七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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第一話 黄理

求められている事は、わかっていた。

 望まれている事は、わかっていた。

 成るべきモノは、知っていた。

 為すべきコトは、知っていた。

 己が何なのか。

 そんなの、生まれた時から知っていた。

 それだと言うのに。

 

 今、己は何をしているのだろう。

 

 □□□

 

 咽喉へ迫る銀の斬撃は、冬に照らす月光のように冷たく輝いていた。

 

 空気を薄く切り裂いて袈裟に振り被られた小太刀の刃は、あまりに速過ぎて刃の形が目視できず、線の軌道は鋼色を伸ばし断頭を狙いに来る。それを寸での所、頭部を傾けることでかわすが、首の薄皮一枚をもっていかれた。僅かな痛みを無視している間に遅れた黒髪が数本散り、相手の鋭い眼差しに翳りをもたらした。

 

 しかし、相手はそのような僅かな支障を障害とせず、せせら笑うかのように返しの一撃を揮う。握る腕に捻りも加わり、切っ先は肉を抉ろうと呻りを上げた。

 

 どの角度から小太刀が襲い掛かるのか判断できない。

 しかしそんな思考は無視されて、無慈悲に煌く刃が殺しに迫る――――。

 

 全身が警鐘を打ち鳴らす。

 

 ――――ぞわり、と。

 

 背筋を戦慄が舐めた。

 

 横から脳を穿つ閃光。それを万全の体勢で迎え撃つ事は出来ず、回避する事も出来ない。自身を震わす戦慄と風を突破する刃の音に、真横へと刃を回した。正確な位置も把握できない勘による判断だった。

右手に握る小太刀の腹で受け流そうと、腕では事足りない衝撃を耐えるべく左手の掌を添えた。滑る刃に撃たれた瞬間、骨が響いた。

 

 ぐらつく。脳まで震えるその衝撃に抑え切れず足元が浮ついたが、それを好機と、重心を後方へとずらし、地面を叩く。結果、追撃の小太刀を回避。

 

 開いた彼我の距離は十五メートルもない。

 その時になって、ようやく呼吸を行う。

 

 刹那の交差は瞬きも許さず、呼吸を忘れさせた。酸素が足りない。意識が揺れている。

 荒れる息遣いに、肩で呼吸をする。

 

 思考が雑だ。何を考えているのか定かではない。

 酸素が足りず、痛む肺を堪えて呼吸を果たそうと口を開く。

 

 だがそのような事、相手が、七夜黄理が許すはずが無かった。

 

 息を吸い込んだ瞬間を狙い澄まし、黄理は彼我の距離を一息もつかせずに詰めてくる。

 揺れる視界。突風のように走駆してくる。

 瞬きの内に、黄理は眼前に迫っていた。

 

 研ぎ澄まされた抜き身の刃の気配。切っ先を思わす鋭い視線を象るそれは、獲物を狙う猛禽のそれである。男は冷たい殺意を滲ませて、小太刀を真っ直ぐ心臓の位置へと向けてきていた。

 

 ――――嗚呼、あまりに疾い。

 

 思考は最早役に立っていない。感慨だけが浮かんでは消える。

 

 幾度と無く繰り返された切り結びは優勢とはあまりに遠い状況にあった。

 劣勢以外の言葉さえも見つからぬ、厳しい現状だった。

 

 高められた錬度が違う。鍛えられた密度が違う。

 七夜黄理が修める技量の底は見据える事も出来ず、こちらが拵えた稚拙な攻勢は幼子をあやす子守のようにあしらわれ、転ばされ、飛ばされた。

 

 それは自身が子供という事もある。成長過渡期にある未成熟な肉体では、完成された大人の圧力と拮抗できない。あまりに体重が軽いのだ。攻撃は通らず、防御は果たせず。

 自身の現状は把握している。既に追い縋るだけで精一杯だ。着流しには泥がついて、転んだ拍子に出来た擦り傷や、打ち込まれて回避できず打ち身も到る所にある。小太刀を握る手には力も入らなくなってきている。酸素も足りず肺が痛い。

 

 しかし、相手はどうだ。無傷で、疲労もない。まるで変化がない。

 両者の力量は歴然と横たわっている。

 

 それはそうだ。

 その様な事、全て承知していた。

 

 ――――迫る、刃。

 

 腕を伸ばせば届く距離に黄理はいた。

 

 黄理の構える刃はぶれることなく、明確な死を突きつけていた。

 死神の刺突である。死神から逃れる術などない。

 では、死神に対してどうする。

 

 このままあっけなく倒れるか。それとも――――。

 

「――――っ」

 

 肉体は容赦なく反応を示す。躍動を始める筋肉が血管を圧縮する。

 

 それは、敗北を喫しようとする者の最後ではない。

 

 瞬時、風が轟く。足が思考を超えて、関節の稼動を果たした。

 

 心臓へと突き刺さるはずだった小太刀の揮いを屈み込んでかわしていく。

 頭上に残酷な刃の輝きと、無機質な男の瞳が過ぎる。

 

 体勢は低い。四肢は土をなぞり、地面を這うような姿勢と化した。

 蟲の如きその姿に黄理は右手に握る小太刀を指の動きのみで逆手へと組み換えて、背面へと突き立てんと振り下ろし。

 

 ――――その眼球を、小太刀が捉えた。

 

「――――」

 

 肉体が限界まで高められた速度で腰元から捻られ、地を這う姿勢から回転を果たす。その胴は天へと向けられ、連動する腕は躊躇い無く小太刀を射出した。

 

 彼我の距離は言うまでも無く超近接。心臓の鼓動まで伝わりそうな間隙。こんな距離で、こんな合間で己の武器を投擲する。それを無謀と嘲う者はここにはいない。ただ結果だけが巻き起こる。

 

 飛来する刃を黄理は回避ではなく、小太刀によって打ち払う。

 

 甲高い鋼の悲鳴。

 襲撃した刃は弾かれた。

 

 企みが失敗したのではない。

 

 むしろこれこそ――――。

 

 左腕が地面を叩きつける。指先まで込められた力が強引に身体を起き上がらせ、無理矢理右足を動かして地面に突き立てた。嫌な音を立てて筋肉繊維が膨れ上がる。その痛みを無視して、奥歯を噛み締めた。

 

 すると、どうだ。

 

 ――――黄理の顔が、最早目の前にある。

 

 推進力は上へと立ち上る。全身は押し込められたバネ仕掛けだった。緊張を保つスプリングは螺旋を描いて解放を喜び、右腕は振り上げられた。勢いのままに振りぬかれる腕は真っ直ぐに黄理へと突き刺さるために、駆動を果たす。

 

 黄理の小太刀は遠い。迫る身体に突き刺すには、遡る右腕と比べればあまりに遅い。

 

 頭蓋を破壊し、脳をぶちまける膂力が込められた一撃。

 拳の形は掌底。顎を打ち砕く威力を余すことなく一点へ。

 

 それが真っ直ぐに肉体へと突き刺さり。

 

 不可視の衝撃が米神を撃ち抜いた。

 

 □□□

 

 不意に、目が覚めた。乾いた土の固い感触が背中にあり、どうやら自分は倒れているのだと気付く。そのまま倒れているわけにはいかぬと朧に起き上がろうとするが、なぜか身体に力が入らない。

 

 これは、一体なんだ。

 

 何故自分は立ち上がることが出来ないのだ。肉体は立ち上がろうとしているのに、どうにもまともに動いてくれない。

 

「起きたか、朔」

 

 不可思議な現象に暫し時を置いていると、その頭上から無遠慮な声音が降り注いだ。

 聞き間違える事のない、朔と名を呼ばれた子供には特別な声だった。

 

「御館様」

 

 力も無く横たわり、起き上がる気力も揮わないまま、頭部を覗き込むような位置に佇む男、七夜黄理を朔は見上げた。

 

 そして、自分が負けたことを朔は悟った。

 

「負けました」

「そうだな」

 

 声が少し変だった。そして今しがたになり咽喉が渇いているのだと朔は気付いた。

 

「どうして」

「小太刀を弾いたが、そのまま捻って左手に持ち替えた」

 

 そして柄で打ったのだと、黄理は静謐に言った。

 

 確かに、あのまま右手に小太刀を構えていたら迎撃は叶わなかった。それゆえ振りぬかれた右腕を背面へと勢いのままに運び、そこで右手に持ち替えたのだと言う。

 

 それを安易に言葉にするが、それがどれほどの技量であるか。瞬時の判断、実際に行える技巧。どれもが並みの事ではない。

 

 だが、ああ、そうかと納得してしまうのはこの男の実力ゆえだった。

 

 七夜黄理。殺人機械、鬼神、殺人鬼。幾つもの仇名を冠された退魔一族七夜の現当主。

 

 目の前にいる男はひたすらに強く、その差は目に届かないほどにある。朔など歯牙にもかけぬ遥か高みに存し、手加減されて尚勝てない。

 

 本来、七夜黄理の得物は小太刀ではない。黄理自身の得物はもっと別のものにある。それでいて今回の組み手では黄理は小太刀以外を使用しないという枷まで課していたにも関わらず、無様にもこうして倒れ伏している。いや、そのような枷があっても朔では黄理には未だ届かないだろう。どれだけ幸運が巡り、例え目前の男が組み手最中にすっころんだと言うありえないような事態が起ころうとも、朔は黄理に勝てる映像が浮かんでこない。

 

 つまり、七夜黄理はそういう存在だった。挑むのも無謀な果て無き極地を闊歩する鬼神である。核が違う、そもそも立っている場所が違う、次元が違う。勝つ事も、越える事も叶わぬ七夜最強の男である。

 

 だが、それがわかっていても――――朔は。

 

「次を」

「あ?」

 

 七夜黄理の背中を朔は追い続けるのみである。

 

「次をお願いします」

「……お前一人に構える時間はもう無い」

 

 にべも無く、切って捨てられた。

 

 しかしそれもそうか、と朔は思う。

 

 早朝から行われる訓練において組み手は冷めた熱を帯びて次第に殺し合いへと昇華し、今では正午になっていた。

 

 黄理との訓練に於いて気を抜けばあっさり死体と化す。それは訓練とは呼べぬ濃密な本番であった。事実これまで行われた組み手で朔は死にそうな目に幾度と無くあっている。瞬時の判断を誤り咽喉を潰され、骨を折られ、肉を裂かれた。意識を奪われる事などざらで、黄理の訓練はいつも苦痛を伴っている。

しかし、これほどまでに充足される瞬間を朔は知らない。

 

 故に時がどれほど流れても全く気付かないのだ。

 時間は訓練終了の時間である正午へと辿り着いたのだろう。

 

 気付けば黄理はその場から立ち去ろうとしていた。倒れ伏し、脳を揺らされた朔を介抱する気なぞないのだろう。朔もそれを望んでいないのだから構わないが。

 

「……―――さーん!」

 

 すると、遠くから声が聞こえてきた。それと同時に地面へと接触する朔の背に規則的な振動が伝わり、近づいてくる人間の気配があった。

 

「父さーーーーーーーーーん!」

 

 幼い子犬を思わす、子供の声。

 

 声が聞こえる方角へ首を傾けると訓練場に一人の子供、それも朔とそう歳の変わらなさそうな男の子の姿があった。子供は元気良く腕を振り回して黄理へと駆け寄っていく。

 

 あの子供こそ黄理の息子である七夜志貴だった。

 

 そして、朔は見た。

 

「志貴」

 

 それまで無機質めいた男の姿に、確かな温度が生まれた瞬間を。視線を僅かに緩ませて、黄理は志貴を迎える。そのぬくもりは、朔には向けられる事のない温度だった。

 

 七夜朔は七夜黄理の子ではない。身内殺しを行った黄理の兄の子供である。身内殺しは一族に於いて禁忌でしかなく、兄は朔が生まれた瞬間にはこの世には命を散らしたのである。目前にいる黄理の手によって。母と呼ばれる人物も出産に伴って亡くなっている事から、朔に対し黄理は温度を生み出さない。それもそうだろう、と朔は思う。禁忌を犯した者の子に対し、何を傾ければいいのか。

 

 それゆえ、この自身の待遇は恵まれたものであった。少なくとも朔は冷遇されても可笑しくは無い状況にある。それでも朔がこうやって生きているのは、朔を黄理が引き取ったからに他ならない。

 

 ただ、それをどうこう思う感慨を朔はまるで抱いていない事が問題であった。

 

 視線の向こうで黄理と志貴はなにやら楽しげに会話をしている。何を話しているのかまでは把握も出来ず興味もなかったが、それでも視線を外す事はなかった。出来なかった。

 そうしているうちに、黄理の子供である志貴がちらちらと視線を寄越してくるのがわかった。好奇心だろう。隔絶された扱いを受ける朔に興味を抱いたのかもしれない。しかし、そんな納得をする朔だからだろう。

 

 志貴の表情が心配そうな影を差し込んでいるのが理解できなかった。

 

 確かに、起き上がらぬ人間がじっと見てくるのは気分を害するだろうと、朔は視線を外した。そして空を見た。

 

 鬱蒼と茂る森の合間から差し込む太陽が眩しい。

 それを、無機質な瞳で見続けた。

 

 □□□

 

 求められている事は、わかっていた。

 望まれている事は、わかっていた。

 成るべきモノは、知っていた。

 為すべきコトは、知っていた。

 己が何なのか。

 そんなの、生まれた時から知っていた。

 それだと言うのに。

 今、己は何をしているのだろう。

 退魔組織から抜け出した七夜。最早修めた術理を行使することもない。

 しかし、自分は退魔の術理をひたすらに極めようとしている。

 一体、何を得ればいいのだろうか。

 己は、得てもいいのだろうか。

 一体、何を求めればいいのだろうか。

 己は、求めてもいいのだろうか。

 

 己は、一体何を為せばいいのだろうか。

 

 □□□

 

 七夜朔。七歳。

 訓練にて黄理に敗北する。


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