七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

53 / 62
夕刻は時の境目である。
境界線に佇み、片方とちらにも属さない確立された曖昧だ。
模糊なる時刻は夜よりも恐ろしい者達の出現を予感させる。
だからこそ斜陽は美しく、また破滅の予兆を匂わせる。
汝、心せよ。
夕暮れ時は魔物のあぎとが開いたと思うがいい。



第三話 甘い猛毒

 斜陽の光が最も明るくなるのは地平線の彼方にその姿が消え去る瞬間にこそある。

 

 

 末期の命が最後の力を振り絞って燃え上がるように、光り輝くものがいったん失せるその時にこそ、光源は己の存在を誇示するように散光するのである。

 

 

 日暮れの気配に鴉たちが泣いていた。

 

 

 群から逸れた鴉を探しているか、車座に狡猾な算段を企てているのか、鴉の鳴き声とはそれだけで不吉である。そこに明確な意味合いはなかろうともだ。

 

 

 茜色の空だった。日が傾き少し肌寒くなろうとしている。風は穏やかだが秋に入り冬の兆しが見える今日この頃は、帰りを急ぐ人たちが道行きを歩き、互いにすれ違っている。心なし早い歩みの胸中に、町を騒がす連続殺人事件の顛末が翳としてかかっているのは、誰も決して否めないだろう。先日もまた、近隣の高校に所属する女子高生が行方不明となり、すでに報道されているのである。無理からぬ事だろう。夕闇の気配とは、ある意味で真夜中の暗闇よりも不安を冗長させるものなのだから。

 

 

「……」

 

 

 日本での拠点としているアパートの一室で、シエルは鴉の鳴き声を耳にしながら、三咲町の人々に想いを馳せていた。

 

 

 シエルは人の心の機敏がよくわかる人間だった。目に見えないからこその恐怖を誰よりも知っていると言ってもいい。だからこそ三咲町の人々が足早に帰宅の途へと付き、家の中に閉じこもっていくのは好都合だった。

 

 

 眼前で眠りにつく弓塚さつきの治癒を行っているならば、それは尚更の事であった。

 

 

 人知れず、シエルは溜め息をつく。

 

 

 それは落胆によるものではなく、疲労ゆえであった。

 

 

 現在毛布を払い、血色の失せた肌を顕に全身を晒している状態であるさつきの容態が安定の兆しを見せたのは、明け方の頃である。治療開始を先日の夕刻とするならば、彼女が命の危機に瀕しておおよそ一日近くの時間が経過しているが、予断を許さぬ状況の中、常につかず離れずにいたシエルが志貴を伴いメシアンへと外出できたのは、彼女に行っていた治癒魔術による肉体復元が定着したからに他ならない。

 

 

 心臓を奪われた被害者である彼女を救うために行った事とは言え、さつきの適応力には目を見張った。本来であるならば治癒魔術に特化せず、またある事情により本人自身が治癒を必要としていないシエルが魔術礼装もなく、またろくな現代医療器具を準備していない状態であったにも関わらず、彼女が治癒魔術によって一命を留めたのはさつき自身によるものだった。

 

 

 浸透する。彼女の治癒魔術に対する適合力は人として稀に見る高さであり、そう形容する他ない。砂漠が雨水を吸収するように、彼女の肉体はシエルの施した魔術に抵抗する事無く、また治癒魔術の効果の程は期待以上のものであった。

 

 

 だが、これでよかったと安堵するには、シエルはあまりに魔を知りすぎていた。

 

 

「……何故でしょうね」

 

 

 シエルは一人、思考の渦の中に潜行していく。

 

 

 意味の無いことなどこの世には存在しないように、全ては必定に連なっている。

 

 

 さつきの怪我が通常のものであり、潜在的ポテンシャルの一言で治癒を語り尽くせるならば、問題はなかった。

 

 

 しかし、彼女がこのようになった全ての原因は吸血鬼にある。シエルは脳裏で可能性をピックアップしていく。

 

 

 心臓を奪う際の接触により彼女の中に吸血鬼の因子が入り込んだ可能性。怨敵の宿主が元々そのような能力を有していた可能性。そして彼女の家系そのものが魔的な存在に対し何らかの関連性がある。荒唐無稽に思えるものであっても、可能性があるならば検討するには十分だ。

 

 

 だが、調べた結果彼女の肉体には欠陥が見られず、そして魔的違和感は存在していない。また彼女の属する家系に於いてもそれは同じだった。親族を捜査したが調査結果はオールグリーン。

 

 

 では、一体何故。シエルの疑問が深まっていく。

 

 

 あるいは、これこそが運命と呼ばれるものだろうか?

 

 

「……」

 

 

 もし彼女が死者化乃至吸血鬼化を果たしているのならば、今のうちに首を落とすべきだ。目覚めた後に病症が発覚したならば、何かと手間である。面倒を鑑みれば今の時点で掃滅を果たす事こそ神の代行者として、そして埋葬機関としての使命の行使を成すべきだろう。感情を押し潰し、余計な思考も罪悪もなく手を下す事こそが最善だろう。

 

 

 シエルは、じっと己の手を見つめた。表面の皮膚だけ見るならば綺麗な手だ。しかし、その掌には染み込んだ血肉の香りがこびりついている。例え付着せずとも、それらはの幻影は罪の証としてシエルを打ち据える。幾度もくり返した血の虐殺の果てに今のシエルがいると思うならば、何をためらう必要があるのだろうか。

 

 

 だが、どうにもそんな気になれない。

 

 

 情が移った、とは思わない。怖気ついた、などありえない。

 

 

「……ああ、私が言っていたんですよね」

 

 

 ふと、胸に去来するものがあった。

 

 

「お節介、ですか」

 

 

 戯れのように施した彼らにとっての奇跡が、一体どこにたどり着くのか見てみたいのかもしれない。遠野志貴と弓塚さつき。この二人の関係性の道標を。

 

 

 そう思うと、どこかすんなりと受け入れられた。

 

 

 今更、そんな人間らしい感情で動いていると知れば、あの埋葬機関長がどんな嘲笑を浮かべるだろう。予想するだけで顔に苦笑が張り付く。

 

 

 けれど、今はそれで構わない。揺り篭にも似た安らかな日々に彩られた彼らに手を貸したのは自分だ。ならば、その最後まで付き合わなければならない。例え、それがどんな結末を迎えようとも。

 

 

 改めてシエルはさつきを見た。栗色の髪を床に広げた女の子。産まれたままの姿にある彼女は少女特有の柔らかさと、これから大人になろうと形成される脂肪を載せた可愛らしい少女であった。シエルも女としては自信を持っているが、彼女の女らしさとさつきのそれは種類が異なっている。人好きされそうな顔つきは笑えば愛らしく、小ぶりだが形の良い乳房はシエルも頷いてしまうような魅力を持っていた。学校で彼女が密かな人気をもっているのも致し方のない事だろう。シエルの調査によれば、数名の男子生徒が彼女に恋慕の念を抱いていたが、分からなくもない。しかし彼女の心はすでに決まっているのである。

 

 

「だから、遠野くん。死んではいけませんよ」

 

 

 先ほどまで逢瀬を交わしていた遠野志貴を脳裏に浮かべる。

 

 

 吸血鬼討伐に勇んだ少年。復讐と怒りに囚われた男。無力な人間が吸血鬼に立ち向かうなど御伽噺でもあるまい。現実は幻想のように、あるいは理想のように甘くはないのだ。本当ならば、彼を向かわせるべきではないだろう。暗示等で記憶を改竄してしまえば、それで終わってしまう話なのだから。

 

 

 だが、シエルは彼を向かわせてしまった。必死な表情でシエルに頼みつく気概に当てられたわけでない。だからと言って死なせていいと思ったわけではない。

 

 

「遠野、ですか……」

 

 

 感慨も深く、あるいは嘆きのようにシエルは彼を想う。

 

 

 シエルの憶測が確かならば、志貴には吸血鬼に対する切り札が存在するはずだ。それを彼自身は知らない。いや、思い当たっていない。しかし、彼がどれほど否定したとしても、それはあるはずだ。血というのは魂と同等であり、本人さえも抗えぬサガを秘めているのだ。それに彼は苦しむかもしれない。痛みとともに涙を流すかもしれない。

 

 

 どちらにしろ、自ら殺戮の場に飛び込んだのである。自衛の手段が発現しなければ、早々に死んでしまうだろう。全ては彼次第だろう。

 

 

 それに、もう一人の人物がいるならば多少の苦難は問題ないはずだ。

 

 

「まあ、取り敢えずは問題ないでしょう」

 

 

 ――――七夜朔。

 

 

 あれは獣のようでありながら、その実態は機械のそれだ。目的を最優先とするように誘導されている。間近でその戦法を知り、そして調査を経たシエルだからこそわかるが、七夜という血のもとに動く彼は確かに七夜だった。その有様にシエルは背筋に薄ら寒いものが走ったものだ。

 

 

 ――――骨喰を握りしめ、全方位から襲い来る混沌の獣たちに自ら突撃する殺人鬼。

 

 

 命知らずではない。あれは最早ひとつの機能だ。

 

 

 化物を殺すために動く、ただのシステム。

 

 

 だからこそ、七夜朔がいれば遠野志貴の命は最低限保障されるだろう。

 

 

 退魔と志貴の制約、そして骨喰の呪縛によって。

 

 

「さて、では今出来ることをしましょうか」

 

 

 これ以上の思考は最早マッチポンプだろう。可能性を通り越したこじ付けに近い。ならば思考を放棄し、出来る限りの事をするべきだ。

 

 

「――――Amen」

 

 

 口元で呟かれたのは魔術のトリガーワード。さつきの胸へと翳した掌が淡く輝く。魔術行使によって発生する燐光は淡い光をたたえながら、神秘を発現する。神の御業ではなく、魔道の力によって。神へと捧げる言葉で魔の理法が行使されるなど、どんな皮肉か。

 

 

 しかし、それでもシエルは祈らずにはいられない。

 

 

 それが咎を負う彼女に許された罪滅ぼし。

 

 

 当初、己の目的かもしれなかった少年に祈りの言葉を捧げるのは無粋だろう。

 

 

 夕焼けの向こう、そこから這い寄る夜の巷に飛び込んだ少年と、命をつないだ少女のために。

 

 

 □□□

 

 

 待ち合わせ場所に指定されたのは町外れの廃工場だった。空は夕暮れに藍が混じり始めていた。これから夜が訪れようとすると言うのに、このような場所に訪れるのは志貴としても遠慮したいところであったが、彼は拒絶できるような立場にある訳でもなく、また代案を持ち出せるほどの考慮もなかったために、致し方なく骨喰の言に従ったのである。

 

 

 錆びた匂いが鼻をつく。くみ上げられた鉄骨に太い鎖がぶら下がり、何に使うかもわからない鉄塊、赤茶色に変色したU字溝や鉄くずたち。近隣に同じような工場群を臨むそこはどれほど放置されたのか、外壁を覆う塗炭の表面が解けて濁る雫を落下させていた。それがぴちょんと時折垂れて人の気配が遠いこの工場内に響き渡る。しかしそれは鼠の足音と疑るほどささやかなもので、だからこそここは町から物理的に隔離された空間であると思わせる。

 

 

 そんな場所で遠野志貴と七夜朔は対峙していた。

 

 

「―――、―」

 

 

 相変わらず、七夜朔は目の前にいるはずなのにいないかのような印象だった。瞬きをしてしまえば、幻なのではなかったのかと疑うほど気配がない。聞こえない呼吸音、静謐な佇まい。そして蒼い眼光。

 

 

「……っ」

 

 

 その瞳に晒されるだけで、志貴は息を呑んだ。気付けばいつの間にか体が少し強ばっていた。

 

 

 人が放つ輝きではない、神獣か魔獣の瞳。こちらの全てを見透かし、暴き出すような力を秘めた眼差しは志貴を見つめているわけでもなく、茫洋と世界を映し出している。そんな眼球だ。

 

 

 その持ち主たる七夜朔と顔を合わせるのは今日だけで二度目であるは、志貴は未だ慣れを抱いていなかった。彼がいるだけで自らの場違いを思い知らされる。

 

 

 しかし、志貴は止まらないと決めたのだ。それは弓塚さつきの命が助かったと確認した事により、更に強くなっている。例え吹けば消える塵芥のような決意であろうとも、志貴は目を背けないと決めたのだから。

 

 

『ひひ、ひ……』

 

 

 寂寞たる空間に、歪な声音が軋む。

 

 

 さあ、始まる。

 

 

『こコは、よく来たと言ウべきかァ? どウだイ調子の方は』

 

 

「……別に、問題ない」

 

 

『さよウか、ひひ』

 

 

 志貴の声に、声音の正体である妖刀骨喰は朔の掌の中に握りしめられながら嗤った。邪笑、嘲笑、侮蔑。人を嘲るありとあらゆる感情に愉悦を上乗せたような嗤い声。

 

 

 慣れる事がないというのであるのならば、それは骨喰にこそある。喋る刀という珍妙極まりない存在でありながら、その悪性は一介の武装に収まるものではない。。言葉を聞くだけで鳥肌が毛羽立ち、自然と目を背けたくなる。鞘の中に治められた刀剣として扱うにしても、あまりに邪悪なその有様は世界中に蔓延る負がひとつの塊と化したとさえ受け取っていいだろう

 

 

 シエルはそれを指して最も注意すべき相手だと警告した。七夜朔を支配する魔物だと。

 

 

 それが本当にそうなのか、志貴には判別がつかない。ただ、七夜朔の佇まいを見れば頷ける事であった。我意もなく、また気配も見えない朔は人形そのもののようであり、邪悪たる骨喰が操っていると理解するのは難しくない。催眠か、それとも従属によるものか。シエルの言う所の魔術に対する知識が皆無である志貴には、一般的に知られている催眠術の類によるものかと思っているが、どちらにせよ今の段階ではその正体がわからない。

 

 

 ならば最大限の警戒を骨喰に払わなければならない。もしかしたら志貴さえも七夜朔のようになるのかも知れないのだから。

 

 

『ンで、だ。先刻言った通り、手前に殺す術理ッて奴を叩きこンでやる。俺らに教わるなンざ、アっちゃアならねエ話だが、なァ』

 

 

「……ああ。けど、実際何をするんだ?」

 

 

 脳裏にふと、シエルの言葉が蘇ったが志貴はそれを振り払った。確かにこの二対に全てを任せればいいだけの話かも知れない。

 

 

 志貴は未だに納得していなかった。だからこそあの化物に対抗しうる手段を得る。

 

 

 これが発覚すればシエルは怒るだろうか。無謀極まりないと罵るだろうか。もしかしたら、やはりと思って志貴を無理矢理押し留めるかもしれない。

 

 

 だが志貴はそれで構わない。それで仇を討てるならば。

 

 

 その為に今、己はこの殺人鬼と妖刀に対峙しているのだから。

 

 

『ひひ、それはダな――――』

 

 

 と、渾身の覚悟を決めていた志貴の目前で、七夜朔がいきなり骨喰をあらぬ方向に放り投げた。というかぶち込んだ。

 

 

 親の敵といわんばかりに投げられた骨喰は叩きつけたと形容しても良い速度で工場の鉄鋼にぶち当たり、どんがらがっしゃんと冗談にしか聞こえない騒音を盛大に打ち鳴らした。志貴からは影となって骨喰はあっという間に見えなくなってしまった。

 

 

「……は?」

 

 

 いきなりの事に志貴呆然。

 

 

 右腕の力だけで投げた事で朔は先ほどと変わらぬ体勢のまま微動だにしていない。しかし、右手に骨喰がないのでビフォーアフターは明らかである。そして骨喰が消えうせた事で志貴は不思議と嫌悪感もなく七夜朔を直視できるようになったのだが、なんだろうこの微妙な空気。

 

 

『ひひ、ひ……こイつぁ、ひでエよ』

 

 

 どこか向こうのほうから骨喰の声が聞こえてくる。先ほどと変わらぬ皮肉気な声質のはず、なのだが雑というかぞんざい極まりない扱いに志貴は声の中に哀愁さえ感じた。

 

 

 そう言えば、以前も朔は骨喰を残念な感じで扱っていたものだが、本当に支配関係にあるのだろうか。

 

 

 どちらにせよ、戸惑い困惑する志貴であった。

 

 

「――、――」

 

 

「ええ、と……」

 

 

『手前にゃちイとばかし朔とやり合ってもらウ』

 

 

「……あ、うん」

 

 

 気まずい雰囲気をなかったかのように話を進める骨喰だった。これが彼らの通常なのだろうか、と内心思った志貴であるが、内容の不穏当な気配だけは聞き逃せなかった。

 

 

「って、やり合うってどういう事だ?」

 

 

『何、簡単ナ事。手前と朔が殺し合ウ』

 

 

「……は?」

 

 

 あっけなく骨喰は言った。

 

 

『どっちみち、手前が踏み込ンだのは修羅の巷。斬っタはったが常ノ世よ。だから朔とやり合って馴レろ』

 

 

「いや、あんた何言って――――っ」

 

 

『何、ちゃんと手加減はサせて殺してヤる。はなからきっチり殺すワけじゃなし。じャれる程度に、な』

 

 

「―――――。―」

 

 

『それとも嫌、かイ?』

 

 

 廃工場の中に骨喰の言葉が響く。

 

 

 骨喰の言葉が道理に適っている事実は、乱暴であるが志貴にも分かっている。これから化物たちと戦わなければならないのだから、少しでも戦うという空気を味わう必要がある。だが、いざそれを目の前に出されると躊躇してしまう。何せ相手は殺人鬼。志貴が出合った中で恐らく一番外れた存在である。それが殺しにかかってくるというのだ。無理からぬ事ではあろう。

 

 

『ひひ……言っただろウ? 手加減してヤるっつってなァ。――――朔』

 

 

 暗闇へと消えた骨喰からの呼びかけに、朔はおもむろに着流しの懐へと隻腕を突っ込み、何かを志貴に投擲した。

 

 

 迫り来る何かは先ほど骨喰が投げられた勢いに比べれば遥かに遅かったが、思わず顔を庇うために翳した志貴の手の中へと小気味よい音をたてて収まった。

 

 

「鉄の……棒?」

 

 

 それは棒状に象られた鉄製の何かだった。掌よりも長く、前腕よりも短い鉄の棒。見ようによっては太鼓を打つ撥のようにも、あるいは粉を摩り下ろす擂り粉木のようにも見えなくはない。ただ志貴にとってそれはそのどれもが当てはまり、どれもが当てはまらなさそうな鉄の棒だった。

 

 

『生憎、朔にゃ手加減なンて出来やしねエからよ。こイつを使って調節しなくチゃならねエ』

 

 

 見れば、七夜朔もまたその右手に同種の鉄撥を握っていた。

 

 

『こイつは先代ノ七夜当主が使ってたもンだ。切れ味も糞もねエ、たダの棒よ。だが先代の七夜黄理はそイつで人の解体してたけどな。それを俺が回収したノよ』

 

 

「……先代の七夜当主?」

 

 

『……手前が気ニすることジゃねエ。こっちノ話だ』

 

 

 ――――七夜、黄理。

 

 

 またも、七夜の名。そしてその名の人物もまた、殺しを行っていたと骨喰は言う。

 

 

 志貴は改めて手の中にある鉄撥を見る。それは掌の中で鈍く輝いており、冷たく物々しい。骨喰の言を信じるならば、これは人殺しの道具だと言う。志貴の背中に禁忌めいた寒気が走るが、それを抑えて志貴は撥を握りしめた。実感がないというのはある。その形態は殴打するものであり、志貴にはそれが人を殺めるという現実感を持っていない気がした。

 

 

 ――――ふと、志貴もまた七夜の名がつくものを持っていたと思い当たる。

 

 

 今もポケットの中にしまってあるナイフの銘は、七夜である。

 

 

 もしかしたら、あのナイフは七夜という存在に縁が在るものなのかも知れない。ならば、何故今は亡き父はそれを自分に渡すよう遺言を残したのだろうか。そしてどうしてそのようなものが遠野にあったのか。

 

 

 調べたほうがいいのかもしれない。――――もし家に帰れたならば。

 

 

 そう言えば、昨日は家に帰ることが出来なかったなと、志貴はこの時場違いな感慨を浮かべた。

 

 

 未だ馴れる事のない実家の豪邸。そこにいる志貴の家族と昨日は会うことが出来なかった。今更のように、志貴は今の今までそれらの事を忘れていた。折角戻ってきたのに、それを自分からかなぐり捨てるような真似をするとは、志貴自身思いもしなかった。

 

 

 だが、それは同時にそれほどまでに志貴が追い込まれていた事実を曝け出していた。動物の帰省本能は忠実に働くものだが、それは危機意識が高まれば高まるほど沸騰する興奮によって掻き消されるが、それは一瞬の事である。通常、苦難とは断続して続くものではないのだ。しかし、それがまともに働いていない意味はつまるところ、長い間危機意識が高まっているからに他ならない。

 

 

 ふと、志貴はあの家に帰りたくなった。どこか他人の住まいのように感じるあの家に。

 

 

 それは一瞬の間隙だった。意識が休まる間もなく高ぶり続けた結果に訪れた中だるみとも言うべきそれは、思いのほか強いものだったが。――――じゃりという音がわざとらしく聞こえ、志貴は現実に引き戻された。

 

 

 慌てて志貴は朔と対峙する。不思議と、今度は真正面からその姿を見る事が出来た。藍色の着流し、左腕はなく風に揺らめく柳のように袖が垂れており、垣間見える長身痩躯の肉体はワイヤーで締め付けられたように鍛えられている。そしてざんばらに伸ばされた黒髪から覗く、蒼い蒼い空のような瞳。

 

 

 その姿にはこれから殴りあうような気負いがなかった。志貴が知れず緊張に体を強ばらせている最中、相手はさして変わらない様子で俯き加減のままに屹立している。

 

 

 志貴はその姿の一足一動を見逃さないよう、目を凝らして身構えた。武道を習得していない志貴にはこれから戦うという体勢を修めてはいなかったが、それでも自然と腰は落とされた。そして手元に握られた鉄撥の構えはこれでよいのか、と右手に意識が傾いた。――――瞬間に、七夜朔が志貴の目前から掻き消え、腹部が爆発したような衝撃が襲い掛かった。

 

 

「が、はっ……!!!!」

 

 

 肺から強制的に息が吐き出された。

 

 

 志貴の意識が僅かにぶれた瞬間。視界から外れた朔は膝下まで潜り込み、地を這う蟲のように低い体勢から志貴へと近づき、過ぎ去り様に鉄撥を叩きつけたのである。行ったのはただの殴打だった。だが、終生七夜黄理が愛用した暗器と限界まで練り上げられた朔の武技によって生じた打撃は、まともに受ければ肉を破って骨まで砕き振り抜く一撃と化していたのだった。

 

 

 〝死ぬほど痛い……っ!!?〟

 

 

 加減したとは思えぬ一撃に雑音交じりの悪態が内心零れる。

 

 

 無論、あくまで朔は手加減している。その証拠に志貴は殺されていない。もし朔が殺そうと全力で動いていたならば、志貴の顔面は下顎から上が爆ぜ、腹部から入り込んだ右腕が瞬時に心臓を掠め取っていた。人の術利ではなく、殺人鬼の術利にかかれば志貴程度訳もなく死んでいる。それでも志貴が未だ生き永らえているのは、確かに朔が殺さなかっただけである。とは言え、彼が与えた痛みは対象をショック死させる類のものであった。

 

 

 振り被った金属バットで打ち据えられたような鈍痛が志貴の鳩尾下の腹筋に発生し、背中まで貫く衝撃が爆発した。内蔵が破裂したような激痛に体が意志から離れてよじれる。自然と腕は腹を押さえつけていた。あまりの痛みに声すらあげることが出来ない。脳が危険信号を点滅させている。志貴は呻いて歯を食い縛り胃液が遡るのを我慢しながら、目前を見た。

 

 

 当然、そこに朔はいない。辺りにも見えない。高速で擦れ違ったままに魔眼の導きへと従い、朔は今廃工場の背景へと溶け込んでいた。

 

 

『ひひ、何しテる? 次が来ンぜぇ。さっさト体勢戻さなケれゃおっちんじまウ』

 

 

 そんな志貴を出来の悪い三文芝居を見据えたゆえの罵声の如く、骨喰の声音が痛みに悶絶する志貴の耳に入り込んできた。

 

 

 鉄撥を握りしめた時、すでに始まっていた。

 

 

 それを卑怯だと、志貴は思わなかった。以前骨喰の言の正当性が思い浮かばれたのだ。

 

 

〝手前は目の前に仇がいて、今からぶち殺してやンぞ、とでも言うつもりかァ?〟

 

 

 喧嘩に、戦争に、殺し合いに合図はない。倒さなければならない敵と相対していると言うのに合図を待つのは愚劣の限りだ。もしそのような示し合わせがあるのならば、それはスポーツに成り下がる。

 

 

 志貴がやろうとしているのは、そんな甘い世界の話ではない。もっとおぞましく、もっと凄まじい悪鬼羅刹たちが跋扈する世界の相対である。

 

 

 ならば、合図は必要ではない。求める事こそ望外だ。敵を見据えた瞬間こそ勝負の時。あちらを下し、こちらが勝利の拳を突き上げ滅ぼさなければならない。

 

 

「――――っく!」

 

 

 震える指先に鞭を打ち、鉄撥を堅く握りしめる。その詰まった鉄の感触は痛みにより頼りげなく朦朧とする意識を落ち着かせるに値するものだった。

 

 

 未だ痛む腹に顔を歪ませながら、それでも志貴は顔を上げて、傾いた眼鏡を持ち上げながら体勢を戻す。

 

 

「―。―――」

 

 

 目を、見張れ。耳を、澄ませろ。匂いの変動を嗅げ。地面の揺れに触れろ。空気の有様を味わえ。

 

 

 どこからか必ず襲撃するであろう朔を迎撃するために。

 

 

 最大限の警戒を稼動させろ、生涯初の戦いのために。

 

 

『さアて、少しハ対抗できるやツをものにしねエとなァ。死ぬホど、痛えだろウが、な』

 

 

 工場の隅で鉄くずに埋もれながら、骨喰は金属が裂けるような声で嗤った。

 

 

 骨喰に志貴を殺すつもりはない。しかし、死んでしまっても構わないという思惑もあった。そのために人の訪れない場所を選び、刀崎を遣って人払いまで済ませてある。志貴がここで死ねばすぐさま戦争が始まるだろう。遠野の長兄という価値は計り知れないものがある。多くの憤怒と悲嘆を消費して始まる戦争の予感は、骨喰にはひとつの甘美だった。

 

 

 西日が消える刹那が訪れ、獰猛な化物たちが目を覚ます夜が始まろうとしていた。

 

 

 ――――どこかで、鴉が鳴いた。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。