まどろむ午睡は緩やかに夢へと意識を誘う。
そして少女は、幼い女の子へと変わっていく。
遠野秋葉の目覚めはどこか飽きをもたらしている。
広い部屋の中、一人で起きる。ベッドは小さな秋葉の体には大きすぎるもので、大人が二人いても寝られそうなサイズだ。そんな大きいベッドを秋葉は自身の寝所としていた。
いつも同じ時間に起きて、過密なスケジュールを勝手に組まれては、それをこなしていく。文句を言ってもまるで秋葉の言い分は通った事がない。厳しく接する家庭教師の顔にも飽きが来ていた。何であの人はあんなにも冷めているのだろう。あの人物を選別したのが何となくであるが父によって決められた事だと察していた。それを察するほど秋葉は聡明であったし、そして幼いが故に父の意図までは理解できなかった。
しかし遠野は家柄が良く、それゆえに確かな教養を取得しなければならないらしく、遠野に相応しい人間にならなくてはいけないと押し付ける人間に満ちていた。そして彼らは時折言うのだ。もっと頑張りなさいと。そんな言葉が酷く悲しかった。
結局いつも自分は何かを押し付けられるばかりで、自ら選択なんてした事が無かったのだ。それを悔しいと感じ、しかしそれを変革する事が小さな秋葉には出来なかった。
「はあ……」
そして今日も、退屈な日々が始まる。
「今日はこの本を読んで理解してください。後で幾つか質問をします」
そう言ってその大人は分厚い本を一方的に手渡してくる。重苦しく、内容も易しくない難解な本である。秋葉にとってこの本は面白くもないし、ただ退屈である。ひとつの机に向かってこれを読み解く時間は徒に苦痛であった。
しかし、それは内容を把握できないからではない。何となくであるが、秋葉には読めなくも無いギリギリのレベルをこの大人はいつも渡してくるのだ。
今よりももっと幼い頃から大人たちに囲まれて習い事を教えられ続けた秋葉である。その教養は同年代の一定基準以上を疾うに上回っている。元からの素養も良かったのか。ただ黙々と勉学を教えられ文化人としての教養を教えられ続けた秋葉であるが、大人たちの期待には応えてきた。
ただ、今出来るのであれば、更なる成果を期待されることは道理であると、秋葉は気付かなかった。
「はい……」
秋葉はただ頷く事しか出来ない。頷く以外の選択肢は秋葉には提示されない。もし此処で嫌だと言っても、他の習い事を行わせるのだ。かつて一度だけ僅かな反抗心から勉学を嫌だと断ったところ、引き続き楽器の練習を行わされたのだ。
自由など許されない。大人の管理下で秋葉は育てられてきた。
反抗は無意味だった。秋葉のみの時間など、睡眠と入浴時のみである。食事時はテーブルマナーを意識しなければ大人たちの冷めた目に晒される。あの視線はあまりに辛かった。幼い秋葉には他人からの悪感情を受け流す術も心意気も持っていなかった。
「それでは時間になるまで私はここを出払います」
そう言って、その大人は出て行った。
残されたのは小さな秋葉と、そんな秋葉には大きさの合わない執務机である。備え付けられたイスもそれに揃って大きい。大人用の大きさである。この机が秋葉の勉強机である。背丈もサイズもまるで合っていないのだから、秋葉には座り心地が悪い。秋葉は据わりながら自分に合うような位置をもぞもぞと探すのであるが、そのような場所は毎度の事に存在しなかった。
渡された本を開いてみる。小難しい内容の本である事は開く前から分かっていた。しかし、課題として出される本はいつも頑張れば理解できなくも無い内容なのだ。そのようなレベルの本をあの大人は狙って選んでくる。そんな嫌らしさと、大人だからという理由で秋葉は部屋から出て行ったまま、そのまま戻ってこなければいいと思うが、その度大人が戻った時のあの顔を見るのは更に落胆が大きくなる。
遠野には大人ばかりいる。その殆どが秋葉にとっては親戚の関係にある者ばかりであるが、その様な事秋葉にはあまりに関係が無い。彼らは大人であり、大人という存在でしかない。秋葉には優しく厳しい態度という仮面を被り接してきてはいるが、幼くして聡明の片鱗を見せる秋葉には、彼らが秋葉を次期当主候補としてしか見ていないことは明らかであった。
「……」
遠野秋葉は現当主、遠野槙久の娘だった。
母はいない。秋葉の母は秋葉を生んだ時に死んだのだと、秋葉は父から聞かされた。それを寂しいと感じたことはある。しかし、そんな秋葉を憐れんだのかどうか分からないが、父は秋葉に優しかった。
だからだろう。母を求める気持ちはそれほどまで無かった。親戚に再婚を奨められ、それを父が断った事を知っているからかもしれない。
父は死んでも母を愛しているのだと、それが嬉しかった。
普段、父と接する機会は多くない。忙しいからなのか、最近父は部屋に引きこもっている事が多くなった。たまに会っても秋葉には優しく接してくれるが、すぐさまどこかへと消えてしまうのだ。それを残念だと、心底思う。この遠野に於いて、父の優しさは格別であった。例えそれが、自らへの嘆きから生まれる事であったとしても。
『秋葉』
その言葉だけはやけに秋葉の記憶に残っていた。
『私達はね、一人で生きて、一人で死んでいくんだよ』
父は寂しい人だ。何となく、そう思う。
悲嘆に暮れ、それでも生きている孤独な人だった。
母を亡くし、側には利権を争う親戚しかおらず、全くもって心休まる事もない。
それはまた、秋葉も同じであった。
「……」
窓の向こうを見やる。そこには広い空があった。どこまでも果てしなく、遠い。秋葉にはまるで届かぬ外である。自由ではない秋葉には外で遊ぶ経験がまるで無かった。
秋葉という子供はまるで鳥篭の鳥であった。鳥は空を羽ばたく。子供である秋葉も、外に出て遊びたかった。しかし、そのような自由は秋葉には許されない。
これからも変わらぬ空漠の日々が続く。
そう、思っていた。
――――そんなある日である。
いつものように勉強を強制されてそれを受け入れるしかない秋葉は、重厚な勉強机に向かいながらこれまた厚い本を読んでいた。その内容をひたすらに理解し、一所懸命に把握する。
何も変わらない。何も変わらない。
そんな事実が当たり前のように転がっていた。
だからだろう。
「?」
一瞬、それが何なのか上手く理解できなかった。
いつもの時間に変化が起こった。
始めは風が強いのだと思った。風が強いから、窓が揺れているのだと、思った。
だが、それは
「!」
窓の向こうから手を振るあの人の姿で覆された。
それから、秋葉の視界は一変した。
秋葉を外へと連れ出し、よく習い事をサボる兄とこの前連れてこられたと言う巫淨の子供と共に一緒に遊んでくれた。外で誰かと遊ぶなんて秋葉には始めての体験であった。兄達は気弱な秋葉に優しくそれでいて素直に接してくれた。このように同年代の子供と共に、外を走り、家を探索し、森を駆けるなど、今まで紡いだ秋葉の人生ではありえないことだった。
楽しい。誰かと遊ぶ事がこんなにも楽しいことだなんて、想像以上だった。
だから秋葉は笑ったのだ。その人たちと笑いあった。
こんなにも明るく笑った事は、今までない。
大人たちの期待に応えるだけの人生であった秋葉には、こんなにも笑顔を振り撒く機会なかった。
だから嬉しくて、楽しくて、目が醒めるその時を心待ちした。
自由な時間である就寝の時刻が、以前よりずっと待ち遠しい。
なぜなら、目覚めればもう明日なのだ。
明日になれば、また遊べる。
また、あの人達と一緒にいられる。
そう思うと、秋葉はわくわくとして少し眠れないこともあった。
それからだろう。秋葉の表情に明るさが宿ったのは。
しかし、習い事をしなければならないのに、その時間を狙って遊んでいるからだろう。
その時間を担当していた大人が父に報告したのだ。
「……」
何度言っても抜け出す秋葉に業を煮やしたのだろう。子供に出し抜かれることも癪に感じたのだろう。兄らは抜け道を考える事が上手く、厳重な管理にあっても秋葉はその盲点を抜け出して、外へと向かっていった。兄らの助けもあり、秋葉はいつも外で遊んでいた。
そこは父の部屋ではなかった。恐らく廊下ですれ違う瞬間を狙っていたのだろうか。長い廊下に父は物静かに佇み、叱るでも無く秋葉を見下ろし、家庭教師からの報告があったことを告げた。
そして秋葉は父へと告げ口を行った大人を酷く嫌な存在と再認識を行った。自分では止められないから、わざわざ父を煩わせるその魂胆は毛嫌いする分には十全である。しかし、こうやって父を煩わせている元の原因が秋葉であることを思えば、父への多大な申し訳なさが胸の奥に溢れていった。
「秋葉」
短く、酷く簡素な声音。
秋葉は怒られるのだと、身を竦めた。
遠野に溢れる大人たちはひたすらに嫌いである。しかし、父だけは違う。父は秋葉には優しいのだ。何かを無理矢理に強制させるわけでもない。頭ごなしに強要させるわけでもない。秋葉の身を案じる、普通の父親だった。
だからその父に怒られるのは、涙が出るほどに応える。
「……はい」
知らず、声が震えた。
「……勉強をせず遊んでいる、と私は聞いた」
「……はい」
そこで、父は秋葉に手を伸ばしてきた。
はたかれる、と思った。
「楽しいか?」
それを、秋葉は良く理解できなかった。
父は、震える秋葉の頬に触れ、足を畳んで秋葉へと視線を合わせた。
思い描く最悪の未来図と今の状況が異なり、秋葉は父を見た。
「え……?」
「遊ぶ事は、楽しいか?」
父は要領を得ない秋葉に伝わるように、声を荒げるでも無く、静かに呟いている。
怒っている顔ではない。
むしろ、それは――――・
「楽しいです……」
「勉強よりも、か?」
「はい。勉強よりもずっと。……ずっと楽しいです」
「……そんなに、大事なのか」
「はい……」
稚拙な声音を並べて秋葉は父へと真っ直ぐに応えた。不安に揺れる声で、全く芯の無い言葉であったが、その思いだけは伝えたかった。
秋葉は、今を良しとしたい。
あの瞬間を、ずっと楽しみたい。
秋葉にとって、あの時間だけは心の底から自由なのだ。あの人に連れられた時、秋葉は自由の断片を掴んだのだ。子供たちと始めて見た大空は気持ちのいいほどの青色を描き、遠野という家系の重圧もしがらみも全て家の中へと置き去りにした。
楽しい。嬉しい。そんな感情だけが、あの時にはある。
それだけで充分だ。
それを失いたくは無い。それだけは、守りたい。
だから、父の目を真っ直ぐに見つめた。
「……そうか」
父は秋葉の答えをどう受け取ったのだろうか。頬に添えられた手は乾燥してカサカサであったが、仄かに暖かく。その感触は久しぶりに会った父の懐かしき掌であった。
「なら、いい」
「……お父様?」
そして気付いた。
父は、眩しげに、どこか寂しげに微笑んでいた。
「秋葉。大切なら、それを大切にしなさい」
視線を柔らかく、父は告げて秋葉が理解をする間にその場から遠ざかっていく。
何故、父が怒らなかったのか秋葉にはまるで分からない。勉強よりも遊ぶ事を優先させる事は、遠野の人間として決して受け入れられるべきものではないはず。
秋葉の応えに何か感じる所があったのだろうか。後姿を目で追っても、父は振り返る事も無く歩いていく。
しかし、幼い秋葉でもこれだけはわかった。
父は、秋葉があの人たちと遊ぶ事を許してくれたのだと。
「うんっ!」
遠くなっていく背中に、満面の笑みを零しながら秋葉は大きな返事をした。
「……」
夢は小さな秋葉の記憶を辿っていく。
そして、場面はその時へと近づいていた。
その日秋葉はいつものように屋敷を抜け出して、遠野の敷地内にある森の広場で花飾りの円環を編んでいた。遠野に自生する植物を幾程か頂戴して、懸命ながらに編みこんでいく。決して上手ではない。始めて作っているのだ。けどそれを作ってあの人に渡したかった。出来上がった花飾りの円環をあの人は受け取ってくれるだろうか。受け取ってくれたら、喜んでくれるだろうか。
期待と不安を綯い交ぜにしながら、秋葉は楽しげに花飾りを紡いでいく。
最近では大人たちは直接的には秋葉に何かを言う事は無くなった。
むしろ改善されたと言っていいだろう。
何と遊ぶ時間が設けられたのである。
抜け出す算段を考えるぐらいならその時間を遊ぶために使ったほうがいいと、限られた時間ではあるが外へと遊ぶにいける機会が作られたのだ。
そして、この計らいは驚くべきことに父が図ったのだと聞かされた。
父がどのような想いで秋葉の時間を考慮したのか、全ては理解できない。ただ廊下で話したとき、秋葉の返答に現状の改善を感じたのか、習い事も僅かに減らされた。本当に僅かな時間と量であるが、その時間調整を父自身が行っているのだ。そのお陰で今こうやって太陽の下遊べるのだから、文句のあるはずが無い。
森は穏やかな風に葉の擦れる音が運ばれてくる。天上に樹木が重ならないその場所は柔らかな陽光が差し込み秋葉を温めていた。
側にあの人はいない。何か用事があるとかで、遅れてやってくるのだそうだ。
用事とは何だろうか。一緒に遊べない事は些か残念ではある。
しかし、その文句を言える相手がそもそも側にいないのだ。ならば待つしかないだろう。
今、この場には秋葉と少し離れた場所にいる子供らしかいない。秋葉が二人と共に遊ぶには、二人は活発に過ぎる。気を使ってくれるのは分かるが、もう少し調子を落として欲しいと思う。ただ、それが叶えられる事は暫く無いだろうが。
そう思っていると、草を踏みしめる足音が近づいてきた。
「秋葉っ」
そして。
その声音に笑みを浮かべ、今しがた出来上がった円環を片手に顔を上げてみれば。
「え?」
あの人の後ろに、七夜朔はいた。
その人は、あの人に手を握られながら連れられてやってきたのだ。
人形みたいな子供だったと秋葉は思った。
子供という感覚ではあまりに掴めない、茫洋が姿を成したような子供だった。どこか擦り切れたような藍色の着流しと、どうやら左腕がないらしくいやにアンバランスな見た目だった。更にビスクドールのような蒼い瞳には感情も宿っていない事が、それを増長させていて、一瞬秋葉は人形か幽霊を連れてきたのだと思った。
引っ込み思案な秋葉であるが、それでもこの状況は如何ともしがたく、大きな戸惑いを覚えた。
そこに一陣の風が吹きすさぶ。
秋葉の手に握られた花飾りが、微かに揺れた。
「―――――あ」
七夜朔に秋葉は、何か声をかけようとした。
その姿を見て、秋葉は、何か声をかけようとしたが。
そこで、意識は次第に薄まっていく。七夜朔の蒼い瞳を覗きながら、秋葉の視界は曇り消えていく。そうして潜り込んでいた夢の蒙昧から、名残に連れられていく。秋葉の意識は夢と現の狭間を泳いで、幼い女の子は少女へと変わっていく。
しかし、何故だろう。
秋葉は七夜朔の姿を、追い縋るように見つめていた。
唇を噛み締めて、ふとすれば、涙さえ零れてしまいそうな表情をしながら。
「―――――」
遠く、どこからか声が聞こえる。
嗚呼、戻らないといけない。
そして、声音に意識を浮上させながら、思うのだ。
自分は、思い出す事も許されないのだと。思い出に浸る事も、行ってはならないのだと。
ただ、それでも秋葉の口元は、溢れる名残にあわせ、その名前を呟くのだ。
「――――さく――」
声音にして聞く七夜朔の名を、秋葉は押しつぶれんばかりの重圧に苦しみながら流していく。涙は流さない。理由も無い涙なのだ。理由なんて、あるわけがないのだ。
だから秋葉は目覚めと共にその面影を記憶の中から追いやる。
二度と、あの時に戻れないと知りながら、名残を惜しむ己を恥じながら。
「兄さん?」
秋葉は、目覚めた。