七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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第零話 原初

それは、とある部屋の中で起こっていた。

 

どう表現するべきだろう。

 

男の首が根こそぎ食い千切られた。形状をただ簡潔に表すならば、きっとこれが正しい。男の首元、筋肉繊維から喉笛、そして頸椎に到るまで、その中心部が猛獣の牙によって暴力的な破壊を成されたような形状を見せ、不気味な空洞が男の首にあった。もはや頭部と肉体の繋がりは皮膚によってのみ。

 

そして首が、ずれた。

 

鮮血が天井を濡らした。

 

吹き出る血は畳を、男の肉体を赤く彩る。

 

撒き散らされた血飛沫はまるで赤い花のようであった。

 

 人間の体は血液が絶え間なく循環し、それによって生かされている。肉体を運用させるために血液は栄養及び酸素を運ぶ。その巡りは止め処なく、人間という生命を生かすためには必要不可欠なもの。そのために血管は体中をかける。人間の血管は完全を成している。どこにも不備なく、穴もなく、欠ける事もなく、人間を生かす。しかし、血管を破り、出血は起こる。血液の無い人間はただの死体だ。人間ですらない。肉体は壊死し、その活動を停止させる。

 

 故に、男は死体に成り果てる。

 

 暫し、男は今自分がどのような状態に陥っているのか、理解が出来ていなかった。しかし、男の理解が追いつくよりも早く、その意識は霞み、そして途絶える。

 

 それを見ている、男がいた。

 

 研ぎ澄まされた抜き身の刃のような男だった。死に逝く人間を見る視線は鋭く、獲物を見つめる鷹のよう。その手には鋼の輝きを放つ、撥のような、あるいは擂り粉木のようなものが握られている。

 

 男は微動だにせず、死んでいく人間を見続けた。

 

 その目に感情はない。死に逝く者への憐憫、あるいは同情、あるいは嫌悪、あるいは畏怖。何もその瞳には映らない。感情も宿らぬ瞳は、男が死んでいく様を最後まで見続ける。痙攣する五体、根幹を失って後方にずれた頭部、座り込むように崩れる肉体。噴出する血飛沫は男の肉体をも染め、そしてそれも納まり、やがて動かなくなった。それを確認した男は踵を反す。そしてそこには一つの死体。

 

 室内から抜けた男を、跪いた数人の男たちが出迎えた。

和装の黒衣に身を包んだ、屈強そうな男たちは男の出た部屋に入りゆく。その内の一人が男に無言で手ぬぐいを手渡すが、男は何も言わず其れを引っ手繰るように受け取った。顔を拭い、撥を拭い懐に仕舞う。

 

 武家屋敷の中、男は無言で歩く。滑らかな重心移動、尖る気配が男の存在が尋常ではない事を告げている。血染めの衣服もまた其れを増長させているのもあるが、しかし、それ以上に男の目が際立っていた。

 

 先ほど、男は自身の兄を殺した。

 

 だと言うのに、男の瞳は何も変わらない。兄を殺した瞳から、その様はまるで変わっていない。まるで通常の瞳がそれであるかのように、瞳はただ冷たく、凍えている。

 

 男の兄は、禁忌を犯した。

 

 身内殺し。近親相姦を重ねる一族で、間引き以外の殺しにおいては最も重い罪だった。殺されたのは男の伴侶たる女。今しがた子を産んだばかりの女をその場で殺し、今廊下を歩く男の手によって首を破壊し尽くされ、命潰えた。

 

 男の兄は狂っていた。殺害に悦を見出した人間だった。元からそのような徴候はあったが、近年其れは悪化し身内の静止にも耳を貸す事もなくなり、そして遂には伴侶を殺し、女が死にゆく姿に、笑みを浮かべた。

 

 兄は殺人に快楽を感じてしまうような人間だった。一族はある事情からそのような人間が存在する一族だったが、兄の場合はそれが過剰であった。最も殺しに魅入られ、そして殺された。粛清と言う名の下。

 

 それを男は成した。当主と言う立場故に。

 

 だが、男は兄を殺してもまるで変わらなかった。揺らめかず、翳りなく、瞳はひたすらに鋭いまま。

 

 兄の姿は歪であった。理性をなくし、獣のような笑みを浮かべたあの顔。自身の弟が殺しに走ると言うのに、人間を壊すことに喜びを感じた悪鬼めいた表情。狂気に走る以前は情の分かる人間だった。少なくとも男以上には。だが、それもかつての話だった。男を身内と見ていない事なぞ、すぐさま知れた。獲物を見つめる愉悦の瞳。それが、かつて男にとって兄だった男の末路だった。

 

 無言で歩く男に罪悪や戸惑いはない。そのようなモノ、男には無縁であった。感情を削いで落としたような、無機質な鋭さだけが男の存在を表していた。

 

「御館様。ご無事で何より」

 

 廊下に突如として一人の老人が現われた。どのような術理を成したのか、音もなくその場に出現したのである。顔に刻まれた掘りの深い皺が枯渇した大地を思わす老人である。頑健とした体付きが老人の顔と実に合っていない。

 

 男は老人の声に立ち止まり、何も言わずその鋭い瞳で言葉を促す。

 

「奥方様は回収しました。現在お体をお清めしております」

 

 心臓を潰され、血に体を汚された女。兄の妻は即死であった。

 

 せめてもの慰めに、亡骸は綺麗にして手厚く葬る。幸であったのが、既に子供が生まれた後であった事だけであろうか。

 

 ただ殺されたならば、あまりに報われない。

 

 連れ添いの男に殺されるとは、女も思うはずがなかっただろう。

 

「御子でありますが、元気な男児であります。御子をここに」

 

 老人の呼び掛けに、一人の女が現われた。男と良く似た雰囲気を持つ女である。女はその腕に今しがた生まれたばかりの嬰児を清潔な布で柔らかに包みこみ慎重に抱えている。その慣れない手つきは少々危うい。

 

 重心の安定しない手つきで女は男に嬰児を手渡した。

 

 男は何故自分が受け取らなければならないのかと暫し時を置いたが、老人の視線と目前に突き付けられた嬰児、そしてそれを支える女に他意がないことを視ると、仕方なく子供を受け取った。

 

 男は己の腕の中にいる嬰児を見る。

 

 ふやけた肌、産毛のような髪、閉じられた目蓋。

 

 弱々しく、そして儚い、新たな命。

 

 二人の関係は、はっきりとしていた。兄を殺し、父を殺された二人。誕生の瞬間に母を父によって殺され、父は男によって殺された。生まれた時には、両親は亡骸だったのである。それをこの子供はどう思うのだろうか。果たして父を恨むのか、それとも男を恨むのか。

だが、男は何も思わなかった。何も感じなかった。

 

 自身の手で殺めた兄の子を自身が抱くという、男への皮肉のようなこの状況に対しても。

 

「御館様」

 

 老人の呼び掛けに声を返す事もなく、男は腕の中にいる嬰児を女に手渡そうとする。自分が抱いている事に意味は無いだろう、と何とはなしに考えた。

 

 だが。

 

「――――――――――――――――っ!!」

 

 叫び声。嬰児の割れ響く産声だった。顔面をしわくちゃにしながら、自らの存在を証明するかのように大きく、それでいて脆く儚い声だった。それはこの世に誕生した命の最初の訴えだった。

 

 それを感慨もなく一瞥し、男は女に嬰児を手渡そうとする。しかし、嬰児はそれを嫌がるように、よりけたたましく産声を上げた。まるでここがいい、離れたくないと語るかのように。

 

「……」

 

 男は再び嬰児を見た。

 

 今しがた自分の親を殺した男に一体なにを求めているのだろうか。だが嬰児は泣き止まない。母の温もりを求めているのか、それとも父の温もりを求めているのか。だが、二人とも既にいないのだ。死んで、亡骸と化した。しかし、嬰児はそのような事知るはずもなく、ひたすらに叫ぶ。

 

 不可思議な視線を嬰児に投げかける男を見て、女は躊躇うかのように腕を引き、老人は笑みを浮かべた。その顔に相応しい好々爺のような笑みであった。

 

「御館様。私はどうにも他の者から呼ばれているようなので失礼します」

 

 白々しく、そしてわざとらしい言葉を重ね老人はほくそ笑んだ表情のまま、男の目前から姿を消し、女もまた名残惜しそうな瞳を嬰児と男に向けた後、老人の姿を追うようにその姿を暗ませた。

 

 そして、残されたのは男とその腕に抱かれた嬰児のみ。女と老人の気配が遠ざかっていき、それに合わせ嬰児の産声も次第に小さくなっていった。

 

 腕の中にいる嬰児を揺する事もなく、男は再度歩み始める。軋む廊下の音。老人が何を考えているのか理解できなかった。それに比べ、男と嬰児を心配する女の感情は容易く読めた。だが、それが一体何に対する心配なのかは視えなかった。

 

 男は嬰児を見た。小さな命。弱く脆い存在。自分が殺した、兄の子。この子供が何をやりたいのかは知らない。理解も出来ない。ただ子供の好きなようにやらせるべきだろう、と男は考えた。腕の中の嬰児の体は大人の体温、それこそ先ほど浴びた血飛沫よりも温かい。

 

 何となく、ではあるが男は嬰児の小さな手に人差し指を触れさせてみた。嬰児が我儘によって男の腕の中にいるのだ。理由のない行動ではあるが、しかし、それでも興味があった。

 

 すると、嬰児は男の指先をたどたどしくも、だが確かに握りしめた。嬰児が指を握る力は存外に強い。生まれた子供が何かを握るのは霊長類としての特徴でもある。しかし、それを考察しても力強い。

 

 いつの間にか、男は屋敷を出ようとしていた。

 

 律儀にも玄関から出ようとする男の姿を光が照らした。

 

 それは朝焼けであった。深い深い森の遠くから夜を打ち消す太陽が姿を現していた。その光は暗いこの森を柔らかく照らしだす。温かくて、優しい。男は立ち止まり目を細めた。男の目前には時の流れに置いていかれたかのような、暗く荘厳な森が広がっていた。視界を覆う雄々しい木々、鬱蒼と生い茂る緑が影を指す。

 

 昇りゆく太陽を見て、男はこの嬰児に名が未だ無い事を思い立った。朝焼けの中、男は暫し太陽の光に身を温めた。

 

 そして、男はポツリと、小さく呟いた。それは呟きと呼ぶにはあまりに無機質な声音であった。

 

「七夜、朔。それが、お前の名だ」

 

 全ての始まりの名を、嬰児に与える。

 

 男の無表情が、ふと変化を遂げた。

 僅かに、本当に見逃しそうなほど少しだけ、小さく口角が上がり、瞳の形が変わる。

 

 それは笑みと呼べる表情であった。あまりに不器用な、だからこそ男に相応しい小さな笑みだった。

 

 あの朝焼けのように、世界を照らすように。嬰児、朔に笑みを向けた。

 

 退魔一族七夜現当主、七夜黄理。

 

 それが、男の名であった。

 


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