何かとても暖かいものに包まれている気配がする。その正体は一体なんだろうなんて思ってはみるが、どう例えていいかは分からない。けれども今のぼくの状態はなんなのかは理解した。
どうやらぼくは眠っていたらしい。少しかび臭いような、最近は随分と慣れ親しんだ場所。そう、ぼくの居場所である紅魔館の地下室。ぼくはそこで眠っていたようだ。それにしても随分と天井が低い。ああ、そうか。ここはパチュリーさんのソファか。パチュリーさんのプライベートスペースは書庫の片隅にある小さな小部屋にある。とは言え二十畳程度はあるだろうけれど。
どうしてぼくはここに寝ているのかは分からないが、それでも自分の仕事が気がかりだ。パチュリーさんはちゃんと食事をしただろうか。小悪魔さん一人で本の整理はできるのだろうか。そして魔理沙は……魔理沙? そうだぼくは魔理沙と戦っていたはずだ。
ならばどうしてここで寝ている? ああ、そうか。思い出した。ぼくは……
「負けたのか…………」
こうして自覚してみると、最後の瞬間が記憶としておぼろげであるが蘇ってきた。あの時ぼくは確かにサスマタを振り切った。この手に残る感触もあるからそれは間違いないだろう。けれどそれ以上に例のレーザーを直撃したダメージが今も残っている。
前にパチュリーさんに伝えられた、いくらか弾幕を貰っても耐えられるという言葉。ぼくはそれを信じ、魔理沙への作戦の前提としてそれを盛り込んだ。実際に喰らってみると、たしかに衝撃はあったが、それなりに耐えられた。
しかし結局、ぼくがここに寝ているということが全てだろう。負けたのだ。もう少しで手が届きそうだった勝利が逃げていってしまったのだ。結果をとやかく言ったところでそれは変わらない。あの時こうしていたらもしかすると……そんなこと考えるだけ虚しいだけだ。
それでもさ。自分なりのベストは尽くしたつもりでもさ……。
「悔しいもんだな……負けるって……」
悔しい気持ちそのままに、勝手に涙が出てくる。ぼくの中にこれだけ感情の起伏があることに自分で驚いてしまう。それでも今のぼくには少しも不快に感じない。頬を伝う涙がとても熱く、そして鼻をくすぐる金色の毛が……毛?
「……フラン?」
ぼくは自分の感情が精一杯で、ソファに寝ているぼくの上に乗っている違和感に今やっと気がついた。革張りの三人掛けソファだとて、長身のぼくが寝れば隙間は狭い。そこにすっぽりと言うか、ぼくに抱きつくようにしてフランが眠っていた。
ぼくの声で目が覚めはしなかったが、まあ寝てるのだからこのままでいよう。彼女の体重はきっと四十キロも無いだろうし。そういえば暖かいなと思っていたのは彼女の体温のせいだったのか。吸血鬼であるフランは決して体温が高い訳ではなく、いやむしろ人間のそれよりはずっと低いだろう。
けれどもこうしてぼくと彼女が触れ合っている部分はとても熱い。いつからフランはこうしていたのだろう。彼女の寝息にあわせて背中の羽がゆっくりと動く。ぼくの顔の真横にある彼女の寝顔は、まるであどけない子供のままだった。
「あら、起きたのねアサヒ」
ぼくがフランの寝顔を見ていると、本を抱えたパチュリーさんが歩いてきた。
「ええ、いまさっき。ですがフランがいるので動けないなあと考えていたところです」
「ふふっ、随分と懐かれたものね。妹様は貴方が倒れてからずっとそうしていたわ。レミィが何を言っても聞かなかったのよ。後でレミィにあやまったほうがいいわよ? 妹様がとられたって拗ねてたから」
パチュリーさんは随分とおかしそうに笑った。どうせぼくがレミリアさんにネチネチとやられるのを想像しているのだろう。フランがぼくと遊んでいると、彼女は必ずぼくを捕まえては説教をするのだ。不埒なマネは許さないって。そんなわけ無いと反論したくもあるが、それはとっくに諦めた。
「心配かけたようですね。申し訳ないです。結局ぼくは勝てませんでした……」
流石にもう涙は出ないが、それでも悔しさが滲んでしまう。
「負け……ねえ。そう、貴方は負けたと考えているのね。なら黒白から伝言があるわ。動けるようになったら、必ず私の家まで来い。あの子はそう言っていた。あとは彼女と話すことね。とりあえず今回のことはご苦労様。少なくとも貴方は役目を果たした、私はそう思っているのよ。じゃ、私は美鈴のところへ行くから、妹様が起きたら部屋へ連れてってあげなさい」
「あ、はい。その、色々ありがとうございましたパチュリーさん」
ぼくはそれしか言えなかった。なぜなら悔しい気持ちはいまだ消えないのだから。そんなぼくに彼女は微笑むと、出口に向かって消えていった。ぼくは溜息をついて身じろぎした。同じ体勢でいるのは疲れるからだ。私の家まで来い、か。まあ敗者には選択権など無いだろう。落ち着いたら訪ねてみよう。
「んっ……あれぇ、アサヒが起きてる……」
ぼくが動いたせいか、フランが目を覚ましたようだ。寝惚け眼のフランは、猫のようにぼくの胸に顔を擦りつけた。
「おはようフラン。どうやら随分と心配かけたようだね。ごめんな」
そういうとフランはしっかりと目を開けた。
「アサヒ! 心配したんだよ! フラン、アサヒが死んじゃうって思ったんだ」
そういってフランは強く抱きついてきた。吸血鬼でもこうして心配してくれる。そんな奇妙な絆に鼻の奥がツンとする。彼女の純粋さ、それにぼくはいつも助けられているような気がする。その無邪気さが、時に何かを壊してしまうとしても。
「ぼくは死なないよ。絶対に。だってせっかくフランと友達になったのだから」
そういうとフランは益々嬉しそうに身を寄せた。ぼくは黙って彼女の金色の髪をくしゅりと撫でる。指でゆっくり梳くと、まるで絹糸のようにしなやかな感触がする。子猫のようなフランが、ぼくに懐いてくれるのが素直に嬉しく感じる。
きっとぼくに妹か、もしかすると娘がいたらこんな感じなのだろうか? そんな不思議な庇護欲に身を任せ、ぼくはフランを抱き寄せたのだった。そして
「ねえ、フラン」
「なあにアサヒ」
フランは不思議そうにぼくを見上げる。
「お願いがあるんだ」
切実な。
「……アサヒの言う事ならなんでも聞くよ?」
ありがとうフラン。だから
「後でレミリアさんのとこに謝りに行くから一緒に来てほしいんだ……」
「……んん?? いいよ?」
そう、きっと彼女は視ているはずだ。最愛の妹に抱きついているぼくを。
何を言ってるのだろうと首をかしげるフランを余所に、苦笑いがこぼれてしまう。
血……吸われるだろうか? 非常に不安だ。
★
あの後レミィさんの所に行くと酷い目にあった。
妹に仇なす不埒モノは成敗するのだと屋敷中追っかけまわされたのだ。
麗しい姉妹愛、まったく頼もしいことだ。
でもレミィさん、そう思うなら、普段からもっとフランをかまえばいいのだろうに。
そういうと彼女はぽそりとこういった。「……恥ずかしいじゃない」と。
ああ、そうですか。ぼくはもう知らん。
それはさておき、魔理沙はぼくに家まで来いと言ったという。
まあぼくは敗者だから、それに異存は全く無いさ。
まあ勝負の詳細な結果も聞きたいし。
だって誰に聞いても教えてくれないんだ。
パチェさんは言わずもがな、咲夜にしても美鈴さんにしても本人に聞けとしか言わない。
まあ何かしら考えがあってのことだろう。だからぼくは早速行こうと考えた。
けれど無理だった。
魔理沙が住む魔法の森は、瘴気が立ち込めた危険な場所だ。
そんなところへ普通の人間であるぼくが一人では行けない。
だからいつものように咲夜さんに連れてって欲しいと頼んだ。でも
「あの勝負者同士の約束事なのだから一人で行きなさい」
にべも無かった。美鈴さんも同様に。
それでもまあ、今のぼくには自衛の手段も一応ある。サスマタだ。
だからパチェさんに頼んだんだ。瘴気に耐えられる方法をお願いしたいと。
そしたら最近は体質改善の成果か随分と顔色のいいパチェさんは、妖しい笑顔で快諾してくれた。
その時点でもっと話をすべきだったのだ。流されやすいぼくであるからそうはしなかったけれど。
そして漸く今日、ぼくは魔理沙に会いにいける。
期間にして三年。随分とかかってしまった。
それでも魔理沙はぼくとの約束があるからか、紅魔館にはその後来てない。
ぼくも大概意地っ張りだと思うけれど、魔理沙もまた変わらないようだ。
そもそも何をしていたか、であるが。
パチェさんの言う瘴気対策とは、
「アサヒは魔法の素養があるのだから、魔法を覚えなさい。そうすれば抵抗無く森へ入れるのだから」
なんてシンプルな答えだろう。
しかしぼくの認識と、彼女の言葉には相当のギャップがあったのだ。
ぼくといえば、彼女の言葉のままに「魔法を覚える」と思った。
瘴気に対抗できる何らかの魔法を習得しなさいという意味で捉えたのだ。
しかしパチェさんが言う意味は、魔法使いになりなさいという意味だったのだ。
ぼくは魔法使いと言えば魔理沙を連想した。
そりゃそうだろう。あれだけ無謀な死闘を演じた相手だ。
それだけ強烈なイメージがあったということだ。
けれどパチェさんの中の常識は魔法使いとは人間を捨てたものだったのだ。
実際彼女もそうであるし。魔法の森にもう一人いる魔法使いもそうだと言う。
そもそも魔理沙のほうが魔法使いとしては異端なのだ。
つまりパチェさんは嘘は言ってなかった。ただ全てを丁寧に説明しなかっただけ。
まあ完全にひっかけるつもりだったのだろうけれど……。
その後ぼくは修行と言う名の虐待をうけた。
その結果ぼくは真の意味でこの紅魔館の一員になれたのかもしれない。
今考えるとそれはレミィさんの企みもあったのかもね。
ぼくは書庫に半ば軟禁され、英語、ラテン語、ヘブライ語。古代魔法語を叩き込まれた。
それを理解しなければ
言葉の習得に一年以上かかったものだ。
これほど必死に勉強したことなど一度も無かったように思う。
大学入試の時も、要領の良かったぼくはそつなくクリアしたし。
けれど三十を越えてから語学を学ぶとはかなり厳しいものがあった。
ぼくの老化した脳は、新たな言語中枢を作ることに否定的だったのだ。
まあ、そうして最低限の事を理解するには至った。
むしろそこからが地獄だっただろう。
来る日も来る日も魔法の研究と儀式の日々。
ヒッヒッヒッ……なんて胡散臭い笑いをしながら壷をかき混ぜるローブの老婆。
そんなステレオタイプなイメージの中の魔法使いそのままに、だ。
魔法使いにとって魔法薬やマジックアイテムを作ると言うのも当然仕事のうちなのだ。
行使する魔法によっては触媒が必要になるのだから。
そして実際に魔法使いになるという儀式。
ぼくはその最中、なんども「殺してくれ」と錯乱したという。
その度に一緒にパチェさんに指導を仰いでいたフランから思いっきり殴られて正気に戻ったのだが。
それほどに苦痛を伴うものだったということだ。
具体的には捨虫・捨食というものなのだが、簡単に言えば心を殺すことなのだ。
人間に必須である食事、そして睡眠などの欲。
それらを欲しがる心を殺してしまうことがこの儀式の真髄なのだ。
その作業は魔法的なものではあるけれど、単純に言えば拷問そのままだった。
眠ろうとすればたたき起こされ、飢えでフランが饅頭に見えて襲い掛かりそうになっても食事は駄目。
それをとある薬の節制の魔法により身体の内部から行なっていく。
ゴールは空気中にある魔力を食事であると心と身体両方が認識するまでだ。
そしてその魔力を肉体の足りない部分に補い、そのための制御を完璧に出来るまで、だ。
眠いなどと感じる部分を魔力で無効にしたりね。
下世話な話をすれば、そのせいで性欲なんか一切感じないよ。
いいんだか悪いんだか知らないけれど。
とにかくそんな三年を経て、ぼくは魔法使い見習いとしては合格を貰えたのだ。
なんだか騙されたみたいで非常に不本意ではあるが。
結果、レミィさんとパチェさんには愛称で呼べと言われ、咲夜さんには裏切り者と罵られた。
フランは前以上に懐き、精神も成長した。
余談ではあるが、随分と大人っぽくなったフランが、「お姉さま、私、アサヒのものになるから」なんて真顔で言うのだ。すると烈火のごとくキレたレミィさんが、ぼくを屋敷中おっかけまわし、ヒーリング魔法が必要なほどに殴られる。
いくら人では無くなったとしても容赦が無いよな。
そしてぼろぼろになったフランが看病してくれるというパターン。
なんだか純粋なフランが居なくなってしまって寂しいぼくであった。
最近ではレミィさんなんか足元に及ばないほどに狡猾だと思う。
魔法使いとしても優秀だし。
頑張れレミィさんと声援を送らずには居られないぼくであった。
そんな訳でぼくは見習い魔法使いとなった。
見習いとつけるのは、欲を完全に捨て切れない部分がまだあるからだ。
だって普通に寝たいと思うから。
だから眠いと感じる間は魔力を意識的に使わなければならない。
それを無意識に制御できたときに、ぼくは魔法使いを名乗れるだろう。
今は眠るのが好きだからいいじゃないかと思うし。
ぼくはパチェさんの部屋の横に新しく作られたぼくの部屋に居る。
咲夜さんの能力で拡げられた場所だ。
香霖堂から買ってきた無駄にでかいアンティークの机。
その上は雑多にも程があるほどにカオスになっている。
魔法使いになったせいか、どうにも整理整頓が面倒なのだ。
ぼくはそれを雑に探って目当てのものを探す。
薬剤の入ったフラスコがひっくり返るが気にはしない。
(お、あったぞ。とりあえず三枚あればいいか)
何かの薬品で薄汚れた、元は真っ白だったカード。
そう、ぼくのスペルカードだ。
それを格子模様の真っ赤なベストのポケットに突っ込み、そしてぼくは窓から外へと飛ぶのだ。
あの魔理沙が入ってきた窓から。
ねえ、君。そこの君だよ。
幻想郷の空は気持ちがいいんだ。
それが自分で飛べるなら尚更に。
君も幻想郷に来る機会があったなら、是非人間をやめてみるのをオススメする。
それほどに素晴らしい自然と、毎日楽しい騒動があるのだから。
少しばかり痛い目にはあるけどね。
でもそれ以上に素敵なことが待っている。
おっと、こんな時間か。
それでは失礼するよ。
すこし約束があるんだ。
とても美人な魔法使いとのデートさ。
それを邪魔するなんて君、無粋な真似はしないだろう?
★
霧雨魔理沙はまったく整理されていない自宅のリビングに仁王立ちしている。木造のこじんまりとしたこの家は、彼女の蒐集癖の結果、非常にカオスな様相を呈している。とてもじゃないが乙女の家とは呼べないほどに、である。知っている人がこの家を見たのなら、ここは香霖堂なのだろうか? と錯覚を起こすだろう。そんな玩具箱を引っくり返したような部屋の中、魔理沙は首を捻っていた。
「……洗った服はどこだったろうか」
下着姿のまま立ち尽くす彼女は、その整った眉をひそめ、真剣そうな雰囲気とは裏腹に、女性としてはかなり失格であろう言葉を吐いた。しかし目的としては乙女のそれに近いかもしれない。なぜなら彼女は彼女なりのおしゃれとして、服を求めていたのだから。
「お、これかな?」
魔理沙がゴミの山から取り出したのは一着の黒いスラックス。それを彼女は鼻に持っていくとスンスンと匂いをかいだ。
「…………これはダメだ。鼻が曲がりそうだぜ……」
不合格だったらしい。そしてぽいっと投げ捨てた。
「……不本意だが、仕方が無い。スカート……履くか……」
なんだか彼女はとても嫌そうに、ハンガーに通しちゃんと壁にかけてあった黒の魔法着を手に取った。ここ数年、成長期だった魔理沙は随分と身長が伸びた。
昔は黒のドレスにエプロンをつけていたが、身体の成長と共にパンツスーツを好むようになったのだ。それでも相変わらずのずぼらな性格であるから、気が向いたときにしか洗濯などしない。それがこう言う状況を生み出しているようだ。
パンツスーツを好む原因は伸びた身長のせいだけではない。それは博麗霊夢よりも倒した宿敵のせいだ。その宿敵は男であり、自分と同じ魔法の道を歩くものだった。そして男にスカートの中を見られるのは恥ずかしい。そんな珍しくも乙女らしい思いの結果、彼女はスカートを捨てたのだ。
彼はひょんなことから魔理沙と戦う事になり、そしてそれがきっかけで顔をあわせれば弾幕戦をするような間柄なのだ。最もそれは魔理沙の一方的な遺恨のせいであるのだが。
「…………うーん」
姿見を見ながら魔理沙は何度もくるくると回り、自分の姿を確かめる。
「……やっぱり嫌だな、スカートは。でも臭いよりはいいだろう……か?」
未だに決めきれないらしい。何やらぶつぶつと呟き、そしてまた脱ごうとする。
「くそっ、ほんと忌々しいぜアサヒ。なんでお前はこうして私をイラつかせるんだ」
魔理沙はそう吐き捨てつつ、起用に髪を編んでいく。黒いスラックスに黒いベスト、それに白いシャツ。それを正装に選んだ魔理沙は、めったにこの服装をしない。トレードマークだったとんがり帽子も、高度な弾幕戦を演じるためには邪魔だと捨てた。だからこそウエーブのかかった金色の長い髪だけはきっちりと編むことでおしゃれをする。
お洒落なのが魔法使いだぜ――と言うのが新しい魔理沙のこだわりだ。しかし今日はあの頃と同じ黒いドレスに白いエプロン。どうにも気恥ずかしいと魔理沙はむず痒く思うようだ。
「あーーもう! イライラするぜ。これもみんなアイツのせいだ。今日は念入りにぶちのめしてやるぜ」
そして魔理沙は荒っぽくドアを蹴り上げると、相棒の箒に跨り空へと消えていくのだった。
★
幻想郷、とある草原。この場所から少しだけ遠くを見れば、一面の黄色い花畑が見える。ここは太陽の畑と言う場所の側にある草原なのだ。元々は風見幽香という大妖怪のテリトリーなのだが、彼女の弟子のたっての願いでここはその弟子に与えられている。
ここが不思議なのは、直径百メートルほどの円状に草が禿げ上がっている事だろう。上空から見れば分かるのだが、ここはちょっとしたコロシアムのような物なのだ。そこに空から一人の女性が降りてきた。長い足を綺麗に折りたたんで箒に横座りをした、真っ黒な姿の女性だ。
「やあ魔理沙、五分と四十五秒の遅刻だね」
既にその場に居た黒い燕尾服の男は、ひどく無表情のまま懐中時計を眺めてそう言った。
「ばーか。いい女が男を待たせるのは許されるんだ。アサヒ、まさかお前、知らなかったのか?」
乱れた前髪をかき上げ、馬鹿にするように魔理沙は言った。
「ふむ、それは知っている。これでも淑女に仕えているからね。それでは魔理沙、君は”いい女”に含まれている、そう主張をするわけだ。なるほどそれは非常に興味深い話だ」
そんな魔理沙にアサヒはどこふく風。皮肉に皮肉を返すという調子だ。
「お前はいつも私の先を行ってしまう。それはいい。お前が努力してることは知っているからな。でもだ、そのいけ好かない話し方をやめろ。見てみろ! この鳥肌を。ああ気持ち悪いぜ」
「それはぼくもそっくりそのまま返そうじゃないか。なんだそのスカートは。色気にでも目覚めたかこの淫乱女。ああ、いやだいやだ」
アサヒはニヤニヤとしながら魔理沙を見た。
「てめえ、もう許さないぞ……」
魔理沙が噛み付くように言い返す。
「ぼくはあの日から君を許してなんかいないぞ」
そしてアサヒもまた魔理沙を睨む。
「なんだよ……」
「なんなんだ……」
まるで火花が飛び散るように視線が絡み合い、そして
「やるかコノヤロウ!」
「かかってこい淫乱女」
いつもの如く弾幕戦が始まった。互いの魔力がぶつかり合い、不自然な風が草原を揺らす。
恋符『マスタースパーク』
日符『ロイヤルフレア』
二人の弾幕が爆風を起こし、凄まじい音を発する。もう何度繰り返されたか分からない二人の弾幕ごっこはこうして火蓋が切って落とされる。
アサヒがはじめて魔理沙と戦い、そして三年の時を経て彼女に会いに行った。魔法の森にある魔理沙の家へ。魔理沙は珍しく部屋を片付け、そしてアサヒを笑顔で迎い入れた。来客など滅多に無い彼女の家だ。そういう嬉しさもあったのだろう。時折交流のある人形遣いくらいしかこの家には入らないのだから。
「やあアサヒ、よく来たな。歓迎するよ。勝ち逃げされて少し気分が悪かったがな」
満面の笑みで魔理沙はそう言った。あのときの戦いを思い、互いの検討を称え会おうと思ったのだ。けれどもアサヒは表情を曇らせた。
「流石に勝者の余裕だな魔理沙。ぼくは悔しくて魔法使いにまでなったというのに」
アサヒはあの日の悔しさを忘れていなかった。だからこそ今日は再戦の挑戦状を叩きつけてやろうと思っていたのだ。なのに魔理沙はまるで自分を挑発するかのような言葉を吐いた。勝ち逃げ? それはお前だろうに。アサヒはそう思ったのだ。
「おいおい、何を言ってるんだアサヒ。勝ち逃げっていうならお前のほうがそうだろうに。そして私に黙って魔法使いになった? お前は普通の人間で私に挑むんじゃないのかよ!」
魔理沙はアサヒのあまりの言葉に激興した。彼女の認識はアサヒが、普通の人間である彼が知恵を絞って自分を打ち負かした。たとえ幻想郷のルールである弾幕ごっこじゃなかったにしても。自分の隠し玉であったダブルスパークをその身に受けながらも、アサヒは自分を気絶にまで追い込んだのだ。なら自分の負けであろう。なのにこの男はさらに追い討ちをかけるかのように、人間を捨ててやってきやがった。魔理沙は歯噛みして怒った。
逆にアサヒも魔理沙が勝利したと考えていた。それはそうだ。あの後彼は意識を失って寝かされており、とっくに魔理沙はいなくなっていたのだから。だからこそ魔理沙の言葉は許せないと考えた。半ば騙されるように人間まで捨てて魔法の森にやってきたのだ。なのに実際に来てみればどうだ。傷口に塩をすりこむような魔理沙の言葉。あれから随分と感情に起伏があるアサヒには、それを受け流せる余裕は無かった。
ちょっとしたボタンの掛け違いなのかもしれない。けれども互いに未熟な部分を残す二人にはどうにも消えない遺恨となった。そして二人は――――
「出てけコノヤロウ。そしてアサヒ、首を洗って待ってな。こんどは完膚無きまでに叩きのめしてやる!!」
「はっ、それはこっちのセリフだ魔理沙! ぼくも次は手加減しないぞ。ぼくの炎で黒白から真っ黒にしてやる!!」
「「ふんっ!」」
そしてアサヒはドアを叩きつけるように帰って行き、魔理沙はせっかく片付けた部屋に物をぶちまけた。それから数年、今に至るまで二人の戦いは幻想郷の名物となるまでに繰り返された。勝敗など二人には関係ない。まるで昔からの犬猿の仲のように顔をあわせれば喧嘩する。程度は低いのだが、見てるものには楽しいらしく、天狗の新聞記者が毎回の勝敗を記事にするほどだ。
そして今日もまた、場所を太陽の畑そばの草原に移し、戦いは始まるのだ。
ぶつかり合う男と女。
下ではデッキチェアを持ち出し優雅に紅茶を飲む風見幽香の姿がある。
「まったく子供の喧嘩ね。それでもまあ、退屈はしないわ……」
彼女の呟やく中、上空では一合、また一合と二人の弾幕がぶつかり合う。互いに空を支配しつつ、接近したり離れたり。
「なあアサヒ、人間やめて後悔してないか……っ!」
閃光のような速さでアサヒとすれ違い、その様に魔理沙は叫ぶ。
「後悔なんかしてないさっ! だいたい後悔する暇なんかあるかよ。こうして鬱陶しいお前とやり合ってるんだからな……ッ!」
魔理沙の放ついくつもの細いレーザーを寸でにかわし、アサヒも応酬した。
「そうか……そうだよな。やっぱりお前は憎たらしい相手だぜ。私もお前には絶対に負けたくない。魔法使いになってお前を蹴散らしてやるっ!」
そういって魔理沙は笑った。アサヒの見惚れたあの笑顔で。
そんな暑苦しい上空を見ながらあくびを一つして、風見幽香は楽しそうに笑った。
こうしてアサヒの幻想郷の日常は続いていく。
いつまでもいつまでも――――
★
紅魔館の応接室。そこでは当主であるレミリア・スカーレットと彼女の親友であるパチュリー・ノーレッジが向かい合って座っている。テーブルに置かれた水晶玉を互いに覗きながら紅茶を楽しんでいた。赤い壁紙、豪奢な革張りの応接セット。派手すぎず、それでもしっかりとお金をかけられた部屋だ。
「こうして差し向かってお茶をするのは久しぶりね、パチェ」
レミリアはそう言いながら親友を眺めた。日がな特に何をするでもなくのんびり過ごしている彼女は、距離のある地下室へと足を伸ばすのが面倒なのだ。そしてパチュリーもまた然り。時折門番の紅美鈴に太極拳を習いに行くが、玄関の向こうの遥か先にあるレミリアの居室までは行きたくない。結果、二人が顔をあわせる機会はそれほど無いのだ。
「ふふっ、そうね。アサヒが来てから随分と私の暮しも変わったもの」
そうして二人は顔を見合わせ笑った。
「そうね、貴方ってばすっかりアサヒに乗せられて随分と健康になったものね」
随分と血色の良くなったパチュリーの顔を眺め、レミリアは嬉しそうに言う。昨今は喘息の発作も滅多に起こらないほどにパチュリーは健康になった。体質改善のための運動や食事の結果だ。それにアサヒと小悪魔による書庫の整理の結果にもよるだろう。いまや書庫は喘息の敵である埃が一つも無いほどに清潔に保たれている。
「ええ、本当に。ねえレミィ、身体を動かすのはとてもいいわよ。貴方も一緒にやりしょう」
にやりと笑って親友を見るパチュリー。
「ええ……嫌よ、面倒くさい……」
心底嫌そうにレミリアは羽を畳んだ。
「どこかの巫女みたいな事言わないでよ」
かつては怠惰の権化のようだったパチュリーが呆れたように溜息をついた。
そして軽口を飛ばしあった二人はやがてどちらとも無く水晶玉へと視線を落とす。そこにはアサヒと魔理沙が弾幕ごっこを繰り広げる姿があった。これはパチュリーの魔法が施された道具である。遠見の術という魔法だ。離れた場所にある事を覗けるというものである。
「ねえレミィ、貴方はこうなる事まで見越していたの? それとも何か”弄くりまわした”のかしら?」
さっきまでとは打って変わり、随分と低いトーンでパチュリーは言う。これは常々レミリアに対して思っていたことだ。人間であるアサヒがここまでこの屋敷に馴染む、パチュリーはそこまで予測していた訳ではない。だからこそ、運命を操る能力を持つレミリアを少しばかり疑っていたのだ。
「いいえ、私は何もしてないわ。ただ視ただけ。あの日、初めてアサヒにあったとき、私は思わず笑い転げたでしょう? それはアサヒが自らこうして人間を捨て、あの黒い魔法使いと喧嘩を繰り返す姿が見えたからなの。本当にアサヒは退屈しないわ。こうして屋敷も明るくなったしね」
真剣に見え、それでも何かを企んでいるかのような表情のレミリアを、彼女はしばらく眺めていたが、やがて諦めた。それはたとえどっちだったにせよ、現状は好ましいものであるからだ。それ以前に何かに強く執着するなど、人間じゃなくなったときに捨ててきたのだし。
「妹様はアサヒにべったりだものね」
「……うー」
「ま、とにかくアサヒの紅魔館への功績は評価しないわけにはいかないわ。だって退屈なんて思うことは無くなったもの」
「ま、そういうことよ。元々は貴方の儀式の失敗だったけれど、逆にそれに感謝してるわ」
「そうね」
そして二人はまた静かに紅茶を飲む。水晶玉を覗き、くすくすと笑いながら。
★
書庫にあるぼくの部屋。まったくの計画性の無いままに積まれた魔法の荷物。
魔理沙との弾幕ごっこに疲れ、そのまま机に突っ伏してしまう。
今日も負けた。数にすれば五十勝百三十七敗って所か。
まったく忌々しいことだ。
それでもまだ諦めはしない。
これは魔法の研究と同じくぼくのライフワークみたいなものだから。
そういえばメリィさんは何をしてるかな?
ぼくは魔法使いになったなんて知らないだろうから。
もし知ったとしたらきっとこう言うだろう。
「ま、アサヒ君だからね。好きにおやりなさいな」
そう言って楽しそうに笑うんだろうな。
そんな姿が目に浮かぶようだ。
ふと机の上を見る。そこには書きかけの便箋があった。
パチェさんが約束を果たしてくれた結果がこの便箋なのだ。
この幻想郷を管理している存在に頼んでくれたのだ。
ぼくの以前の雇い主、メリィさんへの手紙。
どうにかして届けてくれると言う。
ただしここの存在が伝わるような内容はダメだと言う。
まあそうだろうな。この世界を外の人には絶対に理解できないだろうから。
ぼくはこの便箋を貰ってからしばらく、中々書ききることが出来ずにそのままにしていた。
でも今日は書こうと思う。
ここで生きていくと決めたのだから。
それとてひょっとしたら流されているだけかもしれない。
けれどもぼくは今、笑ったり泣いたりしている。
なにより楽しいって感じている。
だから書こう。気持ちのままに。
『メリィさん、僕は元気です。この旅行はひどく楽しいので、もうしばらくこっちに居ようと思います。朝陽』
ねえメリィさん。ぼくを家族だって言ってくれる人がいるんだよ。
それは吸血鬼だったり魔法使いだったりするけれど。
だからぼくはここにいます。
いつか貴方に会えたらいいと、そう思うのだけど。
でもぼくの居場所はここに見つけたから。
だからごめんなさい、メリィさん。
ぼくの旅行はまだ、続きます。
さようなら。
感傷に浸ったまま、ぼくはソファに横になる。
ふと机を見たら、便箋は既に無くなっていた。
さようならメリィさん。
頬を伝う暖かい水を無視して、ぼくは少しだけ眠ろうと目を閉じた。
勢いのままに一気にここまで書ききったので、読み返すと誤字脱字、言い回しのおかしい所が多々あります。ですが久しぶりに2次小説を書いたので、リハビリのつもりで書いてました。一応この回で終了です。
ただまだ書ききれていないエピソードもありますし、外伝やら挿話の形で更新するかもしれません。メリーの話とかなんのこっちゃですしね現状。紫らしき連中も然り。まあプロットはこの先までありまして、一応このエピローグまでが導入だったりします。けれど先を続けるかは悩みどころでして。
普通の人間やめてしまいましたしね主人公。
元々そのつもりでしたが。
まあ魔理沙に完全に負け越すのだから強主人公じゃ無いですけれど。
魔法使える草食系男子ってことで。
ただ紅魔館の完全な住人になるにあたって、主人公は咲夜さんの家事を手伝ったり色々しています。口調も割りとくだけましたし、レミリアやパチュリーを愛称で呼んでいます。それは家族なのだから堅苦しいのはヤメロと半ば脅しのようにレミリアに言われた結果だったりしますけれど。
咲夜との絡みで変な教育をされたのか、主人公は気取った口調になりました。
人間やめたアサヒに咲夜はネチネチと嫌味を言ったりしたのだと思いますし、それが彼の弱みとして、瀟洒な教育をされたのでしょう。
最後のアサヒの格好は、執事のような燕尾服に、インナーのベストを風見幽香に貰った格子模様の赤いベストを着用しております。懐中時計はきっと咲夜の差し金でしょう。
今後のアサヒの正装はこれでしょうね。
とにかくこれでひと段落となります。
2章を書くかどうするか、反応を見て考えます。
最後に沢山のお気に入り、ありがとうございます。
本当に嬉しかったです。
ここまで読んでくださった皆様におおきな感謝を送ります。
もっと推敲せえやって声も聞こえつつ。
時間を見て誤字脱字は直そうかなとこっそり言っておきます。
ではありがとうございました。
P.S.アンケートではないですが、今後これが続くならばオリ主の幻想郷話になってしまうでしょうけれど、読んでみたいと思われたら感想で一報していただけたら嬉しいです。よろしくおねがいします。