七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

47 / 62
過去編 Rhapsody in Crimson 下

「……これは」

 

 

 それを見つめ、久我峰斗波は呻くように呟き、そして言葉を暫し失った。

 

 

 丑三つ時の事である。彼のオフィスに突如として届いた箱の中を久我峰の手勢が確認すると、そこには一枚のビデオレコーダーが納められていた。

 

 

 そして、そのラベルシールには達筆な文字でひとつ、名前が書かれていた。

 

 

 果たしてその中に映し出している映像が如何様なものか、久我峰は安易に予想できた。

 

 

 仇川辰無。彼が最期に残した物品。

 

 

 それが持ちうる価値、意味。

 

 

 二つを考慮しても、あまりに大きい情報がこの中に眠っている。極めて慎重に扱わなければ猛毒にもなる劇薬と言うべきか。久我峰は自然と混みあがる苦笑を抑える事が出来なかった。

 

 

「ふ……ふふ、私への仕返しという奴です、か。……恨みますよ、辰無さん」

 

 

 置き土産、と久我峰は決して言わなかった。

 

 

 言う事が、まだ出来なかった。

 

 

『――――同志、久我峰斗波へ』

 

 シールには、そう書かれていた。

 

 

 □□□

 

 

 淡い光に照らされて、朔がいた箇所の背後に位置する闇の中から男が現われた。白髪の混じる壮年の男はその両手に構えられた拳銃の銃口から火薬の匂いを滲ませ、注意深く前方を見やった。

 

 

 しかしその静謐な表情とは裏腹に男は驚愕に精神を震わせていた。

 

 

 男は拳銃を扱えはするが、その腕前では動く標的に当てることが出来ない。幾ら修練を重ねても男の腕はそこにたどり着かなかった。

 

 

 ただ動かない標的であれば確実に当てる事が出来る自信だけは男にあった。停止する的ならば確実に男は当てる、と。

 

 

 だから策を練った。

 

 

 暗闇にランプシェードを灯し、そちらに意識を逸らす事で無防備になった背後を確実に動きが止まった瞬間撃ち抜く。

 

 

 作戦は上手くいった。注意は光の方角に向けられ、その五感の殆どは誤魔化されたはずだった。薄暗い暗がりの部屋、血の臭いに鼻は潰され耳は女の寝息を拾っていた。

 

 

 なのに。

 

 

「……」

 

 

 男は確かに見た。

 

 

 襲撃者、七夜の体現が背後から放たれた弾丸を〝撃たれた後〟にその姿を消し、かわした瞬間を。

 

 

『ひひ、危ねえなァ――――仇川辰無』 

 

 

 暗闇の深遠より金属の悲鳴が降り注いだ。辰無は注意深く辺りを見回しながら拳銃を構え、しかしそのあまりに聞き覚えのある声音に戦慄を禁じえなかった。

 

 

「…なぜ、なぜだ」

 

 

 そして堪えられず、辰無は呻いた。

 

 

「なぜ貴様が生きて七夜の体現と行動している、刀崎梟……!!」

 

 

 刀剣が発する耳障りな声音は妖怪刀崎梟のものに違いなかった。

 

 

 七年前、仇川辰無は久我峰傘下への参入を経たが、その頃に存命中の刀崎梟へと辰無は会ったことがある。

 

 

 そのあまりに特徴的な容貌と声音更に人格は辰無に深く刻まれており、刀崎派と秘密裏に敵対する事となった後にそれはより際立っていた。だから辰無が梟の声音を間違えるはずがない。

 

 

『ひひひ……俺は梟じゃ無ェぜ。正真正銘、刀崎梟はおっちんでる。んで骨喰はただの刀、その事実は覆らねえヨ。手前も覚えてんだろうがァ、刀崎の顛末を?』

 

 

 しかし声音は闇において厭らしく否定する。

 

 

 確かに辰無は梟の死を知っていた。

 

 

 刀崎が狂乱の内にあり、齢百を数える頃に混血の宿命である反転を化した梟が遠野によって粛清されたのは五年前の事だ。

 

 

 ただそれは情報として知りうるのみの話であり真実は分からない。更に伝え聞くところによると体力の衰退が否めなかった当時の当主遠野槙久はそれを自ら行わず、他の誰かに任せたらしい。

 

 

 詳細は定かではない。情報は貴重であるが全てが真である筈がない。隠されている事もあるだろうし、変えられている事もある。ぐるぐる、ぐるぐると辰無の冷酷な思考が巡る。

 

 

 そして、爆発的に辰無は理解した。

 

 

「……なるほど、この一連の事、全て貴様が組んだ事か」

 

 

 闇の中に辰無の声が染みる。

 

 

「刀崎白鷺が事実を嗅ぎつけた理由、七夜朔が辿りつけた訳。そして刀崎の顛末。全てお前が仕組んだのか……」

 

 

『――――ひひひ』

 

 

 骨喰は辰無の詰問に厭らしい笑いで応えた。

 

 

 肯定も否定も、行わなかった。

 

 

『まァ、いいさ。幾ら俺がアレじゃねえと言ったところで手前じゃ理解できネエだろうよ。しかし、だ。そんな堅物極まりネエ手前でもやる時はやれンだなァ』

 

 

 少なくない混乱に神経を苛まれながらも辰無は響く骨喰の声音に意識を凝らす。一瞬の空白に於いて、切り裂くように骨喰は言った。確信を秘めた愉悦の声音で。

 

 

『ここにいる死体、ここンとこにいた住人だろ?』

 

 

 ひひひ、と辰無の脳に不快な骨喰の声音が反響する。

 

 

『反転した手前の女の餌として住人を調達して、こンなとこに閉じ込めた女が腹を空かせりゃくれてやる。そんでまた腹が減りゃとっ捕まえてくる。それを繰り返して繰り返し、今となってはここは無人の城だ。ひひひ! そりゃそうだ、住人全部がいなくなっっちまったら阿呆でも気付くってもンだ!化物が腹を空かせて来るぞっ、てなア!』

 

 

 全ては半年前だった。

 

 

 その日、珍しく昼頃に帰宅した辰無は玄関の扉を空けた瞬間に妙な静寂と懐かしい匂いに出迎えられた。あの人間ではなかった生活で嗅いだ血の香り。生物が吹き零す命の流水。それが辰無の鼻を擽ったのだ。

 

 

 不可思議に思い辰無は心なし慎重な足運びでリビングへと向かった。やけに五月蝿い心臓の鼓動が静寂の室内を打ち破りそうなほどだったと記憶している。

 

 

 そして辰無は見てしまったのだ。

 

 

 リビングに隣接するキッチン、唯葉が狂ったように叫びながら、どこからか見つけたかも分からない猫の死体に向かって何度もカッターナイフを振り落としていた光景を。

 

 

 その行為を見られて唯葉は一時恐慌状態に陥ったが、暫くしてぽつぽつと己の内に起こる衝動、あるいは状態を打ち明けてくれた。むしゃくしゃとしてではない、悪戯心ですらない破壊衝動が己の中に宿り、それが何度も唯葉を突き破ってはこのような事を起こすのだと。そして唯葉はそれが混血という種族に訪れる反転だと。

 

 

 辰無は唯葉の現状を知り、賢明な行動でもってそれらを押さえ込もうとした。時には自らの首筋を差し出し、そして時には暴力により辰無自身死を覚悟した。

 

 

 だが、そのように自らを差し出すほど沈静した後の唯葉は悲しみに明け暮れて、自らの咽喉を裂こうと包丁を握りしめた。

 

 

『誰よりもあなたを傷つけることだけはイヤっっっっ!!!!!!』

 

 

 悲鳴にも似た嘆きの絶叫が今でも耳に残っている。

 

 

 辰無が良しとした行為が何よりも彼女を傷つけていた、と辰無はその時になって始めて気付いた。

 

 

 そして己を差し出す事も出来なくなって、唯葉の反転状態は次第に悪化の一途を辿り、最後には彼女の望みでこの地下へと運んだ。

 

 

 さよならと涙を流して口ずさむ彼女の唇を己が唇で黙らせながら。

 

 

「……正確には、七十八名全て私が息の根を止めた後にここへと運んだ。……彼女は殺めてなどいない」

 

 

 朝、すれ違う時必ず声をかけてくれる女性がいた。

 

 

 父親と仲良く歩く子供がいた。

 

 

 展示されている芸術品を欠かさず磨いていた老人がいた。

 

 

 その悉くを辰無は殺した。

 

 

 涙を流すものがいた。

 

 

 恐怖に言語化不可能な言葉を並べたものがいた。

 

 

 理不尽に腹を破らんほどに怒り狂ったものがいた。

 

 

 慈悲を乞うて自らを差し出し子供の命だけはと懇願するものがいた。

 

 

 分け隔てなく殺して、この場所へと運んで唯葉の食物とした。彼女の玩具とした。

 

 

 彼女が大切だから、彼女が大事だから。

 

 

 理由はそれで充分だった。それ以外に理由なんてなかった。

 

 

 他人の善性を信じるが故に、己が悪徳を肯定した男は遂に止まらなかった。繰り返される諸行は正しく悪で、それこそ己に相応しいと自虐を零しながらも男の手は命を断ち続けた。全ては妻のために、妻を受け入れる己のために。

 

 

 だからそのような物言いは許せない。

 

 

 妻が化物だなんて、認めはしない。

 

 

『ひひ、そんなこたア関係無え。第一こんな愉快なモン作り上げといて普通なんざありえねエ。手前、自分の目の前にいるのが人間だと思うか?人間を喰らう存在が人間だと思うか?それを手ェ化した手前が人間だと思えるか?人間が食われる事を承認した手前が人間だと思うか?』

 

 

「……私が人ではない事等百も承知している。……だが、唯葉がそんなものであると言うその言葉を発する口を今すぐに閉ざせ」

 

 

『ハっ!手前、刀に口でもついてるはずが無エだろうが!いよいよもって傑作だ!真正の気狂いたア、ひひひ! まるで話になんねエぜ!』

 

 

「……私が気狂いならば、お前達は何だ。徒に人を殺して何が楽しい、暗殺者とかこつけてるがやっていることは殺して金を貰う……それともやはり復讐か? 無闇矢鱈に遠野へと襲い掛かる犬畜生ではないか」

 

 

『金?ひひ、金か!ひひひ、それこそお笑い種だ。朔が金のために殺すなんて、手前の程度が知れるぞ!七夜朔は奈落の底で亡者をいたぶる鬼だ。獄卒が報酬のために地獄の魂を磨り潰していると思うか?』

 

 

「……では、復讐か」

 

 

『それこそ冗談。目的なんてありゃしねエ。この世は経過と結果だけがアるだけだ。だが、手前はなンだ?手前の女のためと言いながら何も出来ネエ人間、女を殺す事も止める事も出来ネエ男。ひひひ!笑わせるなァ、仇川辰無!無力を装って厭世家(ペシミスト)でも気取ってろ、手前の諦観が女を殺すんだゼ!』

 

 

 自身の中に亀裂が走る音を、辰無は確かに聞いた。

 

 

「……私が、唯葉を殺す、だと」

 

 

 知らず震えて、辰無は搾り出した。

 

 

『ひひひひ!そりゃそうだろ!今まで手前がなンもしてこなかった結果がこのザマだ!今の今まで手前が諦めっぱなしだったどん詰まりがこのザマなンだよ!』

 

 

 あからさまな挑発は激昂を誘うためのものか。あるいは之こそ骨喰の手筈なのか。辰無は白熱しそうな脳を無理矢理押さえ込んで、呪詛を呟くように言葉を紡いだ。

 

 

「……妖怪、私は貴様が真底嫌いだった。久我峰様は気に喰わなかったが、貴様はそれ以上だった。それ以上に真性悪である貴様を、わたしはどうしても嫌いでたまらなかったが、どうやらそれすらも誤りだったらしい」

 

 

『ほう?』

 

 

 真底人を嘲り、この世を睥睨し続けた刀崎梟。

 

 

 彼は刀崎らしい刀崎であり、だからこそ現代にそぐう事のない古代の化石だった。

 

 

 今を認めず、先を認めず、過去すら否定して。ひたすらに希求し続けたその有様。何者にも影響されず、また何者も受け取らなかった彼はある意味もっとも人間らしい存在だったのかもしれない。

 

 

 辰無は今もなお眠りから覚めぬ妻のそばに寄り添った。ランプシェードが光るそこは明るい彼女の隣で、真底辰無には似合わない。辰無は己こそが最悪だと自嘲し、遠い光を眺めるだけでよい。

 

 

 だからだろう、辰無は刀崎梟が。

 

 

「……わたしは、どうやらあなたが憎いようだ」

 

 

 俄かに殺気だった辰無の視線が、血肉の沼地をねめつけた。

 

 

 □□□

 

 

 室内は唯葉が眠る中心を光点とし、明かりの範囲外に於いてぼんやりと地獄を移す白色を境界に仇川辰無はきっとどこかで息を潜めているであろう七夜朔を見つけるために神経を尖らす。

 

 

 光源に立つ辰無からは広がる闇の深遠に滲む赤色はまるで霧のようだった。それに紛れる七夜朔はやはり尋常のものではないのだろう。

 

 

 何故ならこの部屋に於いて音は辰無の息と唯葉の寝息しかなかったのだ。

 

 

 だから七夜朔がどこにいるのか、あるいはどこに移動しているのか辰無には直接的に探すのは難しい。

 

 

 しかし、ここはひき潰された肉の埋まる血液の泉。

 

 

 血は水として室内に水面を張り、均一な平を生み出す。それは変化がなければ波打ち立たない表面であり、それが揺れ動くならばそれは即ち。それが訪れた闇の向こうに、標的がいるという事に他ならない。

 

 

 ――――乾いた音が破裂する。

 

 

 刹那の閃光に部屋が一瞬光るが、そこに七夜の体現の姿は見えなかった。

 

 

「……外した、か」

 

 

 どれだけ気配を隠し、音を消し重量を減らしたとしても、そこにいると言う事実は覆しようがない。存在する事実を否定するならば、そもそもそれはそこには存在しない存在となってしまう。

 

 

 辰無は闇を見つめなかった。鼻は噎せかえる血の臭いに機能を麻痺させている。足元の血水を注視して、意識だけは鬼が蠢く暗闇の向こうへと分散させていく。

 

 

 そしてまた細波。

 

 

 暗がりの奥底に目掛けて出鱈目に引き金を引く。掌に衝撃が走るが、またも外れた。

 

 

 本来辰無の腕では銃弾が当たることなどありえない。だが、それでも辰無は引き金を引いた。辰無も分かりきっている。自分ではアレを殺す事も出来ない、と。

 

 

 人外の身のこなしを繰り返す七夜朔は亡霊だった。

 

 

 どこにいるかまるで分からない。

 

 

 しかし表面に細波がしたならば其処に向かって銃を撃たざるを得ない辰無は、己の精神が熱を持っている事を自覚していた。細波が伝わってくるということは、着水からのタイムラグが生じているという事実を飲み込まなければならない。

 

 

 辰無はそれを理解し、当たる筈がないと導きながらも銃撃を止めない。止めたくない。

 

 

 何故なら琴線の寸断は理性の抑止を投げ打ってしまうからだ。

 

 

 許せなかった。骨喰の指摘を。骨喰の嘲笑を。全て止めて握り潰してしまいたかった。

 

 

 だが、辰無だってわかっていた。妻の変貌、辰無の諦め。刀崎への憎しみ。全てが混ざり混ざって生まれたのは、八つ当たりでしかないという事を。

 

 

 それを理解しながらも。

 

 

 撃って、撃って。

 

 

 撃って、撃って。

 

 

『外れだなァ、下手糞が』

 

 

 全て外れた。

 

 

「……っく」

 

 

 当たる筈もない弾丸に辰無は思わず歯噛みした。

 

 

 この空間は広く作られた密室で、外へと通じる道は扉一枚のみ。そして扉は開けられた気配がなく、朔がいなくなったとはありえない。それでも弾丸が的中する以前に姿形が捕捉出来ないとは。これが〝七夜〟たる由縁か。

 

 

 しかしこれだけは諦める訳にはいかない。

 

 

 唯葉を止められなかった。彼女のためと偽りながら、流れに身を任せた。全ての原因は辰無にある。自責の念が彼を動かし、己への怒りを骨喰に指摘されて銃口は敵を狙う。

 

 

「……だが、おかしい」

 

 

 薬莢が血の泉へと埋もれる音を聞きながら辰無は加熱する自身とは別の脳で考える。

 

 

 何故七夜朔は弾丸を回避できるのか。

 

 

 七夜朔は退魔組織に身を置く暗殺者であり、殺人鬼だ。暗がりで殺す者であり、人を殺す鬼。その身体機能は尋常のものでない事は、今しがたの動きで明白だ。伝え聞く容貌と重なり、明らかに光も当たらぬ闇の世界を跋扈する化物だ。

 

 

 それでも音速を超える弾丸を回避できるとは一体どういう事か。

 

 

 それは乱発する以前、正確に狙い澄ました最初の弾丸が圧倒的に物語っている。

 

 

 背後とは人類の死角だ。幾ら視界の広い人間であろうとその視界は左右百八十度を超えはしない。そこから先は全く見えない事と道理で、暗闇の中しかも不意打ちによって撃たれた弾丸をかわす事は如何に達人であろうとも回避する事は困難だ。呼吸音や僅かな筋肉の軋みによって察知する達人が存在しないわけでない。ただ、その域に達する人間が果たしてどれ程いるか。

 

 

 だが事実、背後から撃たれた後に入った回避行動でもって辰無の殺意はかわされた。

 

 

 ここに来て辰無は寒気に粟立つ肌を自覚せざるを得なかった。

 

 

 経営者である辰無に暴力で塗れた世界は過去の薄汚い溝の底だったが、今辰無が明確に踏み込んだ世界はまるでそれとは異なる。生きるための手段として他人を殺す世界と、明らかな殺意でもって殺しに迫る世界はまるで違う。生まれてからそのような世界に入り込んだわけではない辰無にとって、そのような存在がいるという事実は知識として理解していた。しかし経験として分かることはなかった。

 

 

 辰無が入り込んだ世界とはこれこそが常識なのか。

 

 

 こんな理不尽が一様に跋扈する魍魎の住処なのか。

 

 

『ひひ、何をヤっても無駄だァ。朔の魔眼にゃなにもかもがお見通しだゼ、銃口も弾道も着弾点も』

 

 

 闇の向こうからざりざりと削るような声音がどこからともなく響く。

 

 

『――――嗚呼、朔。俺にも良く視エる。アいつの奥底に眠る怯え然り、己への憤怒然り、手前を殺そうとする視線や意識もまた然り、だ』

 

 

 囁くような嘲弄が空間を軋ませる。見透かすような発言は、果たして真実かあるいは揺さぶりなのか、辰無には判断できない。

 

 

「―――――。―」

 

 

 辰無の前方に二つの光源が灯火を放った。

 

 

 闇と血、その中に蒼の光点が等間隔に煌々と光った。それは夕暮れに彷徨う蛍のような儚さではなく、幽玄に寒々と灯火を放ち、死の沼底へと誘う鬼火のような冷たい蒼の光だった。温もりを感じさせぬそれは七夜朔の瞳である、と辰無は気付いてしまった。

 

 

 何故なら、その奥底を見てしまったからだ。

 

 

 ――――瞳の深遠、溢れんばかりに充満する殺意の滾りを。

 

 

「……この、化物め」

 

 

 罵倒ではなく、ある意味隔絶した脅威、あるいは畏怖の感情が辰無から漏れた。

 

 

 奇しくも、それは彼が共に歩んだ久我峰が抱いた感情だった。

 

 

 辰無は、ここに来て己が勘違いしていた事を思い知った。

 

 

 魑魅魍魎が悠々自適と存在する場所であろうとも、人は人であると。そして、彼が出会った中で真実人間を越えた存在とは混血だった。彼らを間近に見てきた辰無は、彼らこそ上位者であり、人間では叶わぬ存在であると思い込んでいた。

 

 

 だが今、辰無はそれを否と切り捨てた。

 

 

 今、目の前にいるのはそれらと対峙し続けた存在。混血に対し復讐の牙を突き立てる鬼の輩である。

 

 

 ならばそのような鬼が人間であるはずがない。

 

 

 辰無は七夜を人間だと思っていた。人間であろうと予測し、そう思い込んでいた。それは直接相対した事がない者の稚拙な楽天、経験の無いものが語る無為な虚勢。

 

 

 事実は違う。七夜朔は人間ではない。辰無のように地べたを這いずり回る犬畜生でもない。もっとそれを超えた何かであり、あるいは混血を越えんとする何かだった。

 

 

 では、その牙はどこまで向かう。

 

 

「……やらせはしない。ここで止める」

 

 

 やがて訪れるであろう終わりは今そこにいる。今目の前で殺意を研ぎ澄ませて刃先を命に突き立てようと渦を巻いている。

 

 

 銃口は決意を宿らせ茫洋の蒼へと向けられた。静寂を伴ってではなく、いつ弾けるかも分からぬ火薬が終焉であろうとも、辰無がやることには変わりない。

 

 

 その銃弾が尽きるその時まで、命が潰えるその瞬間まで。

 

 

 そして、辰無は。

 

 

「…………っなあ!?」

 

 

 ――――柔らかく背後から抱きしめられ、その体が後方へと引っ張られていった。

 

 

 敵がいるのに辰無はそれすらもその瞬間全てを忘れて思わず背後を見やった。

 

 

 そこには。

 

 

「……ゆい、は」

 

 

 さきほどまで眠りについていたはずの唯葉が腕を伸ばし、辰無を抱きしめていた。驚愕に顔を歪ませる辰無の内心はきっと何もなかったに違いない。混沌と化した感情はすでに状態と化して彼をぐちゅぐちゃにしていた。だから残されたのは衝撃と、衝動。

 

 

「ぁ……あぁ」

 

 

 知らず零れた声は辰無のものだった。

 

 

 辰無を抱きしめる唯葉の腕の温もり、接するその体の安らぎ。刹那に与えられる〝彼女〟の奔流が今の状況と合わさり、彼自身自分が何をしたいのか理解も出来ていなかった。

 

 

 眼前の敵。訪れる終末。永遠の別れ。

 

 

 それらは今この時、その価値を辰無の中から失わせた。

 

 

 そんな者よりも、そのようなモノよりも、辰無はただ彼女の声を聞きたかった。

 

 

「……唯葉、もういいのか」

 

 

 何が良いとかは頭になかった。

 

 

 少しでも考えれば、何かがおかしい事など簡単に知れたことだというのに、体に感じる唯葉の体温、麻痺していても覚えている彼女の匂い、柔らかな質感。全てが全て、辰無を純化させていく。

 

 

 唯葉は自分が抱きしめる男を暫し見つめていた。その瞳にはこの場にそぐわない不思議さと、どこか浮世離れした雰囲気が放たれていた。

 

 

 彼女は、やがて柔らかく笑んだ。

 

 

 そして。

 

 

「――――っ」

 

 

 ――――仇川辰無の首筋に噛み付いた。

 

 

 □□□

 

 

 ぶちぶち、と仇川辰無の皮膚が食い破られて筋肉繊維が露になったとき、仇川唯葉の顔は既に傷ついた血管から零れ出る血液で真っ赤に彩られていた。

 

 

 唯葉は四十を超えたと思えぬような美貌を湛えた妖艶の女性だった。決して傾国の美女とは言えぬが、しかしそれに順ずる美しさを秘めたその相貌。その目じりにある皺や、髪が流れる艶めいた色香を振り撒くその様は麗しく、鮮血色の装飾が真に映えた。

 

 

 彼女は肌を潤すそれを気にした風でもなく、寧ろどこか楽しげに指先で青々とした血管をなぞる。血の吹き出る血管を時にはつまんだり、突っついたり弾いたりと弾力を確かめた後、唯葉は再びその顔を辰無の首元に沈めた。

 

 

 ぶちり、ぶちり。

 

 

 今度は筋肉を噛み千切るようで、しかし顎の筋肉だけでは男性の筋繊維の束や筋を引き裂く事が出来ず、首を動かしたり体を試しに揺すったりしながら、少しずつその歯を肉に埋めていく。

 

 

 時折大量の血飛沫が噴出して、彼女の身を赤く彩った。既に本日の食事、あるいは戯れは済んでいたのか、彼女が着ていたカーディガンやスカートは赤銅色の血痕が張り付くドレスに仕上がっていて、其処に今再び夫の血によるグラデーションが加わって彼女を更なる鮮やかさで染めた。

 

 

 そして彼女はとうとう肉を食い千切り、ぶちりと不気味な音が室内に響いた。

 

 

「……――――あ、ああ」

 

 

 どこか呆けるように辰無は声を漏らした。

 

 

 首元へと現れる喪失感、激痛に苛まれる肉体とは裏腹に彼の意識は少しも痛まず、ゆるりとした動きで彼の側に座る妻の姿を視界に収めた。

 

 

 唯葉は口元を真っ赤にしながら、今しがた食い千切った辰無の肉を丹念に咀嚼していた。あまりに大きく収めすぎて、その唇から時折辰無の肉がでろんと零れそうになるのを彼女はやんわりとした手つきで抑えながら、味わうように顎を動かす。

 

 

 その姿は無邪気だった。

 

 

 今しがた自身の夫の頸動脈を食べたとは思えぬほど、彼女は純白に食事を楽しんでいた。微笑を浮かべながら口をもぐもぐとさせるその様は、いっそ幼い。年齢を重ねた肉体と相まってそれは余計にそう思える。

 

 

 唯葉の腕によって抱きしめられながら、辰無は妻の姿を見やっていた。そして辰無の見ている最中に唯葉は嚥下を終えて、再びしゃぶりつく様に辰無の首元、今しがた自身で食い千切った箇所に歯を向ける。

 

 

 それを見ながら、辰無は彼女の行動を止めようなどとは思いもしなかった。どこか陶酔気味に辰無の目前で自身の肉に噛み付く妻の姿を視界いっぱいに収め、ともすれば満面の笑顔を零しそうな彼女を見つめて何も言えなくなった。

 

 

 何故、何故妻の食事を止める必要があるのだろうか。

 

 

 辰無にはその理由も意味も今この時には見当たらなかった。

 

 

 制止の言葉や拒絶の罵倒はまるで論外で、そのようなもの辰無の脳内には片隅にすら置かれていない。重要なのは彼女が辰無を美味しそうに食べている事であり、そこに辰無の感情は介入の余地がない。だから辰無は何も言わず、唯葉の姿を見続けた。

 

 

 しかし、それでも辰無には聞いておかなければならない事がある。

 

 

「……ゆいは、わたしは美味いか」

 

 

 血の喪失により力無い辰無の言葉は、存外にはっきりとした力を残していた。

 

 

 辰無の言葉を聞いているのか分からぬが、彼女は一心不乱に辰無を貪っていく。

 

 

 遂には骨までに達する彼女の食欲は留まる事を知らず、やがて抑えの効かなくなった咀嚼の侵食に彼女の胃が限界を向かえ、その食道から今しがた飲み込んだはずの肉が解された形状で吐き出された。

 

 

 しかし彼女はペースト状と化した辰無の肉を零しながらも尚辰無を食い続ける。舌を這わし、歯を叩いて、唾液に混じった血を飲み込んだ。

 

 

 それは正しく生き延びようとする生命の本能をありのままに映し出したような姿だった。

 

 

 そして辰無には、自身の肉を啄ばむその姿が愛を告げる妻の姿に見えてならなかった。

 

 

「……そうか、美味いのか。……よかった、な、ゆいは。……それは、よかった」

 

 

 その様にぼんやりと辰無は、かつての己を思い出した。

 

 

 必死に生き抜こうとして人を殺して衣服を盗み、飢餓に苦しみ同じ境遇にある犬や猫を捌いて食した窮乏の幼年時代。

 

 

 明日も知れず、また未来を考える暇すらなく、その日をその時を少しでも生きるために罪を犯し続け、遂には畜生へと身を落としながらも自分が不遇にあるわけを辰無は求めなかったし、また理由も同じであったが死ぬことだけはたまらなく嫌で、そこらに腐敗する死体を横目に見ながら、あのようにはなるまいと己に誓った小さな空。

 

 

 死ぬことは停滞だ。立ち止まってしまった奴に生きる資格は無い。

 

 

 ぎらついた目つきでもって生者を追い落とし続けた辰無が導いた結論は、諦めや厭世を抱いたものほど死んでいく現実を見定めた反抗の意志であった。

 

 

 誰にも価値を見出されないままに腐っていく死体の無様な姿は笑止と鼻を鳴らし、己が生きるためにしか死者は役に立たないと、転売目的に訪れた商売人に新鮮な死者の内臓を売り渡しながら思ったものだ。

 

 

 手元に訪れた僅かな金は浮浪者においては強奪の的であったため、あえて誰かに譲る事でそいつが元となり、再び憐れな犠牲者が生まれる。その内臓を売り渡し、またも誰かに金を譲り、それを繰り返し、繰り返した。

 

 

 そうして辰無は生きてきた。その日を生きるために、幾つもの悪徳を己の是としながら。それを罪と辰無は今でも思わない。窮乏は人間社会の天敵であるが、天敵であるが故に全ての価値は狂い、それが許容される。

 

 

 つまり仇川辰無という畜生は生まれるべくして生まれた狂いの孤児であった。

 

 

 だからだろう。

 

 

 今や意識が霞んでいこうとしているのに、辰無は妙な満足感を覚えていた。

 

 

「……ああ、だが」

 

 

 はたと辰無はふと思い出したように闇を見た。意識は曖昧と化してはいるが、しかし未だ死ぬには早い。ぼやけた視界にあろうとも、見るべきものの姿は未だ見えるつもりだ。

 

 

 ちゃぷり、ちゃぷりと静かな音が血の池に波紋を生み出していく。

 

 

 円環の血水が細波立つ。

 

 

 蒼の妖光が闇の中に二つ。次第に黒の濃霧の中、噴き出る腐った闇においても灯された蒼の不気味な光点は紛れず、それの輪郭を曖昧にさせて人の形をした影、影法師のような姿となっていたが、それは寧ろ〝亡霊〟と呼ぶに相応しい姿であった。

 

 

 瀕死の状態に成り果てようとする辰無の眼前に、茫洋な姿のままに佇む七夜朔の姿は最早隠れる必要も無いと、闇と化してその姿を顕現させた。

 

 

「――、――――」

 

 

 辰無は銃を構えようと腕に意識を回してみたが、気付くと掌から拳銃は零れて赤色の沼に沈んでいたので、それではと最期の力を振り絞ってその腕を妻の顔に触れさせた。

 

 

 指先に彼女の頬の感触は無い。どうやら神経が死んだらしい。

 

 

「……ざんねんだった、な。……お前は、私たちのおわりでは、ない――――」

 

 

 出来るだけ皮肉げに、辰無は言った。

 

 

 それは一つの終わりだった。七夜朔の目前、血飛沫によって穢れたランプシェードの明かりが照らす光の中で、二人、あるいは二匹の終焉が訪れていた。

 

 

『ひひ、なにがだ?』

 

 

 辰無の末期を蔑むように骨喰は口ずさんだ。

 

 

「……、っく、ぁ、あ。……おわりじゃない、そう、おわりでは、ないんだ……」

 

 

 辰無は出血が著しく、すでにその意識は混濁と化して彼の瞳は輝きを失っていた。故に彼の言葉は統制をも無くしてしまい、支離滅裂なうわ言にしかならない。

 

 

 ぶつぶつと、妻への言葉と終焉の否定に埋もれた声を呟く辰無の首は殆ど貪られており、筋肉繊維はべろんと剥げ、無事なのは咽喉と骨ぐらいだろうが、それも時間の問題だった。

 

 

「……ゆきつくさき、が。地獄だろうが、どこだろうが……かまわない。今までも、これ、からも。わたしは、かのじょが……いなくては――――おわり、では」

 

 

 意識が眩んだ辰無は今再び妻の姿を見やろうとしたが、その視界があまりにぼやけていたので、伸ばした指先を噛み砕いていた妻の姿はまるで見えはしない。いよいよもってまどろむ様な午睡の心地にある辰無には、無邪気に笑う妻の姿が悪魔の如き薄ら寒さを湛えている事など、まるで気付きはしなかった。

 

 

「――――が、ぁ」

 

 

 今再び血飛沫が舞った。食欲を堪える事もできない唯葉は遂に咽喉へとその舌を這わし、彼の息の根は潰える。虫の息であった辰無にそれを防ぐ術はなく、寧ろ喜びでもって彼は〝愛しい〟妻の愛を受け入れた。

 

 

 そして終わりが訪れる。

 

 

 仇川辰無。

 

 

 彼が最期に見た光景は。

 

 

 笑顔で彼を食む妻の姿だった。

 

 

 □□□

 

 

『ひひ』

 

 

 しかしながら、どこにあろうとも邪なる魔とはいるもの。

 

 

 凄絶な結末を台無しにする本当の悪魔とは、人の形すらしてはいない刀剣の魔物である。

 

 

『ひ、ひひひ。こいつハ、ひひ、面白イなァ。全くもって悲劇極まりなイ。なあ、そう思うだロ、朔?』

 

 

 びちゃびちゃと血を啜る音が支配する地獄の底で、金属の軋む音がそれを蹂躙した。

 

 

 骨喰から見ればこのような結末など茶番劇に過ぎない。一笑に値するだけまだマシの光景であり、涙はなく愉悦だけが刀身を揺する。腹を抱える腕が無い事だけが真に残念だ。

 

 

「―――――。―」

 

 

 朔は無反応に能面の如き眼光を湛えて、辰無の死体を貪る悪鬼の浅ましき姿を見やっていた。化物にしては脆弱な力だと判断し、呆気も無くその刃を表出する首筋に押し付けた。

 

 

 滲む腐った暗闇が染み渡るように仇川唯葉を包み込んだ。

 

 

 ――――死ね。

 

 

 闇に凝縮された憎悪の絶叫が輪唱しながら魔と化した唯葉に殺意を滾らせた。

 

 

 しかし彼女は死に絶えようとする最中にあろうとも、辰無の死体を食べ続けた。

 

 

 夢中に夫の死体を食べては満杯になった胃から今しがた収めた肉を吐き出す。それを繰り返す彼女の姿は獣以外の何物ですらなく、知性あるものの末路とはとても見えない。

 

 

 次第に込められていく朔の膂力に骨喰の朽ち果てた刃がぷつり、と音を立てて彼女の首を裂いた。一度裂け目が入れば寸断は容易く、慣れた手つきで朔の手腕は一つの首を落とす。唯葉は気付いていないのか分からないが、嬉しそうに辰無の咽喉を飲み込んだ。

 

 

「―――。――」

 

 

 ごり、ごり。

 

 

 頸部に当たる骨の硬さに呻る物音が異物のようであった。肉を斬り、骨へと届いた刃にかけられた力に女の首がぶれていくが、それでも唯葉は辰無を貪った。

 

 

 まるで、縋るように。

 

 

 圧せられた力は骨を切断するのではなく、潰すように侵入を果たした。 

 

 

 そして勢いのままに骨喰の刀身は空を斬った。

 

 

 彼女の首が物言わぬ物体へと成り果てるその時。

 

 

「――――さ、ん」

 

 

 彼女の頬に垂れる一筋の雫は、きっと七夜朔の見間違いにちがいなかった。

 

 

 □□□

 

 

 闇が呼吸する。

 

 

 ごとり、と音がして二人を包み込んでいた骨喰の闇が霧散する。

 

 

 唯葉と呼ばれた化物の首は縊られた。その腕の中に食べ残しされた辰無の残骸を抱きながら、二人の亡骸は離れる事無く椅子に腰掛けている。宛らそれは愛を確かめ合う男女のようであった。

 

 

「―。―――――」

 

 

 沈黙が重苦しく空間を押し潰していた。

 

 

 終焉を迎えた地獄において、沈黙するもの七夜朔以外に他ならない。ここは既に停止しているのだ。余韻も無く、人は死んでいく。殺される。

 

 

 其処に悲しみを見出すものがいるのならば良かったのだろう。其処に憤怒を抱くものがいるのならば救いだったのだろう。

 

 

 しかし、ここにいるのは物言わぬ死体と物言わぬ七夜朔。鬼に何を期待するのか。

 

 

 ならば、それを打ち破るものは人、あるいは神、そして悪魔以外の何物でもない。

 

 

『……ひひ。んまあこんなモンか、ね』

 

 

 不躾な骨喰の声音が固定化された空間に亀裂を走らせた。

 

 

『この程度の容量ならば、致し方無エ。そもこの程度の化物に期待するのが酷ってモンか。悲哀が混じってイるのはいただけないが、憎しみは確かに在んな。ならば、これで良シとするのが上等かァ?』

 

 

 ひひ、と亡骸の残滓を吸いだして骨喰は嘲笑した。

 

 

 七夜朔はしかし何も言う事は無く、その瞳の奥に二人の姿を映し出した。

 

 

『ひひ、シカトかい。んなら、アンタはどう思うんだィ。ええ? お嬢ちゃん』

 

 

「――――ひっ!?」

 

 

 ――――扉が不自然な軋み音を響かせる。

 

 

 隙間から覗く闇の向こう、ぱたぱたと軽やかな駆け足の音が木霊していった。

 

 

 □□□

 

 

 ブローチを取りに戻っただけだった。次いで父の驚いた表情を見たい。

 

 

 ただそれだけのために、仇川しほ子はマンションに戻ってきた。親戚から迎えに来た者の眼を盗み、車から急ぎ足でもって戻ってきた。

 

 

「ひっ、……ひっく、……んっ」

 

 

 星型のブローチは父がお土産として買ってきた一品で、しほ子はそれが大のお気に入りだった。中には写真が収められるように作られており、彼女は当然家族全員が揃っている写真を入れていた。

 

 

 しほ子は家族が好きだった。言葉を知っていれば愛していると声高々に叫ぶ程に。だから二番目に大切な物として家族写真が収められたブローチは至極大切にしてきた。無論、一番は家族そのものだ。

 

 

「ぅ。ああ、あああ、あああああああ……っ」

 

 

 零れる滂沱の涙に嗚咽が混じり、引き攣った表情は恐怖と絶望に彩られる。息を切らしながらしほ子はただ走り続けた。逃げ続けた。

 

 

 切っ掛けは、ほんの好奇心だった。

 

 

 マンションに戻ってきたしほ子はエントランスでエレベーターの扉が片方開かれていた事に気が付いた。中を覗いてみるとエレベーターのボックスは無く、そしてそろそろと内側に首を差し出すと眼下には奥深くまで続く空洞が落下していたのが確認できた。

 

 

 この時点まではよかった。エレベーターにはこんな空洞があるのだと思い、早くブローチを取りにいかなければと、反対側のエレベーターを使用し自宅まで戻った。

 

 

 ブローチは自室に置かれており、彼女は安心してそれを首から下げた。次いで中を開いてみると、そこには仏頂面な父親の表情と柔和な笑みを湛えた母親、それに挟まれるように手を繋いだしほ子の姿があった。

 

 

 彼女はそれを見ているとなんだか嬉しくなって、無性に父の顔を見たくなった。母はこれから向かうであろう親戚の家で療養しているのでもう直ぐ逢えるが、果たして次に父と逢うのはいつになるだろうか。しほ子は幼げながらに寂しくなった。

 

 

 写真も良いのだが、やはり本物には勝てはしない。

 

 

 そう思って父の姿を探したのだが、父親の姿はどこにも見えなかった。きっと仕事に向かったのだと半分の諦めで彼女はエレベーターに乗ったのだ。

 

 

 始めに乗ったとき、しほ子の頭の中にはブローチの事しかなかったので気付かなかったのだが、先ほど乗ったエレベーターの階層を表示するボタンの列の下に位置するケースが開かれており、そこに見慣れぬボタンがあった。

 

 

 マークの描かれていないボタンである。非常用に設置された呼び出しボタンで無いことは明確であった。しほ子は生まれた頃からこのマンションに住んでいたので、それぐらいは分かる。つまり導かれるのは、このボタンをしほ子は知らないという事であった。

 

 

 そこで悪い事にしほ子の好奇心がむくむくと浮き上がったのである。元々彼女は活発な質の少女であったし、物怖じする性格でもなかった。だからだろう用事も済んだ彼女は早く親戚の下に行かなくてはならないと理解しながらも、未知のボタンが秘める誘惑に負けてそのボタンを押したのである。

 

 

 そして、彼女は見てしまったのだ。

 

 

 療養と言われていた母が、いた空間を。

 

 

 愛する父が笑顔を浮かべる母に食われ。

 

 

 愛する母が悪鬼に殺されるその瞬間を。

 

 

『ひひ、どこに行くんだィ、お嬢ちゃン?逃げるなら早く逃げねェといけないゼ、嬢ちャんが遅ければ憐れな小娘はあっといゥまに鬼の餌食さねェ』

 

 

 背後から金属のような恐ろしき声がする。

 

 

 恐慌状態のままに彼女はその声音が悪魔の声だと信じて疑わなかった。

 

 

 だから彼女は逃げた。あらゆるものから逃げた。

 

 

 一目散に駆けて、途中転びそうになって支えた掌を擦り剥きながらも彼女は走ってエレベーターの開閉ボタンを叩いた。おそい。刹那が伸びた時間に扉が開く速度があまりに遅く感じて、彼女は思わず背後を見やる。

 

 

「ひぅ!?」

 

 

 咽喉が引き攣り悲鳴が上手く出来なかったのは、無理からぬ事であった。

 

 

 彼女の後方、そこの重い扉の前に、ソレはいた。

 

 

「――――、――」

 

 

 仄暗い通路の中で全身に闇を纏い、不気味な日本刀を隻腕に握りしめて、それはゆらゆらと揺れるようにゆったりとした歩調で歩いてくる。時折紛れる闇の中に長身痩躯の男がいて、髪の隙間から冷たい鬼火のような瞳が蒼々と灯されていた。

 

 

 瞳が、しほ子を見ている。そして追ってきている。

 

 

 未だ幼い彼女にその恐怖を耐える術はなく、彼女の足元には湿った水が滴ったがそれを恥じる余力すら彼女には残されていなかった。

 

 

「は、はやくきて、はやくきてよ――――っ!!」

 

 

 涙ながらに叫び声を上げながら、しほ子はボタンを押した。

 

 

 叩きつけるようにボタンを絶えず押している間にも、鬼はゆっくりと近づいてくる。

 

 

『嗚呼、憐れだなァお嬢ちゃン。お嬢ちゃんも血は少ないが、混血だろゥ?ならば存分に殺さなきゃなんねエ。あの女じャあ足りねえンだ、まるで精神の意欲が足りはシねえ』

 

 

 鬼の歩調はいやに無く遅くて、まるでしほ子を追い詰める事を楽しんでいるかのような。果たして鬼に捕まった人間はどうなるのか。遊びではない事実に彼女は震える。

 

 

 早く。早く。

 

 

 早く。早く――――っ。

 

 

 彼女の祈りが届いたのか、ちんと軽い音と共にようやく扉は開かれ、しほ子は割り込むようにエレベーターの中に入り込んだ。もんどりうちそうになるのを堪え、今度は『閉』のボタンを連打する。

 

 

 扉の側に設置されたボタンを押す。だから彼女からはソレの接近が良く見えた。良く見えてしまった。ソレの身から、握る刀身の刃先から滴る赤色の水。それは一体何なのか、彼女は見て、気付いた。

 

 

 それが、彼女の愛する両親の血飛沫であると。

 

 

「――――い、い、いや」

 

 

 消えそうな吐息にも似た叫びは、やがて大絶叫へと変貌する。

 

 

「いやああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!?」

 

 

 最早狂乱でもって彼女は『閉』ボタンを叩いた。

 

 

 やけにゆっくり閉まる扉。

 

 

 呻くような機械音。

 

 

 ひたりひたりと耳につく、誰かの足音。

 

 

 ――――そして。

 

 

 あと少しで扉が閉まろうとしたその時、彼女の精神が限界を迎えた。既にアレが殆ど見えなくなった事もあるだろう。彼女は壁に力なく背中を預け、ずるずると座り込んでしまった。

 

 

「ぱぱ……ぱぱぁ、ままぁ…………ひっく、うぁ、あああああああああああ――――っ」

 

 

 涙を抑える事も出来ずに、彼女は泣いた。父、母。二人の姿が脳裏に浮かんでは消える。共に過ごした日々。プレゼントをくれた父の表情。いつでも笑顔を絶やさなかった母の姿。走馬灯のように次々と一緒にいた光景が彼女を見つめていた。

 

 

 エレベーター内部に彼女の悲哀が溜まっていく。何かが終わった。きっと全てが、彼女を構成する何かが全部終わってしまった。

 

 

 さらさらとしほ子は崩れていく。彼女は砂の一粒に過ぎず、それが崩れて、砂になる。砂のように、消える。

 

 

 それでも、瞳から溢れる悲嘆の涙は絶望の粘り気がした。

 

 

 ――――――――っぎゃん!

 

 

 あと少し。ほんの少しで完全に閉じられた扉の間隙、その隙間からは殆ど外の光景は見えない。それぐらいにあと少しだというのに。

 

 

 金属のけたたましい罅割れ音がエレベーター内部を切り裂いた。

 

 

「――――ぁ」

 

 

 扉の間から一本の刃がおどろおどろしくその姿を顕現させていた。

 

 

 それは腐った闇を纏う朽ちた日本刀であり、その外観には薄ら寒さへ感じてしまう。切っ先は真っ直ぐにしほ子へと向けられていて、今にも刀身がしほ子の眼を突き刺してしまいそうだった。

 

 

『よう、お嬢ちゃン。ひひ、どこに行こウってのか。こコが手前の終焉っつウのによ』

 

 

 腰砕け、最早立ち上がる力さえも失った少女を金属音が嘲う。

 

 

 そして骨喰の刀身が左右に動かされていく。機械仕掛けの扉を抉じ開けられんとする人外の力に今にも折れてしまいそうな刀身は少しも罅割れず。

 

 

 ――――少しずつ、少しずつ扉は開かれていく。

 

 

 ぎしぎしと鈍い音を立てる扉。しほ子にはそれが存外にゆっくりと開かれているように見えた。 引き伸ばされた時間は恐れによるものだろうか。それすら幼いしほ子には分からない。

 

 

 ただ、その僅かな時間の合間にしほ子の理性はここではない何処かへ軽やかに飛翔した。

 

 

 断続された映像がしほ子の目の前で繰り広げられる――――

 

 

 しほ子は何処かの草原を歩いていく。両隣には父と母がいて、しほ子の両手を握っていた。相変わらず仏頂面な父はどこか微笑ましげに、そして美しい母は柔らかな笑みを浮かべてしほ子と父を見つめていた。

 

 

「ぱぱ、……ママ――――」

 

 

 ここから先には何があるのか。広がる若草の香り、緑色の海の最果てに暖かな光が当てられていて、言葉を交わさなくとも、あそこに向かうのだとしほ子は確信を抱いた。確信が彼女の首を動かす。しほ子は両親に目を合わせた。二人は緩やかな風に包まれながら髪を靡かせて、しほ子を見守っていた。

なんだか彼女は嬉しくなった。

 

 

 心配や不安、あるいは怠惰や飽きなど一切のここから先には見えない。それは確かな幸福をしほ子に予感させた。

 

 

 だからしほ子は空から降り注ぐ光にも負けない太陽の笑みを浮かべて――――。

 

 

『可哀想な子羊は腹を空かせた化物に喰われるノが常道ってな、ひひ。まア、その化物はもう一匹の化物を殺した化物なんだがナ』

 

 

 鬼が、エレベーター内に現われた。

 

 

 座り込んだしほ子は呆然とした心地でソレと対面した。

 

 

 ソレは人間の男のようにも見えた。しかし、それが人間であるはずが無い。

 

 

 何故ならその瞳は、その虚空を思わす瞳の蒼の中には人らしい光も温かさも無く。

 

 

 ――――おん。と音がして。

 

 

 エレベーターの扉は次第に閉じられていく。ゆっくりと閉じられる扉、その隙間から消えていく仄暗い光景をしほ子はきっと忘れないだろう。

 

 

 人工的な光が支配する個室には鬼と混血。

 

 

 七夜と混血。

 

 

 ならば、これから起こるであろう光景はただ一つ、たった一つだった。

 

 

 そして――――。

 




 殺人鬼。

 朔の魔眼。朔の目的。

 刀崎白鷺。刀崎の狂乱。

 骨喰の目的と正体。

 仇川

 人と魔。七夜と遠野。

 親と子。

 家族。

 あと、もしかしたら星型のブローチ。

 子供だから殺さないとか、殺しに理由付けるのは殺人鬼ではないと私は思うのです。

 感想おくれやす。 

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。