七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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超番外編 もし朔がTSをしたら

 今日は目覚めが最高であった。

 

 

 青少年によくある情欲的な夢を見るわけでも、また不条理に殺されるわけでも殺す夢を見るわけでもなく、あるいは健やかな睡眠を打ち破るアーパー吸血鬼が窓から阿呆みたいに突撃する事も無く、更には通例の如くにてんやわんやと屋敷内が騒ぎ出す事もなかった。

 

 

 無論、毎日が毎日騒乱と混沌に塗れているわけではないが、少なくとも睡眠至上主義を心ひそかに啓上している志貴には、最高の一日の予感がすでにこの時より約束されていたのである。

 

 

 窓の外は麗らかな春の気配。僅かに差し込む光の温かな柔らかさが実によく、過ごしやすい日頃であるのは明らかである。静かに揺れている木々の緑葉もそれを裏付けて、陽気な鳥のさえずりが屋内にいる志貴の耳に届いてきそうだった。

 

 

 部屋から出て食堂に向かう。今日は学校も無く、性急に済まさなければならない用件もない。こんなに麗らかな春なのである。少しは秋葉も怒気を収めてくれるだろう、などと希望的観測を脳裏に描きながら、ともすれば鼻歌さえ奏でてしまいそうな心地で志貴は歩いていった。

 

 

「おはよう、秋葉」

 

 

 予想通り、秋葉は食堂にいた。

 

 

「おはようございます兄さん。随分とゆっくりお眠りになっていたようですね」

 

 

「はは、いいだろう? 今日は何も用事はないんだ。たまにはゆっくりしたって罰はあたらないよ」

 

 

「兄さんの場合ですと、偶になどという頻度ではないです」

 

 

「あ、はは……」

 

 

 若干の皮肉を込めて、私服姿の秋葉は優雅にティーカップを傾けていた。何気ない仕草の一々が様になるのは、やはり彼女が遠野邸の主であるからだろう。

 

 

 とは言え、妹に睨まれ続けているのは精神的に良くないと、志貴は愛想笑いでもってそそくさと席に座った。

 

 

「けど、秋葉も随分と今日はゆっくりなんじゃないのか? 今頃は仕事で忙しいはずなのに」

 

 

「それはもう一区切り打っています。兄さんではないんです、やるべきことは早々に済ませています」

 

 

「……流石だな、秋葉」

 

 

「当然です」

 

 

 ふん、と鼻さえ鳴らしそうな勢いで秋葉は笑みを浮かべた。しかし、今日は毒気も少ない。通常ならばここで秋葉の怒声が飛び込んできそうなものである。やはり、秋葉も春の陽気にやられたか、と志貴は内心苦笑した。

 

 

「なんですか、兄さん?」

 

 

「いや、なんでもないよ」

 

 

 目ざとく眼を細める秋葉に、志貴は慌てて首を振るのだった。この時点で兄としての威厳を疑われるが、最早日常茶飯事である。憐れだと思えないのは、きっと志貴の普段の行いだろう。

 

 

 ――――さて、そろそろいいだろう。

 

 

 放置するのはもう充分なはずだ。

 

 

 と、志貴は腰を据えてソファに胡坐をかいて座るという何とも行儀悪い姿勢をしている者を見た。

 

 

 藍色の着流し。さらしがその隙間から覗き、股を広げる形によって着流し下着がぎりぎり見えるか見えないかの絶対領域を作り出した、女。

 

 

 すらりと長い手足、身長は志貴より少し高めだろうか、随分と華奢な姿のように思える。そして手入れされていないのか、長くぼさぼさの黒髪の隙間から覗くその顔は無表情ながら、何処か凛としていて、女性らしさが垣間見えるのだが――――。

 

 

「……えっと、誰?」

 

 

「朔です」

 

 

 志貴の問いに、秋葉は憤懣やるかたなしという風情で言い切った。

 

 

 そして志貴はもう一度、ちらりとだけ朔、らしき人物を見た。

 

 

「朔?」

 

 

「はい、そうです」

 

 

「は?」

 

 

 唖然呆然と志貴はしながらも、嗚呼、と納得の表情で窓の向こうを見た。

 

 

 外は明るく、本当に良い天気である。正に晴天の霹靂。

 

 

「琥珀さんか……」

 

 

「寧ろそれ以外の事なんて見当たりませんが」

 

 

 恐らく琥珀が面白半分で作り上げた薬を朔が勝手に飲んだのだろう。遭遇しなくても簡単にそんな光景が脳裏に思い描けるのは、志貴がすっかりカオスな状況になれてしまっているからだ。毎度お騒がせな二人の騒動になれるなど、本当はたまらなく嫌なのだが。

 

 

 そして同じくそうなのだろう。ふん、と秋葉は鼻を鳴らした。琥珀に振り回される事に慣れさえ覚え始めている自分に不快感を抱いている様子である。んで、そんな様子の秋葉を気にしているのかいないのか、朔、らしき女性は胡坐のまま沈黙を保ち、ここにはラウンジには不思議な静寂が流れていた。

 

 

 どうしろってんだこれ。

 

 

「まあ、琥珀によれば一日も過ぎれば元の姿に戻るとのことですから、今日一日普通に過ごせばいいだけの話です」

 

 

「なるほど」

 

 

「だからですね、兄さん」

 

 

 そこで、秋葉は目を細めた。

 

 

「朔に色目を使うような真似は決してしないでください」

 

 

「……はあ? んなわけないだろ、だって……」

 

 

 ちらっと、志貴は改めて朔を見やる。

 

 

「朔は朔だろ」

 

 

 長身痩躯、藍色の着流しを身に纏う女性。その左腕はないが、逆にそれが不自然ではない。朔はどう見ても朔である。例え肉親の性別が豹変したとしても、そこに欲望など沸かないはずである。というかそんな展開は薄い本だけで充分である。

 

 

 けれどそんな志貴の考えなど笑止千万というように、秋葉は頬を吊り上げた。

 

 

「どうだか。女と分かればあっけなく手篭めにする兄さんの一体どこに信用を置けばいいんですか」

 

 

「……それはいいすぎじゃないか、秋葉」

 

 

「これで言い過ぎなんて、寧ろ足りないくらいです!」

 

 

 きっぱり。そんな擬音が似合うくらい、秋葉は言い切った。

 

 

 全くもって信用のない兄である。

 

 

 しかし、あくまで秋葉は冷静であった。

 

 

「けど、今回は流石に兄さんでもどうにか出来るとは思えませんけど」

 

 

「……そういうことだ、それ?」

 

 

「今にわかります。お試しに朔に近づいてみては如何ですか?」

 

 

「何かあるのか?」

 

 

「実際に体験したらわかります。命の保障はしませんけど」

 

 

 そう言って、後は知らぬと秋葉はマイセンのカップを傾けた。

 

 

 とは言え、これほどまでに言われそれを妹からの挑戦状と受けたのは志貴である。肉親のスキンシップに命の保障の糞もないだろう、と若干むっとしながらも普段はあまり意識しないようにしていた兄弟という名目を明示化して、腰を上げようとして。

 

 

 ――――背後から、首を落とされた。

 

 

「――――は!?」

 

 

 いやいや、こんな行き成りなシリアスおかしすぎるだろうと、勿論首が落ちたのはありえぬ話。しかしながら、何かが紙一重で志貴の頭部を掠めたのは事実であって、慌てて背後を振りむくと。

 

 

「あれえ、おかしいですねえ。はずれちゃいましたか」

 

 

「こここここ、琥珀さん何してんのさ!」

 

 

 仕込み箒を振りぬいたままの姿で首を傾げる琥珀の姿があった。その隣には翡翠の姿もあり、彼女は異次元にいるような普段通りの姿で「おはようございます、志貴さま」と一礼した。思わず志貴も普通に返しそうになるほど見事な一礼であったが、琥珀の仕込み箒が怖すぎてやばい。

 

 

 その切っ先が窓辺から差し込む陽光を浴びて、艶やかに煌く。けれど、志貴にはその輝きが冷たく断頭刃に思えてならない。

 

 

 しかし、志貴の恐慌を脇目に琥珀はさも当たり前と言わんばかりに。

 

 

「ええ、だって朔ちゃんに手を出すなんて天地天命が許しても私が許すはずなんてありませんしー。だから、こう、首をちょんぎってあげようかなーなんて」

 

 

「いやいやいや、何でさっきから俺が朔にちょっかいを出す前提で話が進んでるの!? しかも何か俺殺されかけてるし!」

 

 

「え、何言っているんですか?」

 

 

 と、仕込み箒の刃を志貴の咽喉に添えて。

 

 

「私の朔ちゃんに手を出す人なんて、死んじゃえばいいんです」

 

 

 なんて飛んでもないことを言いやがった。その瞳に光はない。完全に暗黒面である。

 

 

 いつだったか大量の猫のようで猫でない生ものが遠野に襲来したさい、やったらめったら彼らに気に入られた朔が連れ出されるなんて事件が起こったものであるが、それからというものの琥珀の朔に対する執着心は天元突破を果たしていた。

 

 

 何せ、近づくものには容赦なく注射針を見せつけ、遠野地下王国にご招待する徹底振りである。ちなみに地下王国は遠野の当主である秋葉でさえ全容を把握できぬ科学となんちゃって魔法っぽいものにより作り上げられた琥珀の領地。何かとしか表現できぬ物がそこらに設置され、また跋扈する魔窟である。一度入ったが最後、地下王国から脱出できるものはホンの一握りであり、サ○ケもびっくりな難関率を今もなお誇る城塞と言っても過言ではない。

 

 

 とまあそんな感じで朔への過保護極まりない守衛を行っている琥珀であったが、流石に志貴も一撃必殺を行うとは思わなかった。

 

 

「それに前から私、どうしても志貴さんが朔ちゃんと仲よくしているのが気に喰わなくてですねえ」

 

 

「いきなりとんでもない事言い始めましたよ、この人!」

 

 

「だからこの機会に排除、もとい抹殺しようかと」

 

 

 言い直して更に殺伐とした形容となるのはこれ如何に。

 

 

「まあ、そういうわけでして朔ちゃんが戻る前の間、もし万が一の事がありましたら志貴さん、お覚悟しておいてくださいね♪」

 

 

「いや、そんな可愛らしくいわれても」

 

 

 きゃ、となんて言いながら首に添えた刃を横に滑らせる形で納めた琥珀だった。

 

 

「どうですか兄さん。流石の兄さんでもこれでは朔に手をだせないのではなくて?」

 

 

「いや、だから何で俺が兄ちゃんに手出さなきゃいけないんだってば!?」

 

 

 満足気に笑みを浮かべる秋葉へと、思わず普段の気恥ずかしさとか吹っ飛ばして朔を兄呼ばわりする志貴。

 

 

 それほどまでに憤慨し、慌てているのである。哀れ、とは思えないのはこいつの女性癖の悪さだろう。本編ではとてもお目にかかれぬ駄目人間っぷりである。何せ琥珀以外の殆どの女性から好意を持たれているのだから。ほんと死ねばいいのに。

 

 

 けれど、とそこはかなとないブラコンの事実をここのところ自覚しつつある志貴は、視線の先にいる女と化した朔を観て。

 

 

「はい、見るのもアウトですよー」

 

 

 目前から直角に角度を変えて襲い掛かる刃に度肝を抜かれた。まるでどこぞのヒットマンスタイルを得意とするボクサーの左フックのような速度で放たれたそれは、志貴を眼鏡ごと切り裂く寸前で。

 

 

「姉さん。少し落ち着いたほうがよろしいかと」

 

 

 翡翠の羽交い絞めによって食い止められた。

 

 

 

「どいてください翡翠ちゃん。女にはどうしてもやらねければいけないことがあるんです!」

 

 

「それが志貴さまの首を落とすのとどう関係があるのですか」

 

 

 いつもの無表情にどこかあきれを含めた翡翠だった。

 

 

 とは言え、朔の女体化というだけのこと。それでいつもの日常が変わるはずがない、という認識が遠野家に蔓延するはずはなく、こういう事は大体問題そのものが勝手に騒動を引き起こすものだというのが遠野での共通認識である。

 

 

「――――。―」

 

 

「えっと、朔。……どうしたんだ」

 

 

 衆人皆目が目する前で朔が少しだけ緩々と揺れだした。それに合わせて腰まで伸びた髪がゆらゆらと揺れ、その隙間から意外にも眉目秀麗な女顔が見えて、背後から発せられる殺気に志貴がびくびくとするのは、最早ご愛嬌と言う事にしておこう。とは言え、今は朔の事が先決であると意を決して志貴は声をかけたのであったが。

 

 

「――――。――」

 

 

 晒しへと指を引っ掛け、どこか窮屈そうにしている朔を見てピンときたのは琥珀である。

 

 

「ああ、なるほどー。さらしがきついんですね」

 

 

 意思疎通を行っていないのに何故分かるのかというのはとりあえず置いておこう。兎も角、朔の胸部に巻かれたさらしは確かに少しきつめに縛られており、呼吸をするには痛みさえ生じそうなほどであった。何せ、そのさらしは朔自身が巻いたものである。女性観念を肉体的なものでしか知らぬ朔には胸部の膨らみを覆い隠す理由などてんでわからぬ事ではあったが、恐らく琥珀か秋葉に教えてもらったのだろう『恥』という概念に乗っ取り、半ば強引にさらしは巻かれたのであった。

 

 

 が、元が男である朔にそんな器用な事は出来るはずもなく。

 

 

 しゅるしゅる、と。

 

 

 志貴の面前で朔はいきなりさらしをほどき始めた。

 

 

「な、ちょ朔!?――――ごはっ!!」

 

 

 ごきり、と音がしたのは驚愕に眼を引ん剥いた志貴の首を琥珀が捻ったものである。

 

 

 ほぼ真後ろに向けられた志貴の頸椎が無事なのは、一体どうしてだろう。

 

 

「ちょっと朔! 兄さんがいる前でそんなことしてはいけません! 兄さんも早く出て行ってください! 翡翠、朔を手伝ってあげなさい」

 

 

「わかりました。朔様、さらしはもっと緩くしめなければ自分が苦しいだけです」

 

 

「さあさあ、これから朔ちゃんの生着替えですので、志貴さんは出て行ってくださいねー」

 

 

 と、志貴は声を出す暇もなく琥珀に背を押され部屋から追い出される。

 

 

 ――――が、志貴が廊下に出る直前、琥珀はぼそりと「覗いたら殺しますからね」と満面の笑顔で言われ、理不尽な事ではあるが命ほしさに志貴は、全力で首を振り自室へと舞い戻る破目になったのであった。

 

 

 けれど、途中気になったのは屋敷中を震わせる「よっしゃああああああああああ!!」という全身全霊で叫んだ秋葉の声音だったが、一体なんだったのだろう。

 

 

 きっと志貴は知らないほうがいいことなのかもしれない。知ったら恐らく秋葉と琥珀に殺されるだろう。

 

 

 しかしながらも、幾ら巨大な屋敷とは同じ空間に住む訳であるから、一日中会わないなんてことは出来はしない。ここまでくれば学校が休日であったのが恨めしいほどである。何せ、朔と屋敷内にて遭遇するたびにどこからともなく現われた琥珀によって襲撃されるのである。

 

 

 例えば廊下で擦れ違っても。

 

 

「ああ、朔――――のわっ!?」

 

 

「……ち、外しましたか」

 

 

 と、こんな具合に一々殺されかけるのであるから溜まったものでない。しかも琥珀がやたらと刃の扱いに慣れているのだから、いい感じに運がなければ志貴は午前中にお陀仏と化していただろう。

 

 

 そんな事が毎度の事行われるのである。ここまでくれば触らぬ神になんとやら、志貴は朔との物理的接触を控えようとなるべく物静かに今日と言う日を過ごす事にしたのだった。

 


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