七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

33 / 62
 誰かの背中を見ている。
 誰かの背中を追っている。
 いつも、そうだった。
 君はずっと、彼の背中を追い続けていた。



第十話 人殺の鬼 Ⅰ

 ―――――――――。

 

 遠い。

 手を伸ばせば届いてしまえそうな場所にいるのに、その人の背中はどこまでも遠い。

 追いかけた。離れていく背中を、追いかけ続けた。

 けれど、その人は振り向かず、歩いていく。

 君はその人の名を叫び続け、涙さえ零しながら、走った。

 しかし、声は届かない。

 君の心も、まるで届かない。

 

 ―――――――――。

 

 でも、それでも君は絶え間なく声を張り上げ続けた。

 いつかきっと、たどり着くと信じて。

 

 □□□

 

 夢を、見た気がする。

 悲しい、夢を。

 

 だけど、その夢が何だったのか確かめるよりも前に夢はどこかへと霧散していく。詳細も分からぬまま、物悲しさだけを残して、夢は軽く綿雲のように消え去った。

 

「……」

 

 ぼんやりと、目が覚めた。

 

 意識がハッキリとしない。どこか透明な壁が目の前に反り立っているような視界。蒙昧な感覚が意識を覆い尽くしている。夢の中に快活を置いてきてしまい、そのせいで体も精神も気力が失せているのだろうか、と明瞭でない頭で思った。果たして、自分は何をしているのだろう。

 

 部屋の中には明かりが灯されていた。今まで眠っていたのだから、電気がついているのはおかしいはずだ。誰かが一度来て、そのまま電気を消し忘れたのだろうか。

 

 朝の雰囲気、ではない。朝特有の柔らかい冷たさが、ここにはない。

 

 藍色の光が窓から差し込んでいる。カーテンが閉め切られ、薄い布の向こうには茜を飲み込まんとする黒の空が広がっていた。

 

「……夕方?」

 

 いや。もうほとんど夜だ。

 

 何故自分は、こんな時間まで眠っていたのだろう。今日は平日だったはず。学校に行かなければならないはずなのに、こんな時間まで寝ているなんて。それに、もし自分が起きなくても、昨日と同じように翡翠が起こしてくれるのではないだろうか。いや、もしかしたら、アレは昨日だけの事だった?

 

 疑問が身体を動かす。咄嗟に何かを確認したくて、身体を起き上がらせようとする。

 ――――だが手を握る、小さく温かな掌が体を引きとめた。

 

 肌触り良く、繊細な白い手。その感触は滑らかで上質な絹を思わせた。

 

「秋葉?」

 

 先ほどから、疑問ばかりが口を開かせる。だけどそうせざるをえない。状況にまるで追いついていないのだ。視線の先、そこにはイスに座りながらベッドへと寝そべるように身体を寄せて、静かに眠る秋葉の姿があった。巡りの悪い寝起きの頭はこの状態に少しばかり思考を停止する。何故ここに、秋葉がいるのか。この手を握っているのか。

 

「――――――」

 

 耳を澄まさなければ分からないほど小さな寝息。その穏やかな寝息に秋葉の顔を見れば、そこには幼い少女が眠りについていた。

 

 記憶の中にいる小さな秋葉と変わらない、可愛らしい顔つきだ。遠野当主としての顔ではない。そのままの秋葉の姿だった。

 「――――――さ――」

 

 夢でも見ているのか眠りについている秋葉が僅かに、何かを喋った。しかし、それが一体何を言っているのか聞き取れない。恐らく寝言だろうと、それとなく自身を収め、口元を緩ませた。

 

 ふと、口内がどこか苦い。粘っこい酸味のような味が舌の上に残っている。

 それをどうにかしたくて、横に備えられた棚の上にある水差しに手を伸ばそうとして。

 

「―――――そうか、俺」

 

 口内の苦さは吐瀉物の味だと、理解が追いついた。

 それを認めて、志貴は自分に何が起こったのか理解した。

 

 そう。夢を見た。命の潰える喪失の夢を。何も出来ず踏み躙られる様に、死んでいく。夢の中で志貴は死んだのだ。心臓を抜き取られ、取り返す間もなく、握り潰された。あの時出会った藍色の亡霊に。あの殺人鬼に。その様が悲しく、消えていく命が寂しかった。夢であるのに、恐ろしいほどにリアルだった。

 

 そうだった。自分はそれに衝撃を受けて――――

 

「あれ?……でも」

 

 それは、今しがた見た夢ではない。何がどうと言うことも出来ないが、なんとなくそれは違うように思える。その夢は、今朝に見たものだ。もっと違う、何か大切な事を夢見たような気がする。

 

 しかし、最早夢は消えた。名残さえ失い、もう思い出せない。

 胸の虚ろはいやに震えている。

 あるいは、あの夢がこの虚ろの理由、なのだろうか。

 

 砂嵐。砂嵐。砂嵐。

 

「……兄さん?」

 

 ふと、かすかに囀る声音が耳に届く。

 

 身体を揺らして秋葉が目蓋を薄く。秋葉はどうやら寝起きが良いらしい。すぐさまに頭で働くようで、声音の主の姿を注視した瞬間に瞳は見開かれ、しかし翳りを帯びさせながら、ベッドへ寄りかかる身体を起き上がらせた。

 

「ああ、おはよう。秋葉」

 

 出来る限りの自然さを醸し出して、秋葉へと笑いかけた。

 

 秋葉の目に、志貴のその穏やかさはどう映っただろう。瞳を瞬いて、秋葉は兄の声音に反応するのが少し遅れた。

 

「……兄さん。……その、大丈夫ですか?」

「ああ。多分平気だ」

 

 多分という所に、自信の無さを如実に現している。

 

 今しがた起き状況を把握したばかりなのだ。整理も行っておらず、自分の体がどのような状態に在るのか定かではない。確か、吐いた。夢を見て、それと何かが原因で。しかし、それ以外はまるで覚えていない。

 

 それでも妹に心配をかけるのは兄としての姿ではないと思う。情けない今の姿を秋葉に見られているのに、そのような物は今更なのかもしれないが。

 

「気持ち悪さは無いし、お腹も減っている。食欲があるって事は健康体って事だろ?」

 

 影を覗かす妹にわざとおどけて、志貴は応えた。

 

 何よりも志貴がすべきなのは体中から心配を滲ませる秋葉を安心させることであった。眉を悲しげに傾かせた表情も含め、生命を確かめるように志貴の手を強く握りしめるその態度から、秋葉がどれだけ志貴を心配していたかは明らかだった。

 

 そんな志貴の心配りをどう受け取ったのであろう。秋葉は眉間に皺を寄せて俺の目を覗いてくる。

 

「お、おい秋葉?」

「兄さんが、嘘を言っているかもしれません」

 

 どうにも信用がない。

 

 確かに信じられるような事、今の今まで一度足りともしたことがない。長い別離の時には交友すらなく、お互いの状況も把握できず、家に戻ってきても心配をさせてしまうまるで駄目な兄のままなのだから。秋葉の行動も貧弱な兄を心配しているからゆえのものだと思えば、何も言うまい。

 

 それを証明するように、秋葉によって握られた手が更に強く、温かさを確かめるように握りしめてくる。その痛いほどの力が、秋葉がどれだけ心配をしていたかを物語っていた。

 

 だが。

 

「――――――っ」

 

 志貴には秋葉の姿を長く見つめるのは辛すぎた。

 

 秋葉の姿はまるで継ぎ接ぎなのだ。黒ずんだ線が秋葉の体中を蹂躙していて、触れてしまえばそのまま崩れてしまいそうな感覚がある。秋葉の身に走る亀裂。線は脆いのだ。近づきすぎれば壊れてしまう、と志貴は危惧する。何が、とは考えたくもなかった。

 

 そして志貴は違和感を覚えた。

 気のせいだろうか。

 

 ――――線が以前よりもハッキリと見える気がする。

 

 視界に走る黒色の亀裂が、どこか少し濃い。

 頭に僅かな痛みを感じた。

 

 痛みというよりも僅かに突っ掛かるような、脳内が痒いと表する事が正しいような痛みがあった。

 

 でも、ここで瞳を反らす事も出来ない。それでは嘘を言っていると公言しているようなものだ。だから真っ直ぐに笑みを湛え秋葉の瞳を見続けた。苦痛にも似た気持ち悪さを飲み込んだ。視線が絡み、少しばかりの時間が流れる。

 

 そして。

 

「……嘘は、言っていないようですね」

「まさか。嘘なんてつくはずないだろ」

「分かりません。兄さんが嘘の上手な方でしたら装う事も得意でしょう?」

「お前なあ……」

 

 最早降参だと肩を竦ませた。そんな呆れ交じりの仕草に、ようやく秋葉の仲に渦巻く不安がその質量を薄くしていくようである。顰められた眉の形が整っていく。こんな遣り取りで、秋葉の中にある影は薄れていくのだ。

 

 それが例え長い間を共に過ごす事もできなかった二人であろうとも、確かな家族の感覚である。苦笑と共に、この空間をどこか安易とは言わないまでも受け入れた。

 

「ああ、そうだ」

 

そんな雰囲気に、そう言えばと改めて思った。

 

「なあ、秋葉」

「どうしましたか?」 

「俺は返事を聞いていないんだ」

「何がです」

 

 要領を得ぬ志貴の言葉に秋葉は僅かに小首を傾げる。

 

 そんな少し子供らしい仕草が可愛らしいく思え、この顔が見られただけでも痛みを我慢した甲斐はあった気がした。

 

「おはよう、秋葉。……と言っても、もうこんばんはの方がいいのかな」

 

 出来るだけの、柔らかい笑みを秋葉に送った。

 そして、今しがた気付いたのか「あっ」と声を漏らし、暫しの時を置いた後に秋葉は眩しげに微笑んだ。

 

「おはようございます。兄さん」

 

 時機としては、それぐらいだろうか。

 硬い扉を叩く、ノック音。

 

「失礼します」

 

 静かに扉が開かれて、翡翠が姿を現した。

 

「おはようございます。志貴様、お体のほうは大丈夫なのでしょうか」

 

 翡翠は変わらない静謐さで言葉を紡いでくる。まるで先ほどの秋葉のような繰り返しだった。それを苦笑して受け入れる。

 

「ああ、おはよう翡翠。もう大丈夫だよ」

「でも、暫くは体を養生しないといけませんよ。兄さんは元から体が良くは無いのですから」

「秋葉。そんな人を病弱みたいに言うなよ……」

「あら、違いますか?」

「……違うぞ、多分」

 

 改めて言われれば、自信は無い。

 

 最近は起こらないが、かつて受けた事故の影響により志貴の体は貧血を患っている。頻発する貧血は志貴の生活を確かに不便にさせる重いもので、そう思えば病弱といわれても仕方が無く、今回の事も有って指摘をされればぐうの音も出ないことは明確であった。

 

 しかし、そんな志貴の反応に秋葉は仕方のないことだと小さな笑みを口元に浮かばせるのであった。その笑みを受けて、志貴としては最早どうしようもない。

 

「あの、志貴様」

 

 翡翠はどこか顔を曇らせて志貴に声をかけた。

 

「ああ、どうした翡翠」

「先ほどご学友の方から電話があり言伝を預かっております」

「有彦から?」

 

 今はこんな時間なのだ。学校には休みの電話は早朝に入れてあると、秋葉が教えてくれた。しかし、志貴に電話を入れるような友人は限られてくる。それこそ悪友ぐらいなものだろう。故に有彦の名を出したのだから、しかし志貴の予想は以外にも外れた。

 

「いえ。クラスメイトだという弓塚様からです」

「弓塚さんが?」

 

 意外だった。弓塚さつきから電話が来たとは。二人には共通点が少ない。同じクラスメイトであるが、しかしその距離は決して短いものではない。だがそこで、はたと思った。

 

 昨日。昨日である。二人はある共有を果たしたのだ。

 

「……」

「それでなのですが『私も今日休んじゃったから、明日学校で会おうね』と」

「そうか……」

 

 弓塚と志貴は昨日一緒に帰り、そしてあの藍色に出くわした。それの影響なのだろうか。あの藍色と出会った二人が体調を崩した。藍色の存在に、消えた首に気でもやられたのであろうか。でなければ、休む事も吐く事もなかっただろう。

 

 でも。

 

「そうか」

 

 噛み締めるように、志貴は呟いた。

 

 辛かっただろう。怖かっただろう。日常にいるはずなのに、まるで現実味の無い場所に降り立ったような感覚があの時襲った。それを弓塚も感じているはずだった。しかも、所在のない弓塚に志貴は言葉をかけることも出来ずにいたのだから、自らの至らなさを痛感した。でも、弓塚はそんな志貴に、気を使ってくれている。優しい人だ。

 

 それが、嬉しかった

 

「そうか」

「兄さん?」

「いや、なんでもない。ありがとう、翡翠」

「いえ……」

 

 そして用事は終わったのか、何事かを口に仕掛けて、しかしそのまま押し黙ってしまい、そのまま翡翠はあっさりと部屋から出て行った。一礼は欠かさずに。

 

「学校か……」

 

 学校で会う約束なんて、今まで交わした事もなかった。有彦とはある程度の約束自体を交わすこともあったが、それもくだりのないことで学校とは無縁の約束だ。だから二人は悪友なのだろうが、それが今しがた打ち破られた。

 

 何故だろうか。志貴はどこか明日学校へ行く気力を増していった。

 

「兄さん」

 

 しかし、そんな志貴にどこか秋葉は先ほどまでとは異なった表情を見せる。

「その、弓塚さんとはどのようなご関係で?」

「ああ。同じクラスメイトだって翡翠が言ってただろ?友達、かな」

「それは女性の方ですか?」

「そうだな」

「……」

「秋葉?」

「……莫迦」

 

 どこかむくれたように、秋葉はそっぽを向くのであった。

 

 □□□

 

「……志貴様」

 

 安堵に緩んだ口元から零れた声が人気のない廊下に落ちる。誰に聞かせるでも無く、しかしその言葉は狭い廊下の壁を反発して翡翠の鼓膜を震わし、今朝から固まったままの心を次第に溶かしていった。  

 

 そこは志貴の部屋から扉ひとつ隔てた廊下だった。

 扉の向こうには志貴と秋葉の声音が伝わってくる。

 翡翠は離れる事も無くその場に佇んでいた。

 

 遠野における翡翠の仕事のある程度をこなしていると、時間は瞬く間に過ぎていくように思えるが、今日だけはその感覚が狂った。今朝に志貴が体調を崩してから、気がそちらにばかり向いて仕事の傍らに時計を見た回数も数知れない。

 

 仕事は重要だと思っている。翡翠はこの遠野では使用人なのだから、仕事はこなさなくてはならない。けど、今日ばかりはその仕事へと傾ける集中力はすぐさま霧散して、頭には苦悶に顔を歪ませる志貴の事ばかり浮かんだ。

 

 清掃の合間に何かと用事を見つけては志貴の部屋へと足を向けた翡翠である。秋葉が執務室で仕事を行っている僅かな時間は、翡翠が志貴の様子を見守り続けたのだ。

 

 志貴がどれほど苦しんでいたか、その目に全て収めた翡翠なのだ。眠りにつきながら苦しみ、やがて絶叫を上げて、嘔吐した志貴の姿を翡翠は全て見ていた。主人の顔色がどれほど悪かったかを心細げに見つめ、躊躇いがちに顔から吹き出る油汗をふき取った。その危うげな生気に彼女の不安は一入に肥大していた。部屋の片づけを幾程か間違える事もあった。志貴がどうなっているか心配し、いつのまにか上の空へと赴いた事もあった。

 

「よかった……」

 

 翡翠の精神に張り巡らせた緊張が柔らかくなっていく。一時の安堵に息を吐いた。

 

 秋葉もようやく心安らいだだろう。仕事のために志貴の部屋を離れる事さえ躊躇い、頑なに志貴の手を握り続けた彼女を、側で仕事をしていたら志貴の寝つきも悪いだろうと説得したのは意外にも翡翠である。志貴の苦しむ様をその目に収めた翡翠だから、志貴の身を案じ、秋葉には休息の意味を込めて翡翠は説得したのであった。

 

 その志貴が、夕刻も深まり夜が訪れるこの時に、ようやく意識を回復した。

 

 しかし。

 

「……」

 翡翠にはその安堵を確かめる事は出来ない。

 

 扉一枚隔てた向こうに、目覚めた志貴がいる。扉越しに聞こえる兄妹の会話を耳にしながら、翡翠はその扉の側から離れる事が出来なかった。

 

 何も立ち入り禁止だと命じられたわけではない。入ろうと思えば、先ほどのようにいつでも入る事ができるだろう。そして目覚めた志貴の顔色をちゃんと確かめたかった。

 

 だが。部屋の中にいる二人は仲睦まじくて、長居し割って入る事はどこか躊躇われた。

 

 温かな室内を乱すことは避けたい。室内に満たされた柔らかな空気を硬くする事は良くない。そのような温度、自分が味わうなんていいはずがない。

 

 そうやって自分に言い聞かせ、この場にいる。

 入りたくなければ、この場にいなければいい。

 翡翠は使用人なのだ。仕事を行うために、この場を離れなくてはならない。

 

 しかし、それを思えば思うほどに翡翠の足はこの場から離れようとはせず。

 

「翡翠ちゃん?」

 

 そんな翡翠の側にその人は、いつの間にやらそこにいるのだ。

 一人でいる、翡翠の側に。

 

「姉さん……」

 

 どこかいつもよりも明るい雰囲気を滲ませながら琥珀は帰ってきていた。

 

 琥珀は今日、体調を崩した志貴の相談を行うために昼頃から時南へと赴いていた。時南は琥珀が医学の師事を行っていた人物であり、やはりその手腕は目に付くものがあるらしい。姉の処方の腕を知っている翡翠は漠然と時南の情報を耳にしていたが、その場所に姉が行くのだから師弟関係で話も弾んだのだろう。昼頃に遠野を出て、戻ってきたのが夜も間近に迫った頃である。

 

 顔つきはいつもと変わらないが、何だろうか、隠し切れぬ陽気がその体から溢れている。普段遠野からは買い物以外に外出しない琥珀にとって本来の意味以上の時間が過ごせたのだろうか。

 

「姉さん、お帰りなさい。……用事はもう終わったの?」

「ええ。こんな時間になるまで話こんじゃったけど、もう大丈夫。元気そうで安心しちゃった」

「……そう」

 

 琥珀は本当に嬉しそうに笑っていた。此処まで嬉しそうに、こんなにも中身のある笑みは翡翠にとっても久しく見ない光景であった。

 

 琥珀はいつも笑顔だ。感情豊かにする事もできない翡翠とは違い、琥珀は溌剌と笑む。陽気を満たす笑みでもって、人の少ないこの屋敷に柔らかさを運んでくるが、今目の前にある笑顔は、いつも見る琥珀の表情とは質が異なっているように翡翠は思えた。

 

 それが具体的に何なのかは分からないけれど。

 しかし、それに応える言葉がそっけないと自覚する。翡翠の心の奥にある自身へのわだかまりが言葉に温もりを失わせている。

 

 いや、翡翠にはそのようなものは必要が無いのかもしれない。

 

「それで翡翠ちゃんはどうしたの?志貴さん起きたんでしょう、入らないの?」

「……」

 

 そしてそんな翡翠を見抜いているように琥珀はいつも翡翠の核心をついてくるのだ。流石は姉ということだろうか。

 

「私は……」

「うん」

「私は、この中に入ってはいけないんです」

「え?」

「志貴様が目覚めた事は嬉しいです。秋葉様も、喜んでいます。私も、嬉しいです」

「翡翠ちゃん、なら」

「でも……私がこの中に入るのは、なんだかいけない事なんじゃないかって思うの」

「どうして?」

「……私が、使用人だから」

 

 翡翠がこの部屋に入る事は分相応ではない。今、喜びを分かち合っている二人は翡翠の仕える主人なのだ。その二人が温かな会話を交わしているのである。その中に入り込む事は、それは。

 

「それは、使用人がしてはいけない事だと、思います」

 

 先ほど入室したのは、志貴の学友から預かった言伝を志貴に伝えなくてはならなかったからだ。主人と使用人が空気を共有する事は使用人としての役割があるからである。そうでなければ、本来であれば家族ではない翡翠がこの遠野に入れるはずが無い。それを翡翠は使用人としての役割を会得しているから、ここにいるのだ。

 

 しかし、今。

 翡翠が部屋の中に入る事は、それはもう使用人としての役割を越えた話である。

 

 本当は、翡翠もこの部屋の中にもっといたかった。部屋に入って真っ先に志貴の顔色を確認したい。そして、その声音を聞き、安心したかった。

 

 だが、それは翡翠の役ではない。

 それは、使用人として踏み込んではならない翡翠の境界線だった。

 

 ここを踏み越えていく。それは、家族や親しい人間の行うべき事であり、ただの使用人でしかない翡翠には、あまりに遠い断崖であった。

 

 使用人である翡翠は、志貴や秋葉とは異なる場所にいる。まるで一人だ。

 

「……そっか」

 

 翡翠の密やかな答えを、琥珀は困ったように苦笑しながら頷いていた。

 翡翠の言いたい事は、何となく琥珀にも理解できる事であった。

 

 その意味合いはまるで異なるが。

 

「それじゃ、翡翠ちゃんはどうする?」

「私は、これからお粥の準備を「それは駄目だってば」…使用人としての仕事を、します」

「そう。じゃあ」

 

 愛しむ様な琥珀の視線。

 それはただ妹を想う、姉の瞳であった。

 

「使用人として翡翠ちゃんは病み上がりな志貴さんに何をすればいいのかしら?」

 

 琥珀の問い掛けに翡翠は、はたと思う。

 己は志貴に対して何が出来るのだろう。

 

 体を患っているかもしれない志貴のために色々と世話を行わなくてはならないだろう。水差しの水は充分だろうか。寝汗に召し物は不快になっていないか。いちようの意味も込めて着替えを持っていくべきだろう。もし汗が酷かったらシーツも新しいものに取り替えなくてはならない。

 

「あ」

 

 なんだ。

 

 考えてみれば、志貴のためにやれる事は沢山ある。そのどれもが些細な気遣いの範囲を抜け出す事ではないが、使用人の仕事である。それならば、この中に入る事も翡翠には許されるような気がした。

 

 しかし。

 

「でも、そんな片手間に……」

 

 志貴の様子を確かめたいがために仕事を行うのは、少しばかり悪い事をしているような気がする。しかしそんな心根は、志貴の使用人となる事から打算的に内心考えていた事を、その時になって翡翠は思い出した。

 

「何言ってるの。翡翠ちゃんは仕事のために志貴さんの部屋に入るんだから、誰も何も言いませんよ。それにもし秋葉様が何か言っても、仕事なんだから大きくは言えませんって!」

 

 だから大丈夫!と琥珀はなぜか力瘤を作った。

 そんな琥珀の後押しに翡翠は暫し黙考した後、力強く頷いてその場を後にした。頼りになる姉に感謝の言葉を残しながら。

 

「姉さんは駄目だと言ってたけど」

 

 使用人なのだから、お粥ぐらいは作らなければならないと、翡翠は使命感にひた走った。

 

「そういえば……」

 

 気持ち足早に廊下を歩く翡翠であるが、その半ばでふと翡翠は思う。

 

 ――――何故、今しがた帰ってきた姉が、志貴が目覚めた事を知っていたのだろう。

 

 僅かに脳裏を過ぎた思考は、消えるでも無くそのまま奥底に沈んでいった。

 

 □□□

 

「ふう」

 梅の味がエッセンスでは無く、梅の味そのものという不慣れな味わいであるお粥を胃袋に流し込んで、志貴は再び部屋にいた。翡翠の手作りなのだと聞かされ、気合で食した。暫く梅はいらない。

 

 そのまま長居しても問題は無かったのだが、秋葉たちに速く寝たほうが良いと奨められたので、多少残念であるが折角の気遣いを無碍にはすまいと甘んじて部屋に戻り、今はベッドである。そこに腰掛け、今は何をするでも無く亡羊としている。

 

 どうやら志貴が部屋を離れているうちにシーツが変えられたらしく、湿り気のあったシーツは手触り良く冷たいものとなっていた。恐らく琥珀か翡翠が行ったものだろう。秋葉がやるとは思えない。

 

「さて、どうするか」

 

 しかし、部屋に戻ってもする事は多いわけではない。如何せん今は手持ち無沙汰である。やる事は自然と限られている。学校の宿題は既に一日休んでいるのだからやっても意味は無い。いや、復習と言う点で意味はあるはずなのだが、それは宿題ではない。そして復習を自ら進んで行うのは、勤勉者ではない志貴には縁の無い事であった。

 

 では先ほどあったばかりであるが、秋葉のとこにでも行こうか。何をするわけでもないが、話し相手には申し分ない。

 

 しかし、話し相手ならば他にも翡翠や琥珀もいる。二人は今どうしているだろうか。仕事中なら仕方ないが、話すだけなら問題ないだろう。特に琥珀はそこらへん聞き上手そうだ。思えばあの二人とはちゃんと話していない。折角同じ家に住んでいるのだから、話す機会を作るべきだろう。

 

「……でもなあ」

 

 先ほど寝てろと言われたばかりなのだ。これ以上気を使わせる事は如何なものだろうか。ここで秋葉に会えば小言を言われるだろうし、他の二人に会いに行くのも気遣いに乗っかったような感じとなるのがいただけない。

 

 ならば、というかやはりというべきか。

 

「じゃあ、寝るか」

 

 仕方ない。そう呟いて、そのまま横になる。

 

 新しいシーツはなかなかに肌触りがいい。そのまま包まっていれば忽ちに眠れてしまうだろう。眠り癖みたいなものがついたのだろうか。一日中寝たからか脳がきちんと起きていないようで、ずっと眠たい気がした。食事中もどこか起き切っていない感覚があった。夕飯だと言うのに朝食のような。

 

「まあ、今日始めて食べたんだけど」

 

 それが梅味ではなく、梅のお粥なのだからなかなかに刺激的だ。

 

 しかし、それならば朝食と言う考えもありだろうか。内臓が起き始めたばかりなのだからお粥なのも胃に優しいだろう。この際、味は無いものとしておこう。

 

 だが、このまま眠ってしまうのは、一日を無駄にしたようにも思える。だから具体的にどうしたという訳ではないが、何となく遣る瀬無い。

 

「仕方ない」

 

 再び呟いて、自分を収める。そもそも落とし所なんてどこにもないのだ。

 例え、あの藍色のせいであっても、もう会うことも無いのだから。

 

「……」

 

 そのまま横になっている内に、きっと眠っている。

 そうすれば、弓塚との約束も果たせるであろう。

 約束というほど強制力もない、ただ志貴がそう想いたい約束だ。

 しかし、今は。

 その約束を果たすために眠っておこう。

 

 □□□

 ハ――――ハ―――――――――。

 仄暗い道なりを、体を引き摺るように進んでいく。

 足元が、安定しない。影と闇を貫いて、人も入らぬ街路地の裏を進んでいく。

 舗装された道路に、僅かな赤色が垂れている。脇腹を裂く傷口が疼いて仕方が無い。ぐじゅぐじゅと奇怪な音をたてながら、傷口に蛆でも涌いたような感触そこにはある。

 その痛みが、抜けない。

 脇腹に感じる痛みが、どういうわけか抜けない。

「ハ――――ハ―――――」

 獲物を見つめる獣の如き息遣いが、人気のいない路地を侵食する。

 途切れる呼吸を無理矢理に稼動させる吐息。どこにも届かぬ、声にもならない悲鳴であった。

 荒い吐息は暴力的に酸素を取り込んで、軋もうとする筋肉を動かしていく。

 しかし、こんなにも苦しいのに、どこにもたどり着かない。

「グガ―――!」

 膝が崩れ、そのまま硬い道路に体が叩きつけられた。

 無様に、転がる。

 頭の中を半鐘が木霊する。何を考えているのか、自分ですら理解できない。まるで自分以外の誰かが脳内を侵して回っているかのようだ。誰だこいつは。お前になんて用はない。

 そのまま消えて女の糞に塗れてろ。

 そうだ、そうだ。消え去れ。全部消え去れ。

 必要なもの以外全部消えて滅びろ。滅びて消えろ。

「アア――――」

 路地に跨る暗がりのなかを無理矢理動いていく。

 逃げるのではない。逃げてしまうのではない。

 そうだ、そうだ。そんな選択肢、どこにもない。

 ただ、

「アイツ―――――!」

 憎悪のままに動けばそれでいい。

 そのために、今は動け。動いて、機会を待て。

 今はまだ、雌伏の時。アイツに見つからず、今は機会を待て。

 そして、いつか。そして、いつか―――。

 アイツを殺して、粉微塵にしてくれる。

 憎悪に牙を剥く。

 そして、その瞳が、今追うべき標的を探った。

 

 

 

 

 

 以下NG。

 もし、この場面で琥珀さんが登場したら。

 

「しかし、秋葉。あれだな」

「何ですか?兄さん」

「……近くね?」

 二人の距離は最早唇にさえ届いてしまいそうな隙間しか残されぬほどに接近していた。吐息が顔にかかり、志貴の鼻腔には香りよい匂いがくすぐっている。それが石鹸の匂いなのか、服に滲む洗剤の匂いなのか。それとも、秋葉自身の体臭なのだろうか。ひたすらに良い匂いである。

「……っ!?」

 一瞬志貴が何を言っているのか理解できなかった秋葉だったが、小首を傾げた瞬間には志貴が何を言いたいのか理解した。頬を赤く染め、慌てて身を引こうとして。

「あーーーーーーーーーっ!」

 絹を裂くような、それでいてどこか楽しげな声音が室内に響いた。

 何故だろう。体中の毛穴が開いて嫌な汗が流れてきた。反応してはいけない。反応してはいけないと自分に言い聞かせて、仏の如くに内心経典を読みふけながらその人をいないものとして扱おうとした時には、既に爆弾を放ったのである。

「志貴さんと秋葉様がディープキスしてます!」

 琥珀は楽しげにニヨニヨと口元を緩ませながら二人を指差している。しかし、そんな事を言えば状況が混乱するのは分かっているのである。

「な!きっ、きききききききす!?琥珀貴方何を言ってるの!!?」

「そうですよ琥珀さん!!俺たちがそんな事する訳ないだろ!」

 志貴と秋葉の言葉に耳を貸さず、いやむしろ更に悪化させて琥珀は場を掻き乱す。

「いいんですよ恥ずかしがらなくて。しかし近親相姦とはレベルが高いですね。秋葉様やっるー!」

「ちょっと待ちなさい!何で私なのよ!」

「えー、だって秋葉様じゃなきゃこんな事しませんしー。志貴さんが寝込んでいるときに襲い掛かるのも余裕ではないかと」

「……一度貴方ときっちり話し合う必要がありそうね、琥珀」

「あ、それとも秋葉様じゃなくて志貴様でしたか?病に心配している秋葉様の優しさにつけこんであーんなことやこーんなことまでやっちゃいましたか」

「いやいやいやいや!やってませんて琥珀さん!」

「それは秋葉様に女性としての魅力が圧倒的かつ完全無欠に無いって事ですか?」

「……いや、それは」

 それを真剣に答えるのは兄としてどうだろう。妹の女性的魅力を謳う兄なんて危険すぎる。少なくとも正常な兄妹とは言い難い志貴と秋葉であるが、常識ぐらいはある。そして妹の魅力を声高々に語る兄がなかなかに逸脱している存在だとも分かっていた。

 しかし、言葉に詰まった志貴を秋葉は見逃さなかった。

「……兄さん?何故、詰まるのですか!!」

「ちょ、秋葉!?」

 一気に騒然と化したその場で選択を間違えた志貴に、先ほどとは違う眉の形で秋葉が詰め寄る。

その光景をいつの間にやら傍観者のようににやけて見つめる琥珀なのである。

それが琥珀たる所以でもあったが。

 ただ志貴にはそれを確認する術も無く、秋葉を宥めすかしながら眼鏡をかけ自身の生じた違和感を奥底に仕舞いこんで、愛想笑いを浮かべる事が今先決すべき事であった。

「いや、秋葉あのな?別にお前に魅力があるとかそんな事はどうでもいい―――」

「どうでもいい!?兄さんは私のことがどうでも言いというのですか!!」

 顔を真っ赤にさせて、先ほど志貴の直前で見せた恥じらいの赤とは全く異なる顔色に表情を変えて、秋葉は髪の毛も振り回さん勢いで怒っていた。

心なしか髪が赤いのは気のせいだろう。

「いやいや其処まで言ってないから!兎に角秋葉、少し落ち着いて……」

「私は落ち着いています!!大体兄さんは……っ!」

 

 終われ。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。