七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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第十三話 紅き鬼

「ひひ、ようやく動いたか」

 

 暗い、暗い森の中、月光にも照らされぬ黒い影の獣道。騒ぐ森に愉悦を撒き散らし、一人の妖怪が歩みを進める。

 

 妖怪は、刀崎梟は、笑う。

 

「いいね、いいねえ。戦場の空気だ。殺し合いの匂いがここまで伝わってくる」

 

 梟の歩みは淀みなく、夜の森をゆったりと歩いていく。

 

「死ね。全員死ね。そうだ、あいつ以外は全員滅べ」

 

 その顔には邪悪が張り付いていた。そして楽しくて、待ち遠しくて仕方がないと嘲う。

 

 冬の冷たさと相まって空気が乾いている。それに漂って熱が伝わってきた。殺し合いの空気。梟にとっては懐かしくも、嗅ぎ慣れた匂い。

 

 一世紀近く生きた人生の中で、殺し合いに巻き込まれたこともあった。刀を作るだけで良いと思ってはいたが、いかんせん梟は刀崎の棟梁。その肩書きに呼び出され、切った張ったも幾星霜。

 

 しかし、今日だけは棟梁の肩書きに感謝した。それが巡り巡って、梟の求めた存在を見つけ出したのだ。

 

 そしてこの夜。混乱に乗じて梟は森にやってきた。再開を果たすために。

 

「嗚呼、待ち遠しいなあ」

 

 その目は愉悦交じりでありながら、どこか恍惚としている。

 

 梟を突き動かす執着心。それは紛れもなくただ一人のためだけに向けられている。そのためならば全てを利用し、淘汰する所存で梟はいる。

 

 あの日から、あの出会いから、あの子供が忘れられない。黄理の言葉で知った、朔という名。それが思考から離れない。

 

 朔の事を考えるだけで口から笑みが零れてくる。桁違いの存在、あの時は未熟であったが、遠くない未来、やがて梟も初見の存在となるに違いない。

 

 あの殺気にあてられた時から、梟は朔に参っていた。あの目、あの軌道、あの容赦と言う言葉さえ知らぬような攻撃。それがいつも梟の脳裏に鮮明な映像となって映し出される。その度に梟は熱を帯びるのだ。

 

 あいつだ、あいつこそ、と。

 

 ……もし、言葉を許されるのならば、梟は朔に恋をしたのだ。

 

 歪み、逸脱してはいるが、方向は正しく紛い物もないそれは正しくそれだ。

 

 そのためだけに梟は行動を起こしたのだ。

 

「ま、懸念と言えばあいつぐらいか」

 

 準備はしていたが、まさかアレを引っ張り出せたとはなあ、と梟は誰ともなく呟く。

 

 遠野分家軋間最後の当主、軋間紅摩。

 

「世俗からは離れたと聞いてたんだがなあ、どうやって呼び寄せたんだか」

 

 あれはヤバイ。存在自体が神秘めいた混血。未だに正気が残っているのが驚きだ。

 

 もし、あれが朔と当たるならば……、想像はしたくない。確かに朔は素晴らしい。おそらく人間の限界に迫っている。

 

 だが、軋間紅摩。あいつだけはヤバイ。もとから存在が違うのだ。莫迦らしくなるほどに差は歴然。人間と魔との混ざり者。差ははっきりとしている。

 

 朔と軋間がかち合う。それが梟の気になるところではある。朔が死んでは意味がない。この計画、この人生、そして梟そのものに意味がなくなってしまう。それはいただけない。

 

「んでも、あいつなら、て考えるのは贔屓が過ぎるかねえ」

 

 どうしても期待してしまう自分がいる。

 

 もっと、もっとだと、朔の可能性に触れてみたい老人がいる。

 

「まあ俺にはどうしようもねえけどなっ」

 

 くつくつと笑う。

 

 梟如きではどうしようもならない事もある。なにせ自分は刀鍛冶、それ以外はまるで駄目だ。

 

「んじゃ、迎えに行きますか。……待っていろよお、朔。お前は、俺のものだ」

 

 そして梟は暗闇の中に紛れて消えた。

 

 □□□

 

 軋間紅摩を語るのに、多くの言葉はいらない。

 

 その存在そのものが彼という神秘の体現であるからに他ならない。

 

 混血ではあるがその血は遠野よりも濃く、かつて血のみではなく肉まで混ざり合った一族。狂気のような経過を経て、軋間という血族は混血と成った。ゆえに軋間の血はあまりに濃く、その結果軋間の当主は代々先祖返り、すなわち紅赤朱と成る事が宿命付けられている。彼はつまりそういうものだ。そういう風に出来ている、と言ってもいいだろう。

 

 記憶の中、かつて彼の周りにいた一族にもそれに成り果てようとしていた者は多くいた。そういうものは大概人とは呼べぬ化け物と化していたが。

 

 そして軋間紅摩はそれら全て、軋間の者悉くを滅ぼした過去を持つ。

 

 全身を硬化させ、大木を握りつぶす人外の力。

 

 軋間が目指した成れの果てこそ軋間紅摩だった。

 

 それに恐れを成した一族の手により、軋間紅摩は拳銃で頭部を撃たれた。

 

 だがそれでも軋間紅摩は死ななかった。血すら流さなかった。

 

 そしてそれにより自制を無くした軋間紅摩は、一族の者を皆殺した。

 

 それほどまで強大な生命を生まれながらに与えられていた。

 

 ゆえに軋間紅摩とは言葉通りに桁違いの存在であり、真実人外の化生に最も近い混血とも言えるだろう。

 

 だが、それだけに代償はある。

 

 紅赤朱に成る事が宿命付けられた彼だからだろう。その思考が、徐々にではあるが人外のものに成ろうとしている。もとより幼少の頃は言葉が理解できなかった。それが紅赤朱にいつなるかは定かではない。だが、いつの日かやがては真実化生になるだろう。

 

 ゆえに、紅摩はここまで、七夜の森までやってきた。

 

 遠野槙久に呼ばれ、命じられたから、と言うのも確かにある。

 

 だが、紅摩は確かめたかったのだ。

 

 かつて、紅摩の右目を奪った人物がいた。

 一族を滅ぼした後、斎木の者に監禁されていた頃のことだった。

 反転した斎木の当主を殺すため、そこに鬼神が現われたのだ。

 紅摩はその鬼に出会い、右目を潰された。

 それが紅摩、十の事だ。

 

 

 あの時、紅摩は何かを見て、そして感じた。だが、それが何だったのか、未だに分からずにいる。だから、紅摩はここまでやってきた。自分が誰かの役に立つならばと、思いここに来たのもある。だが、あの時感じたあれが一体なんだったのか、もう一度確かめるために、答えを得るために、自身が暮らしている森を離れ、この森にやってきたのだ。

 

 

 ――――そして、今。

 

 軋間紅摩は一人の子供と対峙していた。

 

 紅摩と比べ、あまりに脆弱な命。

 

 だが、その身から発せられる殺気、気配の恐るべきこと。目の前の小さき子供から噴出する殺気は紅摩にとって少なくとも目を見張るべきものではあった。

 

 ただそれは、目を見張るだけの話。

 

「兜神」

 

 紅摩の踏み込み。爆発的な踏み込みに地面が砕け、弾ける様に子供との距離を刹那のうちになきものにさせた。

 

 紅摩の生まれ持った肉体の性とも言うべきだろうか、世俗を離れ森の奥で手慰みに武術の真似事をしているが、それ以上に彼の強さと言うのはその肉体の潜在能力にあった。

 

 絶滅種の血を色濃く引き継いだ紅摩の肉体は、鍛錬を行っているわけでもなく自然に作られている。

 

 鋼の如く、と言う表現がある。それはものを硬いものを形容するのに用いられる言葉ではあるが、紅摩の肉体は正にそれに当たる。

 

 鋼の肉体。特に鍛えたわけでもなく、事実紅摩の肉体は鋼の如く硬度を秘めている。生まれながらにあった肉体を硬化する術、そしてその俊敏性もまた、彼が生まれながらに持ちえた彼の才だった。

 

 それゆえに紅摩の踏み込みは、瞬く間に子供との距離を詰めた。

 

 突進。爆発的な踏み込みと紅摩の鋼の肉体による体当たり。単純極まりない攻撃手段。しかし紅摩のそれは朔を引き千切るのは充分の威力を持っていた

 

 だが、当たる寸前、子供の姿が掻き消えた。

 

 そして。

 

「―――――――っ」

 

 体に数度の衝撃。肉を切りつけられた。

 

 振り向くと先ほどと同じような距離で、そこに子供はいた。

 

 四肢を地へと突き刺し、殺しきれぬ移動速度に地面が盛り上がりを見せている。

 その這う姿勢から、瞳は紅摩を捉えていた。

「……」

 

 その体には切りつけられたような跡はあれども、引き裂かれた跡はなく、血は流れていない。

 

「その小太刀では俺に通用しない」

 

 そう言って再び紅摩は踏み込む。

 

 先ほどからこの展開が続いている。紅摩が攻撃を仕掛けても、子供の驚異的な速さに追いつけず、そして子供は回避しながら紅摩に切りつけ、再び姿を現す。この繰り返しだった。紅摩は子供の速さに反応できず、子供は紅摩の肉体に歯が立たない。このような千日手が続いていく。一度目の交差から始まった状況は依然として膠着状態のままであった。

 

 自身に切りつける瞬間も紅摩は当然狙った。だが、子供が放つ人外の殺気に茫洋な子供の気配が隠され、子供の位置を把握することが出来ない。

 

 何処を見ているか分からぬ無機質な目、その幽鬼のような気配、そして驚嘆する身のこなし、技量。首、心臓、動脈、それら全てを正確に狙い切りつけてきている。

 

 惜しむべきはその小太刀であろうか。確かに刃物であり、真剣だ。だが軽く、そして少しばかり間引いてある。訓練用なのか、小太刀本来の切れ味はなく、肉は切れども裂く事は出来ない代物だった。それでも人間相手ならば殺傷は可能だろう。肉を絶ち中身を穿ち命を殺すことが出来るだろう。それは子供の技量だ。間引いた刃で切り裂く。凄まじい技である。

 

 だが、そんなもので紅摩の体に傷を負わす事は出来ない。

 

 軋間紅摩は別格なのだ。存在そのものが桁違いな生命。化け物揃いの混血の中で、より恐れられた化け物だ。そのようなモノを相手に常道の技が通用するはずがない。

 

 朔では紅摩を殺すことは出来ない。だが、紅摩の攻撃が当たればあっけなく勝負は決まる。おそらくその時、朔には肉片も残っていない。紅摩の肉体は朔程度の生命を粉微塵にさせる事が可能なのだ。掠ることさえ致命傷の一撃となるこの理不尽。

 

 しかし、紅摩が朔を捉え切れていないのもまた事実だった。

 

 紅摩の突きや払い、または蹴りには朔を殺す程度造作もない。だが、それは当たればの話。

 

 再び踏み込み。朔との距離を縮める。だが、朔は霞むように紅摩の視界から消える。七夜の移動術。人間ではありえない変則的な動きを可能とさせる七夜の技。それを捉える事が出来ない。

 

 そしてまたも斬撃が迫る。この攻撃さえ、何処から打っているのか未だ捕捉出来ない。

 

 依然として変わらない展開。人外としての力を揮う紅摩、七夜の体術と自身の技量によってそれをかわし、刃を揮う朔。

 

 それを紅摩は厭わない。むしろどこかこの状況に身を委ねようとする己がいた。

 

 この飽くなく続く殺し合い。いや、これは果たして殺し合いなのかと、紅摩は思う。互いに命を燃やし、相手の生命を絶たんと動いている。

 

 思えば、殺し合いとは始めてだ。紅摩は殺し合いは行ったことがない。紅摩の戦い、それはただ一方的な蹂躙だ。強すぎる生命である紅摩を相手に、命はなす術なく潰れていく。圧壊の腕。鋼鉄の肉体。技量に秀でた者がいた。胆力ある者がいた。人間とすら呼べぬ化け物がいた。そのどれもに、紅摩は一方的な死をもたらしてきた。

 

 しかし、目前の子供はどうだろう。紅摩に傷をつけていない。歯が立たない。だが、今も尚殺しに向かってきている。

 

 この緊迫した状況の中、紅摩はふと考えた。この心持はなんだろうかと。僅かながらに疼く内側に疑問を呈す。殺気立ち込める殺し合い。始めての経験である。これが尋常の殺し合いであれば互いに命は消えていた。

 

 今この時、紅摩は朔と出会った。紅摩には紅摩の目的がある。あの鬼神と再び会い見えるため、この森に来た。

 

 しかしこの子供と出会った。不可思議なことに、紅摩はそれを良しとしている。良しと思おうとしている。

 

「……――――っ」

 

 朔が攻勢にでた。驚異的な加速に朔の姿が霞む。そして気付けば懐に小さな子供がいた。

 

 身体を開き、そこから突きを放つ。だが、それよりも速く朔の脚が動いた。紅摩の拳が加速されるよりも速く、朔の踵による前蹴りが紅摩の腹を貫いた。

 

 硬化した身体の中身に衝撃が来る。その衝撃に目を見開き、だがそれ以上に紅摩は驚く。

 

 紅摩に接近戦を挑むと言うのか。痛みを感じた。この殺し合いで始めてのことだ。

 

 そして朔の抜き手が再び紅摩を襲う。

 

 紅摩に対し、人外の肉体を持つ軋間紅摩に対して、その攻撃範囲に自ら入り込み接近戦を仕掛ける。それがどれほど危険なことか、朔は考慮さえしていない。

 

 斬撃が通らない。幾重の交差で把握したのは、目前の混血が生命という領域において場違いな強さと硬さを持っていることだった。

 

 紅摩の一撃。質量を持ったそれに、朔は当たってもいないのに自身が粉微塵と化した未来を見た。その一撃ひとつずつが砲弾と化している。それが刹那のうちに打ち込まれてくるのである。

 

 そして紅摩は体術を収めていると見えるが、それは力の揮うままに戦う術。それだけだ。だがその全ての動作が桁違いに速い。威圧を放ちながら直線的に突き進んでいくその様は正に化け物の闘争だ。

 

 そんな者が目の前で拳を振り上げた。未だ小さな朔には有効にも見える上段からの攻撃。それは鉄槌のように振り落とされ――――。

 

 だが、それよりも速く死角へと動いた朔はそのまま左の抜き手で再度紅摩の腹を貫く。

 

 紅摩苦悶は浮かべず舌打ちのみ。人間の肉とは思えぬ硬さに指が軋む。だが、それでもその一撃は紅摩の中身に衝撃を与えた。

 

 以前の七夜朔ならばこのような動きは出来なかった。しかし、あの時、梟と対峙してから身体が軽い。今まで感じたこともないような膂力の向上。劇的に変化した朔の身体能力は一体何なのか理解できる者はいない。だが、しかし梟という化け物との対峙に朔の退魔衝動が鼓動を始めたのは確か。

 

 そして今、朔は軋間紅摩と対峙している。あの時よりも濃い魔の気配。化け物として核が違う。

 

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 

 退魔衝動の叫びが止まらない。内側から歓喜交じりの絶叫を上げて、紅摩の命を奪おうとする。強まる一方の退魔衝動。それは梟よりも強い反応だった。

 

 朔は滾るような感情をもっていなかった。そんな朔に始めて生まれた感情は殺意でしかなった。人間を理解することも出来ない朔にそれまで感情はなかった。在る、それだけ。それはまるで人形のような生命だ。

 

 しかしそれがいま、温度を持ち始めている。感情が強くなっていく。内側から張裂けそうなこれは一体何なのか。

 

 朔はそれに身を委ねた。悪くない、悪くないと温度を思い、だから紅摩に近づいていく。

 

 そして始まった接近戦。一撃離脱の動きから一変した動きを見せた朔と、それに応じる紅摩。

 

 そこは爆心地と化した。

 

 紅摩の攻撃が激化する。炸裂するかのように、一撃一撃が朔を殺しうるそれが幾度となく朔の小さな身体を狙う。だが、それを朔はひたすらにかわし、かわしていく。いなすのは良くない。防御など最悪だろう。防げばそのまま潰されてしまう。

 

 だが、それを正面から受けるほど、朔は猪突猛進ではない。

 

 朔は把握していた。この男の長い髪によって隠された右顔面の目は潰されていて、そこは視覚範囲外ということに。

 

 接近戦の最中、朔の動きはその死角に移動し続け紅摩に打撃を与える莫迦らしい戦術だった。嵐のように攻撃を繰り出す紅摩、その一撃は朔如きあっけなく死に絶えるだろう威力が込められている。それを目の前の距離のぎりぎりの場所で回避しているのである。正気の沙汰ではない。

 

 顔面の横を通る下段突きに朔の顔面が剥がれる。

 

 錯覚とは分かっている。だが、紅摩の攻撃は朔に破壊のイメージを叩きつけるには充分すぎる。

 

 しかし、恐怖はわかない。恐怖を抱くような、上等なものなどありはしない。

 

 朔の攻撃には確かに人を殺める膂力はある。だが、未だいかんせん未熟な子供の肉体。ものには限度があった。紅摩のように人外に近い者であるならば桁違いの潜在能力を秘めているだろう。だが、朔は未だ人間である。

 

 斬撃が通じない。どういうわけか、紅摩の身体に刃が通らない。目前の相手に自身の攻撃が通じないなど直ぐにわかった。そして今こうして爆心地の中にいて近距離の攻撃を繰り出しても、衝撃を与えるのみだとは、感触で分かっている。ダメージには及んでいない。しかし、これ以上に朔には術がなかった。

 

 朔では、これを殺せない。

 

 その事実が朔の目の前に存在する。

 

 存在が違う。桁が違う。核が違う。最早人間の範疇には属することも出来ぬ混血。それに対し、朔は歯が立たない。

 

 状況は変わらない。だが、朔ではこれに届かない。

 

 放たれる威圧感。それと朔が発する望外の殺気が交じり合い、今この瞬間ここは異界と化している。その場に二人。他には誰もいない。朔のいるべき場所。朔の望まれた空間。

 

 しかし、蓋を開けてみればどうだろう。朔は未だ殺せず、混血の脅威に晒されている。

 

 恐るべき威力を秘めた上段蹴りが朔の頭を潰そうと放たれた。目視も出来ぬ速さ。当たれば頭部が爆ぜるだろうそれを身を地面と平行になる姿勢となって回避。そしてそのまま飛び上がろうとする朔の頭上に、かつて黄理から喰らったアレよりも威力を持った踵落しが襲い掛かる。稲妻めいたそれを身体を捻る事ですんでに避け、紅摩を見やる。無機質な朔の目にはこの状況に薄く口端を持ち上げた鬼の顔。それは笑っているのか、はたまた皮肉なのか。

 

 朔に判断できない。把握もしない。しかしこのままではジリ貧で危うい。

 

 そもそも、戦闘になった時点で朔に勝ち目は少なかっただろう。

 

 七夜は殺し屋、即ち暗殺者。戦闘になった時点で暗殺者としては失格に尽きる。

 

 だが、朔は此度が始めての殺し合い。あの時は邪魔が入ったが、今回ばかりは違う。襲い掛かる混血、殺そうとする七夜。この関係は簡潔で分かりやすい。

 

 だから朔は殺す。

 

 それに、内側が先ほどからけたたましい。

 

 紅摩の殺害を促し続ける内側に頭が支配されている。

 

 思考はそれのみに割かれ、如何に混血を解体しえるか。

 

「殺す」

 

 弾幕めいた攻撃をひたすらにかわしながら朔は再び呟いた。

 

 それは自己暗示に近い。必ず殺す。殺す。殺す。

 

 それが朔の意味、意義。

 

 

 だが、変化は唐突に訪れた。

 

 

 紅摩と対峙し、所詮拮抗状態などありはしないのだ。

 

「―――っ?」

 

 がくん、と足場が崩れた。

 

 繰り返される交差、変化していく攻防。嵐のような攻撃を避け、常に紅摩の威圧感に晒され。意識は常に紅摩のみに向けられていた。

 

 朔自身は気付いていなかったが、朔の肉体には無視できない疲労が蓄積されている。

 

 ゆえに、気付けなかった。

 

 紅摩の踏み込んだ地面が砕けている。不安定な足場。踏み込むには、あまりに拙い。

 

 中途半端に沈下した地面に、足が取られた。一瞬、動きが止まる

 

「――好機」

 

 そこに影がさす。見逃す事はありえない。

 

 軋間紅摩の右腕が無慈悲に振り落とされた。

 

 回避不可能。体勢不十分。迎撃開始。

 

 唸りをあげて迫りくる豪腕に右手の小太刀が煌く。月光を浴びた冷たい輝きが拳に向かって突き立つ―――!

 

 しかし、体勢も整わぬままに右腕の力のみで放たれた斬撃が紅摩に通じるはずがない。小太刀の迎撃はあっけなく弾かれた。

 

 そして訪れる、凪ぎの一撃。頭部を狙った、拳。

 

 迫る、死。

 

 朔に、選択肢はない。

 

 □□□

 

 許さない。許せない。許しはしない。決して許すことは出来ない。

 

 銃声と悲鳴の鳴り止まない七夜の森を疾走する。暗い森の中だが、七夜には大した事ない。生まれた頃から生活してきた森だ。ここは七夜の庭。例え先が見えない夜の暗闇であっても安易に進める。

 

 だが、今そこに憎たらしい人外が入り込んできている。

 

 許さない。許せない。許しはしない。決して許すことは出来ない。

 

 憎悪で命を殺せるならば、すでにあいつらは絶滅している。奴らは犯してはならない罪を犯した。生きていることでさえ許せない事であるのに、この森に踏み入ったのだ。

 

 許せられる事ではない。

 

 断罪だ。絶滅だ。何を敵に回したのか、思い知らせてやる。

 

 衝突は始まっている。今もこうして七夜の誰かが死に絶え、それ以上の数の敵が殺されていく。しかし、数の暴力というべきだろうか。敵の数は多い。更に暗視スコープを用いた遠距離からの射撃。七夜が近づくよりも前に七夜が死んでいく。

 

 通常の人間相手ならばこうはならなかった。七夜の隠密技術そして移動術は人間相手には有効だ。だが、今七夜の相手は化け物どもの混ざり者だ。身体能力は高い。人間よりも。ならば七夜が押されるのも納得はいく。故に七夜は押されつつあった。

 

 だが、立ち止まることは許されない。

 

 死ねや死ねや。お前たちは死ななければならない。それだけの事をしたのだ。滅んで償え。そしてこの世からその存在の一片まで消滅しろ。

 

 七夜の退魔衝動が語りかける。殺せと。殺して殺せと訴える。それに嬉々として了承。

 

 敵は確実に七夜よりも多い。物量作戦だろう。

 

 だが、そのような事は関係しない。

 

「いたぞっ、七夜だぁ!!」

 

 混血の声。怒声にも似た悲鳴だ。化け物の側に人間が降り立った。この世には幾重にも理不尽が存在する。今この時、この森に入り込んだ遠野の私兵隊。混血である彼らは人間に劣ることはない。カテゴリーがそもそも違うのだ。故に比べることが誤り。だがこの時、彼らは確実にこの世の理不尽と遭遇したのである。

 

 自身の得物を握りしめる。何の変哲もない短刀。しかし、それだけで充分だった。

 

 血に塗れた七夜を目の前に恐慌もなく動けるとは、やはりプロだろうか。だが、しかし、それだけでは足りないのだ。

 

「っっっっっっ!」

 

 何処からか悲鳴が聞こえた。位置にして七夜の悲鳴だろう。今もこうして七夜は死んで行く。敵を殺しながら死んでいく。数を減らしながら。絶滅の道を歩もうとしている。

 

 だが、それを是とする。死んで生き様を示すのみ。

 

 何かおぞましいものでも見たような悲鳴が聞こえた。

 

 血塗れの、殺人鬼が、にたりと笑みを浮かべた。

 

 □□□

 

 衝撃。

 

 それはありえない光景だった。

 

 人が宙を舞う。言葉にするならばそれだけのこと。だが、それがありえない。

 

 成人した男の一撃とそれをぶつけられた子供の肉体。体重差は歴然としている。

 

 だが、それでも人間が宙を飛ぶという非現実的な光景。

 

 打撃で地上を遥かに飛ばされるという現実が展開された。

 

 朔の身体が、冗談の様に、宙に弾け飛んだ。

 

 衝撃。

 

 地面に叩きつけられた。しかし、それさえも朔には理解できない。

 

 咄嗟だった。

 

 無意識のうちに、朔は後方に飛びながら、全身を脱力させ、頭部を狙った一撃をずらし防御した。まさに奇跡としか呼べないようなタイミング。日頃から黄理に叩き込まれた戦闘訓練による賜物なのだろうか。

 

 だが、そんなことを気にする余裕など、朔にはない。

 

 紅摩の攻撃を不完全ながらに防いだのだ。衝撃は凄まじく、視界はドロドロ、呼吸が出来ない、吐き気が込みあがる。口から滴る血。全身に苛烈な痛み。地面に叩きつけられた状態のまま、朔は動けないでいた。地面が赤く染まっていく。

 

 そして。それは朔を追随するかのように宙を舞い、地面に落ちた。

 

 地面に落ちているそれは朔にとっても見慣れたかつての身体の一部分だった。

 

 僅かに指先が開かれた手。

 着流しごと引き裂かれた腕。

 その様は出来の悪い人形の一部にも見えた。

 もげた、左腕。

 

「―――――――――――――――――――――――――っ!!!!」

 

 それが紅摩の一撃を防いだ代償だった。

 

 紅摩の一撃を防いだはずの左腕は関節を破壊し、筋肉を引き千切って朔の腕を根元から奪った。

 

 もがれた肩からは白い骨と千切れた筋肉繊維が晒されており、今もそこからは夥しい血が漏れていく。月光に照らされた鮮やかな紅が、朔の命を流していく。熱が失われていく。

 

 痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛――。

 

 痛い。脳が蕩けそうなほどに痛い。喪失感を感じるよりも先に今まで感じたこともないような傷みが侵食していく。

 

 だが、たったそれだけ。それだけだ。

 

 たったそれだけの犠牲で紅摩の一撃に生きながらえた。

 

 正に満身創痍。ただの一撃で朔の身体は壊れかけた。

 

 だが、死んでいない。

 

 遠くの方で、紅摩の視線を感じた。朔を待っているかのような視線だった。あやふやな意識でありながら朔は今、立ち上がろうとしている。辛うじて無事な右腕を支えに、その身を持ち上げようとする。だが、無視できないダメージに身体の各部が言う事をきかない。

 

 朔はこれまで黄理を相手に戦闘訓練を行ってきたが、今肉体を襲う痛みは何ものにも勝っていた。これほどの苦痛を朔は知らない。痛みで身体が潰えてしまいそうだ。全身が熱を持っている。

 

 だが、その目、最早何処を向いているのかも分からぬ瞳は敵の姿を映し出していた。視界は揺れている、だけど、紅い靄に包まれた混血の姿ははっきりと見える。そうだ、敵はいる。殺す相手がいる。ならば朔が殺す。

 

 ずくんずくん、と失われた左腕が悲鳴をあげている。幻痛。最早なくなったものが痛い筈がない。しかし、肩からの出血は軽視できない。危険な怪我だ。身体の熱が失われていく感覚。

だが、徐々にではあるが朔の身体が起き上がっていく。

 

 そして、思う。紅摩は答えを探している。求めている。そこに理解はなく、共感もなく、漠然とした認識。だが、それ以外を朔に期待するのが間違っているのだろう。

 

 朔と紅摩。生まれは違えども、二人はどこか似ていた。孤独を知り、その才によって恐れられた二人だ。独りを受け入れた二人だ。温もりが分からぬ二人だ。確かに二人が置かれてきた環境はどこか似ていた。

 

 違いがあるとするならば、己の生に意義を見出したことにあるだろう。

 

 紅摩は世俗を離れ、解脱を目指し生の実感を求めていた。

 

 しかし、朔はそのようなことなど疾うに定められていた。

 

 朔は殺す者。殺すだけの者。

 

 殺すために生を受け、殺すために育てられ、殺すためだけに教えを受けてきた。

 

 朔はそれだけだ。それだけの存在なのだと自分を定めている。

 

 それ以外のモノに興味も持たず、それ以外のものを求めず、また視野にもくれない。

 

 全ては黄理のようになるために。

 

 情は理解できない。心など見出せない。

 

 ゆえに立ち上がる。

 

「―――――づぁっ―――ぎ」

 

 歯を食いしばって、立ち上がる。力も入らぬ右腕に口元から呻き声がもれた。

 

 だってそれだけしかないのだ。それしか理解できないのだ。殺す、殺すために存在している。それだけが朔の全てなのだ。黄理に届くためにそうなる事が朔の存在理由なのだ。

 

 全身が言う事を聞かない。抜けてくれないダメージ。痛みに意識が持っていかれそうだ。

 

 左肩の出血が止まらない。致命的な傷だ。動脈諸々引き千切られたのだ。止まるはずがない。

 

 しかしそれだけでは止まらない。止まることはない。

 

「ぐぎっ―――」

 

 硬いものが口の中で砕ける感覚。奥歯が噛み砕かれた。

 

 あの時、紅摩の一撃に死を見た。鬼の豪腕に全身が砕かれた。

 

 しかし、何も感じなかった。

 

 痛みは痛い。しかし、それにどうすればいいのか分からない。痛がればいいのか、泣けばいいのか、苦しめばいいのか、怯え恐怖し、紅摩に対して許しでも乞えばいいのか。

 

 だが、それが出来ない。

 

 自身が死ぬかもしれない、いや、あの時朔は死んだ。今生きていることがおかしい。

 

 だが、それはきっと、何も感じることの出来ない自分こそが最もおかしい。

 

「が、ああああああああああああっ」

 

 動く。未だ、身体は動く。動かなければならない。ここまで声を上げたのは生涯で始めてだ。

 

 敵は目の前。殺す相手は目前だ。ならば動かなくてはならない。未だ殺していない。

 

 そうだ。朔は未だあれを殺していない。朱の鬼を殺していない。殺意は消えはしない。

 

「……」

 

 知らず、紅摩は動けなかった。

 

 殴り飛ばした朔が、こちらを見ながら立ち上がったのだ。

 

 拳には朔の身体を打ち砕いた感触がある。決して完全とは言えぬ一撃ではあったが、それでも朔を打ち砕くには充分すぎる一撃だった。

 

 しかし、それでも朔は立ち上がった。その身体は満身創痍。藍の着流しは土に汚れ、肩から流れる血に染まっていく。地面に打ちつけた全身は擦り傷だらけ。しかしそれ以上の故障は幾つも見える。根元からもがれた腕のない左肩が不気味な様相を見せていた。その身体も支えきれぬのか辛うじて立ち上がっているよう。

 

 だが、殺気は消えない。あろう事か更に鋭さを増している。

 

 悪鬼のような子供だ。打ち砕いても死なない。自分では敵わないとは、当然ながら分かっているだろう。それでも立ち上がった。その姿はまるで死にたがり。死に向かって邁進する愚者。足掻いているその姿まで虫のようだ。

 

 しかし、紅摩はその姿を笑わない。笑うことが出来なかった。

 

 微かなシンパシー。生き方を定めていながら、それに縋るしかない子供。生を求めると言う意味では、二人とも同じ求道者であった。しかし、その生の実感を得られない紅摩にとって、例えそのような生き方であれ、生き方の定められた生は羨ましからぬ事であった。

 

 立ち上がり佇む朔は明らかに衰弱している。出血による影響、痛み、疲弊。既に声が聞こえているのかも怪しい。しかし、紅摩は語りかけた。

 

「問おうわらべ。お前にとって生とは何か」

 

 佇む子供の姿が、何処となくあの男に似ていた。森に朔の苦しい呼吸が沈む。痛いはずなのに、朔は相変わらずの無機質な目。無表情。不気味だ。だが、それ以上にその反応のなさが痛ましい。

 

「殺すだけ」

 

 紅摩に向けられた言葉ではない。それは己に向けた言葉だった。

 ひどく掠れた、子供らしくない、始めて紅摩が聞いた朔の声。

 

「そうか……」

 

 残った左目を閉じる。そして朔の生を思った。殺すためだけの人生。七夜という一族ならばそれはきっと正しい。何とも七夜らしい答えだ。だが、その人生、あまりに儚い。そのためだけに存在しているのだ。

 

――――それは、まるで自身と同じような存在。所詮殺すことしか出来ない紅摩と、殺すことこそ全ての朔。一体何が変わるのだろう。

 

 朔の出血は著しくショック死も可笑しくない。止血も行っていないのだから尚更だ。それでいて身体を自らの意思で動かし、紅摩を殺そうと殺気を滾らせているのである。その精神力は計り知れない。

 

 だが、最早決着はついている。どれほど朔の精神が強靭であろうと肉体が限界だ。動かすには最早血が足りない。

 

 終わり。この殺し合いは終わりだ。

 

 紅摩は漠然とそう思い、そしてなぜか僅かばかりの落胆を抱く自分に気付いた。それがなぜなのか紅摩は分からず、その気持ちもやがては消えた。

 

 しかし、紅摩は知らなかった。分かっていなかった。

 

 七夜は殺し屋。殺すことを糧とする一族。故に殺すことへの執着は最早拭うこともできない。

 魔へと対抗するために永の時を暗殺術の昇華へと費やし、近親相姦によって人間が持つ退魔衝動を特化させた彼らなのだ。

 

 その肉に流れる血の中へと刻まれた七夜の系譜は真に度し難く。

 七夜の血は最早、人としての規格すらも越えようとしていた。

 

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!」

 

 地を舐めるような低さで朔は霞んでいく。骨まで晒す肩の断面から血を撒き散らし、ただまっすぐに。影も置いていかんばかりの疾さで向かっていき、弾丸のようにそれを射出した。

 

「――――っ」

 

 ――――それは、朔のもげた腕だった。

 

 

 今しがたもがれた人間の腕が、真っ直ぐに恐るべき速さで紅摩へと投擲されたのだ。

 

 恐るべきは朔だろう。自分のもがれた腕を拾い、それを投擲したのだ。不気味や恐れを感じることもなく。およそ通常の子供に出来る選択ではない。

 

 紅摩もまた、自身に飛来する腕を見て目を見開く。

 

 そしてそれ以外の方向から何かが空気を切り裂いてくる。

 

「な―――」

 

 ―――全く別方向から、金属が飛来する。

 

 それは、紅摩にも見たことがあるものだった。

 

 月光を浴びて煌く刃。

 

 小太刀。朔が振るっていたはずの小太刀が、飛来する腕とは逆の方向から飛んでくる。紅摩の視界ギリギリに刃が見える。しかもそれは投擲された腕と同等の速さ。刹那のうちに腕と全く同時に着弾する速度で紅摩に襲い掛かってきたのだ。

 

 しかし、紅摩の身体にそれが傷を与えるのか。

 

 朔は分かっているはずである。己では紅摩を殺すことが出来ぬことを。

 

 ならばこの攻撃は囮か。だが、向かってくるそれらはどういうわけか、今まで朔が攻撃してきた手段で最も疾く、紅摩に突き刺さらんと迫ってくるそれらは、紅摩でも無視できぬ威力を秘めている可能性がある。

 

 しかしここにきて、紅摩は違和感を覚えた。

 

 朔の気配が、ない。

 

 先ほどまで感じていた殺気が嘘のように消え去り、森のざわめきも収まっている。どれほど気を巡らせ、あの曖昧な幽鬼の気配を読もうとしても、朔は何処にもいなかった。

 

 撤退。それが浮かぶ。あるいは途中で息絶えたか。投擲の攻撃は少なくとも撤退のためのものだろうか。

 

 瞬間の中、紅摩はそう思い、飛来するものから身を守るために、それらを何とかして同時に打ち払う――――。

 

 ―――刹那、紅摩の首筋を、ナニカが撫でた。

 

「っ!!!!」

 

 紅摩の頭上、夜空に吊るされた満月を背に、朔は宙に飛んでいた。

 □□□

 

 七夜最秘奥、極死・七夜。

 

 それは回避不可能な正しく必殺の一撃であり、それを放てば必ず殺す、必ず殺さなくてはならない七夜の最高技術。

 

 武装の投擲に追随し、投擲された武装と同時に相手に到達、そして武装を回避しようとすれば接近した術者に首を捩じ切られ、術者を回避しようとすれば武装によって致命的負傷を負う二段構えの攻撃である。だが、言うは易し。行うは難し。

 

 この技術を会得するものは暗殺集団である七夜でも少ない。それは正確無比な投擲を要求し、更に投擲した武装と同等の高速移動。それに合わせたしなやかな動き、武装の追突と首を捩じ切るという行為を同時進行させる要領の良さなどが必要とされるからである。

 

 それら全てを混合させることで始めてそれに近い動きを可能とする。

 

 もちろん、可能とするだけでそれは完璧とは程遠い。

 

 暗殺とは完全でなければならない。完全でなければ死ぬのは自分であり、それは即ち一族の危機にも繋がりかねない。ゆえに七夜には完全、または完璧が要求される。

 

 だからこの最秘奥を完全に体得することは七夜として最も必要とされ、また課題でもある。だが、これを体得するのは容易ではないため、これを会得する七夜は正しく七夜の最高戦力と言っても過言ではない扱いを受ける。

 

 極死・七夜を会得する者は七夜の体現であり、それ即ち七夜一族の指針となるべき存在。

 

 そして、朔もまたその術理を会得した七夜であった。

 しかし、それを朔は知らない。

 七夜朔は極死・七夜を授けられていないのだ。

 七夜黄理に教わったわけでもない。

 翁に口ぞえされた訳でもない。

 誰からも、それを教わっていないのだ。

 だが、七夜朔の中に滔々と流れる七夜の血は七夜の歴史を刻んでいる。

 ならば、七夜朔の脳が、肉が、血が七夜最秘奥を知らぬはずがない。

 七夜朔は純潔の七夜。

 誰にでも無く、七夜朔はそれへと辿りつく。

 

 ――視える。

 

 紅い靄。それが、気体のようでありながら質量を持ち始め、朔の視界に展開されている。

 

 そしてそれらは、紅摩の周囲を覆い、紅摩自身から発生していた。

 

 紅いそれは紅摩を覆い隙間なく展開されており、どういうわけかそれは時折変化して一部が伸びたり、大きくなったりしていく。

 

 最早考える意識もない。血が、足りない。

 

 身体が冷たくなっていく。

 

 人間が出血で死ぬ致死量は体を流れる血液の三分の一。

 

 おそらく朔はそれに達しようとしている。

 

 やがて、朔は死ぬだろう。肉体は限界だ。心臓の鼓動が激しい。命が燃え尽きる。

 

 

 だが、駆けることは止めない。

 まだ、死ぬわけにはいかない。

 

 肉体を動かすのは意志。意思は既に消えかかっている。紅摩を殺そうとする意志のみが朔の体を突き動かす。森の中を駆け回り、木を走り空を走り、気配遮断を無意識のうちに行う。全てはアレを殺すために。

 

 無意識の殺人行動。退魔衝動は既に朔そのものと化した。

 

 動き続けるその様は腕を一本失ったことにより安定していない。更に意思の曖昧なその動きは退魔衝動による極めて本能的な動きであり、人間の機動ではない。

 

 最早それは投げ出された人形のような、不気味な姿であった。

 

 弾丸めいた朔の千切れた腕、満身創痍と化しても握り続けた小太刀。それが同時に紅摩へと向かっていく。移動と共に投擲されたそれらは、速度は違えど全く同時に着弾していこうとする。

 

 ――そして視えた。

 

 紅摩を取り囲んだ紅い靄が形を変えた。

 

 同時に迫る弾丸に向かって紅が薄く伸びていく。

 

 そして、紅摩の頭上。

 

 そこに靄はかかっていない。消えている。

 

 靄の正体はわからない。それが一体何なのか見当もつかない。

 

 だが、その空白に。その僅かな間隙に。

 

 ――勝機を視た。

 

 朔は紅摩の頭上へと飛翔し、残された右腕が紅摩の頸部を破壊しようと奔る。それはどう映るだろう。突然気配もなく音もなく空に朔が現われたのである。

 

 その瞳は、蒼い。虚空を思わす空の蒼。

 

 だが、最早それは死んでいる。瞳は既に生気を無くしていた。無機質だった瞳には力もない。それでも視えた、僅かな勝機。それに向かって最早意識も消えようとする朔は滑空する。

 

 そして、弾丸が着弾。

 

 その瞬間朔の手が紅摩の首に僅かに触れ――――。

 

 ――――朔の頭部を、無骨な掌が掴まえた。

 

 □□□

 

 紅摩の拳に握られた小さな子供の頭部。

 

 振り向きざま、僅かな感触に反応した紅摩の腕が、いつの間にか朔の顔を掴んでいた。打ち払うはずの腕をそのまま頭上へと伸ばしたのである。

 

 その体、心臓の上には肉にのめり込んだ腕と、首筋に僅かばかりに突き刺さった小太刀。そこから微量の血が滲み出た。朔の投擲は紅摩の皮膚を破れども、結局肉を裂く事は叶わなかった。

 

 そして、吊り上げられる。垂れ下がる朔の肉体。抗う力さえ残っていないのだろう。掴んだ拳の隙間から、輝きのない蒼の瞳が見えた。

 

 ――魔眼発現。

 

 七夜の超能力、淨眼。ここに来て、朔は魔眼を発現させたのだ。

 

 だがそれも及ばず、今朔は死のうとしている。

 

 血は止まらない。流れ流れ、朔を殺す。

 

 そして、目前の存在もまた、朔を殺す鬼であった。

 

 恐るべき紅摩の握力に朔の頭部が悲鳴をあげる。

 

 しかし、朔には声を上げることも出来ない。時折、ピクリとその身体が動いた。

 

 その様を見る紅摩の瞳は感情が読めない。朔では紅摩を殺しえない。分かっていたことだ。これは詰まるところ、必定の結末。

 

 だが、少しだけ、ほんの少しだけその瞳が揺れた。

 

「……」

 

 朔を掴む紅摩の腕が、尋常ではない盛り上がりを見せる。筋肉は膨張し、それはやがて熱を生み出し。

 

 紅摩の生み出す熱に、陽炎が現われた。自身でも制御できぬ熱をそのままに、紅摩は次第に力を増していく。

 

 朔の頭部が軋む。それは紅摩にとって硬いが、それだけのもの。紅摩の握力は人間の頭部などあっけなく握りつぶす―――。

 

 ―――圧壊。

 

 

 瞬間だった。

 

 朔を潰そうと力をこめた紅摩の腕に、強かな痛みが奔った。

 

「―――――っ」

 

 そして反応も出来ぬ、風斬り音。

 ナニカが紅摩の側を通った。

「なに―――」

 

 気付けば、紅摩の腕に朔はいない。

 

「餓鬼。俺の息子に、何してくれてる」

 

 

 いつの間にかそこに、男がいた。

 

 鋭い、研ぎ澄まされた抜き身の刃を思わす男。空気を切り裂くような雰囲気を滲ませ、

その場に佇んでいた。そしてその瞳。蒼く、ひたすらに鋭い視線は得物を狙う鷹のよう。それが殺意を孕み、紅摩を睨む。しかしその瞳は笑っている。嘲っている。殺したくて仕方がないと、紅摩を見て笑っている。

 

「貴様は……」

 

 黒い装束。細く、しなやかな肉体。

 そしてその腕には、命消えかかる朔が抱かれ、握るは鉄の輝きを放つ二本の撥。

 

「七夜、黄理――――っ」

 

 男は、七夜黄理は、当たり前のように、そこにいた。

 

 




 勝てません。軋間紅摩に勝てるわけがありません。

 どうも、六です。

 紅摩の理不尽なまでの強さを表現したかったのですが、どうです?無敵っぽいですか?
 私の中で紅摩の理不尽さはバーサーカーに匹敵しています。これで紅赤朱状態になったら手がつけられません。
 
 あと、なんで黄理よりも先に朔を紅摩にぶつけたのか。
 ぶっちゃけ黄理よりも後に戦ったら余裕で殺されます。紅摩ヒャッハーーしてます。スイッチ入った紅摩を相手に朔が敵うわけがありません、
 なので黄理よりも先にかちあってギリギリ生存させる形となりました。

 この話となる以前ですが、いくら書いても朔が死ぬ結果になり頭を抱えました。紅摩に殺され、紅摩に潰され、紅摩に焼かれ、紅摩に紅摩に紅摩にetc……。
 どう考えても紅摩に殺されるシナリオしか思いつかない。なので無理矢理この形となりました。それでも死に掛けていますが。

 以下今回のおさらい。
 七夜朔は厨二病(魔眼)を手に入れた。
 七夜朔はロケットパンチを会得した。(ただし一回限り)
 七夜朔は紅摩との強敵フラグを立ち上げた。回収は未定。
 七夜黄理は美味しい所を持っていった。
 七夜黄理はドサクサに紛れ朔を息子と公言した。

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