、診察室に向かうと目的の人物がいたが、その様に志貴は訝った。

 

 

 七夜朔はベッドに横たわりながら眼を閉じていた。それだけならまだ良いが、その総身を骨喰の黒々とした瘴気が包み込む、まるで羽毛布団にように包まれている。骨喰は鞘から引き抜かれていないのにだ。

 

 

『ひひ、ひ……何か用かイ、糞餓鬼』

 

 

 ベッドの傍らに放置された状態にある骨喰が目敏く志貴に声をかけた。相変わらず耳に鳴れぬ嗄れ声だった。

 

 

「ああ、用事ってほどじゃないんだけどな。……けど、そいつどうしたんだ」

 

 

『眠ってンのさ。いや、眠っテいるトはちぃとばカし違えガねぇ』

 

 

「眠るって、こいつ寝るのか」

 

 

 意外な事に志貴は瞠目したが、考えれば当然の事だった。幾ら虐殺を重ね畏れを抱かせる殺人鬼であろうとも、朔は生物である。生物には睡眠が必要不可欠である事は志貴も常識として知ってはいたが、いざその場面に直面するまで志貴はこの殺人鬼はそういうものとは無縁の存在であると、いつの間にか思っていた。

 

 

『そリゃそうサ。何せ動き回るカらよう、寝ルってのは動くタめの基本ダろォ。手前、莫迦か?』

 

 

「……いや、そいつはそんなのしないって思ってた」

 

 

 言外に人間でさえ思っていなかったと志貴が言うと、骨喰はさも愉快そうに嗤った。

 

 

『ひひ、そリゃ傑作だなァ。まあ、今こいツがしてんのハ睡眠ってエ代物じゃネエけどよォ』

 

 

「どういうことさ?」

 

 

『精神の解体清掃(フィールド・ストリッピング)ってエやつなんだガな、コいつが朔にゃ効果覿面なンさ。俺ガ催眠を施してなァ』

 

 

「……なるほど?」

 

 

 本来、催眠による意識解体は自己催眠の術であり、術式としての難度はさほど高度ではないが、それを他者に施すのは話が別である。元々一時的に人格を無意味な断片と化す行為は抵抗感を与えるもので、好んで実践するものは滅多におらず、また目覚めるまで肉体は生ける屍となるため忌諱するものが殆どだ。その催眠を他者に施すのは対象が無意識に抵抗するため困難を極めるものであるが、契約を交わされた朔と骨喰、両者の間ではそれが難なく行える利点が存在していた。

 

 

 しかし、その難解さを志貴が知る由もなく、彼は納得したような、そうでもないような曖昧な表情を浮かべながら首を傾げた。

 

 

『あとちイとバかしで起きるだロうよォ。だガ、糞餓鬼何こンな早くかラ来てやガんだァ?』

 

 

「……いや、特に理由はないけど。なんだか、なるべくあんた等といた方がいいって思って」

 

 

『気持ち悪ィ事をいうな手前、ひひ!』

 

 

「確かに、……なんでだろう」

 

 

 馬鹿にしたように短く骨喰は嗤った。

 

 

 実を言えば志貴には朔と早急に会わねばならない用件が会ったわけではない。大火のように揺るがぬ『弓塚さつき』のためという目的はある。そしてそのため、確かに協力者としてその力を借りるという言葉を交わしているが、両者の間には明確な契約が成されているはずもなく、また曖昧な協定である事は否めない。そして、前日に行われた修練以降、志貴は両者から何をするのかというような指示を言われた訳でも、更に時間が指定されていた訳でもない。状況を鑑みれば、志貴はまるで引力に吸い込まれたように朔たちの下へ来た事になる。志貴自身が首を傾げるのも無理からぬ事であった。

 

 

 時南医院は真っ白なシーツが敷かれたベッドに黒々とした瘴気が塊のようになっている以外には、相変わらずの様相をなしていた。棚には用途の不明な薬瓶が置かれ、治療道具が幾つも転がっていおり、ベッドの横には未開封の小さなダンボールが置いてあった。

 

 

「そう言えば、時南の爺さんはどうしたんだ?」

 

 

 当然想起した疑問を志貴は口にした。

 

 

『あア、アのヤブか。アイツはこコにゃいねエよ』

 

 

「……まさかとは思うけど、殺したのか?」

 

 

『ひひッ! そりャ確かに面白エ、が、別に殺シちゃいねエよ。この街の根城とシて使うからよ、追イ出したダけよォ』

 

 

「本当か、それ?」

 

 

『まァ、朔が殺そうトした所で俺は止めネエし、止メられネエしなァ』

 

 

「止められないって……朔はお前が操ってるんじゃないのか」

 

 

 眉を顰め、志貴は問うたが返ってきたのは歪な哄笑だった。

 

 

『それコそ無理な話よなァ。何せ俺はタだのおんぼろ刀だぜェ? 役割が違エのさ』

 

 

「役割……」

 

 

『おウ、俺は朔の脳よ。こイつは物事を記憶スる事が出来ネエからよゥ、俺が代ワりに記憶をしテそいツを朔の脳に叩き込んデるのさァ。ひひ、ひ……言い方を変えリゃ、俺ハ外部記憶装置ッて所か。今もヨ、解体清掃しなガら記憶を俺からロードしテるのよォ』

 

 

「記憶する事が、出来ない?」

 

 

 若干の驚愕を経て、志貴は瘴気に抱擁された状態で眠る七夜朔を注視した。目蓋を閉じて睡眠している事から蒼い瞳は見えない。そしてあれほどの辣腕を誇る殺人鬼が左腕以外にも障害を抱えている事が、志貴には意外であった。

 

 

「どうしてだ? 何か脳に障害でもあるのか」

 

 

『……ひひ、手前がそレを言うカね』

 

 

 嘲笑でもって揶揄するように骨喰は言った。今、確実に部屋の中に亀裂が走った。愉快や邪悪以外の感情以外を見せなかった骨喰が始めて、それ以外の感情を発露させたのである。言外に己には関係のない話ではないと、志貴はようやく悟った。

 

 

「どういう意味だ……」

 

 

『糞餓鬼、手前の親父槙久の手によルもんだァ。アの野朗が小細工をしやガってヨう、お陰で朔の記憶、保存、再生、確認機能が殆どパンクしやガった』

 

 

 忌々しそうに声音を歪めて骨喰は呟く。

 

 

 しかし、志貴には自身の父の名がここで来るとは思わず、眼を見開いたまま固まった。

 

 

 遠野槙久。顔も覚えていない父が、七夜朔に手を加えたという。

 

 

 そして、それと同時に志貴はやはり七夜と遠野が無関係ではない事を確信した。己の稚拙な考察がようやく道を切り開いたような気がした。

 

 

「なあ、あんたらと遠野ってどういう関係なんだ?」

 

 

『なンだァ? 手前ラ仕出かシた事も知らネえのか糞餓鬼』

 

 

 呆れを多分に含んだ言葉は室内を反響させるざわめきを持っていた。

 

 

『手前ら遠野が七夜を滅ぼしたノさ』

 

 

「……え」

 

 

 骨喰の言に絶句し、志貴は目を剥いて横たわる朔を見た。この妖刀の言葉を信じれば、七夜の一族は全て皆殺され、滅ぼされた事になる。そしてそれは同時に、七夜朔は身内が存在しない事に直結した。自らの境遇も中々類を見ない不幸を兼ね備えた人生であったが、朔もまた同じような、その種類は異なれども心に苦痛を抱えているという事なのだろう。そんな事を知らずに志貴は生きてきた。ならば、他の遠野は、または秋葉は存じているのだろうか?

 

 

 そして、そのような事に遠野が関わっている事が志貴には衝撃をもたらせた。何分特殊な家柄である事は、以前まで殆ど部外者の身であった志貴でさえ認める所ではあるが、それでも人の命を奪うような事を行ってきたとは思えなかった。

 

 

 しかし、志貴は頭を振る。まさか、という思いが去来した。そして骨喰の言葉が真実であると受け入れたくはなかった。いつものように嘯かれた狂言であると信じたかったのである。自らの家族である遠野が人殺しに関わっているなど、まさか自らの直感で思い浮かべた遠野と七夜の因縁がそのように根深いものだとは創造だにしていなかったのだから、志貴が拒絶の感情を抱くのも致し方のない所である。

 

 

〝もっと調べてみるか〟

 

 

 最早踏み出した足は泥濘に嵌り、抜け出すことは出来ない。それでも前に進むと決めたのだから、志貴はこの時更なる暗闇へと足を進めることを心に誓ったのだった。その内なる決意を知らぬままに骨喰は『そロそろ、だなァ』と軋み声で嘯いた。

 

 

『朔が目ェ覚めンぞ』

 

 

 果たして骨喰の宣言が契機となったのか、今まで朔を包んでいた瘴気が渦を巻いて収まり、鞘の中に戻っていった。そうすると志貴ははっきりと朔の顔を見ることが出来て、思わず前のめりに寝顔の朔を注視した。

 

 

 ざんばらの伸ばされた黒髪の隙間が枕元に広がっていて、朔の相貌はただ目蓋を閉じているだけのように静謐であり、また無表情であるが穏やかであった。藍色の着流しから除く皮膚には幾つもの傷跡が見えて、彼が数え切れぬ修羅場を潜り抜けたことがそこから知れる。

 

 

 本当に眠っているのか、と志貴はそこで改めて朔が自分と同じ生物である事実と遭遇したかのような心地に晒されたものだが、志貴の視線の向こうで朔の目蓋がゆっくり開かれた。そして他人の気配を感じたのか、志貴へとその蒼き眼差しを向けた。寝ぼけ眼の様子はなく、まだ状況を判別できていないだけのようであるが、暫し、二人の視線が交差し絡み合う。

 

 

 ようやく志貴は朔と出逢ったような気がした。

 

 

 □□□

 

 

 暫し、己が体の調子を確かめるように朔は手首を捻ったり、あるいは指の関節を曲げたりとしてから体を起き上がらせたが、そこに志貴は隙らしきものを見出せなかった。寝起きで、未だ意識も浮上して間もない頃合であろうと言うのに、一々の仕草や、あるいは今の状態も一見無防備に窺えるが、幾ら夢想すれども志貴は朔に敵う自分自身を思い描く事が出来なかった。それも当然であろう。二人の力量にはそれほどまでの格差があるのだ。それを志貴は前日に理解していたが、やはり、己の力量不足を内心嘆かざるを得なかった。

 

 

「――、――――」

 

 

『快適なオ目覚めかァ、朔?』

 

 

 精神の解体清掃を経た肉体に疲労はなかったが、節々に違和感が残るのだろうか、朔は肉体の稼動範囲を十全に動かせる事を一々調べながら、復調が十二分である事を感覚で知った。このような時、時南宗玄がいれば改めて肉体管理をする事が可能であったが、現実には宗玄はここにおらず、現状朔の管理をしているのは骨喰のみという形になる。

 

 

 今までがそうであったので、これからも宗玄の恩恵を得られずとも問題はないだろうが、やはり完全な状態を目指すのがベストであろうというプロ意識からではなく、ここが動かせぬのならば他の骨肉を動かせばよいという思考の下、朔は契約を交わしている骨喰以外の第三者、志貴を視界に入れた。

 

 

 そこで朔は記憶した遠野志貴と現在の志貴の姿に相違がある事を気付く。どうやら昨晩まで装着していた眼鏡を失い、素顔を晒しているらしく、骨喰からロードした記憶と異なっていた。こういう時、己で記憶できぬというのは面倒な一面を浮かべる。ターゲットの相貌と容姿に違いが生じていれば、朔はまともに記憶を頼る事無く手当たり次第に感じた魔と命の気配へと襲い掛かるのだから、まるで飢餓に苛む猛禽のようである。

 

 

「―――、――。―」

 

 

「……」

 

 

「―――。―――」

 

 

「な、なんだよ」

 

 

 妙な間に気まずくなった志貴が口を開くが、相変わらず朔は無反応だった。いや、朔が口を開く場面など志貴は遭遇した事がないが――――、と志貴が戸惑っているのを尻目に朔はようやく動き出し、腕を伸ばした。そこには先ほど志貴が見たダンボールが置かれており、朔は蓋に貼り付けられたガムテープを無造作に破く、のではなくダンボールの蓋ごと無理矢理ひっぺはがした。盛大な音をたてて開けられたダンボールの中身は何なのかと、志貴は少々気になり覗いてみると、そこには幾つものゼリー飲料が敷き詰められており、種類は豊富で、メーカーもそれぞれ様々であった。

 

 

「なんだ、それ?」

 

 

『ひひ、見テわかんねエのかァ。飯ダよ、飯』

 

 

「……は? それが?」

 

 

『おウよ、栄養素ヤ必要最低限のエネルギーを摂取できんダから、手ッ取り早いじゃネえか』

 

 

「つまり、あんた等はそれを毎日飲んでるのかよ……」

 

 

『ひひ、ひ……手前も喰うカい?』

 

 

「確かに腹は空いているけど……」

 

 

 呆れを含んだ志貴と骨喰の間で行なわれた遣り取りを黙殺するような形で、朔は適当に飲料ゼリーをひとつ取ると口で蓋を強引に開け、そのまま吸い出した。

 

 

 ずちゅううううううううううう。

 

 

 盛大な音をたてて飲み込まれたゼリー飲料はあっという間に容器を萎ませた。

 

 

 そんな朔に微妙な視線を向ける志貴は、何故だか頭を抱えたくなった。

 

 

 以前から世俗離れをしているという思い込みを朔に対して行なってきた志貴であったが、どうやらそれは間違っていないらしい。ゼリー飲料は確かに効率的にエネルギー摂取を行なえるものではあるが、それは決して食事と呼べるものではないではないだろう。少なくとも今まで多少の制限をかけられた生活を送ってきた志貴であったが、朔のようにストイックというか、手抜き極まりない食事を取ってきたつもりはない。というか手っ取り早いからだなんて、どこの江戸っ子だ。

 

 

 そして志貴の呆れを知らぬまま、朔は違う種類のゼリー飲料へと手を伸ばす。

 

 

 何かが違うだろう、と志貴は思い、ひとつ心に決めた。

 

 

「よし、わかった」

 

 

「――――、――」

 

 

『あア?』

 

 

「俺が昼飯作ってやるから、少し待ってろ」

 

 

 そういうや否や、勝手知ったる他人の家、長年通院していた事から台所の場所まで熟知している志貴は自分でも簡単に出来る料理を作り始めた。材料は冷蔵庫にある物から適当に、調味料の目安も目測で、実に男らしい料理っぷりである。

 

 

 実の所、志貴に朔へと料理を提供する必要性は存在しない。そして志貴自身料理が得意という訳ではないので、腕を揮うという意味はない。

 

 

 ただ、あのような適当極まりないものを食事として認識しているのは、あまりにおかしいだろうという魂胆の下、半ば衝動的に志貴はフライパンを握り締めたのだった。志貴自身朝から何も食べていないので空腹と言う要因もあるが、それ以上に取り敢えずの協力者がまともな食事すらとっていないというのは如何なものだろうかという思考のままに、志貴は野菜を炒めた。

 

 

 塩胡椒をふりかけ、豚のコマ肉を合わせて炒めれば肉と野菜の良い香りが漂い始める。本当はお米も欲しいところではあったが、炊飯器の中はものの見事に空だったので、今から炊くのは面倒だと思った志貴は、食事はおかずのみという事で簡単に作り上げた。その手並みは手際良いとは決して言えないものであったが、手順どおりに作ればまず失敗などしないような簡単な料理なので、志貴ぐらいでも容易に作れるものだった。

 

 

「ほら、喰えよ」

 

 

「――――――」

 

 

 皿に盛り付けられた湯気立つ野菜炒めを見て、暫し朔は動きを止めた。志貴が料理をしている合間に空けたゼリー飲料は三つとなっており、腹は未だ膨れていない。栄養素が足りないのは事実であり、またこのままでは動けないのもまた然り。

 

 

『享楽よなァ。朔に飯なンざ作るッてよォ。一体どンな風の吹きマわしだァ?』

 

 

「いいから黙って喰えよ」

 

 

 骨喰の戯言を一蹴し、机の上に置かれた皿越しに志貴は朔を見た。彼は逡巡を経たのだろうか、徐に腰を上げると志貴の対面に座った。そしてその時になって志貴は、右腕のみで食べるのは面倒だろうな、と場違いな思いを抱きながら、黙って箸を掴んだ。

 

 

 口に広がる味は薄めであり、これは志貴があまり濃い食べ物を口にするのを禁止されているからである。時南医院は昔から志貴が世話になっている場所であり、この家の家主である宗玄に言われた注意事項を志貴は丁寧に守っているのだったが、この味ならば許容範囲だろうと、野菜のしゃきしゃきとした感触に豚肉の味わいが広がる食事を堪能しながら、未だ口をつけぬ朔をちらりと見た。

 

 

「――――。――」

 

 

「毒なんて入ってないから、大丈夫だって」

 

 

『ひひ! もし毒ナんて入ってたら、即刻お陀仏よ朔は』

 

 

「なんでだ? 朔ぐらいなら毒ぐらいでどうにかなるようには思えないけど」

 

 

『こイつは内臓の吸収がいいカらナぁ。アっという間に効イちマうのさ』

 

 

「……ふーん」

 

 

 仕方無しに骨喰の耳障りな言葉の相手をしながら、志貴は辛抱強く朔が料理に手をつけるのを待った。そうしていると志貴の内なる願いが通じたのか、彼は箸を掴み一口だけ野菜を摘んだ。

 

 

「――――。――」

 

 

 時を置き、噛み締めるように咀嚼する朔の姿は存外に幼稚な面影さえあり、そして味を確認したのか彼は次々と野菜炒めを口の中に入れていった。

 

 

〝気に入った、訳じゃなさそうだな〟

 

 

 一定に動かされる腕の動作は機械的であり、どう思っても食事を楽しんでいるようには思えない。それでも志貴は、とりあえずの協力者が自分の料理を食べてくれた事に若干の嬉しみと、空腹が満たされていく感覚に酔いしれるのだった。

 

 

 そうして、普通の少年と殺人鬼、ついでにおんぼろ刀という奇妙な構図で始まった食卓は、志貴が時たま話しかけ、相も変わらず無言のままの朔に、骨喰が笑うという光景が広まり、恙無いままに続いていくのだった。

 

 

 天上は日が昇り、暗闇は影に追いやられていく。魔の気配もまた同じく、日陰に潜み姿を現さない。

だからだろう、志貴は暫し時を忘れ、今この時に満たされたような感覚を覚えたのだった。

 

 

『飯食わせたタらって、鍛錬にャ手え抜かネエぞ』

 

 

「う……わかったよ」

 

 

「――――――」

 

 

 いつの間にか、テーブルに置かれた皿は二つとも空になっていた。

 




今回かなり短めです。

ほのぼのパート、あるいは日常パート……なのかしら。小さく纏めた感じですね。

ちなみにこの小説はBLものではないので、悪しからず藁

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