この館の名前は紅魔館と言うようだ。
これは今、並んで歩いている(飛んでいる?)僕の新しい雇用主であるパチュリーさんから聞いた。
なるほど赤い。壁紙も、天井も。そして敷き詰められている絨毯も。
個人的な感想は「目がチカチカする」だ。
先ほどの地下室とはうってかわり、窓際をまっすぐ進む廊下を行く今は陽光のおかげで明るい。
今気がついたが現在はどうやら日中だったようだ。そして僕らが向かうのは、この館の主人であるレミリアさんのいる部屋である。
主人のレミリアさんは五百年も生きる吸血鬼だという。
吸血鬼への僕のイメージは、映画で見たくらいの知識しかない。それは血を吸い、身体は死人で、ニンニクやロザリオ、銀や日光に弱いというステレオタイプ染みたものだ。
あとはヴラド・ツェペシュで有名なあの串刺し公だろうか。そっちはあまり馴染みがないので、せいぜい小説のドラキュラのモデル程度の認識でしかないけれど。
僕は文学部ではあったけれど、専門はフランス文学だったしね。
「パチュリーさん、少しいいでしょうか?」
「……なに?」
僕のよこをぷかぷかと浮かびながら、なぜか読書に勤しんでいた彼女は、まるで僕の存在を忘れていたかのような表情でこちらを向いた。事実忘れていたのだろう。
「当主のレミリアさんですが、礼儀にはうるさい方でしょうか?」
「そうね、彼女は名誉と誇りを重んずる貴族であるから、最低限の礼儀は求められるでしょうね。けれど貴方の立場は私の眷属よ。だから貴方はそうね、彼女から求められた質問にのみ、返事を返せばいいわ。あまり緊張しなくてもいいわ、レミィだし……」
「あ、はぁ……。では常識の範囲で大人しくしていますね」
「……ええ」
そういうと彼女はまた、空中遊泳の体勢での読書に戻った。
なんとなく手持ち無沙汰になってしまった僕は、そのまま窓の外へと視線を向けた。
真下に見える庭園は、腕利きの庭師が手入れをしたのか素晴らしい景色だった。
僕はいつもの如くのんきなままで、この後に待ち受ける出来事が、この先の運命を決定付けるターニングポイントになったなんて知る由もなかったのだ。
★
「ようこそ人間! 夜の一族の棲む館へよく来た。私がこの館の当主、レミリアだ。餌に過ぎないか弱気人間の子よ、ここへ」
アサヒがパチュリーに連れられてやってきたのは、地下室とは比べ物にならないほどに煌びやかな広間だった。相変わらず真っ赤な内装ではあるが、調度品の数々は品が良く、主人の目が細かいところまで行き届いている事を物語っている。
そんな中、アサヒを出迎えたのは十歳ほどにしか見えない少女であった。
複雑な文様が刻まれた大きな椅子に腰掛け、胸元に手を組んでいる。
少しウェーブのかかった空色の髪。真白な肌を包む、ふんだんにフリルをあしらった桃色のワンピース。それだけ見ればなるほど少女にしか見えない。
だがその小さな顔の中心にある二つの大きな瞳の色は真紅であり、背中には妙な質感のあるコウモリのような羽がある。それが彼女が人ならざるものであると自己主張していた。
レミリアは椅子に深く腰掛けたまま、パチュリーの横に所在無げに佇むアサヒを見ると、そう尊大に言葉を紡いだ。声に威厳はあるが、その声色はまるで鈴の音のように澄んでいる。
小さな唇からわずかに覗く牙が、少女然とした彼女の見た目を、ひどく妖艶な物へと変化させる。
「突然の訪問、大変心苦しく思います。私、京極朝陽と申します――――」
「ああ、いい。全て見ていたのだから。私の
アサヒはただただ圧倒されていた。
見た目はただの少女に過ぎないレミリア。まるでアンティークのフランス人形そのままにしか彼には見えないのに。だのに彼は圧倒された。それはもう、無意識的に。あるいは生理的に感じてしまう畏怖のようなものだった。理屈ではない。強いて理由をあげるとすれば、レミリアがそこにいる――それ以外に説明のつかない存在感なのである。
「……はい、レミリアさん。私にどれほどのことが出来るかは分かりませんが、出来る範囲のことは勤めさせていただきます」
そういうとアサヒは、レミリアの許しも得ずに側にある椅子に座り込んだ。
精魂尽き果てた、そんな心持ちだったからだ。それを眺め、レミリアは幽かに微笑む。
「レミィ、あんまりアサヒを怖がらせないで欲しいわ。見ていたのなら分かるでしょう? 彼は無害よ。毒にも薬にもならない、ただの人間よ」
それまで無関心を装っていたパチュリーは、読んでいた本を静かに閉じると少しだけレミリアを睨んだ。そんなパチュリーの姿に、レミリアは珍しいものを見たという表情で口角を上げた。そんな彼女の悪戯を思いついたような顔にパチュリーは顔をしかめる。
「ねえパチェ、そんなにこの人間が気に入ったの? 書庫に引き篭もるだけの貴方が。こうして貴方に会うのも半年振りくらいよ? なんだか可愛い娘が嫁に出たような気分ね」
「……よして。彼は私の眷属。彼にはこれから色々やってもらわなければならないのよ。その為に私は数年分の魔力を払ったのだから。そんな彼を貴方の好奇心の餌にされたら困るわ」
にやりと人の悪い笑みを浮かべたままのレミリアに、パチュリーは淡々と抗議してみせた。そんな二人をぼうっと眺めたまま、アサヒは内心で思う。仲が良いのだなと。それは場違いな考えだったかもしれない。だがアサヒはそう思ったのだった。
ふと二人の言葉遊びが止んだ。アサヒはちりちりとした視線を感じて顔を上げる。
そこにはやはり人の悪い笑みを浮かべたままのレミリアの真紅の瞳が、自分を見ている姿だった。
「アサヒ。吸血鬼の餌でしかないアサヒ。もう少しこっちへ寄りなさい」
レミリアはアサヒを手招きする。
「ちょっとレミィ!」
パチュリーは慌てて彼女を制止しようとするが、
「安心してパチェ。何もとって喰おうなんて考えてはいないわ。ただ少し
「……お好きに」
こうなったら彼女に何を言っても聞かない事を長い付き合いで知っている。パチュリーは不満そうではあるが、黙って椅子に戻った。アサヒは少し不安そうにパチュリーの顔を見ると、レミリアの側に行き、片膝をついた。そうしたのは別に貴族への礼儀だからではない。ただ背の高い自分がレミリアを見下ろす事が失礼なのだと感じただけだ。
「ふふっ、いい子ね」
満足そうに呟いたレミリアは、その白くて小さい手をアサヒへと伸ばす。尖って伸びている彼女の爪が、つい、と彼の首筋を撫でた。
(……っ!!また視る、か。僕はこういう事に縁があるのだろうか?)
「楽にしてなさい。これもまた私の娯楽なのよ。自分以外の誰かの運命を視る。それが私のもう一つの目なの。さあ、貴方は私にどんな未来を見せてくれるのかしら?」
背中にじとりと冷たい汗を感じ、アサヒは少しだけ身体をこわばらせると目を閉じた。
熱いシャワーを浴びたい。彼は切実にそう思った。
★
レミリアさん……思わずレミリア様と呼びそうになるが、彼女の威圧感のようなものは凄まじいと思う。象と蟻なんて例えがあるが、僕と彼女は象とミジンコのようなものと言えばいいだろうか?
それでもヨーロッパ系の幼い少女にしか見えないのだけれど。ただ内包する何かというか、魂そのものの質量が人間のそれとは比較にならないという事だろう。
パチュリーさんも常識からは外れた存在であることに違いは無いが、理知的で理性的である事を考えると、立ち居地は人間の隠遁者とも言えなくも無い。
レミリアさんは今、僕の首筋にそのひんやりとした指を這わせ、妖しく光っていた瞳はやたらと長い睫毛の目立つ瞼が覆っている。
僕の指先ほどしかないような小さな唇の口角を少しだけ上げて、静かに瞑想をしているようだ。
彼女は僕の未来を視ると言った。
パチュリーさんが魔法を操るように、彼女もまた不思議な力で僕の全てを見透かしている。もはやそんな世迷言のような話を僕はなんの抵抗もせぬままに受け入れてしまっている。そう、彼女は僕の全てを見ているのだ。僕の産まれてから積み重ねた経験や、これから起るであろう出来事を。
五百年も生き、そしてこれからも存在し続けるであろうレミリアさんにとって、僕が三十四年間培ってきたものなんて塵のような存在なのだろう。その塵は人間よりも遥かに遅く流れていく彼女の時間の中で、ほんの一瞬を満たす娯楽なのだという。
ただそこに何の翻意も起らない。ある種、僕と言うパーソナルを真っ向から否定したような彼女の行為だと言うのに。そもそも彼女に対して僕のなかの常識を押し付けると言う行為は、まるで地平線の向こうにある目的地までの距離を、十センチしか目盛りの無い物差しで計ると言う無謀な行為だろう。
それがこの数分にしか満たない邂逅で納得させられるほどの無言の説得力が彼女にはあるのだ。
「…………くっ……ははっ、アハハ!! 面白い、面白いよ人間。ククッ、もうダメッパチェ~~ッ! お腹いたいよぅ」
「気でも狂ったの? レミィ……」
そんな彼女が突然笑い転げた。まさに腹を抱えるという表現のまま、ごろごろと椅子から下に落ちては転がっている。そんなに滑稽だったのだろうか? 僕の人生というやつは。
彼女の様子を眺めながら、パチュリーさんが呆れたように呟く。僕はといえば、さっきまで緊張感はいったいなんだったのか? という若干の理不尽さをかみ締めている。そしてそれと共に転がるレミリアさんの羽が変な角度に曲がる様を見て、痛くは無いのだろうか? なんてことを考えていた。
「……ハヒーハヒー……うーぅ咲夜ぁ」
「はい、ここに」
「もうダメ~死んじゃう~お部屋連れてって~。あ、人間……アサヒだっけ? また遊ぼうね?」
「……お嬢様……かしこまりました」
レミリアさんは散々笑い転げ、あまつさえ僕を指差しつつさらに笑い転げ、呼吸困難に陥った。もう一度僕は思う。さっきまでのあの恐怖と緊張はなんだったのかと。
そして彼女が誰かの名を呼ぶと、いつの間にか光沢のある白い髪の従者の女が現れた。もう僕はなにがあっても驚かないぞ。結局のところ、マダムにからかわれて過ごした今までの日常と、もしかするとそれほど大差がないのかもしれないと僕は思い始めた。多分その考えはそれほど的を外してはいないはずだ。
レミリアさんは口調まで完全に崩れ去り、まるで少女そのものだった。
そして僕にあどけない笑顔でまた遊んでと言い放ち、従者に抱えられた次の瞬間、そこから居なくなってしまったのだった。
「……ねえ、パチュリーさん」
「言いたいことは理解できるわ。でもこれが幻想郷であると認識しなさい。アサヒ? ようこそ幻想郷へ……」
どこか縋るような思いで雇い主へと声をかける。
呆れ顔のパチュリーさん。
なんともいたたまれない空気が素晴らしく虚しい。
こうして僕はここでの居場所を得たのだった。
主を失った豪華な広間に、僕とパチュリーさんの溜息がユニゾンした。
★
僕は地下室にある書庫に戻ってきた。ふと改めてこの部屋を見渡す。燭台に照らされ、浮かび上がる景色は見渡す限りの本棚。本来ならばここは図書館とでも言うべきだろう。だがそう表現しないのは、この部屋には特に名前は無く、ただパチュリーさんと小悪魔が住んでいるだけだからだ。
本来図書館にあるべき貸し出しのカウンターも無い。目に入る本棚を見れば、そこに並ぶ本たちが特段、カテゴライズされているようにも見えない。だから書庫と言ったのだ。僕がむかし何かのテレビ番組で見た、イタリアの名家の書庫のようなたたずまいに似ているという理由もありつつ。
そんな他愛も無い事を(まるで場違いな事をかもしれないが)考えているのは、広間から戻った僕らがテーブルに座り込み、小悪魔先輩の煎れた紅茶に口をつけることなくそこに突っ伏したからだ。
簡単に言えば非常に疲れたのだ。
理由? 紅魔館の当主との会談の、後半部分は見たくなかったという事だろうさ。
僕も、パチュリーさんも。
この気だるさはマダムとのやり取りで何度も味わったはずだけど、レミリアさんの圧倒的な存在感(カリスマとでも呼ぼうか)を見せられた後のこのギャップは凄まじかった。どうにも僕と言う人間は、残念な出会いを重ねる星の下に生まれたようだ。
だから僕は今きめた。深く考える事はよそうと。そもそもそれが僕の処世術だったはずなのだ。
幻想郷恐るべしと言う気持ちを改めて感じ、僕はそれを拭い去ろうと雇い主に話題を振る事にした。
「パチュリーさん」
「……なに?」
既に読書の体勢に移行していた彼女は、僕の呼びかけに不機嫌そうに顔をあげる。
「とりあえず僕の居場所が確保できたことは嬉しく思います。ですが、僕の実際の仕事とは、いったいどんな事をすればいいのでしょうか?」
変な空気になってしまったが、僕は彼女に雇われたという事実を失念していた。
「そうね、例えばこの部屋にある本の位置をある程度把握してもらうという事が一つね。けれどそれは雑用の一環でしかないわ。貴方が賄うべき本当の仕事とは――――小悪魔……ッ!?」
「ぱ、パチュリー様、来ました!」
突然、パチュリーさんは会話を切った。慌ててあらわれた小悪魔先輩。
何がなんだか分からないが、とにかく緊急事態が起きたのだけは僕にも分かった。
「アサヒ! あそこよッ!」
パチュリーさんが指差したのは、この暗がりの地下室に申し訳程度についている天井近くの採光窓だ。多分外のドライエリアに繋がっているのだろう。それでもこの部屋を明るくする役目としては役立たずの規模であるが。
パチュリーさんはふわりと浮き上がり、身構える。小悪魔先輩はおろおろと右往左往している。
僕はじっと目を凝らし、何が来るかと待ち構えた。
その瞬間、まるでアクション映画さながらにガラスが飛び散った。
破られた窓から一条の光が差す。旧約聖書に記された、ヤコブが見た天使の降臨さながらに。またはレンブラントの絵画のように。
そこから彼女が現れたのだ。
この先、長い間にわたり僕の宿敵となる彼女が。
「やあパチュリー、また遊びに来たぜ!」
僕が初めてみた彼女の姿、それは創作物の中の魔女そのままの姿だったのだ。
そんな最中、僕は思う。彼女の笑顔はひどく魅力的なものであると。