七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 夢を見る。夢を観る。夢を、視る。


第七話 人殺の鬼 Ⅱ

 深く、深く、まるで沈むように意識は潜り込んでいく。どこを目指しているかは分からない。ただ、そうしなくてはいけないような気がしたから、闇の中を泳いでいく。上も下も関係なく、闇雲にひたすら深く。深遠は見えない。頭上もまた然りで、そも自らがどのような姿勢で泳いでいるかさえ定かではない。

 

 

 そうして進んでいくと、光が見えた。最初ぼんやりと世界を照らす光は、光源と呼ぶにはあまりに小さくて、夜闇に一匹だけ飛行する夜光虫のようだった。

 

 

 そして、命を散らすように、閃光が迸り、思わず目を閉じる。

 

 

 目蓋の裏に薄っすらと光る輝き。それは明かりというよりも、光と呼ぶほど眩しいが、鬱蒼と茂る森の青葉に太陽は遮られ、日陰の中は涼しささえあった。そう、外にいま自分はいる。何故、だと疑問を浮かべる前にこれが夢の類、あるいは幻である事に気付けたのは、遠野へやってきてから最早幾度も見続けた夢への馴れだった。その光景を自分は棒立ちとなって見ている。まるで俯瞰しているように、自分が動かなくても勝手に情景は変化していく。

 

 

 風に吹かれ、さわさわと擦れる緑葉たち。夏なのか、随分と日差しは眩しく、思わず目を覆いたくなるほど。だけれど、目は背けられない。

 

 

 何故なら、これは夢。夢に自由意志はない。

 

 

 日向の臭いが自然と鼻に入ってきた。久しく感じられなかったそれは、もう昔に失われた記憶の残骸で、今の自分とは掛け離れていると自覚できる。幾ばくの感慨が逡巡にように現われては消える。

 

 

 人工物に囲われた世界で、姿も見えぬ誰かを探す自分。弓塚さつきを襲った誰かを追いたてる自分。

 

 

 だけど、それは何のためにだろう。

 

 

 漠然と考える。考え無しの衝動だった事は明白だ。さつきを手がけたアイツに激情をぶつけたい。理不尽な事象に対し、自らを叩きつけてやりたい。ただ、それは思考の果てにではなく、思うがまま、気付いたらと言っても過言のない考え無し。

 

 

 けれど、その果てに向かって、自分はどうしたい。

 

 

 彼女のために、という想いが体を突き動かしているのは事実だった。何も出来なかった自分、目の前の惨劇をただ目の当たりにすることしか出来なかった事への後悔、自責の念が粘り気の強い泥のようにこびり付いている。だから、自分は行動しているのだ。

 

 

 問い質すのか。何故あのような事をしたのかと、真正面からあの存在に。

 

 

 明確な答えが返ってくるとは思えない。最早あの男は獣性のままに狂乱していた。そも言葉が通用するかどうかすら怪しい。

 

 

 それとも、殺すのか。

 

 

 あの耳障りな騒音を響かせるおんぼろ刀の言うままに。

 

 

 あの藍色の殺人鬼が手がけるように、己はアイツを。

 

 

 ――――殺す。

 

 

 思考に過ぎったワードが身体を硬直させる。それは殺害という禁忌にではなく、自然とそんな言葉を考えた自分に対して。おぞましさというよりは、あまりに現実離れをした感情だ。けれど、それを自分はひとつの意志として浮かび上がらせた。

 

 

 つまり、自分はアレを殺したいのだろうか?

 

 

 分からない。

 

 

 結局、思考はどうどうめぐり。

 

 

 幾ら声に出して、言葉として現そうとも、虚弱な決意でしかない。自分程度が出来ることなど高が知れるというものだ。

 

 

 分からない。

 

 

 けれど、自分はそれを行えるのだろう。相対して、まともに相手取れるとは思えない。でも殺そうとすれば、必ず殺そうとする。

 

 

 この眼、何でも切断してしまうこの眼をもってすれば、訳も無くあの命を断てる。それはきっと、吸血鬼だとか、化物だとか関係なしに。

 

 

 もしかしたら、あの殺人鬼さえも、自分は殺せるかもしれない。

 

 

 そんな可能性に、身震いがする。興奮ではなく、また武者震いなんてものじゃない。これは、たぶん恐怖だ。今までの自分を否定する行為に身を委ねるだろう故の、恐れ。そも、自分にはあの殺人鬼を殺す理由が無い。

 

 

 もし理由も無く殺すとすれば、どちらのほうが殺人鬼なのか。

 

 

 けど、弓塚さつきを傷つけたアイツを殺してしまえば、自分もそんな怪物になってしまうのだろうか。

 

 

 分からない。

 

 

 ――――泣き声が、聞こえる。

 

 

 誰かが泣く声がする。幼い女の子が声をあげて、しゃくり上げている。黒髪の少女が顔をくしゃくしゃにして、涙を流している。

 

 

 ――――自分は、きっと仇をとるのだろう。

 

 

 そういう格好つけた言葉を借りながら、アイツを殺したいのだろう。憎しみにも似た激情を、怒りという感情に誤魔化して。

 

 

 森の中。血が流れて、土に染み込んでいく。赤々とした流血が緑を侵し、枯れたような模様を作り出している。

 

 

 そして、血みどろになった小さな自分。誰かに跨り、悄然としながらも、視線を固定して返り血を浴びた自分。

 

 

 僅かに鼻腔を抜ける血の香り。

 

 

 呆然なままに、血は温かいのだな、などと場違いな感慨が浮かぶのは、現実から逃れるため。

 

 

 そう。

 

 

 きっと自分は忌諱もなく殺すのだ。

 

 

 ――――あの時のように。

 

 

 けれど、あの時とは一体、何のことだろう?

 

 

 □□□

 

 

「……失礼します、志貴さま」

 

 

 返礼がないと弁えながらも翡翠は瀟洒に腰を曲げた。従者としての基本は徹底的に叩き込まれている。だから例え主人が深い眠りから未だ目を覚まさぬ様子であろうとも、せめて様子見はだけは、と不安を押し殺す言い訳を前面に押し出して、志貴の部屋を訪れたのであるが、やはり彼女の主は未だ夢の中にあった。

 

 

 それを不満とは思わない。ただ、このまま志貴が目を覚まさないのではないのかという漠然とした不安が首をもたげている。

 

 

 それも当然だろう。深夜、三咲町の路地裏で偶然にも秋葉と琥珀に会った志貴は、それまでに疲労や、どこかしらにあった緊張、そして貧血のために失神をしかけ、連れて帰られた頃にはすでに意識を失っていたのである。

 

 

 しかし手当ての途中、何度か意識を浮上させた志貴は自らの意志で歩き、自室で眠りについたのだった。その際声をかけた秋葉に返事さえ寄越さぬ歩みは、まるで夢遊病者のようであった。

 

 

 これで不安を持たぬならば従者としては失格だ。静々と成る丈音をたてずに志貴の元へ近づくと、つんと湿布のきつい臭いがした。志貴を着替えさせるために、上着等を脱がせた秋葉や翡翠たちが最初に目にしたのは、暴行を受けたとしか思えぬような痣の数だった。

 

 

 青痰の他にも腫れ上がり、炎症を起こしていた箇所まで見つけては流石に治療の必要ありと見て、薬理の知識がある琥珀の手筈により、取り敢えずの治療が行われている。しばらく痛みは残るだろうというのは志貴の手当てをした琥珀の談である。

 

 

 こういうとき、役割というものもあるが、主人が怪我をしていると言うのに手当てを自らが行えないのは内心翡翠も穏やかではなかった。何故自分はそのような手解きを受けていないのか、知識を得ていないのかという自責の念が彼女を蝕んだ。

 

 

 側で見れる志貴の顔は無表情。穏やかな眠りについている。苦悶の表情を浮かべていないので少しだけ心休まった。

 

 

 一昨日、翡翠が志貴の部屋に訪れると魘され呼吸を荒げていた志貴を見つけた時は慌てた。そして、無理矢理起こすと嘔吐まで起こしたのである。翡翠が恐慌状態になるのも無理はなかったと、秋葉は言っていたが、従者としての翡翠はそれからしばらく情けなさを引き摺らなければならなかった。

 

 

 本来でならば抱えなくても良い苦しみだったかも知れないが、必要以上に責任を感じた翡翠からしてみれば主の不調は自分に原因があるのではないのか、という思考まで過ぎってしまう。と、翡翠が又もや深い悔恨の渦中に身を委ねようとした最中、目前にある志貴の目蓋が薄っすらと開いた。

 

 

「……あ、れ?」

 

 

 心待ちにしていた主人の第一声は、そんな何処か間抜けたものであった。

 

 

「おはようございます。志貴さま」

 

 

「あ、ああ、うん。……ここは」

 

 

 未だ意識が鮮明ではないのか、志貴はぼやけた眼をしていた。返す言葉もまた、覇気がない。とは言え、彼女の主人はそのような気力とは無縁だろう。

 

 

「遠野のお屋敷です、志貴さま。差し出がましい事ですが、昨晩の事は覚えていないのですか」

 

 

「えっと、……うろ覚えであんまり」

 

 

 横たえていた身体を持ち上げながら志貴は、不思議がるように首を傾げた。移動した体からふんわりと湿布の匂いがした。

 

 

「志貴さまは繁華街で発見されてそのまま意識を失い、秋葉さまの手筈でこちらに運ばれてきたのです」

 

 

「秋葉が?」

 

 

 驚いたように志貴は口を開いた。その様子では本当に昨夜のことは覚えていないらしい。

 

 

「そうか。……それで、秋葉は?」

 

 

「秋葉さまはすでに通学しておられます」

 

 

「……そっか。お礼ぐらいはしておきたかったけど」

 

 

 その時、志貴の表情に僅かだけ影が差し掛かったのを翡翠は見逃さなかった。

 

 

 けれど、それを追求する事は出来なかった。それだけの事でしかないが、その勇気を翡翠は持ち合わせていなかった。

 

 

「……」

 

 

「ん? 秋葉はもう学校に入ってるのか?」

 

 

「はい」

 

 

 一瞬沈黙が舞い降りた。

 

 

「で、今は何時?」

 

 

「先ほど十時を過ぎました」

 

 

「……やばい、完全に遅刻だッ!!」

 

 

 慌てて体を動かそうとする志貴を制したのは、他でもなく翡翠の小さな掌だった。

 

 

「ご心配はいりません。志貴さまの学校は昨日休校を発表されています」

 

 

「……は? なんだって?」

 

 

 怪訝に顔を顰める志貴の視線を耐えて、翡翠は事のあらましを簡潔に説明した。

 

 

 時分は昼になろうとしている。窓から差し込む日差しは温かく、過ごしやすい一日だった。すでに自らの学校へと赴いた秋葉からは好きなだけ休ませておくようにという言伝を申し付けられているので、無理に志貴を動かす必要は無い。時間を気にせずにゆっくりと休養をして欲しいと、翡翠は思った。それほどまでに志貴の肉体はボロボロとなっていたのである。翡翠がそう考えるのも無理からぬことであった。

 

 

 それでも、志貴がこうして穏やかに目を覚ましてくれた事が翡翠には嬉しかった。

 

 

 だから翡翠は出来る限り志貴の心配の種にならぬようにと、どうして学校が休校となったのかを話した。

 

 

 生徒が行方不明になっていること。噂によれば吸血鬼事件に巻き込まれた事。故に、学校側がこれ以上生徒を危険にさらす事は出来ない、という理由でもって一連の事件が沈静化されるまで休校を決定した事。

 

 

 そして行方不明になった生徒の名前が、弓塚さつきである事。

 

 

 すると、話を続ける翡翠の面前で志貴はみるみる顔を強ばらせたのであった。その形相はとても複雑すぎて、翡翠には志貴が何を思っているのか全く読み取れなかった。

 

 

「それ、本当か?」

 

 

「はい」

 

 

「……」

 

 

「志貴さま?」

 

 

「そうか……」

 

 

 脱力したように、志貴は再びベッドにその身を横たえた。

 

 

 視界に広がる自室は相変わらず広々としており、違和感が拭えない。それでもこの場所が自分の家の中だとすぐさま判別できたのは、志貴が思っている以上に、遠野への親しみが出てきたということだろうか。いや、親しみという柔らかなものではなく、ただ安心できる場所にいたかったというだけかも知れない。

 

 

「ですから、志貴さまはごゆっくりとお休みになるほうがよろしいと思います。秋葉さまもご心配になられていました。志貴さまが昨日お帰りにならず、お怪我をして見つけられたとの事です。私も……」

 

 

 翡翠には珍しく少し多弁となっていた。心配によるもので、少しでも主人の心が安らげばと思っての事であったが、翡翠の言葉に志貴は心ここにあらずと言わんばかりに、どこか距離的なものではない遠方へと想いを馳せているようだった。

 

 

「帰ってきたんだよな」

 

 

「……志貴さま?」

 

 

 うわ言のように呟かれた志貴の言葉は、彼自身も意識して溢したものではなかった。それでも志貴が浮かべた表情が自嘲のものであると分かった翡翠は、何か声をかけたくて、けれど何を言えばいいのか分からず、戸惑いの最中にいた時の事だった。

 

 

 ――――志貴の寝巻きに赤色が滲んだのは。

 

 

「志貴さま……お怪我を」

 

 

「……え?」

 

 

 それが血であると認識した瞬間、翡翠は一気に恐慌状態へと陥った。顔は血の気が引き、憔悴なんて可愛いものではない。胸元に傷は見当たらなかったはずであった。けれど、現にこうして血が滲んでいるという事は見逃していた、と言う事だろう。

 

 

 しかし、それでも志貴の目から見て翡翠の状態は明らかに正常な様子ではなかった。幾ら血に慣れ親しんでいないとは言え、唇を震わせ青ざめる翡翠の顔は、死人にでも出くわしたかのような有様であった。

 

 

「あ、……ああ、わ、私が手当てを」

 

 

「いや、いい大丈夫だ! 翡翠、落ち着いてくれ」

 

 

「ででも、でも、その血が……」

 

 

「古傷が開いたんだよ、きっと。翡翠も知ってるだろ? 俺が昔事故にあって出来た時の傷だよ。それが開いたんだ」

 

 

 翡翠を落ち着かせるように、志貴は自らの出血に驚きながらも物腰柔らかな口調で話し、胸元を抑えた。血が溢れ出るような感触はなく、まるで体から思わず零れ落ちてしまったような出血だったらしい。じんわりとシャツに滲みながらも、布に水分を吸われた鮮血はすぐさま染みになってしまうような、そんな出血であった。

 

 

 だから落ち着けと志貴は言う。幾分志貴自身も突然の流血に驚いたものだったが、自分よりも冷静さを失っている翡翠の姿に、翻って冷静さを見出したのであった。

 

 

 しかし、それでも翡翠の様は尋常ではなかった。従者という役割柄冷静さを欠くのは、彼女としても己自身許せるものではなかっただろうが、その翡翠色の眼が揺れる様は、まるで怯えていると形容する他ない。

 

 

「……ですが」

 

 

「だから大丈夫だ。な?」

 

 

「……でしたら、お着替えを持ってきます。すぐにでもお持ちしてきますので、少しお待ちください」

 

 

 何か物言いたげな翡翠であったが、主人に強く言われては何も言えず、強ばった表情のままに部屋を出て行った。あれほどまで無表情であった翡翠が、その仮面を外すとなると、何か血にトラウマでも持っているのだろうか。

 

 

 その後、駆ける様な音が志貴の室内にも届いてきて、本当に急いでいるのだなあ、と彼は他人事のように胸を撫でた。そこに水っぽさはない。すでに止まったのだろう。けれど、何故出血したのか分からない。自覚症状がなかったのか、痛みが無かったのである。

 

 

 翡翠が部屋を出てすぐに胸元を開き、古傷の痕を確かめてみたがそこが開いている様子はなく、出血した原因がさっぱりであり、どこか不気味なものさえあった。と、そこで志貴はようやく自身の体に巻きつけられた包帯や湿布に気付いた。

 

 

「あれ、……琥珀さんかな?」

 

 

 的確に痛められた場所を癒すために施された治療の跡は、上半身と言わず太ももに至るまで貼られており、いつの間にこんな事をと一瞬志貴は思ったが、先ほど秋葉たちに保護されたと言う翡翠の言葉を思い出し、きっとくまなく体を調べられたのだろうと判断した。

 

 

 きっと、秋葉が戻ったら自分が今まで何をしていたのか問い詰められるに違いない。

 

 

 そう遠くは無い未来に、志貴はどのような言い訳を用いようかと苦笑を浮かべるのであった。

 

 

「まあ、でも」

 

 

 と、志貴は今の所、翡翠が落としていった着替えに衣服を取り替えるため、腰を上げるのだった。

 

 

 □□□

 

 

 翡翠が廊下の向こうから顔を青白くさせながら走り寄ってくる時、琥珀はただ事ではないと思いはしたが、そこは姉らしく落ち着かせるように柔らかく言葉をかけた。

 

 

「どうかしましたか、翡翠ちゃん?」

 

 

「あ、あの志貴さまが……」

 

 

「志貴さんがどうかしたんですか? そろそろお目覚めになった頃だと思うけど」

 

 

「はい……志貴さまはお目覚めになったのですが、ただ、その……」

 

 

 そこで一瞬翡翠は口ごもり、僅かに震える唇を堪えて言葉を紡いだ。

 

 

「胸の辺りから出血をなさって……」

 

 

「……ああ、なるほど」

 

 

 そこで琥珀はようやく得心したと、掌を打ち合わせ翡翠の様相が尋常ではない事に納得した。

 

 

「またトラウマがでちゃいましたか」

 

 

「……はい」

 

 

 未だ収まらぬ青白い表情を歪ませながら、翡翠は頷いた。

 

 

 翡翠は血色恐怖症というトラウマを抱えている。個別的な心因性の症状であることから一般生活を送る上で問題はないが、時偶に出血と遭遇すると翡翠は忽ちパニック状態に陥る。そして彼女の症状は対象が赤いもの全般でなく、血のみに限定された恐怖症だった。通常の人間であるならば、まず出血に良い感情は浮かべないものであるが、翡翠の場合はそれに対する恐怖感、不快感が強く表出し、それは酷い時になれば眩暈を起こし、極端な場合だとパニック症状を引き起こす。

 

 

 恐怖症を抱える患者はなるべく恐怖の対象となるものへの接触を避けるような生活をしており、それの徹底を行う。無論、翡翠の症状がどのようなものから来るものなのか到底理解している琥珀も、なるべく彼女が流血の場面を見ないように工夫をしているし、翡翠もそれは同じだ。彼女自身が怪我をしないよう注意は常に払われているし、またそのような場面に遭遇する事がないよう当主である秋葉とも打ち合わせを行っている。

 

 

 故に、昨夜に行われた志貴の治療には翡翠を関わらせなかったのであるが、まさか本人の目前で志貴が出血をしてしまうとは琥珀も慮外な事であった。とりあえず目立った傷は手当てを施したのだが、どこかに見落としでもあったのだろうか。

 

 

 こんなとき、姉として琥珀がやるべきことは簡単だ。

 

 

「なら大丈夫ですよ、ほーら翡翠ちゃん」

 

 

「……はい」

 

 

 ぎゅっと、琥珀は翡翠の体を抱きしめる。翡翠は最初遠慮するかのように身を強ばらせたが、次第に力を弛ませ、最後には身を委ねるように琥珀の腕の中に収まった。

 

 

 人間の包容力には心を安らげる効果がある。それは動物の子が親に擦り寄り心を癒す動作と変わりなく、体の緊張を解し、恐怖感を和らげる効力だった。無論、医療を知識として持つ琥珀もそれを知って翡翠を抱きしめたのであって、例え打算的な想いがそこに加わろうとも、姉妹が抱き合うそこには妹を思う姉の心意気というものも確かに存在していた。

 

 

 そこに、望外の望みがひた隠しされていようともだ。

 

 

「ごめんなさい、姉さん」

 

 

 恥ずかしがるように、あるいは申し訳なさそうに翡翠は漏らした。首筋に当る翡翠の吐息はむず痒さを琥珀は感じた。

 

 

「いいのよ翡翠ちゃん。困ったときはお互い様っていうじゃないですかー。だから、今は一杯甘えていいんですよ?」

 

 

「……うん」

 

 

 二人の背丈に差は無く、翡翠は琥珀の首もとに顔を埋める形で頷いた。

 

 

「それで、志貴さんの様子はどうでしたか?」

 

 

「……昨夜の事は覚えていないみたいです。それで、出血の事は大丈夫だと仰られていたのですが、その、血が染み出ていたので、お召物をもってこようかと……」

 

 

「うーん、志貴さんも困った方ですねえ。翡翠ちゃんを困らせるなんて」

 

 

 琥珀の腕の中で微かに翡翠の体が震えた。きっと志貴の胸元から血が滲み出た光景を思い返したのだろう。その様に、まるで幼子のようだと琥珀はどこか心の奥底で思った。

 

 

 恐れに震え、庇護を求める様はか弱き幼児のそれである。世の男性が見やれば庇護欲を掻きたてられるであろう姿に、琥珀は〝そこが翡翠ちゃんの可愛い所でもあるんだけれど〟と笑みを浮かべた。

 

 

「それじゃあ、志貴さんのお着替えは私がやっておくから、翡翠ちゃんは少し休んでおいたらいかがです?」

 

 

「……でも、姉さん」

 

 

 主人の事は自分の役目だという言葉を吐く前に、琥珀は癇癪を起こした子供を説き伏せるように優しい口調で問いかける。それが翡翠を叩き伏せる言葉だと知りながらも。

 

 

「それに、今の翡翠ちゃんだとまともに志貴さんのお相手が出来ますか?」

 

 

「……っ」

 琥珀の言葉は確かに正鵠を得ていた。出血に怯え震える翡翠がそのまま志貴の下へ赴いても、再びトラウマに苛まれる可能性がある。しかも、今度こそパニック状態になるかもしれない。それでは先ほどの二の舞だ。給仕の役目を碌に出来ないのは目に見えている。 

 

 

 ただ、翡翠は琥珀の提案に暫し受け入れる事が出来なかった。志貴の世話をするのは自分の役目、自分の仕事だという明言の下、彼の側に少しでもいたいという願い。それを知っていながら琥珀は翡翠には無理だと言うのである。

 

 

 けれど、きっと血の跡を確認している志貴の下に行くのは到底勇気を持てなかった翡翠は、暫しの空白を置いて了承の意を首肯で伝えたのであった。

 

 

 言葉で伝えきれなかったのは、せめてもの反抗というわけではなく、再び浮上した血のイメージが彼女の内臓を苛んだ故に他ならない。

 

 

 ――――真っ赤な血。

 

 

 真っ赤な子供――――。

 

 

 己自身の肉体に切っ先を振り翳し続ける、人形。

 

 

 それは人が行う所業ではなく、まして子供行えるようなものですらなく――――。

 

 

「翡翠ちゃん?」

 

 

「……あ、姉さん」

 

 

 潜行しかけた意識が再び浮上し、フラッシュバックに囚われていた翡翠は、小さく言葉を漏らして姉の瞳を見た。琥珀色の瞳は揺れる事無く、真摯に翡翠を見つめている。その瞳に映るのは、小さな翡翠の姿。

 

 

「では、私がお着替えを持っていきますからね。ついでに志貴さんの容態も気になりますからねえ」

 

 

「……はい。お願いします、姉さん」

 

 

 微かに呟かれた声音が震えていたのは、きっと翡翠の気のせいではない。

 

 

 増して、それが琥珀の言葉に何かしら危ういものを感じたからなど、嘘に決まっている。

 

 

 翡翠が申し訳なさ気に立ち去った後、琥珀はそれまで浮かべていた柔和な笑みを消して、静々と廊下を歩いていった。恐らく、翡翠の意識はあと少しで消えるだろう、という怜悧な計算を行いながら。

 

 

 姉妹として血の繋がった二人というものもある。けれど、それ以上に翡翠の精神的脆さを経験則として理解している琥珀は、後に彼女がどうなるかを読み定めていた。そんな妹を介抱するつもりはない。可哀想ではあるが、心因性によるトラウマは他人の手には余るケースが多いという事も琥珀は熟知していたし、志貴の様子が気になるというのも事実である。ならば、琥珀が必要以上の手心を加えるのは寧ろ症状を悪化させる可能性さえ否定できないのだ。

 

 

 昨日のうちに検査をした所、遠野志貴の体に打ち込まれていた外傷は、打ち所が悪ければ致命的外傷として日常生活に響くものさえあった。しかし、それでも比較的軽い計慮であり、最悪の場合は死に至る可能性をも持っていたのである。外傷として大きく上げられる腹部や太ももなどはまだ良いが、肩部などもう少し痛める場所をそれてしまえば頭蓋にダメージを与えうるものだった。

 

 

 患部の治療を施した琥珀は、痣となった箇所にどれほどの衝撃が襲ったのかが手に取るように分かった。志貴の体に這う傷は人を殺す者による手筈に他ならぬ、と。決して暴漢などが戯れに起こした悪意による結果ではない、と。

 

 

 ならば、誰が一体?

 

 

 そこで浮かべた疑問符を琥珀は三度笑みを貼り付けて排除した。顔に浮かび上がる笑みは中身の無い空っぽな笑い顔であり、琥珀の仮面であった。

 

 

 決まっている。誰があの傷を負わせたのかなど、琥珀には手に取るようにわかる。秋葉さえ傍らにいなければ、暫し陶酔によって傷跡に指を這わせたいほどに、琥珀は理解できた。何故なら、志貴には微かにだが匂いがこびり付いていたからだ。

 

 

 医療に携わってきた琥珀だからこそ分かる、血の香り。

 

 

 それもただの血ではない。潤沢かつ濃厚に凝縮された死と血の香りが、志貴の肉体から放たれていたのである。まずもって、志貴がそれまで誰といたか、琥珀は考えなくとも分かる。それほどまでに慣れ親しみ懐かしささえ覚える、求め続けた香りだったのだ。

 

 

 ただ、それならば何故志貴とあの人が行動を共にする理由があるのか。それだけが琥珀には明確に判断できない。志貴は志貴で何かしらを講じているのは明らかであるが、あの人が志貴と行動を共にする事は、決して琥珀にとっては流してはいけないことだった。思わず、強く奥歯を噛み締める。ぎりぎりと軋み鳴る歯は、琥珀の心を代弁しているかのようだった。

 

 

 何故ならそれは、琥珀の根幹をも揺るがす事態なのだから。

 

 

「まあ、志貴さんに直接聞けばいいだけの話ですけどねえ」

 

 

 豹変するように、軽薄な笑みを携えて琥珀は進む。そう言えば着替えが必要なのだと翡翠は言っていたけれど、実は彼女が着替えを志貴の部屋に着替えを持ち込んでいる事を琥珀は知っている。すでにそのような会話を彼女達は事前に行っていたのだ。だから、翡翠が着替えをもってこなければならないというのは有り得ぬ事であるし、恐らくパニックになった翡翠が咄嗟に出した言葉なのだろう。それを知りながら志貴は翡翠を止めなかったのだろうか、それとも、それほどまでに翡翠が起こした恐怖症の状態は酷かったのか。まあ、どちらでもよいが。真実はこの目で確かめればよい事。

 

 

 何れにせよ、歯車は揃いかみ合っている。後はどう動いているかを確認できればそれで良い。今の段階で事を明らかに起こすのは浅はかである、と判断した琥珀は気を引き締めながらも、その脳裏にだけは己が思惑が軌道に乗りつつある最果てを夢想せずには入られなかった。全ての道筋はどのような道程を辿ろうとも、彼女の目的に辿り着くのだから。

 

 

「嗚呼」

 

 

 人知れず、彼女自身思わず声音が漏れた。それは淫靡な艶を秘めながらも、どこか空疎な嘆息であった。

 

 

「楽しみですねえ、朔ちゃん」

 

 

 廊下にくすくすという、着物姿をした女の浅い笑い声が響き渡った。胸に秘めた、暗鬱な想いに心を弾ませながら。

 

 

 ――――目的地の室内に、誰もいないことを知らぬままに。

 

 

 □□□

 

 

 その頃、ちょうど琥珀と入れ違いの形で自室を出た志貴はすぐさま外出の手筈を整えたが、目的地に赴く前にと、思い立ったがまま館内を移動した。目的地は今は亡き父親の書斎である。最早顔も思い出せぬ父に書斎へと向かうのは、もやもやとした想いを抱かせるものだったが、それもやがて消え去り扉の前に辿り着くと、嫌な感覚は次第に薄れていった。

 

 

 亡き父の室内は驚くほど綺麗に片付かれていた。恐らく翡翠か琥珀が日常的に掃除をしているのだろうが、主のいなくなった部屋だと言うには、清廉な気風さえ流れている。そして壁際を囲うように設置された本棚には、志貴では題名さえ読む事が出来ないような文字のものもあり、父が勤勉家であったという一面を志貴はその時始めて知った。

 

 

 それも致し方のない事であろう。志貴は幼い頃に遠野から勘当を受け、有間へと追いやられた身である。脳裏に馳せる父の姿はおぼろげで輪郭を保たず、それが本当に父の姿なのかとさえ疑りたくなるほどであった。否、志貴は父に限らず自身が未だ遠野にいた頃の記憶が朧に霞んでいて、誰も彼もが影を被ったかのように顔も体格も判別できない有様だった。ただ覚えているのは、秋葉と遊んだ頃の小さな自分と、それを連れ立つ赤毛の女の子、そして――――。

 

 

 そこから先も最早思い出せない。TV画面の砂嵐でも映し出されたかのように、記憶は掻き消されていく。それほどまでに、この屋敷で過ごした日々は志貴という少年の心には思い出や記憶を刻まなかった。それも仕方のない事だろう、と志貴は一人適当な本を取りながら納得した。自分は大人たちに嫌われていたのだ。そうでなければ、二度と敷居を踏んではならないなどという罵言を言われる訳もなく、また事故に遭遇したとは言え遠野家の長男を追い出す事などありはしないのだ。

 

 

 しかし、今考えればそれはおかしな話だった。何故、体の弱った長男が勘当を受ける事になったのか。もし、本当に遠野を次ぐかもしれない長男の身柄が弱りきっていたならば手厚く遇する事ぐらい、簡単に想像できる。遠野にはそれほどの財力もあるし、また権力も凄まじい。政に疎い志貴でもそれぐらいは分かる。

 

 

 考えてみれば、ますますおかしい話だ。事故で体の弱った志貴を、遠野に相応しくないと言って追い出すには道理が伴っていないような気がする。

 

 

 やはり、自分は大人たちに嫌われていたのだろう。そうでなければ、わざわざ追い出されはしなかったのだと、自らの身を棚に上げながら、志貴は適当に分厚い本のページをぱらぱら捲った。けど、さっぱり分からない。何かの専門書らしきものには、志貴には説明しても到底理解できぬ単語が羅列されていた。

 

 

「……何か、ヒントになるものはないかな」

 

 

 そも、志貴が父の書斎へ足を運んだのは、七夜というワードを調べるためであった。

 

 

 あの殺人鬼、そして今は取り敢えずの協力者である七夜朔を始め、遠野の名を聞いた妖刀、骨喰の異常な反応。そして、七夜黄理。それらの事柄が、何故か知らぬが自らに関わっているような気が志貴にはしたのだった。

 

 

 それを関連付けたのには理由がある。

 

 

 父が形見として残したとされる短刀、七つ夜。勘当をした息子に与えるにしてはあまりにおかしな一品である。これが年代物の価値ある名刀であるならば、まだ財産としての形で残されたのだという得心をするものだが、ポケットに収められたままのナイフはどう見ても古ぼけた骨董品にしか見えない。翡翠は由緒あるものである、というように言っていたような気もするが、果たして本当なのか。

 

 

 ただ、一度だけ使用されたとき。即ち、あの四方を死者達に囲まれた夜の際、無意識の内にこの短刀を揮ったものだったが、驚くほど手に馴染んだ記憶だけはある。人の形をしたもの、それも常に蠢き揺さぶる人体を相手に、まるで自分の手足そのもののように扱えた。

 

 

 それを思えば、何か自分に縁の在る物かも知れないという志貴の推察は、己が思っている以上にすとんと胸の奥で馴染んだ。

 

 

 けれど、どこでこのナイフと自分がつながっているのか、まるで分からない。しかも短刀の銘は七つ夜。どう考えても、あの殺人鬼と関連があるだろう。

 

 

 七夜朔。藍色の着流しを纏った、人でなしに。

 

 

 そう思い、では亡くなった父が何故この刃を己に託したのかを知りたく、志貴は父の書斎へと足を運んだのであったが、今の所ヒントどころか切っ掛けさえ掴めないのが現状であった。何せ、書斎は大きく、また蔵書は膨大である。ちょっとした図書室の広さに置かれた本棚の中へと詰め込まれた本たちは静寂を保ちながら、ひたすらに押し黙っていた。それが志貴にはまるで何かを隠しているかのようにさえ思えた。

 

 

 きっと、何かがあるのだ。あやふやではあるが、どこか確信めいた閃きでもって志貴は目に付く本を手に取るが、やはり己が直感と関係するようなものはなにもない。無言の圧力さえ放つ本たちはその秘跡を開いてはくれない。

 

 

「……これも違う、か」

 

 

 ともすれば、零れる声音には気疲れなようなものさえあった。これで、もし何もヒントらしきものが見つからなければ正しく徒労である。起き抜けの行動で何も成果が得られないのは、志貴としても頂けない。

 

 

 目を凝らす事に疲れたのか、目元が重いと眼鏡の位置をずらそうとして、そこで志貴は己が眼鏡を失ってしまっている事を思い出した。縦横無尽に世界を走る黒い線は、見えているが、頭痛はしない。けれど違和感があった。だからだろう、どうにも朝から不快感が拭えなかったのは。翡翠の言葉にも耳を傾ける事も少なく、心ここにあらずと言う様に身を横たえたのは。

 

 

 眼鏡を失ってしまった事の喪失感はしばらく消え去らないだろう。あれは視力矯正用の眼鏡ではなく、外界を遮断する特製の眼鏡。先生から貰った大切な一品だったのだ。後生大事にしなければならないと、志貴は思い出そのもののように扱っていたのだ。その草原で出会えたひとつの奇跡を、志貴は無くしたという形で蔑ろにしたも同然の事を行ったのである。寂寞が胸を締め付けるようだった。それは志貴の求めて止まぬ日常が遠のいたからやも知れない。

 

 

 さつきが襲われ、学校は休校となった。アレほどまでに続くと思われていた今までの日常が、もう随分と遠方にあるような気がしてならない。そして、失われたからこそ分かる大切さというものがあるのだと、志貴は実感した。

 

 

 けれど、もう立ち止まれないのだ。この肉体を動かし、駆動させる燃料はすでに投下されている。弓塚さつきへの想いが膨れ上がり、それを傷つけたアイツへの激情は燃え上がっている。ならば最早、立ち止まるつもりはない。この遠野志貴という生涯を賭けてもいい。アイツにぶつけてやりたい。叩きつけてやりたい。そんな感情が志貴を支配している。

 

 

 それは、志貴自身も気付かぬ心の足枷となっていた。弓塚さつきという人間へ感情を傾ければ傾けるほど溜まっていく鬱屈は、彼自身の思考を固定化させるほどの重みを持ち、捕らえて離さない。先生との思い出を破り捨ててまで事を行おうとしているのが、その良い証拠であろう。今の志貴ならば、躊躇いを覚えずにこの眼を使う事さえ厭わない。そんな危うさが志貴自身を支配していた。――――と、思考が沈降していく最中に大腿筋が痛み、思わず蹈鞴を踏みかけた。その拍子に勢い余った腕が本棚に当たり、ばらばらと幾つかの本が音をたてて落下した。

 

 

「あちゃあ。こんなんじゃあ、なあ……」

 

 

 前日に行われた修練という名の甚振り。四方八方から襲い掛かる七夜朔の容赦ない猛攻。そのダメージが未だ抜けていないのだろう。彼の実力を未だ把握していない志貴には分からぬ事ではあるが、それでも朔の手並みが順調ではなかった事を思えば、蒼痰だけで済むほうが奇跡であったのだが、それを知る由もない志貴は、やはり自分は人外たちには届かないのだろうか、という忸怩たる思いが錯綜した。

 

 

 しかし、志貴の当惑はある一方では正しい事で、そしてある一方では間違っている。彼は確かに戦闘、否、殺し合いに於いては素人。それは変えようのない事実であるし、志貴もまた否定できない。けれど、彼があの夜に見せた最後の一撃。致命傷を与えるはずだった朔の思惑を凌駕し、あまつさえ骨喰さえも呆れ果てさせた一振りは、確かに人外への脅威となるものであった。何故なら、七夜朔に喰らいつく人間など今まで存在せず、またその絶命の刹那を彼は自力で逃れぬいたのである。

 

 

 それを志貴は知らない。知らぬままに、己が未熟さを悲嘆する。

 

 

 何故自分はこんなにも駄目なのだろうかと責める。このままではさつきの仇など取れないというのにと、そんな思いに駆られる。思い浮かべるは布団に横たわる弓塚さつきの姿。血の気の失せた、様変わりした姿。

 

 

「弓塚さん。……大丈夫かな」

 

 

 無論、シエルを疑っての言葉ではない。けれど、心配なものは心配である。シエルが任せろと言ったのであるから、そこは信頼している。彼女が一体どのような存在であるかモ又、朔同様に知らぬ志貴ではあったが、彼女にはさつきを任せられる何かがあった。だから大丈夫なはずなのだ。間違いはない。魔道に詳しくもない志貴はそう結論付け、思考を再び切り替える。どちらにせよ、志貴ではさつきの治癒など出来るはずもなく、また現代医療の限界というものもある。彼女に任せるしかないのだ。そう自分に言い聞かせて、志貴は床に落ちた本をひとつひとつ拾い上げていく。その内容は先ほどと同じように理解できない。英語でもラテン語でもない、文字を読み取る事なぞ志貴には不可能と言っていいだろう。

 

 

 しかし、最後のひとつとして残された本を何とはなしに広げた時、彼は思わず瞠目した。

 

 

「久我峰。軋間。刀崎。有間。……これって、もしかして」

 

 

 彼が手に取ったのは遠野家の分家草本であった。遠野から追い出された身である志貴が何故それだけを理解できたのかは、有間という家名にある。その家に彼は今までいたのだ。遠野分家の有間として。だからだろう、彼はこの本には何かあると言う直感のままにページを捲り、ひとつのページに行き当たった。

 

 

「両儀、浮淨、浅神……これは違う分派なのか?」

 

 

 彼がその本にめぐり合えたのはひとつの運命だったのかもしれない。運命とは数奇な偶然を謀った必定の理。ならば、志貴がその本を落とし、そして手に取ったのはひとつの定めだったのだ。

 

 

「……ッ」

 

 

 思わず、息が止まった。そのページに記された文字。それは今志貴が狂おしいほど求めていたワードであった。ただ二文字だけしか書かれていない文字ではあったが、その単語が秘める魔性は志貴の視線を奪って離さない。

 

 

「――――七夜」

 

 

 意図して零れた呟きは畏れにも似た感情そのままであった。

 

 

 総身を這いずる戦慄に、志貴は身震いした。

 




 はい、原作改変が出てきました。本来は男性恐怖症である翡翠が何故異なる恐怖症を抱える事になったのかは後にでも。しかし、遅々として展開が進まない……。
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