七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

36 / 62
 ずるり、と。
 形容すべきは、そんな間抜けな音。
 それが人間の首を落とした音だというのは、あまりに滑稽であった。



第十二話 悪い夢

「――――え」 

 

 右手に握られた鉄の棒、そこから飛び出す刃の無慈悲な煌きは夜の闇に於いても瞬いて、迫る女の首を凪いだ。

 

「あ、あ?」

 

 いや、それは凪いだというよりも、なぞったと呼ぶに相応しい軌跡であった。

 

 志貴が振り切った刃は首の筋を突き刺すでも無く、切り裂くでも無い。そのままの勢いで首を通った。その皮膚を、筋を、筋を、骨を通過したのである。支えを失った首は苦痛に歪む事も無く、全く不変の表情でずれて落ちるが、反しに払われた腕の一振りに跳ね飛ばされて、壁に中身をぶちまかれていた。頭部を失い、崩れ落ちる身体。それすらも何時の間にかに潜り込んだ両足が突き飛ばし、身体は路面へ投げ出され、止まった。

 

 ――――今、己は何をした。

 

 右手に納められた鉄の感触。それが夜を舐めるように振り切られていた。

 

 だが、理解が追いついていない。その瞬間を志貴は捕らえることが出来なかったのである。あの刹那に志貴の意識は数瞬飛んで、気付けば女の首を断っていた。あまつさえ、反しの一撃を放ち、その頭部を壁の彩りと化したのだ。

 

 ずれた眼鏡を慌てて戻す。度数も入っていない眼鏡であるが、これが正常の位置にいなければ、志貴は安心が出来ない。だが、荒れ狂う胸の鼓動に全身が震えて指先が落ち着かない。眼鏡を抑えようとして、掌は痙攣のように震えて仕方が無かった。

 

 その指先には女の首を落とした感触が確かに残っていた。人体を斬ったとは思えぬ柔らかな感触。それが更なる戸惑いを覚えさせえる。

 

 己の行動が把握できない。己の動きに理解が追いつかない。

 

 しかし、その震えも戸惑いも志貴は何から生まれた結果かは志貴は考えてもいなかった。

 それが生まれて始めて人体を解体したことによる、興奮である事を。

 精神ではなく肉体が。心ではなく魂が。

 その結果に歓喜し、武者震いを起こしているのであった。

 

 そんな感慨を志貴は知らず、ただ呆けるばかり。

 

 しかし。そんな志貴を嘲うように、その上空を影が過ぎる。四方を囲われた狭き空である。天上には雲がちらほら。その隙間には歪な月が吊るされて、繁華街であるのに繁華街ではない境界に位置するこの場所では、歪んだ月こそ唯一の光源。

 

 ――――月明かりに照らされて、亡霊が空を舞う。

 

 夜に群がる獣の数二十以上。正確には二十四の蠢く死体。

 

 世の理から逸脱し、死してなお、朽ちてなお活動を果たす畜生の狗共である。彼らに理性はない。何故なら思考する脳が死滅しているのだ。故に死体を動かすのは死してなお絶滅する事のない本能であった。

 

 本能はそれぞれに告げる。

 喰らえ。喰らえと。

 

 天上を囲う建築物、四方を巡る屋上に佇む死者は茫洋なままに、しかし迫る餌をねめつけている。

 

 今まさに、反り立つ壁を地面の如くに駆け上がるという莫迦げた芸当をいとも容易く行う怪物を喰らい尽くせと、本能が叫び、頭脳に命が下る。

 

 死んでいるのだから頭脳は機能を十全に果たしてはいない。脳細胞は既に死滅しているのである。思考を働かす術はない。それでもどこからか下ってくる命を、それが明確な言葉ではない苛烈な感情であっても本能が順応しているのは、その命が彼らよりも上位に座する親から伝えられている事を彼らが知っていたからだった。

 

 理性ではなく、本能で理解している。ソレこそ自分達の上位者であるという事を。

 

 故に彼らは迫る餌を誘き寄せた。

 

 人外が発する澱みとも呼ぶべき死臭は、この行き止まりにはよく溜まる。匂いたつ臭気は風に漂い、やがて狩人を誘う。匂いに敏感な狩人であるならば、それは極上の撒き餌だ。

 

 思考も計算もすることが叶わぬ彼らが策を弄し、狩りを行う。

 それは寧ろ獣同然である死者達だからこそ行える集団行動。生存の術であった。

 

 だが、彼らは何も理解していない。迫る存在がどのような存在であるのかをまるで理解していない。ソレを捕食対象として認識しながら、稚拙な対策を行いはしたが、それでも狩人たる由縁を一厘とも理解していなかった。

 

 ただ彼らは己の欲求を満たすために行動を果たすのだ。

 

『ひひ、来るゾ』

 

 死者は躊躇いも無く足を踏み出す。無論、そこに地面はない。地面は遥か真下にあり、それゆえ死者達は自由落下を始め、狩人へと向かっていく。正確には把握できぬ疾さで遡る藍色に衝突していこうと、その数四つの死者が墜落していった。

 

 恐怖は無い。地面へと激突し肉が潰れる事など、考慮する脳は死んでいる。

 死者達は腐臭を撒き散らし、涎さえも口内から吐き出して朔へと群がり――――。

 

 真上から襲い掛かる藍色の暴力に、その首と中身を空に零して堕落した。

 

 その軌道を理解できるものは、いない。

 

 遡る藍色が姿を暗まして、上空からの急降下を仕掛けたのである。

 

 落ちるだけの死者は藍色の存在に気付く事も叶わず、四つの死者は十七の欠片と成り果て地面へと零れていった。

 

 いきなり現われ直ぐ消える。それは亡霊の所業である。理から外れた亡霊の業をどう理解できようか。

 

 しかし、それを見たものは、確かにいた。

 

「な…………っ」

 

 なんだ、今のは。

 

 ただ、下にいた朔が上へと乱反射の如き軌跡を見せて出現し、真下に落ちていく死者たちへ襲撃を仕掛けたのである。どういう理屈で行われている所業であるのかを理解できはしない。ただ、それを証明するような音を、志貴は聞き逃さなかった。硬いものが破砕する音を。

 

 岩石に亀裂を走らせるような、例えばつるはしの一振りに似た音を。

 

 灰が舞い散り、粒子となって地面へと降り注ぐ。

 見やれば、無残を形成した残骸が灰へと変貌していく。いずれそれも風と飛ばされ消えていくような、まるで埃のような軽さで消えていく。

 はたと、その光景に急いで首を捻れば、今しがた己が殺した死体が、壁にぶちまけられた血痕さえも灰と化し、消えていた。

 

「―――――っ」

 

 それは、何に息を呑んだのか。自らが理解できぬ所業に出くわしたが故か、それとも理解できぬ所業を果たした者への驚愕か。状況に追いつく事が出来ず、志貴は声を忘れた。ただ漠然とだが、それを人間業と見る事は最早不可能であった。獣の動きではない。それは寧ろもっと、それ以上の何かであった。

 

 だが、そのように矮小な存在を置き去りにして、屠殺は加速していく。

 

『そら、ドうする化け物共。無様に中身を撒キ散らせて滅ンじまうぞォ?』

 

 四方を壁に囲われた空間に金属の嘲る声が反響する。だが、その言葉を聞いても人型の獣は退く気配を見せず、間欠泉の如くに突き上げる藍色の勢いを迎え撃つために姿勢を低く。飛び上がろうと迫る風の呻る音が、近づくそれの到来を告げる。

 

 ぎゃりりっ、と何かを強く噛む音。

 それは、藍色の足、鞘を握る音であった。

 

 通常、日本刀を抜刀するには捻る動作が必要とされる。柄を握る腕と共に鞘を抑える腕が無ければならない。片腕の剣士は鞘を腰元に巻いた帯などで固定させる事により抜刀を可能とするが、それは高度な戦闘時において通用するかと言えば答えは否である。出会い頭の超高速戦で瞬時の判断と俊敏さが求められる最中、隻腕の剣士が固定化された鞘から刀を抜くには些かの不安が生じる。それは鞘を抑える腕が失われているから故の弊害であった。

 

 鞘から刀を抜く手筈は確かに出来る。だが、刀から鞘を抜く行為が出来ないのである。

 

 違いは微々たる物、ではない。これは殺し合いに於いては致命的な欠陥であった。瞬時の抜刀が身を救う事は多々とある。それが辻斬りとなればなおさらに。

 

 だが、藍色はそれを超える。

 

 屋上までの距離を踏破し、そして一足。突っ張る壁の隆起に爪先をかけ、跳躍する。

 宙に、藍が姿を曝け出した。

 

 捻りこんだ下半身。

 右腕に対し、左足。

 

 足の指が、鞘を挟んで握る。手には指が五つ。足の指もまた五つ。構造も役割も違えども、それだけは変わらない。

 

 ――――ならば、足が物を握れぬ道理無し。

 

 驚異的な足の握力は鞘を抑える役目を果たし、握りしめられた指は刀から鞘を抜く行為を完了し。

 

 ――――鞘走りに、闇が火花を散らす。

 

『鏖殺の時間ダ塵芥。奈落へ驀地に撃墜シろ』

 

 耳障りな哄笑に抜刀された刀身は腐った闇を噴出させて、夜の黒色を更に濃く、月明かりを遮らんと燻りたって藍色へと羽衣の如くに纏わりつく。現出された刃は刀とは呼べぬほどに刃毀れしており、何とも無残な姿である。切れ味すらも失っているような朽ち果てた刀身である。その刀身から闇は溢れかえり、藍色を飲み込んでいく。

 

 そして、闇を纏う歪な刃は下を覗く一体の獣の頭部を情け容赦なく叩き割り、その姿を獣たちの目前に晒しだす。それは闇を纏う幽玄の亡霊。この世とは思えぬ儚さをその身に湛える藍の霊。長身痩躯、歪な姿の藍色に、脳漿を零して倒れ伏す一体へ残り二十以下となった獣は見向きもせず、空を掻き切る闇と化した藍に踊りかかった。

 

 死体は歓喜していた。遂に現われた餌の登場。屋上を支配する彼らにとってその場に現われた藍色は極上の匂いを振り撒く餌である。匂いは咽喉を刺激し、空腹を訴える。四方を囲う獣は宙すら飛んで、藍色の姿へと殺到した。

 

 右手に握る刀を藍色は構えない。迫る死肉に迎撃の構えを見せるでもない。刀は垂れ下がり、佇む姿を不安定に揺れている。自然体というよりも、それは死者を脅威とも見ていない証左。何故なら藍の筋肉に一切の硬さは無く、ただ揺れて、ゆらゆらと揺れている。

 

 空気を突破した事に髪は流れ視界は良好。藍色の視界には薄気味悪い靄。黒髪に隠されていた蒼の瞳はただ無情に靄を映す。それを刀身の闇が遮蔽して、やがて靄は藍色の周囲を回っていくが、その靄を掻い潜らんと藍色が動けばその姿は宙ではなく、屋上獣の背後へと出現していた。

 

 突如消えた藍色の姿を探そうと振り向いても時既に遅く、その獣は口内から刀身が突き出された。粘る血を刀身に濡らして、後頭部から刺さる刀身。その血を鋼は飲み込んで、真下に振り下ろせば人体は忽ち左右に泣き別れた。

 

『嗚呼、相も変ワらず舌に悪いものだナァ。腐肉ハ不味くて仕方ナい』

 

 不快な声は侮蔑の如く夜に軋む。

 

 そこで最早藍色は遂に屋上へと辿りつき、獣は喜び勇んで飛び掛る。統制も儘ならぬ、単純明快な突撃に血花が散り、阿鼻の悲鳴が劈く。一足に駆けた獣は勢いのままに藍色へと襲い掛かり。

 

 一閃煌く闇の妖光に、死者は袈裟に両断された。

 

 面妖な事に刃毀れし、切れ味など殆ど残されていないような見た目である刀身が、決して柔らかくない人の肉を開いたのである。技量もあるだろう。達人は鈍器であろうとも切れ味を生み出す理術を会得しているものだ。だが、これはあまりに切れ味が良過ぎる。

 

 ならば、他の要因がある事は不可思議ではない。

 

 気付けば鞘は藍の歯に咥えられ、足は自由。ならば翔ける事に支障はない。目では視認できぬ急加速と急停止。言葉にすればそれだけの事が瞬く間に繰り広げられていくのである。事実藍色の姿は最早誰にも捉えることが出来ない。

 

 生物の移動には予測が伴われる。相手の動作を見て、次にどのような結果となるか脳は無意識に思考し、目線を合わせている。それ故にフェイントとはかくも有効であり、それは殺し合いでは特に重宝される技術である。

 

 だが、藍色が見せる動きは、そのようなモノですらない。

 

 ――――消失。出現。

 

 多を相手に立ち回るのではない。現われ消える。残像を置き去りに出現し、時には刃を、時には三つの手足を、更には噛まれた鞘すらも振るい、藍色は一匹ずつに獣を排していく。

 

 右手に納められた柄は殊更に握り締められ、迫る一体へと叩き込む。疾い。糸の如き太刀筋は死者の体を透き通り、無残な残骸を積み重ねた。

 

 首を落とし、頭部を零して左右に裂き、上下に分けて中身を晒す。迫る死体を一遍にではない。迫る死者の背後から、上空から、真下から襲撃を仕掛けて一匹へ。

 それの繰り返しを行えば、死体は忽ち灰へと帰り、気付けばその数残り僅か。

 

「■■―――――、■……■――――っ!」

 

 真実獣の如き憤怒の叫びが夜に轟く。

 

 彼らは群である。本能の群である。身に巣くう飢餓感に頭を垂れた獣である。

 

 そんな獣が儘ならぬ状況に歯噛みし、己が空腹を満たす事が出来ぬ事は、何よりも苦痛な事であった。何故だ何故だとは、思う脳も壊死しているが、しかしこの理不尽を許容する事は有り得ぬ事。

 

 ならば、その口元から吠え立てる鳴き声が、ただの怒号であるはずはない。

 それは獣の会話である。獣同士が目的を達するために、己の腹を満たすために言葉にもならぬ共通言語を用いて狩猟を果たそうと本能に蠢いたのであった。

 

『ホう?畜生共が、無能な事を』

 

 統制もとられていなかった動きが変化を見せる。

 一方的に襲い掛かり呼吸も合わせぬ獣の動きが一変し、ひとつの屋上へと密集する。ここに来て始めて見せる群としての動きである。徒に襲い掛かるのではなく、より効率的に餌を貪るため獣の本能は咆哮の遣り取りを促した。

 

 獣の数、残り八つ。二十四いた死者は気付けば十を下回り、襲撃を受けた者は今となっては塵も残さず風に消えた。

 

 許せぬ。許せぬ――――!

 

 死者たちは血生臭い憤怒に体を捩らせた。塵と化した死者たちへの仲間意識から、ではない。そのような、まるで人間のような感情は既に持ち合わせていない。彼らは最早死体である。ならば彼らが憤るのは真実餓えであった。

 

 死者は目的意識の塊である。己の欲を、下る命を果たす為だけの存在である。

 しかし餓えを満たせず、命も果たせぬこの状況。ただの餌如きが抵抗し、あまつさえ彼らの数を減らしているのである。

 獣は憤り、本能を巡らし怒りに従事する。狡猾に、周到に。それゆえの密集。

 

 人外の速さで駆けながら、彼らは一つに密集していく。藍色の各個撃破を受けて導いた彼らの答えである。攻めにして、守りの陣形とも言うべきか。密集とはそれだけで厄介である。個々が集うとはつまり、その分の質量を一つの意志として固め厚みを持たせることである。質量が増す事はそれだけで硬さと重さを生み出す事に他ならない。発生された重量によって対象を轢殺し、蹂躙するのである。

 

 故にそれは最良の陣形であった。一概に最高とは言えぬが、しかし各個撃破を受ける今ならば悪くは無い。個々に襲われる現状、知能も働かぬ死者としては最上の選択である。群の利が図らずも機能し、どこから現われるかも知れぬ藍色に対応せしめんと、飢餓と憤怒に色めきたった。

 

 だが、目視も出来ぬ餌に集まる死者の群。

 

 それは、狼に怯える憐れな子羊のような有様であった。許しを乞うことも叶わず、ただ吠え立てることしか出来ぬ羊の群は、無情の狩人に食い殺される運命にある。

 

 

 一群集まり夜に鳴けば、闇より出でし亡霊の、虚ろな所業に声も消え、月も背いて目を閉ざす。あたかもこの世は諸行無常、腹も空かぬ狼は、戯れ遊んで羊を殺す。

 

 

 夜に吊るされた歪な月が、流れる雲にその姿を隠す。

 

 ――――風が、群の隙間を通り抜けた。

 

『莫迦メ。莫迦は莫迦らしく無様に滅べ』

 

 その声音は、群の中から聞こえた。

 空から舞い降りるかのように亡霊は姿を現し、勇む死者の中へと潜り込んでいた。

 

 それに気付いた時既に遅く。

 音は消えて、闇だけが残される。

 

『ひひ、こレにて終局だ死人(Dead Man)』

 

 ――――虐殺が、始まった。

 

 □□□

 

 ――――茫、と。

 見入っていた。

 

 天上で巻き起こされた悲劇の限り。化け物たちが化け物に蹂躙される、その滑稽たる一部始終を志貴は魅入っていた。

 

 何か、記憶にも無い映像が被り幻視する。

 ――――赤黒き沼に浮かぶ、幾つもの欠片と――――。

 何か、何か、何かを志貴は見ていた。

 

「―――――――」

 

 眼鏡ごしに映る光景は殺陣の如き立ち回りではない。殺陣とは魅せる動きである。武を打ち合わせて流麗に魅せる不殺の舞踊。舞って踊り、見得を切る。それは人が極めた優雅の妖美である。

 

 しかし、藍色の動きはそのようなモノではなかった。理性に支配された本能のような動きではない。人に、人間に、人類にあのような動きは不可能だ。だからと言って餓えに酔った獣の動きですらなかった。少なくとも獲物を仕留めるため狡猾に追い詰めるような獣ではない。獣であってもその姿を失わせる事は至極困難。擬態か、あるいは――――。

 

「―――――――」

 

 あれは寧ろ亡霊。姿は見えども捉えることが出来ない、宵闇に紛れて黄泉へと誘う幽鬼である。ならば、亡霊に殺されたものはどうなるのだろう。

 

 志貴はただ呆然とその光景を、その姿を見ていた。死者を灰へと変える藍の姿を。地上にいて、離れた場所にいる志貴だからこそ藍色の姿を完全にとは言い難いが捕捉していた。乱反射の如くに壁を立ち上り、空を駆けて落下する獣を打ち倒すその姿。屋上に降り立った時その姿は確認する事が出来なかったか、時折影とそれを追いかける死者の姿が地上から見上げる志貴からでも見ることが出来た。

 

 不思議と胸は高鳴っている。

 

 あの軌道。あの攻撃。どれもが志貴の知っている人間業から逸脱している。そのいきなり現れすぐ消える移動手段も、ちらりと見えた闇の正体も、金属の不快な嗄れ声も志貴には全くもって理解できる代物ではなかった。

 

 今すぐにでも志貴は立ち去らねばならぬはずなのに、志貴は今も空を見上げていた。あの藍色を危険と認識しておきながら、その場所から離れぬ事は真に不可解である。危険から遠ざかる事は決して恥ではない。動物は己が危機に晒された時、危機から逃げるか危険から避ける事を選択する。それこそ己の生命が保たれる手段であるからだ。

 

 だが、志貴はその場から動かない。何故なら志貴は今この時、この場から離れる事など思考に無く、ただ藍の姿を追っていたからである。

 

 高速に動くその所業。空にて襲い掛かるその理術。どれもが志貴の脳から離れない。

 

 それはさながら魅了された心地であった。

 胸が虚ろを無くして熱い。

 まるで何かに引き寄せられるような感覚。

 

 故に、志貴は動けなかった。

 夜の天上から撃たれた、刀剣の一撃に晒されても。

 

「―――――――っ!?」

 

 空を突き破りて飛来した妖刀の投擲は遠雷にも似ていた。その破壊力に対し轟く音は極僅かで、しかしその鋭さは明らか。轟音と共に硬いコンクリートを穿ったソレは深々と突き立てられて地上に潜りこんでいた。

 

 その刀身は異常であった。

 僅かに反身の刀身。その刃毀れした姿は刀としての切れ味を失っているようにさえ見える。更にその日本刀がコンクリートを深々と刺して突き立てられていた。

 だが、問題はそこではない。

 -―――すえた臭いがする。腐り、終わりを迎えた絶望の臭いだ。

 闇。刀身から噴き出す闇は、この世に跋扈する悪いもの全てを詰めた地獄の釜の底から煮え滾る蒸気のようであった。それが臭いを放ち、鼻をおかしくさせて嫌悪感を抱かせる。何か良くないものであると、理解する前にわかった。

 

『よォ、生き残り』

 

 そして、上空から壁を伝って迫る藍の姿。全て、全てが終わったのだろうか。あの獣との対峙も、その掃討も。

 その姿からでは確認できない。しかし荒れた悲鳴が消え失せた事が事態の終結を意味していた。

 

 闇は祓われ、化け物も消えた。

 

『手前、何もんだァ?』

 

「え?」

 始め、それは何処から聞こえたのかと耳を疑った。

 その声音は、目の前に突き立てられた闇から聞こえたのである。

 

『何だ気付カれてねェとでも思ってたか阿呆が?俺は見テたぞ、俺は見てイたぞォ?手前が畜生を殺した刹那を』

「…………っ」

 

 金属の不愉快な嗄れ声が志貴を揺さぶる。

 

『タだの餓鬼かと思ったが、そウじゃねえ。食い殺されルはずが逆に縊り殺しやがッた。アレは明らかに堅気の動キじゃねえ。寧ろアレはこッち側の動きだ。ダと言うのに、今は何だァ?まるでド素人じゃネえか』

 

「な、何を言って――――」

 

『イヤ、ソれも擬態か?偽り欺クのは手品の類だろう。――――しかシその畏れハ本物かァ。訳が知レねえなァ、手前。今の業、どコで覚えた?』

 

 問い詰めている金属音。

 その軋んだ声音に意識が揺れている。

 

『アア、言わなくても良いぞォ?尋問は得意じゃネエが、拷問トくれば話は別だ。朔にもソれらしい事は覚えさせてんだ。切開しねエで腸を握られる体験をサせてやろう。良いぞォ?気分が一気にハイだ。ひひ、ぞくゾくしてきた』

 

 ひたひたと迫る藍に息を呑む。本気だ。この藍色は本気で拷問が出来る人間だと、先ほどの惨劇でそれは証明されている。しかも抵抗しようものなら、瞬く間に縊り殺すだろう。

 

 それは恐れではなく、事実として志貴に突き出される。

 

『さテ、どうする餓鬼?』

 

 浸透する金属の悲鳴がぐらぐらと脳を揺らす。このままはぐらかせば、結果は目に見えている。

藍ではなく、刀から放たれる威圧に飲み込まれて、志貴は力もなく頷く事しかできない。

 

 しかし、これだけは聞いておきたかった。

 

「なあ、……あんた一体、何なんだ?」

 

 目前に藍色が佇み、志貴は思わず言葉を漏らした。その声音は自らが思う以上に硬化し、それ以上に角が無かった。

 

 警戒を遮る胸の鼓動は寧ろどこかこの状況に喜んでいるよう。

 

「―――――、――――」

 

 志貴の言葉に藍は反応しない。ざんばらに伸ばされた髪の隙間から覗く、虚空を思わす蒼の瞳は不思議と変わり、志貴を見つめている。何故だろう、茫洋に深い瞳が何となくそう思えた。しかし、その口元は動かず話す気配は見えない。それに食いつこうとした矢先、金属音が響いてそれも失せた。

 

『話スなら場所を移せ。こコは不愉快で仕方ねえ。ハイエナの気配がする』

 金属音に従うのは癪であった、ここは大人しくするべきだろうか。納得は出来ないが、ここでの抵抗は恐るべき未来を予感させた。

 そして志貴と藍色は刀の言葉に従い、その場所から離れようと一つしかない路地の道を歩き始め。

 

『……オい、俺を忘れんジゃねえ』

 

「あれ?」

 

 後ろを振り向けば先ほどから突き刺さっていた刀がぽつんと物悲しく置いていかれていた。志貴からすればこの藍色に今は従っておけばいいのだと思ったのでスルーしていたのだが。

 

 そしてその藍色は藍色で刀の訴えを聞いて暫く無感動にぱちぱちと瞬きをした後、てこてこと戻って深々と突き刺さった刀の柄を無造作に握りぐりぐりとほじくるように引き抜いた。

 

『痛えっ、この阿呆! もッと丁重に扱え!――-―強イ強いっ、ソんな反らすな! 折れル折れる、折れんけど折レる!? 力加減もセんで投げるカらこんな事になんだヨもっと考えてダなあ――――いやいやイヤイヤ、引っ掛かっテる、引ッ掛かってる!? 引ッ掛かってんのに力で抜こうとすんナ! 余計ニ刃毀れすんだろうが!!』

 

 ぎゃーすかぎゃーすかぎゃーすか。

 

「……」

 

 ぎこぎこぎこ。

 

『アアアアっ!! やめテやめて面倒くさがっテ梃子の原理で抜こうとすンな莫迦!! 折れるぞ? 折れるぞ!? あっけなく折れるぞっ!? いいのか!? いい―――っ―ギャアアアアアアアアアアアアアアア!!?」

 

「…………え~」

 

 四苦八苦する藍色の後姿と悲鳴をあげる刀の姿になんとも言えない気分になる志貴であった。

 

 □□□

 

 どこか遠く、眠らない繁華街から少し離れた屋上。

「……」

 そこで一人佇み、冷めた目で袋小路を見つめる影があった。

「なんで……、あの二人が」

 呟く言葉を飲み込んで、影はやがて夜に溶けて消えた。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。