七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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過去編 Rhapsody in Crimson 上

 聳える高級マンション。

 

 

 N県の地方都市、その一角に佇む仇川(あだかわ)マンションは所謂高級マンションと呼ばれるに相応しい呈を成している。

 

 

 駅を近くに覗くその地域では密集するような形で多くの建築物が聳え立っており、仇川マンションはその中心部にある。マンションは仇川という響きの悪い名とは裏腹に清潔感と機能美溢れた趣となっており、外観は曲線にだが僅かに捻れ、外部をなぞるように上に辿ると次第にそれは細くなっていく。

 

 

 それは上に行くほど階層の部屋数が少ないからであり、その分だけ一部屋ごとの広さが増していくからだった。最上階に到っては一室しか設置されておらず、その地上から始まり捻れ、次第に細くなっている外観は冷たい氷柱を思わす。

 

 

 階層数は全四十。エントランスとなる一階には居住スペースは作られておらず、広い其処には趣向を凝らされた調度品が数多く設置されている。海外から高い評価を得た新気鋭の絵画や、あるいはどこぞから発掘された古めかしき壷など種類も豊富に置かれており、エントランス中心には観賞用のプラタナスが植えられていた。そこから最上階に到るまで吹き抜け状になっており、白を基調としたマンション内に一色だけある緑は清涼感すらあり、エントランスは美術館の如き様相を成していた。

 

 

 エントランスの奥には昇降の階段があり数は東側と西側の二つ。またその階段に挟まれるような形でエレベーターが二つ隣接されていた。電動式エレベーターのボックス型で、奥行き及び高さは約2メートル。狭さとは無縁の程よい造りではあるが、空間には妙な圧迫感があった。

 

 

 時分は真昼。天上の太陽が傾きかけた頃である。

 

 

『ええ、私としても心苦しい事ですかこれも致し方の無い事です。残念でしたね、辰無(たつなし)さん。ただ安心はして下さい、隠蔽工作はこちらが受け持ちます。存分に死んでも大丈夫ですよ』

 

 

「……わかっております」

 

 

 その仇川マンションの最上階、街を眼下に覘く一人の男がいた。

 

 

 最上階の部屋、玄関を抜け一本の通路を真っ直ぐに進むとリビングに辿り着く。質素な造りのリビングであった。高級マンションの最上階でありながらその内観は外観と比較して見落ちするやも知れぬが、よく見てみれば室内の調度品は趣向を凝らされた逸品ばかりであり、華美な装飾を施されぬ造りと丁重なる配置には侘び寂にも似た感慨を与える。

 

 

 白髪が混じる、静謐な顔つきをした壮年の男である。

 

 

 上質のスーツに身を包んだ男、仇川辰無は毛並みの良い絨毯を踏みしめながら、ベランダにでる窓際から外を見つめていた。瞳は何も見ていない。

 

 

『理由は聞かないのですかな?』

 

 

「理由を知っても結末は変わらない。……それに聞いたところで久我峰さまがお答え下さくださるなどと思っておりません」

 

 

 男の表情は重く暗い。しかし歪ませてはいなかった。絶望しかないと理解しながらも直向に歩む殉教者のような面持ちで男は携帯電話を使用していた。

 

 

『最期の時であろうと言うのに、その不変。流石は仇川辰無(たつむ)、という所ですか?私としては貴方の慌てふためいている姿を期待しましたのに』

 

 

「……期待に沿えず、申し訳ありません」

 

 

『そんな事少しも思っていないでしょう?』

 

 

 ふふふ、と惨たらしく電話越しの相手、久我峰斗波は笑った。

 

 

 電話の向こうにいる相手、久我峰斗波は男の上位者だった。

 

 

 近年電話越しの相手、遠野分家久我峰家の傘下に入った事もあるが、その経営における手腕や悪辣さ、冷徹さに於いて何一つとして敵わないと男は熟知している。大よそ権力や金銭の機敏さに於いて男の感覚は非常に有能であったが、それでも久我峰の影を踏めるとはまるで思えなかった。

 

 

 仇川辰無は久我峰が所属する遠野グループのように、親類が運営する財閥の出身ではない。仇川は辰無が一人で立ち上げた名であり、今ではそれなりの辣腕家として名が知られるに至った企業だった。しかし、企業としての噂を先んじて広まったのはその中心人物である仇川辰無の奇妙な噂だった。

 

 

 曰く、仇川辰無は人間ではない。

 

 

 遺伝子的に考察すればかれは間違いなく正真正銘の人間だったが、噂は彼の存在そのものではなく辰無の行いそのものにあった。

 

 

『しかし、今でも思い出しますよ。貴方と初めてお会いした当時の事を』

 

 

「……若造の向こう見ずを掘り返すのはお止め下さい。それに、今はそんな話をする時ではないかと」

 

 

『まあ、良いではないですか。私は覚えていますよ、初対面の人間に行き成り「貴方は信用のならない人間だ」と言われたあの時を』

 

 

「……」

 

 

 仇川は福祉関連の企業である。国内を始め、海外の発展途上国に対し食料の提供を行い、穀物の育て方や苗の発見方法、更には調理方法の提供などを行い、今ではそれ以外の慈善活動も手がけているが、その抜本には徹底した餓えの根絶が謳われている。

 

 

 その理由は仇川辰無本人が幼少時から極貧の生活を送り、飢餓を体験した事に始まる。

 

 

 現在日本国内において飢餓を経験する者は少ない。しかし、一握りの人間は今も尚明日も見えぬ貧しさのなか、今日を生き抜く米の一粒すらも手に入らぬ者がいる事も事実である。そして仇川辰無はその一握りの人間だった。

 

 

 仇川辰無はその日を生き抜くために木の根を齧り、降り注ぐ雨で咽喉を潤した。人肉は食さなかったが、痩せこけた犬猫を捕らえて食し、熱に魘された事もある。ゴミ箱の中に残された腐った弁当に貪りつき、幾度となく盗みを働いた。栄養不足な体では大抵逃げ切る事ができず、暴力の的にあった。だが、彼は何度も盗みを行った。

 

 

 全ては生きるためだった。親もいなかった辰無は親戚が誰なのかも知らず、たった一人で生きてきた。未だ子供の身であるからまともに働く事も出来ず、収入を得る事もなかった彼は、だからこそ餓えた者は人間ではいられない恐怖をこの上なく思い知っていた。

 

 

 社会から転げ落ちた者のたまり場で日々繰り返される獰猛な争い、一欠けらのパンのために殴り合いが開かれ、遂には人殺しまで行われるのである。そして転がる死体に金目の物はないかと浮浪児が群がり、それを大人が蹴飛ばすのだ。

 

 

 だから彼は飢えを真底理解していた。食欲こそ人を人足らしめる理性の境界線であり、飢餓に囚われた者は人ではなく畜生に成り下がるのであると。

 

 

 それだからこそ大人と成った彼は飢餓を憎んで飢えを根絶しようとした。その人が優しく出来ない理由は満たされていないからだと考え、慈善活動を行い福祉団体はては企業として活動した。幾つもの国に食料を提供し、難民への慈善活動を行った。いつしか彼は企業家として名が知られるにまで至り、今ではこうして地上を見下ろす立場にいる。かつて仄暗い地上で空を見上げていた頃とは大違いだ。

 

 

 しかし、だからこそ彼は人間ではなかった。

 

 

 彼は人の善意を信じているが、己に善意があるとは到底思えなかったのである。己がこのようにするのは飢えを憎むからで、それには人に対する善意が含まれなかった。全ては人の善意を信じ、己の愚かさを知っているが故だった。

 

 

 ひとたび畜生として地べたを這いずった彼は他人こそが素晴らしく、己はそれを際立たせる泥土でしかないと彼は知っていたのである。

 

 

 だからだろう。利益のみを追求する久我峰のやり方を彼は久我峰傘下へ参入した当時一向に認めはしなかった。

 

 

「……それに『利用しやすそうな人間だ』と返したのは貴方だと思うのですが」

 

 

『さて、そんな事記憶にはありませんが』しれ、と久我峰は言う。

 

 

『ただ、顔合わせをさせた方の慌てようはおかしかったですね。出会っていきなり険悪なムードとなるのですから』

 

 

「……私が貴方に噛み付いていただけです。事実、久我峰さまだけはあの時を愉しんでいた」

 

 

『ええ、実際愉しんでいました。懐かしいものです』

 

 

 そして久我峰は当時を思い出したのか、くつくつと笑っていた。

 

 

 久我峰傘下への参入は仇川辰無本人が望んだ事ではなかった。別に彼は財力の保持や権力増強のために動く人間ではなかったからだ。それなのに今こうして上と下との関係と成り、過去を懐かしむに至ったのは久我峰からの要望があったからである。

 

 

 成り上がりで台頭し碌な後ろ盾もないが活発な動きを見せる仇川には当時から敵が多かった。あからさまな示威行為は無論、酷い時には犬の死体(当時から仇川辰無の過去の話は有名だった)が送られてきた。

 

 

 故に久我峰の話は本人の感情を除けば有益な誘いだった。例え上の人間のやり方が気に喰わなかろうとも、辰無としては後ろ盾があればよかった。ただ、それが遠野グループで最も財力を保持する久我峰だと知ったときには辰無は珍しくその表情を崩したものだが。

 

 

『本当に懐かしい……』

 

 

「……」

 

 

 久我峰傘下への参入から少なくとも七年以上は経過している。

 

 

 あらから辰無は久我峰の下で働き続けた。遠野グループへと久我峰の擁護で参入する者は珍しく、当時は未だ健在だった遠野槙久の顔色の悪いながらに憮然とした表情や、小さな黒髪の少女、今では遠野当主である遠野秋葉の可憐な姿を含め、多種多様の感情を辰無は向けられた。

 

 

 明らかな蔑みや、僅かにちらつく懐疑、利用しようとする者の肥えた物欲などを一身に受けて、辰無は動き続けた。

 

 

 その利益のためならば容赦なく人を切り捨て、骨までしゃぶり尽くす久我峰の人間性はとことん受け入れられないものだったが、少なくとも経営者としての手腕は驚愕に値するものだと辰無本人認めているところで、だからこそ今まで彼の目的や方針に従ってきた。

 

 

 しかし、それも今日で終わりだ。

 

 

『ですが、これで末期の会話が終わってしまうのは如何にも寂しいところです。どうでしょう、最期の話題として如何にこのような事になったのか話し合いませんか?私も人並みの罪悪感を抱くぐらいは未だ人間ですからね、貴方とは少しでも長く話をしたい』

 

 

「……わかりました」

 

 

 志を共に歩んだ故に、如何に久我峰であろうとも名残は覚える、と言う事だろうか。しかし少なくともその声音には男に対する憐憫は無い。そう読み取れた。

 

 

『実際貴方は良くやりましたよ。対応を考え、対策を練り、大よそ考えうる障害の排除。情報操作を始め、その殆どを貴方は自ら行った。実直と呼べる貴方ですから、それを私は好ましく思っています』

 実直とは即ち裏を返せば冷淡ですから、と久我峰は言った。だから。

 

 

『そう言えば、唯葉さんはまだお元気ですか?』

 

 

「……っ」

 

 

 相変わらず人の心を見通す事に長けている。

 聞かれたくは無い事であろうとも、遠慮なく久我峰は言葉にする。

 

 

「……アレは、健やかに過ごしています」

 

 

 

 

『監禁して、ですかな?』

 

 

 

 

「……っ!、はい」

 

 

 怒鳴りそうになる心持を辰無は耐えた。

 

 

 変わり果てた妻を外部から遮断しようと閉じ込めている事実はそうなのだから何も変わらない。

 

 

 しかし、何故久我峰は知っているのか。妻を守るためには万策を尽くし偽装工作も完璧だったと辰無は自負している。秘密裏に計画を遂行し、誰にも事実が触れないようそれなりに上手くやってきたはずだった。それなのに、電話越しの相手である久我峰が既に知っているのは何故だ。

 

 

 あるいは、久我峰が情報をリークしたのか。

 

 

 ――――あの七夜の体現へと。

 

 

『いえ、それは違います』

 

 

 しかし、言葉にもしていないのに久我峰は否定する。

 

 

『いやはや、流石に私と言えども貴重な協力者を「嵐」に投げ出すような真似は致しませんよ』

 

 

「……それは、真ですか?」

 

 

『追求をするとは、なかなか追い詰められているようですね。ですがそれほどまでに私への信頼が無かろうとも、私はやっていませんよ。今しがたその事実を知ったのですから、そのように手を回す事など到底無理です』

 

 

「……そう、ですか」

 

 

 久我峰がこういうのならば、そういうことなのだろう。

 

 

 腹の底では何を考えているか分からぬ男である。その趣味も人格もまるで理解できない最悪な男だ。久我峰は男の中の男だった。例え真顔で嘘を吐き、笑顔で騙しもするが己が抱いた志は決して裏切らないと、辰無は久我峰を評価していた。

 

 

 その心情を推し量る事は出来ないが、『今この時』でこういうのだから、きっとそうなのだろう。

 

 

 しかし、ではどこから情報は漏れた?

 

 

『実直な事は誇るべき事だと思いますが、しかし完全ではなかった。「この世、遍く悉くには理解も出来ぬ奇怪がごまんと蔓延してるが完全は存在しない、だからこそ人は完全を目指し続ける」とは今は亡き刀崎梟の言葉ですが、どれだけ頑張ろうとも穴は必ず開いている……その穴が一体何なのか気になりませんか?』

 

 

「……はい」

 

 

 久我峰は厭らしくもわざとらしい口調だった。これが作られたものではなく、素の声音であるのだから侮れない。

 

 

 しかし、今更理由を知って何になるというのか。

 

 

 書類工作はもちろん、情報操作、目撃者の排除、あらゆる手は下したはずだ。

 だが結果はこれだ。どこからか情報が漏れて、今まさに『鬼』が迫ってきている。

 

 

 どこで間違えた。どこで下手を打った。思考は潜り込んで真実を探り当てるが辰無の中身にそれらしき影はちっとも見えない。心当たりが全く無いのだから、きっと辰無自身に原因は無いのだろう。ならばどこから情報は逃げたのだ。

 

 

 ――――いや、待て。

 

 

 今久我峰は聞き逃してはならない名前を出さなかったか?

 

 

「…………刀崎」

 

 

『ええ、そうです。刀崎のところの白鷺嬢がどこからか嗅ぎつけたようです。覚えていますかな、白鷺嬢を?刀崎家のご令嬢で家系で言えば三女になりますね』

 

 

「……ええ、それとなくは」

 

 

『だったら話は早いです。白鷺嬢、どうやら刀崎梟がお亡くなりになってから色々とやっているようですが、今頃は貴方の話を聞き及び有頂天で吹聴して周っているのでは?「仇川唯葉は気が狂い反転したのです」と、締め上げられた小鳥の鳴き声にも似た声でね』

 

 

「………………あの、雌狐が……っ!」

 

 

 ぎりぎり、と携帯電話が握りしめられ悲鳴を上げる。

 しかし、それだけでは彼の憤りは治まることを許さなかった。

 

 

 刀崎白鷺とは未だ刀崎梟が存命中に産まれた息女であり、立場で言えば梟の三女に当たる。当時七十を越えた梟が跡継ぎのために拵えた子供だったが、かつてその刀崎としての才能の欠如から彼女は無能と罵られ放逐された身の上だった。

 

 

 その刀崎白鷺が動いている。

 

 

 彼女に知られたことは厄介だ。白鷺自身は取るに足らない存在であるが、彼女に知られたという事はつまり。

 

 

『刀崎に知られたのは厄介ですが、しかしそれよりも問題なのはそれが退魔の耳に入った事です。七夜朔はもう間もなくやってくるのでしょう。あとどれほどかはご存知で?』

 

 

「……恐らく、もう二時間は掛からないでしょう」

 

 

 内心忸怩たる想いで辰無は言った。

 

 

 三時間あまりでやってくると知れただけで上等であるが、しかしその三時間でやれる事など少ない。取り合えず娘は親戚の所へと行くように言ってはあるが、耳を澄ませば近づいてくるだろう鬼の吐息が聞こえてきそうだった。

 

 

『誤差としては一分単位で考えておきなさい。彼には豪胆よりも臆病者の思考で対策を練ることが望ましいです……しかし、なるほど。確か南の方にいたらしいですが、相変わらずなようで』

 

 

「……七夜朔と、お会いした事が?」

 

 

 ふと訝しく問うと、久我峰はこの男には珍しく暫しの逡巡を経て『ええ』と応えた。

 

 

『私も以前までは遠野の館に住んでいましたが、七夜朔は一度だけ拝見しております』

 

 

 数瞬、久我峰が何を言っているのか辰無は理解できなかった。

 しかし瞬きの内にその恐るべき事実を辰無は噛み締める。

 

 

「……それは、つまり」

 

 

『はい、七夜朔は一時遠野邸にいたのです。約十年前の事です。先代当主槙久様によって七夜朔は囲われていたのですよ、遠野の館に』

 

 

「なぜ、七夜朔が……、それは真ですか?」

 

 

 それから先は久我峰本人の言葉によって遮られた。

 

 

 先ほどの懐疑とは異なる衝撃が辰無の口から問いを放った。それほどまでに、その情報は信じがたいものだった。遠野グループの本拠地に当たる遠野邸にあの『鬼』が住んでいたなど、あまりに信じられるものではなかった。

 

 

 しかし、久我峰は『本当です』と言った。

 

 

『ええ、疑うのも無理からぬ事ですが事実です』

 

 

「……」

 

 

『七夜朔は当時七夜の里が壊滅したのち、刀崎梟が確保し彼によって誑かされた親族から強要された槙久様によって軟禁状態にされておりました。期間は恐らく一年にも満たないでしょうが、少なくとも十年前に七夜朔が遠野邸にいたのは間違いありません』

 

 

「……それを、知っているものはどれ程?」

 

 

『さて、あまり多くは無いと思いますが。何せ七夜朔を囲っていたのは当時身内に甘いとは言え遠野当主だった槙久さまと、妖怪とまで言わしめられた刀崎梟です。彼らは相手取り、そんな事を自ら知ろうなどと考える事が出来る方も当時少なかった』

 

 

 確かに遠野当主と刀崎当主を相手に攻勢を仕掛けるなどという愚行を犯すものはいないだろう。目的のためならば手段を選ばぬ苛烈極まりない遠野槙久、そして手段のためならば目的を選ばぬ壮絶極まりない刀崎梟。その力は決して侮って良いものではなかった。

 

 

 しかし、事が事だ。恐らくその事実が知れ渡れば忽ちに盤上がひっくり返る。

 

 

 遠野と七夜は何年も前から敵対関係にある。遠野槙久が七夜攻めを行い、遠野の私兵が〝七夜朔〟と〝軋間紅摩〟によって壊滅状態に陥った真実を知る者は揃って口を紡ぐが、あの戦争に赴かなかった者へと語っても信じられはしないだろう。当時子供だった朔にその様な事が出来るはずがないのだと。

 

 

 それほど前から遠野と七夜、正確には遠野と七夜朔は殺し合いを繰り返してきた。いや、七夜朔によって遠野は殺されてきた。朔の復讐によって殺められた総数は数知れず、その中には欠かす事のできない人材もいた。

 

 

 そしてその凶手は留まる事を知らない。辰無は以前から遠野槙久の重体には七夜朔が原因だと思っているが、これは間違いないだろう。そして十年前に七夜朔が遠野邸にいたのが事実であるならば真実味が増すに違いない。しかし、それが真実であるならば恐るべき事だった。

 

 

 それは即ち、十年前から七夜朔の復讐によって惨劇が始まっているという事だ。

 

 

『そして私が七夜朔を見かけたのもそんな折の事ですが…………聞きたいですか?』

 

 

 珍しく久我峰が問う。

 それは相手をいたぶる手段か、あるいは考えにくいが気遣いか。

 

 

「是非に」

 

 

『……あれは本当に偶然です。私が望んだ結果でもなく、また誰かが用意した場面でもありませんでした。しかし如何なる数奇か、私は見てしまったのですよ。七夜朔の姿を』

 

 

「……」

 

 

『遠野邸で当時ご健全だった槙久さまに呼び出された私はその時、ふといつもならば気にもしない外を見たのですが……』

 

 

「はい……」

 

 

 躊躇いがちに久我峰は一呼吸を置いた。

 

 

『そこにはこちらを見ながら己の体に刃を突き立てる七夜朔の姿があったのです。私を見ながら、なんどもなんども腕に足に腹に胸に、なんども、なんども刃物を突き刺して。……血飛沫に塗れながら、真っ直ぐに私を見て』

 

 

「……それは、なんという」

 

 

 そこから先は言葉に出来なかった。

 

 

 当時話を聞く限りでは小さな子供だったらしい七夜朔がそのような自傷行為に走るなど狂気の沙汰としか思えない。いや、あるいはだからこそ七夜たる由縁なのだろうか。

 

 

『アレは人の身を纏った悪鬼です。いえ、悪鬼ならばどれほど良かったのでしょう。あれはそこらの殺人狂とは異なる正真正銘の殺人鬼です。狂気がそのまま正常と化した人殺の鬼です』

 

 

 殺人を決行する存在には少なくとも三種類いる。 

 

 

 殺人によって己が目的を達成する人間。

 殺しそのものに快楽を見出す人間。

 理由無く殺す人間。

 

 

 だが、七夜朔はそのどちらとも違うと久我峰は忠告する。

 

 

『お恥ずかしい話、私はあの時始めて七夜というものを見たのですか、身震いしましたよ。当時七夜朔はまだ小さな子供でしたが、その茫洋な佇まいとどこを向いているかも分からないその視線は今でも時たま夢に見ます。……ですが、私が真底肝を冷やしたのはその瞳でした』

 

 

「……貴方が肝を冷やしたのですか?」

 

 

『私を何だと思ってるんですか。少なくとも半分ぐらいは貴方と同じ人間ですよ』

 

 

 憮然とは違う感情で久我峰は苦笑したが、すぐさまそれも潰えた。

 

 

『あの瞳は危険です。蒼の魔眼を顕現した感情も読めぬ瞳ですが、溢れんばかりに詰め込まれた殺意が一切彼から滲まずに内側にとぐろを巻いているのですよ。分かりますか?当時幼いと言っても良い子供がそんなものを抱えている異常を。……彼は殺意の塊、ありったけの殺意しかない本物の殺人鬼です。殺人そのものを目的とし、快楽を抱かず殺人そのものを理由とする殺人鬼。常識など通用しないと心がけなさい。……でなければ、あっという間に死者の仲間入りですよ』

 

 

 知らず息を呑んだ。そして戦慄した。

 

 

 果たして、それは人間なのだろうか。

 

 

「……かしこまりました」

 

 

 辰無はそう言葉を紡ぐ事しか出来なかった。電話越しであるというのに久我峰の気迫が伝わってくる。危機感と少しばかりの悲壮を認めた声音である。飄々とした態度ですらない相手を飲み込まんとする久我峰の意志は、それほどまでに七夜朔を警戒しているということだった。

 

 

 ならば何故、久我峰の目的は――――。

 

 

『そろそろ時間でしょうね』

 

 

「……はい」

 

 

 今生の別れは刻々と近づいてきていた。迫る七夜朔に対し逃れる術は少ないながらも無くはないだろう。しかしそれは仇川辰無のみが逃れる場合だ。

 

 

 何故なら彼は人間であるからだ。

 

 

 噂によれば七夜朔は人間を殺さず、魔に対してのみその猛威を揮うと聞く。あくまで噂の域を出ぬ流言飛語であるがもしその噂が真ならば、彼は逃げおおせる可能性はある。

 

 

 だが、彼は逃げられない。

 正確に言えば、逃げない。

 

 

 妻を置いて逃げるなど出来ない、妻を連れて逃げる事も難しい。

 

 

 それを分かっているのだろう、久我峰は声をかけてくる。

 

 

『……このような事、本来ならば聞くべきではないのかもしれませんが。貴方は後悔をしていないのですか?』

 

 

「……どうなされたのですか、久我峰様。貴方らしくもない」

 

 

 珍しく垣間見える久我峰の気遣いを辰無はこれまた冗談めいた口調で流すが、久我峰はそれを許さなかった。

 

 

『そうですね。私らしくはない事です。明日には雨でも降るのではないのですか。何ならばご自分で確かめて御覧なさい』

 

 

「……それは」

 

 

 無理な事だった。

 

 

 仇川辰無が明日を迎えられないと、既に二人は理解している。朔に狙われた者が逃げおおせるはずが無い。何故なら迫ってくる存在は七夜なのだ。彼によって殺された混血は数知れず、また純然たる魔ですらも鏖殺せしめた絶滅主義者。その傍若無人さは嵐にも例えられる殺人鬼。一度彼の眼に入れば、忽ちに亡骸と化すだろう。

 

 

 しかし、伴侶を置き去りに逃げ延びるなど、辰無は出来ない。

 

 

 逃げるとは、全てを捨てると言う事だ。

 

 

 人間関係、財産、思い出や感情に至るまで、すべてと言うすべてを置き去りにして逃げる事は悲しいほどに辛い選択だ。今までの生活はもう送れず、誰とも接触できないそれを人は孤独と呼ぶ。そして辰無は孤独に耐え切れるほど人でなしではなかった。

 

 

 久我峰はそもそのような事態になる前に対処できる自信と自負がある。何故なら彼は陰謀渦巻く遠野に於いて尚腹黒さでは追随を許さぬ久我峰斗波である。久我峰斗波は腹で考えるとまで言われた陰謀の手だれなのだ。微笑んだ表情から甘い言葉で罠を張り巡らし、毒の沼地へと引き釣り込む蝮。陰謀を逆に利用して相手を地獄に叩き込む久我峰の長男なのだ。まずもって逃走などという選択肢を行うなどありえない。

 

 

『私は志し、それを叶える為この手を汚しています。別に私はそれで構わない。何故ならそれが私にとって最も価値ある事だからです。秋葉様が婚約を破棄しても尚、私はあのお方のため、秋葉様の本心を叶えるために動き続けてきました』

 

 

「……」

 

 

『そんな時に私はあなたと出会った。そして貴方も私に賛同してくれました。賛同して、私の個人的パートナーとして秋葉様を引き釣り落とそうとする者を秘密裏に処理した事もありましたね』

 

 

「……」

 

 

『けれど、全ては貴方が行わなくてもよかった事だ。貴方が行わずとも、私が行えばよかっただけの話。手間が省けた程度の事です。そしてその手間を省いた結果、貴方の末路は決まった。……だからあの日、私と共に泥沼を歩む事を選んだ貴方は本当に後悔はしていないので?』

 

 

「……――――確かに」

 

 

 静かに、辰無は言葉を紡ぐ。

 

 

 槙久が亡くなり遠野当主は未だ若者である遠野秋葉が執り行っている。しかし、それが原因で今遠野は妖しげな空気が漂っていた。秋葉は能力的には問題がなかった。ただ彼女が若いことが問題だったのだ。

 

 

 経験のない者は判断などを失敗する事が多々とある。財閥の当主、あるいはグループのトップとはその双肩に数え切れぬ命運を背負っているのだ。しかし、それでも彼女が遠野当主であるのは実績はなくとも溢れん才気でカバーを果たし、久我峰が秋葉の補助に尽力しているからである。

 

 

 久我峰も含み二人は若い。老人共も傀儡として二人を御す事が出来ると踏んだのだろう。しかし結果はこの二人によって遠野は持ちこたえ、更なる飛躍を見せんとしている。

 

 

 だからだろう。今遠野グループは二分化を見せようとしていた。元から一枚岩の財閥グループでははなったが秋葉を擁護する秋葉派と、保守派とも取れる行動を起こす者が寄り集まる刀崎派。それが明確化を果たそうとしている。

 

 

 久我峰はそれを見越し、元は婚約者である秋葉のために奔走し彼女の立場を守ろうと今も尚懸命な裏工作を行い、対陣の人間を処理している。

 

 

 そして辰無は久我峰の手伝いを買って出、今まで共に協力者として動いてきた。

 

 

「……私がいなくても問題はなかったでしょう。寧ろお力添えがどれほど微々たる物だったか、痛感も致しております。幾度自らの至らなさを思い知り、人の汚さに吐き気を覚えた事か」

 

 

 久我峰の傘下に入り、まず始めに任されたのは裏切り者の処理だった。それを彼は奥歯を噛み締め遂行した。助けてくれと懇願する裏切り者を彼は目を背けて処理した。

 

 

「私は間違っていたのかもしれません。己の領分を見誤り、存外の魍魎が跋扈する人の世を流す事も出来ない私は、久我峰様と共に歩む道を選ぶ事がそもそもの間違いだったのかもしれません」

 

 

『……』

 

 

 しかし、と辰無は言った。

 

 

「後悔は、一度たりともありませんでした」

 

 

『……』

 

 

「今でも貴方のことは気に喰わない。言葉が許されるのならば、貴方とは合わない」

 

 

 人の善を信じた仇川辰無と、人の悪を受け入れた久我峰斗波。

 

 

 彼らは生きた世界が異なった。

 

 

 貧困に喘ぎ、飢餓の苦しみを知りながら早々に人道を踏み外し人を殺めることも辞さなかった辰無は己が薄汚さをせせら笑いながら、狭い路地裏で囲われた空を見上げていた。

 

 

 富と権力を約束され、何不自由ない人は邪悪が腹の底に潜む事を潜在的に見出していた久我峰は人を嘲いながら、誰よりも高い場所で地上を見下ろしていた。

 

 

 同じ日本に生まれ育ちながら、なんという格差だろう。

 

 

 人にはそれぞれの世界がある。

 

 

 辰無には辰無の世界があり、久我峰には久我峰の世界がある。

 

 

 そしてその世界が奇縁によって触れ合った。

 

 

「ですが、久我峰様」

 

 

 どれだけ薄汚いものであろうとも、そこには必ず光がある。

 

 

 絶望の中に希望を見出す事と同じように。

 地獄の中に天国を見出す事と同じように。

 

 

 あの地上から見上げた小さな空のように。

 

 

「貴方の志はきっと尊いものだと、私は思っています。あの日貴方のお心を聞かされた私は、婚約を破棄された今でも遠野秋葉様の望みをかなえようとするそれを、きっと善いものだと受け取りました。それは今でも変わりません」

 

 

 暫し、久我峰は無言だった。無言で辰無の言葉を噛み締めていた。

 

 

『……いやはや、煽てられることは慣れていますが、……そんな所を気に入られたと直接言われるのは正直、戸惑うものですね』

 

 

「……久我峰様」

 

 

 久我峰は孤高だった。財に恵まれ権力を握り、見た目が醜かろうともその周りには大勢の人だかりがいた。しかしそれはおこぼれを預かろうと屯うハイエナで、張り付いた愛想を振り撒く事しかできない不快な存在だった。久我峰はそれさえも利用したが、結局彼の周りには利権を付けねらう俗物しかいなかったのだ。

 

 

 それを彼は悲しいと、あるいは虚しいとは思わなかった。人に期待するべきはその人がどれほどの機能を持ち、それを発揮し利益を得る事ができるかということだけで、それ以上のものはなかった。

 

 

 だと言うのに、久我峰は。

 

 

『そうですか、……貴方はもう、いなくなるのですか』

 

 

「……」

 

 

『ふむ、なんでしょうねこれは。ふむ、この感じは……私にはよくわかりませんが、――――まあ、いいでしょう』

 

 

「久我峰様」

 

 

 自身の内面に生じる心持を久我峰は把握しかねた。心を司る久我峰でありながら、彼は今この時己の中に波立つ感傷の細波をどうする事も出来ないのだった。辰無を失う事は真に惜しい事ではあるが、それも何かで埋め合わせれば良いだけの話なのだ。

 

 

 しかし、それを整理するには時間があまりに足りない。

 そして、それをどこか嫌がっている己さえいる。

 

 

『名残惜しさはありますが、そろそろ時間も差し迫った事です。これで充分ですかね、貴方のほうには何かありますか?』

 

 

 これで終わり。そう思えないほどに間際は淡白だった。元々辰無は闊達な人間ではないが、それでもこれが今生の別れだと思うと物悲しく思えてしまう。

 

 

 しかし、だからと言ってこれ以上長引かせても意味は無い。時間も無い事だ。

 それに、二人にはこれぐらいあっさりしていたほうがちょうどよかったのだろう。

 

 

「いえ、ありません」

 

 

『……わかりました』

 

 

 僅かに沈黙が舞い降りる。もう語るべきことは語った。これ以上に何かを告げることは無粋。しかし、そう思えば思うほどにこの沈黙は重たさを増していく。ただ久我峰の内心はどうなのか、それだけが気になった。

 

 

 そんな時だった。静けさが漂う室内に羽のような声音が浸透した。

 

 

「ぱぱ、準備できたよーっ」

 

 

 室内から遠くパタパタと軽やかな足音が聞こえてくる。子供の足音である。

 

 

『――――ふふ。しほ子ちゃん、ですか。彼女はどうするので?』

 

 

「……西に親戚がおります。そこに預けようかと」

 

 

『私が面倒を見ても構いませんよ?』

 

 

「……娘を手篭めにはされたくないので、遠慮いたします」

 

 

『失礼ですね。これでも私は真摯なのですよ、変態という名の』

 

 

「……」

 

 

 と久我峰が笑う。気付けばこんなにも短い遣り取りに先ほどまでの湿っぽい空気はどこかへと消え去ったようで、名残もない。きっとこんな軽やかさが上等なのだろう。

 

 

『では、辰無くん』

 

 

 そしてふと、電話越しの向こうで何故だかわからぬが辰無にははっきりと。

 

 

『いずれ地獄でお会いしましょう』

 

 

 久我峰が笑っているように思えた。

 

 

「……久我峰、さま」

 

 

 電話が切れて、味気ない電子音が耳を打つ。

 プー、プーと単調な物音には久我峰の声音は見出せない。

 しかし、それでも辰無は暫く携帯に耳を傾けていた。

 

 

 ――――プー、プー。

 プー、プー、――――。

 

 

「ぱぱ、もうわたし行けるよー?ぱぱー?」

 

 

 荷物は玄関へと置いてきてあるのか、手ぶらのままでしほ子はリビングに顔を出した。愛らしい顔が不思議そうに父を見ている。それに辰無はどこか躊躇うように携帯を眺め、そして閉じた。

 

 

「……しほ子、もういいのか?」

 

 

「うん、おばさんの家にママもいるんだよね?わたしすぐに行けるんだっ」

 

 

 しほ子は〝にへら〟と笑った。彼女は当年七歳になったばかりの少女なのだから、母が側にいない事に寂しさを覚えているのだろう。

 

 

「ママは〝りょうようする為に〟おばさんの家にいるんだよね。わたしおとなしくしてるよ、ママが早くなおるまで我慢するよ、しほ子えらいでしょ!」

 

 

「……、ああ、そうだな」

 

 

 そう言って彼女は小さな体を包みこんだ白いワンピースを軽やかに揺らした。

 

 

 彼女には心苦しく思うが嘘を告げている。未だ小さな我が子に自分達の平穏が潰える運命を知らせるにはあまりに酷だった。

 

 

 既に唯葉の生家には連絡を入れてある。ここまで来るのに幾分も世話になった彼らを最期に頼るのは悪いとは思ったが、頼れるのは彼らしかいない。彼らはしほ子の件を謹んで受け入れてくれた。既に唯葉とは会えぬ事を理解しながら、彼女の娘を引き取ってくれるのだから、心強いと思う。

 

 

 後塵は残さぬと決めている。

 

 

 久我峰にも、彼らにもたどり着かせはしない。全てを引き受けて、この命を捧げて止めてみせる。だからこれが最期なのである。

 

 

「ぱぱもあとから来るんでしょ?わたし待ってるからね、それでママとわたしと一緒に寝るって約束だよ」

 

 

 無邪気に笑う彼女の顔を見るのが辛くて、思わず顔を強ばらせる。

 

 

 向こうにたどり着き、いつか真実を知るときしほ子は恨むだろうか。悲しんでくれると父としては嬉しい。それぐらいには自分達を慕ってくれていたと言う事になるのだから。

 

 

 そして思う。自分は家族として、一人の父親として彼女を幸せに出来たのだろうか。

 

 

 全力で愛情を注いだ。彼女と共に過ごす時間を多く取った。だがしほ子にそれを聞くのは出来ない。聞けば楽になるのだろう。今この瞬間のみは。

 

 

「……そろそろ時間だ、行きなさい」

 

 

 だからしほ子の問い掛けには答えられなかった。それぐらいの自信すら持てない彼は、これ以上の嘘をしほ子に聞かせたくは無かったのだ。

 

 

「? うん、わかったよー。それじゃあいってきますー」

 

 

 少しばかり怪訝な顔をしたが、しほ子はそれを引っ込ませてくれた。笑顔で彼女は玄関へと振り向いて、辰無に細い背中を見せた。

 

 

「…………っ」

 

 

 その背中を見て、これが最期だと辰無は思い知った。暗い衝撃が彼の心を飲み込んだ。

 

 

「……ぱぱ?どうしたの?」

 

 

 しほ子の背中から包み込むように、辰無は彼女を抱きしめた。 

 

 

 腕の中にすっぽりと収まったしほ子が苦しそうに息を詰まらせて、困った顔で笑っていた。父の温もりが嬉しいのだろう。辰無はそれに構う余力すら残さずに、一心不乱の力で彼女を抱きしめた。

 

 

 強く、強く。

 

 

 

 ――――強く。

 

 

 □□□

 

 

 走る電車の天井に彼は座り込んでいた。

 

 

 流れる景色は繁栄した街並みを見せ、それが瞬く間に過ぎ去っていく。轟々と風が彼の体を吹き飛ばそうと荒ぶった。それは空気の塊で、その中を突き進んでいく物体が切り開く衝撃だった。だから、本来ならば緩やかな風であるのに、彼が感じる風量はまるで青嵐のようである。

 

 

 その風に流されて彼の黒髪が後ろへと流れていた。切っ先のような眦に、削げた頬は鋭利な印象を抱かせる面持である。そしてその作りはなかなかに整っているようではあるが、それを構成する寂寞が台無しにしており、何よりもその眼光が危うい。

 

 

 虚空を思わす蒼の瞳。それがただ茫洋に前面を見映していた。

 

 

「――。――――」

 

 

 時折跨ぐ鉄塔を身を捩ってかわし、七夜朔はただ静かに足を崩して座り込んでいた。

 

 

 己が足場として座り込み、勝手に動いている面妖極まりない物体は一体なんなのだろう。鋼鉄の塊がこれ程までの速度で走る事ができるのは、骨喰の大雑把な話しによれば〝でんき〟と呼ばれる摩訶不思議な力が関わっているらしいが、そんな事はどうでも良かった。

 

 

 彼には理解できない事であったし、理解する必要性も感じられない。

 

 

『まア、そんな訳で、ダ。あの癇癪持ちなの情報を信ずるならば、今から向かう先に化物がいるらしいなァ』

 

 

 ひひ、と帯剣された日本刀、数珠や札が巻かれたおどろおどろしい容貌である骨喰(ほねばみ)が彼の腰元で不愉快な声音を軋ませた。

 

 

「―、―――」

 

 

『んでェ、どうするよ朔。どのようにして惨たらしく殺す? 縊るか、抉るか、千切るか、はたまた散らすか。どれでも良いさ、お前の好きなように殺せ』

 

 

 雪崩れる空の風であっても金属音は朔の耳、あるいは脳に刻みこまれる。空気を震わす発声ではない、契約を交わした者だからゆえの言葉である。

 

 

 現在太陽は昇り始めて暫く経ち、そろそろ昼を越えようとしていた。恐らくもう間もなく目的地へとたどり着くだろう。正確な距離までは未だ分からないが、情報が正しければ大よそあと少し、と骨喰は言う。

 

 

『あるいは屠殺場、と言ったところか。ひひヒ』

 

 

 無論、相手が常道から外れた化物であるならばただでは済まされぬ。

 

 

 何時もこの世は諸行無常。木乃伊とりが木乃伊になる事も珍しくは無い。

 

 

 相手がどれ程のものかは分からぬが、死ぬ可能性はつき物である。

 

 

 幾度となく化物を殺した。これまでも、そしてこれからも。

 

 

 だからやがて何者かに殺される時がくるだろう。惨たらしい死体を晒す、その時が。

 

 

 それまでは今しばらくはこの血の香りが立ち込める戦場で寝静まろう。亡骸と共に。

 

 

『しかし、あの無能め。本当に情報はあってんのかァ?』

 

 

「―――――。―」 

 

 

 情報にではなく疑りではなく、本人に対する嘲りでもって骨喰は言う。

 

 

 しかし、朔に情報を探る術はなく、また探る価値も見出してはいない。

 

 

 情報に関し意味はあるだろうが、価値など存在しないのだ。

 

 

 ただ朔は殺すべき相手がいるのだからそれで良い。他はどうでも良い。

 

 

『仇川の女が反転した、か。あの無能は面倒な事を遣ってくれる。利権争い結構結構、狂気に巡って全員皆殺しだ』

 

 

 果たしてそのようにはとても思っていない声音で骨喰は呟く。

 

 

 昨日の事、日本の南にて住宅一棟を巣くう塵芥を処理した後に退魔から伝えられたによれば刀崎白鷺が仇川の情報を吹聴していたとの事。それによれば仇川辰無の妻、仇川唯葉が反転したとの情報があり、朔がF県へと討伐に相成ったのだ。

 

 

 仇川唯葉の生家は久我峰傘下の家元であり、無論久我峰に通じるからこそ混血の家柄である。その血筋は存外に古いものであり、もし反転した事が事実ならば退魔としても苦戦はするに違いなく、それゆえに〝七夜〟である朔へと討伐依頼が回された、と言うのが表向きの理由だった。

 

 

 事実は違う。これは歴然とした利権争いだった。遠野グループは決して一枚岩ではない。それの間隙を付狙う強硬派の手引きにより七夜朔が力を削ぐ、という名目がこの討伐には科せられている。

 

 

 強硬派は日本に根付く魔の根絶を訴える退魔組織の派閥であり、協力的かつ和平を望む混血、あるいは人間社会に溶け込んだ魔であろうと一切の容赦なく絶滅させる事を目的としている。人間社会の理想を貫き通す実力主義の人間らだが、現段階に於いては如何せん少数派であるためその影響力は少ない。

 

 

 恐らくは彼らによってこの討伐依頼が発声したのだろう。朔が〝七夜〟であり、成功率が極めて高いという分かりやすい構想によって。

 

 

『くせえ、くせえ。ひひ、人間ってのは如何せん臭って詮方無い。胎の底はドブの臭いがすんぜ』

だが、そのようなものは関係ない。

 

 

「―――――」

 

 

『ああ、全くもって関係無エ。目に見えるもの全ては手前の得物だ。残念なくこの世にはこびる魔を踏破しろ。轢殺した後に出来た屍の道なりこそが手前の血肉と化すだろうよナ』

 

 

 その裏に蠢く悪意、遠野グループの利権争いを叩き潰して朔は己が儘に行けば良い。

 

 

 ――――そして朔の瞳が輝きを増していく。

 

 

 煌々と鈍い光を映し出して、蒼の瞳は痛いほどに蒼くなっていく。

 

 

 ちりちりと脳裏がこそばゆくなっていき、薄霧のような靄が如実に視界へと顕現した。

 

 

 次第に白色の靄が流れる風景に紛れていく。とある場所には濃い靄がかかり、その他の場所に靄は薄っすらとあった。濃淡の違いはあれど靄は朔の視界に映る。

 

 

 魔眼は未だ標的を捕捉しない。恐らく外部にはおらず、そして距離も遠い。ならば情報は正しいということなのだろうか。

 

 

 ならば早く赴くに限ると言うもの。

 

 

 標的が離れる前に近づき殺すこそ、狩人の嗜みであった。

 

 

「―――、―」

 

 

 次第に足元の〝鋼鉄〟が速度を落としていく。何処かへとたどり着いた様子で、目的地の近場である。視界の中には人ごみが出来上がっており、皆この物体に興味がないようで下を向いている。

 

 

 朔はゆるりと腰を上げた。緩やかに速度は落ちていくとは言え、未だ早い物体が生み出す風に藍色の着流し、特に中身の無い左の袖が乱暴にはためいた。

 

 

 気を払う事もなく裸足の爪先が鉄板を蹴り上げて、その体が虚空に踊った。

 

 

 目的地は近い。

 

 

 ――――その情動なき瞳の向こう、天を穿つ尖塔。

 




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