七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

50 / 62
――――私は愛する人のために。

     自分自身だって破壊できる――――。


第零話 what are you fighting for?

「それで、兄さんは?」

 

 報告に訪れた翡翠の姿に、遠野秋葉は書類を纏める腕を止めた。その口調の端に見えない苛立ちが燻っているのは明確であっため、翡翠は努めて冷静に報告を述べた。

 

「志貴さまからご連絡はありません。また志貴さまの学校に連絡をしたところ、昨日の段階では帰宅の途についたそうです。ですから……」

 

 彼女の視線の先、給仕服を身につける翡翠はどこか所在無さげにしていたが、しかし己の主に伝えるべき事のため、彼女の口調は自然と固くなる。

 

「今のところ、志貴さまの行方は依然として知れません」

 

 感情を宿さぬ物言いは一種相手を不快にさせるものであったかもしれない。だけど、翡翠は給仕であり、秋葉は主だった。これ以外の言など、どこにあるのだろう。

 

 執務室は無意味に広々としていた。室内に人間が三人いても全く問題のない広さを誇り、寧ろどこか寒々としている様にも思える。そしてそれに反するように圧迫感を放つ本棚と重厚な高級机が置かれ、現在秋葉は室内に一つだけ設置された机を使用し書類に目を通していた。これらは秋葉の父が生前から取り寄せたものであり、機能美と見た目のバランスが部屋に置かれ、他の調度品とそぐう様にしてある。ここら辺は生前の父、先代当主遠野槙久の凝り性が発揮されていると言えるだろう。オーダーメイドで取り寄せたそれら一級品は品格すら醸し出し、この部屋、あるいはこの屋敷の主たる人物の才気を遺憾なく発揮させている。

 

 ただ秋葉にとって、この部屋は他人を寄せ付けぬ雰囲気を匂わせていると思われる。余計な飾りなど皆無と言っても良いこの部屋に視覚を楽しませるものは何もない。仕事を行う部屋なのだから、人を寄せ付ける魅了が存在する理由がある必要もないのだろうけれど。

 

「そう、ご友人方からのご連絡は?」

 

「ありません」

 

 簡潔な翡翠の言に、秋葉は溜め息をついた。肺の奥底にたまった鬱憤を吐息にして露出させたような溜め息だった。

 

 昨日から秋葉の兄、遠野志貴の行方が知れない。

 

 前日の朝、遠野邸を出てから一度も志貴の姿が確認できない。

 

 やはり健康的な問題から学校を休めさせればよかったのか、と秋葉は胸中で呟く。自ら望んで学校に行きたいと言っていた、とは言え病み上がりの身である兄を想えば無理矢理にでも家に閉じ込めておけばよかった。兄は嫌がるだろうが、それでも秋葉にとっては譲れぬ事だった。不安なのだ。ただでさえ体の弱い兄が自分の知れぬ場所で倒れているのではないのかと。

 

 その不安を助長させるように、昨日の夜、兄の学校から連絡が届いた。

 

 その内容が、秋葉の胸の奥を締め付ける。

 

「兄さんの学校が休校。……この件に兄さんは関係しているのかしら。翡翠はどう思う?」

 

「……わかりません。志貴さまの足取りも掴めない今の情況では、私に言えることなど何も……」

 

「そう。……琥珀は?」

 

 振り返りながら秋葉は自身の後方で書類の選考を行っている琥珀に問うた。

 

 目前で佇む翡翠の双子の姉に当たる彼女は今朝から秋葉の仕事を手伝ってもらっている。秋葉が当主の座に就く以前から遠野の仕事に触れている琥珀の手腕は、秋葉の補助として心強い味方であり、だからこそ他の仕事の合間に行われる秋葉の手伝いは琥珀の仕事のうちに組み込まれている。

 

 実に優秀な人間である。

 

 その愉快犯な中身はさて置き。

 

「そうですねえ。私も志貴さんの行方はわかりません。もしかしたらご友人の家に泊まって連絡を忘れたとか、それとも連絡も取れず家にも帰れない状況に巻き込まれたとか。思い浮かぶ事はいろいろあります。……ただ」

 

「ただ?」

 

「もしかしたら、志貴さんが望んで連絡を取っていないという可能性もありますよ?」

 

 秋葉の問い掛けに琥珀は真摯に答えた。

 

 しかし、その内容は秋葉の中に巣くう不安の魔物を押し込める効能を期待できるものではなかった。故に秋葉は眉間に皺を寄せながら琥珀を見つめる。

 

「それは、何故?」

 

「さあ、私にはわかりません。もしかしたらお付き合いしているお方との逢瀬を楽しんでいるのかもしれませんしね」

 

 不安を拭わせるように、琥珀はどこかおどけて言った。

 

 だけどそれは秋葉からすれば柳眉を吊り上げるには充分すぎるものなのは明確だった。

 

「……それに関しては兄さんから直接聞くわ。ええ、もしそれが本当にそうなら良い度胸をしているとしか思えないけれど。詰問といわず、拷問の手段まで問わないわ」

 

 引き付く頬を抑えられず、秋葉の苛立ちに手元の書類に皺が寄った。

 

 もしそれが正解ならばただではおかない。遠野の人間としての自覚が足らないばかりか、妹を心配させといて結果がそれとは笑えない。

 

「――――全く、私の気も知らないで」

 

「……秋葉さま?」

 

 よく聞き取れず、翡翠が問いかけるが「なんでもないわ」と秋葉は切って捨てた。

 

 小さな呟きが思わず吐露されたのは致し方のないことなのかもしれない。ただ家族の心配をすることは、妹の身としては当然の事であり、正当な義務があるのである。

 

 ――――そう。せめて妹としての心配ぐらい、させて欲しい。

 

 それが小さな秋葉の……。

 

「もういいわ、翡翠。兄さんから連絡があれば取り次いで頂戴」

 

 頭(かぶり)を振る。

 

 へたな感傷ほど思考能力を蝕むものはない。それが不安の苛立ちと混ざれば厄介この上ない障害と成り果てるだろう。だからこそ、もうこれ以上過去と現在を繋げる今を慮る事は止める。

 

 掘り進めれば潜り込んだ証に、きっと秋葉を傷つけるアレが浮上するに違いないのだ。自ら望んでその姿を望む必要はない。

 

 

 望む資格さえ、秋葉にないのだから。

 

 

「はい、かしこまりました。秋葉さま」

 

 翡翠は静々と頭を下げ、「失礼しました」と部屋を出て行く。

 

 その姿を見送った後、秋葉は何となく執務室の窓から外を見やった。

 

 早朝を少し過ぎて、遠野の庭は緩やかな光が差し込まれている。日差しに照らされた緑と空は清澄な雰囲気を湛え、仕事さえなければそれを味わうのも良いかも知れない。ここのところ天気が良いのも関係しているだろう。湿り気さえ何処かへと消え去った空気は程よく乾燥していて、居心地が良い。

 

 ただ、それに反して秋葉の胸中は厚い靄に覆われている。

 

 兄が帰ってこず、一夜明けた。連絡もつかず、行方も定かではない。しかも昨日、兄の通う学校が休校届けが遠野の家にも届いた。その原因は学校の生徒が昨今三咲町を騒がす連続殺人事件、俗称吸血鬼事件の犠牲者になったからだと言う。

 

 そういえば、と秋葉は琥珀に聞いた。

 

「琥珀」

 

「はい、なんでしょうか秋葉さま?」

 

「今回行方不明になった人の名前って確か……」

 

「はい。一昨日志貴さんに電話をして下さったお方です。名前は、弓塚さつきさんでした」

 

「…………っ」

 

 頭が痛んだ。脳の中に錆びた針が刺さったような鋭い痛みだった。

 

「そう……そうだったわね」

 

 手元に握られた書類の一枚を机に置く。意識しなければ書類の案件を読み込む暇すらなく、それをぐしゃぐしゃにしてしまいそうだった。

 

 そして、肉体の底から生まれる不安の揺らぎが的中した事を、秋葉は確信した。

 

「……兄さんは、無関係ではなさそうね」

 

「はい。……たぶんですけど」

 

 弓塚さつきは兄の友人だと聞いている。体調不良で学校を休んだ兄に一報をくれた人物で、遠野志貴とは遠からずな関係を持つクラスメイトらしい。直接会ったことも、また声を聞いた事もない秋葉だったが、それでも友人を失った兄の心持を想えば、かける言葉さえ見つからなかった。

 

 友人知人が何かしらの事件に巻き込まれる。これほど不安を駆り立てることはないかもしれない。その恐怖ともつかない感情は正体のない化物で、心を落ち着かせる手段は自分自身にないのである。ならば、それを知った兄の胸中は酷いものだろう。

 

 秋葉も、そうだった。

 

「琥珀」

 

「はい」

 

 秋葉は静かに言った。その瞳に決意を宿して。

 

「今夜、出るわ。だから……」

 

「……はい」

 

 秋葉の意志に、琥珀はどこか味気なく応えた。

 

「ごめんなさい、琥珀」

 

「いえ、仕方の無いことですよ」

 

 苦笑するように秋葉の側に置いてある椅子へと琥珀は腰掛け、着物を崩して自らの首筋を晒した。

琥珀の肌はきめ細やかな白い色を湛えていた。

 

 首にかかる赤毛を上げれば、美しいうなじに少しだけ生える髪の毛が、どこか艶かしささえ醸し出している。細く小さいなで肩からなだらかに続くこのほっそりとした細い首筋にどれほどの魅力があるのか、女性である秋葉には全てを把握しかねたが、それでも可愛らしいと秋葉は思った。そして何となく、その肌に人差し指を這わす。

 

「……んんぅ」

 

 滑りの良い、けれど秋葉の指に吸い付くような肌だった。柔らかな皮膚の奥にある確かな筋肉と、そしてうなじを隆起させる頚椎の硬い感触へと指が触れる。指先から伝わる肌の温もりが妙な現実感を秋葉に与え、その奥底にある血潮の熱いせせらぎさえ掴めそうであった。崩された着物の首筋は秋葉を異様な心地にさせた。内側が滾り、そしてそれが滾れば滾るほどに秋葉の心が凍えて仕方がない。それでもやめられず、這わす指に中指が増えた。

 

 髪の生え際に指を届かせれば、か弱げな産毛が秋葉の指先に触れた。それらは柔らかながらに彩りのない白い毛で、琥珀の紅を垂らしたような毛髪には不相応に思えた。けれど、その食い違いが幼子の肌を思わせる。

 

 自然と近くなった琥珀の体から仄かに体臭が香った。微かに匂う女の匂い。鼻腔の奥へと燻るような匂いに石鹸の香りが混じり、それが琥珀の体から香っている。どこか子供のようなものでありながら、確かに大人の女性が持つ成熟さへと変わりつつあるその香りを秋葉は胸の奥に仕舞いこむ。

そしてゆっくりと這う指が、崩された着物の奥に隠された鎖骨の辺りを見出し――――。

 

「や、秋葉さま、くすぐったいですよう」

 

 楽しげに琥珀は紡ぐ。

 

 くすくす、と我慢しなければ笑ってしまいそうな吐息が零れた。その響きの味気なさは、人間味ではなく、ただ物質が外部からの接触に反応したような無味があった。

 

 そこで秋葉は、はっと夢から覚めたような感覚に晒された。

 

「あ、琥珀……。ごめんなさい」

 

「いえ、大丈夫ですよ。……さあ、秋葉さま、お時間も余りありません。早くすましちゃいましょう」

 

 寒気すら秋葉は感じながら謝ったが、琥珀はどこまでも気にしていないような仕草をしていた。

 

 しかし、確かに琥珀の言うとおり、秋葉に時間は無い。これから秋葉は県を越えて学校に向かわなければならないのだ。食事はすでに済ましているとは言え、あまり時間をかけてはいられない。仕事はあまり進んでいないが、帰宅後に済ましてしまえばいいだろう。

 

 だから一思いに終わらせよう。あまり気持ちの良いものではない。

 

「――――あ」

 

 細い首筋に秋葉の唇が触れる。接吻のような異物感に琥珀から息が漏れる。意図したものではないだろう。現に琥珀の肌は固くならず、紅潮もしていない。そうしていつも通りに舌で肌を湿らす。唾液の艶やかな滑り(ぬめり)に秋葉の髄がぶるりと震えた。湿りによって琥珀の筋肉の筋が緩やかな弛緩を行う。その極僅かな時間、秋葉の歯が琥珀の肌を擦り。 

 

「――――んっ」

 

 そして、秋葉の犬歯が琥珀の肌を食い破った。

 

 

 □□□

 

 

 目蓋の裏に影が染み付いている。ありもしない残像。あるいは名残が形を整え、無理矢理に現実を押し付けてくる。

 

 ――――憎らしいほど紅い夕焼けの中で、彼女はおれの前で儚く笑っている。紡ぐ口調、何気ない仕草が最早懐古さえいだかせるのは、きっと眩しい夕陽のせいではない。

 

 柔らかそうな頬を緩ませながら、彼女はおれを見つめている。

 

 その視線の優しさに、その瞳の愛おしさにおれは魅入られたままだった。胸の奥が温かい。人肌の温もりのような、熱くはないけれど確かにある温度が体一杯に注がれていくような気がした。

 

 それこそ、胸の奥で漂う空洞を忘れそうになるほど。

 

 しかし、否応がなく場面は変動する。望もうが望むまいが。

 

 ――――突如として彼女の胸を食い破る、誰かの腕。

 

 鮮血を散らす彼女。

 

 胸元から噴き出る赤色が彼岸花のように散っていく。

 

 未だ脈動する生々しい心臓。

 

 ゴムのような弾力ある生命が掌の中で圧せられた。

 

 獰猛に引き抜かれる腕。

 

 乱暴な所業にどす黒い血が混じる。

 

 力なく倒れ伏す彼女。

 

 根幹を失った肉体を支えるものは何もない。

 

 世を蔑むなにかの哄笑。

 

 それは空さえ罅割れるような声音だった。

 

 血だらけな彼女。

 

 制服まで血で染まった彼女は地面に溜まった自らの血に沈む。

 

 血溜まりを生み出す彼女の胸元。

 

 意志とは関係ない流血は留まらない。

 

 口元から血を吐き出す彼女。

 

 何か言葉紡ごうとして、舌が血に絡む。

 

 微笑む彼女。

 

 その場違いな笑みに、おれは何も言えなくなる。

 

 そして、冷たくなる彼女。

 

 全てがリフレイン。すでに起こった事実の繰り返し。それを上からなぞる様な作業行為。あの夕陽も、あの惨劇も、彼女の苦しみも。

 

 全ては終わった事。

 

「誰のせい?」

 

 彼女はおれに言う。血だらけの姿のままで言う。唇の内側から血を垂らしながら、おれの腕の中で、おれを見つめている。赤色に塗れた制服が重く、それが彼女の命の重さだと思い知らされた。

 

 嗚呼。

 

 こんなにも、彼女は軽い。

 

 まるでそこにいないような重みが命の重みだった。

 

 おれはそれを知っていた。知っていた、はずなのに。

 

「私、どうしてこんな目に合わなくちゃいけなかったの」

 

 ――――わからない。

 

「私、凄く苦しくて、痛くて、怖かった」

 

 地面に鮮血が広がっていく。それは彼女の命の血潮。血は流れて、止め処なく溢れる。次第に流れる赤はおれの体を伝い、おれを染め上げていく。蝕むように、飲みこむように。

 

「ねえ、なんで私だったんだろう」

 

 必然性。偶然性。宿命。

 

 そして、運命。

 

 何か強力な存在に導かれるように、彼女のそれはすでに決まっていた。本当にそうだろうか。本当に、そうだろうか。

 

 ――――わからない。

 

 そこには二人しかいなかった。しかし、もう一人になろうとしている。

 

 二人いるのに、それからさよなら。

 

 ――――それは、なんて寂しい。

 

「なんで、遠野くんじゃなかったの」

 

 ――――……わからない。

 

 何も宿さない瞳がおれを映している。空洞を成した眼が硝子のように不自然な清澄を見せている。生命の消える瞳だった。それは酷く懐かしい色合いで、頭が痛くなる。

 

 ずくん、ずくん。

 

 突き刺さるような刺激が脳を抉る。いっそ頭部が破壊してしまえばよかったのに。脳髄を撒き散らして意識さえも消失させてしまえば、どれほど楽だったろう。

 

 でも、目は閉ざせない。

 

 彼女の瞳、そこには何もなかったおれがいた。傷一つ負っていないおれがいる。

 

「わたしがこうなったのは誰のせい?」

 

 ――――それは。

 

 思わず呆然として、口元が動かなくなる。心臓が高鳴る。全身の毛穴が開き、鳥肌が立つ。体が底の底から震えて、気を抜けば体が瓦解してしまいそうだった。

 

 でも、心はこんなにも虚しい。

 

 気づいている。気づいているのだ。

 

 責任なんて、そんなの分かっている事じゃないか。全てが原因だ。全てが結果だ。何もかもが集約されて、辻褄を合わせる。幾重の軌道を重ね、意味の無い未来への思いを馳せようとも。

 

 それは。

 

「おれの、せい?」

 

 腕の中で弓塚さつきが、禍く(まがく)笑う。

 

 ――――視界に映る彼女の姿は、落書きだらけ。

 

 □□□

 

 夢の残骸だった。いや、あるいは意識の逃避なのかもしれない。

 

 目蓋の裏に感じる朝日。気づけば志貴は倒れ伏していた。人工物で作られた天井が遠く見える。ならば、背中に感じる柔らかさは布団のものだろうか。いつもとは異なる感触。自己主張するような反発の力は、どこか冷たい。

 

 忘(ぼう)、と視界が淡い。曖昧な色合いをしている物質は輪郭が失われている。眼鏡をつけたまま寝ていたようだが、まるで物そのものが意識から逃れようとしているかのようだった。時計は見えない。しかし、それでも暫しの時を費やせば、今己が時南医院の診察室にいることを志貴は把握した。そうすると今自分が眠っているのはそこに備え付けられたベッドの上だろう。掛け布団もかけられずにいた体はどこか気だるく、疲労ともつかぬ億劫さがある。

 

『ひ、ひひ……』

 

「――――っあ」

 

 幾分か見慣れた空間の中に響く、金属が悲鳴をあげるような軋んだ声音。嘲笑。それに連鎖するように米神が酷い痛みを発した。まるで鈍い衝撃が貫通し、前頭葉を爆散させたような激痛である。そろそろと緩慢にしか動かない腕を頭部に伸ばせば、そこは熱を持っているだけで、散り散りにならず無くなってはいない。

 

「おれは……」

 

『よう、お目覚めはいかがなァ』

 

 室内を切り裂く声音が目覚めを最悪にさせる。

 

 そうして、寝起きの苛立ちのままに体を起こそうとすれば。

 

「―。―――」

 

 その眼前に、札の貼られた鞘が現われた。

 

「……っ」

 

『ひひ。死んだ、死ンだ。これで手前は何回死んだァ?』

 

 鼓膜を介さず、直接頭に響くような金属が裂けたような声音が脳髄を揺さぶる。

 

 志貴の頭蓋、両目と鼻筋をなぞる様に視界を遮る鞘。

 

 顔面に押し付けられる鞘の気配は異様なまでに意識をそれに持っていかれ、目を反らそうとしても動かない。眼前で不遜に存在する刀は鞘に張られた札と、柄に巻かれた数珠によって封じられた邪悪の輩だった。五感に訴えてくる生理的嫌悪感に吐き気すら覚える。

 

 いや、それは目前にいる刀剣、骨喰(ほねばみ)だけのせいではない。

 

「―――、―」

 

 どこか虚ろを吐き出すような呼吸音が聞こえた。

 

 固定される視界を剥がすように、自身の隣で壁に寄りかかり座る存在を見やった。

 

 診察室の壁際。

 

 男は足を崩し、言葉を失ったように沈黙を貫いていた。

 

「――――っ」

 

 思わず、志貴は息を呑む。

 

 それは藍色の着流しに身を包んだ亡霊のような男であった。身に纏う藍色の左袖は柳のように中身を消失させ、右腕が志貴を断ち切るように骨喰を構え、横たわる志貴の顔面に触れる寸前で固定している。

 

 しかし、志貴が息を呑んだのはそこにいる男の出で立ちではなく、その瞳にあった。

 

 ざんばらに伸ばされた黒髪の奥。

 

 人ならざる輝きを宿す瞳は空を思わす蒼の色。

 

 それが睥睨するように、あるいは路傍の石を眺めるような無感情で室内を見ている。鬱蒼とした森の奥で誰にも知られず深々と広がっている湖面のような瞳は、あるいは西洋人形の眼に押し込められた硝子細工の眼球のようだった。

 

『そンな糞弱くてよォ、本当に仇が討れるとでも思ってンじゃねえだろウな』

 

 藍色の男、七夜朔は噤んだ口を開かず、その代わりのように嘲るような金属の声音、眼前の骨喰が言葉を降らす。脳髄を冒すような音が頭蓋を震わせ、虚ろだった意識を無理矢理浮上させてしまう。

 

「……なにがだよ」

 

『はっ、覚えちゃいねえかィ。そいつは随分と救いようがねエ。いや、どっちかッつうと救われてんのか。ひひ、ひ……朔はどう思う』

 

「――――」

 

 嘲弄を響かせながら骨喰は自身の持ち主である朔に問いかけたが、朔は無言のままであった。しかし骨喰は気にせず、それどころか愉快気な笑い声を発作のように劈かせながら志貴を蔑む。

 

「あんた、何言ってんだよ」

 

 胸を掻き毟るような骨喰の言に苛立ち、志貴は問うが骨喰はそれを無視して言う。

 

『それで、ど頭かち割られる寸前はどんな気分だァ?』

 

 その言葉に、志貴の米神が骨が脳髄が激烈に疼く。己の意思から離れて肉体が自らが受けた傷の過去をほじくり、爆発的に志貴は思い出した。

 

「……最悪だ」

 

『ひひ、ひ……』

 

 咽喉から昇る怨嗟にも似た志貴の声を、骨喰は喜ばしそうに笑った。それはどこか屍骸をにたつき眺めるハイエナの鳴き声にも似ていた。

 

 深夜の事だった。弓塚さつきの仇を討つため志貴は七夜朔の居場所を突き止め、協力を要請した。それを七夜朔は不明だが、骨喰は了承した。そこまではよかった。

 

 しかし、突如としてそれまで無反応だった朔が動きを見せた。

 

 今の姿と同じように壁に背を預け、足を崩している朔の体が瞬きの内に跳ね上がり、視認も出来ぬ迅さで志貴へと身を躍らせたのである。それに気づいた時は、もう遅かった。朔の振りぬかれた肉体が宙に線を引き、志貴の頭部を殴打した。どの箇所によって成されたのかさえ、志貴は分からず昏倒したのだった。

 

 そも、志貴は知る由もないが七夜朔は肉体鍛錬によって殺戮を果たす宵闇の殺人鬼。肉を繋ぐ腱、そして肉が張り付く骨に至るまで鍛えられた人外の者である。その瞬発力は言うに及ばず。彼は後方からの銃撃を弾丸が射出された後に回避する業を持つ真正の鬼才だった。

 

 その筋肉の反応、あるいは関節の軋みまで最短化された動きは初動を無くし、経過と結果の距離を限りなくゼロに貶める。その魔的な動きが、一般的高校生よりも低い体力の持ち主である遠野志貴如きが初見で読み切る事は、不可能と言って良い。

 

「意味が分からない。何であんな事――――」

 

『解らない、か?』

 

 凄むような骨喰の声音に息が止まる。

 

 鞘に収められ、刃も露出していない刀身。

 

 それだというのに、眼前を真横に塞ぐおどろおどろしい骨喰の姿が志貴の眼には、真下から見上げる厳格な断頭台の刃のように思えて仕方がなかった。それはきっと、その刀身が今まで滅ぼし尽くした生命の怨念によるものに違いなく、切り取った肉と血の臭いが眩暈のように志貴の鼻腔の中で香った気がする。

 

 そしてそれを揮う七夜朔も、また志貴にとって化物だった。

 

「―――、―」

 

 あるいは一言も喋らない沈黙の住人である朔の方が不明さで言えば骨喰よりも際立っている。口うるさく声を吐き捨てる骨喰がどのようなからくりを持つのかも気になりはするが、それよりもその担い手である朔が問題だった。

 

 骨喰は物だ。どれだけ壮大な理由があり、多大な意味があろうが骨喰は剣。誰かに握ってもらえなければ肉を裂くことも出来ぬ物体だ。武装としては脅威に違いないが、それは結局のところ誰かによって行われる所業である。

 

 だからこそ、怖いのは朔だった。

 

 物言わぬ佇まい。何をしてくるかわからない。まるで予測がつかない。

 

 亡霊。殺人鬼。

 

『ひひ、ひ……手前が遠野じゃなけりゃ、こんな事する必要もねェ……が。契約は契約だ。殺されなかっただけでもありがたく思え』

 

「……どういう事だ」

 

『仇、取りてェんだろ?』

 

 骨喰が何を意図しているのかわからず、志貴は口を結んだ。

 

『ひっ、だったらよオ。ある程度対応は必要だろ。手前が一体何を相手にぶち殺そうと決めてンのか、おれたちぁ興味がねえんだ』

 

「……」

 

『そうさなア。時分は夜が良ィ。夜は警戒心が鋭敏で、その癖理性が磨耗してイる獣の時限だ。昼よりも殺りやすい。相手が化物だろうが、人間だろうがァ、な』

 

 冷水の中に落下したような感覚が足元を寒くさせる。

 

 ――――殺す。

 

 その言葉を、志貴は初めて突きつけられた。

 

『しかし、だ。それをやろうっつウ手前が弱けりゃ、そんな事夢のまた夢だ。殺すっつうのはよ相手に勝つ事じゃネエ。相手を殺すことだ。ひひ、必要なのは一瞬の判断、決断。肉をぶっ壊し、内蔵器官をぶち壊す間際の手順。ただ、それだけだ。それだけで大抵の奴は死ヌ』

 

 相手を、殺す。

 

 敵を討ちたい。この激情を焦がす憤怒の一途をぶつけてやりたい。

 

 それは、つまり。

 

『それなのに手前はなんだァ? 遠野の人間が全く反応もできネエでくたばりやがる』

 

「それは、あんた達がいきなり……」

 

『ひひっ! 餓鬼の喧嘩じゃねえンだ。相手の事情なんて一切いらねエ。不意打ち上等。寧ろ殺し合いだったらこれ以上ない最良よナア』

 

 殺すのだから、不意を打つ。

 

 勝負ではなく、殺し合いの場。

 

 正々堂々など噴飯もの。邪道こそ賞賛される手段。

 

 あまりの正論に、何も言えなくなる。

 

 志貴の脳裏にシエルの姿が浮かび上がる。

 

 七夜朔の居場所を伝える際も拒んだシエルの歪んだ表情。

 

「―。―――」

 

 ちらり、と横に視線を動かす。

 

 そこに、藍色の殺人鬼が刃を持って佇んでいた。志貴の意志になど興味も無いように。

 

『それとも何かイ? 手前は目の前に仇がいて、今からぶち殺してやンぞ、とでも言うつもりかァ? はっ、笑える話だな。まるで憎悪が足りなイ』

 

 どこか侮蔑するように、骨喰は頭上で軋む。

 

『マジに手前、仇討つつもりあンのか? あ?』

 

 思考に罅が入ったような気が、する。

 

 骨喰の耳障りな軋み音が志貴の中に亀裂を生み出し、鋭い刃をつきたてる。

 

 そうだ。そうだった。自分は覚悟を決めたつもりだった。覚悟を決めて、悪魔と握手を交わし契約を結んだのだ。その取立ても度外視して、自らを投げ打ったのだ。

 

 それなのに、なんだこの腑抜けは? 魔物に臓腑を抉られ、文句を立てるこの様は。

 

 遠野志貴にとって、異常とは忌むべき事柄で、あった。

 

 嫌っているのかと聞かれれば素直に首肯はできかねるが、少なくとも遠ざけておきたい事ではあった。当然だ。志貴にとって平穏とは掛買いのない事で、それはきっと何よりも貴いものであると彼は心の底から信じて、いた。

 

 切っ掛けと呼ぶべき出来事は、やはり遠野の家を追い出された事であろうか。事故に合い、満足に生活する事も難しくなった身である志貴は親戚一同の総意によって有間の家へと追いやられた。

それを憎い、と当時の志貴は思わなかった。

 

 志貴の内の虚しい空洞がきゅうきゅうと締め付けられた。そのくらい。

 

 ただ、度し難い侘しさが志貴を包み、その中身にあるぽっかりとした空洞を穿った。

 

 それはやがて時を経る事に志貴自身を蝕み、いつしか志貴自身も気付かないうちに明確な虚ろを生み出した。長い時をかけて岩へ垂れる水滴は、遂には穴を空ける。志貴がその虚ろを自覚した時は、もう遅かった。

 

 誰かといるのに、孤独を感じる。

 

 悲しさを、寂しさを感じているのに涙を流せない。

 

 遠野志貴という存在は、どこか歪なあり方をしていた。

 

 だからだろう。志貴は〝異〟というものを恐れた。

 

 子供の精神は違いを見出す事に長けている。自分ではない誰か。ここではないどこか。通常ではありえない何か。それらを探し空想する。冒険心は異を求める探究心である。

 

 けれど、その自らこそが他とは〝異なったものである〟とは思わない。

 

 それは自らに異を感じたものはそれを切り捨てなければならないからだ。何故なら異となる自らを自覚した時、人は自らに迷い込む。異なる常へと惑い、光さえも見失う。

 

 ならば、どうすればいい。

 

 おれは、どこにいけばいい。

 

 ――――弓塚さん。

 

「……嗚呼」

 

 ――――なんて、無様。

 

「何も考えてなかった。本当は駄目なのに。……本当に、こんなんじゃ駄目なのになあ」

 

 感慨ではなく、嘆きにも似た呟きが自然と漏れた。

 

 今まで普通の高校生として過ごしてきた志貴には理解できない世界。理由はどうであれ、そこに片足を入れたのは志貴自らの意志によるものだ。今までの志貴のままで太刀打ちできるような、優しい場所ではないはずと予想していた。けれど、志貴は呆然と理解していなかった。

 

 殺し殺されが当たり前な人外魔境。

 

 そこに優しい世界の摂理を求めても、意味などない。

 

 ただ蟲を踏み潰されるような気軽さで殺される。

 

 ――――まるで、彼女のように。

 

『ひ、ひひ……』

 

 そして、そんな志貴を骨喰は真底馬鹿にするように嘲るのだ。

 

『そうイうこった。そんなぬりイ体たらくなまンま殺そうとするなンぞ莫迦がやるこった。だからよウ、鍛えてやるよ。朔も乗り気のようだし、な……』

 

「……なんでだ? あんたに得がないだろ」

 

 朔を意識して、志貴は問うた。

 

 しかし志貴の言葉にも、朔は反さない。

 

「――、――」

 

『享楽よ。単なる、な。……だからよ、嫌とは言わせネエぜ。そンな選択肢が手前にあるはずも無し。増して逃げようものなら、うっかりと殺しちまイそうだ』 

 

 ――――視界の端で、空間がざわついた。

 

「――――っ!」

 

 一呼吸も無い。ただ衝動のままに体が動いた。闇雲な動きで跳ね上がり、息を飲み込むよりも早く、ベッドから転げ落ちるように逃げた。床に落ちた志貴の腰に強かな痛みが走った。それは意識されたものではない、粗雑な行動だった。

 

 しかし、結果それが志貴の命を引き伸ばした。

 

 舞う埃。揺らいだ空気。風は生まれない。鋭さと緩やかさが両立された不可視の軌道。それは人間の動きではない。もっと別の何か。

 

 ベッドから落下する志貴の視線の先。

「――――」

 

 白い布地を貫くように、骨喰がベッドを貫いていた。

 

 片膝をつき、俯き加減に佇む朔の腕がまるで断罪のように骨喰を突き立てている。その刃先は先ほどまで志貴の心臓があった部分を寸分違わず穿ち、ベッドの骨組みが悲鳴をあげている。

 

 もし志貴が動いていなければ、朔の襲撃によって揮われた骨喰は胸骨を粉砕し、心臓を破裂させていただろう。朔の狙いが外れているとは到底思えない。それは今まで志貴が朔と会合した後に遭遇した所業による、ある意味恐れにも似た確信だった。

 

 しかし、事実志貴は動き、未だ死んでいない。

 

『こんな風に、なァ』

 

「……おまえ」 

 

 不快な嗄れ声が診察所の固いベッドに腰をついた志貴の耳に届く。

 

 けれど、志貴の意識はこの理不尽な行いを果たした朔に注がれた。

 

「―――、―」

 

 朔はベッドの上で、まるで許しを請う罪人のような姿で跪いている。

 

 だが志貴にはその姿が罰を座して待ち受ける静粛な人間ではなく、瀕死の生者が息絶えるその時を待ち続ける禿鷲の偉容に見えて仕方がなかった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。