七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 西日の翳る刻に白いリボンの少女は部屋を出て行った。
 ――――約束です。朔ちゃん、私……待ってる。
 淡い笑みと共に、そんな言葉を残して。 


第十一話 悪い夢

 意識が揺らぐ。意識は途切れる。断絶と再生を繰り返して意識は起動し続ける。

 

 モノクロの砂嵐が過ぎていく。

 

 何かを見ている。何かが見ている。

 これはどこに行く。これはどこに向かう。

 

 ここは、どこだ。

 

 人気のない暗がりを、足をもがれた蟲のように這いずり体を地面に擦りつけながら引き摺る。倒れ掛かろうとする上半身と止まりかける下半身のズレを無理矢理に動かし続ける。

 

 熱に浮かれる身体の奥と、喪失する末端の冷たさを持て余していた。

 

 喘ぐ様に酸素を暴食し、整えきらぬ呼吸が肺を痛める。しかしその様な事は関係ないと、痛む内臓を慮ることもせず空気を取り込んでは吐いていく。息をしなければ、そのまま沈黙してしまう。肉体も、精神も。

 

 物寂しい乾いた路地。遠くから聞こえる電子音と暗がりに侵食する目障りなネオンの輝き。喧騒は遥か、雑踏が遠く、人目も当たらぬ荒涼の路地をひた歩いている。コンクリートが剝き出しにされた壁伝いには誇らしげな無意味が落書きされ、それを馬鹿にすることも不快に思う気力すらなく、ひたすらに歩む。ささくれ立つ内心と無視できない衰弱が余裕を奪っていた。

 

 ここは、知っている。

 茫洋なままに、そう思う。

 

 閑散とした灰色の路地。上を見てみれば、そり立つ壁の隙間から細い夜が見えた。

 

 見たことが、ある。

 確かどこかで、確かあそこで。

 遠い人の気配。近い退廃の匂い。

 

 ここは、ここは――――。

 

「嗚呼ア―――――っ」

 

 ――――――っ。

 

 何かを思い出そうとして、内側から迸る声音に意識が弾き飛ばされる。振り絞るような激情の吐息。零れる息が灼熱のようだった。肉体の奥底から燃えさかる己の感情が堪える事もできずに吐き出されていく。咆哮が内側から体を突き抜け、夜を切り裂いた。

 

 その声音を構成するおぞましき狂気と憎しみが、それをより際立たせる。

 

 そこで、視界が停止する。

 そのまま立ち返るように、意識は意識を発見した。

 

 ―――――意識を覗かれている。

 

 いや、自分が見つけられたのだ。

 

 自分が自分を発見し、その事実に肉体に氷柱を突き刺した戦慄が意識を歪ませた。自己を見る自己とは何だ。それは精神が今此処に二つある事を意味しているのか。

 

 いや、何だその意識とは。

 

 自分は自分だ。自分は自分だと、言い聞かせるまでもない事実が揺らいでいる。

 

 混濁する。混合する。自分が自分であるはずなのに、そこには既に分裂を始めた自己が犇いている。

ぶれる。ぶれる。意識はぶれる。

 

 やがて自分ではない自分が、自分を突き放していく。

 

 精神を押しつぶす激情が意識を捉えて崩落し崩壊し倒壊し、回転し転換し輪転し、追放し解放し放蕩し、分解し分裂し分離し、隔離し解離し解散し、拡散し散開し開始をする。

 

 遍く轟く静謐は合切の反抗を認知せず錐揉み――――アしながら天地を断罪し怨嗟と悲嘆の混合を拒絶しアアて停止する悪意と邪気が害悪へと変貌して生贄を欲求■また死と血アア、アを望む獣の群数は■■■残骸を残さず食い散らかし胃袋のアア、―――アアア底に■■を隠しこむが空が割れてアアア。アアアアッアア響く罅の音を耳にしたとき相貌は崩壊し■■の渦へと流動する事も無く■滅して虚数にもなアア、アアアッアアアアアア―――!らぬ肉片を撒き■■し死ぬことも許されぬ大罪アアアアアア―――――アアアアアアア!!に人■は許しを乞う事も忘れ■■■に唾を吐き憤怒■もならぬ悪を持て余し■が■を始めた時■は巣くう■■の正体を知るが■■■の■し■が■、

 

 ■■の■を■り■■てやる―――――――――――――――――――――――――。

 

『「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァアアアアァァァァァァァァアアアアアァァァァアアアアアアアアーーーーーーーーーー―――――――――ッッ!!!!!!!!」』

 

 砂嵐。

 砂嵐。

 

 視界の向こうに、人間が見える。

 

 停止。

 停止。

 

 それを好機と、身体の底から奮い立ち、駆け出して。

 

 ――――断絶。

 

 □□□

 

「――――――はっ!?」

 

 息苦しさからか、目が醒めたらしい。

 気持ちの悪い汗が肌に張り付いている。

 

「―――――ハ―――――ハ―――――ハ」

 

 呼吸が嫌に荒く、耳障りだった。

 

 実感が何処か浮ついている。皮膚がもう一枚重なっているような、妙な感覚があった。まだ脳が目覚めていないらしい。目蓋を閉じて、呼吸を整える。そうしている内に妙な感覚も忽ち失せていくだろう。

 

 そして、目を開く。

 期待した効果は多少得られ、気分も少し落ち着いた。

 

「……」

 

 改めて、辺りを探ると暗かった。それはそうだ、今は夜なのだ。

 

 首を傾けると窓は閉じられ、塞がれたカーテンには鈍い夜の沈んだ静謐さがあった。明かりも灯っていない室内は窓の向こうにある夜が染み込んでいるように薄暗く、どこか寂しげだった。きっとそれは、夕暮れの起き抜けに秋葉がいたことに起因するだろう。起きた時に誰かが側にいるといないのとでは大違いだった。

 

 眼鏡をかけて、視界を凝らす。

 

「また、か……」

 

 思い、自嘲するように呟く。

 

 最近、夢見が悪い。眠るたびに、何か見る。どうにも自分は悪夢に好かれている。

 二日連続で悪い夢を見るなんて、思ってもいなかった。

 

 そしてそのままにちらりと備え付けられた時計を見やった。

 時刻は既に頂点を通り過ぎ、新たな一日を志貴は迎えている。

 

 室内は停滞していた。物音せず空気も微動だにしない部屋の中は心臓の鼓動さえ聞こえてきそうな静けさだった。固定する夜の室内にどこか寒気を感じて、水差しに手を伸ばす。容器をそのまま口元へと運び、少しだけぬるい水で咽喉を潤した。

 

「――――はあ」

 

 咽喉元を伝う水気を拭いながら、思うのは今しがた見た夢の事。

 

 自分がもう一人いるような感覚が、夢にはあった。そして、確か昨日見た夢もあんな感じだった気がする。夢なのだから何でもありなのだろうけど、それでも二日連続で見るにはどうにも気持ち悪い。

 

 自分があやふや。自己が蒙昧。自我が曖昧。

 

 決して楽しい夢ではなかった。それだけは言える事だ。ただこの苦しみを何と言えばいいのだろう。拭いがたい嫌悪感、度し難い拒絶感。どれも違う気がする。自分以外の感覚なんて知らないのだから、表する言葉を持ち合わせていない。

 

 自分が自分でない。それだけは何となく理解した。さすが夢だ。何でもありだ。

 

「あそこは」

 

 今となっては消えかけて、気持ち悪さだけを残す夢を辿る。夢見の残滓を掻き集めて、思考は巡り辿る。 

 

「確か、繁華街の方」

 

 実は、あの場所には覚えがあった。

 

 薄暗く、乾いた空気が降り注ぎどこからか簡素な騒々しさが耳に伝わってくる。煩雑な光の束と、人の喧騒。ここらかしこであのような場所は繁華街以外には覚えが無い。巷で騒がれる吸血鬼事件に惑わされる事無く賑わいを未だ見せているのは、きっとあそこぐらいだろう。眠らない場所とでも言うべき、あそこしか。

 

 だが、それは果たして本当かと詰問を受ければ首を縦に振ることは難しい。何せ夢で垣間見た刹那の意識。正確さなんてまるで無く、うろ覚えの範囲を抜けない。憶測なんてものではなく、これではただの妄想の類だ。

 

「でも、だ」

 

 それを放っておくには、この拭い難い感情はあまりに邪魔だった。解消されない不燃物を内側に溜め込んだ歯痒さとも言うべき気持ちの悪さが、夢を夢のままで終わらせない何かを訴えてくる。

 

 それに、眠くない。

 

 一日中眠っていた影響か、睡魔はその気配を遠ざけて、気だるい意識の覚醒を促していた。目蓋は重くは無く、目が冴えている。このまま眠ってしまうには眠気が足りない。ただ自分の場合だとあっけなく眠ってしまえそうだが、眠る気にもあまりなれない。まどろむ事も、この調子ならしばらくは無いだろう。

 

 悪夢を解決する。眠気を誘うために夜の散歩。夜風に当たりたい。一日動いていないから、運動不足の解消。

 

 理由を拵えようと思えば幾らでも見つかる。

 

 馬鹿らしい。

 

 今自分が何をしようとしているのか、志貴は己を笑った。己の馬鹿さ加減を思い知った。

 でも、それでも志貴は。

 

「あれは……」

 

 あれは、夢なのだろうか。

 何とも馬鹿らしい事ではあるが、志貴は夢を疑り始めている。

 

 いや、疑っているとは少し違うのかもしれない。己が見た夢を疑うなんてそもそもありえない。見たものは認識を経て己の真実となるのだ。例えそれが錯覚や幻であろうとも、それを見たという事実は変わらない。

 

 ――――暇つぶしか、あるいは予感。

 

 普段の己なら一蹴する行為である。だが、今の志貴はあまりに余裕が無かった。悪夢がもたらす影響は微かなストレスを本人に残す。それはやがて消える事も無く、忘れたままに沈んでいき、埋火のように燻りを始める。

 

 だからだろう。

 

 二日続きに見た夢に志貴は確かな変化を自覚も無く溜め込んでいた。その溜め込まれた変化は質量を持って重さを生む。安眠の妨げや快適な目覚めを損なわれて、志貴の判断は自身でも分からぬほどの差異を生み出して。

 

 内側の奥深くで、見えない虚ろの重心が傾いた。

 

「ま、何もないだろうけど」

 

 自分でもよく分からぬ意志で志貴は苦笑をしながら手繰り寄せられるように外出の準備を始めた。

 部屋を出ていく。

 

 家の中は湿っているように沈んだ雰囲気が漂っていた。

 

 □□□

 

 夜が訪れ、どれ程の時間が過ぎても人は外にいるものである。街に無人の時などあるはずもない。人気は少なくなるものだが、それでも人が全く存在しない事などありはしない。

 

 それでも夜になるほど騒がしくなる場所はあるものだった。

 

 人の雑踏。派手な服装をした若い男女。忙しげに歩む中年の男性。集団。酒気を帯びて高揚したサラリーマンや若者の甲高い笑い声。時には怒鳴り声が木霊して、そのまま人の喧騒へと飲まれていく。ぶつかりあって喧嘩にもならず、酩酊にかまけて莫迦騒ぎをする人々。流石に人は多いとは言いがたいが、辺りはネオンの輝きに満たされ、繁華街は独特の熱気を含んでいた。

 

 未だ入り口の辺りでしかないと言うのに、どこか違う世界に入り込んだような感覚がある。夜から隔絶された明るさを放つこの場所は、絶海に浮かぶ孤島のようですらある。それを飲み込んで、志貴は息をひとつ吐いて足を踏み出す。

 

 しばらく人ごみを避けて歩いていくと、何人かの人間がすれ違いざまに志貴を見やった。こんな時間に未成年がいることが珍しい事もあるだろう。だが、それ以上に。

 

「この服だしなあ」

 

 苦笑を浮かべて己の服装を鑑みる。

 濃紺に頑丈そうな材質。学校指定の制服姿である。

 

「そりゃ目立つか」

 

 ただ外出をするためなのだから服装には拘る必要もなかった。そんな訳でそこらにあった制服を手っ取り早く着たのである。今思えば安易にも程がある格好であった。

 

 十二時を過ぎて深夜。制服姿の未成年が歩くには受け付けない時刻である。更に場所が場所だった。事が事なら非行少年に見えなくも無く、視線を集めていた。じろじろとした視線が志貴に突き刺さる事も致し方が無い事ではあった。

 

 あまりに目立ちすぎれば通報も免れない。

 考えが足りずにこうなったのだから、どうにか避けたい。気持ち足早に、こそこそと端を歩いていった。

 

 実は、自分がどこに向かうのか志貴は考えていない。目的地は明快でなく、ただ漠然と繁華街へと赴いたのであり、本人としても理由が見当たらない。悪夢を見て、その場所に覚えがあっただけの事。衝動的な行動の結果志貴はここにいて、今人々とすれ違っている。

 

 それは、何かに手繰り寄せられるような感覚だった。

 志貴は目的地もなく歩いていると言うのに、どこかへと辿りつこうとしている。

 

 そのどこかとは、きっとあの場所、なのだろうか。見覚えの無い路地裏。不思議な確信が、根拠も無き確定が身体を動かしていた。

 

 始まりは悪夢だった。

 ――――では、終わりは一体何なのだ。

 

 端の道なりが一瞬途切れ、曲がり角。

 明かりが直接照らされない、細い路地がその先には伸びていた。

 

 そこは路地裏の入り口。明暗の境界線。

 

「――――」

 

 何気なく踏み出そうとして、躊躇う。

 

 何かがある。

 予感。あるいは悪寒。この路地裏は何か嫌な気配を放っている。視線の先には薄暗い路地の乾いた風が吹いて前髪を揺らす。その先は見えない。灰色と黒色の中間にある路地の色彩が不安を駆り立てる。明かりらしきものは点々と見えるが、その深遠までは覗けない。

 

 暗がりの向こうは、この繁華街とも違う雰囲気であった。

 だからだろう。夢の事もあり、足が踏み出せない。

 いざその時になって、志貴はありもしないものに怖気を抱いた。

 

「どうしよう……やめようかな」

 

 思わず、口ずさむ。

 

 そうだ。夢なんだから何だというのだろう。

 

 莫迦らしい。夢は夢でしかない。現実にはそんなものもなく、ただの空虚が広がっているのみだろう。悪夢を見たから、家を出た。

 

 あまりに莫迦らしい。自分が悪夢を見たからって、何も変わらない。

 

 夜は過ぎて当たり前のように朝が来て、いつものように太陽は昇る。自分ひとりに起こった事に何を必死になっているのだろう。ならば、このまま帰ってもいいのではないか。

 

 己を正当化させる言い訳を拵えて、足はそのまま前へと進もうとしない。異世界から更に違う場所へと赴くため、志貴には勇気が足らず不安ばかりが増していく。

 

「考えなし、うん。確かに考えが足りなかったな、俺は」

 

 そうだ。ならば、帰ろう。

 滲む仄暗き雰囲気が漂う路地裏から、あの遠野の家へと。

 

 そしてそのまま部屋に入り込んで、朝を迎えればいい。今となれば眠れるだろう。無理矢理にでも眠ってしまえばいい。自分は約束を守らなければならないのだ。

 

 弓塚さんとの、約束を。

 

 虚ろが震える。自らを律しようとする虚ろを感じる。 

 それを無視して、自分は家へと。

 

 だが。

 

「おっと、すまねえ坊主」

 

 どん、と背中に衝撃があった。

 

 思わず前のめりになって、足は倒れまいとたたらを踏む。ぐらつく体を押さえ込んで顔を振り向かせれば、顔を赤らませた中年の男性が酒臭い息を吐きながら通り過ぎていった。どうやら千鳥足にぶつかってきたらしい。思わぬ出来事に唖然としながら、気付く。

 

 自分は今、どこにいる。

 

「……あ」

 

 ぶつかった拍子に、身体は前へと否応無く進んでいった。

 明るい場所から、僅かに暗い路地裏へと。境界線を、踏み越えていた。

 

 一歩。たったそれだけなのに、まるで違う場所に入り込んだ。どこか背中にある繁華街の明かりが頼りない。冷たい暗さが勝っている。そんな場所に、入り込んだ。

 

 もう、視界は暗かった。

 

 目の前には不気味が続いていて、後方の明かりでは太刀打ちできない得体の知れなさが広がっていく。延々と薄暗さは伸びて、先は見えない。

 

 帰ろうと思う。帰ろうと、思う。

 

 こんな場所に長居は無用だ。早く踵を返し、あの光へと帰らなくてはならない。戻らなくてはならない。でなければ。

 

 ――――このまま、戻れないような気がする。

 

 何かに囚われるような、何かに飲み込まれるような気がする。

 

 不安が己を駆り立てんとする。身体は怯えていた。

 

 ――――でも、その心はどうだろう。

 

 今自分はここにいて、ここから帰ることは何故か出来ないような気がした。この場所に入り込んだならば帰ってはいけないような、この先に進まなければならないような気がする。引き込まれるような、無言の圧力が内側から脳を揺らす。帰るな、帰るなと強迫概念ではない、衝動が虚ろから発せられる。

気持ちが遣る瀬無い。でも胸の奥の虚ろは最早無視できない。

 

 生唾を飲み込んで、己を奮わす。自然と拳を握りしめた。掌は汗をかいていた。

 

「――――行こう、か」

 

 諳んじるような声音で呟かれた言葉は自分が思う以上に頼りなく、あまりに無力だった。

 

 恐る恐るという具合に、足は進む。背中の明るさは遠ざかり、静まる物音に足音まで聞こえて来る。乾いた風が繁華街の喧騒をどこかへ吹き飛ばしていく。埃っぽい臭いが肺を侵してきた。

 

 路地裏はざらついていた。

 

 細い通りに反り立つ両の建造物の表面は妙な圧迫感を放ち、空を狭めている。明かりもあまり届かない路地では足元が覚束ないで、空を見上げれば細い夜が見えた。星が頼りなく光っている。人の姿は見えない。それこそ無人のよう、生物らしき気配は時折見える虫か鼠ぐらいで、人間はいない。

 

 ――――似ている。

 あの夢の場所に。

 

 拒絶に呻く。

 

 信じたくて、信じたくない。

 あれは夢だろう。あれは、夢だろ?

 

 言い聞かせる。事実は事実だ。ならば夢は夢でしかない。夢は現実にはありえない。ならば夢は事実ではない。事実は事実以外にありえない。

 

 最早自分でも良く分からない思考が頭の中を錯綜する。

 視界の端を鼠が走っていく。路地には紙くずが散らばり、いかにも不衛生だ。

 

 ――――どくん、と心臓が高鳴り始める。

 

 何か、良くない予感が喚起の警鐘をあげている。

 転がっていた缶を踏み潰して、なおも足は誘われるように進んでいく。

 

「―――――は―――は――は――」

 

 呼吸が荒い。

 意識しなくては呼吸を止めてしまいそうな、圧迫感。

 自らの進む道なりに、一体何があるのだろう。

 

「――――は――は――――――は」

 

 全身に寒気があった。身体の芯まで寒い。

 寒気か恐れか身体が震える。

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 脈打つ鼓動が耳障りだ。

 

「は――は――は――は――は――」

 

 過剰な色合いを見せる壁の落書き。

 それは、先ほど見たような、無意味な意思表示であった。

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 

 気付けば、臭いが変わっている。

 埃っぽい臭いは乾いた風に流されて、嗅いだ事もない臭いが現われてきた。

 

 形容しがたい、イヤな臭い。湿っているような、時化っているような臭いだった。僅かな臭気であると言うのに、異物にも似た不快な臭いはこの先から漂って志貴を捕らえる。

 

 頭は靄がかかったように曖昧で、自分は今何を考えたのか分からない。分からないから分からない。思考は放棄。今はただ前へ、前へ。

 

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 

 近い。もう、あと少し。分かるはずないのに、理解できる。

 

 そこに、何かがある。

 

「は――は――――は―――――――は」

 息は不安定。胸の鼓動が五月蝿い。

 

 しかし、今この時胸の虚ろは喜びに咽び泣いていた。

 やっと。ああ、やっと――――。

 

 何故喜ぶ、何故に泣く。

 

 理由も分からない、理解できない。ただ自分はこの胸の痛みが苦しいだけで、貧血ですらない痛みをどうにかしたくて、胸に手を押し付けた。

 

 そして。

 

「―――――――――――――――あ」

 

 そこは、広い袋小路であった。

 

 少し開けた天上から濃い夜の空が見える。周囲を反り立つ建築物によって覆われた行き止まり。広さは四方十メートル無い。志貴が辿った道があるのみで、これ以上先には行けない。行き詰まって、どこにも辿りつけない。つまりここが終着点。終焉。

 

「う、あ――――」

 

 荒れた息が苦しく呻る。

 灰色の路地に、それはあった。

 

 人が、女性が倒れている。

 

 影が差し込んでその全容は確認できない。年齢も、服装も、相貌も視認できない。それが女性だと分かったのは、その髪が長いという特徴から判断したに過ぎない。

 

 倒れている。人が倒れている。路地の中央に、倒れ伏している。

 何故だと疑問に思う前に、その事実が現出している。

 

 夢は、夢だ。

 事実は、事実だ。

 

 ならば、今自分は何を見ている。

 

 目を反らすな。眼を背けるな。目蓋を閉じるな。

 

 目の前には、否定もすることが出来ない事実のみが横たわり、それは決して動くこと無く停止していた。逃げる事は許されない。逃れるならばそうしたいが、もう志貴は辿りついてしまった。この終焉へと。もう、どこにも行けない。

 

「――――」

 

 その人は、あの夢に垣間見えた姿と、良く似ていた。

 消え去ろうとする意識の果てに見えた後姿と一致した姿だった。

 

 呆然と、志貴は立ち竦んでいた。

 

 この事実。この覆す事のできない真実に志貴の肉体と意識は煩雑なものと化していた。

 遠くから、繁華街の喧騒が聞こえる。それはまるで別の世界から聞こえる物音だった。

 何故なら向こうは境界の向こう。一歩踏み出した先の果てにある別次元。

 

 この場所は、もう終わっている。

 

 否定できない。否定できない。

 偶然にしては出来すぎている現状構成。

 

 似ている、なんてものではない。夢は夢なのだと、割り切る事は既に不可能だ。

 

「ああ、いや、今は……」

 

 呆然とうろたえるままに、駆け足で路面へ倒れ伏す人影へと向かう。

 何を自分はしていた。倒れている人がいるのに、それを放っておくなんて。

 

「大丈夫ですか!俺の声が聞こえますか!!」

 

 耳元で語りかけても反応はない。呼吸は聞こえない。意識がないという事なのかどうか、判断はつかない。自分は何をすべきなのか。助けを呼ぶべきか、救助をこのまま行うべきか。でも助けを呼ぶにはこの場所は遠く、電話は持っていない。助けを呼んでいるうちに手遅れになるのは不味い。ならば、無作法な手当てでも行ったほうがまだマシだろう。

 

 そう思い、闇に見えない顔を、覗く。

 

「?」

 

 一瞬、それが何なのか把握できなかった。

 

 目蓋は裂かれたように見開かれ、頬は引き攣り、口元が大きく開いてそこから舌が硬く垂れ下がっている。寄った皺までも固まって、それは停止しているよう。

 

 それは恐怖の表情だった。

 恐怖に固まった、死相であった。

 

 

 死相、死相、死相。

 

 青白い肌。生気のない瞳。潤いの無い口元。

 臭いがする。人間以外の臭気。血の臭い。腐敗の臭い。

 死体の、臭い。

 

 それらが合わさり合う事無く、個々として分離しながら臭いを放っている。

 これは、これは――――。

 

「ああ、ああああ……」

 

 全身が心臓になったかのように脈打っている。でも体は熱くなく、凍えるほどに震えていた。路面が突如として消滅して、足元から落ちてしまいそうな感覚。崩れ落ちて、そのまま倒れてしまいそう。

 

 だって、だって。

 

「死んで――――」

 

 拒絶を含んだ声音は、そこで止まった。

 

 それ以上は言ってはいけない。これ以上言葉を紡げば、きっと何かが終わる。崩壊する。だから自分は黙って、黙って――――。

 

『ナんだ、先客かァ?』

 

 背筋をなぞる、嗄れた金属音。

 金属を擦り合わせた軋み音。

 

 不快な音に鳥肌が毛羽立つのが服越しにもわかった。甲高く嗄れたそれが生物の発した声と呼ぶにはあまりに人工物めいていて、柔らかな肉体を突き刺す悪意の声だった。

 

 体を突き動かす本能のままに慌てて振り返る。

 

「―あ、ああああ―――」

 

 はためく藍の色合いは夜に紛れることなく、その片方のみの腕に握られた鞘には数枚の札が貼られ、数珠まで巻かれている。そして、長すぎる黒髪の隙間から、虚空を思わす蒼の瞳が見えた。見えてしまった。その絶対零度を、その無機質な感情を思わす蒼色を。まるで人形のような瞳を。

 

 いつの間に、その男は当然の如くにそこにいた。風を巻き起こすことなく、物音を発する事も無く、存在を感じさせることも無く。

 

 闇夜に映す影のように、あるいは茫洋たる霊のように。

 

 ――――藍の殺人鬼が、夢の中で志貴を殺した男が、再びその姿を現出させた。

 

「――――――」

 

 そして。

 むくり、と。

 志貴の後方で、影が揺らめいた。

 

「――――え?」

 

 藍色と対峙している故に、志貴は反応が遅れてしまった。始めに出会った衝撃、そして夢にさえ現われて志貴を苦しめた原因は他ならぬ藍色にこそあった。だからこそ、志貴は突然現出した藍色に竦みながらも、その意識は否応無く目前の存在へと向けられた。

 

 故に、それに対応する事が出来なかった。

 体ごと藍色に向けていた志貴の腰に、何かがぶつかってきた。

 咄嗟の事に志貴は反応できず、そのまま無様に転がった。

 

「あ、え?」

 

 衝撃にもたつき、何事かと無理矢理に体を捻らせれば。

 

「―――――――あ」

 

 目の前に、死体がいた。

 

 死体が、志貴に覆いかぶさり、その口元から真っ赤な唾液を垂らして、生気のない濁りきった瞳に志貴が映っている。

 

 腰元にぶつかってきたのは、志貴が死んでいると理解した女性であった。

 死体は動かない。

 

 それは、外的な力が加わらなければ覆される事のない事実である。何故なら死体には意志がないから。意志のない身体は活動を止めて動くことは二度とない。再び動く事など、ありえない。ありえないのだ。

 

 では、目前の死体は実は死んでいなかった?

 でも、眼前の人体は全く生きていないのだ。

 

 触れてみれば分かる。肌に張りは無く、その青白さは既に土気色。硬直する筋肉は、どうやって動いているのか分からない。

 

 危険音。

 警告音。

 

 呆然と死体の出現に理解が追いつかない志貴の手前で、死体はくぐもるような音を木霊させて、その口を大きく開き志貴の顔面へと次第に近づいてきた。

 

 まるで、志貴を喰おうとしているように。

 

 サケロ。

 

「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 それは、本能ゆえか。

 

 志貴の咽喉は張裂けんばかりの絶叫を迸り、己の内でけたたましく鳴り響く生命の警告音に従って死体の拘束を逃れようともがき苦しむ。

 

 しかし、どういうわけか死体の抑えが外れない。

 

 その腕は女性のものであると言うのに志貴の肉体を離さないと、握り潰すように志貴を抑え、それは成人していないとは言え男性である志貴の力では跳ね除ける事の出来ない膂力を秘めていた。

 

 涎ではない液体を口内から垂らして、徐々にと近づいてくる顔に表情は見えない。あまりに虚ろな顔つき。生気の感じられないそれが動く事は、明らかにおかしい。

 

『ほう、知らんが偶々紛れ込んだだけかァ?』

 

 必死に逃れようとしながらも、そのあまりに特徴的な金属音は志貴の耳に入り込んでくる。どうにか両手で迫る顔面を抑えつけ、視線を瞬間と逸らし男を見やる。男は微動だにせずそこにいて、志貴の事もその視界に入っているはずなのに、まるで見ていない。

 

「お、おい、アンタ!頼む……!助けてくれっ」

 

 言葉を紡ぐ前に、それは遮るような声音を発した。

 

『まアいいさ。俺達にャ関係ねえが、無能が脳ヲ凝らして嵌メやがったなァ、ひひ、ひ……』

 

 狭く閉じ込められた空間に、邪な笑い声が反響する。空気を錆びつかせて、生者を侵す悪意の声だった。

 

 しかし、志貴には看過できない言葉があった。

 

 関係ない。関係ない。

 関係ない。関係ない。

 

 自分は関係ないのだと、金属は言った。

 

 それは、つまり。

 

「なんでだよ……、なんでだよ!!」

 

 志貴は、助けてもらえない。

 直ぐ側に襲われている人間が、助けを求めていると言うのに助けないと金属は告げた。男は無表情に志貴を映し出し、決してその姿を見てはいない。

 

『オイ、お出迎えだ』

 

 響く金属音に何処か罅を入れられた志貴は必死ながらも、それを視界の端に捉えた。

 

 迫る死体の向こう、天上に開かれた夜空が見える。夜の黒色に歪な形をした月があり、その光に照らされて、それは見えた。

 

 暗い夜の空を囲い反り立つ建造物の上に人がいた。ゆらゆらと体を不安定に揺らしながら、その姿は月光に照らされながらも、顔までははっきりとは見えない。でも、それが異常だと分かる。

 

「――――なんだよ、あれ」

 

 屋上に佇む人影、数十人は下らない。服装までははっきりと見えないが、ただそれだけでもその集団が尋常の集まりでは無い事が知れる。ただの集団であると言うのに、それが放つ気配は最早人が発せられるものを越えている。

 

 それはまるで幾程も餓えた野犬のような、茫洋と飢餓感に侵された獣の群であった。

 

『いくぞ、朔。いつもの様に』

 

 どこか笑うような声音と共に、その男は志貴の側から掻き消えていく。志貴が制止する間もなく、その姿は見えなくなった。あまりに不可解な現象であった。直ぐ側にいたのに、それはまるで始めからいなかったかのように消えてしまう。影も残さず、音も消して。

 

 しかし、そこで志貴は自然と一人にならざるを得ない。

 そう、一人だ。目前にいるモノは、もう人としてカウント出来ない。

 

「■……■■■……」

 

 目の前に迫る存在は、志貴の腕だけでは抑え切る事も出来ない。

 では、何をすべきか。

 

 ナニヲスルベキダ。

 

 助けは、呼べない。助けは、来ない。

 誰かがいても、きっと意味は無い。誰も志貴を助けてはくれない。

 がちがち、と奥歯が噛み合う。食い縛って、力を込めていく。

 

 アア、ソウダ。

 

 何に期待しても無駄だ。今この時志貴はただの一人で、自分以外に頼れるものはいなくて、護ってくれる人も、もういない。

 なら、どうする。

 

 ――――、ヤルベキコトハ、ワカッテイルダロウ。

 

 ああ、分かってる。

 

 ナラ、ドウスルベキカシッテルカ。

 

 ああ、知っている。

 ちょうどよく、得物もある。

 

 それは仕舞ったままで、既にそこにあることも今の今まで忘れ去られていた。始めから、これがあることを志貴は意識していない。でも、左腕が死体を抑えつけたまま、その右手はするりと導かれる。

 

 硬い、感触。

 

 ――――嗚呼、安心する。

 

 この感触が、何とも心地よい。

 

 片腕では抑え切れず押し迫る顔面に、眼鏡がずれる。

 そうして広がるは、今にも崩れそうな亀裂の世界――――。

 

 一閃。

 


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