七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 握る掌は冷たい。

 まるでこのままずっと冷たくなっていって、そのまま全ての熱を失っていくようだった。

 その危うげな冷たさに、そんな険しい現状に心が凍ててしまう。

 だから今はこの手を握ろう。

 少しでも、温かくなるように手を握ろう。
 
 私の熱を、貴方にあげます



第六話 人殺の鬼 Ⅰ

 これが夢だと、直ぐに気付かされた。

 不定形であやふやな意識。これが幻であると、全くもって分かった。

 感触がない。匂いを感じない。息遣いが自分のものではない。体が自分のものではない。意識だけがそこにあるような感覚。

 それに、そうでなければ自分が納得いかない。

 だって、そうでなければ、本当に困るのだ。

 

 ――――藍色の和装。違和感のない隻腕。

 

 ざんばらに伸ばされた黒髪の隙間から、虚空を思わす蒼の瞳。

 連続殺人の犯人が、あの時弓塚さんと出会った人殺しが、当たり前のようにそこにいる。

 

 それを受け入れがたいと感じて、これは夢なのだと無理矢理自身を収める。でなければ、こんなに意識は客観できない。傍観できない。俯瞰できない。何も出来ない。だから、妙に冷静なのは、そうやって自分を押さえつけることで、この夢を何とかやり過ごそうとしているからだった。

 

「―――――ハ―――ハ―――ハ――」

 

 どこからか荒い息が聞こえる。それは今にも途切れてしまいそうな荒さで、それでも呼吸は強引に行われていた。しかし、呼吸では沸き立つ肉体が押さえきれない。

 

 熱い。けれど冷たくて、寒い。

 

「――――――――」

 

 左の脇腹に違和感。触れる。血が、零れていた。

 

 相反する温度を感じる。体の奥底から煮えたぎる熱さと、それを凍らせる寒さ。この反発が鬩ぎあっている。肉体が混乱している。

 

 日本刀。あの時見た、鞘の中身。男はその口元に刃毀れした日本刀の柄を咥え、陽炎のように揺らめき佇んでいる。藍色が陽炎に見えたのは、黒い蒸気を噴出させる日本刀のせいだろう。それこそ夢であると裏付ける、理解できない現象だった。

 

 その瞳。その瞳は何も見ていない。ただ、深い蒼は全てを映し出しているかのよう。

 

 冷たい。骨の髄まで冷たくなっていく。空気が冷えているのではない。

 けれど、その色は、蒼い瞳の奥に映るそれは。

 超越的な意志を瞳に湛え、それが形となったような――――。

 

 ――――そして、場面は動く。

 

 視線が動く。ありえない加速が体を震わせた。真っ直ぐに、藍色へと突撃する。潜り込むように体を沈ませる。体の昂り、肉体の限界を考慮していない筋肉の動き。

 

 瞬き一つも許さない疾さ。

 臍下まで沈んだ体は、相手の視線を掻い潜るかのように、飛び上がった。

 

 さながらそれは海面から跳ね上がる魚類の動き。肉体の酷使に太腿の血管が爆ぜる寸前だ。

 

 しかし、それは相手の意識を剥がしたも同然の動き。不意をついた動きは、死角からの襲撃を可能とさせ、そのまま藍色の命へと赤の爪は伸びて――――。

 

「―――――――っ!?」

 

 藍色の姿が爪の触れる寸前、消えた。

 霞の如くに、その姿はその場から消えうせた。

 元から其処には誰もいなかったように、影もなく 跡形もなく。

 

 音があまりに遠い。壁越しに聞こえる物音を耳に聞く感覚。

 

 音のないなか、藍色は何処に消えたのかと、瞬時に辺りを見渡すが、探す色はすぐさま見つかった。

 

 後方。五メートル以上は離れたその場所に、藍色はいた。

 

 目に映る藍の背中。背中。背中。背中。

 

 砂嵐。砂嵐が映る。映像が刹那ぶれる。

 

 奥歯を噛み砕かんばかりに歯軋りし、そのまま飛びつこうとした瞬間。

 

「―――――――――」

 

 それが見えた。

 

『ひひ、ひ!残念ダったなア』

 

 金属音。全てを嘲う金属の軋み。意識が蒙昧であっても、その耳障りな音は不快なまでに聞こえる。

 

 藍色。

 

 その右手に、なにかがある。

 

「――あ―――――」

 

 藍色の肌に、赤が伝う。背中を見せる藍の右手。

 

 塊に見えた。それは肉の塊だった。

 

 張りのある表面に赤色の管と青色の管が走っている。柔らかな肉感は繊維は赤く赤く、黒く黒く。赤い塊は、その掌に収まりながら、それでいて指の間から余る肉がはみ出して。引き千切られた血管は力なく垂れ下がり、そこから赤が漏れ、鼓動はなく、脈動もなく、ただ赤く在り、赤は流れ――――。

 

 思わず、視線は外され、胸元を見る。傷がない。目に見えるような傷はない。

 しかし、その肌の隙間から、赤が滲み、紅は侵し。次第に肌は赤くなっていく。

 

 そこは胸の中心。骨の隙間。肉の間隙。

 

 ――――心臓を、抜き取られた。

 

「あ、ああぁ」

 

 声が、零れる。赤と同じように。

 そしてそのまま、藍色は見ている先で、見せ付けるように心臓を握る。

 

 明確なまでに殺された。

 視界は明るい。けれど、意識が揺れる。

 

 そのまま、心臓を奪い返したくて、走り出そうとする。

 

 しかし、藍色はその行動を知る由もなく、心臓を握りこむ掌に力を込めていく。ぎちぎちと、次第に指の間からはみ出る肉が膨れ上がる。未だ中に収められた血液がこぼれ出る。圧迫。握る。潰す。

 

「―――――――――――」

 

 やけにそれはクリアに見えた。

 

 破裂する。肉が圧力に耐えかねて、握り潰された。

 肉は搾り取られるように潰された。

 

 それを、呆然と、見。

 

 死を見。

 

 死を。

 

 死。

 

 死。死。死。死。死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死―――――――――――――――――――――■■■■■■■■■■■■■■■■あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!??」

 

 殺さ■た。

 

 ■された。

 

 殺された。

 

 ■■■■。

 

 俺は殺され、殺さ、ころ、殺された。俺が殺された。俺こそ殺された。俺が殺された。俺は俺は俺は俺は殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された俺が、俺は、俺こそ、俺、が俺が俺が。

 

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 

 死が起きた。死は起きた。死こそ起きた。

 

 俺は何処だ。何処にいる。これは夢か。現実か。いや、現実なんてどこにある。現実はいつだってここではなかった。

 

 喉からあらん限りに迸る悲鳴は、最早声ではなかった。ただの音に過ぎなかった。体を覆う何かを握りしめる。強く、強く、強く。

 

「ああ、ああああっあああああああぁぅうあああああああああああああ―――――っ!!」

 

 殺された瞬間、死を理解した。死を理解した瞬間、殺された。

 

 息が苦しい。呼吸が辛い。胸が痛い。ただ悲しい。気持ちが悪い。きもちがわるい、キモチガワルイ。

 

「――っ――!―――」

 

 心臓はあるのか。心臓はまだ動いてくれているのか。分からない。分からない。

 

 孤独。

 

「――――――――ま―――――――っ、―――――――!」

 

 刹那的な喪失感。それはどこにもなくて、だからこそ辿り着けないはずなのに、しかし連れてかれてしまう。持っていかれる。運ばれてしまう。取られてしまう。奪われてしまう。盗まれてしまう。この、命を死へと。

 

 瞬間感じたあの感覚。

 

 それはまるで、あの時のような。

 

 砂嵐。砂嵐。砂嵐。灰色の嵐が、体を攫い、視界を覆い、聴覚を巻き込む。乱雑な錯綜。有形無形が雑多なものと化し、意味を失った。

 

 それは、なんて、死―――――――。

 

「―――――――――き――、し――――――! ――?」

 

 何処からか、悲鳴が聞こえる。

 

 幼子の、母とはぐれて途方に暮れる迷子にも似た、悲鳴が。

 

 何処だ。何処だ。

 生は何処だ。

 

 布を握り潰す手を、誰かが握っている。温かい。

 

「し――――さま! ――し――きさま! 志貴さま、気を確かに!!」

 

 嗚呼、この声は知っている。

 この声を、俺は。覚えている。

 

「――――――ひ、すい―」

 

 慟哭の声音に、生命の温度を耳にした。

 

 泣き叫ぶような声を上げる翡翠。その悲痛な叫びを頼りに、死から逃亡する。囚われる前に、逃げ出す。我武者羅に、遮二無二に。無に取り込まれる前に、少しでも早く。泳いで、走って、飛んで。少しでも遠くへ。

 

「っ! そうです、翡翠です! 使用人の翡翠です!! しっかりしてください! 今姉さんが来ますから!」

 

 衰弱する一方の俺に、翡翠は泣きそうになりながら声をかけてくる。その何て力強さ、翡翠の言葉は眩しく、俺を導いてくれる。

 

 砂嵐。

 

 砂嵐を乗り越える。気持ち悪さを退けて、翡翠へと、命へと向かう。

 翡翠の掌の温かさ、生の強さを頼りに、言葉を指針に砂嵐を越えて。

 

 視覚が回復する。

 

 そして。

 

「―――――――――――――――――――――!!??」

 

 ――――最初に見えたのは、死だった。

 

 線が、線が、到るところに見える。ハッキリと、黒く、その存在は髪の毛並みに細いながらに自己主張している。天井が、壁が、家具が、布が、モノが、肉が。黒い線で描かれている。それは罅割れにも似た線で、ただ亀裂だった。そう、こんなの、前から見えていた。見えていたはずなのに。

 

 それが以前よりも、ハッキリ見える気がして。

 

 思わず、手を覆う翡翠の掌を掴む。

 

「志貴様っ!私は、ここに……っ!」

 

 翡翠の呼び掛けに、俺は、翡翠を見た。

 

「あ、―――――――ああ――――」

 

 悲鳴にもならず、絶叫にもなれず、恐れにもならず、音は漏れるだけだった。か細い声音は、力を失った。

 

 翡翠、翡翠がいる。

 

 けれど、線が見える。

 

 ――――線が、視える。

 

 翡翠の体に亀裂が走っている。

 

 見える。翡翠が、崩壊する線が見える。視える。見える。観える。バラバラになる線が。翡翠が、分解する線が。

 

 キモチガワルイ、キモチガワルイ、キモチガワルイ。

 

 キモチガ、ワルイ。

 

 胃液がこみ上げる。

確かな吐き気。

許容しがたい異物感。

 

「げ、えぁ。あ、が――――あぁえあがぁああっ!!」

 

 吐いた。反動的に上体を起こし、逆流する胃液が喉を焼いて吐き出される。昨日の昼から殆ど何も食べていないのだから、出てくるものは胃液ぐらいだった。口内から零れる酸味の効いた苦さは、どうしようもなく不味かった。 

 

「志貴様!?姉さん、早く来てください!志貴様が――――志貴ちゃんが……!!」

 

 突然吐き出す俺に翡翠は慌てふためきながら、己の信頼している姉の名を叫び、ひたすら俺の背中をさすり続けてくれた。

 

 □□□

 

「んー?じゃあ今日遠野はこれないって事ですか?」

『そうです。ちょっとお加減がよろしくないようでして』

「あー、あいつ体ちょいと弱いっすからね。んじゃよろしく伝えといてください」

 

 そう言って、乾有彦は受話器を置いた。

 

「それで、遠野くんは大事無いのですか乾くん?」

「そうらしいっすね。体調崩して寝ゲロしたらしいんですけど、今は落ち着いてるとか」

「ね、寝ゲロですか……」

 

 もっと言い方はあるだろうに、とシエルは若干口元を引き攣らせた。

 

 場所は高校の校舎。職員室の近くである。

 

 今朝方、有彦は学校へと辿り着いてから志貴は今日休むという連絡を教師から聞いたのである。確かに志貴は元から体が弱い。学校にて貧血を起こすことなどざらで、有彦自身気分を崩した志貴の対処を何度も行ってきた。彼自身は不良と呼ばれる部類の人間であるが、其処のところは面倒見が良い。小学から何かと仲良くしてきた相手というのもあるだろう。波長が合う、というか志貴と有彦は在り方が似ていて、同類であるからだった。

 

 しかし、だからと言って休みの志貴に電話をいれるほど、有彦は志貴相手に気を使っているわけではない。それなりの理由がある。

 

「しっかし、弓塚も休みらしいし。偶然か?」

「確かに、ちょっと気になりますね」

 

 クラスメイトであり、比較的仲の良い弓塚も本日は休んでいる。理由も体調不慮らしいあの二人が同時に学校を休んだ。珍しいと言うよりも奇異である。もしかして狙って同時に休んで、そのままランデブーなんかしてんのかあいつらはと、勘ぐった有彦は取り合えず一時限をサボり遠野の家へと電話を入れた次第である。

 

 すると何故かシエルがいたので、そのまま志貴の様子を聞くことにしたのである。

 

「まあ、もしかしたらそのままどっか遊びにいってんのかもしれないですし」

「あ、二人はもしかしてそんな関係でした?」

「ああ、違います。先輩は知らないんすか?弓塚のやつ、遠野にホの字なんすよ。んでも付き合ってる訳じゃないんすけどね。遠野は弓塚がそうだって全く気付いてないし」

 

 鈍感と言うか学友とは少し距離をおき、それでいてズレタ志貴と、いざと言う時に踏み出せない弓塚。相性としては最悪である。もしかしたらはあるのかもしれないが、その確立は低いだろう。

 

「なるほど。言われてみれば弓塚さんと遠野くんって、温度差があるような、壁があるような気がしますね」

 

「やっぱそう思います?」

 

「なんとなく、ですけど」

 

「全く、遠野も人が悪いって。あいつ、そういうの興味持とうとしないんすよ」

 

 やれやれ、と首を振る。

 

 今この時授業が行われている校内では二人以外の人間は廊下に出ていない。廊下には教室内から届く授業の物音と話し声、側にある職員室の物音が聞こえるくらいで、閑散とした廊下に二人の話し声は良く響いた。

 

 しかし、この話はもういいだろうと、切り上げようとした有彦の顔に影がかかった。

 

「それって、どういうことです?」

 

 シエルの顔である。斜に構える有彦を真っ直ぐにシエルは見つめてきた。その少しばかり興味を傾けた瞳の色に有彦は、苦笑しながらも口を開く。

 

「なんつーか、あいつって人から離れてんですよ。周りに迷惑掛けないってか、俺の場合俺がそうしたいから一人でいるんすけど、遠野の場合気い使いすぎで、いつの間にか離れてるんですよ」

 

 端的に表して不良の有彦と善人のような見かけである志貴の共通点はそこにあった。そもそも二人の出会いは小学校にまで遡る。その時有彦は志貴を見て、こいつは仲良く出来ない人間だと思ったものである。子供ながらの嗅覚とでも言うべきか、気の合う合わないをあの時有彦は身につけていたのだが、それが発揮されたのは志貴にも同じである。ただ、今もこうして親しくしているのは、二人が同じだから。

 

「一人でいる理由が違うんです。俺は俺のため、遠野は周りのため、みたいな。……直接聞いた訳じゃねえんですけどね。匂いってか、勘ってやつで」

「遠野くんにはそうする理由があるんですか?」

「どうだろ、正直理由はいろいろと思い当たりますけど、体が弱いだとか、家の事情がややこしいだとか。んでもこれといって直接的な理由はわかんねえっす」

「……そうですか」

 

 眉間に若干の皺を寄せてシエルは暫し考えるように唇に手を当てる。そして有彦はそんなシエルを見ながら、苦笑いを張り付かせた。

 

「ってか、興味あるんですか?こんな話」

「そうですね、少し興味があります」

「んな、弓塚といい先輩といい、何であいつに……」

 

 頭部をガシガシと掻きながら有彦は疑問の表情。一人の人物に関してあれこれと本人のいぬ間にするのは良くないとは、有彦は全く思わないが、少なくともこれほどまでの関心を示すのだから何かしら志貴の事で琴線に触れたのではないだろうか、と勘ぐった。

 

「ぬぐぐ。こうなったらアイツ一度とっ捕まえて尋問しねえと」

 

 そうして苦悶と共に何やら危ない考えを抱き始める有彦に、シエルは呆れと共に少しの羨ましさを顔に滲ませた。柔らかさの中に、僅かな引っ掛かり。それが気になって、有彦はシエルに声をかけようとした所で。

 

 ―――チャイムの音が校舎に響く。

 

 人のざわつく話し声が聞こえてきた。廊下が少し騒がしくなる。そろそろ授業終了時刻だった。そぞろに増える学生の姿に、何だか有彦は自分が聞こうとしたことがどうでもいいようなものに思えた。

 

「あら、もうこんな時間になりましたか。そろそろ授業に行きませんとね。それじゃ乾くん、ちゃんと授業受けましょうね」

「あ、ああ。んじゃ先輩」

 

 そう言って、シエルは気さくな笑みを浮かべながら離れていった。

 

 有彦は背中を見せながら離れていくシエルに、どうしようもない違和感を感じ、そして呟いた。

 

「んでも、なんであんな事話したんだ?俺」

 

 何かがスッと、有彦の心の重心を傾けた。今になったその自身に働いた不可思議に、有彦は首をかしげながらも、自身の教室へと向かうのだった。もちろん寝るためにである。

 

 □□□ 

 

 取り替えられたシーツの中に苦しみ呻きながらも気絶したように眠る志貴を、琥珀は見つめていた。

 

 志貴の額には汗が吹き出て、翡翠は甲斐甲斐しくも湿らしたタオルでそれをふき取っていく。その顔に張り付く心配の色は消えていない。むしろ時間が過ぎるほどに増しているような気さえする。視線の先志貴の眠るベッドの側、翡翠の隣には秋葉が膝をつき、苦しくも息をする志貴の手を握りしめていた。

 

「兄さん……」

 

 志貴の手を握る秋葉の手は白い。しかし、志貴の肌の色も秋葉と同等かそれ以上の白さを見せていた。まるで死体のようだと琥珀は思った。血の気の引いた肌の色は、心臓の鼓動を停止させた死者の肌だった。

 

 今朝方、志貴の絶叫が朝の執務を行う秋葉とそれを手伝う琥珀の耳をつんざいた。決して人の多くない屋敷内には、志貴の悲鳴はひび割れ響いた。断末魔の如き叫びは秋葉の体を突き動かすにはあまりに充分だった。そして二人は瞬時に動き出した。秋葉はもしものために琥珀に救護用品と薬をありったけ用意させ、すぐさま志貴の部屋に駆け寄った。そして扉を突き破るように室内へとなだれ込んだ秋葉が目にしたのは、嘔吐を繰り返す志貴と、憔悴しながらも懸命に志貴の背中をさする翡翠の姿だった。

 

 現在志貴は琥珀の応急施術により一応の落ち着きを見せ、取り替えられたシーツの中で眠りについている。しかしどうしたものかと、琥珀は冷静な思考で捉えていた。

 

「琥珀。今日になれば、落ち着くんじゃなかったの」

 

 志貴の手を握りながら、秋葉は言う。その表情は琥珀には見えない。しかし、表情が苦虫を潰したようなものになっているのだろう、と琥珀は推測。

 

「はい。診察した限りではそのはずなんですけれど――――」

「じゃあ、どうして兄さんは。……兄さんはどうして、こんなにも!!」

 

 苦しんでいるのだろう。

 

 それは言葉にならなかった。音にもならぬ秋葉の悲嘆を琥珀は聞いた気がした。

 

 昨夜行った診断の段階では、志貴は既に回復の段階に入っていた。元々精神的な問題であり、繊細なアプローチが必要なのかも知れないが、琥珀が聞く限りでは志貴は問題を認める段階には入っていた。あのまま捉えようともせず、逃げ出して内側に溜め込むことも出来ただろうが、あまり溜め込むのは良くないと判断した琥珀は志貴に働きかける事でそれを自覚させた。

 

 もしかしたら、アレが良くなかったのかもしれない。志貴の肉体は健康とは程遠い。故にアレによって肉体に何らかの悪影響が発生する可能性もあった。

 

 しかし、あの段階ではアレが琥珀のベストだった。襲い掛かる苦痛に歪む志貴の顔はなんとも情けなかった。その情けなさで回復の兆しに差し掛かるのだから、安いものであろう。

 

 だから、声を荒げた秋葉が求めるような答えを琥珀は所持していない。心辺りはいくつかある。しかし、それを琥珀が言うつもりはなかった。

 

「わかりません」

 

「わからないって、貴方兄さんを診たのでしょうっ! だったら何かあるはずじゃない!?」

「確かに私は志貴さんを診ましたけど、あの時はアレ以上の成果は認められませんでしたし、だから私としましてはアレ以上の事は分からないんです」

 

「見落としはなかったの?何か重要な事が見れていなかったんじゃないかしら?」

 

「私が行ったのは問診です。ちゃんとした設備を使って見ることもなくはないですけど、あの時は私の目からしても、あの事以外に志貴さんの負担になるようなことはありませんでした。秋葉様だったら何か分かるんじゃないんですか?」

 

「……」

 

 あくまで淡々と対応する琥珀に秋葉は志貴の手を握りながらも苛立ち混じりの視線を寄越すが、琥珀には通用しなかった。しかし、琥珀の口にするあの事に心当たりがあるからか、それとも秋葉自身分かっていないのか、口を閉ざす。それほどまでにあの事は、秋葉にとって軽視すべきものではない。それを知っているからこそ、琥珀は秋葉の気持ちを悟っていた。

 

「あの」

 

 一瞬生まれた室内の空白に、翡翠の揺れる声が入り込んだ。

 

「志貴様は、大丈夫なんでしょうか」

 

 息苦しくも眠る志貴の顔を一心に見つめながら、翡翠は答えを求める。だが、秋葉には何も言えない。原因は分かっているのだ。それを断たなければ、何も変わらない。

 

「取り合えず今は落ち着いています。衰弱していますけど、それ以外には主だった変化は見えません。けれど、よかったです。不幸中の幸とでも言いますか、寝ゲロ「琥珀」……寝ながら嘔吐していたら吐瀉物が気管を塞いで窒息していた可能性がありましたし、直ぐにでも起き上がって吐いたのはナイスな判断でした」

 

「翡翠が兄さんを起き上がらせてくれたの?」

 

「いえ……私は何も、出来ませんでした」

 

 翡翠の表情に悔恨の色が浮かぶ。しかし、翡翠が何も出来なかったわけではない。翡翠は苦しむ志貴の手を握りしめ、懸命に声をかけ続けていたのだ。琥珀や秋葉には室内に入りこんだ時には、取り乱しながらも志貴の名を呼び続ける翡翠がそこにはいたのだから、何も言えない。

 

「……翡翠、兄さんはどんな感じだったの」

 

「はい。……志貴様を起こそうとお部屋に入ったのですが、眠りながら志貴様は魘されていたようで、それで、私どうしていいのかわからなくてお声をかけたのですけど、そしたら志貴様が突然叫びだして」

 

「悪い夢でも、見たのでしょうか?」

 

「分かりません。けど、苦しんでいる志貴様を見てられないから、私、志貴様に声をかけ続けていたら、突然、目を開いて、私を見たとき、何かに取り付かれているような目を為さっていて。次の瞬間には吐いてしまわれました」

 

「……分かったわ。ありがとう、翡翠」

 

 秋葉の礼に、翡翠は力なく首を振った。実際翡翠は無力感に苛まれている。苦しんでいる主人を前に、翡翠はその苦痛を取り除く術を持っていなかったのである。それを仕方のなかったことだと、割り切れるほど翡翠は人間が出来ていなかった。そんな翡翠を見ながら、琥珀は苦笑を漏らしたのだった。

 

「でも、何かに取り付かれたようにって。兄さんは何を見たのかしら」

 

「んー、案外夢の続きだったりするかもしれませんよ?起き抜けに脳が混乱して夢なのか現実なのか分からなくなるような」

 

「……実際に兄さんの話を聞かなければ、何も分からないわね。琥珀、それに翡翠。今日は学校を休むわ」

 

 それは唐突な言葉ではあったが、琥珀と翡翠にはそれが自然に思えた。

 

「よろしいのですか?」

 

 しかし、それでも琥珀は聞かなければならないのである。秋葉は遠野のトップでありながら、未だ学生の身である。やるべき事は多く、見なければならない報告書はごまんとある。ただ、それでも。

 

「構わない。それにこんな時でないと兄さんと長くはいられないから」

 

 家族と言っても互いにそれぞれの人生があり、それは二人が共に過ごす時間をとことん奪っていった。今となっては秋葉は遠野グループ総帥であり、また県外の高校へと通う身である。本来ならば、寮に入る事が原則的なのだが、ただ兄と共に過ごしたいから少しでも多くの時間を確保したかった秋葉の努力により、秋葉は特別に自宅からの通学を許されたのだった。

 

「かしこまりました。それでは学校へは志貴さんとご一緒に一報入れときますので」

「ええ」

 

 懸念は募る一方であり、それを拭える一考に志貴の回復を待たなければならない。志貴の事は、心配だった。秋葉は昨夜琥珀に言われ屋敷を離れなかった事を正しかったと認識し、今この場に入れる事に少しの安心を覚えたが、それは増す不安に押しつぶされるばかりで、ただ秋葉は志貴の手を握りながら、言葉を紡いだ。

 

「早く目覚めてくださいね、兄さん。秋葉はいつも兄さんの心配ばかりしてるんですよ」

 

 その顔は憂いを湛えながらも、僅かな苦笑を浮かべるのだった。

 

 そんな秋葉を見つめた二人は互いに見つめあった後、琥珀は笑み、翡翠は頷いて部屋から退室していった。

 

 □□□

 

「それじゃ翡翠ちゃん。秋葉様のスケジュールを見直しておいて。私は志貴さんの学校に電話をしておきます。今日は志貴さん寝ゲロしたので休みますって」

 

 退室した後、二人は歩きながらもそれぞれ今日の予定を確認していた。秋葉が学校へと赴かないのであれば、そのスケジュールも整合しなければならない。遠野の中心は言わずとも秋葉である。そして普段秋葉は県外への高校で学んでいる事から、その時間帯を拘束されている身だった。緊急の事態が起これば解放される事になっているが、そのような事にならないよう秋葉は執務をこなしている。しかしそれでも当主として動く時間は短い。その為秋葉は寝る間を惜しみ、朝早く起きる事でそれを解消している。

 

 だが、今日は別である。秋葉は恐らく一日中いるのだからその分だけ仕事を行える。故に仕事を一息に終わらせてしまおう、と琥珀は画策しているのだった。

 

「はい。私は館内の清掃などを。姉さんはどうするの?」

 

「取り合えず時南先生の所に行ってみて相談しようかと思ってるんだけど。と言うか翡翠ちゃん寝ゲロはスルーですか」

 

 いつの間にそんなスキルを、と琥珀は若干の驚愕を覚えるのだった。

 

 時南は琥珀がかつて世話になった医学の師匠である。全うな医者ではないが腕は確かであり、そこで琥珀は医療の知識を身につけた。先代当主の方針だった。薬を調合する腕も姉弟子に学び、今でも参考になることは多いだろう。

 

「わかったわ姉さん。いつ頃行くの?無視なんてしてません」

 

「そうですねー、あんまり早くても相手にされないでしょうから昼頃に行ってみようかしら。それまでは屋敷の事もやっておくから安心してね?くれぐれも私のいない所で料理しちゃ駄目よ?そう?だったら嬉しいわ」

 

「分かりました。料理に関しては頷きかねます。ただ何を言っても無駄だと思うので」

 

「ちょ、翡翠ちゃん酷い」

 

 よよよ、と琥珀。そんな何気ない遣り取りが、二人のスタイルだった。琥珀の口調は明るい。自分を元気付けるためだと、翡翠は考えるまでもなく分かっていた。

 

 翡翠は姉である琥珀を大切に思っている。双子だから、というのもあるが、感情表現を得意としない翡翠の代わりに琥珀は良くしてくれていた。それを申し訳ないと思うのは、仕方のない事だろう。けれど、それでも琥珀の仕草を見ていたら、翡翠はほんの少しだけ険の取れた表情となるのだった。姉は偉大だとつくづく思う。

 

「あ、それと時南先生に行ったら少し帰ってくるの遅くなるかも」

 

 それを聞いて、積もる話もあるのだろうと、翡翠は一人で納得した。ならば動かなくてはならないと、翡翠は自分がすべき事を考え始める。今現在、未だ朝である。やるべき事は多い。実質三人で今の屋敷は動かされているので、一時の停滞は回避すべきである。時間の出血はよくない。と言っても、翡翠は清掃などの雑務以外は行えないのが現実だ。やはり人手不足である。翡翠しか館内の清掃、書庫整理を行える人物がいないのが現状だった。故に翡翠は今日の日程を脳内で構築させていく。

 

 だが、その思考の連続には必ず志貴の姿が見えた。

 心配だと、心から思う。

 

「姉さん。志貴様は、大丈夫なの?」

 

 それは先ほども聞いた事だ。けれど、やはり心配なものは心配なのだ。

 琥珀は翡翠のそんな姿を見て、仕様のない子だと柔らかさを笑みに馴染ませた。

 

「多分大丈夫。一時軽いショック状態にまで行ったけど、今は回復に持ち込んだ。楽観視は出来ないと思うけれど、でもそこは翡翠ちゃんの出番よ」

「私の?」

 

 いきなり自分が話しに出てくる事で、翡翠は目を見張る。

 

「そう。志貴さんが苦しんでいるなら側にいて、それで助けてあげなくちゃ」

 

「……でも、どうやって」

 

「苦しんでいる時、誰かが側にいるだけで安心できるのよ。手を握ってくれる人がいるだけで、それで充分。あとは何をしてほしいのかとかを気を使って見抜く事ね」

 

「……でも、秋葉様が」

 

「ううん。秋葉様だけじゃなくて翡翠ちゃんもいなきゃ。それに身の回りのお手伝いをするのが翡翠ちゃんのお仕事なのよ。二人で支えないとね、病気の人は不安になっちゃうものよ」

 

「……」

 

「それにしても、志貴さんは本当に大切にされてるなあ」

 

 ね、と琥珀は笑んだ。

 

 あまりに自然な笑顔だった。

 

 そのあまりに自然な笑顔に、翡翠は何も言えなくなった。

 

 □□□

 

 一人。

 それを自覚する事がある。

 

 琥珀は現在屋敷内の庭に広がる落ち葉を愛用の箒にて掃いていた所だった。太陽は朝を温めてから天上へと昇り始めている。日差しは柔らかく、それでいて不快でもない。洗濯物も大いに乾くだろう。今頃は翡翠が今朝方洗われた洗濯物を干しているかもしれない。

 

 時刻は昼に差し掛かろうとしていた。朝の慌しい一面から離れ、何気ないいつもの時間が過ぎていく。

 

 違いがあるとすれば今の時刻に屋敷内に秋葉がいる事。そしてこの屋敷の長男がいる事だろうか。

 

 二日前、勘当扱いを受けていた遠野の長男、志貴がこの屋敷に戻ってきた。

 

 先代当主が亡くなり、当主の娘である秋葉が当主となってから決められた事だ。先代当主が決めた事を変えてもいいのかと、屋敷に住む親戚たちが抗議を行ったものだが、秋葉はそれを実力にて叩き伏せ、正論によって自らの主張の正当性を述べ、それでも反感を抱く者共を追い出すと言う強引さで志貴を屋敷へと連れ戻した。かなりの無茶だった。

 

 それでも志貴と暮らしたいと言う秋葉の願いの強さを推して然るべきだろうか。

 

「まあ、私もお手伝いしたんですけどね」

 

 誰にともなく、琥珀は呟く。

 

 秋葉の願いを叶えるため、琥珀は色々と手回しを行ったのだ。渋る親戚の身辺を調べ秋葉に渡し、秋葉には言えないような手も使った。

 

 元々、親戚と秋葉の仲は悪かった。それゆえ秋葉は当主となり、徐々に親戚を追い出していったのだ。それが加速した原因が志貴であった。

 

「本当、秋葉様は志貴さんを大切にしていらっしゃいます。大切というよりも、いなくなる事を怖がっている感じでしょうか」

 

 琥珀は見逃さない。長い間屋敷で暮らした相手である。それを琥珀が分からないはずがない。故に琥珀は秋葉の願いを叶えた。秋葉の願いを叶えるためにさり気無いバックアップを行ってきたのだ。

 

 それが功を奏し、今志貴は遠野にて過ごしている。秋葉は今の生活を良しとしているし、翡翠も嬉しそうだ。琥珀としても手伝った甲斐があるというもの。

 

 しかし、その秋葉が果たして何故其処まで志貴に固執しているのか。琥珀には何となく察しがついている。秋葉は喪失を嫌う。自分のものがなくなる事を恐れている。殊更心を許すような相手に恵まれなかったのもあるだろうか。幼少から回りは大人だらけで、遠野に相応しい人間になるように言われ続けたと聞いたことがある。それゆえにいらないものばかり押し付けられて、本当に欲しいものは中々手に入らなかったのだとか。

 

 だが、それも今となっては志貴と共に暮らせているのだ。その志貴も今の暮らしをどう思っているのかは分からないが悪い気はしていなさそうだ。実情は分からない。今度それとなく聞いておくべきだろうか。

 

 本当に、全てが上手くいっているように思える。

 

「……」

 

 日常の最中に突然として誰もいない場所、あるいは誰かがいるはずなのに一人ポツンといる事がある。料理をしている時、庭で植物を育てている時。温かな空間の中、誰かが、例えば秋葉が側にいるのに、ポツンと。隙間の時間とでも呼ぶべき、そんな瞬間だ。

 

 そのたびに琥珀はそれを誤魔化す事も紛らわす事も行わない。それは無意味だと、笑う。

 

 自分は一人だ。自分はたった一人なのだと、それを撤回する事に意味は無い。例えそれを改善したくて明るく誰かと会話をしても、一人であることに変わりはないのだ。

 

 それを、琥珀は抱えている。

 

「そういえば、そろそろでしょうか」

 

 自然と、琥珀の握る箒の柄に力が込められる。ぎりぎりと、力が次第に強くなっていく。

 

 屋敷の中、今秋葉は何をしているのだろうか。志貴の面倒を見ているのだろうか。翡翠は志貴の汚したシーツを干しているのかも知れない。何となく、であるが屋敷の中心が志貴になり始めている。取り合えず皆幸せそうだ。

 

「―――――――――――」

 

 幸せそうだ。何かを排他して、誰かを忘れようとして、皆動いている。

 それを思うと、自分が一人なのだという思いが強くなっていく。

 

 志貴。

 

 あの人がいるだけで、光が強くなっていくような気がする。それは遠野の屋敷を照らし出し、皆を幸せにする。

 

 ただ、それゆえに。

 

「あの人と、会うなんて」

 

 琥珀は笑みだ。しかし、その表情の本質は笑みとは異なる。笑みと呼ぶにはあまりに陽性を放たない、おぞましいまでに笑みである。

 

 琥珀は志貴に対し、これといった複雑な感情は抱いていない。そもそも琥珀には琥珀なりの目的があるから秋葉に賛同し、志貴を屋敷へと呼び寄せた。

 

 その目的には志貴の存在が必要不可欠で、だからこそ志貴をきちんと扱っている。

 目的がなければ、そもそも関わる事もなかっただろう。

 そうでなければ、何故関わろうだなんて思う。

 あんな、人と。

 

「――――――――――」

 

 光も当てられない闇は次第に濃くなっていく。

 

 だから琥珀は箒を胸に抱いた。

 強く、強く。琥珀だけは、一人だと。

 

「時間、かな」

 

 たった一人の、あの人を思う。

 焦がれぬ刹那など、ありはしない。

 

「待っててね、朔ちゃん」

 


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