七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 そして、柔らかくその少女は血塗れの少年に笑んだ。
 白いリボンが小首を傾げる少女の頭と共に揺れる。
 少女がその手を伸ばす。少年はそれを拒否しなかった。
 頭部から血を浴びた少年の頬に、少女は唇を当てた。
 少女が始めてつけた紅の化粧(けわい)は、妖艶と冷酷を少女に与える。
 しかしその笑顔は、きっと何よりも美しい。



第九話 人殺の鬼 Ⅰ

 弓塚さつきは、迷っていた。

 

「うーん……」

 

 部屋着姿、俗に言うパジャマ姿で電話の前をうろうろと右往左往していた。

 

 実はさつきが所属するクラスの教員から志貴が学校を休んでいるという報告を受けたのだが、その彼に連絡をいれようか迷っているのである。

 

 現在昼を過ぎて、そろそろ小腹も空き始めた時間である。おやつの時間だった。今日のおやつはチョコレートビスケットである。学校を仮病によって休んだ彼女がぬくぬくと家の中で過ごしているのは如何なものかと思われるが、それを突っ込む人はいない。さつき自身自覚しているのだから、改めて突きつけられるのは勘弁願いたい所である。

 

「むむむむむー」

 

 昨日の影響がまだ抜けていなかったさつきは、大事をとって学校を休んだ。夢見が悪かったのか、どうにも身体の調子が優れなかった。それでも気にしなければ問題なく学校に行けたのだが、無理を推すには気分が良くなかった。なので母親に学校を休む旨を伝え、自ら今朝学校へ連絡をいれたのであるが、その時電話越しに遠野志貴も休むのだという呟きが聞こえたのであった。

 

「ぬぬぬぬぬぬー……」

 

 しかし、それを確認しようとして、弓塚は踏み出す勇気が出なかった。好きな相手が病欠をしたと言うのだから心配しないわけがない。もしかしたら自分と同じように昨日の事で休んでいるのかもしれない。そうでなくとも、声が聞きたかった。

 

 昨日、二人が出会ったあれは一体なんだったのだろう。脳は恐怖する情報を巧みに手繰り寄せるものであるが、さつきには一定以上の情報を捉える事ができなかった。二度目の会合にして直視した存在は生首を片手に佇む殺人鬼だった。それだけでもさつきは一杯一杯だと言うのに、それがこちらに向かってくるのだから堪ったものではない。そんな恐怖を共有しても、意味など無いことはわかっている。しかし、それでももしかしたら聞かされる志貴の慰めを期待して、さつきは電話をかけようとしていた。いや、慰めの言葉がなくても構わない。ただ、志貴の声を耳にしたかった。

 

 だが、こんな何気ないところで踏み出せるような簡単に決心がつけるようでは弓塚さつきではないのである。

 

「……はーあ」

 

 そうしてトボトボと弓塚は電話から離れていった。決心できずに後悔ばかりが募るばかりである。

 

 きっと一時間後には電話の前で再びうろうろしているだろう。

 

 □□□

 

 その少女は場違いなほどに明るく声を発した。朗らかさと軽やかさを合わせ、淡い紅色の髪を白いリボンで纏めた少女は柔和な笑みを浮かべながら、空気のようにそこにいた。

 

「琥珀。おぬし、いつの間にきおった」

 

 振り向きざまに挨拶もなく言葉を告げる宗玄の瞳は、少女の陽気な雰囲気に対し頑なだった。それは嫌悪や拒絶のような悪感情ではなく、面倒なのが登場した事に対する諦めから発する、溜め息にも似た反応であった。

 

「先ほど先生がこっそり話していたので、気付かれる前にこっそりと」

 

 宗玄の反応に琥珀は企みの成功した意地の悪い、それでいてどこか楽しげに応えた。

 

 琥珀と宗玄の付き合いはそれなりに長い。先代当主遠野槙久存命時、槙久の命によって琥珀は薬剤師の資格を取得しなければならなかったのだが、その時琥珀に教鞭を揮ったのが遠野との繋がりがあった時南宗玄と、宗玄の一人娘であり琥珀の姉弟子である時南朱鷺恵だった。彼らの助力により琥珀は薬学の勉学を修め、薬剤師の資格を得るまでに到ったのだが、その関係は今も続いていた。

 

「それでも、七夜朔さんにはばれていたようですが」

 

 琥珀の視線の先、そこには寝台に着流しを肌蹴たままの七夜朔の姿があった。朔は其処で身動ぎもせず、また琥珀に視線を投げかけるでもなく、先ほどと全く変化のない姿勢のままである。しかし、その重心は僅かにずれ、腰が心なしか浮ついていた。その変化を琥珀は目聡く見つけていた。

 

「それですが、今日はですね――――」

「――――何?小僧が?」

 

 宗玄と琥珀の会話に対し、朔は耳を傾けることもなかった。もとより興味もない話だった。医療関係に明るくなく、二人が話している内容が薬の効用であることすら、朔には理解できない。そも確かな教育すら受けていない朔には無用な知識であった。

 

『さすガは三咲町、ってかァ』

 

 その時、朔の脳内に骨喰の声音が侵食する。鼓膜を震わせずに聞こえるその金属の軋みは、二人の間に交わされた血の契約が果たす恩恵の一つであった。

 

『朔。あレは遠野の使用人ノ一人。手前の仇の身内ダ』

 

 言外に視ろ、と骨喰は囁く。

 

 骨喰の言葉に朔は間を置いて琥珀を視た。

 

 遠野。

 

 遥か昔に魔の血を一族に取り入れた、常識では考えられぬ所業を果たした一族の取り纏め。

 

 人は古くから存在する人外の魔に嫌悪し、そして憧憬を抱いていた。人間とはあまりに差がある生命力、知識、単純な力。その破格な力に人は恐怖し、欲した。思いつくことも禁忌極まる結論だった。故に契約を交わしてその血を取り込もうとした人間が幾重にも企みを錬り、そして魔に食われ呑まれた。人魔の間に隔たる存在の差異は、大よそ超えられるものではない。核が違うのである。その交配など不可能なはずなのだ。

 

 しかし、文献に見えるとおり人と魔の混ざり者は歴史上には存在した。不可能を踏破し、諦めを超越した、己の宿願を果たした人間は確かにいた。そんな気の触れた所業を果たした人間たちが、確かに存在した。

 

 そして遠野こそ人と魔の狭間に生きる現代の混血だった。

 

 小豆色の着物を纏う小柄な少女、琥珀。現在宗玄と会話を交わすその少女は楽しげに笑みを浮かべている。宗玄と話している事が楽しいのか、何が楽しいのか朔には分からない。

 

 少女、琥珀が遠野の者。一見すれば、分からないことだ。彼女には魔の匂いがしないのだ。

 しかし、仇だと骨喰は謳った。仇、仇だと。

 

 七夜はかつて、遠野という混血に滅ぼされたのだと、骨喰に教えられていた。

 七夜朔は故に一人である。七夜はもう朔一人なのだと、教えられた。

 

「――――。――――」

 

 朔が所持する魔眼は人間の視界を超える。常時発眼し、隠す事も消す事もない朔の蒼の瞳。今もなお虚空を思わす蒼色の瞳は通常の生物とは異なる視界を映し出し、更なる情報を見出す。

 

 魔眼は靄を捉える。

 

 匂いなく、音もなく、気配なく。靄が室内を満たしている。

 

 朝霧の爽やかさではなく、小雨の涼しさもなく、不気味な靄が重苦しい沈黙の如くに漂う。それが朔の魔眼が映し出す世界だった。それは現実には視えることのない視界。朔のみが視る事を許された世界の、あるいは生物の趨勢だった。

 

 白色の靄は琥珀の周囲にまかれ、それでいて薄く宗玄にかかっている。その宗玄もまた白色に灰の混じる色めきが噴出していた。

 

 だが、靄はそこで途切れない。

 

「――――」

 

 濃い靄が琥珀から噴出し、七夜朔の身体にまで伸びていた。それは朔に近づくほどに濃くなり、手を伸ばせば掴めてしまいそうな質量を秘めた靄だった。

 

「――――それならば朱鷺恵に聞くべきじゃろう。今はおらんが、電話すればよい」

 

 その時、朔の視界の中で二人の会話にある程度の目処が立ったらしい。内容までは把握できない。それを考えるのは朔の役割ではない。朔はただ在ればいい。思考は骨喰の役割である。

 

「お願いできますか先生?」

「おぬしがすればいいじゃろうが。何でそこまでやらねばならん」

「えー、可愛い教え子の頼みじゃないですか」

「教えただけの関係じゃろうが」

「あ、酷いですね。そんな事言っちゃうんですか先生?」

「そんな事を言って何が悪いか弟子」

 

 両手を合わして小首を傾げる琥珀の仕草に他意は一見覗けない。しかし、その意識が宗玄に向かっていない事は明らかだった。そのあまりに邪気のない様相に宗玄は更に面倒さを増すばかりだった。そんな遣り取りも幾程繰り返されたか。滑らかな言葉の報酬は決して薄い関係ではなせない時間の経過を垣間見せる。その内に宗玄は至極面倒そうに頭部を掻き毟った後に盛大な溜め息を吐きながら扉の向こうへと消えていった。

 

「さて、と」

 

 そして、扉が閉じられた瞬間、琥珀の視線が朔を捉える。

 

 琥珀から発せられていた全ての靄が朔を絡め取る。周囲に振り撒かれていた靄が、朔ただひとりに向かい、白き靄は雲海のように朔自身を飲み込んでいく。

 

 しかし、それを遮るよう。

 

 ――――泥水のような黒色が朔を取り囲む。

 

 骨喰から滲む邪悪の魂が、朔を包み込む。

 

 まるで、呪いのように。

 

『時は過ギても朔にしか関心はナしか。しツこい奴め』

 

 げらげらと愉快に骨喰は笑う。その苛立ちと邪心を孕む愉悦の笑いは生者二人しかいない空間に亀裂を走らせる。あらゆるものを見下しながら蔑み笑う、人外の笑い声であった。

 

「いえ、そんな。いつまでも朔ちゃんにとり憑いてるおんぼろさんには勝てませんよ」

 

 骨喰の蔑みを受けて、くすくすと琥珀は静かに笑む。空虚な笑みである。骨喰の言葉などに一切の価値など見出していないあまりに無機質な笑み。

 

 互いが互いに対して笑い合う。ただそれだけだというのに、何と禍々しい。室内が錆びつき、それを虚ろが侵す。二人は拳銃を突き付けあいながら笑いあっている。己の毒を弾丸に、想いを貫くために相手を殺し尽す。

 

『嬢ちャん。また会うトは思わなンだ。相モ変わらず破綻してやガる』

「全くです。私は会いたいなんてこれぽっちも思いませんでした」

『奇遇だナ。ひひ、ひ……俺もだ』

「そうなんですか?吐き気がしますね」

『同感だ。ゲロくせえ匂い染ミ付かせろ。ひひ、俺にャ嗅ぐ鼻の穴も吐き出ス内臓もネエが』

「そうですか。まあ、貴方なんて知らないんですけど」

 

 密やかに琥珀の歩が朔へと向かう。彼我の距離は短く、それこそ大きく歩めば容易く辿りつける。しかし、琥珀は急く事無くその一歩一歩を踏みしめる。その歩みは惑いなく、迷いない。朔の姿勢が琥珀を殺す意志を示していると知っていても、琥珀の歩みは止め処なく、恐れを抱く事もなし。朔の変化に気付きながらも琥珀は遂に。

 

「――――ああ」

 

 琥珀の唇から吐息が漏れた。

 

 万感の想いが言葉にもならない。琥珀の身を溶かす温もりが琥珀を包む。

 

「朔、ちゃん」

 

 側に辿り付いて、琥珀は手を伸ばす。朔の視界は琥珀を捉えている。儚く今にも壊れそうな笑みを湛えた少女を見据えている。故に朔は伸びる手に応える如く、右手に握る手放す。重心は螺旋を描き、緩やかに投げ出された足が跳ね上がる。そして琥珀の細き首を刈り取ろうとした瞬間。

 

 ――――砂嵐。

 

 白黒の砂嵐が、朔の意識に到来する。

 

「ずっと、待ってたんです。私、ずっと朔ちゃんの事を、ずっと――――」

 

 ザ――――ア―――――――――。

 

 白い、リボンの、人形のような、少女。

 

 砂嵐。砂嵐。

 

 どこかで、見たことが、あるような、映像。

 

 寝転がる朔を覗く、砕かれた破片を繋ぎ合わせたような少女の顔。

 

 その頭部に、白いリボン。

 

 これは記憶。あるいは記録。あるいは記述。

 

 ――――そんなもの。朔には有り得ないものだと言うのに。

 

 朔に記憶など存在しない。朔は兆候なく突然に現れる人殺の鬼。思い出は持ち合わせていない。いつの頃からか朔には分からぬが、朔の脳には致命的な欠陥が生じていた。果たして朔には無駄な記憶が記録もされぬ身である。そういう無用な不要は全く持って機能を働かせることなく、朔はただの殺戮人形だった。記憶も、記録も、記述も、あるいは思い出も、朔には搭載されていない。それは骨喰の機能である。ならば、血の契約から辿る骨喰の記憶なのか。

 

 しかし、今朔に視える映像は何だ?

 

 そう、知っている。知っているのだ。映像に映る少女を、朔は知っていた。

 

 だが、それが誰なのか、朔には――――。

 

 意識は朦朧に霞む。しかし、視界だけは明瞭だった。

 

 朔の身体は蒙昧なその意識に反し動こうとする。何ものであろうとも、視界に入らば解体せしめん条件反射であった。それしか知らぬ朔の取れる唯一の手段こそ、十年近くもの間朔の手によって生み出された殺人行為であった。

 

「――――」

 

 だが、身体は動かず。

 

 朔の顔に少女のたおやかな両手が添えられた。

 

 細い指先は咽び泣くように震え、包み込むように、抱きしめるように。

 

「―――、―」

 

「―――どうしましょう。言いたいことが沢山あるはずなのに、何が言いたかったのか。……私、分からなくなっちゃって」

 

『ならバ黙って沈め嬢ちゃん。大体、何でコこに朔がいると分カった』

 

「何言っているんですおんぼろさん。朔ちゃんで知らない事なんて、私にあるわけないじゃないですか」

 

『答えになってネエなあオイ』

 

 骨喰の言葉にこれ以上応える気もないのか、琥珀は朔だけを見つめ続ける。

 

 少女の顔が近づいてくる。この時になって朔は動く事が出来なくなった。頭部は固定化されたように動くことなく、朔の蒼色は琥珀色の瞳から離れない。

 

 この手はなんだ。何故、その顔(かんばせ)は近づいてくる。

 

「―――嗚呼、そうだった。ずっと、一番最初に朔ちゃんに、言いたいことがあったんだ」

 

 そして。

 

 少女の額が、朔の動けぬ額を小突くように押し付けられる。

 

「お帰りなさい、朔ちゃん。……会いたかった」

 

 目蓋を閉じながら、琥珀は静かに呟いた。

 朔の確かな感触に、少女の睫毛が震える。

 

「―――――……」

 

 朔の視界が少女の顔で覆われてる。

 目の前には白い肌を感嘆か、あるいは歓喜に頬を薄く赤へと染めている。

 

 砂嵐。

 意識は潜る。

 

 間近にある少女の笑顔は、どこかで見たあの血生臭い惨劇の光景で見えた、誰かも分からぬ小さな人形の笑顔に似ていた。

 

 □□□

 

 時は、遡る。

 

 月も見えず、太陽も昇らない間隙の時間の事だった。街頭の明かりだけが暗闇を灯し、人の気配も伝わらない夜。人々が眠り、静かに更けた夜の黙(しじま)の街中を幾人かの男女が乗車する黒の車が舗装された道なりを直走る。中にいる者は全員が黒服である。没個性を醸し出す黒服の集団であった。しかし、その顔つきは皆険しく、また気配は鋭い。明らかに常道の人間が出せる雰囲気ではない。

 

 彼らは皆、退魔の人間だった。

 

「報告。七夜朔が工事現場から遠ざかったのは十分以内」

「報告。その前には自動販売機の破損を確認」

「報告。七夜朔が三咲町に訪れたのは三日以上前との事」

「報告。恐らく七夜朔は死者の掃討を行ったものと見られる」

「報告了解。確認は終わりだ。急げ」

 

 厳かに情報を交換する退魔達。彼らはおおさっぱに括ってしまえば三咲町支部の退魔だった。日本に敷く退魔は所謂組織構成が組まれている。中央から命を発令し、それを各支部が執行するといった組織形態が行われており、中央は所謂退魔一族と呼ばれる複数の一族らによる独裁が長い間支配していた。

そして中央から離れている各支部は、中央から発せられる命を調整するぐらいにしか権利もない。長年その組織支配に物議が醸し出されているが、それが覆される事もない。現在の日本を反映しているかのようである。

 

「しかし、面倒は挙ってやってくるものだ」

「無駄口を叩くな」

 

 ぼやけ気味に愚痴を零す男性に対し集団の隊長格である冷気を伴う女性が叱咤するが、愚痴を零す事も無理からぬ事であると自身も重々承知していた。

 

 現在三咲町には吸血鬼が出現し、その被害は日を追う毎に増えていくばかりであった。吸血鬼が一体出現するだけで、一つの町が死都と化すなど稀な事ではない。吸血鬼に血を吸われた人間からそれは化け物と成り果て、そしてその化け物が人の血を吸う事でまた新たな化け物が誕生する。その繰り返しを阻止するために人間は魔へと対抗する組織を構成してきた。それが教会であり、また退魔だった。

 

 犠牲者の数は抑えることも出来ず、退魔は秘密裏に死者を見つけては大小の犠牲を払い処分する工程を地道に行っている。三咲町は混血の党首である遠野が根城にする支配地区であるため、退魔の人間にも腕利きの刺客が揃っているが、しかし彼らをしても状況に追いつく事がやっとの事で実質大本の吸血鬼の正体を捉える事も出来ない状況であった。

 

 決して彼らが無能なのではない。秘密裏に動かざるを得ない行動の制限を始め、遠野と牽制し合い情報の取得に苦心する彼らである。手段を選ばなければ、この街一つ殺菌消毒を行う事ぐらいは容易い。何も知らぬ人命を切り捨てて、街を消し飛ばす事で他への被害を抑えるという大義名分は振りかぶれる。しかし、それを行ってはならないのである。古くから政府の闇に属し保障されてきた退魔が、国民の命を切り捨ているなどあってはならない。世界大戦を二度経験し、周囲に戦火を振り撒いた国でそのような決定はあってはならないのだと政府の指針は定めっている。過激な発言は挙って潰され、消極的な態度も批難される国では変革の少ない現状維持こそ国是だった。その肯定が国民の意思は別として。

 

「七夜朔。実在するのか」

 

 事実を確信するかのように、誰かが呟く。恐らく賛同か、あるいは否定を期待しているのだろう。だがその声に反応する者はいない。

 

 皆、中央が七夜朔の情報を制限している事を周知している。それが何故なのか詳細までは知らぬが少なくとも七夜朔が存在し、劇薬であることを予想していた。その容姿も、その手段も情報はない。

 

 誅戮のためではなく、ただ魔であるがために殺害する生粋の殺人鬼。七夜を復権させた鬼神七夜黄理の後継。使い勝手によって猛毒にも神薬にもなる気鋭の鬼札。

 

 それが中央に類さない退魔の間に流れる七夜朔の情報であった。

 

 その七夜朔がこの三咲町にいる。

 

 情報を鵜呑みするならば、現状を優位に働かせる事もできるかもしれない。

 

「厄介だな」

 

 情報の詳細も知れぬ劇薬など使える事もできない。しかも、正体がつかめないのだから協力も行えない。なれば共闘など叶えるはずもなく、しかし勝手に現われては惨劇だけを残して亡霊のように消える存在である。七夜の生き残りだと考えれば、暗殺者であることは想像がつく。人伝に聞く数々の仇名にもそれを予想させるものはある。他の地区によれば、マンション一棟に住む住人すら虐殺せしめたと聞く。使い所が難しい所の騒ぎではない。情報の隠匿も楽ではないのだ。

 

 到来は予想されども、惨状を最低限に抑えきれぬなど。

 

「いや、災厄か」

 

 自身の思いつきに、女性は皮肉に笑みを零す。冷笑は車内を凍らせるには充分であった。

 

 災厄の七夜。

 

 なんだ、それは。

 

 まるで出来の悪い喜劇ではないか。

 

 かつて混血を恐怖の底に叩き込んだ七夜黄理の後継であるだけでも冗談のようであると言うのに、無秩序に殺害を重ねる七夜など笑い話にもならない。周囲を振り回して、立ち去った跡には死体だけが残される。七夜の体現と称される実力を存分に振り翳して猛威を揮うなど、災厄でしかない。

 

 それを証明するように、彼らは七夜朔が倒した死者がいるとされる現場検証に向かっているのである。もしかしたら輪禍の根源である吸血鬼なのではないかという少量の期待と、予想される結果の多分な諦観を持て余しながら。

 

「到着しました」

 

 そして彼らは報告にある工事現場へと到着した。意気も漫ろ(そぞ)に白い布の内側へと入り込んでいく。工場現場は天蓋が切り開かれた構造だからか、風が渦巻いて星の見える黒の空へと空気が僅かに立ち上げていた。滑る風が些か不愉快で、女は髪を押さえつけた。

 

 内部を散開する退魔を横目に、女は足を進ませる。柱が乱立し、鉄骨が到るところに設置された空間である。

 

「七夜からすれば、狩場もいいとこだな」

 

 決して狭くない、開けた空間である。しかしその周囲は布に覆われ、閉じられている。内部は鉄骨が様々に設置されていた、端的に言えば骨組みしか作られていないこの場所は檻のようであった。こんな場所、暗殺集団である七夜からすれば絶好の狩場である。

 

「これは……なるほど。心臓か」

 

 女の視線の先、コンクリートに舗装された滑らかな路面、工場現場の中央部からは離れたその地点には、咲き乱れた花弁のような紅の色素が散らばっていた。月明かりもなく、その赤色はただ地面を濡らしている。

 

 確かに、ここで殺し合いにも似た一方的な狩猟が行われていたようだ。

 

「しかし、何故内蔵が未だある?」

 

 死者の死とは消滅である。その肉体の名残は消えるのが常だ。元から生きていない死者が死体を残せるはずもなく、肉は灰と化して塵に消える。太陽に背き、日の光から嫌われた者達には相応しき無残な末路だ。

 

 だが、今女の目前には内臓の破片が残されている。

 

「死者ではない。しかし、存命の吸血鬼か?……一体何だ?」

 

 唇に人差し指を添えて考える。標的はどういう存在だったのか。

 

 人間、では無いはず。工場現場には幾重かの血痕が見つかった。そして、そう遠くない場所に設置された自動販売機が破壊され、その近辺には少量の血が発見されていた。まず普通の人間が標的ならばまずそこで死体となっているはずなのだ。

 

 死者でもない。死者ならばその肉片が残っているはずが無い。粒子のような塵が散る事無く残されたのならば話は別であるが、それでも肉があるはずがない。

 

 吸血鬼も論外だ。彼らは死者が時間を経た結果である。ならば、その最期の様(ざま)も同じであろう。死んでいない、とならばまた別だが。

 

 では、一体何だ。

 

「……知らぬ間に、違う魔が出現したか?」

 

 相変わらず、情報が少ない。判断材料が少ないのだ。

 

 残された肉片。人間か、はたまた存命する吸血鬼の残骸か。

 

 推論では動けない。退魔もまた組織。動く事にも瞬発力がない。しかし、これが七夜朔の所業であると、確信ではないが判断の要因が取得出来たのは上々だろう。問題が多い現状。そうでも思わなければ、あまりに遣る瀬無い。飛び越した発展の得られない現場検証に歯噛みする衝動を抑える。何事も儘ならないものなのだと、納得しなければならない。短くない時間を退魔として生きた女には、耐える事は慣れている。

 

「現在の調査報告を聞かせろ」

 

 それでも零れる溜め息を吐きながら、女は散開する他の退魔に声をかけた。

 

 やる事は多い。情報操作、現場の清掃、破壊された物品の再設置。無駄に増える仕事に七夜朔が目の前にいたらどうしてやろうかと想像することで女は内心のさざれを抑えた。

 

 そしてあらかたの調査を終えた退魔は、一つの結果を知る。

 

 

 死体は、何処にも無かった。

 


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