七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 夢は、見ない。
 見るのは、思い出だけ。



第三話 反転衝動 Ⅱ

 女の子がいた。

 

 小さな黒髪の女の子。

 

 女の子は花の円環を頭に飾り付け、笑っていた。

 

 暗転。

 

 女の子がいた。

 

 小さな黒髪の女の子。

 

 女の子は草の生えた地面から立つ事もできず、泣いていた。

 

 暗転。

 

 少年がいた。

 

 血に塗れた、少年がいた。

 

 暗転。

 

 少年がいた。

 

 血塗られた少年の背中を見続けた、少年がいた。

 

 □□□

 

「起きてください志貴様。朝です」

 

 ゆるゆると、目が覚める。

 

 窓からの日差しが温かい。薄く開いた目蓋の隙間から、ぼんやりと見慣れぬ天井が見える。白い天井は簡素ながらに厳かな造り。横たわっている布団も素材良く感触は極上。はてここは何処だろうか。寝起きに血の巡りの悪い頭は、どうにも上手く働いてくれない。

 

 やがて開かれた視界の端に、人の姿が見えた。霞む視界を凝らして見ると、そこには一人の少女。給仕服を身に纏った、淡い紅色の髪をした少女が、俺の横に直立していた。

 

「おはようございます。志貴様」

 

 果たしてこの人は誰だったかと考える前に、少女は一礼する。その丁寧な仕草に、なにとはなく俺は少女の姿に見とれた。精巧な人形のように整ったその顔造り。顔を上げた少女の瞳は美しき翡翠色。そうだった。昨日は分からなかった。それは彼女の名前をそのままに現した澄んだ瞳であった。

 

「あ、ああ、おはよう翡翠。わざわざ起こしてくれてありがとう」

 

 でも、長い間は正視出来ない。

 

 ――――翡翠の姿は黒い亀裂だらけだった。

 

 眼鏡をかけていない世界は落書きだらけで、其れは人間すらも例外ではなかった。

 

 眼鏡をかけようと、適当にそこらに投げ出していた眼鏡を探すが、俺が探すよりも先に、すっと翡翠から手渡された。いつまでも身を横たえておくには失礼だろうと、眼鏡をかけつつも慌てて体を起き上がらせる。部屋を見渡した事で、この見慣れぬ場所は自分の部屋なのだとようやく分かった。

 

「勿体無いお言葉です。志貴様をお越しするのも私に任された責務ですから」

 

 完璧な物言いだった。

 

 翡翠は秋葉に言われ俺に付けられた従者、らしい。生活力のない俺のために付けられたらしいが、そのような立場、生活に慣れない事と同年代の少女、それこそ高校生として自分と同じように学校へと通っていそうな年頃の少女が、俺の従者、などと言うのだ。

 

「あの、翡翠さん」

 

 でも、それを素直に受けられるほど、俺はこの状況を良しとしていなかった。

「昨日から思ってたんだけど、堅苦しいから俺の事は呼び捨てでいいよ。その変わり俺も翡翠って呼ぶからさ。昨日会った、琥珀さんにもそう伝えておいてくれないかな。翡翠」

 

 今まで普通の生活を送ってきた。有体に言えば庶民的。こんな扱いを受けるのは、少しこそばゆい。窮屈な感じが否めない。堅苦しいのは慣れていない。

 

 翡翠はしばしの時を置いた後、

 

「……分かりました志貴様。姉に伝えておきます」

 

 一礼。道のりは遠いらしい。

 

 しかし、話を聞いて少しだけ引っ掛かりを感じた。

 

「姉って、琥珀さんの事?」

「はい。申し遅れました。すいません」

 

 確かに二人は良く似ていた。雰囲気は大分違ってはいるが。朗らかな印象の琥珀さんと、静かな印象の翡翠。二人とも見かけは似ているが、中身は違う。

 

「お召し物をお持ちしましたので、こちらのほうにお着替えください。お着替えが終わりましたら居間にいらして下さい。秋葉様がお待ちしています」

 

 そう言うと翡翠は俺に着替えを手渡し、そのまま一礼し部屋を出て行った。糊の効いたワイシャツ、皺一つない制服のズボンは俺が遠野へと戻る前に送っていたものだった。

 

「てか、俺制服のまま寝てたのか」

 

 今自分は制服を着ていた。どうやら着替えもせず、そのまま眠ってしまったらしい。

 

 翡翠が部屋から出て行くのを確認した後、身につけていた生ぬるい人肌の制服を脱ぐ。その際、胸の辺りを大きな傷跡が蹂躙していたのが見えたが、最早慣れてしまっているので何も思わない。翡翠から渡された服は清潔で、少し冷たかった。

 

 着替えを済まし、部屋を出る。一人で歩く廊下は広すぎてどうにも寂しい。しかし、これだけ屋敷自体は広いと言うのに、汚れ一つ、埃の一片も見えないのが不思議である。

 

 居間に着くと、イスに座った秋葉が紅茶を飲んでいた。秋葉はここら辺では見慣れない青いイメージの制服を着ていた。制服自体は凡庸な服装だと言うのに秋葉が着ているだけで随分と上質な物の様に見え、優雅に嗜む姿から本当に紅茶が好きなのだと思った。その隣には先ほど俺の部屋に訪れた翡翠の姿もあった。

 

「秋葉、翡翠。おはよう」

「おはようございます兄さん」

「おはようございます、志貴様」

 

 秋葉に声をかけた後、テーブルを挟んで秋葉の正面に設置されたイスに腰掛ける。しかし、秋葉は兎も角、先ほど会ったばかりの翡翠は又もや一礼を返してきた。生真面目な少女だと改めて思う。気軽な仲となるには道のりは険しい。

 

「おはよう御座います志貴さん、こちらが朝食になります」

「うおっ」

 

 後方からいきなり声をかけられた。虚を衝かれ、慌てて振り向くとそこには朝食を運ぶ琥珀さんの姿があった。びっくりした。後ろに琥珀さんが現われたのに、全く気付かなかった。

 

「あ、ああ、おはよう琥珀さん」

「はい、今日の朝ごはんですよ」

 

 気さくな態度でにこやかに微笑む琥珀さんは楽しそうに朝食を配膳する。改めて琥珀さんを間近に見るが、やはり翡翠と良く似ていた。琥珀色の瞳と着物とエプロンの装い。それと青いリボンがなければ見分けもつかないほど、その顔つきは似ていた。

 

 用意された和風の朝食を食べながら、居間に設置された年代物の様な柱時計を確かめると学校に向かうには少し早く起きていた。だけど慣れない道のりを確認しながら向かうだろうし、それこそ以前の有間と比べてみたら距離が違うだろう。これぐらいが丁度いいのかも知れない。

 

 朝食は美味しかった。シンプルでありながらワカメやネギの食材及び調味料を最大限に生かした味噌汁や、炊き立ての白米、そしてふんわりと甘い食感の卵焼きなど、一般高校生が食べるような朝食としてはあまりに上等なものであった。

 

「昨日の晩御飯も美味かったけど、料理は誰が作ってるの?」

 

 ふと気になり聞いてみる。

 

 俺の問いに、秋葉の隣に移動していた琥珀さんがにこやかに応えてくれた。

 

「あは、実は私が作ってるのですよ?」

「え?そうなの?」

「はい、今現在この遠野の屋敷には秋葉様と翡翠ちゃん、それに志貴さんと私の四人しかいません。なので私が頑張って料理を作ってるのです」

 

 昨日から思っていたのだが、この屋敷にはあまりに人がいない。ガランとした印象が刻まれている。会っているのも今この場所にいる四名しかいない。だけど、まさか本当にこの四人しかいないなんて思ってもいなかった。

 

「へえ、凄いな。という事は昨日の晩も?琥珀さんって料理が上手なんだね」

「いえー、これも長年の賜物ですよ。それにしても志貴さんはお上手なのですねぇ」

 

 クスクスと口元を着物の袖で隠す琥珀さん。そう言われてみると、少しだけ照れくさくなった。でも、本当に凄いと思う。こんなに美味しい料理を作れるなんて。少しだけ空気が和んだ。そこで暫く談笑が続くかと思ったが。

 

「こほんっ」

 

 咳払い。見ると秋葉が半眼となって俺を見ていた。

 

「兄さんは私と話すよりも琥珀と話すのが良いそうで」

 

 やばい。何故か秋葉の機嫌が悪くなっていた。

 

「それに、食事をしながら談笑なんて。兄さんは遠野家の長男なんです。もう少し遠野の人間としての自覚を持ってください」

 

 確かに、少し行儀が悪い、のだろうか。言われて気付いたが、あまり良くはない、のかも知れない。しかし、秋葉の態度がやたらと怖いぞ。

 

「ごめん、秋葉」

 

 そこからは黙々と食事を食べる。

 

 朝食を済ますと翡翠が紅茶を注いでくれた。食後のお茶はこの家の習慣なのだろうか、と俺は思いながら温かい紅茶を飲む。鼻腔に紅茶の味わい深い匂いがふんだんに広がる。紅茶は良く分からないが、やはりコレも昨日の紅茶と種類は違うが良い紅茶なのだろう。

 

 秋葉と共に紅茶を飲んでいると、先程よりかは秋葉の態度も軟化したようだった。険のある眉間の皺も解される。

 

「兄さん」

 

 そんな時だった。秋葉はティーカップを置いて、俺を見た。

 

「昨日は言いそびれていましたが、屋敷の門限は七時です」

「七時!?」

 

 度肝を抜かれた。門限にしてはあまりに早すぎるだろう。高校生の身分である俺からすれば尚更の事だった。

 

「はい、七時には正門、八時には全ての門を閉めます。十時以降は屋敷の中を歩き回るのも控えて頂きます」

「それは、いくらなんでも……」

 

 無茶ではないか。そう言葉を紡ごうとした。

 

「私は―――」

 

 だけど、秋葉の有無を言わさぬ視線が俺を貫いた。

 

「今までこうして来ましたが、兄さんには出来ませんか?」

 

 威圧感すら覚える秋葉の瞳。何だろう、体からオーラのようなものすら漂っているような。

 

 覇気?

 

 しかし、其処まで言われたら俺としても出来ないとは言えない。妹が今までやってきたのだ。兄が出来ないとはあまりに不甲斐ないだろう。努力はする。

 

「努力の必要はありません。結果を出して頂ければそれで充分です」

 

 そんな、手厳しい。

 

「ただでさえ最近は物騒なんですから」

 

 一人呟くような声音を俺は聞き逃せなかった。

 

「物騒?」

 

 思わず聞き返した俺に琥珀さんが反応する。

 

「町で起こっている猟奇殺人事件の事です志貴さん。ご存知ありませんか?」

「……」

 

 そういえば昨日、学校で有彦や弓塚さんから聞かされた。殺された人間は全身の血がなくなっていて、現代の吸血鬼とまで呼ばれているとか。そんな事件が起こっていたと昨日知ったが、その事件がこのように近くて周りに影響を与えているなんて思っても見なかった。つまり俺の門限が早いのも、その殺人犯が原因、という事だろうか。

 

 しかし、それは考えても有り得ないと思った。そんなのこじ付けでしかないだろう。

 

「とにかく。今まで兄さんがどのような生活をしてこられたのかは知りませんが、遠野に帰ってこられた以上は我が家に馴染んで頂きます」

 

 ぴしゃりと秋葉が言い放つ。

 

 理不尽な部分を感じながらも、仕方ないと諦める。ちらりと隣に控える翡翠の姿を盗み見たが、何も反応を示さないと言う事は、これは既に決定事項という事なのだろう。

 

 だけどこの家に馴染む、か。

 

 俺は、帰ってきたんだよな。多分、きっと。

 

 実感が得られない。久しぶりなのか分からないが、見覚えのない自室に対しても、本当にあそこは俺の部屋なのかと思う。

 

 暫く手元に握ったままだった紅茶を口元に傾ける。

 

 喉に入り込んだ紅茶は既に冷たくなっていた。

 

「志貴様、そろそろお時間の方はよろしいのでしょうか?」

 

 翡翠に言われて柱時計を確認すると、学校に向かうには丁度よい時間となっていた。登校に費やす時間は憶測で三十分近いだろう。

 

「それじゃ秋葉、そろそろ行ってくるよ」

 

 秋葉に声をかけながら立ち上がる。

 

「ええ、兄さんお気をつけて。私もそろそろ失礼します。兄さんも勉学に励んでください」

 

 本当に手厳しいな、秋葉。

 

 居間を出て自分の部屋に置いてある学生鞄を取りに向かおうとしたところ、既に翡翠が準備をしてくれていた。感謝をしながら受け取ると「勿体無いお言葉です」と一礼を返した。制服の上着も序に受け取って、申し訳ない気持ちになりながら、そのままロビーに向かい玄関を出ようとすると。

 

「志貴さーん!ちょっと待ってくださーい!」

 

 ぱたぱたと階段を下りてくる琥珀さんの声に呼び止められた。

 

 何だろうかと、琥珀さんに振り向くと、その手には木製の箱が持たれていた。

 

「これ、昨日有間の家の方から届けられたんですよ」

「おかしいな。俺の荷物は全部持ってきたはずなんだけど」

「はあ、なんでも志貴さんのお父様の遺品だそうです。志貴さんに譲るように遺言があったとか」

 

 親父の、遺品?

 

 思わず、それを見る。

 

 親父が俺に対して何かを残す事など、ある得るのだろうか。俺を勘当した、親父が。

 

 琥珀さんから受け取ってみると、見かけに反しての重量感があった。恐らく中身に何か重いものが入っているのだろう。でも、興味はそれほど沸かなかった。俺を勘当した奴の遺品なんて、と反発にままに。

 

「まあ、いいや。琥珀さん、これ部屋に置いて……」

 

 しかし、視線を感じた。文字とするならじぃーーーー、とした感じで。

 

 見れば琥珀さんが笑顔のまま、興味深そうな顔で俺と、手に握られた木製の箱を見ている。

 

「……中身が気になるんですね、琥珀さんは」

 

「いいえ、そーんなことありませんよー」

 

 笑みのままの応える琥珀さん。その表情に変化はない。なかなか調子の良い人だと思った。

 

「はあ、じゃあ開けてみましょう」

 

 乾いた音が木霊しながら、箱は簡単に開いた。中をそのまま琥珀さんのと確認してみると、中には、何だろうか、平べったい鉄の棒のようなものが収められていた。長方形の、掌サイズの棒である。こんなものを残すなんて、親父もどうして子供みたいな嫌がらせをぶちかましてくれる。

 

「これは、ナイフですね」

 

 黙って案外子供っぽい親父に対し思考をしていると、琥珀さんが箱から棒を取り出しながら言う。

 

「ほら、飛び出しナイフってあるじゃないですか。あれと同じです。せーの、はいっ」

 

 パチン、と小気味好い音をたてながら、それは姿を現した。

 

 刃。

 

 包丁や鋏とは違った狙いで作られた鋼の刃が鉄の握り部分から飛び出してきた。

 

 芸術品のような美しさなどない、無骨な刃だった。

 

 刃文は真っ直ぐ。

 

 刀身は日本刀の切っ先にも似た造りをしているようにも思える。鎬造もそれに近い。

 

 しかし、其れよりも肉厚で耐久性のない日本刀と比べたら頑丈そうな造りだった。

 

 刃の長さは恐らく十センチ以上。

 

 その趣から鈍器のようにも見えるが、それは日常用に作られた刃物しか見た事がない俺の感性でしかない。それにこれはナイフと言うよりも短刀に近い。

 

「随分と古い物みたいですけど、造りはしっかりとしてますね。あ、裏に年号が書かれていますね」

 

 再び刃を仕舞い、琥珀さんから受け取る。

 

 確かに握りの下には『七夜』という字が刻まれていた。

 

「なな、や――――?」

 

 口ずさむ。

 

 何気なく零れた言葉の中にしっくりするような響きがあった。

 

 まるで、以前、どこかで聞いたことがあるような――――。

 

 ――――――――――っ――――――。

 

「姉さん、これは年号じゃない。七つ夜って書かれているだけよ」

 

「―――っ!」

 

 思考を切り裂くように、突然背後から声がして振り向く。

 

 先ほどまで黙り込んでいた翡翠が、いつの間にか後ろからナイフを覗き込んでいた。

 

 翡翠はその瞳に熱を宿し、亡、と魅入られたかのように刃を見つめていた。

 

「……翡翠、人が悪いぞ。そんな後ろから覗かなくたって見たかったら見せてあげるのに」

 

「―――――あ」

 

 声をかけた途端、翡翠の顔が僅かにではあるが赤くなる。

 

 そんな翡翠に少しの苦笑を見せ―――。

 

 あれ?

 

 ―――俺は。

 

 今、何を考えていたのだろう。

 

「し、失礼しました。あの……短刀があんまりに綺麗だったから、つい」

「綺麗?綺麗、というよりは、おんぼろって感じだけど」

「そんな事ありません。見事な刃文をした、由緒正しい古刀だと思います」

 

 熱心にこの刃物の素晴らしさを伝えようとする翡翠の言葉に、何だかこの七つ夜が凄く立派なものに見えてしまう。

 

「……」

 

 しかし、さっきまで何かを思い出したような気がするのだが、それは靄のように消えてしまった。記憶、なのだろうか。でも、一体何の記憶なのだろう。七夜なんて、聞いたことはない、はず。

 

 でも、だったら何で―――。

 

 七つ夜を握る手を自分の胸に押し当てる。

 

 ――――こんなにも、空白は揺れ動く?

 

 □□□

 

 学校まであと少しという新しい道の途中で、振り返る。坂の上だというのにここからでも分かる巨大さ。聳えるように、あるいは誇るように居を構えた、我が家。丘の上に立ち、周りを森で囲まれた其処はあまりに不自然であり、まるで森に佇む孤高の古城だった。

 

 家を出る途中、翡翠が門前まで送ってくれた。どうにも慣れないが車での送り迎えと比べたら遥かにマシだと自分を納得させた。

 

 校門をくぐり、教室を目指す。階段を上りながら学校の雰囲気に包まれる。滑らかな廊下。思い思いに話す生徒たち。それが随分と久々なような気がした。どうにもあの家の生活は肩肘張る。秋葉はあのような生活を今までずっと行ってきて、今回当主にまでなったのだから大変だろう。遠野グループの当主は伊達ではないはず。秋葉が望むなら不甲斐ない兄は見せられない。でも、それはそれ、これはこれである。

 

 教室に近づくと、何故か少しだけ教室が騒がしかった。馬鹿みたいな笑い声まで聞こえる。鼓膜を震わせるこの笑い声はあまりに聞き覚えがあった。

 

「もうっ、本当なんだってばぁ!」

 

「だーははははははははっ!!」

 

「ちょっと、ちゃんと聞いてってば乾君っ!!」

 

「ひーひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!!」

 

「もう聞いてってばあ~」

 

「ひははははははははっはははははははははははははははははははははは!!」

 

 神経に障る笑い声。どう考えても、どう贔屓目に候補を探っても有彦だった。

 

 そろりと教室に入る俺の目には、何やらぷんすか怒っている弓塚さんと、腹を抱えて大爆笑している有彦の姿が見えた。

 

「何してんだ、二人とも」

 

 そのまま放置してもよかったが、これ以上有彦が笑っているとあまりに目立つ。そのまま笑い死ねばいいのにと思ったが、放っておくには五月蝿すぎた。内臓に響く。大体俺の机、窓際に設置された机に固まっているので、必然的に声をかけなければならなかった。

 

「あ、遠野君おはよう!遠野君聞いてよっ、乾君ひどいんだよ!」

「よ、よう遠野」

 

 弓塚さんは、有彦に対する態度とは少し変わって俺に挨拶してきた。それに対し有彦は酷い。息も絶え絶えながら、それでも引き攣るように笑っている。笑いすぎたのか、目尻の涙が大変うざい。

 

「まあ、落ち着いてよ弓塚さん。それでどうしたの?」

 

 席に座りながら、あまりに意気込んでいる弓塚さんを宥めすかす。すると弓塚さんは、はっとしながらも少し落ち着きを取り戻し、俺を真っ直ぐに見て、体を寄せてくる。

 

「実は私、昨日」

 

「うん」

 

「幽霊見たんだよ!!」

 

「……はい?」

 

 眼鏡を外し、亀裂だらけの視界を見ながらも目頭を揉んで、眼鏡を制服の袖で拭いて、眼鏡をかける。そして再び弓塚さんを見た。

 

「……はい?」

「もう、遠野君も信じてくれないのっ?昨日私、夜に幽霊見たんだってばっ」

 

 胸の前で握りこぶし。

 

 幽霊って、弓塚さんあなた。

 

 その口ぶりに我慢できなかったのか、横で有彦が馬鹿みたいにまたもや笑い出した。ああ、そういえば有彦は馬鹿だった。周りを見ればクラスメイトもまた、くすくすと笑っていた。教室が騒がしかったのは、これが原因だったか。

 

「幽霊、ですか」

 

「そう、幽霊」

 

「昨日?」

 

「うん、昨日」

 

 真剣に俺を見つめる弓塚さんの瞳は、嘘を言っているようには見えない。でも、どう反応すればいいのだろう。朝からこのような事態に遭遇するなんて想像もしていなかった。

 

 けど、取り合えず言える事がある。

 

「……弓塚さん」

「なに、遠野君?私の話信じてくれるよね?」

「いや、まあ、それは置いといて。……弓塚さん、近いです」

 

 弓塚さんの顔との距離、1cm弱ぐらいだろうか。吐息のかかるような距離に弓塚さんはいた。やたら近い。机の上に身を乗り出すように、弓塚さんは俺に話しかけてきた。眼前に弓塚さんの顔があり、その瞳には俺の姿が見える。そして、今まで気付かなかったが、弓塚さんは肌が綺麗で、人懐っこそうな顔をしている。素直に可愛い顔つきだと思った。

 

「?―――!?にゃっ、嘘っ!?あ、ああああのえと、これは違くて、そそそそのその、誤解なの遠野君!!」

 

 最初、俺が何を言っているのか理解できていなかった弓塚さんだったが、理解が追いついた瞬間顔を一気に赤く染め、慌てて体を離し、あわあわとしていた。なんだろうか、随分と小動物のような感じがする。でも、そんなに俺の顔を側で見たくなかったのだろうか。慌てふためく弓塚さんを落ち着かせようとするが、弓塚さんは全然俺の声を聞いていない。周りはふざけて囃し立てる事はしないが、なんだろうか、俺と弓塚さんを見る視線が妙に温い。

 

「あの、弓塚さん?」

 

「う、ううううううううううううっにゃああああああああああああああああああ!!?」

 

 俺の呼び掛けに応える事もなく、弓塚さんは真っ赤にした顔を隠すように、教室からもの凄い勢いで爆走し出て行った。

 

 そんな弓塚さんをクラスメイトは「また駄目だったか……」「っく、掛け金がっっ」「いい加減遠野も分かってるだろう」「いや、あの遠野だぞ?」「……ああ、そうだったなあ」と好き好きに言っている。

 

 しかし。

 

「何だったんだろう弓塚さん」

「お前、アホだろ?」

 

 有彦だけには言われたくない。

 

 □□□

 

 授業はとんとん拍子に進んでいき、そして今の時間は昼休み、昼食の時間である。俺と有彦、そして授業開始前には教室に戻ってきた弓塚さん―それでも何故か顔はまだ赤かったが―と共に学生食堂へと向かった。

 

「にしても、弓塚が未だに幽霊なんて信じてるとはねえ」

 

 月見うどんを啜りながら有彦は言う。その後方では学食に設置されているテレビ、ビデオデッキがその下に置かれている。そこでは小難しい顔をしたコメンテーターたちが最近の事件や政治に対し、大層なご高説を我が物顔で喚いており、その映像と有彦の間抜けな顔のギャップが笑いを誘う。

 

 弓塚さんはそんな有彦の茶々に機嫌を損ねたようだった。

 

「もうっ、ちゃんと聞いてくれない乾君には何も言わないから」

「ま、信じるのは人それぞれだわなあ。くけけけけ」

「むううううう」

 

 小さく唸りながら頬を膨らませる弓塚さんだった。

 

 人は一時期、そのようなモノを信じる時期がある。それは幼年期、まだ世界がとんでもなく広くて、自分の知らない事があまりに多すぎる頃。その時に教えられた事柄の全ては真実だった。純粋に何かを感じた時、それは理屈を越えた。その理屈さえも良く分からなくて、難しくこんがらがった筋道の証明なんて想像もできない。

 

 でも、少しずつ歳を重ねていき、世界が見え始めたころ、小難しい事も理解できるようになって、そのようなモノが嘘っぱちに見えてしまう。だから、幽霊が見えると公言する人はそれを信じているか、単に見える人だけなのかもしれない。見間違いと言う事も在るだろう。弓塚さんがどちらかなのかは知らない。俺は今までそのようなもの見たこともないから何とも言えない。

 

 しかし、有彦、うどんの汁を飛ばしすぎである。

 

「有彦、其れぐらいにしておけよ。弓塚さんだって、別にからかってるわけじゃなさそうだし」

 

「遠野君……」

 

「確かにな、本人がその気じゃなくてもだ、俺はこう思っちまうぜ。こいつ頭やべえんじゃねえかってな」

 

「!!」

 

 愕然として声も出せない弓塚さんに代わって有彦の頭を殴っておく。わりかし本気で額の辺りを。「ぬおおおぉぉぉ」と有彦は額を抑えながら呻いていたが、当然自業自得だった。俺も腹が空いていたので手加減出来なかったのだろう。憐れとは思わないけれど。

 

「随分と楽しそうですね。遠野君」

 

 ふと、そこに聞きなれない声が聞こえた。仄かに漂うカレーの匂い。声の聞こえた方向に首を傾ける。

 

 俺の斜め後ろ。カレーの乗ったトレーを携え、その人はいつの間にかそこにいた。

 

 見慣れない人だった。青みがかった黒髪に眼鏡をかけた女性。レンズの奥には黒がちの瞳。うちの学校の制服を着ているのだから、この学校の生徒、だろう。落ち着いた雰囲気と、柔らかい表情から、女性が俺らのうちの誰かの知り合いであり、上級生つまりは三年生のようだ。

 

 でも、こんな人、この学校にいただろうか。

 

「――――あ、昨日の」

 

 そして、はたと思い出した。

 

 昨日の朝、俺に手を振ってきた人だった。

 

「よろしければ、ご一緒してもいいですか?」

「何言ってんスか、先輩なら大歓迎っスよ!」

 

 復活の有彦が調子の良い事を言っていた。

 

「あ。そうだ先輩」

 

 俺の正面、有彦と弓塚さんの間に座り、カレーに舌鼓を打つ女性に弓塚さんが声をかけた。

 

「何ですか?弓塚さん」

「この前言ってたお話なんですけど……」

「あ、皆で遊びに行けたらってお話ですね。それじゃ、次の休日なんてどうでしょう。弓塚さん、何かリクエストありますか?」

「え―――っと、じゃあ遊園地なんてどうですか?」

「あ、いいですね、それ」

「お、いいじゃん!俺もつきあおっかな」

 

 俺の目の前で仲のよい会話が広がっていった。その内容から気心知れた会話のようにも聞こえる。けれど、うどんを啜りながら疑問を呈する。

 

「二人とも、この先輩と知り合いなんだ……」

 

 ポツリと零した俺の言葉に、空白が降り立った。女性と話していた二人は怪訝そうな顔つきで俺を見る。

 

「何言ってんだ遠野?」

「前から皆でこうしてお昼食べてたじゃない」

 

 しかし、二人の返した言葉に疑念が高まる。

 

 前から?皆で?

 

 不確かなわだかまりが生じる。

 

 そんな記憶、俺にはない。

 

 本当に、この人が誰か全く覚えていない。

 

 いや、それどころか今まで会ったような事も――――。

 

「ひどいです遠野君!!」

 

 声高々に信じられないと叫ぶ女性。思考が掻き消された。

 

「確かにお引越しとかで疲れているのは分かりますけど」

「何で、引越しの事まで」

 

 不安感が増していく。

 

 なんだ、この感じは。

 

「遠野君がこの前自分で仰ってたじゃないですか」

「そ、そうでしたっけ?」

 

 知らない。そんな事。俺は知らない。

 

「昨日だって窓から手を振ったのにボーっとして」

「い、いや……あれは」

 

 二の句も告げられない。間断なしに言葉をかけられ質問も出来ない。頭がこの人の対応で一杯になる。でも違和感は拭えず。

 

「もしかして……私のこと、忘れちゃったんですか?」

 

 迫る瞳が、俺の目を見る。

 

 自然に俺はその瞳以外、見えなくなって。

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

 

「……すいません、忘れちゃったみたいです。シエル先輩」

 

 不意に、何もかもが、消えた。

 

 そして、すとん、と其処に入り込む。

 

「そっか、シエル先輩だった。何で忘れてたんだ……?」

 

 そうだった。

 

 この人はシエル先輩。俺たちとは仲がよくて、何かとあれば一緒にいた人だった。面倒見もよくて、俺たちは何回も頼ってばかりだった。そんな先輩の事を忘れたなんて、どうかしてる。

 

『えー……続きまして、殺人事件の続報です』

 

 疑問も消えてスッキリとした思考の空白に、その情報は歪みなくすっと耳に滑り込んだ。

 

『本日早朝、河川敷で一連の連続殺人と思われる死体が発見されました。発見された死体は死後三日経過しており……警察では付近の住民に―――』

 

 思わず、聞き入ってしまう。

 

「あー、例の吸血事件ですね。遠野君もやっぱり気になります?」

「いえ、それほどの事じゃないんです……」

 

 でも、この三咲町でこんな事件が起こり続けているとは。琥珀さんも今朝この事件について言っていたけど、本当にこの話は遠くて近い事件だと思う。同じ街で起こっているというのに、俺は昨日まで知らなくて、それほどの関心なんて聞いた当初は持っていなかった。

 

 だけどこうやって絶え間なくこの話を耳にしていると、否応なく意識してしまう。

 

 テレビのほうに意識を戻すと、この事件に対する憶測や犯人像の予想などが立てられていたが、どれもこれもが当たり障りもない情報のくせに、それが真実であると真面目くさって語っていた。それがどうにも滑稽で、俺は何だか馬鹿らしくなり、伸びきる前にうどんを啜りきる事にしたのだった。

 

 そんな俺を、何故か弓塚さんは暫く見続けていた。

 

 □□□

 

 放課後。何となく俺は教室の中に留まっていた。理由らしき理由は見当たらない。強いて言うなら気分としか言いようがない。座りながら窓の向こうからは校門を潜って家路に着く生徒たちの姿が見えた。最近この辺りも物騒な事になっているらしいので、俺も早々にその中に入らなければならないのだが、果たしてそのようには気分が乗らない。どうにもあの家に帰るにはまだ抵抗があるらしい、と俺はあてっずっぽうな理由をこしらえた。

 

 ―――無視できない、空白を感じる。

 

 右手をズボンに潜り込ませ、その中に入っている鉄の塊を握りしめながら、もう片方の手は俺の胸を抑えていた。

 

 それだけで、虚ろが消えるとは思わない。

 

 でも、抑えずには、いられなかった。

 

 少しばかり夕日が傾いている。季節から考えてもやっぱり夕暮れが早くなっているようだった。生徒たちの姿も橙に呑まれていた。

 

 そろそろ、帰らなくてはならないだろう、か。

 

 有耶無耶な抵抗感で帰らないなんて、馬鹿げているか。

 

 まばらな生徒の影に追随するような形で席を立つ。黒板の上に付けられた時計を見れば、先ほど帰りたいと思えない理由を探っていた時間から長針は殆ど変わっていなかった。どうにも俺は適当だった。

 

「あの、遠野君」

 

 階段を降り下駄箱に差し掛かると、そこには弓塚さんの姿があった。

 

 弓塚さんは俺を見かけると、顔を綻ばせた。

 

「弓塚さん……」

「帰り道が同じだから、その、もしよかったら……」

 

 そう言えば帰りの方向が同じと、弓塚さんは昨日言っていた。ならば、そのまま一緒に帰る事もありえるかと思い、了承すると、弓塚さんは凄く嬉しそうにしていた。

 

 残り少ない生徒たちがすれ違う俺たちを見ながら「おっと、遂にさつきに転機がっ」「いや、相手は遠野だぞっ、弓塚の戦力では苦戦必須だ」「まあ、確かにそうではあるが」「しかし、自体が好転した事は確かだな。ここは周りから固めていくのがベストだろう」と好き勝手に言っているが、無視する事にした。しかし、なんで見ず知らずの生徒、それこそ明らかに後輩の人間にそんな事を言われるのかは激しく謎だった。

 

 靴を履いて、俺たちは並んで家路を進んでいった。外の空気は少しだけ寒いと思った。暮れなずむ斜陽に照らされ、俺と弓塚さんは町の中を歩きながら他愛も無い話を続けていた。

 

「今日、実はお父さんが誕生日なんだ」

 

 何気ない言葉に喜びを交えて弓塚さんは言った。

 

「それで、今夜家族でセンチュリーホテルに泊まってレストランで食事をするの」

「へえ……いいね」

「そこってよく雑誌にも載ってるところでね、とってもおいしいイタリアンのお店なんだけど」

 

 本当に弓塚さんは楽しそうに、明るく話していた。

 

 俺の詰まらない対応にも嫌な顔せず、むしろ嬉しそうに。

 

 まるで、それが無理矢理そのように自分を震わせているようにも見えた。

 

 それが気になって、ほっといて置けなくなって、俺は今までの流れも全部断ち切る。それが、ただの興味本位であることは否定の仕様もない。でも、ナニカの影に取り付かれたような弓塚さんを放っておく事が、俺には出来なかった。

 

「あのさ、弓塚さん」

「なに?遠野君」

 

 住宅街に入り込んで、俺たちは分かれ道に差し掛かっていた。聞けばここまでの道が同じなのだと言う。という事は、これ以上先は一緒に帰れない。聞くなら今しかない。

 

「今日、どうしたの?何だか落ち着きがないって言うか、挙動が不審と言うかさ」

 

 ――まるで、怯えているみたいだ。

 

「……やだな、遠野君。そんな訳、ないじゃない」

 

 俺は、弓塚さんの影が増した瞳を見逃さなかった。

 

 揺れる視線に内包された、確かなぐらつき。

 

「もしかして、今日言ってた幽霊関係?」

 

 幽霊の言葉に、一瞬だけ弓塚さんの体が硬直した。分かりやすい反応。だけど、それだけ弓塚さんにとって無視できない事である、と同時に感じとった。

 

 俺たちは、自然に立ち止まった。人気のない道の真ん中で、弓塚さんは俯いて、俺はその前に回りこみながら、弓塚さんの姿を見つめ続けた。

 

「……遠野君ってさ」

 

 静かに、躊躇うように弓塚さんは語りだした。

 

「幽霊って、信じてる?」

 

「……今まで見た事がないから、なんとも言えないけれど。多分いないんじゃないかな」

 

「そう。私もそう思ってる。今まで見た事ないから、そんなのいないって思ってた。でも、それは分かってなかったからだったんだ。どこか、胸の中でそんなのがいるはずないって思い込んでるのに、それをどこかでいるんじゃないかって信じてる自分もいたりして」

 

「それは……」

 

「御伽噺みたいなものってさ、現実にはないものだって分かってるはずなのに、期待したりするんだ。白馬の王子様が助けに来てくれるような、そんな有り得ないような事。それと同じ事だって、昨日気付いたんだ。私がそれを心のどこかで信じてるから、それが出てくるんだって」

 

 ぽつぽつと語る弓塚さんの肩は、震えていた。

 

「昨日、私ね。帰り道の途中で、遠野君を見かけたんだ」

 

「え……?」

 

「昨日の、大体六時ぐらいかな。その時に」

 

「いや、俺はその時間には家に戻ってたから、多分……」

 

「―――気のせい。そうだよね、やっぱり。……昨日、私学校から帰るのが少し遅くなって、一人で帰ってたんだ」

 

 どこか納得をしたような吐息が聞こえる。

 

「先生の手伝いで、もう暗くなってきちゃったんだけど、その時に、私遠野君に似たような人を見つけて、思わず追いかけたんだ。でもその人はちらっとしか見えなくて、追いつこうと思ってても全然追いつけなくて。そうやってる間にあっちの繁華街の方についたの」

 

「……うん」

 

 昨日、俺は真っ直ぐ家に帰った。繁華街のほうには、行ってない。

 

「繁華街でもその人は見えているのに届かなくて、どんどん進んでいくんだ。私、その時になってその人が遠野君なのかって、少しだけ思ってたんだけど、どうしても気になって。そしたら、その人大通りを曲がって路地裏の方に入っていったんだ、それで……」

 

「それで?」

 

「それで、私迷ったんだけど、でも本当に遠野君だったらと思って、追っていこうと思った。でも、その時に」

 

「うん」

 

「―――何かが、私の横を、通り過ぎた」

 

 俯いたままの弓塚さんの表情は見えない。弓塚さんは体だけではなく、声まで震えていた。

 

「その時、なんて言うんだろ。今まで感じたこともないような、寒気、みたいなものを感じて、驚いて周りを探してみたんだけど、何もいなかったんだ」

 

「寒気?それに、いなかったって」

 

「うん。凄く、寒いような。おっきな氷を背中に入れたような、体中が冷たくなるような感じがあった。危ないものを目の前に突き付けられて、それを見て嫌になるような。上手くいえないような、怖さがあった。私、だから急に怖くなって、それを探してみたんだけど、全然見当たらなくて、急いで帰ったんだ」

 

「でも、弓塚さんは、見たんだ」

 

「黒っぽい何か。それが、見えた」

 

 でもそれが何なのか良く分からなくて、弓塚さんは怖くなったと言う。

 

「それで幽霊、か」

 

「うん。……遠野君は、私の話、信じてくれる?」

 

 見上げるように、弓塚さんは少しだけ顔を上げて、俺を見た。

 

 その視線は、不安に震えていた。その瞳を見て、俺は弓塚さんが嘘を言っていないと、漠然に考えた。

 

そんな弓塚さんを、放ってはおけなかった。

 

「信じるよ」

 

「え?」

 

 一瞬の空白。弓塚さんは俺が何を言っているのか理解できないような表情。

 

「俺は、弓塚さんの話を信じる」

 

「え、でも、……どうして?」

 

「だって、弓塚さんは、嘘をつかないって。何となく思ったから」

 

 安っぽい言葉。そんな言葉しか、俺はかけられない。もっと上手い言葉があるんだろうけど、そんなかっこつけた言葉が思い浮かばなかった。無様だった。

 

「そっか」

 

 でも。

 

「遠野君」

 

 弓塚さんは。

 

「ありがとう」

 

 そんな俺に、笑ってくれた。

 

 酷く安心したような、子供が拠り所を見つけたような、混じり気のない、純真の笑み。それは優しい彼女には相応しい気がするような、笑顔だった。夕暮れの柔らかな光と混じって、それは一枚の絵になるような姿だった。

 

「その、上手く言えないけれど、弓塚さんには元気でいて欲しいからさ。俺でよければ話も聞く、出来る限りでいいから」

 

 果たして俺は踏み込んでいいのかと、これ以上弓塚さんの中に入り込むには、躊躇いを覚えた。だから、聞くだけだ、と予防線を引く。俺は、卑怯だ。

 

「それだけで、いい。それで、私は充分だから」

 

 ありがとう。

 

 と弓塚さんの口元から零れてくる感謝の言葉。

 

「この話、本当は色んな人に話したんだ。お父さんにも、お母さんにも。でも誰も、私の話信じてくれなくて、笑ってた。それが、何だか寂しくなって、私」

 

 誰もまともに取り合ってくれなくて、理不尽と理解者の得られなかった弓塚さんの孤独を感じた。それを何とかしたいと思ったけれど、俺には言葉をかけることしか出来なかった。

 

「でも、遠野君は凄いな」

 

「え?」

 

「私の事、助けてくれたから」

 

「……そんな、事」

 

 弓塚さんの言葉に申し訳ない気持ちとなる。

 

 俺は、そんな人間ではない。

 

「ううん。私がそう思うから、そうなんだよ。私が思いたいから、そういう事にしておいてよ」

 

 明るい口ぶりに、これではどちらが励ましていたのか分からないと、少しだけ可笑しくなった。

 

 そんな俺に、弓塚さんも釣られて微笑んだ。

 

 そう言えば、弓塚さんとこんなに話すのは始めての事だった。

 

 改めて意識すると、この状況はかなり不思議な感じがした。

 

 今までこんな事なかったのに、弓塚さんと話し合っている。いつもなら必ず有彦がいた。有彦が調子の良い様な事を言って、それに俺が振り回されて、弓塚さんがそれを見て反応する。そんな関係だった。でも有彦もいない今、俺はこの慣れない筈の空気にキマズクなるどころか、すっかりこの空気に馴染んでいた。

 

 そして気付く。

 

 こんなにも、真っ直ぐに弓塚さんを見たのは、初めてだった。

 

「うん、遠野君に話したらスッキリしたな」

「そっか、それは嬉しいな」

 

 もう其処には、俺の知っている弓塚さんがいた。

 

「また何かあったら聞くよ」

「優しいね、遠野君」

 

 少し話しすぎたかもしれない。夕焼けは眩しさを潜め、空には黒色の夜が訪れ始めていた。それが混濁となって、藍色が見える。それはどこか不可思議な印象を俺に与えた。

 

「それじゃ、弓塚さん。また学校で」

 

 そろそろ帰らないと、秋葉に何を言われるか分からない。門限の時間にはまだなっていないと思うが、あまり遅すぎても良い顔をしないのは見なくても分かる。なんか、秋葉はそういう雰囲気を持っていると確信はしている。

 

 だから、帰らないといけない。

 

「……」

 

 だけど弓塚さんから、声が返ってこない。

 

 ――――そして、見た。

 

 弓塚さんは、固まっていた。

 

「弓塚、さん?」

 

 呼びかける。でも、弓塚さんは固まったまま、目を限界に広げていた。

 

 まるで、何か恐ろしいものにでも出会ったかのように、俺の肩越しの向こう、後ろを見ている。

 

 それに気付いた俺は、急いで後ろに振り向く。この先に、何がいるのかと。

 

「――――――――――っ!!」

 

 橙に照らされて、影の暗がりが強まる斜陽の中、俺の視線の向こうに、それはいた。

 

 ―――和装の人間だった。

 

 藍色の着流しに、下は白い七分丈。

 

 着流しは、どういうわけか俺から見て右側の袖が垂れ下がっていて、緩やかにたなびいている。

 

 左側の腰には黒い色の鞘、日本刀らしきものが佩かれている。

 

 ざんばらに伸ばされたかのような黒髪からは、顔の全貌が見えない。距離が開いているのもあるだろう。

 

 でも、その髪の隙間から、夕闇と黒髪に紛れても、それはハッキリと、見えた。

 

 ―――蒼い、瞳。

 

 虚空を思わすような、深い蒼の色。

 

 それは光すら放つように、蒼く輝いていた。

 

 その姿は影に暈されたように、茫洋。

 

 輪郭は曖昧。幻影のように霞んだ姿。

 

 でも、それは、確かにそこにいた。

 

 ――――幽霊が、そこにいた。

 

「う、あ、ぁぁぁぁ……」

 

 弓塚さんの、力なき悲鳴が頭の後方から聞こえる。

 

 何だ、アレは。

 

 声を張り上げたかった。

 

 全身に蟲たちが這いずり回るような気持ち悪さを感じる。

 

 腹の奥底から、胃液がこみ上げてくる。

 

 口の中に苦味が広がった。

 

 ――――――――――。

 

 死。

 

 それを見つけて、俺たちは意識がそれに飲み込まれていた。

 

 ――――――首。

 

 着流しから覗く、尋常ではない引き締められ方をした右腕。

 

 ――――人の頭部。

 

 生首を、それは右手に掴んでいた。

 

 

 彼らは、逢い見(まみ)えた。

 決して語られるべきではない、物語の始まり。

 葬られるべき、彼岸の断章。

 


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