七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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諸事情により番外編です。

 では、どうぞ。


番外編 ななやしき君の冒険

「森の奥ってどうなってるのかなあ」

 

 その日はそんな言葉から始まった。

 

 志貴は目の前で何やら翁と会話している父の黄理に向かいそう言った。話の所々で「……朔が…しかし……」「朔はやはり……」「風呂……朔……」と朔の名が頻繁に出てくるので一体何を話しているのだろうと思ったが、それを聞いても微妙にはぐらかされるので少し拗ねた。そんな父に最近朔の世話を行っている叔母から聞いた『へたれ』という単語を黄理に浴びせかけ黄理が落ち込み翁が励ますなど、なかなか混沌とした空間を作り出したのでとりあえず志貴は満足していた。

 

 志貴の何気ない一言が飛び出したのは、その空気が落ち着き始めた頃のことだった。志貴としては本当に何気ない一言であった。志貴はこの七夜の里から出たことはなく、当然外界がどのようなものか知らない。さらに人里から離れたことはなく、遠くはなれることは子供たちには禁止されていた。朔と黄理が早朝森の奥に向かい基礎訓練を行っているのは知っているが、しかしそこが一体どういう場所なのか全く教えられていない。だから志貴としては未知なる場所に興味を持ち、気になっているのだ。

 

 志貴の幼い冒険心が燻り訴えているのだ。森はなんだかすごいところに違いない、と。

 

 だがそれを聞いて黄理と翁が固まる。

 

 里の外、つまり人里から子供を出すのを禁止させたのは黄理を含めた七夜大人組の総意である。

 

 七夜の里は森の内部にあり、そこは外部の敵を撃退する罠で埋め尽くされている。撃退と嘯いているが、対人地雷がいたるところに設置されていることからどう考えたって殲滅を念頭に置いた罠である。

そもそも七夜は裏の人間であるため敵は多い。混血との協定を結んではいるが、それは薄氷の協定。七夜の安全が確保されているとは程遠いのである。

 

 それゆえ森には数多くの罠が設置され、その種類は七夜のものですら完全には把握することが出来ず、正規のルートを通らなければあっという間に死体と化す。それゆえに子供は里から出してはならない。

 

 と、これが建前である。

 

 本当の所、そんな罠が云々より、七夜の森にかけられた結界がヤヴァイ。

 

 過去志貴が生まれた黄理はそれまでの人間性が嘘のように変わり、言ってしまえば、はっちゃけた。さすがにモヒカン軍団のような奇声を発声することはなかったが、その行動から自重が消し飛んでいた時期が黄理にはあったのである。

 

 その頃黄理は生まれてきた志貴のために、といままであった結界を強化することを決意。そのために異例であるが外界の魔術師と協力するほどの徹底振りである。そんでもって完成した結界により、森の生態系が突然変異を起こしたのは完全に黄理のせいである。植物が獣を襲い、獣がおかしな姿で動き回っているのである。幸い現在確認されている獣の中に七夜の脅威となるような存在はいなかったが、それでも危険なことに変わりない。最近の目撃例では空中浮遊のキノコが大量発生し、独自のヒエラルキーを生み出したとある。その他にも生き物を捕食しようと蠢く蔦や、闊歩する大樹など、とんでもない場所なのだ。

 

 そんなわけで七夜の森は現在子供たちだけで進むことは硬く禁止されている。今の森は言わば黄理の黒歴史であり、それを指摘すれば、あの頃の俺は若かったと視線を逸らすことも出来ずに身を捩じらせる黄理が見れるだろう。

 

 そんなこんなで人里を離れるのは大変危険である。生命的にも黄理の体裁的にも。

 

「志貴様。森は危険がいっぱいですので、子供をいかせるわけにはいかないのです」

 

 二の句が告げられない黄理に変わって対応に出たのは翁である。黄理は大した変化なく泰然と志貴を注視しているようにも見えるが、長年黄理に仕えてきた翁は黄理の額に浮かぶ脂汗を見逃さなかった。

 

「でも、それは子供だけでいくのは駄目だって事でしょ?だったらお父さんといけばいいってことじゃないの翁?」

 

「ふむ……確かに、そうでございますな」

 

 確かに大人の者といくのは認められていなくもない。子供のみでいかせるのは大変危険であるが大人の者、つまり安全な道筋を知っているものが一緒についていれば罠にかかることはないだろう。

 

 ただそれだけだと少し問題が起こる。先ほど言ったとおり森は黄理の黒歴史そのものであり、そこから誕生した突然変異種はほとんど調査が行われていない。調査が行われようとしてはいるのだが、昨日向かった場所の地形が変化していたり、生態系が一日だけで変わっているなどざらで、調査が追いついていかないのである。わかっていることと言えば、その影響が里にまで及ばないことであろうか。結界の影響か、里を守る方向性を持っていることからか、突然変異種はなぜか里に現われず、植物たちもその足を伸ばさないのだ。

 

「しかしそれでも、子供をいかせるのは大変危険でございまして……」

「じゃあなんで兄ちゃんはいいの?」

「むぐっ……」

 

 それを言われてしまえば翁としても何も言えなくなる。

 

 朔は黄理の預かりとなって早朝には森の奥に向かって基礎的な訓練、つまりは足腰の強化、俊敏性の強化、持久力の強化、空間把握と判断能力の強化を備えるため走りこみのようなものを行っている。走りこみと言っているが、覆い尽くす木々の合間を七夜の移動術をもってして縦横無尽に飛び交うそれを走りこみと言うのは少々、どころかかなりの語弊が生じるだろうが。

 

 その走りこみの中で判断能力の強化を期待されているのは、走りこみを行う場所に訳がある。

 

 黄理の暴走の末、森は七夜の者も吃驚な変化を遂げ、ここは腑海林かと突っ込みたくなるほど植物が暴れまわっている。獣を襲い捕食する植物が今日も活発に育っているのである。夜中など植物に襲われたのか獣、あるいは侵入者の断末魔が響き渡るのでかなり怖い。子供としてもあれは普通に怖い。悲鳴はやがてか細くなっていき次第に聞こえなくなる様など普通にトラウマとなる。

 

 想像出来るだろうか。四方八方から襲い掛かる植物たちを。それは蔦のような柔らかいものだけではない。視界を覆い尽くすような大木が向かってくるのである。それもいたるところから。それゆえ黄理は森に着目し、朔の訓練、危険把握能力を高めるため森にて走りこみを行っているのである。

 

 とは言え、正直にそれを志貴に言ってもいいのかと翁は吟味する。これで森の中はこれこれこういうことで、こんな理由があるから危険なのですと教え、その原因が自分の父と知った時志貴はどのような反応をするのだろう。少なくとも評価が上がることはない。

 

 翁はちらりと黄理を見た。なんか獣が死んだふりをしそうなほどの凄みで睨まれた。

 

 しかしこのまま答えないのもなんだかアレである。はぐらかす事も出来るだろうが、そのまま放って

おくと勝手に森に行きそうだ。

 

 なので朔に関しては。

 

「私としましても、朔様がなぜ森に行ってもいいのか疑問に思っていたのでございます」

 

 まとめて黄理に丸投げしてみた。

 

 一瞬黄理の表情が「なにぃっっっっっ!」と歪み、翁に向けて憤怒の殺意を向けた。しかし翁はそ知らぬ顔をするばかり。

 

 この老人、自分が仕える相手を窮地に立たせるなどなかなかいい性格をしている。

 

 そして困ったのは黄理である。

 まさかお前のためはっちゃけちゃいましたとは言えない。一時期暴走してはいたが、常識らしい常識は情報から隔絶された場所に生きてきた黄理でもある程度持っている。後悔は微塵もしてはいないがかなり痛い過去であることには違いない。

 

 しかし志貴はそんなこと知らない。子供の穢れない純粋な瞳で「どうして?」と訴えている。その輝きが黄理には辛い。

 

「朔は、な」

 

 散々考えあぐねた結果、黄理はおもむろに口を開いた。

 

「朔は特別だ」

「なんでなの?」

「朔は私が訓練を付けさせている。だからだ」

「どうしてなの?」

「それはな……つまり……」

「ねえお父さんどうしてなの?なんで兄ちゃんがよくて僕は駄目なの?」

 

 答えに窮した黄理に対し、志貴は次第に機嫌を損ねてきたらしく、軽くぶーたれ始めている。その瞳が興奮か少し潤んでいた。どうしたものかと黄理は翁に視線で助けを求めた。

 

 翁は優雅に茶を飲んでいた。翁しかとである。

 

 黄理はこの世全てから裏切られたような衝撃を受けた。

 

 □□□

 

 結局、あの後黄理は志貴が納得するような理由を話そうとはしなかった。いや話すことが出来なかった。黄理としては志貴に話したい内容ではなかったが、話さずにいると志貴が不機嫌になり、もしかしたら嫌いとか言われるかもしれない。そしたら黄理には灰になる自信がある。

 

 しかしだからと言ってあの黒歴史を志貴に教えるには些か辛い。主に父としての威厳が。ゆえに黄理は当主としての仕事が未だ残っていたと、そそくさいなくなってしまったのである。もちろん逃げるための口実である。しかも志貴の視界から消えた瞬間閃走を使用するほどの徹底振り。黄理実に大人気ない。

 そうするとそれに追随するように、それでいて「今度教えて差し上げます」と口ぞえしながら翁もどこかに行ってしまった。

 

 不満なのは志貴である。事実一人残された志貴は憤っていた。誰も教えてくれないのだ。志貴の頭の中でこれは、皆自分に対して意地悪しているのだと解釈した。子供ながらの素直な思考であるが、それゆえ思い込みと決定は固い。

 

 実はこの話、黄理に話す以前に何人から聞こうとしたのである。

 

 例えば母。

 

 母にどうしてなのか、と問うてみると母は「大人になればわかるものよ」と優しい微笑を浮かべ言った。

 

 そして叔母。

 

 自身が兄と慕う朔の世話を行っている叔母に聞いてみると、叔母は視線を背けながら「とても私の口からは言えない」と若干苦味のある引き攣った笑みを顔に貼り付けていた。

 

 更には里の大人。

 

 そこらにいる里の大人に聞いてみても「いや、あれはなあ……」と遠い目をしてしまい聞くに聞けなかった。

 

 そういう訳で誰も答えてくれないと、思い込んだ志貴。しかしどうしたものだろうか。大人に聞いても答えてくれない。でも子供だけで行くには危ないらしいし、とウンウン考えた。

 

 必死になって考えるその様はなかなかに微笑ましく可愛らしい姿である。だが本人はいたって真剣。

子供ながらに考え考え、考えすぎで頭が痛くなってきた頃、ハッと閃いたものがあった。

 

「――――ってことなんだ」

「……」

「結局お父さん理由言ってくれないし……。だから僕考えたんだ」

「何?」

「兄ちゃんと一緒なら大丈夫なんじゃないかなあって」

 

 七夜当主である七夜黄理の住む屋敷の離れ。簡素な部屋である。物らしい物がない、ひどく寂しい内部だ。そこに志貴は訪れていた。

 

 その対面にいるのはこの離れの住人、朔である。二人はいつぞやと同じようになぜか正座で対面していた。

 

「なぜ?」

 

「んとね、だって大人の人は教えてくれないし、でも僕たち子供だけじゃ今まで行った事もないから危ないし。だからね、何回も行った事ある兄ちゃんなら大丈夫だって、僕思ったんだ!」

 

 すごいでしょ、と志貴は満面の笑顔で言った。

 

 志貴の考えではこうである。

 

 子供だけでは駄目、大人は教えてくれない、ならば朔と一緒に自分の足と目で確かめればいいんじゃね? である。

 

 こんな流れが志貴の頭の中で完成され、そしてそれは最早朔さえよければすぐさま発動可能な計画でもあった。大人は駄目だから、志貴と同じ子供でありながら里を離れることが許されている朔ならば外に出ても問題ない。子供だけ、と言うのは懸念事項ではあるが、もしなにか問題あっても朔は志貴よりも遥かに鍛えられているし、志貴自身も最近は頑張っている。七夜の移動術もある程度ならば使えるようになった。だからきっと大丈夫だろう、と考えたのである。

 

 何とも子供らしい安直な考えではある。だが志貴としてはこれ以上の案はないだろうと踏んだのだった。

「……」

「だからさ、兄ちゃん」

 

 志貴は真っ直ぐに朔を見て言った。とても楽しげな笑顔で。

 

「森に連れて行って」

 

 駄目かな? と若干小首を傾かせながら志貴は頼み込んだ。

 

 そんな志貴の姿を、朔はその無機質な瞳でじっと見ていた。

 

 今現在昼を過ぎた頃。朔は僅かながらにもコロコロと表情を変える使用人と昼食を済ました後、特にやることもなく離れの中に寝転んで無意識のうちに黄理の動きを脳裏に描いていた。そして想像の中、朔と黄理の対戦で朔の殺された回数が十を越えた頃だった。離れに志貴が訪れたのである。

 

 そして用件は森に連れて行って欲しいとの事である。

 

 この頃朔は志貴と共にいる時間が多くなってきた。閉鎖された里というのも在るだろうが、一日で会わないことはない。常にいる、と言うことはないが極めてそれに近い。遊戯に付き合うことはあまりないが、時たま共に夜を過ごす事もあった。無論二人で眠っただけのことだったが、次の日使用人の鼻息がやたらと荒かった。

 

 兎にも角にも人里を離れることを志貴は望んでいる。朔は考える。以前から朔は訓練のため森の中に向かうことが許されている。なぜ許されているのか。森は子供には大変危険、らしい。全方位から襲い掛かる植物たちに、突然変異を起こした生き物たち。自然のヒエラルキーは逆転し、植物が生き物を喰らうという関係が形成された森は同じく生きた者である人間にとっても危険地帯に変わりない。それでも朔が森に行けるのは朔自身の生存率が極めて高く、無傷で生還が可能だからである。幼少の頃、気付けばそんな場所へ当たり前のように行けた朔だからだろう。

 

 そんな朔にとって森は危ない場所と思うことが出来ない。確かに危険な場所ではある。朔自身判断を誤り、命を落としかけたこともあった。

 

 だが、朔にとって自身の命の価値を判断することは難しく、死ぬことに厭いはない。ゆえに森の中に行くことは命を落とすことはあるだろうが、別に問題らしいことはない。

 

 朔は改めて志貴を見た。その茫洋な瞳に期待をしている志貴の姿が見えた。

 

「……」

 

 不意に立ち上がった朔に志貴は少しばかりの戸惑いを覚えた。

 

 もしかして駄目なんだろうか、と不安が過ぎる。

 

 朔はそのまま歩き出し、外に向かおうとする。そして座ったままの志貴に振り返ることもなく、

 

「行かないのか」

 

 と言った。

 

 始め朔が何のことを言っているのか分からなかった志貴であったが、次第に朔の言葉に思考が追いついた。

 

「行く!うん、絶対に行くよ!」

 

 嬉しさと楽しさが混じりあったような笑みを浮かべ、躍動するように朔の後姿を追った。

 

 朔の判断では、志貴が自ら森の奥に行きたいと志願したのは詰まるところ、森の奥に行っても生還できる自信があると判断したからに他ならない。森は大変危険な場所であるが、志貴は行きたいと言った。動物の本能には危険な場所には近づかない生存本能が存在するが、志貴は森を危険ではないと判断したのだろう、だから行きたいのだ、と朔は考えたのだ。

 

 当然の事ながら。

 

 志貴は森が危険な場所であると知ってはいるが、分かってはいない。志貴の想像する危険とは、精々危ない場所と言うことで、怪我しても仕方がない場所である、ぐらいのものでしかない。つまり朔の考えた志貴の判断は、全く見当違いなものであった。

 

 それ以前に子供は行くことを禁じられていると、朔は知っていて、それではなぜ断らなかったのか。

 

 朔自身、なぜかは知らないが、志貴の話はなんだかんだで断ることが出来ないと、未だ自覚していなかった。

 

 兎も角、他の七夜が聞けば全力で阻止しそうな朔の思考経路によって、志貴は里の外に向かうこととなったのである。

 

 □□□

 

 始めていく場所ほど興奮する場所はないんじゃないか、と志貴は密かに思っている。

 何しろ七夜の里は、外部から隔絶された場所にあり、志貴自身人里から離れた経験は無い。里は確かにいい場所ではあるが、未だ幼い志貴にはそれはわからない。この変化のない里はなんだか詰まらない所としか思っていなかったりする。

 

 自身と同じ子供と遊ぶのは楽しいし、訓練も辛いがやっているうちに面白いと感じるようになった。だが、いかんせん里は娯楽が少ない。外部から志貴の好奇心が満たされるようなものは入ってこないし、僅かにある楽しみと言うのも発展性が少ない。

 

 そんな折、志貴の前に現われたのが朔である。

 

 朔は兎に角凄い。志貴と同じくらいの子供でありながら、黄理と訓練が出来て、志貴には出来ないことが何でも出来る。志貴の思い込みも多々とあるだろうが、志貴の中で朔のイメージ像は大変膨れ上がっている。だからだろう、従兄弟という関係であるが、朔を兄と呼んでいるのは。兄は凄い。未だ朔と話したこともなかったあの頃は、朔は志貴にとって未知の塊で、朔の話を聞けば聞くほど志貴の好奇心は高まっていった。そして実際に会って、話してみて、共にいる時間が多くなり。志貴は朔と共にいることで、家族といるような安心感を見出していた。

 

 そんな訳で、朔と一緒にいるなら大丈夫だと思った志貴は森の奥に行きたいと朔にお願いしたのだった。

 

 志貴の視界には広大な緑。そして地面、そして空。それ以外の雑多なものはない。家もなければ、人もいない。いつもよりも濃い自然の香りが鼻腔に満たされる。それを吸って、吐いて。

 

 そして志貴のわくわくはピークに達しようとしていた。

 

「うわあ、なんだか凄いよ兄ちゃん!何もないよ!」

「ああ」

「ほら、里があんな所にある!さっきまであそこにいたのに、凄い小さい!」

「ああ」

 

 興奮冷めやらぬ志貴の言葉に、朔はまともに聞いているのか聞いていないのか判別のつかない返事を返した。

 

 今現在、二人は人里を少しばかり離れた場所に入る。そこは朔や志貴の他に里の者が使用する訓練場を抜けた先の所だった。

 

 里を離れ、森に向こうのは良いが、果たしてどうやって行くか。いざ向かわんと意気込む志貴の目の前にそんな問題が現われたのだった。

 

 志貴と朔が話し合った結果、家のある場所からは少し離れた訓練場から向かうことになった。里には何人かの見回りがいて、外部からの敵の侵入を監視し、里から安易に子供が出ないように回っている者がいたが、そこは朔の出番。朔は人の視線の間隙を縫っての移動を敢行。同じ七夜の志貴ですら分からぬ、人からの視線。それを感じ取り、何者からも視線を感じない瞬間、二人は里から離れたのである。

 

 実際、里の実力者ですら容易には行えない芸当を苦なくこなせる朔の凄さが垣間見えた瞬間であり、志貴の中の朔への尊敬がまた大きくなった。だが既に限界値を突破しているので、意味がなかった。

 

 さて、そうして里を離れていった志貴と朔であるが、始め朔が先行していたのだが、高まる胸の鼓動を抑えることが出来なかった志貴の歩調が次第に速くなっていった。

 

 普段見慣れる風景。里から少しばかり離れただけだというのに、志貴にはこの空間が別の世界のように見えた。

 

 苔むした植物たちの匂いは遥か太古の原始を感じさせた。果てしなく広がり途切れることのない大樹は志貴の冒険心をくすぐらせた。そして後ろに振り返ると里がもう見えない。側には朔。朔がいるだけで冒険心を高ぶらせながら、その存在に安心感があった。

 

 怖いものなんて何もない。

 

 幼い冒険心は未知への好奇心を飛躍させるばかりだった。

 

 目的地なんてどこにもない。ただ気の向くままに進んでいく道がきっと正しい。

 

 だから志貴はそのまま進んでいこうとして。

 

「待て」

 

 朔に呼び止められた。

 

 朔の言葉に振り返ったなぜ呼び止められたのか不思議に思い、朔に聞こうとして。

 

「何かいる」

 

 その冷たくも意志の有無を許さぬ言葉に固まった。

 

 何かいる。なにかいる。ナニカイル?

 

 志貴は慌てて辺りを見回した。しかし志貴の視界には取り立てて生き物の姿は見えない。ではなぜ朔は呼び止めたのだろうと、不思議に思い、再び聞こうとしたその時だった。

 

 志貴の後方、朔の視線の先にある茂みから、草を踏む擦れた音が聞こえた。

 

「―――――――っ!」

 

 突然現われた。一切の気配を志貴に感じさせることなく、志貴の直ぐ後ろに何かがいる。慌てて朔の後ろに隠れた志貴は、その茂みにいる何かに僅かな不安と多大な好奇心を揺らめかした。そんな志貴のことなど知らず、朔は携帯していた小太刀を鞘から抜き、腰を落として茂みを見つめいていた。

 

 その何かが何であれ、朔は殺す気満々だった。

 

 次第に大きくなる茂みの音。

 

 志貴の喉が鳴った。

 

 そして一瞬の静寂。

 

 その瞬間だった。

 

 茂みから、何かが現われた。

「―――――――――――っ!!!!」

 

 びくつく志貴。襲い掛かろうと低い姿勢になる朔。

 

 だが。

 

「――――――――……………………………………………………………ゑ?」

 

 呆然とした志貴の口元から表記しにくい音が漏れた。

 

 緑の傘。

 

 白い斑点。

 

 デフォルメされたように輝く眼に、淡い黄色のぼでぃ。

 

 あえて言えばキノコ。頑張って言えばキノコ。苦しいかもしれないが、キノコ。

 

 それが二足歩行で、なんかそこにいた。

 □□□

 その日、私は悩んでいた。

 

 恥ずべきことだとは分かっていた。だが、自らを律しようとする理性と、私を掻き乱す本能がせめぎあっているのだ。羞恥や背徳を超越する欲望によって。

 

 胸の鼓動が高まり、鳴り止まない。恐る恐る手を伸ばそうとして、いや、やはりやってはいけないとその手を押さえる。だが視線はそれに釘付けで、逸らすことが出来ない。

 

 それでも、私は、私は……!

 

 正座で座る私の目の前の座布団に置かれた布。それは何者にも価値がなく、はっきりと取るに足らないものだと認識されるだろう。だが、それが私には、とても甘美なものに見えて仕方がない。

 

 だが、だが、私は、私には―――!

 

 切欠は些細な、それこそどこにでもあるようなことだった。

 

 今日、私はいつもと変わりなく屋敷の家事を行っていた。朔のために朝餉を作り、朔と共に食事を取り、その後訓練に向かう朔を見送り、昼食には再び朔と食事を取った。食後しばらく朔の部屋にいたかったが、まだ家事が終わっていなかったので朔と少しばかり言葉を交わし母屋に向かった。

 

 屋敷の家事は私が全て受け持っているわけではない。この屋敷には使用人はおらず、主に家事を担当しているのは私と義姉様だ。

 

 義姉様は私と違って大変女性らしい方で、私の憧れでもある。料理は美味しく、その身のこなしも参考になることばかり。さすがあの兄様と契りを結ぶ方で器量良く、何一つ取っても私なんぞでは逆立ちしても太刀打ちできない方だ。

 

 だが、だからと言ってこの屋敷の家事の全てを行えるわけではなく、私としてもそれは忍びない。家事は数少ない私の趣味でもある。なので家事の負担を減らすため義姉様だけにやらせるのではなく、私も家事を行っている。

 

 そして私は母屋にて溜まっていた服を纏めて洗っていた。それもあと少しのところで、ふと何気なく残った洗濯物を確認したのだが、その中にひとつ、あるものを見つけてしまったのである。

 

 いつもならば、いつもの私ならばそれをそのまま洗い物として洗い済ましていた。だが、その時は止まってしまった。それがなぜだか、今となっては検討もつかない。ただ、私はそれ以外の洗濯物を洗い終わると、それを衝動的に着流しの袖の中にしまい、他のものを干し終わると急いで部屋に戻ってきたのだ……。

 

 改めて目の前にある品を見る。

 

 ……はっきりと言ってしまえば、朔の下着だ。

 

 それが目の前、敷かれた座布団の上に乗っかっている。

 

 果たして私は何でこれを掴み取ってしまったのか理解できない。ただ朔の汗やら体臭やら、その他諸々が染みている可能性があり私としても何とも甘美な予感があの時はして思わず手に取り匂いを嗅いだり口に含んで唾液に混じり滲み出た汁くぁwせdrftgyふじこlp!

 

「―――っは!」

 

 危ない危ない。

 

 もう少しで踏み出してならない領域に足を届かせようとしていた。

 

 だいたい朔はまだ子供。調べた限りでは精通もしていない。それなのに手を出しても意味は無いだろう。

 

 伸ばしかけた手を息を吐きながら戻そうとし、一瞬過ぎる未来の展望にそれは空で止まった。

 

 待てよ? 私は七夜なのだし近親相姦は全然構わないのでそこらへんは問題にしていない。むしろばっちこいだ。

 

 七夜は早い内に子供を授かるのが望まれている。何せ七夜の家業はあれだ。将来現役は難しく、肉体の衰えなどで第一線を引く事が多くない。

 

 翁?あいつは駄目だ。あの狡猾な突撃莫迦を当てはめて考えてはならない。

 

 この歳になって私が未だ誰とも契る事が無かったのは、私自身身を固める必要性を感じなかったこともあるだろう。しかしそれ以上に七夜の男に感じ入るものがなかったのだ。魅力と言えばいいのだろうか、それがこの里に生きる者には感じられず、好き合ってもいない者と結ばれる事もいただけず、ずるずると時は流れていった。そしてそのまま私は老いていくのだろうと思う。思っていた。だがそれは朔の存在で覆される事となる。

 

 朔と触れ合うこと七年以上。着実に私たち兄弟の血をひいた成長を見せている。それを側で見守り続け、同じ時を過ごしていくうちに、私の中のナニカが産声を上げたのだ。

 

 今まで感じたことも無いような温度。朔の事を思うと胸が締めつけられるほどに切なくなる。始めこの感覚はなんだろうかと戸惑い、しかし誰かに相談することも出来ず我慢していったのだが。

 

 最近になってそれが抑えつけられなくなってきている。

 

 朔は子供ながらにその肉体は早くも男性的な引き締めを成しているが、ふとした時に見せる歳相応の幼さ、それに目を奪われる。訓練後の僅かに乱れた着流しの隙間から覗く身体。あれは素晴らしい。胸の鼓動が早くなり、少女のように赤面したものだ。

 

 朔の近くにいる志貴にも時たまそれに近い衝動が起こる。だがそれは朔以上ではない。志貴には感じられぬ、私を突き動かさざるを得ないナニカが私の中にはある。

 

 朔が寝静まった後の茫洋な気配がなりを潜めたあどけない寝顔など興奮した。思わず全力で気配を消し、その頬に触れ、挙句の果てには興奮の末、頬を舌で舐めてしまった。あれは良かった。気配を読む事に長けた朔からこのような事が出来ることは全くといって良いほど無い事だった。いつ朔が目覚めるかも知れぬ緊張の中、沈んだ夜の空気に頬を舐める湿った音のみ聞こえてくるのだ。

 

 あの時はそれ以上進めば止められなくなりそうだったのでそこで止めたが、もし次同じような機会があれば次はもう少し大胆に行ってみたいと思う。

 

 それは兎も角。

 

 問題となるのは朔の年齢。未だ子供であるから性交は出来ない。意味が無い。だが、もし今後朔を狙うような輩が現われた場合はどうだ。朔は受動的だ。もしかしたらそれを受け入れ、挙句の果てにはそのまま……。

 

「駄目だ。それだけは駄目だっ」

 

 朔がまだ赤子だった頃から育ててきたのは私だ。そんなどこの馬の骨かも分からぬ女に青い果実を掠めとられるなぞあってたまるかっ。

 

 そうだ、私には責任がある。朔を育てている私には朔の成長を確認する責任があるのだ。ならば朔に関する事の大抵は私自身の目で知っておかなくてはならない。

 

 朔のためならばこの下着をどう扱おうとも問題ない。むしろ誇るべきではないか!

 

 ――――答えは、得た。

 

「ならば。……躊躇う必要は、無い」

 

 良心の呵責やら理性によって震える手に力をこめ、恐る恐る朔の下着に手を伸ばし掴んだ。その厚みの何て頼りない事。このような薄布で、朔のあ、あ、アレは包まれているのか。赤面を自覚する。

 

 しかし、手に包まれた下着を見て、迷う。

 

 私は本当にこれを行ってもいいのだろうか。決定的な間違いを犯そうとしているのではないか。

 

 不意に浮かんでは消えを繰り返す私の弱さ。そして私は弱気な私を叱咤した。

 

 そう、これは私のやらなければならない事。私の責任、私だけの義務だ。私がやらずに誰がやるっ!

 

 心臓が痛いほど脈打っている。全身が熱を持ち、眼前にある布しか目に入らない。

 

 そうだ、躊躇うことない……!

 

 そして私は、ゆっくりと朔の下着を嗅ぐ。

 

「――――――――――――――――――っ!!!!」

 

 禁忌を犯すような背徳感が、私の背筋をなぞる。

 

 鼻腔が朔の匂いで満たされていく。少しばかり汗の混じったその匂いは、あっという間に私の中を蹂躙していく。痺れにも似た感覚が全身を駆け巡り、私の頭の中は次第に白くなっていく。

 

 嗚呼、これは、良い。

「あ、ふぁ……」

 

 全身が幸福感で包まれている。

 

 深く鼻で呼吸を繰り返す。その度に朔の匂いが私を染める。

 

 私が満たされる。私は満たされる。朔が満たされる。朔に満たされる。

 

 今まで私は、これを知らずにいたのか。なんて、愚か。なんて、無様。

 

 朔、朔、朔、朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔さくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさく―――――――――っ!

 

 呼吸が幸せとは、考えたことも無かった。

 

 だけど、これでは足りない、これだけでは足りないと私の中の欲望が熱を持って訴える。

 

 朔の下着。それは今、私の息で少し湿っている。

 

 これを、もし、口に含んだら……。

 

「はぁぁ……っ」

 

 それを思うだけで、艶めいた吐息が私の口から漏れる。そして、そんな女らしさを持っていた自分に多少の驚きがあった。

 

 そして私は内側から起こる衝動のままに、ゆっくりとその布を私の口元の中へ――――。

 

「……あの、少し、よろしいですか?」

 

「わああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああ!!?」

 

 突然話しかけられた。

 

 それに義姉様の声で今気付いた私は、思わず悲鳴をあげてしまった。そして声の方向に全力で顔を向けると、開かれた襖、そこには困ったような表情をした義姉様が私を見ていた。その苦味の混じった視線の先には私の口の中へとっさに入れた朔の下着。

 

 ……終わった。 

 

 □□□

 

「……」

「……」

 

 茂みの中から現れたモノを見て、志貴はほとんど反応することが出来なかった。

 

 だってそうだろう。志貴としては始めての冒険である。その場所で出会うものは未知なものがいいなあ、と期待してはいたが、目の前にいるアレはなんだろうか。志貴の想定の範囲内を超えている。

 

 キノコ。見かけはまるでキノコであり、見事なキノコっぷりである。形状的に考えてキノコ以外の何者でもない。だがこれをキノコと呼ぶにはあまりに強引過ぎ、志貴としても些か首肯するには戸惑う。

 

 キノコとは本来、菌から発生した植物であり、その性質は花に近い植物である。そしてそれらは食用として食されることもあれば、命を脅かすような毒を持つものもある種類豊富な植物である。

 

 そして志貴の知識では、キノコは生物ではない。

 

 しかし、改めて目の前にいるモノを見る。

 

 キノコ。形状はキノコである。

 

 傘の部分は妙に毒々しい色をなし、その黄色のぼでぃには丸っこい手足のようなものがついている。そしてその顔面(この時点でおかしい)には輝く瞳。大きさは志貴よりも少し小さいが、何と言うかずんぐりむっくりとした感じであり、それが上目遣いで二人を見ている。

 

 部分的に鑑みるにキノコではある。正直、キノコと呼ぶにはキノコに対して失礼な気もするが、それ以外に呼び方が無い。だがどうにも納得できない。

 

 戸惑いを覚えながらも志貴はどうするべきかと朔に視線を投げかけたが、朔は朔で既に腰を落とした前傾姿勢。臨戦態勢である。その手に握られる小太刀はまっずぐに目の前の命を狙っていた。それを見て志貴は思った。駄目だ話にならない。

 

 朔にとって志貴が戸惑う未知の存在など、さして興味も沸かない奴なのだろうか、と志貴は考え、改めてキノコを見た。

 

 キノコは茂みに姿を現した状態のまま、そのつぶらな瞳で志貴と朔をじっと見つめている。キノコとしても二人に対し興味を持っているのだろうか。なんだかデフォルメされた瞳の虹彩が先程よりも輝いて見える。

 

 しかし、ここで何もしないのはちょっといただけない、と志貴は次第に落ち着いてきた頭で思った。突然の出会いに混乱はしたものの目の前にいるのは志貴の望んだ未知である。想像の斜め上に突っ走っているが、冷静になってみると志貴の好奇心がむくむくと大きくなっていく。

 

 志貴は再び朔を見た。キノコが未だ何も行動を起こしていないからなのか、朔に今のところ襲い掛かる気配は無い。しかし、このまま何もしなければしないで、朔が目の前の存在を廃絶するのは時間の問題である。その証拠に朔の身体から僅かながらに殺気が滲み出ている。それは朔といる時間が多い志貴だから分かる、朔の機敏であった。

 

「兄ちゃん。どうしよう?」

 

 朔にとりあえずどうするべきか聞こうした。

 

 朔は既に足を踏み込んでいた。

 

 志貴の気配読みはあてにならなかった。

 

「って、うわああぁ!待って待って兄ちゃん殺しちゃ駄目だよ!」

 

 本気で焦った志貴は今にも飛びかかろうとした朔の目の前に回りこんだ。キノコを背に庇うように。

 

 そして志貴の目前で朔は止まる。その手に握られた小太刀は志貴の鼻先。あと少し志貴が遅ければ頭部が串刺しにされていた。

 

 志貴ビビる。

 

「うわもうびっくりしたっ。兄ちゃんまだ駄目だよ!」

「なぜ」

 

 志貴の焦りように朔は静謐な声を返した。そしてまだってことは後でならばいいのだろうか。

 

「なんでも!」

 

 志貴は軽く怒ったように朔に言い、そして今しがた自分が守ったキノコに振り向く。

 

 キノコは朔の殺気にあてられたのか完全に怯えていた。

 

「あの、えとごめんね大丈夫?」

 

 とりあえず刺激しないようになるべく優しく接してみたが、キノコの瞳は潤んでいる。

 

 この時、志貴にはやばい予感が過ぎった。

 

 なにか自分たちはやってはいけないような、とんでもない事をしでかしてしまったような気がする。

 

「べ、別に君に何かしようとか思ってないよ?うん、まずは落ち着こう深呼吸して深呼吸は大事ってお父さん言ってた、あれでも君呼吸しているの?違うそうじゃなくてとりあえず落ち着こう、うん、そうしっ――――!!」

 

 森が、ざわめく。

 

 急激に接近する気配。

 

 何者か、それも複数の気配がいっきに近づいてきた。

 

 ニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロ。

 

 志貴の脳内で逃亡を促すアラートが鳴り響く。しかし、志貴がそれに従い逃げるよりも早く、それらは急激に近づきその姿を現した。

 

 キノコ。

 

「え、あの」

 

 キノコキノコキノコ。

 

「え、え、あ、あれ?」

 

 キノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノキノコキノコ。

 

 志貴の視界にキノコが現われた。しかも複数。いや、今こうしている間にもキノコたちはその数を増やしていく。なんだかキノコ以外にもいるような気もするが。

 

「…………えぇぇ」

 

 森に志貴の力ない絶句が沈む。

 

 目前、いや周囲に渡って姿の似たキノコが蠢き犇めいている。数えるのが莫迦らしくなるほどのキノコたちが志貴や朔を取り囲んでいた。その光景の何とコミカルなことか。それら全てが二人を見つめているのである。しかし、数の脅威と言うべきか。同じ造形の生物に取り囲まれている志貴は怯えた。

 

 こいつはやべえ。

 

「に、兄ちゃん……」

 

 志貴はそもそもの原因である朔に縋りついた。あまりの事態にすっかり先ほどの出来事が頭から飛んでいったのだが。

 

 その朔は朔で、周囲に殺気を撒き散らしキノコたちを威圧している。瞳にキノコを映して。その増大な殺気にあてられキノコたちもなんだか怒っているような。その体を目一杯使って私たち起こってるんですアピールをする様はなかなかにシュールである。

 

「兄ちゃん怖がらせちゃ駄目だよ!」

 

 しかし今度は志貴の言葉に朔は耳を貸さず、両者の睨み合いは次第に熱を帯び始めた。色めきたつキノコの群れとそれに対峙するのは朔。志貴は朔を止めようとしているが、朔と関わる合間に志貴が朔を止められること等なかった。

 

 それは詰まるところ、今この時点で志貴は役立たずということ他ならない。

 

 なので、

 

「「「―――――――――――――――――――――――――――――――――!」」」

「……」

 

 しばらくお待ちください。

 

「ああもう!殺しちゃ駄目だからねっ!」

 

 志貴は身の危険を感じ、とりあえず近くにそびえる木の枝に駆け寄った。あのままあそこにいたら巻き込まれるだろうと判断した結果だったのだが、おそらく正しいだろう。

 

 眼下には正面から衝突した朔とキノコの大群である。

 

 あきらかに数の対比がおかしい。朔一人に対し未知の生物であるキノコ。五十は確実にいる。これで正面から襲い掛かる朔は凄い、がもう少し何とかして欲しかった。

 

「うわあ……」

 

 見渡す限りのキノコの山に向かって襲い掛かった朔。とりあえず志貴の言葉を守っているのか、気付けばその手に小太刀はない。直接的な殺傷能力はこれで下がった、と思うかもしれないが、朔の膂力の凄まじさを考えればこれでも安心できない。

 

 だってそうだろう。

 

「――――――――――――――っ」

 

 キノコが宙に舞っている。

 

 群れの中に突入した朔は体当たりを敢行するキノコ共を千切っては投げ千切っては投げ。

 

 キノコ乱れ舞である。

 

 朔によって殴り飛ばされ、投げ飛ばされ、蹴り飛ばされるキノコたちは何やら悲鳴のような音を漏らしながらポンポンはねられていく。そしてその度にキノコの体から胞子が飛んで視界が悪くなっていく。キノコの色からして毒のような気もするが、とりあえず志貴は着流しで口鼻をガード。

 

 そして高い木から俯瞰している志貴にも分かるが、このキノコたち戦闘能力自体はあまり高くない。先ほどから行っている攻撃手段は相手に近づいての体当たりのみであり、その他のような行動は見せていない。

 

 だからだろう。朔の独壇場である。

 

 碌な抵抗も出来ずポンポンとすっ飛ばされていくキノコたちの目には涙。ホントにこれ植物か?

 

 相手が悪かったのもあるだろう。キノコたちが挑んでいるのは朔である。移動速度、膂力、急所へお的確な攻撃など根本的な七夜としての素質では七夜一。化生と殺しあうために存在した七夜において尚際立つその技量と膂力。さらに朔自身の努力でそれは更に磨きがかけられ続けている。そのような存在を相手に戦っているキノコが憐れでならない。いや、これは戦いとすら呼べぬ蹂躙だ。朔の動きに反応できているキノコがいないのがそもそも問題だろう。なにしろ木にいる志貴ですら朔の動きに目が追いついていないのだ。

 

 暴風雨の如くキノコたちを蹂躙していく朔。

 

 気付けばそこに動いている者はただ一人となった。

 

「……」 

 

 無論朔である。

 

 ぼっこぼこにされたキノコたちの亡骸が横たわる地面に朔は立っていた。

 

 倒れ伏す異形のモノどもに対し残心なく油断はなく。

 

 あいも変わらず茫洋な目。

 

 その姿に志貴は自身の父である黄理の姿を重ね合わせた。

 

「あの、兄ちゃん?」

 

 動くものがいなくなっても未だ臨戦態勢のままである朔に心配を抱き、志貴は木を降りて朔の側に寄った。

 

「……」

 

 しかし、朔の返事はない。志貴の存在に気付いているのかも微妙だ。

 

 そんな朔に懸念を抱きながらも、志貴は改めて倒れ伏すキノコたちを眺めたが、なんだろうか、漫画のように傘の部分にヒヨコが回っている。これを植物のカテゴリーと呼ぶには芸が細かすぎるだろう。

 

 そして志貴は今がチャンスと、ぴくぴくと痙攣しているキノコたちにおっかなびっくり近づいていった。朔が志貴の事を視界に納めながらも何も言わないのはきっと大丈夫だって事だろう。

 

 気絶していたり、ダメージからか動くことの出来ないキノコたちを憐れに思いながらも、それ以上の好奇心に罪悪感は薄れていき、目の前に倒れていたキノコの一匹。それに近づき、手で触れる。

 

 ざらついた手触りがした。そして妙に生暖かい。

 

 それを触りながら志貴は今更ながらに朔へ問うた。

 

「兄ちゃん、これなんだろう」

 

 不思議な生物がこの森にいるなんて聞いてもいなかった。もしかして黄理や翁が言っていた危険とはこれに関係するのだろうか。

 

「知らない」

 

「そっかあ」

 

「でも」

 

「でも?」

 

「前に見た」

 

「そうなんだあ……って本当っ?」

 

「ああ」

 

 朔は無表情に無機質に志貴の問いに反応する。

 

「兄ちゃんはこれいつ見たの?」

 

「訓練中に」

 

「森に入ってる時?」

 

「ああ」

 

 話しによれば、黄理との訓練中の際何度か遭遇していたのだとか。

 

「それってお父さんは知ってるの?」

 

「伝えていない」

 

「どうして?」

 

「聞かれなかった」

 

「……そっかあ」

 

 実に朔らしい事である。

 

「それで、その時にはどんな感じだったのこれって」

 

「変わらない。この形」

 

「それで、殺したの?」

 

 そう聞くと、朔はしばし時を置き緩やかに首を振った。

 

「殺した。だけど、殺せなかった」

 

「え?それって、どういう……」

 

 その時である。

 

 志貴の触っていたキノコそれが。

 

 むくり、と。

 

 ぎこちない動きで起き上がったではないか。

 

「うひゃぅ!」

 

 そしてそれに呼応するかのように、周囲に横たわっていたキノコたちが起き上がり始めたのだ。

 

 突然動き出したキノコたちに驚いてしまった志貴は朔の側に慌てて戻った。

 

「こいつらは殺せない」

 

 そして志貴を庇うよう前に出た朔は再びその殺気を滾らせた。

 

「どうして!?」

「何度でも甦る」

 

 それを聞いた志貴は愕然とした。なんだそれは。本当にこのキノコたちは何なんだ。

 

 ふらつきながらも起き上がったキノコたちは先程よりも怒っているようにも見えた。志貴は予想も出来ぬ展開にどうすることも出来ず、最早置いてかれているような状態だった。

 

「そして」

 

 そしてキノコたちは怒りの興奮そのままに、志貴の目前にわらわらと集まり始めた。

 

 やがてそれはひとつの集合体となり、塊となり、なんだか蟻の巣のような凄い光景である。

 

 その時、森に突風が吹いた。

 

 あまりに強い突風に志貴は目を覆う。

 

 森のざわめきが再び起こった。ざあざあと擦れる葉の音は何かの前触れにも聞こえた。

 

 目を閉じる志貴の体に舞い散る葉が何枚をあったっていく。

 

 だがその側にいる朔は目を隠すことなく、目の前の存在を見ていた。

 

 しばらく経ち突風は収まっていき、森のざわめきが消えていく。

 

 それに志貴は覆い隠していた目を徐々に開いていった。

 

「あれ……?」

 

 そして、志貴の目の前にいつの間にか山が出来ていた。

 

「合体する」

 □□□

 それを見たとき、志貴は言葉も忘れて見入ってしまった。突然目の前に現れた小山は志貴にとって想定外もいいところ。無論魅了だとか、憧憬だとかそんな肯定的な感情ではないが。

 

 大きい。ひたすらに大きい。

 

 大人の者でさえも見上げてしまうような、そびえるキノコが、そこにはいた。

 

 小山の如きキノコだった。先ほどまでの愛嬌はどこにやら。見かけ、腕を組んだ筋骨隆々なキノコである。一頭身であったはずのキノコは今では人間のような構成と化していた。

 

 岩の如き大胸筋、見事な割れ目を成した腹筋。筋肉繊維まで見えそうな上半身であり、その下半身もまた然り。それでも顔に当たる部分はキラキラとしたデフォルメの眼が何とも言えない。子供ながらに志貴はその肉体の脅威に晒され瞠目した。だが何だろうか、この何とも言えぬ虚脱感。言葉にもし難い様相を成している。しかし。事はそれどころではない。

 

 志貴が見上げるような高さを誇るキノコであるが、その身体の造りは男性の構造に酷似している。つまり、それが確認できると言うことは、キノコは男性の肉体でありながら、裸体を曝け出していることに他ならない。裸体である。裸体、なのである。大事なことなので繰り返す。

 

 そして、志貴にはそれが見えた。

 

 人間的構造、それも男性体に極めて酷似したキノコ。

 

 それの股間部分。志貴は見上げてしまったので、はっきりとモロである。

 

 その部分に、先ほどまで散らばっていたサイズのキノコがちゃっかりと、おられている。

 

「うっわ……」

 

 志貴絶句。

 

 誇るように其れを突き出す巨大キノコ。何処からか「投影拳!」と聞こえてきたのは気のせいだろう。そう信じたい。仁王立ちのそれに時折その部分にいるキノコがピコピコと動いているのが、何とも不可思議である。

 

 それが、二人を見下ろしていた。腕を組み、股間を誇張する巨大筋肉キノコ。どこぞのボディビルダーもかくやのマッチョっぷりに志貴はドン引き。既にドン引きしていたが。そしてそれは、志貴たちを見てその顔を歪ませた。それは企みが成功し、そのまま勝利を確信したような表情であった。

 

 組まれた腕が解かれる。

 

 そしてその手が高く高く、その巨体からかゆっくりと持ち上がっていく。天高く上げられた拳が暗い森から、僅かしか入り込まない日差しを遮る。

 

 恐らく、その馬鹿らしい大きさの手を叩きつけるつもりなのか。その動きは愚鈍であるが、巨体から鑑みるに決して軽く見ることは出来ない。当たれば二人なんて轢き殺された蛙と化す。

 

 しかし、人は突発的な事態に遭遇した場合、動きが止まるものである。それは志貴もまた例外ではなかった。いや、だってこんな相手と対面するのだ誰が想像できるだろう。志貴の視線は巨大キノコ、股間のキノコに釘付けであった。

 

 が、何事もうまくいくようには出来ていないのがこの世の常。

 

 この突発的な事態を既に体験していた人間もここにいたのが、キノコ最大の不幸だった。

 

 ――――志貴の隣で、朔が動いた。

 

 呆然とし動けないでいる志貴には目もくれず、臨戦態勢を解き放ち、キノコに向かって飛翔した。ハッとし、志貴は朔の姿を見る。無茶だと思った。あまりに巨体、あまりに巨大。そのようなものに挑むのは無謀だと。朔が負ける姿は想像できないが、しかし確実に手痛い目に会うことは容易に想像できた。

 

 しかし、朔はそのような志貴の慮りなぞ知らないかのように、拳を打ち下ろすキノコに向かっていった。

 

「兄ちゃん!!」

 

 激突の寸前、志貴は思わず目を瞑ってしまった。朔が叩き潰された姿を恐れたのである。

 

 砂を打つ様な、くぐもった音がした。

 

 それが耳に入り、志貴は朔が負けたのだと思った。信じられるはずなかった。だが、あまりに両者の差は広がりすぎていたのだ。それを埋めることが、出来るはずがない。そう志貴は思い込み、次は自分なのだと思った。

 

 だが、待てどもその時は訪れなかった。何が起こったのかと志貴は恐る恐る目を開き。

 

 ――――巨大キノコの股間のキノコに拳をめり込ませた朔の姿が見えた。

 

「うわ……」

 

 志貴、この短い時間でまたも絶句。

 

 朔の拳は真っ直ぐに股間キノコへと突き刺さり、見るからにその形状を陥没させていた。どの様な威力を込めればそのようになるのか。朔の渾身の一撃にキノコの顔は潰れ、皺が寄り、ほとんど確認出来ない。その手足が痙攣しているのが痛々しい。

 

 しかし、それ以上に痛そうなのがそのキノコの親玉、巨大キノコである。

 

 股間とは男女問わず急所である。人間の身体には様々な急所が存在するが、最もポピュラーな急所として股間があたる。そこを陥没するほどの威力で打たれたのである。

 

「(あ、腰が引けてる)」

 

 朔の攻撃に晒された巨大キノコであるが、あの堂々とした態度から一変、仁王立ちが内股と化し、膝に力が入らないのかガクガクと震えている。あのキラキラの瞳は今では涙目である。そして志貴もそれを見て、少しだけ内股になった。

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」

 

 数瞬遅れ、キノコが絶叫を上げた。すわ怒りに襲い掛かってくるのかと、志貴は身構えたが、キノコはその場に座り込み、股間を抑えていた。地響きを鳴らし、内股の女の子座りである。

 

 そりゃ確かに痛いわなぁ、と志貴は納得していたが、その志貴にいつの間に戻ってきた朔が話しかける。

 

「志貴」

「どうしたの?兄ちゃん」

「逃げる」

「え、そうなの?」

 

 志貴の問い返しにコクンとひとつ朔は頷く。志貴はそこで先ほど朔がこれは殺せないのだと言っていたのを思い出す。合体キノコやマッチョやら股間のキノコやら立て続きに見てしまい、脳がすっかり動かなくなっていた志貴であった。

 

 一先ずこのキノコが股間を抑えている間は安全だと教えられた志貴は朔の言にしたがい、その場を離れることにする。怒り心頭と化したアレを相手するのは嫌だったし、志貴としても流石にそのような倒せない相手にもう一度会いたいとは思いたくない。頭からあの姿が離れないので暫くは夢に出てきそうだ。もし今日そうなったら朔と一緒に寝ようと考えた志貴は、ふとある疑問を感じた。

 

「兄ちゃん。もしかして前にアレとあった時も、あれやったの?」

「ああ」

 

 無表情に答える朔に志貴は若干の戦慄を感じたのであった。

 

 男の象徴をそんな簡単にポンポンと潰せてしまうなんて!

 

 男として生まれた朔にもあの痛みは分かるだろう。分かってやるのかそれを!と、内心朔は絶対に怒らせたくはないと誓う志貴だった。

 

 □□□

 

 時は進み、志貴と朔は森を進んでいた。暗がりの森は方向感覚を狂わせ、自分が何処から来て何処に向かいたいのか惑わせる。志貴は自分が飽きるまで進むと決めており、朔はそんな志貴を先頭についていくのみである。そもそも目的地があるわけでもない。

 

 あの巨大キノコから逃げおおせる事に成功した二人はとりあえず現在地がどこかも分からぬまま好きな方向、主に志貴の進みたい方向へと進んでいる。倒壊した巨木を乗り越え、苔生した岩石に腰掛け、幾重もぶら下がる蔦をかわし。最早森は暗さを増して木々の隙間から差し込む光は少なく、湿気が生じ空気は少し涼しくなってきている。その仄かに暗い森を進むのは若干の不気味さが生じるものなのだが、志貴の目的は冒険であり、また散策である。これくらいバッチコイと意気込んでいた。

 

「ねえねえ、兄ちゃん」

「何?」

 

 それでも多少の不安はあるため、志貴はひっきりなしに朔へと話しかけていた。いくら冒険心という火薬があれども、それは爆発するだけのものでありそれを揺ぎ無く持たせ続けるのは困難である。森はその本性を曝け出し、やがて志貴に己の幻想がどれほど輝かしく、そして脆いものかを時機に教えることになるが、それを知らぬ志貴はこの身に巣くう不安を持て余しており、それは朔と会話をすることで何とか誤魔化していたのだった。

 

「兄ちゃんはいつも森で何してるの?」

「訓練」

「どんな訓練?」

 

 志貴としてはそれも気になるところであった。朔は黄理に直に教えを受ける。それは志貴でも出来ぬことであった。確かに志貴自身、黄理の子という事で才はある。この若さにしてその片鱗を見せているだけでも充分だとは思うが、しかし、それは朔を見ると少々見劣りせざるを得ない。

 

 七夜朔は里で密かに鬼神の子と呼ばれているように、その才は留まることを知らない。黄理の訓練に喰らいつき、更には大人の七夜との戦闘に勝利するなど、志貴には出来ない事を達成している。志貴にはそれが凄くて、そして少しだけ悔しいと感じていた。志貴と朔は同年代の子供であり、その歳の差も二つしか違わない。しかし、差は縮まるどころか更に離れているような気がするのだ。なので、この機会に何か特別なことをやっているのか聞こうと思ったのである。

 

「閃鞘、閃走で森を動き回る」

「……それだけ?」

「ああ」

 

 しかし、朔の答えは志貴の望むようなものと違っていた。

 

 閃鞘、閃走。それは七夜に伝わる空間利用術である。関節の可動域を広げ強化することで可能な、人間には本来出来ない急制動及び加速を生み出す七夜の術理である。

 

 無論、志貴は七夜であるので、それは使える。朔を除けば志貴は里の子供の中で一番にそれを使えるようになったのだ。当然自信もある。なので朔の答えは少し期待はずれであった。

 

「むむむむ。んじゃなんで兄ちゃんはそんなに強いの?」

 

 倒れた巨木の上を進みながら志貴は言う。どれほどこの場所にあったのだろう。その樹皮は苔むしている。

 

「強くない」

 

 朔はそんな志貴を見ているのかも分からぬ茫洋な瞳。その瞳に森の姿が写されている。

 

「え、なんで?兄ちゃん強いじゃん」

「強くない」

 

 志貴の言葉を跳ね返し、朔は言う。

 

「御館様のように、強くない」

 

 なんだそれ、と志貴は思う。黄理は志貴の父親であり、七夜の当主なのである。それはつまり父はこの七夜で誰よりも強いという事で、その父のようにとは如何な事だろう。

 

「御館様には、まだ遠い」

 

 目標が高い、という事なのだろうか。それならば朔はまだ先を見据えていると言う事か。

 

「ふうん……」

 

 そうして志貴は流したが、誰が知るだろう。

 

 朔には、其れだけしかないのだと言うことを。

 

 志貴はちらりと、朔を見た。

 藍色の着流しを着た子供。鋭い目つきに、あいも変わらずの茫洋な瞳である。子供らしくない雰囲気を持った、志貴と同じくらいの歳の少年。抜き身の小太刀を左手に握るその身のこなしは今でも重心にブレがなく、いつでも戦闘可能なポジションへ極自然に移動している。

 

 ――――もしかしたら、僕を守ろうとしてるのかな。

 

 何となく志貴は思い、朔に真意を聞こうとして。

 

 その姿が掻き消えた。

 

「あれ?」

 

 そして志貴はそれと直面した。

 

 最初、志貴はそれが何なのか理解できなかった。

 

 何か、影が躍り出たのだと思っただけだった。

 

 だって信じられないだろう。

 

 今しがた朔がいた場所に。

 

 蔦が襲い掛かってきた。

 

「な、なにこれ……」

 

 生きてるように、蠢くように、その苔むした色の蔦は幾重にも襲い掛かってきたのである。森を構成する木々の隙間から、地面から、草葉の中から、それは何本も現われ朔がいた場所の埋め尽くす。その様はまるで触手。

 

 視界一杯に現われたそれは、まるで捕食しているのかのようだった。

 

 そして、それらは志貴を見た。音にしたらぐりゅん、とした感じで。

 

「ひっ!?」

 

 ヤバイヤバイヤバイ、と志貴の本能が悲鳴をあげた。いきなりのピンチである。なんだか分からぬが、アレに捕まえられると十八禁もしくは「ヒギィっ!」どころではない展開がやってきそうな気がした。

 

 もしかして朔はそれを知っていて姿を消したのか!?

 

 ―――瞬間である。それらが志貴に向かって襲い掛かってきた。

 

「う、うわああああああああああ!!」

 

 志貴は悲鳴をあげながら逃げた。咄嗟に閃走でそれらを振り切ろうとしたのだが、其れよりも早く触手は志貴を捕らえようと動きまわる。襲い掛かるそれらはまるで土石流のようであった。

 

 束となって迫るそれを寸でのところでかわし、次は何処から来るのかと確認をする前には地面に振動。咄嗟に飛んでみると、そこから木の根っこのようなものが生えてきて、これまた志貴を狙う。それを間一髪と安心する暇もなく、飛んだ志貴の背後から蔦が左右分かれて襲い掛かってきた。志貴は飛んだことが間違いだったと、何とかして身体を捻り、それを避けた。

 

 しかし、志貴の閃走、また閃鞘は未だ使えるのみであって、極めているわけではない。何が言いたいのかと言えば、朔と比べ圧倒的に修練が足りないのである。次いで状況判断、または空間把握に関しては今までこのような体験もしていなかったので論外である。なので志貴は簡単に追い込まれていたりする。志貴としても必死である。次々と襲い掛かる植物たちに対処が追いついていない。何とかして回避はしているが、どうにも危うい。そして志貴自身このような状況に対応することも出来なかった。予測を立てることもなく、目の前に現れる障害をやり過ごしていく。

 

 故に、志貴はピンチだった。

 

「こんのおおおおおお!!」

 

 目まぐるしく変化していく状況に志貴は避けるために、倒れた大木の苔むした樹皮を走っていく。何とか気合で乗り越えようとするが、既に視界は襲い掛かる植物で覆われていた。最早脱出するには包囲網が完成しつつある。僅かな隙間しかなかった天井は覆われ、日の光は遠く轟く植物たちの動きだけがあり、志貴が逃げる樹皮の先に、なにやら枯れ木の化け物が鎮座していた。

 

 それに気付いた志貴、動きが一瞬遅くなる。

 

 そして、植物たちは当然それを見逃すはずがなかったのである。

 

「あ」

 

 やべえ、これ死んだ、と志貴は視界に迫る植物たちを見た。植物たちは呆けるような志貴に容赦なく殺到していく。

 

 志貴は、自分の未来を想像し。

 

「ぐえぇっ!?」

 

 その首根っこが思い切り引っ張られていく。

 

 突然の衝撃に志貴は噎せる。そしてそのまま志貴の体はバウンドするように樹皮を進んでいく。引っ張られる感覚に、志貴は何事かと着流しを引っ張る存在を見やれば。

 

 朔が、いた。

 

 どこからか現われた朔はそのまま志貴をその背に乗せて、おんぶの体勢となる。

 

 その時点で朔に助けられたのだと状況を把握した志貴は、朔に礼を言おうとしたのだが、朔の軌道に唖然とし言葉を失った。

 

 加速。急制動。地上にいるかと思えば、いつの間にか二人は空にいた。視界が流れる、なんてモノではない。急激な移動に、志貴は気付けばそこにいたのである。天を覆い尽くす木の葉が手を伸ばせば触れられそうな距離にあった。空にいる朔めがけ、再び触手が襲い掛かってくる。志貴はその量に悲鳴をあげた。どういうわけか、先ほどまでとは段違いの触手がやってくる。それはまるで鉄砲水の勢いで、複雑に絡まりあうかのように迫る。

 

 だが、再び志貴は時間を加速させたような感覚を受ける。空気が圧力を持った。それに志貴は突っ込んでいき、自分が大海に包まれたような気がした。

 

 その急加速に景色が見えない。

 

 思わず目を瞑った次には、朔は樹皮を走っていたのである。どういう軌道を描いたのか目を瞑ってしまった志貴には分からないが、あの決して近くはない間隔をどう詰めたのか。しかも着地の瞬間が分からなかった。

 

 志貴が驚いている合間に朔は風を切って走る。その直線状にいる、枯れ木のような化け物に向かって真っ直ぐに。

 

「ににに兄ちゃん!?前、前前前!」

 

 志貴の慌てように気付いているのか、朔は反応すらせず、それに向かっていく。真逆、そのまま突っ込んでいく気か。ヤバイ、朔ならやるっ、と志貴は恐怖を抱いた。

 

 目前にいる枯れ木は、巨木がそのまま枯れてしまったような木でありながら、それには長い枯れ木の手足がついていて、その胴体のような場所には顔らしき穴があった。先ほどのキノコもそうだが、この森は何なんだと志貴は始めて来た森に改めて恐れを感じた。しかし、そんな志貴なぞ関係ねえ、と朔は走る走る。朔の行進を止めるかのように植物たちが襲い来るが、それを軽々と朔はかわしていった。

 

 すると、志貴はこの状態にあって何気なく後方に振り向いた。なかなかいい神経をしているが、ぶれる体勢と突き進む朔に現実逃避を始めたのである。

 

 だが、それが間違いだった。

 

「げっ!」

 

 なんか巨大キノコが腕を組みながら浮遊し迫ってくる。それも夥しい数のキノコたちを引き連れて。回復したのかとか、またこいつかとか、股間のキノコは無事だったのかとか、なんで浮遊しているのかとかは考えなかった。

 

「もう、いやだなあ」

 

 ただ志貴は森に来たのを後悔し始めた。

 

 その呟きも力なく、思考は現実逃避をしたままである。

 

 そんな志貴を置いて行き、朔は迫るキノコ、待つ枯れ木の化け物に挟まれてしまったのであった。

 

 もうやべえ、もう死ぬ、と志貴は今日何度目かも分からぬ死を予想した。

 

 そして朔は枯れ木に突撃していき、

 

 するりと、その隙間を通っていった。

 

「あ、あれ?」

 

 予想と異なる展開に戸惑い、志貴は横切り後方に置いていった枯れ木やキノコを見る。

 

「「―――――――――――――――――――――――っ!!!!」」

 

 なんかガチバトルしていた。

 

 キノコは組んでいた腕を解き、枯れ木は鎮座から立ち上がり。

 

 拳と拳が唸りを上げながら互いの顔を殴打していた。なんだろうか、彼らが殴るたびに囲う木々が揺れる。怪獣大作戦もかくやの戦いっぷりである。

 

「ああ……」

 

 しかし、志貴はそんな光景を見ても納得するしかなかったのだった。

 

 いや、なんかもう受け入れるしかないなあ、と志貴の脳は判断するのであった。

 

 なかなか賢い脳である

 

 □□□

 

 時が少し経ち、志貴はある程度進んだところで降ろされた。植物たちはもう襲いかかってこず、森は落ち着きを取り戻し、あの怪獣どもの殴り合いは夢だったのだと志貴は自身にそう言い聞かせた。

 

「あ、ありがとう兄ちゃん」

 

 朔に助けられたのが嬉しくも恥ずかしかったので、志貴は少し頬を赤くしながらそっぽを見る。

しかし、朔は「別に」とそっけない態度であり、ちょっと怒っているのか、と志貴は思ったが考えてみればいつも通りの事だった。

 

 だが、落ち着くと今自分は何処にいるのかと志貴は不安が増す。最早森には常識が通用しないと知った志貴は帰りたくなってしまった。だが、帰ろうにも今自分たちが何処にいるのか分からず、里が何処にいるのかすら分からなくなってしまった。迷子だと自覚が芽生え始めたのである。

 

「ねえ兄ちゃん。ここ、どこか分かる?」

「分からない」

「ですよねー」

 

 とりあえず朔に聞いてみたが、朔は首を横に振るだけだった。

 

 さて、本格的に焦り始めた志貴は考える。幼い脳を絞って考えてみる。やれる事は少ない。帰る手段としては来た道を戻ればいいだけなのだが、植物たちに襲われたのと、朔に行き先を任せっきりだったので、そんなもの把握していなかったりする。闇雲に森を進んだら、それこそ森の餌食になりそうだし。

 

 あれ、帰れない僕?と志貴は絶望する。ではここで野宿もありえるのか、と志貴は赤みを帯び始めた空を見やる。夕刻が近い。

 

 周りは更に深さを増した森。ジメジメとしていて空気の冷たさも増している。現在二人がいるのはそんな森の開けた場所であった。そこには苔むした地面と、志貴ほどの大きさがある石がチラホラとある位である。この場所で自分は寝るのか、と志貴は思った。

 

 幸だったのが朔がいる事だろう。朔ならなんか普通に野宿ぐらい余裕そうだ。適当に食べ物も取ってきそうだし、寝床も確保できそう。いや、寝床は無理だろう。朔はそこのところ無頓着っぽいし。ただ、朔がいるという事が良かった。寂しくない。自分が兄と慕う少年の存在に志貴は感謝した。

 

 だが、そんなすぐさま野宿に気持ちを持っていけるほど志貴は大人ではない。普通に里に帰りたいし。

 

「でも、兄ちゃん。どうしよう」

 

 取り敢えず志貴は再び朔に聞いてみた。

 

 隣に朔はいなかった。

 

 志貴から離れるように朔は歩いていた。

 

「兄ちゃん?」

「……」

「ちょ、兄ちゃんっ」

 

 慌てて朔に追いすがる志貴だったが、朔は言葉も返さなかった。

 

 それを不信に思った志貴は取り敢えず朔の後ろについていく。はて、朔がこのように志貴の言葉を無視するのは珍しい。勘違いされがちだが、朔は話しかければ反応を示す。ただ極端な無愛想と無口なだけである。話しかけても言葉を返さぬこともあるが、しかしそれは無視ではなく、他に優先するべき事があるからなのである。

 

 いつも朔の側にいる志貴だからこそ気付いた事。これが訓練以外は最低限しか関わることのない黄理や、食事を作り世話を行っている叔母も気付いているかもしれないが、志貴としてはそれを自分だけで気付けたことが嬉しかった。

 

 朔は進む。木々の合間を抜け、広場を少し離れ、岩場に囲まれた場所に出た。

 

 静謐な空間だった。冷たい湿気漂う、森の聖域のようにも思えた。

 

 そしてその中央。苔むした地面。

 

 そこに、一輪の赤い花があった。

 

「志貴」

 

 それは、彼岸花と呼ばれる花だった。

 

 美しい花であった。葉もなく、花弁だけの植物。赤い花弁が咲き誇る、たった一輪の花。他に彼岸花は見当たらず、これしか生えていないようである。

 

 しかし、志貴にはこれが一体どんな花なのか知らなかった。

 

「なあに、兄ちゃん?」

 

 彼岸花へと近づき、朔はそれを見下ろしたまま話しかけてきた。

 

「これは、綺麗?」

 

 たった一人で咲き誇る彼岸の花を志貴は見入った。その孤高にも似た存在感は、まるでこの場所がこの一本の花のためだけにあるようにも感じられた。その独特の姿と、細く長い赤の花弁は、今にも折れてしまいそうで儚い。

 

「うん……綺麗なんじゃ、ないかな」

「そう」

 

 そして朔は少し間を空け、

 

「これは、綺麗なのか」

 

 と一人呟いた。

 肯定や否定の混じらない、更には納得すら滲んでいない、透明な声であった。

 

「兄ちゃん。もしかしてここ来た事あるの?」

「ああ」

「!なんで言ってくれないのさっ」

「そう聞かなかった」

「分かってるって事じゃん」

「ここが何処なのか、分からない」

「そうなの?」

「知っているだけ」

「……」

「……」

 

 □□□

 

 後日談。と言うかその後の話。

 

 志貴と朔は帰り道を知っていたと発覚した朔の先導にしたがって里に帰ってきた。その途中仰向けに倒れ伏した巨大キノコと枯れ木を見たが、どうやら引き分けに終わった様だった。

 

 志貴と朔が里に帰ってきたのは夕刻も過ぎた真夜中の事であった。流石にお腹が減ったなあと思いながら里に帰ってきた志貴は、里の大人全員による捜索隊が組まれていて、運よく、あるいは運悪く、そこで志貴と朔がいかに可愛らしいか演説している黄理と出くわしてしまった。

 

 そこで志貴と朔がいかに素晴らしいかを声高々に語っている黄理の姿に一瞬驚いた志貴は、その話している内容に照れてしまったがそれは割愛。

 

 討伐隊が森に向かう前に帰ってきた二人は良かったものの、志貴は母に頬をはたかれた後、どれだけ心配したかを教えられ申し訳ない気持ちになった。翁にも軽い説教を受けてしょんぼりした。その側では朔も叔母に怒られていたが、全く話を聞いていないようだった。ただ叔母の手に朔の下着が握られていのが気になった。

 

 その二人を見て大人たちは良かった良かったと喜んでそのまま宴会へと突入した。無論一番はしゃいでいたのは黄理だったとここに記しておく。

 

 さて、大人たちが里の広場にて宴会騒ぎで盛り上がっている頃、志貴は朔の離れに訪れていた。夕餉を済まし、風呂にも入り今夜は朔と一緒に眠るためであった。

 

 離れに訪れた志貴を朔は特に何も言わず受け入れ、二人はひとつの布団で就寝についた。

 

 そして、今日の出来事を思った。

 

 今日は大変だった。意気込んで森に行ってみれば歩くキノコに遭遇するは、そのキノコと朔は乱闘するは、敗れたキノコたちが合体するは、植物に襲われるは、枯れ木の化け物に遭遇するは、その枯れ木と巨大キノコのガチでセメントを目撃するは、迷子になるは。

 

 兎も角一言では語りきれぬほど、今日という日は濃い一日であった。

 

 確かに森は危険で、一杯怖い思いをしたが、それ以上に楽しかったと志貴は満足していた。未知との遭遇はドキドキしたし、言ったこともない場所に行くことはワクワクした。

 

 勿論、また行きたいとは思わないが。

 

 志貴は隣で寝ている朔を見る。朔は耳を澄まさなければ聞こえないほど静かな寝息をたてて眠っている。志貴はそんな朔の無防備な寝顔が好きだった。この時だけは朔は自分とあまり変わりのない子供のように見えるからだ。

 

 朔はどうだったのだろう、今日という日を楽しかったと思っているだろうか。

 

 あの彼岸花を思い出す。あの場所で誰にも知られず咲いているたった一輪の花。それは凄く寂しくて、儚くて、その彼岸の花に志貴は朔の姿を重ねていた。

 

 もし、志貴があの彼岸花ならきっと寂しくて凍えてしまう。あの湿気冷たく鬱蒼とした森の奥地。きっと誰も訪れず、そのまま枯れてしまうだろう。

 

 だけど、朔はそのまま何も思わず、ただひとりで咲いて、そのまま枯れてしまうに違いない。きっと寂しいだとか、辛いとか思わずに。

 

 それは凄く悲しいことだと志貴は思った。

 

 志貴は眠る朔にそっと抱きついてみた。

 

 温かい、だけど何の反応もしない。寝ているから当然だ。

 

 あの赤い花と同じように、朔もまた一人なのだろうか。

 

 誰とも心混じらず、ただひとり朽ちていくような、そんな在り方。

 

 彼岸の花のように。

 

 それを思うと少し泣きたくなって、志貴は強く、自分の温度が朔に伝わるように強く抱きしめた。

 

「何?」

 

 朔が軽く目蓋を開け、志貴に聞く。

 

 その僅かに開いた茫洋な瞳には志貴の姿が映し出される。果たして、朔は志貴の事を見ているのだろうか。

 

 だけど、それを聞くのは怖かった。もし朔が志貴なんか見ていないと知ったら志貴はきっと泣いてしまう。

 

 だから、志貴は何も言わず、朔の身体を抱きしめる。

 

 それだけでもいいような気がしたのだ。側には自分がいるのだと、伝えたかった。

 

 そんな志貴にどう思ったのだろう、朔は志貴の頭をその手で撫でた。

 

 今までも、こんな風に朔に頭を撫でられる事があった。朔の掌は無遠慮で、全然優しくない。だけど、志貴はその掌に安心を抱くのだ。

 

 その掌に気持ち良くなり、志貴はそのまま眠りについた。

 

 □□□

 

 遠いどこか。

 月の光に照らされ、彼岸の花が、風に揺れた。

 

 




この番外編は悪ふざけで出来ています。六です。
この番外編はプロットが出来上がっていたのですが、出来上がったの七夜襲撃の真っ只中。流れの雰囲気をぶち壊さないためにも投稿しませんでしたが、今投稿しても何かおかしいなあ、としか思えません。

さて、本編の流れがあらかた出来上がりましたが、流れを見て一言、これは酷い。
いや、もう月姫ファンの皆様方からボコボコにされる予感しかしません。戦々恐々あなおそろしや。

しかし、其れで行ってみようと思います。朔を主人公にするために!
これからも応援よろしくお願いします。
それでは、また。

以下今回のおさらい。
叔母は朔たちが里に戻るまで志貴の母に延々と説教を受けていた。

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