瞬間移動というとおよそ3つのパタンがある。一つは対象物を任意の場所で再構成するもの、一つは空間と空間を繋げたり同位相にしてしまうもの、一つはちょっと反則くさいが時間を止めてしまうようなもの。
≪キオン≫の秘宝でありオーパーツ(Out of place artifacts/時代錯誤遺物)である、
それは時間旅行を目的に製作されたのではないかと、≪キオン≫の歴史家、科学史科は睨んでいる。
彼――名前も性別も知れない理論物理学者はアインシュタインのもっとも偉大な3つの方程式をもてあそび始めた。距離と持続時間にかかわる2つの相対性方程式と質量変換方程式を。そのどちらも光速度が含まれている。"
彼のしたことは、曲線の勾配を変化させたにすぎないのだと、教授は知っていた。それと同時に、ミクロの世界では温度や色のように時間さえも存在しないことを教授はよくよく知っていた。論文の締め切りに追われたため、研究は実践にステージを変えた。
莫大な燃料 (≪キオン≫王都で使用されるエネルギィの3日分) を一度に消費する試作モデルはピンポン球くらいの空間だった。火のついた煙草をそこにいれ、出力を最大にしてみたところ、煙草は一瞬間後も燃えていた。
教授は煙草をつまんで、また吸い始め、このことについて考えた。曲線の勾配の変化は、低エントロピー場を生じさせたのだ。
低エントロピー場にノートと鉛筆を持ち込むと、精神の老いを引き換えに研究は飛躍的に進んだ。
日に消費する鉛筆は10ダースに及び、研究室がノートの海と化そうとも、とうとう死んだ娘との再会は叶わなかった。研究室と愛娘の墓が空間的に結ばれたことだけが教授にとって意味のある研究成果であり、≪キオン≫に降りかかった戦火が空間と時間に関する研究を兵器に転用させることになった。
大きな質量が空間を歪めることは重力レンズ効果などで知られているが、博士の
あらゆる方向から――球を構成する概念上の点のように本当にあらゆる方向から――特定の空間を引っ張り、空間の密度を薄める。
そして第二段階は、密度の薄くなった空間を動かすだけだ。同体積の鉄球とピンポン玉を動かすのだったら、後者の方が容易い。その極端な場合がこれであり、質量でちょっと引っ張ってやれば、任意の点につなげることができた。
『エントロピー・膨張域・空間と距離の異なる概念』
作者不詳の原稿のゲラは現在、≪キオン≫王立図書館で禁書指定されている。嘘か誠か、大規模な遠征が起こる度にバズビーチェアのように持ち出されているらしい。
「……というのが、
人差し指を空中に滑らせて、少しだけ得意げに岬は言った。ボーダー本部基地の廊下を背景に、アインシュタイン方程式を始めとした相対論の数式が指に導かれ、AR(拡張現実) されていく。
これら方程式の高次元な関連は玄界の理論物理学者と素粒子物理学者をかき集めても未だ理解することはできず、目下議論が盛んに行われているところだ。当然そんなシロモノを岬が理解できるはずもないが、未知の叡智に触れられたような気がして、話すだけでうれしくなってしまう。
「執念でも時間は遡れないんですね」
深窓の令嬢が読後感の悪い恋愛小説を本棚に戻した時のようなアンニュイを浮かべて凪は言った。
「科学は万能だけれども、人間に優しいとも限らない。人間がどんなに踏ん張っても円周率がπなのは変わらないし、時間は戻らない。方程式はいつだって冷たい――というやつでしょうか? 」
自問にも似た疑問とともに小首を傾けると、流しっぱなしの黒髪が慣性に導かれるままに横へ流れる。宇宙にあるすべての円が相似形という事実を素直に受け止め、それを感動できる少女だった。
岬がユークリッド空間ならねと無粋なつっこみをすると、凪は拗ねるように唇をとがらせる。
「それはそれとしですね。なんだか胡散臭い話ですよね、兄さんのそれ。膨張域に教授は入ったらしいですけど、そこは時間も引き延ばされていそうですし。もしトリオン体じゃなかったら、距離欠落空間を通る際、躰が細切れになるんじゃないですか」
「カエルを突っ込んだら出口で白い粉になったって」
岬がこともなげに答えると凪はスプラッタ映画を見たかのようにオーバーに眉をひそめた。血と皮と肉がぐちゃぐちゃになっていたというよりも、幾分リアルだったのかもしれない。
凪のげっという呻きはリノリウム張りの床を叩く革靴とローファーの軽快な音と混ざった。横に5人も並べない細長い空間であり、上下左右から靴音が反響する。ボーダー本部基地一階、その奥行きの長い廊下を2人は走っていた。
ときどきシャリシャリと細かい音が鳴る。踏まれた監視カメラの残骸がちらちらと光る。ヒト型トリオン兵を統率するヨミに、監視カメラの処理をその位置とともにお願いしていた。
凪の黒髪は波のように揺れ、蛍光灯の光を受け艶やかに輝いていた。
「にしても、兄さん。自分たちでイルガーを出して、自分たちで撃ち落とすっていうのももったいないですね。争いごと全般がそうであるように」
「仕方ないよ。3機で信用が買えたら安いものだと思う、不本意だけどね」
「ですよね、自作自演ってなんだか気が咎められます。諏訪さんは救世主だって言っていましたし。――ところで、兄さん。次は作戦室本部でしたっけ。トリガーチップを渡しに。これも信用を貰うためですよね」
「そう」岬は走りながら頷き、横目で凪を見る。「迅が視る未来を良いものにする必要があるからね」
「迅さんも心の中までは読めないみたいですからね」
「でもその前に、味方の味方の助けないとね」
呟くように言って、岬は前方に右手をかざす。
新雪を思わせる白衣が風に吹かれたように舞い上がり、無数の白い球がふわふわとその周囲を漂いだした。ゴルフボールくらいの大きさの弾丸が――27、54、108、216、432、864、……と複製され、統制の執れた第一速度でくるくると衛星軌道を開始する。
凪は目を丸くした。
この兄はとうとう頭をおかしくしたのではないのだろうか。目の前には監視カメラのレンズが散乱した廊下しかなく、ボーダー隊員もトリオン兵すらいない。誰にもばれないためにわざわざクラッキングしてデータを改竄しているというのに、この凶行はどうしたことだろう。今頃沢村さんたちは偽の識別信号を追っているはずだけど、不用意に弾を撃てばこちらの狙いがばれかねない。C級隊員や予備役のB級隊員に見られでもしたらご破算になるのは火を見るより明らかだ。
「何やっているんですか兄さん? 壁しかないですよ。ああ、分かりました。天井に穴を開けて移動しようというのですね」
自分でもすっとんきょうなこと言っていると思ったが、凪は天井を指した。
冗談と受け取ったのだろう、兄は笑いながら首を振る。そして、ぼそぼそとsAIに指示を与えた。
忙しい靴音が邪魔をしてよく聞こえない。
しっかり聞こうと、あるいは唇を読もうと凪は岬に向き直った。
続く彼の行動に、凪は目玉が飛び出るかと思った。
◇ ◇ ◇ ◇
あー、クソッ!! あんなこと言わなきゃよかった。足止めってのも楽じゃないわね。
もしあたしが玄界人に捕まったらどうなると思ってるのよ。あいつらがある種の生理的な満足をあたしに求めてこないとも限らないじゃない。捕虜っていうのはそりゃもう悲惨なものだって散々言われているのに……。昨日エルフェールって子にこっちの世界の
本国から送られた新しい脱出装置だって100%上手く起動するなんて言えないじゃないの。
女のあたしに単独行動を任せるなんてどうかしてるとしか思えない。まあ、それもあたしの実力があってこそのものだけどね。
あたしは最適の仕事を決して怠らない。
「ウェン? 大丈夫? 心拍と血圧が普段よりも高いよ」
突然ヨミの声がした。少しだけ心配そうな声音。
耳元に内蔵された通信機は音漏れしないから便利と言えば便利。だけどちょっとだけ
「心配いらない。敵地に踏み込めば誰だってそう」
低い声であたしは答えた。『来な、お嬢ちゃんたち』とカッコつけた手前、今更弱音なんて吐けるはずもない。声の調子もマニュアルで弄れるのがトリオン体の面白いところ。「敵は那須って子と、あとは誰? あの日本刀」
獲物を光らせるわかめみたいな髪をした奴をあたしは睨んだ。
こちらの視覚はヨミにも届いているだろうから、指示語にまつわる混乱は回避できるだろう。
「熊川ってやつだね。B級でマスタークラスでもないからそれほど注意しなくてもいいってことになった奴。武器もブレードしかないって話」
「ああ、たしかいたね、そんな奴。あたしの敵じゃない」
「油断しないで。風間隊の菊地原と歌川って奴も近くまで来てる。あと2分もしないかも」
「了解。A.S.A.Pで」
「何? A.S.A.Pって」
「今説明している暇はない――。(それに分からないで結構。これは私のお気に入りの小説の決め台詞だ。もしも伴侶を選ぶとしたら、涼しい顔でこの台詞に続く言葉を言える奴だと決めている。それがヨミっていうんじゃ、ちょっとねえ)」
一度深呼吸。
頭の中を自分と2人の敵だけにリセット。一人は剣を構え、――"正眼の構え"って言うのかな、たぶん剣道って
こちらの両手はフリー。
獲物を見せるときは倒すときってのがあたしの信条。
とりあえず、狙いは
一発で仕留めよう。
まずはあの日本刀から。敵意を湛えた目がちょっと鋭いんだよね。そのくせ向こうから動かないんだからどうしてやろうかしら。
決めた、まずは定石に沿おう。
前傾姿勢で駆け寄り、半歩だけ左へフェイント。
右にステップ。
半開きになっているポーチから自然に楔が落ちる。
カツンと床に突き刺さり、門から産声が上がる。
わらわらとドグが召喚。
流れるように統率行動を指示。
敵の認識、固定。
相互ネットワークの確立。
手動操縦を常時受け付けモード。
あたし特別仕様の可愛い子ちゃんたちだ。大きな口がちょっとだけキュート。
指令は通常モード。
つまり取り囲んで袋叩き!
敵の2人は挟み撃ちをしてくるつもりはないらしい。せっかく数的有利なのに勿体ない。たぶん、日本刀がガード担当で、キューブの子が射撃担当かな。その幸薄そうな奴が今にも撃ってきそうだ。奴を囲むキューブがかくかくと微動してる。
なんだ、調子がいいな、あたし。
向こうの動きがよく見える。マイーナーチェンジのおかげで視覚の分解能が上がっているのかも。キューブから僅かに推進剤が漏れてるね。発射まで1秒弱くらいかな。整備があまいんじゃないの?
そら見ろ、撃ってきた。4*3の軌道ね。
今日は本当に調子がいい! 目で追える余裕があるってのはいいものだ。
相手の視線までまる分かり。
致命的なんだよね。武器がバレてるってのはさ。知ってるよ、
ほら、曲がる。直角にね。
最初の釣り弾を軽くステップ。
目の端で背後に通り抜けるキューブを捉え。
真後ろにシールド。
気持広めに展開。
響く金属音。それが4連続。続いて4つ同時。
上手く防いだみたい。
<<損壊率64%>>と視覚支援の表示。
うん、被害軽微。
弾が直角に曲がるのも知ってるし、何度も曲がるのも分かってるし、威力が不十分なのも実感した。向こうが威力と射程と速度を
ギギギン! と切削ドリルを合板に打ち込むような金属音が7連続。
あんたの手を離れる寸前にシールドで相殺してやったぞ。やっぱり威力が足りないみたいね。それともトリオン欠乏症?
たぶん煽りっぽい笑みを浮かべているんじゃないかな、あたし。
那須って子の訝し気な表情がちょっとだけ愉快。
ガレージを二回りだけ大きくしたようなこの部屋は彼女の武器にうってつけだけど、手品の種を知っていれば効果は半減ね。
熊谷って奴はまだドグと戯れてる。やっぱり全然大したことない。知ってる? ただ刀を持ってるだけじゃ、人間は犬畜生にも勝てないのよ。エルフェールって子が江戸時代って頃の本で教えてくれたわ。五輪の書だっけかな。
おっと、これが鳥籠って奴か。確か、360度から弾が襲ってくるってやつ。
幾何学的な軌道はちょっとだけ綺麗ね。縦に折れ、横に急転回し、急上昇と急降下を繰り返す弾丸の軌道はラタにも真似できないかな。大した技だ。あたしが視認できるのは6*3が4組だけ。きっと後ろにも回り込まれている。サポートに向いた変化弾って武器を攻撃用の技に昇華させた、那須って子の得意技。
たぶん、仲間に恵まれなかったのね。
「ヨミ!」
常時通話になってるピンマイクに叫んだ。
「シールドの座標系変数を預ける」
「OK。同期確認。ドグのカメラから見えてる。――3――2――1――」
――今!
心で叫び、シールド展開。出力全開。連続展開。
立て続けに響く合板を無理やり打ち抜くような甲高い金属音。
それが四方八方からあたしを包むように弾けて廻る。
残ったのは那須って子の唖然とした表情。どうだ! うちのヨミはちょっとすごいぞ。
さて、あっちの攻撃役を先に落とした方がいいのかな。それとも最初の狙い通りに日本刀から落とすか。
こちらの手持ちはシールドとブレード。
それにスモークとフラッシュバン、小型ゲート。
奥の手の
だけどこれはまだ使いたくないわ。アフトの教訓その1:敵の前であまりはしゃぎすぎない方がよい。なぜなら向こうのネットワークはこちらのものと比較にならないほど便利らしく、情報が一気に拡散するから。
ならば、A.S.A.P をどう達成するか。そして、最適の仕事を。
いつも通りスモークがよさそうね。換気ダクトもないみたいだし、通路も前と後ろの二つだけ。殺風景な部屋には二組の蛍光灯だけ。
ポーチから楔を4つ取り出して、忍者がクナイを持つように握る。これもエルフェールって子が教えてくれたわ。いいね、手になじむ。古来より連綿と伝わる人体工学上優れた云々……、あの俳諧の達人松尾芭蕉(あたしは誰だか知らないけれど) も忍者だっだんですよ云々……、玄界に今忍者がいないのは全員が変装の達人だから云々……流石にここまでいくと胡散臭いけど、悪くはないわ。
スモークの設定は時間差起動。1分は持つわね。
さあ、煙の中で踊りましょう。
プシュッと気密の破れる音。
手から放たれ、
スモークは起動された。
視界のあらゆる色が灰色にかわる。
腕をしならせ、ブレードの投合。
舞い散る蛍光灯の破片に包まれながら、一歩大きく踏み込む。踏み込んだ足を抜いていくような暗歩で三足半を一気に詰め寄り、散らばる破片の残響を音の隠れ蓑に4足半を滑るように縮める。
向こうは煙に驚いてるみたい。そんな声が聞こえた。
お互いを呼び合うなんて馬鹿ね。位置がバレバレじゃない。
戦闘慣れが足りないんじゃなくて。
それとも同じ相手としか戦ってないとか。暗視界戦闘の経験がないとか。使われる武器の種類が少ないとか。いずれにしろ、戦闘経験と技術がガラパゴス化してるわね。
まあ、倒す相手を憂うのは時間の無駄。
アプリケーション、熱観測を起動。
合成視覚モード。
やっぱり脳波アシストって便利。
念じるだけでいいんだから。トリオン体の新調は骨電動イヤホン以外は正解ね。
それに合成視覚もいいわ。煙の中でも立体視できる。あたしには無用の長物だけど、そりゃあったら使うわよ。
――ヒュン!
と風を切る音。
幾何学的に曲がる弾が右から4つ。
時間差で左から8つ。
さらに遅れて上から12。
視認OK。
脳内にて記憶完了。
意識を切り替え、次の行動へA.S.A.P。
身を屈め、半身のダッキングで五足半の距離へ接近。
空の楔を投げ、それが空鳴りし音のフェイント。
振り向いたか。経験値が全然足りないね。
そろそろかな、弾が来るのは。
引き付けてシールド展開。
金属的な激音が四方八方から散る。
全機撃墜!
<<損壊率84%>>
全然ぬるい。
シールドのリードタイムはコンマ01秒。
今度はこっちの手番。
タタンと踏み込む。
ダッキングの要領で横薙ぎをくぐり、そのまま右へ旋転。
さらに右へ飛び、突き上げるような逆袈裟を反転で左に躱す。
慣性のまま後ろへ回り込み、バックブローみたいに追いかけてくる日本刀を身を屈めやり過ごす。
下降する躰の勢いそのまま躰をもう一回転。同時にブレード生成。
腕に衝撃。遅れて刀身が相打つ反響音。
これはちょっと予想外。
防がれたらしい。刀は飾りじゃないみたいね。
だけど……!
こっちは2本ある。
刀身から伝わる反動で躰を逆転。
直後、フェイクの腕を振り上げ。
躰は右へ飛び、次に相手の刀を避けて、逆へ跳ね跳ぶ。
躰を回転させながら、渾身の力を右腕、誘われた右手がブレードを振り下ろす。
熊谷が遅れてこちらを振り向く。奴の日本刀が振りあがる。
衝突。
金属音。
腕に伝わる振動。
これは想定内。フェイクだってば。
既にあたしの躰には命令済み。
逆の手が振り上がり。
一閃。
入った!
いい感触。結構深い。
黒い煙がどくどく漏れてる。
ごとり、と鈍い音。
熊川ってやつの左腕かな。見慣れたスプラッタだ。合成視覚だから、ちょっと赤い。
いや、ちょっと待て。異様に赤くないか?
「ウェンッ!! フルガード!!」
――ッ!?
うげっ!!
なにこれ!? 爆風?
背中が痛い。吹き飛ばされたみたい。
幸いヨミのおかげでガードは間にあったけど、この背中の痛みは吹き飛ばされたものじゃない。那須って子の弾丸にやられたのだと思う。
前方をフルガードしてたせいで、後ろがお留守になってたんだ。
もっともそうしなかったら、今頃粉微塵だけど。
クソッ。煙も拭き取んでるじゃない。
「大丈夫?」ヨミからの通信だ。相変わらず不快な骨電動。「さっきの爆発はメテオラって弾みたい」
「はああ!?」
あたしは声を荒げた。
「そんなの使うなんて聞いてないわよ。データにも乗ってなかったじゃない!」
「それは確かにそうだね。こんなの聞いてない」
「あの八宮って奴、嘘っぱち教えやがって、終わったら文句いってやる」
「今言えるよ」
「はあ?」呆れるようにあたしは言う。「なんでよ、そもそも通信なんて繋がってないじゃない」
「今入電中。OK、オンライン」
『無事でよかったよ。ウェン。データが最新じゃなかったから、もしかしたらって心配したんだ。10日間遅れなんだよね』
八宮の声がした。あたしにはどうにも胡散臭く聞こえる。だいたい普段着が白衣ってのが胡散臭いこと極まりない。
「無事じゃないわよ。死ななきゃ安いってものじゃない」
自覚して、棘のある声を発した。
当然だ。
中途半端に情報を流されるのは、ある意味無知な状態よりもよっぽどひどい結果を招く。それはもう先入観や偏見と変わりなく、敵を見誤らせる一番の敵だ。あやうく犬死するところだった。こいつみたいな無能な味方が戦場で一番邪魔なの。
胡散臭い八宮のせいで、あたしは曲がる弾を避けるために、今だって転げまわっている真っ最中。焦って避けるから、無調音楽をBGMにダンスを踊らされているみたいで傍目からは滑稽かもしれない。でも、任務のためには喜んで踊ろう。
そして、必ず、報復の一閃をくれてやる。那須と八宮の両方にだ。奴らは私の宝物を傷つけた。娯楽のない遠征艇生活では、ポニーテールの手入れだけが唯一の楽しみだったのに。私の自慢の髪は弾に
『で、お願いなんだけど』
私の気持ちを露ほども慮ることをせずにお願いだと? 頭を三回地面に叩きつけて出直してからにしな。それから3回回ってワンと言え!
「ふざけないで、状況をわかってるの? 今、攻撃を捌くので忙しいから」
『だからだって。ウェンがやられる姿を見たくないから』
「さっさと要件を言え」
『8秒後にスモークを全開でお願い。できれば通路の近くに誘導してくれるとなお嬉しい。――そこの2人を消す』
「はあ? どうやってよ」
『説明は後。
「――ッ!?」
こいつ分かっているじゃない。"可能な限りさっさとやれ"、"可及的速やかに"、"事は早急を要する"。訳はお好きなようにすればいい。擦り切れるまで読んだミリタリ小説の決め台詞だ。部下と上官の関係が、これがまたいいんだ。
やっぱり、こういう場面で使うに限る。
八宮に言うのはちょっと尺だったけど、あたしは今日一番の素晴らしい声で言った。少し作りすぎたかもしれない。
「了解、最適の仕事を」
◇ ◇ ◇ ◇
「クーちゃん、再確認させてね」
視界の左下隅に映るミニマップを岬は悩まし気に見つめていた。
「ここには監視カメラも盗聴器もない。廊下の監視カメラは既にクラック済みで、あるいは壊れているし、僕たちの識別信号の欺瞞は成功している」
「そうだよ、ご主人。表面上偽ってるだけだけだから、向こうがログをあされば簡単にばれちゃうけどね」
「じゃあ、大丈夫。ウェンを助けよう」
「兄さん、そんなことして大丈夫ですか? 」
廊下を走る凪が心底不思議そうに首を傾げた。
ミニマップに映る識別信号のマーカでウェンが交戦中なのはガロプラ=キオンの皆に知れていた。
「玲や友子にばれてしまうんじゃないですか、兄さんがやったってことを。第一どうやってです? ここから結構距離ありますし。狙撃銃なら距離は問題ないですけど、廊下は曲がっていますし」
「そうだよご主人、凪の言う通りじゃないかな。そもそも助ける必要あるの? 囮なんでしょ。ご主人にとっては」
素直なところがsAIの美徳であり、それが少しの棘でもある。
「囮って……。まあ、見方によったらそうだよ。そして助けるのもまだまだ頑張ってもらうため」
「頑張ってもらうってどういうことですか」
「ほら、ちょっとこれ見て」
岬は人差し指で長方形を描き、ミニマップをAR(拡張現実) した。通常、強化現実の類は本人のみに有効であるが、岬と凪は脳内に埋め込んだ電極で視覚共有しているため支障はない。
拡大されたミニマップには多くの青いマーカがちかちかと点滅していた。それらの位置はおおよそ5つに大別できる。イルガーが出現させた西へ集まる市街地組、三叉路の本部防衛組、ハンガーの遠征艇防衛組、ウェンに足止めされている追撃組、そしてランク戦が始まるのを待っている人たち。
岬の懸念の対象は遠征艇防衛組だった。
精鋭がこれでもかと集まっているのだ。加古隊、片桐隊の一条、鈴鳴第一の村上、草壁隊の緑川、風間隊の風間、錚々たるメンバである。このハンガーにモールモッドをいくら送り込んでも、全てが瞬く間もなく鉄くずになることはボーダー隊員なら誰だって知っている。さらに悪いことに、識別信号を確認すると風間隊の残りの2人もハンガーの混戦に加わろうとしているのが明らかとなった。
まったく未来視というのは厄介な
「那須と熊谷を消して、ウェンにハンガーを奇襲してもらう」
「兄さんの狙いは分かりましたよ。でも、どうやってですか? こんなに離れてるのに、どうやって悟らせずに」
「だから今、無限複製と誘導弾の多変数化処理をしてる。向こうには煙幕をお願いしたし、上手くいけば一瞬で溶けるから」
「無限複製って、追尾弾をですか」凪は訝しむように、ふわふわと浮遊するトリオンスフィアを見つめた。「兄さんの火力がすごいのはわかりますけど、届くはずがないですよ。廊下は何回も曲がってるいるんですから。――まさか、廊下を壁ごとぶち破るって言うんですか」
「まさか、そんな荒っぽいことはできないよ。向こうにばれるし」
「じゃあ、追尾弾でどうやって?」
「違う誘導弾」
脳内のワーキングメモリで複数の軌道方程式を並列処理をしながら岬は答えた。
「今は追尾弾と書いて、ハウンドと読むのがトレンドですよ、兄さん」
「全然違う、この弾丸の本質は誘導にあるんだって。それは決して追尾じゃない」
「追尾も誘導も似たようなものに思えますけど――」
「誘導ってのはこういうことっ!」
撥ねる語尾とともに、岬は白衣に包まれた右手を突き出した。しなる右手に誘われ、弾丸が白い尾を宙に引いて飛び出していく。
宇宙戦艦の艦長が主砲を打つときにこういう仕草をするかもしれない、と凪は思った。
斉射された無数の白い球は巨大な塊となって廊下の奥へ等速直線運動で突き進む。今にも曲がり角の奥の壁に激突しそうで、実際凪はシールドを張って相殺を狙う一歩手前だった。が、次の瞬間、自らの目を疑った。
弾丸の塊は弧を描いた。
いったい何を追尾したんだ?
◇ ◇ ◇ ◇
――那須と熊谷を消すだって? 一体どうやって!?
八宮って奴は本当に胡乱で胡散臭い。
大口叩きやがって。
マップで確認したらこんなに離れてるじゃない。
しかもこの基地は侵入者を想定した造りになってるし。エルフェールが教えてくれたわ。戦国時代って頃は、城下町や城内の通路や廊下を鍵十字にしたり、わざとずれた十字路にしたり、行き止まりを設けたそうね。
この基地もそれとちょっと似てる。
長い廊下はU字に曲がってからさらに折れてるし。普通に使うには不便で仕方がないに違いない。
社員も大変そうね。
おっと、関係ない人を憂うのはあたしの悪い癖だった。
今は八宮がどうやってこの2人を消すのか考えないと。そうしないと何だか癪だわ。ただ言われたとおりに仕事をするってのは、よろしくない。それは私の流儀じゃないし、最適の仕事でもない。
そうか、お得意のテレポートってやつかも。空間跳躍して背後からバッサリって何のひねりもない技。あれで私の残像を斬ったときの彼の間抜けな表情は今思い出しても笑ってしまう。今度はヘマをしないように願いたいわ。
でも、煙幕を貼ったら目視の条件を満たさない。
なら、本当にどうやって?
とりあえず、そろそろ約束の時間。
ドグをちょろっと偏らせてやれば誘導は簡単にできたけど。
「ヨミ。ドグの
「OK。三叉路はレギーが上手くやってるから
流石は我らが聖徳太子こと、並列思考のヨミ様だ。
『ウェン、スモークの準備』骨電動イヤホンから八宮の声。あたしはどうやってこの2人をやっつけるか訊こうとしたけど、奴は構わずしゃべり続けた。『カウントに合わせて起動をお願い。あとさ、できればでいいんだけど、"あたしの技よ"みたないなことを言ってくれるとなお嬉しい。――3――2――』
なによ、その注文。
八宮は本当に向こう側にばれたくないみたいね。
いいわ、やってあげる。最適の仕事を。
今は味方だから。
モードセレクタでスモークを遠隔に。
それっ! 一斉起動。
小麦粉の入った風船が破裂するようなおよそ空気が抜けたとは思えない音が力強く鳴った。
質量を感じるほどの煙の量。
躰にまとわりついて、重いくらいね。
さあ、上手くやってよ、八宮。注文に応えてあげるんだから。
「くらいなっ! 嬢ちゃんたち」あたしは声を作って言った。そりゃもうこれが必殺技だぞって宣言するように。「これで
おっと、忘れちゃいけない。
熱観測視覚を起動。
ブゥンと起動音がなり、補正を受けた映像が展開され。
次の瞬間――
光の束が視界を覆った。
プレハブ小屋ほどの大きさの光の塊が真っすぐこちらへ飛来。
光に飲み込まれるように那須が消え、直後に熊谷も消失。
じゅっと溶けるような音が微かになり、トリオン体崩壊による黒い霧の漏出も白い塊がかき消した。
――って!? ちょっと待て、このままじゃあたしも。
光の束に飲み込まれてしまう。
無駄だと悟りながらも前方をフルガード。
前方はひたすら眩しい。
視覚支援のウインドウが見えるだけ。
<<損壊率:0%>>
はあ!? 0はないでしょ、0は!?
ここに来てトリオン体の
<<損傷率:0%>>
そんなわけないでしょ。
あの質量と無茶苦茶な威力よ。
このポンコツ!
とあたしはバグを嘆いたけど、それはバグではなく、冷静に機能していた。
紅海を割るモーセはこんな気分だったのかもしれない。
創世記さながらの光景。
あたしの前方で光の束が左右に裂けていく。
自分だけの絶対的な安全領域が築かれていた。
悔しいけど、八宮の手によって。
光の束、もとい収斂した無限の弾丸は壁にぶつかることなく、最後には細かくなって泡のように消え失せた。
射程限界ってことなのだろう。まったく見事なコントロールだ。無音の拍手を送ってやろう。
だいぶ癪だけど、八宮に感謝だ。
あたしの仕事はこれで終わらない。一刻も早く隊長に加勢しなくては。
「ヨミッ。八宮に礼を言っておいて、あたしはハンガーへ向かう」
「自分でいいなよ、ウェン」
ヨミの言っていることはまったく正しいのだろう。
見事な仕事だった。襟元のピンマイクが拾わない声量であたしの口は微かに呟いていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「げっ……」
呻きとも感嘆ともつかない声が凪の口から漏れていた。
本当に玲と友子の識別信号が消えてる。
変化弾で軌道を引いたというのならまだわかるけど、誘導弾で一体どうやって。そもそも変化弾でも見えてないところを飛ばすのは難しいとされているのに、追尾弾でどうやって。誘導弾では二次曲線が限界のはずなのに。
不審げに兄を見上げると、その手元には軌道力学に関する数式がずらずらとARされていた。こちらの表情を見取ったのだろう、「誘導弾ってのはね」と解説を始める。
得意げな声だった。
作戦室本部に向けて走りながらの解説はするほうも聞く方も楽ではなかったが、凪は兄の方程式の意味を形だけは――その功罪はともあれ――理解したつもりになれた。
端的言って、ミサキの誘導弾はスイングバイ(引力を利用して運動方向及び、速度を変更する技術) を利用していた。誘導対象は多変数化されており、第一射(加速スイングバイのために誘導対象を岬自身に設定したもの) が月、第二射はアポロ13号に例えることができる。月によってベクトル合力された第二射(誘導対象は第一射の誘導弾と那須と諸々) は廊下を折れ曲がって進む。
任意の距離進むと、算譜によってもう一つの多変数、枝狩り探索が作動した。あまりに遠すぎる誘導対象は誘導対象外と看做す機構である。これによって第一射の重力圏を抜け出した第二射は廊下を進み、再び曲がり角に到達する。
あとは入れ子構造の繰り返しだ。射程限界を迎えた第二射を利用して、第三射が進み、那須と熊谷にぶつかる第N射までそれは続く。
最後の枝狩りが終了し、探索圏内には那須と熊谷だけ。ウェンに到達しなかったのは負の誘導定数を組み込んだからだ。誘導弾も結局は変化弾と同じで、予め定められた方程式の通りに推進剤を噴出して進むにすぎない。それが直感的なものか、計算されたものかの違いだけだ。
厳密には解析学的には解けないとされている多体問題(どんなに偉い天文学者を連れてきても解くことはできない) のハードルを越える必要があったが、それは数値的にはごく近似の範囲に計算できる。sAIの助けを借りれば冷たい方程式を作り上げるのに問題はなかった。
と、兄は講義をしてくれたのだが、凪は愕然としていた。
一体どれほどの、しかもお互いに相互作用しあう多項方程式に解を与えれば、これほど複雑な軌道を描けるのだろうか。速度、誘導補正、それに誘導対象ごとの誘導強度、射程、威力、探索範囲、etcetc、これほどたくさんの変数にどうやって折り合いをつかさせるのだろうかか。想像もつかなかった。
得意げに語る兄を見上げ、それから凪は言った。
「でも、兄さんが変化弾をまともに使えたら、こんなことしなくても大丈夫でしたよね。廊下の曲がり角に沿って、直角に曲げていくだけですから」
一人称って書いてて楽しいような気がします。
感想、アドバイスをくださるととんで喜びます。正の生産スパイラルに入りたいものです。
流石ですお兄様とは死んでも言わなそう。