七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 ――――うそつき。

 彼女はそう言った。



 (あとがきに頼みごとがあるため、どうかご覧ください。)


第十三話 悪い夢

「――――志貴さま?」

 

 声をかけられ、意識を凝らせばベッドで横たわる俺の側には翡翠が少々困った表情で佇んでいた。すでに闇は消え、窓から差し込む光は眩しい。開かれたカーテンの向こうは気持ちの良い青色で、吊るされた歪な月はもう見えない。

 

 朝となっていた。夜はもう、終わった。

 

「……おはようございます、志貴さま」

「――――ああ、おはよう翡翠」

 

 一礼した後、翡翠は何か物言いたげに口元をまごつかせたが、意を決したようで声をかけてきた。

 

「あの、……志貴さま。今朝は起きるのが早かったのですか?」

 

 翡翠の視線の先に見える俺の姿は既に制服姿。

 

 いや、この場合は既にではなく、未だ制服のままでいるというべきか。しかし、そんな戯言が翡翠に通用するわけが無く、俺は苦笑と共に「そうだよ」とだけ言っておいた。ただ、何故俺が苦く笑ったのかわからず翡翠は困っている様子。

 

「ごめんな、翡翠。ただ昨日は十二分に寝てただろ?そのおかげで早く起きたんだ」

「……ですが」

「実際そうなんだ。……理由はそれでいいだろ?」

 

 どこか説明口調であるが、咄嗟の言い訳としてはなかなかではないだろうか。理由も翡翠には思い辺りがあるだろう、その証拠に翡翠はまだ何か言いたげであったが一応の納得を見せた。それとも、言葉で重ねた境界の線引きを超えることを躊躇ったのだろうか。もしそうだとしたら申し訳ないと思う。でも、だ。

 

「先に下りて秋葉に言っておいてくれないか?今日は俺が早く起きたから一緒に朝を食べれますってさ」

 

 まずこの時間なら間違いなく秋葉は起きているはず。一緒に暮らして短いがあいつは律儀で、しかも決めた事は頑なに守る、言ってしまえば堅物ではないかと思われる。でなければ俺が起きる事であんなに苛立つ事ないないだろう。その秋葉だ、毎日決まって俺よりも早い時間に起きているに違いない。この時間帯ならきっと下にいるはずである。

 

「……かしこまりました」

「ごめんな、翡翠」

「いえ。……私は、従者ですので」

 

 そう言った翡翠の表情はどこか寂しげに揺れていた。それでも今の俺には翡翠を慮る気分さえ捻出させる事出来ない心持なのだ。多少の強引さに目を瞑り、俺は天井を見上げた。

 

 夜ではない。夜ではない。もう、歪んだ夜も、藍色の闇も見えない。

 

 ――――手前は、戻れない。俺達と同じだ。

 同じ地獄の底をのた打ち回る腐った亡者よ――――。

 

 なのに、俺の耳の奥は今でも、金属の悲鳴にも似たあの嗄れ声が鼓膜を震わせていた。

 

 □□□

 

『んでだ、手前。……アレは、なんだ?』

 

 獣の臭気が不快だと日本刀、骨喰は愉快に笑った。風に流れても澱む死臭は溜まるものである。まして世の理から外れた蠢く死体ならば言うに及ばず、振り撒く臭気はただの猛毒だと、刀はケタケタと喧しく囁いた。

 

 それは朔にとっても無視できることではない、ならばお前さんは尚更であろう、と。

 どうにかこうにか無事に引き抜かれた骨喰は引き攣った余裕のない声で言った。

「…………」

「――――」

 

 夜の路地裏から離れるべく、志貴は骨喰の指示に無言で従った。背中へと突き刺さる視線に息を呑んで、歪な月の不気味な光に照らされた仄暗い道を進んだ。何か物言いたげな意識を後方に連れたつ朔へと向けているが、その威圧するでもない不気味な無機質を放つ瞳に何も言えずに渋々と歩いていく。

 

 軽く。それこそ慣れた者同士の挨拶のように、あの耳障りな声音は志貴に告げたのだ。

 

 ――――俺は刀だ、と。

 

 それを聞いて、志貴はどうしたものかと返す言葉を探り、そして失った。

 

 一体どうすればいいのだろう。刀が喋ると言う摩訶不思議を志貴の脳は処理する事も出来ず、この夜に起こった出来事に追い詰められていたが故に何の冗談だと怒りさえ煮えて、その声をかなぐり捨てようとした。しかし、有無を言わさぬ骨喰の迫力に志貴はあっけなく屈した。

 

 ある意味当然だろう。長身痩躯な薄気味悪い雰囲気を湛えた男――――骨喰の言葉によれば『朔』という名前らしい――――が突如として志貴の首筋に骨喰の刃先を向けたのである。幾ら鞘に収められているとは言え、刃物は刃物。しかも、襲い掛かる化け物を豆腐のように切り裂いていた凶器なのだ。刃を突きつけられる経験も無い志貴にとってはそれだけで充分であった。反骨精神は身を滅ぼす。故に無言の了解が志貴の心を折った。

 

 だが。 

 

「……」

 

 先を歩く志貴はちらりと朔の姿を盗み見た。

 

 この何も言わぬ男は一体、なんだ。

 

 藍の和装にざんばらと長い黒髪。そして左腕がないのか、着流しはハタハタと揺れており、この街中で裸足である。並々ならない出で立ちであり、貧困街の住人のような装いであった。しかし、それを払拭するようにその雰囲気は明らかに常道のそれではない。

 雰囲気を感じれないのだ。生物は存在する限り、如何な者であってもその気を滲ませている。それは修練された達人であっても、きっと同じだ。だと言うのに、男は何の気配も感じさせない。そしてその振る舞いだ。先ほども魅せた立ち振る舞いといい、明らかに人間ではない。何か直感めいたものが志貴に訴えかけるのだ。こいつはまともじゃない、と。

 

 だが、それよりも志貴が恐ろしいと感じたのはその瞳だった。空を思わす蒼と言えば聞こえが良い。しかし、それはただの空ではない。

 

 有象無象を呆気なく飲み込んだ虚空の蒼色だ。

 

『聞イてんのかァ、手前?』

「え?」

 

 はたと、意識は戻った。

 

『ホうほう、この期に及んで呆けるとはナ。なカなか胆の太え野郎じャねえか、なあ朔』

「―、―――」

『ひひひひひひ、全くだ』下品な笑い声を響かせて、骨喰は快活に言う。『死ヌか、手前』

 

 酷く淡白な警告であった。

 しかし、志貴はその簡素な響きに、今は知らず体が震えた。

 

「い、いやっ。考え事してて、それで――――」

『……まア、いいさ。――――マだ殺しはしネえ』

 

 志貴の言葉を遮り、どこか含みを滲ませて骨喰は言うが、まだという事はやがてと言うことであろうか。そこらへんが気にかかるが、それを聞くには後ろを振り返る勇気も度胸も志貴にはなかった。

 

 そして両者は細い路地の隙間を歩き、厭らしく骨喰は言葉を吐き出す。

 

『もッかい聞くぞ烏、脳味噌指突っ込マれて掻き回サれない事を泣いて喜べ。手前のアレは何なンだァ』

「……知らない」

『あアっ?』

「本当に知らないんだ。……自分がどうしてあんな事出来たのか」

 

 志貴は知らぬ事であるが、人体を断つのは存外に労力を要する。人間は壊れやすい存在であるが構成は丈夫であり、少なくともナイフ一本で首を落とすにはそれなりの技術と修練を積まなければならない。だが。

 

「俺は、殺すつもりなんて……なかった、なかったんだ。だけど、あの時俺はあんなに簡単に」

 

 生命を殺めた。

 

 それが志貴の心を捕縛し苦しめる。人の形を成した存在に対し、刃を突き立てる時がこようとは想像だにしなかった。

 

 あの時、ふと志貴の意識は遠くにあった。何か、ぼんやりと転寝に眺めているような感覚で、志貴はアレの首を落とした。そして、後に思ったのだ。

 

 人の肉とは、こんなにも柔らかい感触なのかと。

 

『ほう、アレを知らねエのか。…………やはリ、表の人間か?』

 

 呟くように骨喰は言う。

 

『しかし、解セねえ。それだっタら、何デ手前は化け物の首を落とセた?』

「……化け物?」

 

 息を呑む音は志貴の咽喉から聞こえた。

 それを自覚しながら、思わず志貴の足は止まる。

 

 何か聞き逃してはならない事を不可思議な刀が、藍の男が告げようとしていた。このまま振り向ければよかったのだろう。勢いのままに、後ろの存在を直視すればよかったのだ。だが、振り返るには既に遅く、志貴が処理しきれないままに骨喰の不愉快な金属音は言葉を紡ぐのだ。

 

『人間は死ねばシゃれこうベだ。死ンで腐って骨となル。骨は何も言エねえし、動けねエ。そレが常道だ。……ンだが、あいツら死にながら動いテいた。そレはな、あイつらが死者だからだァ。死者は死ンでモ生きる化け物だ。生ける屍(リビングデッド)トでも言えば分かっかァ?』

「ちょ、ちょっと待ってくれ!そんな莫迦な事ありえるか!アレは死体だって言うのか!?」

 

 溜まらず志貴は悲鳴をあげるように叫んだ。あまりに常識から離れた真実に意識は拒絶を促したのである。しかし、その反応を寧ろ笑って骨喰は甘受した。あまりに醜悪な声音である。

 

『ソうさな。殺サれた死体が屍ニ成り切れず、腐臭撒キ散らす化け物と果てタ。それがアいつ等だ。生キたままに殺さレて成り果てたのがアの生きる屍だァ。喜べ、手前は死ンダ奴を殺したンだ。ひひ、ナかなかいナいぜ、表の人間なラ特に、な』

 

「そ、そんな。そんな事があって――――」

 

『何せコの世は地獄だ。世は漫然ト蠢き、生者と死者が悲鳴を挙ゲて這いずる。助ケを求めル為に声を挙げてンのか、お仲間を増やすたメに叫んでンのかハそレぞれだが、少ナくとも仏様は優雅ニ蓮池のほトりで無様な俺らを眺めテ憐れみやがル。憐れンで、嘲ッてる。手ヲ差し伸べる事無ク、救う事無く。世の理が極楽の世なラ、糸の垂れタ下にいる俺らハ地獄の獣じゃねえか? 常道では無ク、外道の理ガ蔓延る地獄の住民だ。なら、死体ガ動いたって不思議じゃネえだろ』

 

「――――――っ!」

 

 反論する言葉が思いつかず、志貴は立ち止まる。

 一体何を言っている。一体何を言っている。

 

 まるで理解できない。

 まるで理解したくない。

 

 感情は骨喰の世迷いごとを切って捨てようとする。

 しかし、志貴の理性は骨喰の言葉を受け入れようと聞き入っていた。

 

 それは、もしかしたら答えを与えられた子羊のようで、あるいは中毒性の麻薬を求める廃人の心地だったのかもしれない。理由を渇望する者の心理は如何様にあっても、その本質は変わらない。選択肢は二つ。満たすか、餓えるかだった。

 

『ンでだ。アの死者は不可思議ナ事に死ンで元気だ。元の人間よりモ頑丈に、元気になル。蚤ノ様に飛び跳ねル事だッて出来る。ソんなあいつ等ヲ相手取ルのは、裏ノ人間の仕事。表の人間なラ瞬キの間に肉塊、お陀仏だァ。……ダが、だ』

 

 気付けば、そこは志貴が辿った道の入り口の側であった。視線の先には明るい煩雑な繁華街で疎らながらに人が歩いている。生きている、人間が。そこから溢れる光が志貴の足元まで伸びて、後少しでも踏み出せばそこに辿りつく。どうにかして金属音と藍の男を振り払えば、あそこに戻れる。

 

 でも、何故だろう。足が動かない。鉛のようにではない。足に力が入らないのだ。

 これではまるで、自分の体がここから離れたくないと訴えているようではないか。

 

『手前は違ッた。死者に襲ワれ、縊リ殺した。普通の人間なラこうはイかねえ。ソのまま潰さレて終いだ。……だカら俺は聞いてんだ。なア、俺ニ聞かせてクれ。朔に教エてくれ。……手前は、何ダぁ?』

 

 最終警告。志貴の背中に何やら感触があった。恐らく、朔の指先だろうか。このまま黙っていれば先ほどの戯言通りに志貴は生きたまま内臓を握り潰される。言葉にはし難い妙な確信があった。

 

 だけど、何を言えばいい。

 

 あの視界の事を言うには。ちぐはぐな志貴の視界を言うのはあまりに憚られた。今志貴が遭遇する事態にそのような事を考慮するのはおかしな話なのやもしれぬが、アレはそんな容易には言えない事なのだ。信じてもらえるはずがないという事もあるが、志貴はこの目の真実を墓場まで持っていく所存なのである。だから言わない。

 

 それに、話してしまえば何をされるかわからない。見えぬ事態に志貴は予見も出来ない。

 故に、違う事を話さなければいけない。

 

 だから、実に関係のない事であるが、志貴は己を誤魔化すために声を挙げた。

 

「俺は、遠野志貴だ。……ここらへんじゃ結構有名な遠野の長男だぜ。だから体鍛えて、武術だって使えるんだよ。知らないのか?最近の長男は妹を守るために護身が必須スキルなんだって」

 

 誤魔化すにはあまりに出鱈目と尽きる嘘八百であった。

 

 志貴自身、ああ言ってしまったと果てしない後悔と脂汗。口から出た言葉は荒唐無稽すぎて逆に笑えない。幾ら目の事を言わない為とは言え、あまりに酷い。これで俺の命運尽きたと内心涙を零して覚悟を――――。

 

「―――、―」

「っな?―――かはっ!!?」

 

 衝撃が肺を叩く。

 

 背中に添えられた指が志貴の肩をむんずと掴み、翻りその身を壁にたたき付けた。いきなりの事に踏ん張る事も出来なかった志貴は、背中から叩き付けられた事で息が詰まる。しかし、これで自分は終わったと思い、それでも眼前に現われた朔の姿を見た。

 

 二人の視線が交わる。

 吸い込まれそうな蒼の瞳と、眼鏡に隠された滅びの瞳。

 

 しかし、その腰元に佩かれている骨喰はその間隙さえも許さなかった。

 

『手前…………。遠野志貴か?』

「っああ、――――そうだ」

『ソうか……そうか―――――っ』

 

 そして。

 

『ひひひひひいひひひひひひひいひひひひ――――ひひひひひひひひひいひひひひひひひひひひひひひいひひひひひひひひひひひひひいひひひひひひひひっ!!!』

 

 突如として骨喰は震えるように、笑った。

 

 刀ではなく、肉体を持っていれば腹を抱えそうなほどの大爆笑。夜を劈き、空気を軋ませる金属の悲鳴にも似た笑い声は脳を壊してしまいそうな破壊力を伴い、思わず志貴は眩暈を感じた。

 

 骨喰の笑いは止まらない。まるで狂っていような笑い声を響かせながら、骨喰は言う。

 

『そうカ、手前ガあの遠野か!遠野の直系カ!!―――ひひひっ、なるホどこれガそういう事か、コれこそそうイう事か!嗚呼、朔聞いタか!コいつが遠野の人間ダとさ!!奇奇怪怪テのはきっとコんな事に違イねえぜ、ナあおい!』

 

 遠野の名前に、骨喰は明らかに尋常ではない反応を返し、志貴を嘲う。

 それはまるで、悪鬼のようですらあった。

 

「あ、あんた何を言ってるん――――っ」

『手前は、もウ戻れねえ』

 

 不意に、その言葉は澄んだ余韻を響かせていた。

 金属の悲鳴とは違う、神託の様な声。

 

「え?」

『化け物を殺シたものは化け物に殺サれる。そレが遠野なら尚更ダ。遠野ノ人間なら全くもッて同然だ』

「――――、――」

 

 眼前。茫、と無機質な蒼の瞳。鋭利な刃先を思わす眦が志貴を見つめている。蒙昧な視線であるのに、今は志貴を見つめているとわかった。それは、あるいは獲物を見つめる捕食者の瞳であったのかもしれない。

 

「――――あ」

 

 まるで、化け物ようだ。

 

『ソの魔眼殺しといい、騙さレたな。手前はどウしようもない畜生だったか! 地獄の亡者と思イきや、獄卒の一匹。世も末トはこの事だ。真逆、遠野ノ直系と朔がご対面とはおもわなんだ。アいも変わらず世界は狂気に満ちテいる』

 

 耳障りな声音。蒼の瞳。掴れた肩。

 藍の男。喋る刀。

 

 不思議と志貴は自身の死を見た。

 目前の男に無残と殺される姿が、妙にはっきりと見えた。

 

 化け物を殺した人間は、化け物に殺される。

 それが正しければ、今志貴は殺される運命にあるという事か。

 逃れられない。底なし沼のような亡者の巣窟立ち竦む志貴を捕まえて。

 

『嗚呼、手前は同類ダ。こチら側の人間だ。残念無く同等ノ畜生だ。では、同じ地獄ノ獄卒たる遠野と退魔だ、今回の件ニは無論関わらなケればならねエ、っひひ!』

 

 何を言っている。何を言っている。

 藍は殺すのか。何を、誰を殺す。

 

 それは化け物か。

 あるいは化け物を殺した自分か。

 

「だから……」震えを堪える事もできずに志貴は問うた。問わざるを得なかった。「あの時、俺を殺そうとしたのかっ!」

 

 恐れ、あるいは怒りを綯い交ぜに志貴は藍色を睨みつけた。

 

『アん? なんの事だ?』

 

「―――っ! しらばっくれるな! あんた等は俺と弓塚さんに襲い掛かったじゃないか! 首を抱えながら!?」

 

 責め立てるように志貴は言う。以前以前一度会っていると。そこで俺は殺されかかったのだと。

 

 それは、どこか悲鳴にも似た声だった。しかしどこか懇願するような響きでさえあった。心の何処かで否定を望んでいる童の叫びであった。

 だが、藍色に変化はない。相変わらずの不変さで志貴を眺めている。それが気に触ってたまらない。そして骨喰はささくれ立つ神経を逆撫でる事に長けているのであった。

 

『覚エがねえなあ。――――朔の中にモ、んな記憶はねえ。多分アレだろ、運がなかッたんだろゥ?』

 

「――――なっ!!」

 

『確かに手前とは何処かデ偶々運悪ク会っていたかもしれンな。だが、ソれは本当に何処かデ偶々運悪く会っタだけの話だ。不運ダったな」

 

「お前は―――っ!そんな―――っ」

 

 人は災いを憎む。そして遭遇しない事を幸福に思う。

 

 なぜならば災いには意思がないからだ。どんなに忌諱しても防ぐ事も出来ぬ事象に人は震えながら祈る事しか出来ない。

 

『殺す相手を一々覚える事も煩わしい。何故なら朔が化け物だからだ、人殺の鬼だからだ。鬼は殺す事に躊躇いない。何故なら鬼と人間とでは明らかに思考も信念も倫理も違うからだ。手前は蟲の法理に従うか?手前は自らが悪戯に踏み殺した蟻の理念に従うのか?答えはそうだ。答えはそれこそだ』

 

 化け物は化け物の理念に則って生きている。

 

 それ即ち自らのルールを相手に適応する事以上に愚かな事はないという事。

 

 人間が人間を殺す事に嫌悪を覚えるのは全くもって同然。

 

 しかし、化け物が人間を殺す事に、何故嫌悪を覚える必要が在るのだろう。

 

 人間と化け物は全く違う。考え方も、方法も、倫理も、生き方も。

 

 生きている世界すらも、全く違う。

 

『いチいち覚えることナど出来るものか。鏖殺の限リを尽くす悪鬼の輩だ。自ラ以外の全生命は殺人対象に過ぎネえのだよ、朔にとッてはな』

 

「―――――――」

 

『そシて手前が踏み込ンだのはそんナ場所だ。そンな糞ったれな世界だ』

 

「………………」

 

 不思議と、こんな時に志貴はふと。

 ――――明日、学校で会おう。

 弓塚さつきとの約束を思い出した。

 

 こちらが勝手に思い込んでいる約束を、志貴は思い出した。

 

『日和は閉ザされ、これかラ先は問答無用に無明荒野だ。楽しクなってきたじゃネえか。もう手前は戻れナい。血生臭い獣の共食イから、モう離れられない――――』

 

『遠野志貴。お前は踏み外した』

 

「―――――――っ!!」

 そして、志貴は駆けた。全てをかなぐり捨てるように、肩にかかる藍の腕を振り払いあの光の先へ。

 

 意味がわからない。意味がわからない。

 

 頭は情報の処理を放棄した。現状を千切って放りだし、刀が語る理解不能な言葉に体は拒絶した。

だから逃げた。逃げて、逃げて。名残を惜しむような虚脱を無理矢理殺し、少しでも遠く。流れる暗い灰色の視界。その先には明るい世界。そこへ、逃げた。

 

 それでも、嗚呼。それでもなお。

 あの神経を逆撫でる刀の声音は、遠ざかるはずの志貴の耳を捉えて話さない。

 

『――――手前は、戻れない。俺達と同じだ。

 同じ地獄の底をのた打ち回る腐った亡者よ――――』

 

 □□□

「―――兄さん?」

 

 意識は回帰する。はっとして視界を凝らせば眉間に皺を寄せた秋葉の不機嫌な表情が見えて、そして理性は現状に追いついた。

 

「私の話を無視するなんて、兄さんは私といて詰まらないのですか?」

「いや、あの。……あ、あははははは」

 

 硬い表情のままに笑む秋葉の顔は空恐ろしいものがあった。

 

 時分は既に朝食を取り終えていた。そこで時間に余裕があった俺は秋葉との時間を優先させようとしたのだが、どうやら意識はここになかったようで秋葉の言葉を殆ど聞き流していた。これは不味い。

 

「駄目ですよ志貴さん?秋葉様は志貴さんが体調の加減を崩されたことが心配で夜も眠れなかったんですから。ちゃんとお相手しなくちゃいけませんよ?」

「な、琥珀!いい加減な事を言わないで!」

 

 秋葉の隣に控えていた琥珀さんがどこか茶目っ気ある口調で言った。秋葉は否定のためか顔を赤くさせているが、それが本当なら申し訳ないと思う。

 

「そうか……ごめんな秋葉」

「全くです。幾ら体調が回復傾向にあるとは言え、本当は学校も休んで欲しいぐらいなんですよ。それなのに兄さんときたら――――」

 

 秋葉は厳しく言うが、それは確かにそうだと思う。

 

 原因不明によって体調を崩して意識すら失ったのが昨日の事。それなのに昨日今日の事で学校に行くのは、少々おかしな事なのやも知れない。事実秋葉には心配をかけた。琥珀さんや翡翠にも迷惑を掛けただろう。

 

 でも、だ。

 

「約束があるから。今日は学校に行きたいんだ」

 

 弓塚さんとの約束がある。

 昨日翡翠から伝わった、弓塚さんの言葉だ。

 

 取るに足らないような約束かも知れない。でも、俺にとってその約束は弓塚さんと繋がる唯一のもののように思えた。

 

 自分が何故こんなにも弓塚さんとの約束を、繋がりを求めているのかまるでわからない。弓塚さんがそのような事を期待しているとも思えない。

 

 でも、これはとても大切な約束のように思えた。

 

「それでもです。病み上がりの人間に無理をさせるだなんて遠野としての品位に欠けます。兄さん、自覚はおありですか?貴方が倒れるだけで大勢の方に影響を与えるのです」

「はは、そんな真逆」

「それが遠野の長男というものです。上に立つべき人間に何か在れば事態は混乱の極みにもなってしまうんですよ」

「……肝に銘じておくよ」

「本当ですか?」

 

 そう疑われると、こちらとしても遣る瀬無いものである。しかし、それを正面切って直接言葉にするには度胸がなかった。軟弱者である。

 

 しかし、改めてこの場を見渡す。

 

 正面には小言を列ねる秋葉、その横には何やらにこやかに笑っている琥珀さん。そして。

 

「なんでしょう志貴様?」

「いや、なんでもないよ」

 

 俺の隣には慎ましく翡翠が控えている。控えめに佇むその姿は本当に従者の鏡で、ぴっちりと着こなしたメイド姿から彼女の几帳面な性格が垣間見えた。先ほど邪険に扱った事を申し訳なく思いながら、しかしこうやって全員が揃っている事に心は確かな安堵を覚えていた。きっと夜にあんな事があったからだろう。寝付けなかった事に妙に落ち着きは訪れなかった。

 

 でも、今この場に皆いる。それだけでいいと思える。だから。

 

 ――――手前は戻れない。

 

 反響する金属の囁きに、顔を顰める事は無理からぬ事であった。

 

「兄さん?どうしました」

「……いや、なんでもない」

 

 黙っていろ。俺には関係ない。あんな事、忘れてしまえ。

 しかしそう思い込もうとするたびに、あの二人の姿が脳裏を刺激して止まないのだった。

 

「志貴様。そろそろお時間です」

「ああ、わかった翡翠。秋葉、それじゃあ行ってくるよ」

「……わかりました。無理はしないでくださいね」

「大丈夫だよ」

 

 ――――だから心配なんです。

 

 遠ざかる俺の耳にそんな声が聞こえたような気がした。

 

 □□□

 

 玄関へと続く廊下を歩いている時、後ろからパタパタと軽やかな歩き音が近づいてきた。

 

「志貴さーん。忘れ物ですよー」

 

 何事かと思って後ろを振り返ると、琥珀さんが俺の学生鞄を抱えていた。そういえば、俺は今手ぶらだった。どうやらわざわざ持ってきたらしいが、本当に琥珀さんには申し訳ない気持ちで一杯である。

 

「ああ、ごめん琥珀さん。助かったよ」

「いえいえ、翡翠ちゃんが忙しそうでしたので代わりに持ってきただけですよ。あ、それとも志貴さんは翡翠ちゃんが持ってきたほうがよかったですかー?」

 

 どこか含みを持たせた琥珀さんの笑みに顔が引き攣る。ここで慌ててしまえば彼女の手管に乗ってしまうのは前回の件で証明済みだ。引っ掛からないぞ俺は。

 

「そのままあの手この手で翡翠ちゃんを誑かして門の見送りで翡翠ちゃんの唇を無理矢理奪うんですね?さすが志貴さん実にあくどいです!」

「何を言ってるんですか琥珀さん!?」

 

 あ。

 

「おや、反応するという事は実際にそうするということですねっ。むむむむ、これは翡翠ちゃんのお姉さんとしては翡翠ちゃんの唇を死守しなくてはなりません!」

「いやいや俺はそんな事しませんから!」

「むむっ、翡翠ちゃんには魅力が無いとでも言うんですか?これは見過ごせないですね!」

「何この理不尽っ!?」

 

 反応してしまったツケは実にカオスである。

 

 それはさて置き。そのまま見送りをすると言う琥珀さんを連れ歩き、俺たちは玄関を出た。外は澄んだ空気で体の汚れも浄化させてしまいそうなほど。実に気持ちの良い天気である。

 

 ちらりと見ると琥珀さんはそんな天気に眩しいのか目を細めて遠くを見つめていた。はて、なにがあるのだろうと思ったが、そこまでの詮索は実に瑣末な事であった。

 

「お帰りは何時ごろになります?翡翠ちゃんに伝えておかないと?」

「え?なんで?」

「だって志貴さんが帰る時間を把握しておかないとお出迎えができないじゃないですか」

「……別に出迎えとかいらないんだどなあ」

 

 慣れていないことなので、そんな扱いを受けるのはこそばゆいと言うか、何と言うか。

 

「翡翠ちゃんがやりたいからやってるんですよ。だから志貴さんは別に気にしなくてもよろしいんです」

「んー、……納得はいかないけど。そこまで遅い時間にはならないから大丈夫だよ。門限は守るさ」

「なるほどー、それじゃあ翡翠ちゃんにも伝えておきます。あとなんですが」

 

 そこで琥珀さんは間を置いて、言った。

 

「志貴さん、深夜に何処へ行かれたのですか?」

 

 ――――心臓が大きく跳ねた。

 

「え?」

 

 何故琥珀さんが夜の事を知っているんだ。琥珀さんを見れば、何時の間にかその笑みはどこか張りついた仮面のような凄みと簡素さを持ち合わせ、ともすれば誤魔化しは許さないと言わんばかりに俺を見つめている。その目は笑っている。しかし。

 

「実はですね、昨晩の事なんですが私たちは夜中に見回りを行っているんです。こんなに大きいお屋敷ですから見回りにも一苦労なんですけど、そこで私は不思議な事に夜中にお屋敷から抜け出す人影を見つけたんです。不思議ですねー、真っ暗な深夜に何処かへと向かう人影は、私にはどうにも志貴さんの姿に見えて仕方なかったんですよね」

 

 その瞳の奥底にあるその色は笑っていない。俺を射抜いて放さない。

 

「そこで私、あんまりに気になっちゃって志貴さんの部屋にお邪魔しちゃったんですが、これまたびっくり、志貴さんの姿が何処にも見えないんです。これは一体どういうことでしょうね?」

 

 どこか訴えるように、琥珀さんは楽しげに言葉を紡いだ。

 しかしその内情は如何なるものだろう。どこか震えを堪えるように、俺の咽喉が鳴った。

 

「……それで、志貴さんはどちらに行かれたんですか?」

 

 何故ばれたのかはわからない。本当に琥珀さんが俺の姿を見たのだろうかと、判別する手段も材料も俺には無い。琥珀さんは俺を見たと言うが、それは真実なのだろう。事実、俺は家を出ているのだ。それに部屋まで確認したと言うのだ。言い逃れは出来そうにない。

 

「えっと昨日は、っというか今日になるのか。一日中寝てたから妙に眠れなくて、ちょっと洒落込んで夜の散歩にでもと思って外にいったんだよ」

「……」

「だから琥珀さんが見たのは俺で間違いないはずだ。偶々出かける俺を見かけたんじゃないか?一時間ぐらいで帰ってきたし、琥珀さんが思うような事は何もないよ」

 

 俺の言葉に琥珀さんはどこか胡乱げな雰囲気を滲ませたが別段何も言わず、「なるほど」と取り敢えずの納得を収めたようだ。

 

「あんまり夜は出歩かない方がよろしいですよ?最近物騒な事件も多々とおこっていますし、秋葉様も心配しちゃいますし。寝るために多少の疲労は欠かせないことですが、志貴さんの体調を見た私としましてはあんまりお勧めしません」

「……ごめん」

 

 流石に呆れられたか。仕方ないと言わんばかりに琥珀さんはオーバーな溜め息を吐いた。その仕草が実にアメリケンであると思う俺は実に場違いである。

 

「さて、それじゃ心配事も無くなりましたし志貴さんお気をつけて」

「ああ、言ってくるよ」

 

 俺は琥珀さんの対応にどこか柔らかな雰囲気を感じながら、そのまま振り返って足を進めた。

 

「――そ―――き――」

 

「え?」

 

 すると琥珀さんに何やら声をかけられた気がして後ろを振り向くが、琥珀さんはそんな俺に小首を傾げながらにこやかな笑みのまま。きっと気のせいだったのだろう、と思い俺は下る道を歩いていった。

 

 □□□

 

 その日、少年は一つの約束を胸に坂を下っていた。恐らく約束と呼ぶにはあまりに弱い少女の言葉に少年は陽だまりの臭いを見出したのかもしれない。ひたすらに平常を愛し続けた彼だから、太陽の暖かさや人の温もりというのはかけがえの無い事だと、理解ではなくずっと前から知っていたのだろう。それはきっと大切な物なのだと信じて疑わなかった。

 

 故に、少年の約束は果たされる。

 

 少年が取るに足らない言葉に陽だまりを見出したのと同じように。

 少女もまた己が発した言葉に少年への想いをありったけ積み込んでいたのだ。

 

「あ」

 

 その姿を少年は思わず立ち止まり見つめた。

 栗色の髪を両サイドで縛った、丸顔の少女。

 

「あ」

 

 予感があったわけではない。ただ、もしかしたらここにいたら彼が来るかもしれないと淡い期待を秘めて彼女はその場所に佇み、少年の姿を待っていた。帰りでは分かれ道。でも、行く時は交わり道。其々に異なる道なりを歩んできた二人は、細い繋がりに約束を包み込んで、出会った。

 

「「その……」」

 

 そして二人は言葉を失う。何て声をかけようかと考えていた。沢山考えてはそれを打ち捨てた。でも、それは学校での話で、通学路で対面した頃合を想定していなかったのである。多少の恥じらいと躊躇いを込めて、二人は言葉を重ねた。

 

「あの、昨日は大丈夫だった?」

「あの、体の調子はどうだった?」

 

 重なる言葉に二人は瞳を見開いて、そして沈黙の後に耐え切れず笑った。

 

 嗚呼、この人も同じ事を考えていた。

 

 どうしようもなく心配でたまらない心持が気遣いの言葉を紡がせた。

 

 このシンクロがおかしてたまらなかった。

 

 そして相手の事が自分を心配してくれている事が、ただただ嬉しかった。

 

 そうして二人はいつしか並んで歩く。

 

 雰囲気は安らいで、二人の表情もまた柔らかい。高校への道なりを二人は歩いて、話し、笑いあった。上々な陽気の気配に二人は今日の良き日を予感した。

 

「おはよう、弓塚さん」

「おはよう、遠野くんっ」

 

 □□□

 

 だから。

 

 二人が並んで歩く日々が今日で最後であると。

 

 今は誰も、気付かなかった――――。

 

 


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