七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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僕は今、どこにいるんだろう。


第四話 甘い猛毒

 骨喰からしてみれば、鍛錬とはナンセンスである。

 

 

 刀剣の類である彼、と呼称していいかどうかは定かではないが、武具であり、どのような術理を経て言葉を持ってしても、大雑把に言ってしまえばただの物体である骨喰にとって、己を鍛えるというのは道理を判別出来ない概念だった。

 

 

 骨喰が骨喰として今は亡き刀崎梟の秘術によって生み出され、多くの犠牲をくべて形成された当時から人が己の業を高め、今より以上の場所へと到達する行為、つまり〝努力〟と銘打たれたそれは理解の範疇にない。他者同士が鎬を削りあうなど論外である。だからこそ骨喰が骨喰たる由縁である邪悪において、ある目的のために努力を行うとは噴飯するに値する行為であった。

 

 

 故に志貴を鍛えるなどと言いはしたが、あれもまたそのままの意味ではない。

 

 

 そも七夜朔に鍛錬の相手を勤める事自体どだい無理な話なのだ。

 

 

 七夜朔が本来持つ叩き込まれた殺しの手管は本能にまで刷り込まれ、一度殺意を向けた相手に幾ら統制しようとも相手を殺してしまう。嘗て骨喰が記憶しているところ、七夜の退魔衝動によって殺害対象以外の混血を殺害した経緯は幾等もある。それを抑制するどころか増長させる骨喰も大概ではあるが。

ならば莫迦正直にこちらの申し出を受け入れた遠野志貴に対し、骨喰は戯れの如くに甚振る魂胆であった。

 

 

 例えば獅子の子供が他の小動物を相手にじゃれ付いて殺してしまうのは、それは彼が獅子だからだ。その膂力、本能は仔獅子の意志とは相反して容易く相手を害してしまうもの。この獅子が七夜朔に当る。そして遠野志貴は戯れ相手の小動物でしかない。如何に志貴が遠野の血縁者であろうとも、調査結果によって判明してある情報を思えば、彼は闇を見知らぬ阿呆なのだ。そのような者が七夜朔を前に対峙しているなど愚の骨頂にも程がある。それほどまでに二人の間には隔絶した差があった。存在、あるいは魂のレベルでだ。

 

 

 とは言え、あっけなく死んでしまっては面白くない。死ぬなら死ぬで七夜朔の糧にならなければならない。致命的外傷を負わせずに、ミンチ状態となるまで叩き潰す。今回骨喰が設けた殺害プランである。骨喰が朔の殺害方法に対し口を出す事はありえないし、また彼が朔を統制することそのものは不可能だ。しかし、無理に設定した状況、七夜朔に鉄撥を持たせてそれのみを使用させるという限定条件を考えれば容易い。

 

 

 そも、その殺害方法は七夜黄理のものに近い。彼は生前鉄撥を使い対象を骨ごと磨り潰すという所業を果たしていたが、今回はそれの実演だ。様々な殺害方法がある事を朔に教えられればそれでよし。例え朔が習得せずとも、遠野志貴を殺害したならばそれも良し。

 

 

 後々に訪れるであろう、〝骨喰の目的〟のためには。

 

 

 しかし、今廃工場内で展開された光景は、七夜朔から放り投げられ廃工場にそのまま放置された鉄くずに埋もれた骨喰の思惑を、良い意味で裏切るものだった。

 

 

 ――――幾つもの鈍色が襲い掛かってくる。

 

 

 それを志貴はどうにか回避、あるいは防ごうとするが、死角から伸び上がる鉄撥の威力を相殺することさえ敵わず、ただ一方的に志貴は朔の執拗な殴打に甚振られた。その度に志貴は体の痛みに苦悶の表情を浮かべるが、痛苦を噛み締める暇を与えるような相手ではない事は承知の上で、気付けば違う部分が打撃の衝撃に晒された。

 

 

 これで一体幾たびの攻撃を受けたのか。服の下、きっと赤く腫れ上がっているだろう左肩の有様は目も当てられないほどになっている。それは今しがた打たれた部分のみではない。志貴の腹筋、大胸筋、背筋には焼印を押し付けられたような跡が、恨みのように浮かび上がっていた。

 

 

 朔が用いる戦法は至って単純。

 

 

 寄って、叩く。

 

 

 けれど、朔の動きの出鱈目さを鑑みれば彼の実直極まりない戦術も、志貴にとっては嵐のようなもの。

 

 

 何せ、志貴は戦端が開いてから一度も朔がどの場所から襲い掛かってくるのか、まるで理解できてなかったのである。

 

 

 しかし志貴も莫迦ではない。殺し合いを知らず、また暴力を知らない彼ではあったが、短い時間で朔の襲撃を幾つも身に受けた彼はある程度の収穫を手にしていた。

 

 

 まず、朔は鉄撥以外の攻撃をしてこない。それが骨喰の指示によるものか、あるいは朔の気まぐれによるものか定かではないが、少なくとも朔は自身の肉体そのものを暴力として揮う事はなかった。

 

 

 未だ朔の手筈を視認できていない志貴がそれを知りえたのは、偏に彼が晒されているひりつくような痛みにあった。

 

 

 人の体はある程度の猛威には慣れるもの。肉体のポテンシャルとの隔絶具合によっては、適応する間もなく磨り潰されるのがオチであるが、志貴の体は彼自身が思う以上に答えてくれており、一度目の猛打で内臓が破壊されていない事がそれを証明している。だからこそ、志貴は肉体に浮き出る鉄撥の感触を次第にではあるが理解していた。そして、それにより朔の鉄撥の扱いが雑である事も知れた。

 

 

 武具と言うものは揮って使用するだけのものではない。幾つもの鍛錬を重ね、武術へと昇華し遂には武芸へと上り詰めた武芸十八般もあるように、古より重ねあげた武には幾つもの手段が存在する。突き、払い、凪ぎ等、武具の使用はあらゆる選択から選び出された攻撃種類に分けられる。

 

 

 しかし、朔が揮う鉄撥にはそれが無い。

 

 

 彼はただ鉄撥という道具を用いて志貴の体を殴打しているだけだった。

 

 

 何故なら志貴は知らない事ではあるが、それは朔がこの武装に慣れてはいないのである。

 

 

 多くの武人と呼ばれる人間は己が獲物を用いた戦法は元より、様々なものを己が武具として使用する。古武術の多くは武器の使用を前提とするそれと同じように、近代格闘技術も道具を使用した戦法の会得を推奨する。武人とは徒手のみで戦うのではなく、あらゆる条件下に自身を適応させて戦う鍛錬を積み上げるのだ。

 

 

 しかし、志貴の対峙する怪物は武人でない。

 

 

 彼は殺人鬼なのだ。

 

 

 戦う手段を模索し試行錯誤した過去はなく、ただ殺しの術理を学び続けた存在だ。戦うだけの戦法を朔は知らない。彼が学び、身に備えたのは殺傷の技術のみばかりである。故に、やりようによっては撲殺も可能ではあったが、現状甚振るのみという条件は朔に思わぬ制限をかけていた。

 

 

 だからこそ、朔が鉄撥を使用する現状で志貴が生き残っているのは、骨喰の悪戯にも似た思惑が思わぬ結果を生み出した故の事であった。

 

 

 そして、全身に痛みを抱えた志貴であったからこそわかる。

 

 

 この相手は、現状志貴ではとてもではないが打破出来ぬ存在であると。

 

 

『ひひ、どうシた。もっとだ、もっと気張ッて見せろイ餓鬼ぃ!』

 

 

「――――ッ」

 

 

 とは言え、理解のあるなしに関わらず。志貴が窮地に立たされている事に変わりは無い。鍛錬と銘打たれた所業は悪辣に尽き、寧ろ身体に走る痛みを思えば志貴は煉獄に佇んでいた。

 

 

 呼吸し、殴打された衝撃が抜けると残されるのは灼熱にも似た苦痛だった。火炎で炙られたとさえ思い込んでしまいそうな痛みが、すでに志貴の身体で幾つも暴れまわっている。そして悪い事に、志貴が痛みを自覚する間さえ朔は与えてくれない。

 

 

 しかし、よじれんばかりの痛みに身悶えしてしまえば、それこそ自身の終わりだという事は志貴も理解している。僅かばかりの間隙のうちに致命的な一撃を喰らってしまうのは明白な事。未だ頭部への打撃が行われていない事が幸いし、志貴は痛覚以外と極限の緊張状態を除けば、クリアな視界を持っていた。故に志貴は痛みに脳まで痺れるような状況に置かれながら、必死に耐えていた。

 

 

 耐える。耐える。

 

 

 耐える。耐える。

 

 

『ひひッ、ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!』

 

 

「五月蝿いッ! 黙ってろ鉄くず!!」

 

 

 無様な志貴を嘲う骨喰の哄笑に苛立ちが増す。

 

 

 神経に突き刺さるような笑い声が空間内をささくれ立たせた。

 

 

 我慢に我慢を重ね、泣き出してしまいそうな痛みに打たれながらも、けれど志貴は決して目を閉じなかった。確かに、現状志貴では朔を打倒できる相手ではない。しかし、だからと言ってそのまま痛めつけられるのは受け入れるわけにはいかない。隔たりある両者。それを打破できぬのならば、せめて一矢報わなければならない。

 

 

 痛みの情報過多に混乱を果たしてしまいそうな脳に志貴は反し、己が五感を決して弛めはしなかった。

 

 

 ひとつ打たれれば目を凝らし。

 

 

 ひとつ打たれれば耳を澄まし。

 

 

 ひとつ打たれれば空気を嗅ぐ。

 

 

 死を臭わせる廃工場、錆ついてしまいそうな空気の中で志貴の身体は意識とは反して、痛みを覚える度に純化されていった。

 

 

 余計なものを取っ払ったように五感から会得できる情報が増していく。それは志貴には始めての感覚で、あるいは非日常的な中で発生する脳内麻薬の過剰分泌もあるだろう。ドーパミン、エンドルフィンの分泌された脳はランナーズハイと同じ条件にまで移行し、所謂脳内モルヒネに浸された状態となる。

しかし、志貴が味わう感覚というものはオピオイドを始めとする脳内麻薬の感覚とはまた異なったものだった。

 

 

 ――――殺伐。

 

 

 空気が乾いて、咽喉が張り付いてしまいそうだった。

 

 

 研ぎ澄まされていく。己がひとつの刃となって切れ味をおびていくような感覚を志貴はこの時始めて覚えた。

 

 

 それは己以外、あるいは己そのものを切り捨てて余分なものが取り払われた真実の時に会合した心地で、不思議なほど心が澄んでいく。その気になれば命を危ぶむ人殺の鬼の呼吸まで聞こえてきそうな気がした。

 

 

 接敵の猛威に命が脈動する。

 

 

 自然と握り締めていたはずの鉄撥はゆるやかな握りへと変化して、焦燥は消え去り超然とした心意気。

 

 

 不思議と、弓塚さんの姿が脳裏に過ぎ去っていった。

 

 

 ――――夕陽に映し出され、はにかむ彼女の姿。そして、血みどろと化した彼女の姿。

 

 

 脳髄がひとつ、ずくんと高鳴った。

 

 

 爆発してしまいそうな五感の感覚。工場の隅で綺羅星のような輝きが視界に現われた時。

 

 

 志貴の中で何かのスイッチが切り替わった。

 

 

 □□□

 

 

 ずっと、昔の事だ。

 

 

 もう随分昔の事であると言うのに、昨日のようにもあの日々は思える。

 

 

 それまで苦痛しか味合わされていない地獄の中で、琥珀は確かにひとつの救いを見出したのだった。

 

 

「……志貴さんはどこにいるのでしょうかねー」

 

 

 琥珀は自室の中、一人溜め息をついた。

 

 

 琥珀の部屋には遠野邸で唯一テレビが置かれている。家主であり、翡翠と琥珀の雇い主でもある遠野秋葉はテレビと言う俗極まりない物品の設置にあまり良い顔はしなかったが、琥珀の手八丁口八丁と煙に巻かれて、いつの間にか置かれても構わないことになっていた。無論、過剰に秋葉が攻め立てる事が無い上での結果だとも言えるだろう。

 

 

 現在、テレビは点けられているがモノクロの砂嵐が映し出されている。

 

 

 集中的に静かな雨が降り注いでいるような音が、琥珀以外に誰もいない部屋の中に染み渡っていく。一説によればテレビ映像の砂嵐が奏でる音は、胎児が母体の中で耳にする外の音だという調査結果がある。母体とへその緒で繋がった胎児が唯一外の世界を知るプロセスが砂嵐の音であるからこそ、幼児はテレビから流れる砂嵐の音に安心し、泣き止むと言うのである。肉体的精神的リラックスは重要な事柄だ。それは赤子であろうと、あるいは成人間際の少女であろうとも変わりは無い。

 

 

 琥珀にとって母はどのように捉えたらいいのか、未だに分からぬ相手だった。巫淨の分家であった琥珀達姉妹の母は禁忌を犯し、その結果二人はこの遠野へと連行されたのであった。

 

 

 それからの日々は琥珀からすれば地獄だ。いや、地獄と言う言葉ですら生温い。それを思えば琥珀は母を憎んでもいいはずだった。何故あのような者が自分の母なのだと思ってもおかしくはなかったはずだ。時として強い感情は肉親の情を凌駕する。ならば憎しみの念を持って母を恨む事も何ら不思議ではない事だった。

 

 

 けれど、琥珀はどうにも母を憎もうとは思えなかった。もう記憶の中では随分と擦り切れて顔の造形すらおぼろげな母ではあったが、やはり母だという思いがある事も事実ではあるしそれはきっと、彼女が原因となって始まった仕打ちがどうであれ、琥珀がめぐり合えた奇跡を思えば、取るに足らないことだったのかもしれない。

 

 

 室内は相変わらず砂嵐の音。その中へと紛れ込むように琥珀は動かない。手元には掃除用の箒が握り締められており、頑なに力の込められた指が柄を離そうとはしない。

 

 

 無意味な吐息が虚ろとなって吐き出される以外に、この部屋は生物のにおいを感じさせぬ磨耗が犇いていた。家財はある、娯楽もある。しかし、どこか生活とは掛け離れた部屋が琥珀の居場所だった。

 

 

 これで誰かが尋ねてくれば、あるいは変わっていたのかもしれない。けれど、これまで琥珀の部屋に訪れた人物は数えるほどしかなく、その回数も両手の指で計算できる程度のもの。元々、あまり琥珀の部屋には誰かが訪れる事は無かったのだ。

 

 

 それは、あるいは琥珀とかつていた同居人の存在もあったかもしれない。

 

 

「……ふふ」

 

 

 記憶の中に存在する人の姿を思うと、琥珀は笑みをこぼさずにはいられない。ともすれば箒を握る手のひらに力が込められた。琥珀が手にした箒も考えようによっては、彼との縁。ならばそれを肌身離さず携帯するのはとても自然な事である。

 

 

 遠野の親戚一同その他大勢、有象無象に関わらず彼らは琥珀との接触を好まなかった。それは偏に彼女が遠野槙久の側にいた事もある。彼女達姉妹が路頭に迷わず、あまつさえ今日全うな生活を遅れたのは先代当主遠野槙久の恩恵によるものである。それを思えば、彼らが琥珀との接触を行いたくないのも道理のこと。

 

 

 そして、理由のもうひとつは――――。

 

 

「そろそろ、ですかねー」

 

 

 外は夜の気配が深まりつつある。三咲町は噂の吸血鬼騒ぎによって、日常よりも静けさの増した侘しい場所と成り果てているだろう。これまで幾数名もの犠牲者を生み出した猟奇事件の被害が己のいつ及ぶかもわからぬ状況。よほどの阿呆ではない限り、自ら望んで外出する算段はつけないはず。

 

 

 ならば、自分もそんな阿呆の一人なのか。今夜琥珀は遠野秋葉の意向で夜の街に出立しなくてはならない。故に結局帰宅を果たさなかった遠野志貴の所在も気にはなるが、今は優先事項が異なる。

 

 

 元より、現段階では遠野志貴などどうでも良い。

 

 

 琥珀は自然とそう考えていた。

 

 

 そして、そんな自分を眺める自分に気付き、笑った。

 

 

「とは言え、焦ってはいけません。焦っては何も上手くいかないものです」

 

 

 誰もいない部屋で琥珀の独白が染み渡る。

 

 

 彼女の言葉は秋葉にも言えるし、彼女自身にも言えることだった。

 

 

 ちらり、と琥珀は時間を確認する。

 

 

「では、そろそろ向かいましょうかね」

 

 

 意識して秋葉にかまれた首筋を擦り、彼女は着物を脱ぎ捨て黒とも灰色ともつかぬ色合いの服装へと着替える。

 

 

 夜に馴染むならば、黒系統は当たり前。

 

 

 それが裏で糸を引く者の衣服ならば、尚更そうであった。

 

 

「待っててくださいね、朔ちゃん。もう少し、もう少しだから……」

 

 

 □□□

 

 

 鉄骨の足場を駆け上がり、相手の目がこちらに追いついていない事を確認しながら死角へと移動し、天井部分に当る塗炭へとさかしまに張り付く。限界まで鍛え上げられた朔の驚異的な怪力は例え左腕を消失していようとも、僅かな突起、僅かな凹凸部分があるならば、どのような立地状態であれ手足の指で体重を支える事は容易い。ならば、万力の如くに締め上げられた指先でもって天井部にさかさまの状態で制止するのは、なんら不思議な事ではなかった。

 

 

 歴戦の暗殺者である七夜朔にとって、遮蔽物というものは概念として成り立たない。空間内を構成する鉄骨、鉄くず、壁は全て朔の足場となり、この狩場を成立させている。

 

 

 そも、この場所は志貴には不利な場所である事は否めない。不明瞭な視界と更に暗くなった光景。そして狭量な空間は朔に圧倒的アドバンテージをもたらしている。ただでさえ志貴という青年は無力極まりない存在なのだ。朔にとっては獲物にすら成りえない相手に等しい。

 

 

 しかし、朔に慢心はない。そして圧倒的戦力差に気を弛ませるような傲慢もまた然り。

 

 

 彼はあくまで己がやるべき事を全うしているだけの事。例え骨喰の契約で縛られていようと、退魔の契約で身動きが出来なくとも、彼は彼としてあるように、志貴を無残な姿に変えようとしていた。

 

 

 とは言え、懸念すべき事はある。殴打によって強かに叩いた部位の感触が悪い。志貴と同じような状況整理を朔もまた行っていた。鉄撥に威力が込められた打撃は鍛えられていない肉体ならば筋繊維をたちまち壊死させるものだった。それが果たされていない。

 

 

 疑念は二度目の打撃で証明された。やはり死角から打ち据えた左肩部への一撃が朔に教えてくれた。

握りが甘い。それは鉄撥の感覚に朔自身が馴れていない証左であった。

 

 

 使い慣れぬ武装を用いての殺害が何らかの齟齬を生み出すのは致し方のない事である。殊更、七夜朔は殺人鬼なのだ。

 

 

 形式上、退魔師という肩書きを持ち、数々の化物どもを滅ぼしてきた朔であったが、それらは主に骨喰を用いての事。

 

 

 数え切れぬ呪詛と渦巻く妄執によって鍛造された骨喰は化物を殺すに相応しい物品である。

 

 

 鬼は殺す。それは納めた武によるものではなく、朔が鬼だからである。

 

 

 積み上げられた自信ではなく、綿密な事実でもって朔は彼我の戦力差を憶測し、志貴が殺傷可能な相手である事を結論付ける。

 

 

 夕闇に炙られた廃工場の中に、影が生じている。それは立ち竦む志貴の姿に他ならない。天井を覆う鉄骨に混じり、影さえ落とさぬ身動きによって朔は光さえも騙す。骨喰は朔を子獅子と例えはしたが、実態はそれに近く、また程遠い。

 

 

 契約により感覚共有を果たしている両者ではあったが、ある一点を除いては朔の統制が不可能である骨喰の見解を正解と看做すにはあまりに愚かだろう。

 

 

 鬼は鬼だ。ならば人間を殺すのは鬼しかない。たかが骨喰如きが朔を手のひらのうちに収めようなど、不可能に近い事だ。

 

 

 故に今この時、もしこのままの状況が続くならば、朔は志貴を殺傷せしめようと結論ではなく、確信でもって決定した。

 

 

 もとより対象は混血。どこに遠慮をする必要があるのだろう。

 

 

「――――――」

 

 

 だが、眼下に広がる空間を視界に収め、朔の視界に映る志貴の姿を確認した時、朔は第六感めいた直感でもって何かしらの変化を知った。

 

 

 時として追い詰められた窮鼠は猫を噛む。命の危機に晒された弱者が思わぬしっぺ返しを果たす事は道理としてよくある事。

 

 

 しかし、だからなんだと言うのだろう。

 

 

 短慮ではなく、すでに結論とした現われた結果が朔の魔眼に射影された。

 

 

 □□□

 

 

 ――――朔の視界に雲霞が生み出される。

 

 

 淨眼と呼ばれる朔の魔眼は、魔眼単体としては珍しくない超能力だった。虹彩の色合いによって定まるレベルにおいても蒼色でしかない淨眼は他者の運命へと介入も出来ぬ代物ではなく、言葉を選ばぬならば弱いと形容してもよい。

 

 

 しかし、故刀崎梟が呼び寄せたとある台密の破戒僧が行った調査により、彼が幼少期に対面した極限状態において編み出した魔眼は、すでにその時には発現されていた起源と深く関わるものだと重く吐き捨てたという。

 

 

 ――――魔眼、淨眼。

 

 

 淨眼の定義は見えぬものを可視化させる能力である。

 

 

 かつて七夜当主である七夜黄理は己に発現した淨眼によって人の思念を視認していたが、淨眼が映し出すものは物体に条件を縛られない。寧ろ淨眼の能力はもっと精神的な、あるいは霊的なものに発揮される。通常、そういうものは常人では気付く事さえ出来ないチャンネルに存在している。それを視界に可視させる能力こそ淨眼の能力たる由縁だった。

 

 

 故に淨眼の強度によれば呪術の発動すら視認可能とするものさえあり、更にそれは魔術師が術理として発動させた魔眼としてではなく、超能力としてすでに持っている天然の魔眼は魔術師が思いもよらぬもの場所まで到達する。

 

 

 そして、七夜朔の淨眼もまた余人には見えぬ世界を映し出す。

 

 

 彼の魔眼能力を知った破戒僧はひとつ意味深に頷き、言葉もなく消え去り、いつかの再会を言葉にしたという。

 

 

「こやつは最早手に負えぬ。そして、この身にも負えぬが、いずれを心待ちにしていよう」

 

 

 その破戒僧が診断した結果、朔が映すものは外界干渉意識の可視化と呼ばれる途方もない代物だった。

 

 

 人は常に意識をする。

 

 

 それは無意識の範疇に留まらず、肉体と言う内界から外部にあたる外界の情報を取得している。五感を始めとするもの、或いは第六感と呼べるもの、そして自ら意識したポイントを注視してその情報を視覚乃至聴覚によって会得する過程に意識は否応なく作動されなければならない。外界から切り離された人はそのようにして己を外界に接触させ、世界に所属するのだ。

 

 

 朔の魔眼はそれを靄として映し出す能力だった。

 

 

 例えば、人が注意して意識する身近な空間をパーソナルエリアと呼ぶが、朔の淨眼はそれを靄の濃霧、そして範囲によって己の視界に可視化させるのである。

 

 

 これによって朔は対象の意識が薄い場所から襲撃をかけ、容易に暗殺を果たす事が出来であり、対象がどこを見ているか、対象がどれほどの範囲まで聴覚で拾っているか、あるいは臭いとして嗅いでいるか、それらを複合させて位置を確認できるのだった。

 

 

 七夜朔はこの魔眼を用いて幾つもの暗殺を行い、逃亡し隠れたものを虐殺してきた。彼に淨眼が靄の視認を果たせば追跡は容易く、また隠れても数瞬で発見される。つまり、七夜朔の魔眼とは殺人鬼としてのレゾンデートルを深めるには最適なものだった。

 

 

 この能力を破戒僧は起源によるものだと言い切った。

 

 

 だからこそ、七夜朔の魔眼は未だ彼の末端に過ぎないという事は、未だ誰も知らぬことであった。

 

 

 □□□

 

 

 影が生まれ、斜陽すら消え去った暗闇の廃工場に靄がどこからか漂う。

 

 

 それは遠野志貴の意識範囲に他ならない。七夜朔の淨眼によって浮き彫りにされた志貴の意識は、彼の行動推移さえも視覚によって予測可能なものと化す。どこを見つめているか、どこを確認しているかが暴かれ、晒される。

 

 

 外界干渉意識の可視化とは、それだけで戦闘を掌握せしめる威力を秘める馬鹿げた能力であった。

 

 

 その視界を共有する骨喰もまた靄の景色を見つめられる。そして相変わらず途方もない能力であると、改めて嗤う。

 

 

 たかがチャンネルに新たな情報を加えるだけの能力。他人の運命へと干渉する魅了等に比べれば脅威の足りない単調な能力だと思える。

 

 

 しかし、魔眼の価値は使い手による。

 

 

 人の無意識に潜り込む暗殺者の業は人のものですらない。それが可視化によって晒された外界干渉意識ならば、陰行はより脅威と化す。ならば、当時最強と謳われた七夜黄理の薫陶を受けし朔の陰行が式神レベルの気配遮断を容易く行える事を思えば、それはより潜行を可能とし、対象を気付かぬままに殺傷せしめる術理となっていた。

 

 

 そして、対象の狙いが干渉意識の可視化によって明らかにされている事で、朔は例え背後で銃撃を受けても、その身体能力によってあっけなく回避が可能なのである。

 

 

 魔眼の脅威はその能力のみによるものではない。どれほど使い手が研鑽を重ねたかによって、魔眼の重要度は高められるのだった。

 

 

 自身の担い手である朔の屠殺を、文字通り体験してきた骨喰でさえそれは一笑に出来ぬものである。なまじ人を見下し嘲うであってもそうなのである。今まで朔によって標的に晒された者共の屍の数がそれを証明していると言えるだろう。

 

 

 泣き伏せる子供を無残に殺してきた。

 

 

 勇気ある男を惨たらしい死体へと変貌させた。

 

 

 全ての過去が殺人鬼の道程となり、道筋を舗装する。

 

 

 そして、骨喰は己が狙いが達成間近である事を、忍び笑いを浮かべながら愉悦に悟るのだった。

 

 

「――――、――」

 

 

 志貴の前方に降り立とうとも、靄にさえ触れなければ志貴が朔を確認できる事は極めて困難であり、忍び寄る合間も常に行い続ける気配遮断がそれを増長させて、志貴を殺傷せしめんと鉄撥を握る拳に力を込める。

 

 

 故に、頭部を陥没させる一振りを身近で振り上げようとも、無意識下に忍び寄った朔の最後の一撃を志貴は回避出来ない。

 

 

「――――ぅ」

 

 

 はずだった。

 

 

「――――ぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 

 

 発破とも取れる裂帛の叫びが志貴から解き放たれる。

 

 

 それは、絶体絶命の最中、命を振り絞り生を掴まんとする者が発する執念にも似た大絶叫だった。

 

 

 僅かな接触。強かに叩きつけられるはずだった鉄撥の衝撃が、衝撃と化して志貴の頭部を貫き破壊する刹那の段階。正しく一呼吸もなく、瞬きすらも出来ぬ時間という観念の入り込む余地さえない合間に志貴が首をずらし、強引に鉄撥の無慈悲な一撃をいなした。

 

 

 けれどいなした事により衝撃を持て余した鉄撥が呻りを挙げて、志貴の顔面に迫る。志貴はそれを正確に認識する事さえ出来ぬまま、全力で顔をそらした。無理な駆動に首が痛む。しかし、全身が熱っぽい痛みに晒された今、首の痛みなど望外の範疇にあった。

 

 

 甲高い。けれど、軽い音がした。 

 

 

 見やれば、志貴の鼻にかかっていた眼鏡が鉄撥に弾き飛ばされていた。志貴はそれの行方を目にする間もなく、歯を噛み砕かんばかりに食い縛り、ぎろりと朔をねめつけた。

 

 

 ――――約束よ、志貴。

 

 

 志貴の脳裏に、いつかの草原が過ぎる。

 

 

 ――――どうしても手に負えないと判断した時だけ眼鏡を外して。

 

 

 草原で交わした先生との言葉を忘れない。

 

 

 けど。

 

 

 嗚呼。あれはいつの日のことだっただろう。

 

 

 ――――自分でよく考えて力を行使しなさい。

 

 

 大事にしなさいと手渡された眼鏡を、自分は宝物のように扱っていた。それほどまでに先生の言葉は志貴の胸深くに落とされ、まるで戒律のように志貴は彼女の言葉を守り続けてきた。

 

 

 ――――けど、先生。

 

 

 眼鏡が消えたことで、レンズ越しに見えた景色が一変する。

 

 

 そこは志貴にとっては呪いとも言うべき世界が広がっていた。

 

 

 線。

 

 

 黒い線が見える。 

 

 

 あちらこちら、出鱈目に引かれた線が世界を縦横無尽に蹂躙している。壁に、物に、地面に、七夜朔にさえ。

 

 

 それは世界の綻び。物の切れ目。

 

 

 かつて志貴が逃げ出した、忌まわしき世界の真実。

 

 

 ――――けれど、先生!!

 

 

 激情のままに志貴は己が右手に握り締められた鉄撥を揮う。

 

 

 武術の手並みを習得していないはずの肉体は、思いもよらぬ速さで小さな鉄塊を抜き放った。憔悴と緊張によって疲れさえ滲む身体、痛みによじれそうな意識。それらを飲み込んで、志貴の身体はひとつの意志となり、朔が握り締めていた黒い線に潜り込んでいく。

 

 

『ひひ、ひ……』

 

 

 どこから骨喰の凄絶な笑い声が聞こえた。

 

 

 それは、あるいは驚愕にも似た感情ゆえだったかもしれない。

 

 

 中身まで鉄が詰まり、見た目のままに強固な作りなはずの鉄撥だった。

 

 

 しかし、黒い線になぞられた志貴の鉄撥は固い感触を与えず、血肉に指を埋めたような気味の悪い感触だけが伝わってきた。

 

 

 ――――そして、一線。

 

 

 切り裂かれた鉄撥の先端が宙に舞う。

 

 

 放物線さえ描いてしまいそうな鉄撥の軽やかな軌跡は、うって変わって両者の心持とは掛け離れた光景であったといえる。

 

 

 ――――どうしても、……譲れないんだよ!!

 

 

 血に塗れる弓塚さつき。志貴は彼女に誓ったのだ。

 

 

 虚しいまでに空洞の広がる胸の中。志貴の悲鳴にも似た決死の叫びは、誰の耳に届かず、虚無へと帰するばかり。達成感はない。一命を取りとめたと言うのに、あるのはあっけないまでの静寂と、何か大事なものを壊してしまったような悲しみ。荒い息に、気を抜けば膝から落ちてしまいそうな感覚に晒される。

 

 

 廃工場の硬いコンクリートに、切られた鉄撥の残骸が鈍い音を響かせ落ちる。余韻も残さずに消えたそれは、まるで何かの終焉さえも表してしまいそうな気がした。

 

 

 ともすれば、志貴の眦には涙が溜まる。

 

 

 どうしようもないほど、泣きたくなった。

 

 

「―。―――――」

 

 

 そして、そんな志貴の姿を。

 

 

 朔は静かな瞳で見つめていた。

 


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