今どきラブレターなんて流行らない。そんなからかいとも取れる有彦の苦笑と共に告げられた制止を受けても、さつきはラブレターを書いた。
言葉にする事は恥ずかしく、そして直接返事を聞くことも怖かった彼女だから、己の気持ちを可愛らしい封筒にしたため、もし勇気が無くて本心を伝えることが出来なかったら、それを渡すつもりだった。
彼女は己を知っていた。弁えていた、と言ってもいいだろう。
ここぞと言う時に限ってタイミングが悪く、それになけなしの勇気をへし折られる事を。
状況に甘んじる事を良しとし、己が本心を伏せ流れに身を任されるのが実に多い事を。
押しが弱い、とは良く言われたものだった。クラスでも、あるいは今までの人間関係でも控えめであり、寛容だった彼女は自ら率先して自らの意見を通すことは稀だった。それならば大人しいと言う意味で彼女は認識されていたかも知れないが、彼女は何時の間にやら所謂お姉ちゃんポジションを獲得していたのである。我儘を言う事は少なく、更に何処か甘えさせてくれる雰囲気を持ち、大抵の事は甘んじて許す。そんな人柄だからさつきはクラスでも人気が高かった。
しかし、だからこそ押しの弱さはある意味で致命的だった。
何故なら彼女は何か一つのことに対し、一生懸命になる事が出来なかったのである。
何が何でも譲れぬ己の矜持というものが、それまでの彼女には無かったのである。
それが問題として浮上したことはない。何故ならそれは意識しての問題では無かった。問題にもならぬ問題になど考慮を払う必要も無かったのである。
しかし、それはあの日、寒い冬の出来事で全てが変わった。
遠野志貴。
彼との出会いが、彼女を変えた。
だから彼女は自ら退路を塞いだ。邪魔が無いように、学校の用事も全て終わらした。他の予定も全て断った。何故ならこの時は彼女の全てが込められている。いつだって恋する女の子は後の事を考えない。妥協で恋をするなんて、女としての本懐ではないだろう。
何故なら遠野志貴への想いは彼女が唯一誰にも譲ることの出来ない想いで、たったひとつの矜持なのである。
しかし心を決めて、いざその時になっても。
彼女はその言葉を、紡ぐことが出来なかった。
□□□
下駄箱に向かうとさつきがいた。校舎を飲み込む茜色に映し出され、彼女は佇むように壁へ寄りかかり、下に俯いている。その表情は影になって志貴には見えなかった。しかし、その雰囲気は決して暗いわけではない。寧ろそれは覚悟を決めた―――。
「弓塚さん……」知らず、志貴は声をかけていた。成る丈気軽に。「やあ」
「……あ、遠野くんっ?」
声をかけられてようやく気付いたようで、さつきは反射的に顔を上げた。驚いた表情がやがて後悔か、あるいは罪悪感に塗りつぶされていく。
「あ、あのね遠野くん。私、遠野くんとの約束破るなんて、そんな事全く―――だから、その。……ごめんなさい」
「弓塚さん。俺は別に……」
「ううん。あやまりたいから、あやまりたいんだ」
そしてその唇からは謝罪の言葉が紡がれた。志貴の事を直視も出来ない彼女は、ひたすらに顔を伏せて謝り続ける。それをどうにかしたくて、でもどうすればいいのか志貴には分からなかった。しかし、それでも言いたいことがあった。
「いいんだよ弓塚さん。俺も気にしてないから……むしろっ」
だから、少々語気を強めて志貴は言う。
「弓塚さんが約束を守ってくれたことが、うれしい」
一度はふいにされたと思った。しかし、彼女は約束を守り、自分はここにいてさつきはここにいる。志貴はそれだけで充分だった。それ以上なんて、求めていなかった。だから嬉しかった。
「え、え?あ、えと、その」
瞳を真っ直ぐ見つめる志貴の視線に包まれて、さつきは目を白黒とさせながらも恥ずかしそうに「私も、遠野くんが来てくれて、嬉しい」と小さく呟いた。
すると沈黙が舞い降りて、二人は何も言えなくなる。
きっと何かを告げたかったのだろう。でも、その何かが分からずお互いが何かを言いかけているのが見えて、己の言葉をもっていなかった。
妙な雰囲気だった。
校舎に反響する騒々しさはまるで遠く、二人しかいないような感覚。
志貴はさつきを、さつきは志貴を見ている。それ以外は全て雑多なものと成り果てて、それ故に登場する事もない。張り詰めた空気は速さを増した鼓動のせいだろう。熱病のように熱い体はきっと夕陽のせいではない。そして、それが嫌ではなく、むしろ良い。
「……それで」包み込む気まずさを振り払うように、志貴は言った。「何の用なのかな」
「……うん。とりあえず、行かない?」暗に学校から離れよう、とさつきは言った。
校舎から一歩足を踏み出すと、赤い光が二人を照らし出した。遠くに沈もうとする夕陽はますますその橙色を強めようとしていて、その様は弾け尽きる寸前の線香花火を思わす。真っ赤な閃光と緋の明かりはこれから先、夜になろうともその輝きを脳裏へと焼き付けるようだった。
コンクリートの道を歩く二人の影は朝よりも長く伸びていく。志貴とさつきは並んで歩いて、それは時折二つに重なりそうになりながら、つかず離れずの距離を保つ。今朝よりも車の数は減っているようで、排気の臭いは気にならなかった。帰宅時間と重なり、いつもならばもう少し多く自動車は走り去っていくはずなのだが、道なりを歩いて歩道橋を越えても道路の車は少なめだった。
それゆえ街の雑踏は耳にも入らず、二人の言葉少なめな会話は実に際立って仕方が無かった。
「……弓塚さんは、さ」志貴は言った。「どこに行ってたの?」
「あの、友達に用事があって、それで……」志貴へと申し訳なさそうにさつきは言う。
「いや……だったら良いや」
自身と交わした約束を忘れないでいてくれたと、分かっただけでもそれで良い。そうして志貴は自身を抑えようとしたが、再び訪れるであろう沈黙の緞帳を嫌がった。
「その友達って?」
「乾くん」心臓に鉛を当てつけられた感覚を志貴は味わった。
「っ――――そう、か」
普段の志貴ならばきっと聞かなかっただろう。そしてそんな志貴に驚いたのは他でもない志貴自身だった。
何故自分はそんな事を聞こうとしたのか。それが分からず、しかし志貴はそれを一端流した。そして何故自分が有彦の名を聞いて、重苦しい気持ちを一瞬だけでも感じなければならないのか、と志貴は理不尽を通り越した何かを抱いた。
「あ、でも乾くんなんかどうでも良いし、何とも思ってないから!本当だよ!?」
自分は何故、自分は何故。――――頭を振って、思考停止。
しかしさつきの必死な表情を見て、なんだかそんな自分すらも馬鹿らしく思う。
「む、遠野くんどうして笑ってるの?」
彼女の仕草に合わせてツインテールが揺れていく。
「んー、弓塚さんが必死だから、つい」
すると余裕が出来たのか、志貴はウインク交じりに言う。そんな志貴の姿にからかわれたと思ったのだろう、さつきは「うー……」と呻ることしか出来なかった。ちょっと顔を赤くし頬を膨らませる姿は小動物を思わせ、愛らしくもあった。
そんな仕草に志貴は更に笑みを深めて――――。
――――愛らしい?
今自分は愛らしいと思ったか?
一瞬の思考に、志貴は愕然とした。
何故自分はさつきを愛らしいと思った?
美少女だと思う。美人と言うよりも、その姿は愛嬌があって可愛い女性と称するのが正しいだろう。しかし、今まで愛らしいなどと考えた事はなかったはずだ。そう思うのならば今日よりもずっと前から、そう考えていてもおかしくは無いはずなのである。それなのに今、志貴はさつきに対し始めて愛らしいと感じた。それは、何故だ。
志貴はちらりと隣をあるく弓塚の姿を見た。
丸顔で栗色の髪を二つサイドに纏めた少女。その性格や姿からクラスメイトからも人気だと聞く。更に教師からの覚えも良く、それゆえ良く気にかけてもらっているらしい。そしてそれらの全ては彼女の魅力のひとつに過ぎないのだろう。
何故なら彼女から志貴は日向の臭いを感じるからだ。柔らかな風を生み出して、陽だまりの光で包み込む日向の雰囲気、とでも表現するべきだろうか。それは有彦や他のクラスメイトからは明らかに一線を越えた、さつきだけに感じる感覚だった。
だが、ならばその分だけ志貴はさつきを特別に見ていただろうか。
いや、そんな事はなかったはずだ。志貴はさつきをそこまで特別視することは今までなかったはずだ。さつきは良く話すクラスメイトの一人で、それ以上の事は考えなかったはずなのだ。
それが、何時の間にか変わっている。思考の幾分かはさつきのために働いている。いつからさつきを志貴は特別に見るようになった。
胸騒ぎのような感覚が志貴を襲う。それはもやもやとした言葉にしがたい気持ち悪さを志貴の中に生み出して、志貴を支配しようとその勢力を増していく。
「ちょっと、ここ寄っていかない、かな」さつきは指さししながら言った。
入り込んだのは良く側を通る、開けた公園だった。
この公園は滑り台やブランコなど、ある程度の遊具が備えられた公園であり、しかし公園の広さからは少々遊具の数が物足りず、認識としては自然公園と考えたほうがしっくりくる。だからなのかもしれないが、この公園はデートスポットとして少し名が知られていた。
時は随分と遅くなりつつあるゆえ、人気は疎らどころか殆ど見えず、学校帰りの小学生の姿も見えない。夕陽はいよいよ沈み往くのか、その姿は不思議な形に歪み、丸い形が押しつぶされた蜜柑のような姿へと変わり、この空から消えていく瞬間を惜しんでいた。
それでも夜はいずれ訪れる。どうしようもないほどに。
公園に入り二人は無言だった。遊具が疎らに配置された園内を連れ立つように歩いていくが、話題は上がらず、互いを探るような気配が漂っている。尤も、それは疑いからではない。それは寧ろ互いの距離を探り合う少年少女そのままであった。
志貴は二人を包む雰囲気にやきもきする。自身の内側にある言いようの無い感覚を持て余しながらも、さつきに何か言いたかったような気がする。何か、言葉をかけてもらいたい気がする。さつきは何を考えているかも分からない。ただその口元はもごもごと動いていて――――。
「遠野、くん」
その声は、ある意味慄然としていたかもしれない。
さつきは立ち止まり、志貴を見つめた。
その瞳の色は不安そうに揺れているが、それでもその意志の強さは光を放つかのようで、まるで燃えているかのようだった。
きっと夕日が綺麗だったからだろう。彼女はこの時ひとつの光となったのだ。地平線の彼方へとゆっくりとその身を横たえようとする太陽の柔らかな斜陽は、さつきを優しく抱きしめて温かな陽だまりの匂いがする眩い光へと変えていったのだと、さつきの姿を見ながら志貴はそんな風に思った。
「何?弓塚さん」
なるべく心臓の鼓動を抑えようと、志貴は何故かはやる胸のうちを憎く思った。しかし、そうせざるを得ないほどに心臓が熱い。何故なら夕陽に包まれたさつきの姿は眩く、本当に綺麗だったからだ。そして、まただと思った。自分はさつきを綺麗だと思っている。まるでその姿に視線や思考を心奪われている。
何故だろう。いつからこんな、自分は――――。
「あのね………お礼を、言おうと思って」
「お礼?」
「うん。…………あの時の事」さつきは言う。「男の人に襲われた時のこと」
そこで志貴はさつきが何を言いたいのか判別した。
まだ、この人は。
「弓塚さん……あの事はもう」
忘れたほうが良い。辛い記憶は思い出さない方が良い。
今朝と変わらぬその言葉。そう、告げようとして。
「良くない」さつきは遮るように言う。「私は、良くない」
「……どうして?」
「どうしてなんだろうね。……私は、あのことを全部忘れちゃうなんてきっと出来ないし、忘れたくないって。だから、私は良くないって思うんだ」
「……」志貴はもう何も言えなくなった。
「おかしい、よね。あんな事を忘れたくないなんて。……でも、あれが」
「……」
「――――あれがなかったら、私はこうして遠野くんの前にいなかったかもしれない。もしあの時あの事がなかったら、もし遠野くんがいなかったら、もし、誰も守ってくれなかったら。……きっと私、死んじゃってたかもしれない」
「……でも、もう終わった事なんだから」
全ては『もしも』の話し。今となっては訪れる事の無い仮定の話だ。そうして切り捨てようとする志貴の言は否と打ち破られた。
「ううん」しかし、さつきは首を振る。「それじゃ、駄目」
「駄目?」
「うん。……その『もし』がなかったから、私はここにいるの。『あの』時『あそこ』で『遠野くん』が『私』を『守ってくれた』から、ここにいて、こうやって遠野くんとお喋りもできる」
「……買い被りだよ。あの時、俺は」
さつきを守った、というのは結果論に過ぎない。何故なら志貴はあの時さつきを守るためにいた訳ではないのだ。それどころか朔に呑まれないため、彼は己の意思を繋ぎとめることに必死で、あの瞬間さつきは思考を過ぎる刹那の残像に過ぎなかった。
「弓塚さんを守ろうだなんて、思ってもいなかった」
「……違うよ、遠野くん。だって、私は」
「違わない。本当に、違わないんだ」さつきの言を遮り、志貴は力なく言う。
「……俺は、弓塚さんが言うような高尚な人間じゃない。だって俺はあの時、自分の事にいっぱいいっぱいで、弓塚さんを守るどころか怖くて逃げ出そうとしてたんだ」
人が恐怖と対峙するとき、皆一様に取りえる手段とは逃走である。
恐怖の感情を拭い去ることは実に困難で、それが生命の危機と直結するならば尚更だ。生命の危機を感じ取れぬ者ほど早くその命を潰す。
ならばそれは生命にとっては正しい選択。一個の生きる存在ならば、どれだけ臆病と罵られ、例えそのために生き恥を晒しても、逃走とは真実正しき行動なのである。
しかし、それは群集として生きる者であるならば、侮蔑される行為に等しい。なぜならば、己の保全を唯一とし大手を振って逃げる事は、他の命を見捨てるということだった。
「だから、俺は駄目な奴なんだ。……弓塚さんの思うような奴じゃない。まるで下らない、度し難い人間なんだ……だから弓塚さん、俺は――――」
「違うっ!!!!」
その声音は鋭く夕暮れの公園を切り裂いた。茜を纏いながら突き抜ける声音は志貴の自虐を踏み潰して、さつきは志貴を睨む。目じりに感情の高ぶりによる雫さえ乗せながら。
「遠野くんは駄目な人なんかじゃない!」
強く、強く、まるで太陽のような強さでさつきは叫んぶ。
「だって遠野くんはいつも私を助けてくれた!死ぬかもしれなかった私を救ってくれた!あの時も、あの時も!だから違う、全然違うよ!!遠野くんが駄目だったら、私はここにいない、きっと何処にもいない!!」
全てはIF。起こりうる可能性を秘めた幾重もの枝の末端である。
しかしその全ては起こらず、時は漫然と流れて志貴は生きている。さつきは生きている。それで良し。それで良いんだと、さつきは言った。
「遠野くん、覚えてる?中学二年の冬の日、私あの時も遠野くんに助けてもらってたんだよ」
「え?」
さつきは意を決した顔つきで胸に両手を翳し、恥ずかしげに横を向く。その視線の先には燃え上がるような夕陽の輝きが見えていた。
□□□
それは、三年前のとある冬の事だった。
外でなくても息が白くなるような気温の中で、当時バトミントン部の部員だった彼女は一度自身の死を予感したことがある。
放課後の事だった。
部活動が終了し後輩や先輩の少女らと共にラケット等を体育倉庫に戻しに行った時、運悪く倉庫の扉が開かなくなり、さつき達は倉庫内に閉じ込められた。扉の立て付けが悪いとは前々から聞いていたけれど、まさか閉じ込められる破目になるとは誰も予想だにしなかった。
しかし、まだその時彼女達は事態を楽観視していたのである。
きっと時間が経てば扉は元に戻る。
異変を感じた誰かが、あるいは教師が様子を見に来る。
そう考えて、彼女達はその時が来るのを待っていた。あまつさえ初めての体験に少々の興奮を抱き、その状況に楽しささえその時はまだ感じていた。
さつきもまたその一人だった。状況を楽しんではいないが、甘く見ていたのは事実であり、彼女は取り合えず後輩の面倒を見、先輩の動向を伺っていた。
そうして、刻々と時は経った。
誰も助けに来てくれない。状況が一変しない。待てど暮らせど、閉ざされた扉は沈黙していた。
そして、少女達に燻っていた不安が爆発した。
まず、動き始めたのは後輩たちだった。彼女らは一年前まで小学生だった身でもあり、このように閉じ込められる経験など皆無であり、また長い時間不安に晒される事など無かった彼女達は始め我慢していた。しかし、限界が来たのだろう。瞳から大粒の涙を流してすすり泣き始めた。さつきもそれに釣られ泣きそうになったけれど、彼女達を少しでも宥めようと、言葉を言い聞かせた。きっと助けが来る、それまで我慢だ。
だが、それを見ていた先輩が叫び声を上げながら、金属バットを一心不乱に扉へと叩きつけ始めたのを切っ掛けにその場は落ち着きを失った。先輩は自分よりも年下がいる手前、自らが何とかしようとしたのであるが、それと共に泣き始めた後輩に苛立ちを感じたのも事実。それゆえ先輩はバットを振り翳した。
ガン、ガン、ガン、ガン。
甲高い金属の悲鳴が無秩序に狭い倉庫の中へ響いた。
後輩たちはその騒音に不安を増幅させ、さらに涙を流す。そして自らが何をやっても何も変わらないと思い知った先輩も泣き始めた。
そんな中でさつきもその瞳に涙を滲ませながら、後輩達の側を離れなかった。彼女がそこまで取り乱さなかったのは、恐らく他に取り乱した人間がいるからだろうが、しかし現状に対し絶望を感じ始めていたのも事実である。
何でこんな目に合わなくてはならないのか。何で誰も助けに来てくれないのか。
理不尽を感じながら、彼女は次第に冷たくなっていく自身の体を擦り、このまま自分は凍死するのではないか、と恐怖を抱いた、まさにその時だった。
『誰かいるの?』
その声が、倉庫の外から聞こえたのである。
そして、重苦しく沈黙を守り続けた扉が、いくら動かそうとも動かなかった目の前の扉が、動いた。
そこにいたのは、子犬を思わす眼鏡をかけた少年――――。
□□□
「それが遠野くん……、覚えてる遠野くん?あの時のこと」
「――――ああ」
記憶の一部、特に思い出にはならないが、しかしあの時のことを志貴は深く覚えていた。
中学生だった志貴が、倉庫に閉じ込められた少女達を解放したあの出来事を。
その後倉庫は問題が発覚し改装を行ったが、志貴にとってそれはどうでもいい事だった。
ただ、あの時志貴は少女たちを助けただけで、それ以上の事はしなかった。学校側から表彰を受けたわけでもないし、少女達からは感謝の言葉を幾つか貰ったが、それも気付けば忘れ去られた。志貴自身、自らが彼女達を救ったのだという自覚も持っていなかった。それゆえに誰かに言うような事もしなかった。
それでも、あの出来事を覚えている。思い出としてでは無く、記憶に深く。
何故ならあの時、志貴は視界に見える線をなぞって、扉の引っ掛かっている部分を裂いたのである。
志貴の目に見える線をなぞれば何でも切れてしまう。それがどの様な物質で構成されようと関係なく、志貴の目は切れる部分を映し出す。それを志貴は酷く悩んでいる。それは確かに便利と受け取る事のできるものなのかもしれない。切れないものが切れるとは、悪用すればきっとあらゆる事が可能だ。
しかし志貴はそうではなかった。己が見える世界の亀裂を直視することが出来なかった。
その線を見るたびに志貴は酷い吐き気と嫌悪感を覚え、今は〝先生〟から貰った眼鏡をかけて線を見失っている。そうでなければ、志貴は生きていく事さえ出来なかった。
だから、あの出来事は覚えている。
何でも切れる物や生命悉く、線をなぞれば切断出来てしまう。
それを志貴は悪い事だと、使用することさえ憚る物だと思っている。
だからだろう。
そんな目を使って、志貴は誰かを救ったという事実を、彼はずっと覚えていた。
しかし、さつきがその内の一人だと、志貴は知らなかった。
「――――覚えてる」
それが意味する事を志貴は思い知る。
何ということだろう。
遠野志貴は、弓塚さつきを二回も救っていたなんて。
「だから、だから……そんな悲しいこと、言わないで。私は、あの時遠野くんがいなかったら、私、私。……だから、遠野くんは駄目なんかじゃないんだ。……寧ろ、私の方が全然駄目だよ……いつも遠野くんに迷惑かけて――――」
「それは違うっ!」
反射的に、志貴は叫んだ。
「そんなこと、ないんだ。俺は弓塚さんが生きていてくれて嬉しい。あの時、弓塚さんが怪我をしたって考えるだけでもゾッとする。それに俺は弓塚さんがいてくれて、本当に嬉しかったんだ……迷惑だなんて、一度も思ったこと無い!」
辛いはずなのに、憔悴しながらも心配してくれた。
電話までくれた。学校に行こう、と。あの約束を胸に、志貴はあの夜を乗り越えた。血生臭い闇の虐殺を乗り越え、歪な月が照らす化け物の殺し合いから。
だから、本当に感謝している。
どれほどその存在が彼を支えたのか、志貴は切に知っていた。
「でも」それでも、と志貴は唇を噛み締める。「俺は……」
決して穏やかではない風が一陣吹き荒ぶ。
何処かへと流れていく風は一体何を運んでいるのか。きっと風は風のままで、それ以外のものなど運んではない。それは風の意志ではない。運ばれるモノの意志。一瞬を過ぎる風にその身を、運命を任せて何処かへと飛び立っていく。
夕陽の中で二人は立ち竦んでいた。公園には二人の他に誰もおらず、影は混ざらない。そしてそれ以上の距離を詰める事は出来なかった。その距離、大また五歩ぐらいの距離を縮めるためには、二人はあまりに若かった。
しかし、その彼岸に佇む二人だからこそ、その視線はひたすらに互いを見つめていた。互いを見つめ、その瞳に映し出している。
そして沈黙を突き破るように、軽やかな笑い声が聞こえた。
「ふふ」それはさつきの口元から聞こえる。嘲りも、蔑みもない、笑い声だった。
「遠野くんって、意外に頑固なんだね」
「……それを言うなら、弓塚さんだって」
互いに譲らず、話は平行線を辿っていくのみ。妥協を知らないのではない。相手を砕こうだなんて考慮すらしていない。
ただ、言いたいことがあった。
「うん、わかった。今は、それでいいよ」さつきは言った。「遠野くんが駄目な人で、いい」
その声音に気負いは無く、志貴を揶揄する響きも聞こえない。
今は別にそれでもいい。でもこれから先は、わからない。
「だから、そんな駄目な遠野くんに言うね」
例えようも無いほどに澄んだその瞳を微笑みに湛えて、彼女は言った。
今にも沈もうとしている夕陽の一瞬迸る緋色の光に包まれながら、彼女は笑った。
「私を守ってくれて、ありがとう」
私を助けてくれて、ありがとう。
私を救ってくれて、ありがとう。
万感の想いを願いのように込めながら、さつきは言った。
そして。
――――その姿に、志貴は分かった。
やっと、どうしようもなく巡りが悪く、鈍感だと言われ続けた遠野志貴ではあるが、ようやく己を理解した。己の内側に騒がしく居座る感情の正体を。
「――――ああ、そうか」
そうだった。全ては、あの時に始まった。
あの場面から、これは始まったのだ。
この胸の高鳴りは、体の火照り。視線や、思考も全部彼女一人に向けられている。何とはなしに、彼女の仕草が気になったのも、授業中に思わず彼女を見つめたのも。約束を果たそうとしたのも、全部、全部。
嗚呼、何で気付かなかったのだろう。
自分はあの時から、弓塚さつきから目が離せなかった。
「……遠野くん」
さつきの瞳は真っ直ぐに志貴を見つめている。その視線に志貴は囚われた。
その黒色の奥に輝く情熱に済まされたその瞳の色は、いよいよ最上の高まりを見せた。
そして。
「私は遠野くんが―――――」
瞬間。
――――朱色が、志貴の頬を濡らした。
「―――――――あ」
その声は、悲しいほどに良く聞こえた。
何故なら、その声は志貴とさつきから零れた吐息にも似た声音が重なったからだった。
それは、仕方の無い事だったのかも知れない。
きっと、誰もこんな事、望んだりはしなかった。
唐突に巻き起こる事象は人の予想を超える。
だから人は神を崇め、運命を呪い、己を憐れんだ。人の力では変えることの出来ない未来と、現在、そして起こった過去を生み出した元凶のために祈りを捧げ、憎んで尊んだ。
しかし、それは今確かに二人に起こった。
「―――――」
赤かった。吐き気がもよおすほど紅かった。そして紅いものは緋色の夕暮れに映えて更に艶かしく寒気すら覚える。茜の光に包まれて、それはその張りのある柔らかな表面をてらてらと光らせて、まるで生きているかのようですらあった。
「あ、ああ―――――」
いや、それは生きている。
どくんどくん、と脈動を繰り返して動くそれはまさに生きていた。
生きて、生きて、まだ生きていた。
「あ、……れ―――――?」
不思議そうに、それを見つめたさつきの咽喉を遡り、赤い液体がその口内から吹き零れる。僅かな量でしかないそれは、しかしそれでも鮮烈に紅くその存在を示しだし。
――――彼女の胸元から突き出る心臓に、ぽたりと、かかった。
「弓塚さん――――――――――――――――っっっっ!!!!?」
絶叫が迸る。咽喉を破らんばかりに罅割れるその大音声は、きっと感情なんて宿っていなかった。あるのは測る事も出来ない衝撃と、衝動のみ。それが志貴の声を借りて鳴り、その体を動かした。
「あ、ぁ……」
恐ろしいまでに早く動いた志貴の体は瞬きの内に彼女の元へとたどり着いた。だがそれよりも早く彼女を貫いていた腕が引き抜かれ、彼女の心臓を抜き取っていく。突き刺されていた腕を失い。彼女の体は力無く倒れ伏せようとし、その身を志貴が抱きしめた。
――――そして志貴は、始めてその存在に気付く。
「っか―――かぁ―っっ!」
その男は、いつの間にやらそこにいた。
和装の男である。目が覚めるようにくすんだ白髪の男。その表情は醜く歪み、この世の醜悪を全て身に受けたかのよう。あまりに引き攣ったその顔からは、元の顔がどのような顔つきなのかすら想像できない。
さつきの心臓を奪って、その男は身を強ばらせていた。低く引き攣ったその声はやがて。
「―――っはははははははははははっはははははははははっはははははははかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかあぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃがあっ!!!!」
笑い声へと変貌を遂げた。
「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ――――――っ!!!!」
いや、それは果たして笑い声なのだろうか。
笑い声にしてはあまりに禍々しく、狂ったように紡がれるその音を、笑みと称すには醜すぎる。空を落とさんと吼え立てる獣の如き遠吠えとした方が、よっぽどらしい。
だが、志貴は知らない。
この世にはこびる邪悪の限りを未だ知らずに生きてきた志貴には。
度を過ぎた悪意は何よりも純粋なモノである事を、志貴は知らなかった。
「――――っ、手に入れた手に入れたぞ俺は!嗚呼、なんだなんだこんなにもあっさりと手に入るのか、これが、これが!嗚呼、嗚呼!俺は今この時に遂に手に入れたっ!!」
振り翳された心臓に残された多量の血が男を真紅に染め上げた。その男は興奮状態に鼻息も荒く、まくし立てるような叫び声と共に、恐らくはそんな言葉を吐き捨てた。それはあまりに罅割れており、声門を正常に働かせていないのは明確であった。
だが、志貴にとってはそんな事はどうでもいい。
何か良く分からないものが、そこにいる。それだけで、今は充分だった。
それ以上に、もっと大切なことがあった。
「………………ゆ、ゆみづか、さん」
志貴の腕の中にいるさつきは、何処か呆けるように志貴を見上げていた。
「―――――とおの、くん?」
「い、あ、待ってて、今……医者、を」
感情を制御できずに、意味も無いことを志貴は口走る。意味とは結果を成した後に生まれるものである。過程においても意味は生まれるかもしれないが、見え透いた事に対し意味など生まれはしない。
何故なら、志貴は既に理解してしまっていたのである。医学に対する知識が人並みでしかない志貴であろうとも、それは明確だった。
さつきの傷は、致命傷だった。
胸の中心に赤い華があった。そこから吹き零れる鮮血の泉から、突き抜けた拍子に折られた骨の断片と、びくびくと痙攣する肺が見える。
「――――――ゆ、ゆみづかさんっ。ああ、ああ……血、血を止めない、と……っ」
それでも認めなくて、志貴はさつきの胸の中心に空けられた風穴を塞ごうと手を翳す。しかしそれでは止血など不可能であろうと恐慌状態に陥りながらも理解し、自身が身につける制服の上を破るように脱ぎ捨てて、それを押し当てた。
硬い化学繊維で編まれた詰襟の学生服は治療用具には向いていない。柔らかな布で止血は可能だろうが、硬い材質の布は人体には不向きであると言える。それを証明するように、さつきの胸へと押し当てた群青色の制服からは夥しい量の出血が滲むように噴出してくる。志貴は自身を染め上げるさつきの血に愕然としながらもそれを止めなかった。
時間が足りない。
間に合わない。
「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ―――――あっ!!これで間に合う!俺は七夜を殺せる!!待ってろ、もう一度!もう一度だ!!雌伏の時はもう終わったぞ!!」
歓喜の言葉と共に、男は握りしめていた心臓を自身の胸へと押し潰すようにあてた。
――――うじゅる、うじゅると。
生理的に嫌悪感をそそらせる音が聞こえた。
それは耳を侵すような水気のある音で、ふと視線を男に向ければ、その手にあるさつきの心臓がゆっくりと男の胸の中へと馴染むように収められていく。筋肉や骨と溶け合うような状態で心臓は微弱な痙攣を繰り返し、引き千切られた血管から血流を零しながら、遂には完全にその姿を消失させた。
残されたのは男の肌に付着していたさつきの血のみ、心臓は跡形も無い。
「――――――っ」
その光景に、かける言葉など志貴には存在しなかった。
唐突に訪れる人為的な惨劇は見方を変えてみれば天災だった。
時を置き去りに展開される悲劇は歯止めが利かず、防ぐ事もできない。ならば、言葉など出てくるはずも無い。あまりに想像を超えた現実に人の意思はその機能を解離させてしまうのだ。
――――それでも状況は展開される。被害者を残したままに。
「―――――ぁぁぁぁぁあああ」
遠く、その声は感情が高ぶる志貴であろうとも耳に届いた。
呻り音と共に、豪放が射出された。
「はあああああああああああああ―――――っ!!!!」
何処からとも無く聞こえる咆哮。
――――西日の緋色を切り裂いて飛来する鋼の弾丸に空気が泣き声を上げた。
それは哄笑を撒き散らす男のモノとは異なる、戦意に満ちた熱砂の如き声音であった。
「―――――うごぉっっっっ!?」
鈍い音がくぐもりながら男の肉体に襲いかかった。
それは西洋剣のようであった。反り身なき刀身と直角に伸びる柄。それはまるで十字架のような剣だった。
突き抜けた個所は三点。咽喉を穿ち、腹を貫いて額に突きたてられた。骨の有無など関係なく、肉を抉りながら真っ直ぐに刺さったその瞬間、衝撃に吹き飛ばされた男はごろごろと勢いのままに転がされていった。無様に転がり勢いは留まることを知らず、男をゆうに公園の端まで吹き飛ばしていった。
そして、その女はコンクリートを叩いて影を置き去りに、獲物を狙って昂ぶる猛禽のように志貴の目の前へと現われた。
翻るプリーツスカート。柔らかな色合いのサマーセーター。
青っぽい黒髪は夕陽に合わさってその色合いを更に濃く、斜陽を反射する眼鏡の奥へと隠された瞳に、剣呑と鬱屈を混ぜ合わせた仄暗き闇の底を顕現させながら。
「――――――せ、……せん、ぱい」
――――シエルは獰猛にその両手を広げた。
その指先に挟まれた、今しがた男を刺し殺した西洋剣は両手に計六本。
さつきを抱きしめながら呆然と呟く志貴の目からは、剣を構えるシエルの後姿は翼を広げる鳥のように見えた。
何故、シエルがここにいる。
志貴の思考はもう役には立たない。目まぐるしく変化を遂げる現状に志貴の考察機能は焼ききれる寸前であった。ただそれで何かが起こり、何かが変わろうとしていく。
しかし、その背中に志貴は何故だろう。
――――いつかの記憶にある、遠い背中を重ね合わせた。
刃先に光が冷たく宿る。温かな夕陽を浴びて鋼の羽毛は無慈悲に輝いた。
シエルの腕がしなり、羽ばたきの如くに腕を振り下ろせば、獲物を捕らえんと鉤爪は尚も倒れ付したままの男へと撃たれた。
轟音を掻き鳴らしながら向かっていく刃は男の首を頭部を心臓を寸分違わず狙い澄まし。
肉体へと食い込もうとした刹那、男の姿は掻き消えた。
「――――っく!!」
奥歯を噛み砕かんばかりにシエルは顔を歪ませ、煮え滾る苛立ちをそのままにそれを見やれば、男は先ほどまでとは違う場所に佇み。
――――かわされた剣の弾丸が硬いアスファルトを粉砕し着弾する。
衝撃に木々が揺れて、その葉を撒き散らした。不自然な風によって揺られた木々は何処か不気味で、影が増すその夕暮れに剣が直立するその光景は死者を弔う墓場のようですらあり、それはこの先の未来を暗示させていた。
「いてえ――――、いてえなあ」
そして驚くべきことに、その咽喉を突き刺して前頭葉どころか大脳まで切り裂かれたはずの男は明確な意思を持って言葉を発した。だが、俯き加減に聞こえるその声は痛みに苦しむ人間のか弱き悲鳴ではない。
「はははっ!全くもって痛えじゃねか、ええ?おい!?」
笑い声。咽喉仏を砕いた刃など関係ないと言わんばかりに男は愉悦に満たされた嘲笑を浮かべた。
ごり、ごり、と鈍い音が公園の閑散とする空間に染み渡る。
男の手が、先ほどまでさつきの心臓を握りしめた掌が、殺意を持って突きたてられた鋼鉄の弾丸を握りしめ、穿る様に抜き取っていく。
「――――見つけましたよ、吸血鬼」
低く、地鳴りのようにシエルは言葉を呟いた。
その無理矢理戦慄と激情を押さえ込もうとして失敗した声音は、おぞましく歪んで聞こえる。しかしそんな怨嗟の如き言葉を受けても男は愉快に笑んでいた。
「おいおい、おいおいおい。俺が吸血鬼?何を言ってやがる、俺はそんな度し難い獣じゃない!血を血として食料にする低俗な俗物なんぞと同じにすんな!」
「……所詮、言葉は通じませんか。――――ならば吸血鬼、塵のように滅びなさいっ!!」
始めから何も期待していなかったと、シエルは蔑みの視線を隠す事もせずに殺意にねめつけた。
吠え立てられた獣の意志は閃光と共に戦闘を開始させようと、肉体を限界にまで引き絞らせる。極度に圧縮された筋肉は爆発にも似た運動エネルギーを生み出し、男の存在を抹殺せんと解放を訴えた。
だが、それは叶わない。
「――――っは!お前なんぞに興味ねえよ!」
罵倒の言葉を置き去りに、男はその身を屈めて走り出す。
それの選択は対峙ではなく、逃走。
男は跳ね上がってシエルが追いかけるよりも尚早く、夕闇の紅蓮へと飛び込んだ。その先には闇より濃い藍の空。仄暗い影の底に、その背中は消え去ろうとしていた。
追跡すれば、きっとまだ間にあう。粉塵を巻き上げながら逃走しているのである、既に公園からは遥か遠ざかっているだろう。だが過信ではなく確信でもってシエルは己の力量から相手の追跡を可能としていた。しかしその行動の選択は、シエルは自身の裏切りを肯定する事であった。
「遠野くん!!弓塚さんは!?」
敵対生命がいなくなりシエルが慌てながら近づいてくるのを、志貴は感じた。
見たのではないし、その足音を聞いたわけでもない。彼はその感覚でもってシエルの接近と、その焦燥を感じたのである。
だが、気を払う事など到底不可能であった。何故なら志貴は体験したのだ。
その手を握りしめるさつきの指先が、次第に冷たくなっていくその瞬間を。
「――――、ああ、とおの、くん」
「ゆ、ゆみづかさんっ。喋っちゃ駄目だ、まだ大丈夫、大丈夫だから今は―――」
そこから先の言葉が出なくて、それでも何かを言おうと志貴は震える自身を抑えることも出来ずに口を開こうとするが、さつきはゆるゆると首を振った。それは眠りにつく小鳥の身震いによく似ていた。
「なんだか、よく見えないよ……かすんで、くらくて。……とおの、くん。どこにいるの……さむい……さむいよ」
さつきの指先をいくら握りしめようとも、さつきには届かない。
志貴はひたすらに強く、離さないままその掌を自身の頬へと当てた。
さつきの体は次第に冷たくなっていく。生命の源である血はもうその勢いが修まりつつあった。それが流す血も無くなりつつある事だと、志貴は気付かなかった。
「おれは、ここにいる――――ここにいるよ、弓塚さん」
吐く息の音すらも煩わしかった。さつき以外の全ては遂に雑多なものと成り果てて、自身すらも志貴は切り捨てた。この瞬間に志貴自分よりも大切なモノがあると、心から理解した。
「――――とおの、……くん?」
「弓塚さん……」
「――――こんなに、近くにいたんだね……始めてだ――――」
さつきに瞳はどこまでも澄み切っていた。
夕陽の明かりを照らし、混濁の映らぬ儚き瞳は真っ直ぐに志貴だけを見つめて、その形を微かに笑みへと変えていった。雫が流れ、彼女の頬を伝っていく。
「とおのくん……あったかいね――――――――」
「――――あ」
それに気付いた時には、もう遅かった。
志貴の精神はさつきのみに集約されて、際限なく彼女を見つめ続けた。穏やかな表情を見せながら、眠るように呼吸を静かに沈ませていくさつきの姿。綺麗な瞳のままでありながら、そこに輝きは見えない。それに志貴はどうしようもなく囚われて仕方が無かった。
「―――――――、――――――!?」
だから、その肩を強引に引っ張られてさつきから離されようとも志貴はその瞬間まで、ずっとさつきの姿を見続けた。
そして視界はやがて暗闇に覆われて、やがて消えていく。
眠るように意識は見失い。明かりはその灯火を消した。
けれども先の見えぬ闇の中であろうとも、志貴の眼差しの向こうに、さつきはいた。
□□□
『わたしは遠野くんが好きです』
短いけれど、精一杯の気持ちを伝えたかった。
本当は大好きと書きたかったし、付き合ってくださいと続きに加えたかった。しかし今はこれが精一杯。更に書き加えるのは恥ずかしいし、あこぎな感じがする。だから、さつきはこれ以上を望むべくも無かった。
実はこんな短い文章を書くために何枚もの手紙を駄目にした。
幾度と無く文章を書こうとしては、それを瞬時の内にこうではないと消して、終いには手紙のほうが草臥れてみすぼらしい姿となった。それに困って友人に幾つか譲ってもらい、再び書き直した。その工程を繰り返し、書きあがった文章はこんなに短いものだった。
昼休みの内に書いて、本当はもっと時間をかけたかったと思い、その手紙を失くさない様にと大事に仕舞っておきながらも、なんで自分は手紙を書いているのだろうとさつきはふと我に返った。
自分はお礼を言いたかったはずなのに、なんで告白をしようとしているのか。
さつきは思わず赤面しながらも、自分の正しさを何となく信じることにした。
さつきは臆病だ。思い立ってもなかなか実行に移せない。それは臆病と言うよりも優柔不断と評するべきなのかもしれないが、幾度と無く志貴と近づく機会を得ながらも結局話しかけることすら出来ない自身をさつきは臆病と揶揄する。
だから、ここ数日は凄い事だと驚いている。
突如として巻き起こった出来事を切っ掛けに何だか志貴との距離が狭まっているように感じているのだ。これは凄い事である。何故ならさつきが志貴と仲良くなろうと頑張っても彼との距離が近くなる事は無く、寧ろ遠ざかっているのではないかと思っていた。
それなのに、今はそれが無くなっている、気がする。かなり二人の距離は近いのではないだろうか、と思う。誰かに否定されようなら、やっぱりそうだよね、と流されてしまいそうな思考ではあるが、しかし否定はされない。友人にもそれとなくこんな気持ちを伝えれば『構わない。存分にやれ』と背中を押された。
遠野志貴との距離は縮まった。精神的な変化によってそう思えるようになった。だが、それでも告白する理由にはならない。
ならば、何故だろう。
「うーん……」
「さっちん、どったの?」
別の場所で手紙を書き終えて昼休み中に教室へと戻ってきたさつきは机に座りながら悩んでいたとき、クラスメイトに気付かれそれとなく聞かれた。
「ううん、なんでもないよ」
しかし、こんな気持ちをおいそれと言えるほどさつきは明け透けな人間ではなかった。恋愛話は女の子の嗜みであるが、少なくともおいそれと言えるような事ではないである。
「そう?なんかさっちん元気無えよーに見えたんだけどさあ、まだ調子悪い系?」
「心配してくれたんだ。もう平気だよ、」
「むむ、ここはツンデレぽく『し、心配なんかしてないんだからねっ』とでも言っておくべきか……っ!」
「えーっと……」
返す言葉もないさつきだった。しかしこのクラスメイト、なんだかキャラが濃い。
「ま、あたしは安心しましたよ。ええ、心配しましたけどそれが何か?」
「何で逆切れ状態?」
「だって、理由なんてないもの」
「……え?」
すとん、とさつきの中へその言葉は落ち着いた。
「え、て。何かあたし変な事言いました?クラスメイトを心配するのに理由なんていらないでしょーが。そもそも理由なんて求めちゃメーよ。理由なんてイラネ。それともさっちんは理由が無いと生きられない人?」
「そ、そんなことないけど……」
「うん、だったらよろしネ」
そう一方的に告げてクラスメイトはさつきの側から離れていった。と言うか一体何だったのだろうか。そもそもあんな人クラスにいただろうか。あんなキャラ忘れるはずがないのだが。さつきが突っ込む事も出来ず、その人は台風のように消えた。
しかし。
「そっか」
妙な納得がさつきの中にあった。クラスメイトは意識もせずに言ったかもしれないが、それはさつきを落ち着かせて、しっくりくるものがあった。
「理由なんて、なくてもいいんだ」
全てのものに理由があればきっと楽でいい。因果なんて小難しいものには興味も無いが、全ての事象に繋がりがあればそれは明確で分かりやすい。しかし、それでは詰まらないという部分がある事もまた事実だ。
特に、恋愛がそれに当てはまるのではないだろうか。
何故その人を好きなのか。その人を愛しているのか。
理由は人それぞれ思いつくことはあるのかもしれない。
ルックスが良い。好きなタイプだった。話していて面白い。構ってくれるから。経済力があるから。
列挙すればこれほど上がるだろう。
しかし、これは切っ掛けであり、理由ではない。
自ら思いつく理由なんてものは、実は理由足りえない。
切っ掛けは確かに重要かもしれないが、それは初動。衝動のみでは継続されない。
では、理由は何だと問えば、それはきっと誰にも分からない。恋の感情を言語化することは本当に難しいもの。何か思いつくことは在るかもしれないが、そもそも理由を求める事そのものが無粋に過ぎる。
好きになった切っ掛けはある。
しかし、好きな理由なんて誰にも分からない。
ならば理由を求めるという事は、本来意味は無いのかもしれない。
全てに理由があれば楽だろう。
しかし、理由がある事が全てではない。
「うん。理由なんていらない、よね?」
誰に言うでもなく、自身へと問いかけて、さつきは安心した。
それで良い。それが良い。
告白する理由なんて、必要ない。
ただ好き、それで良い。
そうしてさつきは誰も座っていない机へと目を向けた。教室内は生徒達がそれぞれに時間を過ごし、それをさつきは視界の端に眺めながら窓際にあるそれを見やった。
そこは遠野志貴の席で、今は食堂で昼ごはんを食べているのだろう。主のいない机に気持ちを軽くさせながら、さつきはそのまま窓の向こうへと目を向けた。
窓の向こうは明るい青色で、所謂秋晴れな空。やろうと思えばどこまでも見渡せそうなほどに澄んだ空だった。太陽は暖かに空気を温めて、これから冬に向かおうとしているとは到底に思えず、まして夕陽に変わるとはその姿を見て想像できない。
そして、さつきは――――。
朔ではなく、シエルが登場するのがミソ。六です。
……いえ、焦らしているのではなく展開的にです。
ただ、六が寄り添って描写する登場人物は亡くなる可能性がある、と思ったほうがいいです。別にデッドエンド、もしくはバッドエンドまたは欝エンドが最上だと思ってはいませんが、亡くなる可能性があるからこそ丹念にその人物を描写できるという訳がわからない思考の元です。だから輝けば輝くほど、死ぬかもしれないという緊張感も持てますしね。
しかし、私はさっちんが大好きです。志貴への想いに頑張る彼女の一途な姿勢は、もうたまらない。なので彼女は不幸でなければならないと思い込んでいる訳ではありません。ですが、日常の象徴である彼女は月姫においては非日常に巻き込まれる運命にあるのではないか、と漫画や原作をそれとなく拝見しながら思い、こうなりました。ある意味御都合主義です。批判を覚悟で書きましたが、皆様の反応に戦々恐々です。