七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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夜は深みを増し、星を彩る宝石は闇夜に消えた。



第四話 反転衝動 Ⅱ

 闇色が増す。

 

 冷たい夜が差し込む。忍び寄る夜の気配は深さを増し、空に広がる藍色の闇には一つ二つと小さな星が瞬いて、太陽は町の向こうに殆どその姿を消していた。街路地は疎らながらも道を歩く人がいて、その景色の合わさりは普段俺が見慣れた、それでいて心安らかとなる光景であった。視界の端に映るそれは、あまりに普段通りで何事もないかのようだった。

 

「――――っ」

 

 だが、視線の先にある存在が、その風景を侵している。そして俺はそれ以外の事柄がモノクロのような色合いを成しているような錯覚を覚えていた。だが、目は閉じられない。目を閉じれば、きっと何かが終わる。

 

 異様。

 

 それ以外の言葉が見当たらないような、男だった。

 

 藍色の着流しと、白い七分丈をはいた男。俺たちとの距離は二十メートル弱か。そこからでも男の異様さが理解できる。細身であり、それでいてかなり背が高い。少なくとも俺よりも頭一つ分以上は確実。

 

「……」

 

 すれ違う人々の話し声。

 

 それは静々と、すり足のように歩いてくる。こちらに向かって。

 

 男は裸足だった。この舗装された道を歩む事と、季節的には考えられない。物乞いとは考えもしなかった。このような男が物乞いのような存在ではない事が、俺の細胞の一片までもが警告音と共に知らせてくる。もっと逸脱したような、何か。

 

 男が近づく事で、その姿がよく見えた。

 

 ひらめく袖。それは中身が無いからだった。男は左腕が存在していなかった。もしかしたら着流しの中に左腕を仕舞っているのかもしれない、とは思えなかった。肩口からはためく藍の布はあまりに不自然すぎて、それが左腕の有無を裏付けた。

 

 着流しから僅かに覗く男の素肌は、恐れすら抱くほど鍛えられ、暴力的にそれが引き絞られていて、その肌は幾重もの傷跡が這い回っていた。

そしてその顔。

 

 長いざんばらな黒髪の隙間には削げた頬と、そして日本刀の切っ先のような鋭い眦。その瞳は西洋人形のような蒼い瞳。人工的な造りではない、吸い込まれそうな虚空を思わす深い蒼色だった。

 

「あ、あ、ぁぁ」

 

 連れ歩く女子高生の歓声。

 

 俺は動けなかった。

 

 視線は近づく男のみに注がれて、それ以外がまるで見えない。

 

 男が足を一歩前に出すたび、嘔気が強くなっていく。それは嫌悪とか、一般的生活において排他されてきた感情、それが形となって俺の体を内側から侵していく。

 

 恐怖が人間の形を現したならば、それはきっとあんな人間なのかもしれない。

 

 だって、そうだろう。

 

 男は人間の首を、その手に持っているのだ。

 

 見間違いなんかじゃない。それ以外に見えようが無い。

 

 根こそぎ食い千切られたような断面から頸椎と、でろんと力なくぶら下がる気道の繊維。開かれた口から、舌が垂れていた。妙な鮮やかささえある生首が、人間の成れの果てだと俺に認識を叩きつける。でも、それの顔は見えなかった。確認するよりも先に生理的嫌悪や恐怖が俺を絡め取り、首を見させない。そしてそれを俺は心底ありがたいと思った表情を確認したら、きっと俺は駄目になる。そのようなモノ、明確な死なんて視たくはない。

 

 乾いた革靴の足音。

 

「人、殺し」

 

 最近耳にした連続殺人のフレーズが脳内を駆け巡った。

 

 ―――これは、夢だ。

 

 漠然と、己の理性が訴える。

 

 こんな状況、ありえるはずがないと。

 

 でも、そんな理性の無駄な足掻きを嘲うかのように、男は近づいてくる。夢幻に現れる陽炎のような男は、その手に首を持ち、どんどんと近づいてくる。

 

 その異様な男の存在はあまりに強烈で、これが夢ではないと無理矢理俺を納得させていく。

 

 雑音。

 

 考えろ。考えるんだ遠野志貴。

 

 この訳の分からぬ状況を脱却するために、考えるんだ。そして気付き、閃け。それこそが――――。

 

 ――――見つける。それが――――。

 

 無意識な思考回路の囁きはおかしなモノだった。

 

 何せ聞いたことも無いような声すら聞こえるのだ。

 

 知らない。こんな、子供の無機質な声音、知るはずが無い。

 

 どうやら混乱は妄想すら幻聴すら生み出すらしい。

 

 でも、狂乱ではなかった事を今は感謝する。

 

 注視。

 

 観察。

 

 監視。

 

 見ろ。

 

 観ろ。

 

 視ろ。

 

 みろ。

 

 ミロ。

 

 そして。

 

 人々の話し声。

 

「え」

 

 この状況のあまりな不自然さに、俺は言葉を失った。

 

 ――――なんだ、これは。

 

 俺たちは、今。生首を持った男の近づいてくる道路にいる。

 

 男の存在自体異様で、そんな男が生首を持っているのだ。

 

 なのに。

 

 なのに。

 

 なのに、なんで。

 

 男に注がれた意識を剥がして、辺りを見渡す。

 

 行き交う人々。人の数は決して多くはない。

 

 帰宅途中の女子高生。

 

 サラリーマン風の大人。

 

 中身の一杯詰まったビニール袋を持った女性。

 

 携帯で話している若者。

 

 ――――周りは、何でこんなにも、普通なんだ。

 

 見える景色は、いつも通りの穏やかなものだった。普通、こんな存在がいれば嫌でも目に付く。離そうと思えば思うほどに。しかも、男は生首を持っているのだ。真贋及ばずその首は注目を浴びる材料でしかない。そして悲鳴が上がる。日本はそんな国だ、平和だからこそ、異常に敏感。

 

 でも、これは一体なんだ。

 

 混乱も、騒乱もない。

 

 それどころか、これはまるで―――。

 

「気付いて、いない?」

 

 ―――よク視えたな、手前。

 

 それは、擦り合わさる金属のような音だった。

 

 空気を切り裂くような、金属の軋みにも似た音。

 

「な、あ?」

 

 それが声だと気付くのに、少しの時が必要だった。

 

『ひひ、ひ……なんだア?珍しい奴がイると思ったが、いかんせン見栄えのしねえ奴らじゃねえかァ』

 

 近づいてくるその声は、男の声ではなかった。

 

 前髪に口元は隠されていない。口は全く動いていなかった。

 

 鋭い眦に蒼い瞳。その全てを映し出すような瞳は、俺を見ていない。

 

 無表情。感情も、ひょっとして人格すら存在しないような、まるで人形の形相。

 

 だけど、その声は聞こえる。

 

 まるで天上から注ぐような、地面から響くような。あるいは、空間を犯すような、声。

 

『まあ、いい。ンなこたぁどうでもいイ。興味も糞もねェ』

 

 不自然な声は、俺の脳を浸食する。

 

 この夢だと思い込みたい状況を、更に悪化させていく。

 

 ―――そして、状況の変化は、それだけではなかった。

 

「―――――――――」

 

 さらさら。

 

 さらさらと、男の掴む首が崩れていく。

 

 それはまるで積もる埃のようなきめ細かさで、あるいは残滓のような脆さで消えていく。首から始まりそれは顔まで崩し、更には髪まで消えてなくなっていく。

 

 なんだ、これは。

 

 まるで粒子のように消えていく首。

 

 首が、消える?

 

 そんな、莫迦な。

 

 そんなこと、ありえるはずが無い。

 

 理解が、追いつかない。

 

 なんだ、これは。

 

 骨まで消し飛んで、首は幻のように消えていった。

 

 そしてそこには、何も残らない。

 

 なんだ、これは。

 

「そう、か」

 

 そうだ、そうだよ。

 

 とうとう俺は理解した。

 

 きっとこれは―――。

 

『夢、だとイいなア?』

 

 出来の悪い悪夢に決まっている。

 

 そう言葉にしようとして、その声はそれを許さなかった。

 

 逃避は許さない、と何処からか聞こえてくる声が俺を否定する。

 

 さっきから支離滅裂だ。自分が何を考えているのか、まるで分からない。

 

「うっ―――」

 

 後方から弓塚さんの呻きが聞こえ、咄嗟に後ろにいる弓塚さんへと振り向く。弓塚さんは口元に手を当てていた。背中を丸めて吐き気を堪えている。体は震えて、今にも倒れてしまいそうなほど顔は蒼白。なのに、その目は近づいてくる男を見ていた。瞳は揺れて、呼吸は荒く。それでも弓塚さんは男から視線を逸らす事が出来ない。囚われている。突然訪れた事態に思考は落ち着かない。俺が果たして先ほどまで何を思っていたかすらも、混濁に突如として浮上しては消えていった。

 

 顔色悪く、今にも崩れ落ちてしまいそうな体。こんな弓塚さんを、俺は見たことが無い。いや、こんな状態の人を俺は今まで見たことが無かった。出来れば、こんな状況に遭遇したいとは思っていなかった。

 

 逃げ出したい。こんな事、こんな場面、夢でしかないのだと自分に言い聞かせようとも無駄だとは分かっていた。でも。

 

「とおの、くん」

 

 弱りきった弓塚さん。怯え、震え、途切れる声音にいつもの朗らかさなど無かった。こんな弓塚さんを置いて逃げるなんて、出来るはずがない。

 

 だけど、そんな俺の強がりなど嘲うかのように。

 

 男の姿が、加速した。

 

 俺たちに向かって、真っ直ぐに。

 

「――――あ、ぁぁああ」

 

 喉から微かに空気が漏れる。悲鳴にもならぬ叫び声だった。

 

 殺される――――。

 

 ぞわり、と。意識が、白熱した。

 

 殺される。俺は、俺たちは殺される。

 

 認識よりも先に、俺は理解した。

 

 男は迫る。

 

 殺される。理不尽だ。本当に、理不尽だと瞬間に思えた。

 

 こんな訳も分からない、唐突な事で。

 

 殺される。目の前の男は恐怖だった。

 

 恐怖が形を成した人間だった。

 

 人殺し。

 

 そんな存在が俺たちの目の前にいる。

 

 それが俺たちを殺そうと迫ってくる。

 

 何も出来ない。何も、出来なくなる。

 

 ―――死。

 

 そして。

 

 ―――男の腕が、眼球の直前にあった。

 

 眼鏡に触れるか触れないかの辺りで、そのまま俺を潰そうとしていた鉤爪状の五指は、不自然に固まっていた。

 

『運、いイなあ。手前らァ』

 

 どこからか声が聞こえる。

 

 それを遠くに聞きながら、俺は腕を伸ばしてきていた男を見ていた。

 

 蒼に俺の姿が映る。

 

 黒髪の隙間から見える深い蒼の瞳。それが俺を、見ている。

 

 視線が、絡む。

 

 感情も見えない瞳の色を不気味に感じながらも、俺は素朴にもこんな状況でありながら綺麗だと思った。恐怖のあまり頭がおかしくなったのだろう。

 

 でも、それは本当に僅かな時間で、数えてみても一秒にも満たない瞬間の事だった。男はあらぬ方向に顔を向けた。俺でもない、弓塚さんでもない、どこかを見ている。

 

 その方向は――――。

 

 男の姿が、掻き消えた。

 

 どういうことか、其れを俺は視る事が出来なかった。

 

 視認することも出来ず、あの圧力さえも連れて、男は嘘のように消え去った。

 

 気付けば、息が苦しくなっていた。呼吸が止まっていた。

 

「っかは、あが―――っぐ」

 

 思い切り息を吸い、胸を抱く。内容物を吐き出さないだけよかった。周囲の人が怪訝そうな顔で俺を見ている。助けてくれる事もしてくれないのか。

 

「遠野君。だい、じょうぶ?」

 

 でも、弓塚さんはそんな俺にも優しい。本人だって辛いはずなのに、こんなにも。

 

「あ、ああ。大丈夫だよ」

 顔を歪める弓塚さんに曖昧な苦笑を返しながらも、苦しみに紛れた胸の痛みに俺は戸惑いを覚えていた。

 

 だけど、痛いとは少し違う。でも、そう表現するほか無いような、言葉を許されるなら、切ないとさえ思えるような、そんな痛みだった。

 

 □□□

 

 弓塚さんを家まで送り届けた後、俺は遠野の屋敷に帰った。弓塚さんを一人で家に帰すには、弓塚さんは焦燥しすぎていたし、俺自身出来る限りでいいから誰かといたかった。別れ際に俺たちは微妙な空気を共有していた。今日起こった事柄、出会った男の存在。それらが思考から離れない。

 

「遠野君……」

 

 玄関に入る事もなく、ただ俺を見る弓塚さん。苦しげに揺れる弓塚さんの瞳を、俺は解きほぐす術を持たない。俺だって状況を把握できていないのだ。気安い慰めの言葉、あるいは気遣い、そんなちゃちな言葉で、果たしてどうにかなるのだろうか。結局、それ以上の言葉を俺たちは持っていなかった。

既に夕焼けは地平に沈んでいた。頭上には幾つかの星、そして月がぶら下がっていた。街灯の点いた道を歩き、遠野の家まで辿り着く。門限には間に合っていたが、それでもギリギリの時間。

 

「お帰りなさいませ、志貴様」

 

 門の前には翡翠の姿があった。翡翠は俺に対して一礼した後「お荷物をお預かりします」とその手を伸ばしてきた。

 

 女の子に荷物を持たせるなんてとんでもない、と俺は断ったのだが、

 

「……」

「……」

 翡翠は逡巡の後に無言の圧力を強めるばかりで動こうともしなかった。困っているような、そんな視線。気まずい雰囲気が横たわり、其れをどうする事もできない俺は結局苦笑気味に翡翠へ学生鞄を渡すのだった。

 

「あの」

 

 ロビーを横切り、自分の部屋に入ろうとして、翡翠に呼び止められた。

 

「志貴様、その。何か、不手際がありましたか?」

 

「え?」

 

 ドアを開けかけたままの状態で振り向く。そこには少し不安げな表情を表す翡翠の姿があった。しかし、俺は翡翠の発言が唐突過ぎて一体何のことを言っているのかサッパリ分からなかった。

 

「えっと、どうしてだ翡翠」

「……その」

 

 躊躇いを混じらせて翡翠は言う。

 

「あまり志貴様のお顔が優れていないご様子なので……、私が何かしたのではないかと」

 

 自覚していなかった。そんなに俺は、顔に出ていたのだろうか。

 

「いや、翡翠のせいじゃないよ。ただ、ちょっと気分が悪くて」

「そうですか。……あの、もしかして体調の方も」

「それも平気。うん、大丈夫だよ、貧血も起きてない」

「よろしければ姉さんをお呼びしますが」

「平気だってば。と言うか何で琥珀さん?」

 

 俺の体調と琥珀さんの存在はリンクしないはず。

 

「姉さんは薬剤師の資格を持っていて、薬の方にも精通しています。もしお体の調子がよろしくなかったら直ぐにでも姉さんをお呼びいたします」

 

「へー、そうなんだ」

 

 意外だと思った。琥珀さんにそんな一面があるなんて。

 

「でも、大丈夫だから。少し部屋で休んでる。夕飯の時間になったら呼んでよ」

「……分かりました。では、後ほどお呼びいたします」

 

 もの言いたげな翡翠の視線を振り切って、部屋の中に入り込む。相変わらず大きなベッドに倒れこんで、亡、と目を閉じる。

 

 今日遭遇したアレが、幻覚だなんて、思いはしなかった。

 

 何より、俺のほかにもあの場所には弓塚さんがいた。その弓塚さんが怯えていたのだから、アレが夢幻とは考えにくい。お互いに光化学スモッグのような脳に何らかの影響を与えるものにやられていたのなら、また話は別だろうが、今日そんなものは無かった。それにあの恐れや不自然さは、悪夢にしては良く出来すぎている。

 

 思考は潜る。

 

 ―――目蓋の裏にはあの男の姿。

 

 あの亡霊にも似た人殺し。でも、その首は消えて、しかも変な声まで聞こえてきた。金属を擦り合わせる不快な軋みの音。

 

 そして何よりも不可解な事は、その状況が目前であったというのに、それに俺たち以外の誰も気付いていなかった事。あの場所には少なくない数の人たちがいた。その人たちが、誰一人として騒いでもいなかった。あれは、まるであの男が存在していなかったような。

 

「……―――――」

 

 でも、それ以上の思考は続かない。続かないと言うか、進まない。行き止まりに突き当たってしまった感覚。何か刺激を与えようにも、これ以上の事は見つからない。それに、こんな話、人に言っても信じてもらえるかどうか。

 

「ああ、そうか」

 

 俺自身が信じていないのに、こんな夢物語にもならない話を誰かに言っても誰も聞いてくれはしないだろう。こんな気持ち、誰からも理解されない気持ちを、弓塚さんも―――。

 

 正解の得られない問答。ヒントも出現しない疑問。

 

 結局、不安材料ばかりの思考は長続きしない。

 

 打ち消す。

 

「でも、あの時……」

 

 なんで、俺は。

 

 あいつを見て。

 

 ―――――――――――。

 

 そう言えば、思い出す。

 

 あの男は、なんで学校の方向を見ていたのだろう。

 

 □□□

 

「兄さん?お食べにならないのですか?」

 

 食事の準備が出来たと、部屋に再び尋ねた翡翠に促され、俺はリビングというか食堂に辿り着き、冗談のように長いテーブルに腰掛けた。今日の夕食は洋風の造りとなっていて上品な見かけと匂いは食欲をそそると思う。琥珀さんが丹精に造ったのだから。でも。

 

「もし、あまりご気分が優れていないなら……」

 

 秋葉の言葉に曖昧な笑みで濁す。

 

 改めて、夕食を見る。彩り鮮やかな料理の並びは視覚でも料理を楽しませてくれるような工夫が凝らされてあった。それを見て、とても不味いなんて思えない。

 

 だが。

 

「……」

 

 それらを見ても、食欲がそそられない。

 

 口を開いてみる。其れと同時に。

 

 ――――あの生首が目の前に現れた。

 

「っく」

 

 吐き気を催しながらも、琥珀さんに申し訳ないから食べようとして、結局殆ど口に出来なかった。

 

 分かっている。生首なんて、ここにはない。

 

 でも、記憶の中にいる男が持った生首は、絶えず胃袋を苛んだ。

 

「大丈夫ですか、兄さん?顔色が……」

「ああ。……ごめん、あんまり食欲わかなくて」

「翡翠から聞いていますが、まだ体のお加減が優れないのですか?あまり無理をしないでくださいよ」

「ああ。……琥珀さんも、食べれなくてごめん。凄くおいしそうだけど、体が」

 

 本当に申し訳ない。折角造ってくれたのに、全く食べる事も出来ない俺は、琥珀に頭を下げた。

 

「いえいえ、お気になさらず。でも、もし胃の調子がよろしくないのなら薬をお持ちしますが?」

「そうだな……折角だから、頼めるかな?」

 

 薬で治るものではないと分かってはいたが、でも琥珀さんの好意を無下には出来なかった。自身の我儘で料理を食べないのだから、其れぐらいはするべきだろう。

 

「わかりました。それでは夕食が済み次第調合しますので、お部屋にお持ちしますね」

 

 そうだった。翡翠も言っていたが、琥珀さんは薬剤師の資格を持っているのだ。なら自分で薬を調合するぐらい朝飯前だろう。夕食なのに朝飯前というなかなかおかしな発想に内心首をかしげながらも、了承の意をとった。

 

「……」

 

 部屋に戻って後、俺は琥珀さんが部屋にやってくるのを待っていた。夕食を済まし、風呂に入った後の事だ。十時にはまだ早い。部屋の外に出ていても良かったのだろうが、何故だろう、そんな気分になれない。だから大人しく琥珀さんを待っている事にした。

 

 しかし、部屋でやる事はない。部屋の中には娯楽になるようなものはないし、そもそも物自体少ない。俺の所持品が少ないのもあるだろう。だから課題とかをやればよかったのだろうが、それもやる気になれない。あまりに今日の事がショックだったからだろうか。この無気力にも似た遣る瀬無さを俺は持て余していた。

 

 ベッドに腰掛けて、何となくそのまま俯く。

 

 何も考えられなかったし、何も考えたくなかった。

 

「志貴さーん。いらっしゃいますかー?お薬お持ちいたしましたよー」

 

 ドアを叩く乾いた音が軽く響く。琥珀さんの声。

 

「いるよ、琥珀さん」

 

 部屋の中に入り込んで、琥珀さんは部屋の中に備え付けられていたイス一脚をベッドの横に持ってきた。俺が対応するべきなんだろうけれど、琥珀さんの動きの自然さにそれも忘れていたのだ。

 

「さてさて、それでは志貴さん。お薬を持ってきましたけれど、より詳しく知るために幾つか問診をさせていただきますけれど、よろしいですか?」

「うん。お願いします」

「さて、それでは――――」

 

 それから幾つかの質問があった。体の状態、気分の確認を始め、具体的に何処に違和感があって、何処がいつも通りなのか。更には瞳孔の確認なんて、本当に医者のような対応を琥珀さんは展開し、いつしか俺は琥珀さんのペースに任せているままになっていた。

 

「さて、それでは最後にですが、今日は最後に何を食べましたか」

「えっと、昼にうどんを一杯、ぐらいかな」

「なかなか消化の良いものですねえ。おなか空いたりしませんか?」

「小腹が空いたぐらいだけど、別にそこまででは」

「なるほどー……。別に体調的には問題ないようですし、食べたものに問題もない。更にはどこが明確におかしいのかも曖昧です。むむむむー、困りましたねーこれは」

 

 傍目には困っていなさそうな声音だった。

 

 そして、思考の最中に琥珀さんは俺を見た。何だろう、きゅぴーんとした感じで。

 

「もうこれはあれですね。面倒なのでお注射した方がよろしいですかね」

「え、そうなの、てか今面倒って」

「はい、ここは琥珀特性のお注射でズバッと解決ですっ」

 

 すると琥珀さんは懐に手を突っ込み、次の瞬間その手には注射器が握られていた。しかし、

 

「それ、明らかに普通じゃないですよね」

 

 だって、容器の中の液体が紫色ってどういう事だ。

 

 戦慄する俺を尻目に状況はどんどんと進んでいく。

 

「大丈夫ですよ、辛いのは最初だけで次第に痛いって事も忘れてしまいますよ」

「いやいや、其れ大丈夫じゃないでしょ」

「そうですか?実験ではそんな感じな雰囲気だったのですが、まあいいじゃないですか。あんまり深く考えちゃ頭痛くなっちゃいます。ここは私に全部任せて」

 

 琥珀さんの笑みが迫力を伴う。じりじりと近づいてくる琥珀さんの張り付いたような笑みは、ハッキリと怖い。

 

 やる、琥珀さんは、やるっ。

 

「ここは任せちゃ駄目な気がするんだけどっ」

「まあまあ。ここはバシッと一発元気に逝ってみましょう!!」

「いや、ちょ、琥珀さん……っ」

 

 徐々に迫る琥珀さんに後ずさりし、思わず目を瞑ってしまった。琥珀さんを無理に突き飛ばすなんて出来ない。

 

 そして―――――――。

 

「なーんて、嘘に決まってますよ志貴さん」

「……っへ?」

 

 その言葉に目を開くと、そこには悪戯っぽく笑っている琥珀さんの姿があった。

 

 もしかして、悪ふざけ?

 

「嫌ですよ、志貴さんにわざわざそんな事するわけ無いじゃないですかー」

 

 口元に着物の袖を当てて笑う琥珀さんに、憤りも戸惑いも感じる事もできず、脱力。いつの間にやら先ほどまでその手に握られていた注射器が消えていた。恐らく着物の懐に仕舞われているのだろうが。

 

「……あのね、琥珀さん」

「あはっ」

 

 笑って済まさない。

 

 しかし。

 

「でも志貴さん。すこし顔色良くなりましたねえ」

 

 琥珀さんの言葉に、はたと気付く。俺は今、少しだけ気分が良くなっていた。琥珀さんと話をしているうちに、少しだけ暗闇が晴れたような感覚があった。もしかして琥珀さんは、これを考えて。

 

 じっと琥珀さんを見つめる。

 

「熱い志貴さんの視線、さては私にホの字になりましたか?」

 

 ……本当にそうだったのだろうか?

 

 でも、こんな遣り取りは悪くない。むしろ良い。

 

 緊張感も無い遣り取り、これは凄く慣れ親しんだ、日常の匂い。

 

 ああ、そうか。

 

 これか。

 

 これが俺の側に先ほどまで、無かったのだ。日常。俺のいる、そして俺の望む日常。俺はこの日常を大切だと当たり前のように甘受していながら、実のところちゃんとそれを気付いていなかった。日常を、今日あんなのと遭遇して、見失いかけていたのだ。

 

「でも、志貴さん今日はどうかしたのですか?もしかして何か学校であったのですか?」

 

 そして、俺は琥珀さんの声音に、今日の事を話してみることにした。もしかしたら馬鹿にされるかもしれない。信じてもらえるだなんて思いもしない。ただ、琥珀さんに俺の話を聞いて欲しいと、漠然に思った。

 

「実は今日、俺帰り道の途中で変なもの見たって言うか、会ったっていうか」

「はい」

 

 話し始める俺に、琥珀さんは真剣に耳を傾けてくれた。

 

「それが何だか不思議で、俺たちはそれに気付いているのに、周りが全然気付いていなくて。だけど、そいつは確実にいたんだ。……友達はそれを幽霊って呼んでたけど、本当に幽霊みたいだった」

「では幽霊なんですか?」

「いや、多分違う。あれは、いた。足もあったし、体も透けているようには見えなかった。ちょっとぼやけている様には見えたけれどでも幽霊じゃないと思うそいつは、何故か人の首を持ってて」

「人の、首ですか」

「うん。首を持っていたんだけど、その首が途中から消えて、そしてら何処からか声が聞こえて、でもそいつは話してなくてそしたら男は俺に走り寄ってきて俺を殺そうとしてでもそいつは俺を殺す前にどこかに消えて―――あいつは、俺を殺そうとしたんだ。本当に突然に、今まであった事もないような俺を、俺を殺そうとして。真っ直ぐに俺に向かってきて、でも俺の前で」

「志貴さん、志貴さんっ。落ち着いてください!」

 

 いつの間にか、体が震えていた。

 

 消えかかっていた恐怖を、思い出した。俺はあの時、あの男に殺されかけたと言う事実。人間の生首を見た嫌悪感。聞こえる金属音。全てが、理不尽だった。

 

「落ち着いて、ゆっくり深呼吸してください。志貴さんが見た人はここにはいませんから」

 

 肩を抑え、琥珀さんは俺を見つめた。俺を覗き込む琥珀さん。その瞳の琥珀色に思わず魅入られていながら、今日の光景が思わず過ぎる。あの男は。

 

「蒼」

 

 口から零れる。

 

「……え?」

 

「あいつは、蒼い目をしていた」

 

 そして、何も言えなくなった。

 

 互いに、無言。

 

 俺は何を話していいのか分からず、そして琥珀さんは何を思っているのかすらも分からない。

 

 室内は凍ったかのように固まり、その中で俺たちは互いを見ていない。俺は、あの男の幻影を見つめ、琥珀さんは俺を見つめていなかった。でも何処を見ているのか、判断がつかない。

しかし、それは一瞬の事だった。

 

 止まってしまった時間を動かしたのは、琥珀さんの声だった。

 

「もう、落ち着きましたか?」

 

 琥珀さんの柔らかな声音は俺を優しく包み込んで、混在する恐怖や不安を払いのけるような、そんな力があった。

 

「……ああ、ごめん。俺も、混乱していて」

 

 それでも、怖さがなくなるわけではなかった。俺は、あの時、訳も分からず死に掛けたのだ。それが今更になって、認識が追いつくなんて。

 

「鎮静剤をお飲みになります?嫌な事を全部忘れる事は出来ませんけれど、少しでも楽になれるのならば、飲んだほうがいいと思います」

「……お願いできる、かな」

 

 少しでもこの状態から逃れられるのならば、そんなものに頼ってもいいだろう。

 

 すると、琥珀さんは懐からオブラートに包まれた粉薬を取り出してきた。

 

「実は、このお薬は飲むと副作用で眠たくなっちゃうのですが、よろしいですか?」

「構わない。むしろそれでちゃんと寝れるよ。ありがとう、琥珀さん」

 

 

 

 


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