月が里を見下ろしている。
翳ることもない月を美しいと思わない自分はどこか壊れているのだろうか、と朔は庭先が広がる離れの縁側に腰掛けながら考えた。
夜である。戌の刻ばかりだろうか。里は静まり、外に出ているものの姿はない。
頭上には満月。歪みない月が夜空に吊り下げられ、目下に広がる地上を睥睨していた。
静かだった。ただ静かだった。
生き物が発する物音は聞こえず、風に揺れる草のざわめきも聞こえない。無音にも似た沈黙が里を支配している。
この耳鳴りがするような沈黙を朔は気に入っていた。ともすれば死者の眠る墓場を連想させる静寂の世界。
生きている者のいない世界はなによりも自分がいるべき世界に思えて仕方がない。
少なくともこの生者溢れる世界で、自分の居場所を見つけることの出来ない朔にとって、それはひどく相応しく感じられた。
自分は一体何なのだ、一体何をすればいいのか、何になればいいのか。
それを考えるたびに朔は諦観めいた感情を抱く。特に独りのとき、その絶え間ない自問自答は加速し、朔を更なる深みに手繰り寄せる。
七夜として自分が何を求められているのかは分かる。七夜の業を教え込まれているのも、やがて一族の担い手として、侵入者を排除する尖兵となるよう望まれているからだ。
誰かに言われたわけではない。命令されたわけでもない。ただそのような蠢く意志を里の者から感じる。
その証拠はいくつもある。今日の訓練もそうだろう。
通常、当主は子を鍛え、指導しない。それは七夜の暗黙の了解のようなものだった。
しかし、それが朔の登場で破られている。朔は訓練を始めてすぐ、当主が朔を預かって訓練の全てを面倒となっている。
それは黄理からすれば朔との時間を増やそうという魂胆から始まったことなのだが、何分どうやって朔と触れ合っていいのかわからない黄理は事務的に相手してしまっているので、彼の狙いは今だ効果をあげているとは言えないだろう。
その本人は当主が子供の手解きを行う理由をあまり考えていなかった。
ただ、それまで会話もほとんどなかった黄理がそばにいることを不思議に感じていた。
黄理が指導する訓練。それは子が行うにはあまりに苛烈で厳しく、とてもではないが訓練を始めたばかりの子供には耐え切れることの出来ないハードなものだった。
基礎的な体力作りのために突然変異を起こした地帯を走り回り、それが終われば朔が動けなくなるまで組み手を行う。例え朔が気絶したとしても肉体的に問題がなければ目覚め次第すぐに組み手を再開する。しかも使用するのは真剣である。本物の刃は扱いを誤れば自身を傷つけ、さらには相手を殺してしまうという禁忌を抱かされる。そしてその全てを黄理自身が受け持つのである。
そしてその黄理が持つのも真剣。それが持つ怪しげな危険性と、黄理が放つ殺し合いさながらの殺意は実戦さながらで、朔は幾度となく無残に殺された自分を妄想した。
だがしかし。
朔は泣き言を漏らさなかった。あまつさえ耐え切ってさえみせた。
これが朔を異常足らしめんとするものだった。
朔はひるまない。
訓練を開始する子供はある程度の事柄をこなしてから本格的に訓練を始める。でなければ本人が危ないし、七夜の戦闘技術に耐え切れない。さらには将来、殺し合いというステージに精神が耐え切れない。そのための準備に何ヶ月かの時をかける。じっくりと時間をかけて肉体を準備し、精神を鍛え上げていくのである。
だが、朔はその準備期間がなかった。
だというのに、朔は耐え、こなしている。
今となっては黄理に牙をつきたてようとしてさえいた。
それを人は才能といった。
朔を鬼才と評し、鬼神の子だと称した。
事実朔は里の子では並ぶことのない高みへと上がり、大の大人との組み手であっても対等以上に渡り合っている。今では朔の組み手が務まるのは黄理ただひとりになっていた。
しかし、
「まだ、遠い」
―――脳裏に焼きつくのは黄理の姿。
戦闘技術、重心移動、移動速度、気配遮断、神速の斬撃、死角からの奇襲、さらに全方位に目がついているのかと思うような勘のよさ。
何よりも、油断なく、慢心なく、鋭く射抜くあの瞳。
泰然とし、遥か高みに存する男。
今日の訓練でも黄理には届かなかった。朔が黄理の訓練を受け五年以上経つが、朔は未だに黄理へ一撃を食らわせていない。当主相手に組み手をこなす朔だったが、それは黄理が手加減をしてのこと。
朔は知っている。黄理の本気、黄理の戦闘を。
感慨なく、感情なく相手を殺す殺人鬼。殺人機械。鬼神。
暗殺者として遥か高みに座する黄理との距離は果てしなく遠く、見えないほど。
だが、それでも、朔は黄理に追いつこうとしている。
ずっと見てきた。
その姿を目に入れてきた。
それがなぜだか分からぬが、朔は黄理のようになりたいと、漠然に思ってきた。
離れに放りこまれ、使用人の世話を受けてきたが、朔の周りに大人らしいものの姿はなかった。
ただ遠目に、黄理の姿だけがあった。
だからだろうか、朔には黄理を追いたいと考えるようになった。
あのような殺人鬼に。あのような殺人機械に。あのような鬼神に。
朔が影響を受けたのは、状況も考えれば、黄理しかいなかったと言える。
隔絶された場所に放り込まれた朔にとっては、人間とはとても遠い存在だった。
だが、そこに黄理がいた。黄理だけが見える位置にいた。
だからだろう。朔は黄理を見るしかなかったのだ。
無論そのようなことは朔には分からない。分からないが疑問には思う。
だが、自分はなぜ黄理になりたいのだろう。
志貴が産まれ、七夜一族が退魔組織を抜けることで状況は一変している。生業からも手を引いた。七夜は殺し屋ではない。
だと言うのに、自分は鍛えられ、望まれている。
人を殺す技術、人を壊す精神、人を解す肉体。
何のために?何のために?
自分はなぜ黄理になりたい。
自分はなにになりたい。
一族の担い手。里の尖兵。
そうなるように望まれている。
そうなるように求められている。
それは分かっている。分かっている。
だが、自分は――――
「朔」
不意に、声がした。
いつの間にか、離れに黄理がいた。
母屋からきたのだろうか。今は淡く染められた着流しを見につけている。
黄理が離れに足を運ぶのは珍しいことだった。黄理は基本この離れにやってきたりはしない。
それにしてもなんなのだろうか。黄理からなにやら戦意のようなものが滲み、妙に意気込んでいるように見える。
ただの用事には見えなかった。ただ事ではない雰囲気が黄理にはある。
「なんでしょうか、御館様」
朔の返事になにやら黄理が動きを止めた。
一体何なのだろう。
しばらくして、妙に落ち着きのない黄理だったが、どうやら決心をしたらしい。
「風呂には入らぬか」
「もう入りましたが」
間断なく応えられた返事に黄理は呻き声をあげた。
朔は今、黄理と同じように着流しをまとっている。色は藍色。使用人が昔着けていたお古らしい。
朔は先程母屋にある風呂に入ってきたばかりなのだった。
そしてしばらくすると「そうか……」と力なく声を漏らし母屋へと帰っていった。その際に背中が煤けて見えたのは朔の気のせいだろう。
志貴が生まれてから黄理は変わったと話は聞く。それはそうだろうか、と朔は思ったりしたが、別にそれは問題ではないしどうでも良かった。
黄理を見て、黄理になんとなくなりたいと思っているが、彼の性格面はどうでもいい朔だった。
七夜黄理
朔と一緒に入浴イベントを起こせず。