もしよろしければお書きください。
私の血となり、肉となり、骨となります。
では、どうぞ。
――――――――――な――――――――――――――――――――――――――っ―――――――――、―――――――――――――ぁ――――――――――――――――――――――――――。―――――――――――――――――――さ―――――――――――――――――――。
音が、聞こえる。
……………………………………遠く、果ての方から。音が。
――――――い―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
……だが、それも、やがて薄れ。
そして、消えた。
…………………………………………………………………………………………。
沈黙に、身を委ねる。
――――それが少しだけ、心地よく思えた。
………………………………………… ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
□□□
始めて朔を抱いたあの日。それ以降、朔と関わる事など無かった。朔は妹が世話を名乗り出て、自分はあの頃朔に興味を覚えなかった。殺人を考察し続ける殺人機械。それだけの男だった。朔の存在はすぐさま記憶の奥底に消えていった。
それからも変わらぬ暗殺の日々。ひたすら己の腕を磨き、どれだけ巧く人体を解体できるかのみに思考は置かれた。リノリウムのように黄理にとっては変わることのない時間。そのまま黄理は自分は一生を殺し屋として生きていくと考え、決めていた。だが、それが変わったのは志貴が生まれてからだった。自分の息子。跡継ぎのために生まれた子供。その存在が黄理を変えたのである。そしてその時になって、黄理は朔の存在を思い出したのだ。
自身が殺した兄の子供。元より黄理の兄妹は七夜としての血が濃く、妹は魔に怯え、兄はそれに飲み込まれていた。殺人に酔い、狂いの果てに子を産んだばかりの妻を殺めた。里の掟により兄は黄理の手によって粛清されたが、それが意味するところは、朔には親がいなくなった事だった。父は粛清され、母は父によって殺された。そして、朔は生まれながらに一人となったのである。
後悔は無い。兄ではあったが、理性をなくした獣と化した兄に情をかけるほど、あの頃の黄理は人間ではなかった。
ただ、未練はあった。過去に兄と過ごした日々を思い出すこともあった。そして、志貴が生まれた後、それが何であるかを知った時、黄理は未練を知ったのである。
その兄の、子供。
理由はどうあれ、黄理が朔の父を奪ったのは消えない事実。
この気持ちは罪悪なのか、それとも贖罪なのか。それは黄理には判断しかねる。
故に黄理は自身の手で兄を殺しておきながら、父となろうとしている。
ただ、日増しに成長していく朔の姿を見るのは心安らぎ、訓練で頭角を現す朔に目を見張り、志貴と共にいる朔を見ていると和んだ。志貴が生まれたあの時から、黄理は人間らしさを手に入れたのだ。
この気持ちが何か、未だ分からない。ただ、それでも、黄理は朔の父に成りたかった。
傲慢だ。自らの手で父親を奪っておきながら、自らが父に成ろうとしているのである。
無機質な子供。空虚が形を成したような子供。
かつての自分を思い起こさせるには、朔はあまりに黄理と似すぎている。
殺人機械と呼び恐れられ、血水を浴びる殺人鬼に。殺戮を重ね屍の道を成すだけの存在に。七夜の自分はそうなるように求めている。
だが、父である自分はどうだろうか。
父である黄理は朔を自身の子供のように思っている。故に朔には自分のようにはなってほしくない。しかし、今更何を言えるのだろう。存在さえも忘れて、今更父親面など。
接し方が分からない。志貴とは違う、自身の罪のような子供である。故に黄理には、戦闘訓練以外の接し方が出来なかった。それだけが黄理に出来る朔との時間だった。
だが、黄理が朔との時間を増やすため訓練を重ねるごとに、朔は黄理の姿に近づいていく。風貌が、ではない。無情。無機質。黄理の内包する全てが朔にはある。それをどうすることも出来ずに、時は過ぎ、朔は力をつけていく。
無力。朔に近づきたいのに、近づくほどに朔は黄理がなってほしくない存在へと近づく。黄理のように、あるいは兄のように。
それでも、黄理は朔の父でありたかった。
何て我儘。自分の都合でしか考えられない愚者。
しかし、それでも、黄理は――――。
故に。
こいつだけは、生かしておけない。
「―――――――――っ」
交差の瞬間に振りぬかれた撥。殴打器であるそれは鉄の輝きを放ちながら、混血軋間紅摩の肉体を刻む。七夜最高の七夜である黄理の技量により、ただの殴打器は人体を解体しせる威力を秘める――――。
迫る威圧。迸る殺気。
そして。
――――甲高い、金属を打ち付けたような悲鳴が響いた。
激情は無い。憎悪は無い。
心はただ凍てつき、温もりは消えた。
身体を捻り、独楽のように回転しながら、紅摩に反撃する思考すら与えず一撃を放つ。地面が抉れた。関節の軋み。足の指から伝達される力は分散することなく脚を、背骨を、腕を通る。閃光の如く、鋼色が延びる。狙いは人中。顔面を砕かんばかりに突きの一撃。
やることはかつてと変わらない。
いつもどおりに、殺すのみ。
顔の中心、紅摩の急所に突き刺さる鋼を無視し、僅かばかりに仰け反る紅摩の側頭部に左の撥が奔る。それは米神を強かに打ちつけ、紅摩の脳を撒き散らそうとする。だが、硬い。人間の感触が、伝わってこない。骨の硬さではない。密度の高い金属の山に打ち付けたような痺れが腕に伝わってくる。
黄理は機械だ。
殺人を考察し続ける殺人機械。それがかつての黄理の姿であった。
志貴が生まれ、憑き物が落ちはしたものの、人間の本質はそう簡単に変わらない。
黄理は機械でしかないのだ。
そして、その首筋。
紅摩の巨木めいた首筋に僅かばかりに突き刺さる、銀色。
朔の小太刀。紅摩の首筋に突き刺さり、血が僅かに滲んでいる。
柄に向かい、掌底を叩き込む。
小太刀の柄が破砕した。だが、少しだけ、小太刀の刃が紅摩の首筋に入り込み、血の滲みが増していく。紅摩の鋼の肉体に、血が滲んでいく。
「っ!」
鋭い痛みを、紅摩は感じた。今まで、紅摩が感じたこともないような、刃物の痛み。紅摩の肉体に刃物が勝る。それは今まで体験もしたことのない痛みを、紅摩に与えた。僅かな、本当に極僅かに皮を裂いて肉に入り込む。そして肉が切れた。これだけの事。それだけの事である。だが、その痛みを、紅摩は知らなかった。
かつて、掠れそうなほど遠い記憶の奥底。子供だった紅摩は軋間の一族の手によってその米神を拳銃で撃たれたことがある。そしてその時には、血すら流さなかったのだ。
その紅摩の肉体に、血が滲んでいる。
この意味。朔の一撃は、紅摩に確かに届いていたのだ。
命を奪う事は敵わなかった。想い遂げられず、朔は敗北した。
だが、その起死回生の一撃は、紅摩の肉体に傷を負わず所業を成し遂げていたのである。
そこを黄理は強かに打った。肉を裂く刃。紅摩の傷は深くなる。
「――――――――――!」
豪放。
それを表現するには、その言葉しかなかった。
紅摩の直線的な拳の一撃が、黄理の身体目掛けて放たれる。唸りを上げて迫る拳。黄理に瞬きを与える事もさせず、空気を突き抜けて放たれた拳を、黄理は周囲に乱立する木へと閃走で回避。その木を足場に、再び跳躍。駆ける術理である七夜の空間移動術閃走。足腰の可変を強化することによって可能な変則的な移動は、人間の動きではない。
朔と同等以上の疾さで駆け巡る黄理の姿を、紅摩は視認できていない。
月明かり眩しい夜の森。影に暗闇に鬱蒼と茂る森の中、黄理の姿は溶け込んでいく。身につける黒衣、式神にも勝る隠密に紅摩は対応できない。
そして紅摩の頭上。木々よりも高く夜の空を突き破り、黄理は急降下していった。夜を滑る黄理の目には紅摩の姿。
迫る黄理に気付いた紅摩であったが、時既に遅い。
黄理を相手にするには、あまりに遅すぎる。
紅摩が迎撃するよりも、防御し回避するより疾く。
黄理の踵。それが紅摩の頭頂、唐竹に突き落とされた。
かつて朔にも食らわしたそれよりも圧倒的膂力、それに加え落下速度、自身の体重が込められたその一撃に、紅摩の膝が怯み足元が沈む。
「っく!!」
呻き声にも似た呼吸が聞こえる。僅かに沈んだ膝を跳ね直すと同時に、紅摩の掌が頭部に突き刺さった足に向かい伸ばされる。朔を掴んだ圧壊の拳。子供の朔すら潰せた人外の握撃は黄理の肉体などあっけなく握り潰す―――。
しかし、それは空を切った。
翻る。空間を柔らかく舞い、旋回する黄理に紅摩の拳が外れた。そして背中から黄理の足が伸びる。鞭の如くにしなりながら、刺突の爪先が紅摩の首筋に襲い掛かった。
黄理の全身は言うに及ばず、黄理の限界まで鍛えこまれている。長く鍛えられた身体は正に凶器であり、例えば爪先の一撃は鋭ささえ得ている。人間であればそのまま首を落とすような一撃を、紅摩は嫌い打ち払おうとするが、防御に回された腕を掻い潜り、黄理の爪先が紅摩の首筋に突き刺さる。深く刺さる衝撃に紅摩の筋肉が痛み、爪先が刃を打ち付けた。更にめり込んで行く刃。それが紅摩の肉を裂いていく。それを紅摩は突進を敢行することで無理矢理黄理を弾き飛ばし――――。
「っがぁ!!?」
紅摩の後頭部を、衝撃が襲った。
後頭部が人間にとってどれほど危険なのか。背筋に近く、神経の集中する頸部、脳幹、脊髄を脳髄を守るにはあまりに薄い骨。後頭部を強打するだけで人は簡単に死ぬ。
そしてその部分に、紅摩は言い難い鈍痛を受けた。頭が割れんばかりに痛む。
―――何が、起こったのか。
理解が追いつかぬ紅摩の視界に、黄理の姿が見えなかった。
その光景を客観的に理解できるものはどれほどいるだろうか。
吹き飛ばされた黄理が、瞬時に紅摩の後方に現われ、その後頭部を撃ったのである。
紅摩の突進を黄理は確かに喰らった。だが、それはほんの刹那に過ぎない。
確かに衝撃は凄まじい。人間如き安易に磨り潰す突進を足の裏で受け、衝撃を殺した黄理は後方に飛びながら、吹き飛ばされる方向を修正し、木に着地して紅摩の背後に向い、反応すら出来ぬ疾さで翔けたのである。
言葉で現すにはあまりに疾く、言葉だけではその絶技を表すこともできない。
だが紅摩が黄理を探るよりも先に、後方に着地音が聞こえた。
振り向く。
そこには既に、撥を振り上げた、黄理の姿があった。
状況は黄理が優勢だった。
そもそも、黄理は朔の指針であり、そして師範である。朔に動き、技、重心移動、はては気配の消し方、効率のよい人体破壊術。それら全てを教え込んだのは黄理だ。確かに朔の成長は目覚しい。時期に里一番の七夜になる。だが、黄理は七夜最強の男である。その黄理が朔よりも劣っているはずが無い
紅摩に反撃させる余地を与えず、黄理の波濤は止まる事を知らない。紅摩を殺す。解体する。生きたまま解体してやる。殺し尽くしてやる。黄理の瞳、その蒼の瞳は嘲いながら紅摩の姿を捉えている。
黄理の魔眼は思念の可視化。人は思念を隠すことが出来ない。その瞳に紅摩の姿はいる。赤い思念を噴出させて。
人間の思念は濁った透明だ。その流れは緩急によって感情を映し出すが、稀にそれ以外の色を持つ存在がいる。そしてそれは人間と呼ぶこともおこがましい人外の化生であるが、黄理の視界には朱の色が激しく噴出していく。
流石は紅赤朱であると言えようか。その存在は完全に化け物だ。軋間には人間の血も混じっていると聞くが、それは本当だろうか、と黄理は思う。
そう、この気配。そうだ、昔暗殺の際にかつて感じたことのある、圧倒的化け物の感覚。
それが今、こうして黄理の目前にいる。
あの頃よりも、更なる化生と化して。
―――それを証明するかのように、黄理は未だ紅摩を殺していない。
鍛えこんだ技量。人体をどれだけ巧く解体できるかのみ探求し続けた黄理の技を、紅摩は身に受けながら、未だ生きている。黄理が全てをかけてきた殺す術を、紅摩は血を僅かに流す呑みでいる。これは驚嘆に値する事である。それがこうして、殺し合いという結果を招いた。
こんな化け物を相手に、朔は立ち向かったのか。
――――そして、こいつが、この餓鬼が、朔をあのような姿に変えたのか。
地に降り立つ黄理の視界に、それが映る。踏み込む地面は赤黒い。
地面に落ちた朔の左腕。千切られた腕は力なく、地面にある。
肉体の一部が欠損する事はどれほどの事か。肉体的精神的影響は計り知れない。特に肉朔は体を千切られたのだ。黄理では想像もできぬ痛みが朔を襲ったに違いない。
――――心がざらつく。
朔を傷つけただけでこの混血は許されない。紅摩は黄理の禁忌に触れたのだ。死しても許しはしない。殺してもう一度殺す。殺し尽くしてやる。
紅摩の分厚く高密度の筋肉、生命力は今まで黄理が暗殺してきた混血とは比べ物にならない。黄理の技が通用しない。
だが、それが何だと言うのか。
通用しないなら、届かせるまで。
紅摩の首筋に突き刺さった、光る冷たい刃に血がつたう。
あれは紅摩の肉を裂いている。朔が紅摩に届いた証。肉に刃が突き刺さっているのだ。ならばあれは殺せる存在。
それを執拗に狙うことで、紅摩を殺す算段を立てる。
決定打、ではない。
決定打には位置が違う。刃が刺さっているのは首筋。分厚い筋肉に覆われた首の筋。
狙いは喉。確実に破壊することで、人外の命を潰す。
人外を殺すための段取りを考える。
殺し合いは黄理には始めてのことだ。暗殺者として大成した黄理はその圧倒的な強さにより、何かと勝負し殺し合う事は今までなかった、このような殺し合いと言う始めての経験の中、それでも黄理は馴れない状況でありながら、紅摩を殺すと動き続ける。
空間を立体的に動くその様。
周囲の木々を足場に、移動するその姿。
狡猾に、確実に、対象を狙い殺すその暗殺者を。
人は蜘蛛のようと称し。
混血は黄理を鬼神と呼び恐れた。
―――鋼が冷たく輝いた。月光を浴び、閃光を放ちながら撥の打ち下ろしが迫る。
それを紅摩は無理矢理の突進で回避。地面を踏み砕いて突き進むその姿は硬質な身体と相まって、紅摩の姿を犀のように思わせる。幾度黄理が打ちのめそうとも、ダメージを与えようとも、紅摩は黄理に迫ってくる。風を巻き起こし、混血は止まらない。軋間紅摩は止まらない。
黄理を轢殺せんばかりに奔る。今この時に至って、紅摩はこの時を待ち望んでいた自分の正しさを実感していた。この森に訪れた自身の判断を認めた。
なぜなら、この森で紅摩は多くの始めてを体験したのだ。
始めて殺し合いをした。
始めて血を流した。
始めて、人間に圧倒されている。
知らず、紅摩の肉体が熱を帯び始めている。
それに戸惑いを覚えることも無く、紅摩は黄理に突っ込む。
だが、その姿がまたもや消えた。
それと全く同じに、
「ぐっ!」
胸骨が痛みを感じた。打ち据えられた痛み。心臓の上。そこは、投擲された朔の腕がめり込んだ場所である。そこに殴られたような痛みがあった。
おそらく、朔の投擲により元からその部分は傷めていた可能性。真っ直ぐに心臓を狙ったその一撃は、紅摩の胸骨を強かに打ち、罅を与えていたのである。
そこを狙った黄理の一撃に、紅摩の胸が痛み出す。亀裂の走る紅摩の骨が、軋みだした。起点は既にある。朔の一撃。後はそこに衝撃を与えれば、いくら紅摩の肉体であろうとも耐えることは出来ない。何せ紅摩の相手は黄理。純粋な戦闘力であれば、朔以上。
だが、それもまた、紅摩には始めての事だった。
痛みを感じるごとに紅摩の身体が熱を帯びていく。痛みがあるということは生きていることだ。痛みは肉体からの訴えである。すべからず、生命活動に支障を起こさせる可能性を訴えている。
それは、軋間紅摩が生きているからに他ならない、はず。実感はつかめない。いまだ紅摩に理解は出来ない。
故に、それらをもっと感じたくて。
あの日感じた何かを分かりたくて。
届かないと分かりながら、紅摩は拳を振るった。
そして紅摩自身も気が付かず、紅摩の全身が、みしり、と音をたてた。
みちみち、と筋肉が盛り上がり、鋼鉄の身体が彫刻のような陰影を更に深め、一種異様としか言いようがない姿へと、肉体が変わっていく。
その表面には陽炎。体温と呼ぶにはあまりに高温。
それは、いっそ炎だった。
熱が、空気を焦がす。
□□□
「触診の結果罅が二箇所、完全骨折が肋骨を含み七箇所。粉砕骨折は左鎖骨一箇所のみ。膝周囲の筋肉が断線している可能性あり。腱に損傷はなし。今現在内臓に影響ないようですが、左の折れた肋骨が少々危ういかも知れません」
「朔の止血はどうなった!」
「肩以外は大丈夫です。しかし、依然肩からの出血は完全には止まっていませんっ!」
「糸を用意しろっ、暗殺に使うもので良い。それを肩に縛って止血を完成させろ!傷口は洗い邪魔なものを落とせっ」
「縫合はしないのですかっ」
「傷口が荒れすぎている!縫合は今は不可能だ!今は綺麗にして包帯を巻くんだ!」
平屋の中、朔を中心に多くの七夜が動き回る。この平屋はかつて、朔と志貴が共に座学を行った場所であった。普段は使われていない平屋は火がついたかのように騒々しい。横にされた朔を中心に七夜の者が慌しく動き回っている。
木張りの床に寝かされた朔の姿。物言わぬ死体のような姿である。ここに到るまでに朔が流した血は決して楽観視出来る量ではない。お湯を浸した布によって拭われた身体には幾つものチアノーゼが現われていた。血が足りず、肉体に血液が回っていない証拠である。顔色は既に土気色。唇は青く、その姿は死人。
左上半身は破壊されている。人外紅摩の一撃のみで朔の鍛えられている肉体は破損した。引き千切られた左肩。そこから先には腕がない。
それでも、朔はまだ生きている。僅かに、ほんの少しだけ上下する胸の動きと、脈の鼓動。それだけが、朔の存命を伝えてくれる。
――――だが、ここに運ばれるまでの出血を考えれば、朔が助かる見込みはかなり薄い。朔はこのまま死に絶えるのではないだろうか――――。
「五月蝿い!増血剤はまだかっ」
自身の内側から囁きかける妄想を掃う。
医者はいない。いたにはいたが、流れ弾に巻き込まれ既に死人だ。故に朔を本格的に治療できる人間はこの場所にいない。頼れるのは訓練の際に習っていた応急処置のみ。
しかし、死なせない。死なせはしない。
まだ朔には、これからがある。
「増血剤今届きました!」
「よし、至急朔に投与しろっ!」
「っ!お待ちくださいっ。止血も終わっていない今増血剤を投与しても出血が増すだけですっ」
「その出血を止める前に朔が死んでしまうっ。血が足りないんだ、今直ぐ投与しろっ!」
「!分かりましたっ、朔様に嚥下させます!」
「――――!待て、それは私がやるっ」
そう言って私は一族は運んできた増血剤を引っ手繰るように奪った。手の中に握られた瓶は、以前里の結界を強化させた魔術師から買い付けたものだった。薄黒い瓶の中に液体状の薬が入っている。失われたものは戻らない。流れた血は戻りはしない。なら今あるものを増やせば良い、と内臓を活性化させ強引に造血させるこの薬は作られたと聞く。効果は期待できる。即効性の薬は瞬く間に骨髄へと染み渡り、造血細胞を無理矢理作り上げていく。
だが、無論副作用が存在する。
この薬。云わば劇薬である。肉体に負担をかけ、その効果を発揮することで人工的に血液を作り上げるのだ。血液を構成する成分は無論、心臓を強引に脈動させることで、全身に血液を流し込んでいく。衰弱している朔にはあまりに酷。死にかけの身体に文字通り追い討ちをかけるのである。無い物を無理やり作り出していくのだ。反動に服用したものは暫く目が覚めない。少なくとも一ヶ月。魔術師の実験からすれば平均三ヶ月以上、目が覚めない。
――――それに、朔の肉体が耐え切らなければ、朔は死んでしまうかもしれない。
「朔……」
力なく横たわる朔の頭部裏にゆっくりと腕を回し、持ち上げる。
何処を見ているのかも分からなかった瞳は虚空を思わす蒼。だが、それも輝きはなく、生者の瞳とは程遠い。まるで死んでいるかのよう。身体は冷たい。熱がない。
死なせはしない。自分は朔の側にい続けると決めたのだ。かつての誓い。側に誰もいない朔の側にい続ける、果たすことの出来なかった誓い。
それは私の弱さだった。長兄に抱いた恐怖を、朔に対して抱いてしまったのだ。あの時、混血と出会った朔の豹変に私は長兄の姿を重ねたのだ。厚かましい女だ。恐れを誤魔化すように、兄様に当たったのだ。
朔を信じることも出来ない莫迦な女。どうしようもない愚か。
だが、朔の事は何よりも大切だった。朔といる時間は心安らいだ。気付けば朔の事ばかり考えている自分がいた。訓練に傷を作った朔の事が心配だった。朔がいない事は何よりも辛い事だった。
私は愚かだ。救い様もない愚かな女だ。自分に都合の良い、最低な女だ。
それでも、
「戻って来い」
朔が好きなんだ。
どうしようもないくらい、朔の事が好きだ。
だから、朔を失いたくない。
朔を死なせたくない。
「――――――――っ」
瓶の中身を一気に口に含む。
形容しがたい匂い、味が充満する。以前外界から手に入った珈琲に甘ったるい苺が絞られたような、臭みのある酸味が更にぶちまけられた様な、身体に悪い味だ。
だが、これで朔が救われるならば―――。
「……ん」
力もない朔の唇に口付け、舌をねじ込み、喉を開かせる。舌根が喉に落ちていかないように舌で絡ませ抑えておく。口内から液体が朔へと流れていく感覚があった。
始めて味わう朔の口内に背筋が痺れた。こんな時でありながら、結果的に朔へ口付けを交わした事で、少しだけ内側が疼いていく。甘く、痺れるようなもどかしい感覚。口元は増血剤と唾液に濡れた。私たちの口元を伝い、透明な滴が落ちていく。
「んむぅ……」
朔の口内に、硬いものがある。柔らかな口内の異物に気付き、欠片のように転がされていくそれを、取り除くため舌を這わしていく。舌先で歯をなぞる様に伝っていた先、奥歯の辺りへと深く侵入していきそれを見つける。それを慎重に私の中へと運んでいく。
唇を離す。唇に透明の糸がつながった。口に中にあるものを吐き出すとそこには、歯の破片があった。恐らく衝撃に耐え切れず割れたのか。
そして、増血剤の効果は私の想像以上の速さで現われ始めた。
「朔っ!?」
びくん、と一度朔の身体が震えた。劇的な速さで、死に掛けた顔色の血色が次第に良くなっていく。染み渡るように肉体の冷たさは、徐々にではあるが温かみを増していっている気がした。
心臓の鼓動が加速していく。朔の肉体が発熱し、命を生かせようと脈打つ。
「止血完了いたしましたっ」
止血を行っていた七夜が声を上げる。見やると、朔の左肩に清潔な白い包帯が巻かれていた。ギリギリ間に合ったらしい。
「そう、か……」
緊張状態が、ふと弛緩した。
増血剤の効果で朔は暫く目が覚めない。長の間、眠りの底についているだろう。しかし、これは応急処置の段階でしかない。本格的な治療には医者がいない。
その間まで、どうにかしてこの襲撃を凌がなければならない。
ここは私たちの森、七夜の故郷。
七夜はここで生まれ、ここで育ち、ここではないどこかで死んでいく。
ならば、この森を守らなければならない。
――――だが、私の願いは叶いはしない。
願いは叶わない。私の願いなど、叶う事はありはしなかった。今まで朔の側にすらいることも出来なかった私如きの願いなど、一度たりとも叶った事はなかった。
「報告しますっ」
突然、平屋の中に血相を変えた七夜が入り込んできた。全身に返り血を浴び、肩で息をしながら。
その者は、前線で動いているはずの七夜だった。
「前線崩壊しましたっ!迎撃は失敗、混血がやってきます!!」
悲鳴交じりの報告。
それは、確かにひとつの終わりを告げる声音だった。
視界が揺れた。
頭部を激しく打たれたかのような感覚が私の脳を揺さぶる。
前線崩壊。迎撃失敗の報告。
七夜が負けた?七夜の森で、七夜が敗北を喫したのか?
グラグラと、グルグルと。それが脳内を流れていく。
少なからず動揺している七夜が見える。何かを考えているような義姉様が見える。
では、混血はどうする?混血は、何処に向かってくる?
決して遠くない未来が、七夜にとって最悪の未来が見える。
それを塗り替えたのは、腕の中にいる朔の重さだった。
腕の中にいるひとつの命。死ぬ一歩手前だった朔。止血し、血を無理矢理増やしはしたが、依然危険な状態は脱していない。だが、何もしなければ、確実に死んでいた。失血死か、あるいはショック死か。血の巡りが及ばず、脳死になる危険性もあった。
しかし、まだ朔は生きている。生き長らえた。ならば、ここは死に場所ではない。死なせはしない。私がそうはさせない。
だが、状況はどうだ。
前線は崩壊し、七夜は滅亡の危機にある。
「そうですか。それでは皆さん、表に出ましょうか」
思考を繰り返し、どうしようもなく行き詰った状況の中、動揺する七夜たちの耳に、その声は澄み渡って届いた。本当に気軽な、まるで近場に遊ぶにいく様な軽やかさ。
その声は、義姉様は私たちを見回して言う。
「状況は芳しくないようです。時期にここにも敵はやってくるでしょう」
そうだ、その通りだ。だから私は考えているのだ。
だが、私ではどうしようもならない。殺す術を学んだ。殺す技量を学んだ。だが、殺す心胆がない。魔を相手に私は怯える事しか出来ない。
今こうしている合間にも、混血共はやってくる。獣の臭気を撒き散らし、悪意を孕んでやってくる。
もし。もし兄様がここにいるならば、兄様はどうするだろう。
「ここで無残にやられますか?何もせずに、ただ死んでいくのみですか?」
反応することも出来ない七夜を、義姉様が飲み込んでいく。決して狭くない平屋は今や義姉様の独壇場と化した。
「迎撃は失敗です。だけど、まだ私たちは負けていません。いまだ滅びを迎えていません。そして私は、このまま死んでいくのは嫌です。拒否します。だから抗います。抵抗して、七夜を示そうと思います。皆さんはどうしますか?」
義姉様は女性的な方だった。物腰柔らかく朗らかな女性。だが、今窮地に追い込まれた七夜を前にして、その表情は凛として、怯えも恐れもないよう。その姿はまるで、兄様のようだった。
そして義姉様は言った。
「立ち向かいましょう。立ち向かって、敵に思い知らせましょう。だって皆さん、あなた方は何ですか?あなた方は一体何ものですか?」
声は消える。そして、怒号のような合唱が平屋を埋め尽くした。
自分たちは七夜である。退魔の一族七夜である。敵を殺し、葬るだけの存在である。殺しの果てに殺しを目指す殺人鬼。
その我らが、迫る混血相手に何もしないなど、言語道断。
「そうです。私たちは七夜。私たちはそれ以上でもそれ以下でもない、ただの七夜。殺すことが私たちの生きる術、生き様です。だから行きましょう。最後の一人になっても、倒し続けましょう。それに、私たちにはあの人がいます。黄理がいます。あの人は負けません。あの人は、きっと誰よりも強い」
無条件の信頼。兄様に対して、義姉様は真っ直ぐな眼差しを作る。兄様は七夜最強の存在。私たちの御館様。そんな兄様が、きっと何とかしてくれる。私たちの中にある、兄様への信頼を、共通意思として感じる。
熱気が高まっていく。気付けば蔓延するはずだった動揺は鳴りを潜め、七夜は意気込んだ。殺すことこそ我らの――――。
そんな七夜を、見て義姉様は言った。
それは宣誓であった。宣言であった。
「それでは皆さん。殺しにいきましょう」
そう言って、義姉様は表に出て行く。その後姿に、平屋にいる七夜すべてが着いていく。
皆がいなくなった後に、私は朔を抱えて外に出る。冷たい空気が私を包み込んだ。
そして目前。そこには、
「――――――――――――――――っ」
里の七夜が出揃っていた。彼らは皆武装し、その表情は鋭く、それでいて恐れのない。
中には前線には出ていなかった、女、果ては未だ幼い子供までいた。その表情はこれから死にに行くものの表情ではない。ただ殺すだけの、七夜としての表情だった。瞳。その瞳は嘲っている。混血を殺そうと、嘲っている。
その先頭に、義姉様はいた。
「あ、義姉様……」
声が自然と震えた。震えを無理矢理押さえ込もうとして、失敗した。
七夜。退魔の一族七夜。近親相姦を繰り返すことで人が潜在的に持つ退魔衝動に特化した一族。魔への衝動。それは最早感情であった。
そして瞳は笑う。皆、魔眼を発動させて笑っている。
早く殺そう、と、今すぐに殺そう、と嘲っている。
それに、私は、恐れを抱いた。
だけど、そんな私を見て、義姉様は緩やかに笑まれた。怯える子供に向けるような、自愛を秘めた笑みだった。
「あなたは、逃げなさい」
「―――っえ?」
理解の及ばなかった私に、義姉様は何が可笑しいのだろう、くすくすと笑いを零した。
「ここから先は、あなたには無理です」
「そ、そんなこと―――!」
「もし行きたいのならば、その身体の震えを抑えたらどうです?」
「っく!」
私は強がるだけしか出来ない。感情的に言葉を返そうとして、何も返すことが出来ない。それでも頭では理解していた。私は立ち向かえない。私では立ち向かえない。混血に怯えるしかない私では、役に立たない。私は七夜でありながら、七夜の存在価値を持っていない。殺すことも出来ず、ただ怯えるだけの女。
唇を噛み締める。口の中に鉄の味が広がった。無力感。鼻がツンとする。涙が出そうだった。
嗚呼、私は結局、何も出来ない。
「そんな事、ありません」
だけど、そんな私を見て、義姉様は優しく、柔らかに笑む。
死にいく彼らを、見ている事しか出来ない私に、義姉様は笑まれる。
「貴方には、貴方にしか出来ない事をお願いしようと思います」
「私、にしか出来ないこと……?」
「そうです。貴方にしか出来ないこと。……それは 、朔を医者に連れて行く事です」
意識が沸騰した。自分の弱さ、愚かさを跳ね除け、義姉様に食って掛かる。
「――――ッ私に、逃げろと言うのですか!!」
それだけは、許されない。それだけはやってはいけない。敵前逃亡。七夜にとっての生き晒しになれと、義姉様は言った。七夜の誇り、それらを捨てて生き延びろと。魔を殺すことの出来ない私であっても、七夜として生きることの出来ない私でも、それだけは、駄目だ。
「そう、貴方は逃げて、朔を助けてあげてください」
「何故!?」
「理由は必要ですか?」
「――そんな事っ」
「朔が死ぬにはまだ早いです。朔はまだ生きていない。大丈夫。あなたが逃げれるだけの時間は稼ぎます」
ね、皆様?
義姉様の声に、そこにいる全ての七夜が、吼えた。
「「「応っ!!!!」」
大気が、震えた。
「――――っ」
涙が出そうだった。朔を助けたいがために、それ以外を切って捨てろ。一族を切って捨てろ。義姉様はそう言っているのに、一族は皆それを肯定するのだ。
「朔様の事、頼みます!」
「どうかご無事で!」
「時間稼ぎぐらいぼくたちにもできますっ」
男も、女も、子供も言う。熱を帯びた口調で朔を助けて欲しいと、口々に言う。
「皆、朔の事が好きなんですね」
「……っ」
「私たちは、前に踏み出すことが出来なかった。ずっと、見て見ぬふりをして、朔の側に入れなかった。自分たちの望みを無意識に朔へと押し付けて、苦しむ朔を見てあげられなかった。……でも、あなたは違う。いつも朔の事を考えたあなたです。朔の側にいてください」
「しかしっ、義姉様はどうするのです!志貴はどうなってもいいのですか!?」
そうだ、義姉様は志貴がいる。志貴は未だ六歳。義姉様はこんなところで、死んでいいはずがない。
「私は、あの人の妻です。当主の妻である以上、私は逃げてはなりません。確かに、志貴を連れて逃げるのは、出来ます。出来ますが、それは選んではならない事。最後の最期まで、私は当主の妻として全うしなければならないのです」
凛々しく、私を真っ直ぐに見つける瞳。静謐に言葉を紡ぎ、意思を示す。
そして私は、何も言えなくなった。
義姉様を動かす強い意志は私如きでは揺るがすことも出来ない。当主の連れとしての自覚をはっきりと述べ、逃げることはしない。私には、出来ない。そんな義姉様に、私は何を言えばいいのだろう。
そんな私を尻目に、義姉様は私の腕の中、意識なく眠り続ける朔を見る。
「朔。あなたには、負担ばかりかけてしまいましたね」
少しだけ、眉を悲しげに震わせて、義姉様は朔の頭に触れた。
「ごめんなさい。私は、あなたを見てあげることが出来なかった。貴方が怖かった、気が触れた人間の子供と言うだけで、あなたを遠ざけてしまった」
優しげな手つきで朔の頭を撫でる姿は、まるで朔の母親であるかのようにも思えた。
「あの人が変わって、あなたを自分の子供のように接し始めた頃、実は私はそれが嫌だった。嫌な女でしょう。私は家族に亀裂が走るのではないのかと、思っていたのです。だけど……あなたといて、志貴は笑っていて、あの人は楽しそうで。皆、あなたといる時間を大切にしていた」
言葉を切る。
「もし。もし、あなたが良ければ、志貴の事を守ってあげてください。厚かましい事ですけど、志貴にはあなたが必要です。あの子は寂しがりやだから、だから、お願いします」
―――お兄さん。
「いやあ、感動するねぇ。お涙頂戴ものの喜劇だわなあ」
以下血迷ったNG。
「――――――何をしているんだ、お前たち?」
朔に増血剤の投与が終わり、周囲を見回すと、何と言うか微妙かつニヨニヨとした表情を浮かべながら私たちをちらちらと見てくる。何だろうか。
「ええっとですね?」
「何でしょうか義姉様」
義姉様が微妙な表情で私に話しかけてきた。
「その、朔はまだ早いと思うのですけれど……」
「……何を言って――――――っ」
義姉様が何を言っているのか理解できず、そして瞬時に理解した私は慌ててその場にいる七夜を見回した。所々で「やっとこさ契りを結ぶ相手を見つけたか」「しかし朔様はいまだ幼い。子種はまだであろう」「いき遅れ、か」「愛さえあればそんなの関係ありませんっ」「えっちぃのはいけないと思います!」など一族の者が好き勝手に喋っている。
ああ、私は朔との接吻を見られていたのに、自分の世界に入って周囲に気付いていなかった。莫迦だ莫迦だと思っていたが、これほどまでとは。
混乱する内心を落ち着かせようとする。自然と力の込められた全身は、朔を抱きしめるような格好を生む結果となった。
「「「おぉおおおっ!?」」」
「喧しいぞ貴様らっ!」
「あのお、朔様の止血完了しましたよ?」
「「「あ」」」
何か雰囲気が色々とぶち壊れた。