もう、戻れない。
血が、止まらない。
「――――ぎがっ、あぁ」
ぐわんぐわんと意識が揺れている。酒に酩酊しているような気分だった。精神に何かが混ざってぐちゃぐちゃにされたようなそれに気分が害され、酷く腹が立つ。彼の思考の殆どは憤怒に支配され、頭が破裂しそうだった。だから煮詰められた憎悪はひたすらに彼の意識を苛んで仕方が無かった。
――――ここ、は何処だ。
見覚えのない暗がりはどうやら自分の寝床ではないらしい。どこにでもあるような薄汚い路地裏で、上部に塗炭屋根があるような実に粗末な場所だった。乱雑に転がる瓶の破片やすえた臭いは家無しの溜まり場であるらしい。不衛生極まりないその場所は彼を苛立たせるには充分なほどで、怒りに任せて出鱈目に身動きすれば、黴の臭いが彼の体に纏わりつくようであった。
しかしながら、問題はそこではない。
――――彼は何故自分がこの場所にいるのか全く覚えが無かったのである。
「っつあぁ…………、ったま痛え……!」
脳が脈動するように痛む。ずくん、ずくん、と。鼓動のように頭部に痛みが走り、思考が瓦解しそうであった。寝起きにこの痛みは馴れたものではない。片手で頭を押さえつけても、まるで痛みは引かない。長年付き合った頭痛なのだから、これぐらいで治まるとは思っていない。それでも押さえつけなければまともに思考も出来ない痛みであった。
そして悪い事に痛むのは頭脳だけではなかった。
「っああああああ……っ!」
突き刺すような痛みが彼の脇腹を襲った。少数の蛆がその部分を食んでいるような感覚。
呻き声を挙げて恐る恐る左腕を伸ばしてみれば、湿りを帯びた感触。それを眼前に晒せば触れた指先は赤色に塗れていた。それが塗炭屋根の隙間から差し込む太陽の忌々しい光に照らされて不気味にてらてらとしていた。
「ぁ?」
どこか力なく声が漏れた。それは許容範囲を超えたことに対して理性が目まぐるしく原因を探っていたからだった。寝起きで激怒に脳内を焼き尽くされながらも彼の思考回路は実に明晰だった。彼の身に何があったのかを、彼の思考は瞬時に再生を果たしたのである。
――――あれは生温い夜。滑る風が体を撫でて、粘る空気に肺が苦しめられた。
見えるは藍の着流し。片腕を喪失した人形のような出で立ち。
さんばらに伸びた髪の隙間から覗く、蒼の瞳。
「あ、あああああああああああああ」
そこで彼は、彼は。彼は。
――――そして、炸裂するように思い出す。
「七夜ああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!」
細い路地に怨嗟の咆哮が響き渡る。それは反響して木霊さえ呼びこんで、彼の内側に渦巻く怒りをぶちまけた。右手を握りしめ、寝転がりながら地面を思い切り叩きつけた。その指は既に生え揃っている。朦朧な意識で記憶を辿れば容易に思い立つ。彼は能力で指を奪ったのだ。しかし。
一瞬寒気を感じて、慌てて胸元に手を当ててみた。
そうだった。記憶が確かならば、彼はあの時――――。
押し当てた掌に反応は無い。
内側から押し上げるような感覚はなく、鼓動は皆無であった。
「っくそがああああ………………っっっっ!!!!」
背筋を震わせて、彼は全てを思い出した。あのおぞましき夜の事を。
彼はあの藍色に完膚なきまでに遣り込められ、それでいて無様に殺されたのだ。何も出来ないまま軽くあしらわれて殺されたのだ。右指を噛み千切られ、脇腹を裂かれ、心臓を抉り取られた。いや、あの所業は抉るなんてものではない。何故なら今こうして彼の胸元には僅かな亀裂のような傷跡しかなかった。
瞬時に掠め取られた心臓。
あれは最早人間の所業ではなかった。
――――それでも、彼は立ち向かわなければならないのだ。
「あ、あああああああああああっ」
化け物の如き藍色の壮絶な惨さを目にして、彼はあの時確かに恐れた。怒りに思考は白熱してはいたが、その総身は鳥肌が立ち、戦慄に体が震えた。想像を超え、対処も出来ぬままに迫る藍色に恐怖したのである。
それでも彼は立ち向かった。恐怖を苛烈な憎悪で押し殺し、立ち向かって、殺された。
通常であるならば、その時点で彼は既に死人だ。心臓を奪われたのである。血脈の管理者である心臓を失ったものが生きている道理は無い。
それでも、彼はこうして生きていた。
「…………っ」
――――意識がぐらりと傾いた。貧血と頭痛、そして今しがた叫んだことによるものだ。
脇腹の出血は止まることを知らず、傷口は布で押さえつけてはいるが一向に滲み出ていた。刃で鋭く切り開かれた傷は浅く斬られれば意外にも早く塞がるものであるが、その気配はまるで見えない。だが、こうしている内にも血は失せていく。
しかし、心臓は既に失われているのだ。造血細胞は骨髄の中にあるからよいが、運搬に欠かせぬ心臓を奪われてはどうしようもない。それでも生きているのは、偏に彼の不死身さによるものであった。だが、失った血流は無視できるものではない。血は生命には無くてはならないもの。そのために心臓もまた必要不可欠である。
ならば、奪わなければならない。何処からか調達しなければならない。
そのために、彼は逃げた。
無様に逃げて、逃げて、逃げた。そして彼は今もこうして呼吸を続けている。生き永らえている。未だ死んでいない。いや、死ぬわけにはいかないのだ。
何故ならば、彼はあの藍色を殺さなければならないのだ。
『――――七夜朔が遠野への復讐を企てている』
最早顔も忘れた女が、記憶の奥底で彼に囁く。
あれは過去の事だ。彼はかつて牢獄の住人であった。湿った臭いが支配する陰気な牢を住まいとする囚人であった。それを彼は望んでいない。彼は望まずして人気のいない座敷牢へと押し込まれ、長い間日の目を見ない牢獄を住処としたのであった。
そして、いつだったか。
獄に繋がれた彼の世話を行っている女が唐突に彼へと告げたのだ。
七夜朔が、あの忌まわしき男が遠野を滅ぼそうとしていると。
それを聞いて、牢の中で彼は嘲った。
『構うものか』
ある例外を除いて身内に対し冷やかな感情すら抱いていない彼である。彼は無様に殺されるかもしれない親族の姿を想像して、せせら笑った。どうせなら惨たらしく殺されればいいと、鼻で笑ったのである。
何故ならそいつらが原因で、彼は牢屋に入れられたのだ。
切っ掛けはあった。特筆する事もない出来事だった。暴走状態に陥った彼に父親は一撃を放って息子を殺したのである。しかし、そこで驚くべきことに彼は生きていた。と言っても瀕死に意地汚く縋っただけであったが、それでも彼は生きていた。あれは何年前の事だった。それから彼は仄暗い牢の中に閉じ込められていた。何年も、何年も。
故に彼は親族に対し負の感情しか抱いていなかった。殺意と邪気を腹の底に溜めながら、彼は獄の中で息を潜めていた。
そんな彼に女は告げたのだ。
『――――七夜朔が遠野の全滅を狙っている』
不気味な事であるが、女はいつも笑みであった。まるで笑み以外の表情を知らないかのようだった。人形と言うのはきっとあんな女に違いない。
そんな女を壊してみたくて、彼はかつて身に巣くう激情を女にぶつけてみたりもした。だが、恐るべき事に無理矢理に辱められても女はおぞましき笑みのままで、男は身震いすらしたのである。決して笑み以外の表情を見せず、そして禍々しい笑みを湛え、女は男を嬲るように言うのだ。
『――――七夜朔は遠野秋葉を殺しに迫っている』
それを聞いて、彼は思い知った。事実に叩きのめされたと言ってもいいだろう。
その時の彼は言うに及ばず、暴れるだけ暴れた。地下に存在する座敷牢から響く彼の発奮は地上を僅かに揺らす程で、そのときだった。彼の怒りは頂点に達したのだ。
朧な記憶ながらに、彼は七夜朔という存在を覚えていた。
そしてそいつがいつも遠野秋葉の側にいたことも覚えていた。何故アイツに秋葉が心を開いていたのかを彼は知らない。知りたくも無かった。彼にとって七夜朔とは限りなく目障りなだけの存在であり、他人以上に気に喰わない存在だったのだ。
そして腹立たしい事であるが、七夜朔と遠野家は緊迫状態にあり幼少ながらに聡かった彼はそれを見抜いていた。故に七夜朔を排斥する事も出来ない事を理解していた。だから彼は歯噛みしてその状況を邪魔するぐらいしか出来なかったのである。何故なら、彼は七夜朔が遠野秋葉の側にいるのか、その理由に思い辺りがあったのだった。
そんな七夜朔が、遠野秋葉を殺しに迫っている。
彼にとっては到底許されるべき事ではなかった。
そして、どうすればいいかと悩みに悩んで彼は感情のままに行動する事を望んだ。
牢屋から脱出し、七夜朔を殺そうと思ったのである。特徴は既に知っていた。女が教えてくれたのだ。空を思わす蒼の瞳を持った男であると、男に口添えしたのである。不自然な事ではあるが、それを好機と男は受け入れて、手筈どおりに脱出を果たした。
そして、彼はとうとう見つけたのだ。七夜朔。あの忌まわしき男を。憎い怨敵、忌々しい感情の仇敵を。
彼は全力を尽くしていた。思い立つままに肉体を行使し、痛む傷口を無視して立ち向かった。血飛沫に塗れ、肉を潰そうと指を食われようとも彼は構わず絶叫をあげながら立ち向かい。
彼は敗れた。心臓を潰されて、無様に敗走した。
そう、彼ではアレに立ち向かえないと、彼は知らされたのである。全力では届かない。粉骨砕身の決意では辿りつかない。その命を喰らうためには海千山千の溝が横たわっていると、赤子をあやされるように彼は思い知った。
それでも、それでも。
「認めねえ―――――――っ」
それを認めるわけにはいかない。
「認めねえぞっ……認めねえぞ……!!」
それを認めたらきっとなにもかも駄目になる。
これまでの人生、牢に閉じ込められた惨めな己、そしてそれ以前の過去が。あの時に決意が、覚悟が全て不意に終わる。麗らかな思い出と、憎悪に明け暮れた現在を自ら踏み躙ることになる。
そのような事を認められるほど、彼は大人しくはなかった。
何より、それを認めてしまえば死ぬのは彼だけではない。
「秋葉――――」
そう、何よりも大切なモノが殺されてしまうのだ。文字通り目に入れても痛くない大切な、それこそ自分よりも大切なモノが、あの藍色に惨殺されてしまうのだ。それは阻止しなければならない。死守しなくてはならない。
長き牢での生活において己の理不尽に対する罵詈雑言と、かつての生活を思い描く妄想だけが彼を支えていたが、それにおいて遠野秋葉何よりもの存在だった。かつていた友人と共に笑いあった過去に涙と、それを破壊された激憤をもって彼の精神は健在だった。そして彼の中において遠野秋葉とは必ず守らなくてはならない無二の存在であると言えた。
だから、彼は立ち向かわなくてはならない。
「秋葉ぁ…………っ、秋葉――――っ!」
嗚咽のように彼は名前を呼んだ。搾り出すような懇願にも似た、なんて弱い声だろう。まるで親鳥から捨てられた雛の悲痛な鳴き声のようだった。
しかし、その声に返ってくる言葉は無い。
理由はわかっている。
なぜなら彼はどうしようもなく一人だったのだ。
恋焦がれた愛おしいモノは、もう側にいない。あの高い壁の向こうにいるはずだ。そして自分はこんなに薄汚れた路地裏で血を流し、苦痛にのた打ち回っている。それが惨めでたまらない。何故自分はこんな目にあわなければならない。
それでも、彼は悲壮な決意を固めていた。
「秋葉…………、俺……守るから」
全身全霊を賭けて、遠野秋葉を守る。
そのためならば、死んでも構わない。
「ああ…………」
睨み付けるように目蓋を顰めさせながら、彼はもう一度遠野秋葉の姿を思い出した。牢から脱出し、遠くから眺めた遠野秋葉は可憐な少女から成長し、美しき女性になろうとしていた。高い壁の中にいる彼女は本当に綺麗だった。それが嬉しくて、また悲しかった。
そんな彼女の側にいない己を彼は呪い、そして蔑んだ。
嘆いても何も変わらない事を知りながら、それでも想わずにはいられない己の弱さに。
嗚呼、なんて嘆かわしい。そんな己を蔑んで、彼はそれ以上の激怒で持って悲嘆を覆い隠した。嘆きでは殺せない。悲しみでは守れない。感情の綯い交ぜと、不自然なまでに痛む頭に苦悩しながら、彼はかつての思い出を胸に、今はただ憤怒に身を任せていた。
ならば、やる事は決まっている。
「殺す…………」
必ず殺してやる。噛み締めた奥歯が軋んでたまらない。しかし今となってはそんな事もどうでもよく、彼は敵わぬと知りながらその情動を狂気で染め上げたのである。内側から破裂してしまいそうな激情と、折れてしまいそうな脆弱の恐怖に自己を磨耗させながらも、牙を研ぎ、殺意を澄ましていった。もう戻れない過去に縋りながら、唯一を守るために彼は修羅となり悲壮の覚悟を身に刻んだ。
そして、少し泣いた。