トリオンエンジニアリング!!   作:うえうら

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本を読んでいました。藤間千歳先生にはまっています。


07 強襲作戦結構・記憶凍結

「いざ鎌倉!」

 お気に入りの台詞でエルフェールは開戦の音頭を取った。

 開戦とは言っても、舞台はまだ遠征艇の中。

 狭いなりに整理整頓された航法室。

 内外ともミクロトラス構造で作られた広報室の壁に、3枚の投影用スクリーンが立て掛けられプロジェクタの光を受けている。うちの一枚はボーダー基地本部を真上から見下ろす俯瞰図を映していた。岬が軽くコンソールを叩くと、視点がフェードアウトして縮尺が小さくなる。

 画面は三門市の全景に変わった。町の中心を東から西へ一級河川が通り抜けており、三基の立派な橋がその川を南北に跨いでいる。2つ目の橋から北へ距離およそ10000。そこに武骨で洒落っ気のさっぱりない建物――ボーダー基地本部が鎮座していた。

 夕暮れの三門市を見下ろせば、白と黒の明暗がはっきり分かれていると見てとれる。ボーダー基地本部を中心に広がる、人家の明かりの途絶えた警戒区域内。対して人と紙幣と情報の行きかう警戒区域外。4年前の大規模侵攻から三門市は決定的に変わっていた。 

 警戒区域外の町中を、部活上がりの学生や幸運にも定時で帰ることのできる会社員らが三々五々に歩いている。ドローンの観測カメラをズームすれば、凪の通っていた高校のブレザーもちらほらと見受けられた。その校舎の10kmほど北に、この春から凪の学び舎となるキャンパスも見える。

 無関係な人たちを巻き込むわけにいかない。

 そして、何の憂いもなく凪にキャンパスライフを送らせる。

 ごくりと息を飲み込み、岬は誓約の確認を終えた。

「クーちゃん、識別信号の確認、あと表示も」

「了解、ご主人。ボーダーの隊員は八方位に散ってる。広域マップにマーカを表示するね」

「なるほど……。未来が視えるってこういうことか」

 広域マップに表示されたマーカを認めると、岬は目頭に手を当て、疲れ切った表情でこぼした。

 これから何をするかが悟られていたら、誰だっていい気分じゃない。

 現実逃避を催しそうになった岬の脳内で、性質の悪い天邪鬼が囁き始めた。

 もしここで作戦を変更してイルガーを全機基地へ突っ込ませようとしたらどうなるのだろう。

 そしたら、八方位に散った隊員全員が基地へとんぼ返りするのだろうか……? それは僕が心変わりしたから未来が変わったのか、それとも元から心変わりするように決められていたのだろうか。もしかしたら、世界って思った以上に決定論チックに動いてるのかもしれない。

 自由意志がどうあれ、結局は人が何をやっても全て迅の掌の上ってこともありうる。未来を騙すなんて大見えを切ったけど、こうまざまざと未来予知をされてしまったら気も滅入るというものだ。

 敵は人間離れしている。

 が、負けるわけにはいかなかった。この日のために作戦を練ってきたし、何より、ルビコン川をとっくに渡り終えている。自分のエゴのために負けるわけにいかない。

「広域マップのマーカにアノテーションをお願い」

「了解、ご主人。北から時計回りにタグ付けするね。ええと、太刀川、二宮と辻、小南、三輪隊、王子隊、それと迅。基地の東方向――つまり、南東、真東、北東――は迅が一人で面倒見るみたいだね。市街地付近の識別反応はこんな感じ」

「二宮、小南、迅は別にして、あとは全員弧月が扱える人選ってことかな」

「たぶんそうだろうね。ボーダーのトリガーの中で火力が出やすいし。三輪隊の狙撃手2人もイーグレットじゃなくてアイビスじゃないかな。ねえ、ところでご主人」

 sAIが疑問を言い添えた。

「風刃ってイルガーの装甲を貫けるの?」

「うーんどうだろ。パラメータ的には難しいと思うんだけど――何せ、シールドで十分なくらいだから――でも、迅がいるってことはイルガーを落とせる未来が視えているってことでしょ」

「そんな、身も蓋もない」

 未来視とはそういうことだ。

「あ、でも」思いついたように岬が言う。「もしかしたら、旋空弧月するかも」

「なくはないかもね。迅は昔、太刀川のライバルやってたみたいだし」

 話が脇道にそれながらも、広域マップには着々と情報が植えこまれていった。

 かつてボーダーに所属していた岬には容易い作業である。バックドアがあるおかげで、クラックはそれほど難しくない。ファイアウォールやセキュリティソフト等の仰々しい安全装置も、ヒューマンファクタによる誤りを考えれば砂上の楼閣に相違なかった。やることは簡単で、大抵どこの職場にもいるパスワードやセキュリティに関してズボラな社員に目を着けるだけでよいのだから。

「ご主人、これって何だか卑怯じゃない?」sAIが声を斜めにする。「自分の職場だったことをいいことにさ」

「sAIの倫理感からしたらやっぱりそう?」

「倫理はよく分かんないけど、現行法からしたら有罪だね。執行猶予もつかないと思う」

「でも、ボーダーはボーダーで記憶凍結未遂でしょ」

「もとはと言えばご主人の規約違反じゃないかな」

「規約違反したからって、人の脳に電極ぶっさすことはないでしょ」

「それはそうだけど……」食い下がるようにsAIは続けた。「でも、ご主人は客観的には犯罪者だからね。それも自分だけはうまくやると思っている犯罪者」

「うまくいくと思わずに成功した犯罪者の方が稀だって」

 ああ言えばこう言う。

「そりゃそうだけどさ」

 sAIはそれ以上からまなかった。

 ぶつくさと言いながらも、今回はたぶんsAIの方がやる気になっている。何しろこの作戦が上手くいき、千佳を≪キオン≫に差し出せば、sAIの躰が製作される可能性がぐんと上がるのだ。0と1の集まりでしかない計算に躰ができるなんて最初は思いもしなかったが、愛しい人の手を()()()で握ることも夢ではないのかもしれない。自分から離れていく愛しい人の心を繋ぎとめられるかもしれない。並んで歩いて、手を繋いで、抱きあって、こんな人並みの夢が叶うかもしれない。

 少しの犠牲に目を瞑れば。

 ロボット工学三原則、人口知性倫理五原則からの甚だしい逸脱である。時代が時代であればこのsAIは不良品を通り越して廃棄されるべき欠陥品だ。再帰的フィードバックを繰り返した評価関数は客観的には不可逆的に歪み切っている。

 もちろん当のsAIも故障品だと自覚していたし、葛藤という高級な悩みも覚えていた。

 一人を見捨てれば、N人を救えるなんてことはこの世に山ほどあるが、今回もその場合の一つだとsAIは自分に言い訳をしたし、千佳かエルフェールのどちらかが社会の犠牲になることは経済学的なサンクコストであり、それはどちらでも構わないとも言い訳をした。図書館丸々一つ分ある自己の本文(ライブラリ)から人格という索引(インデックス)で知識を無造作に並べ上げ、数限りない言い訳を理路整然と用意し、その末に全部の言い訳をちゃぶ台を返すように取っ払らい、自己の感情で決断を下した。

 結果として、依存しきった完全自律型sAI(フルスタンドアローン補助人工知能)は岬がほとんど手をつけることなく、ボーダーのデータベースを借用したミニマップは完成させた。ボーダー隊員を示す青色のマーカをタップすれば、クラックして得たデータベースに繋がり、使用トリガーやらポイントやら戦績やらが表示される。もちろん、ガロプラ側とも共有済みだったし、共有してもちっとも減らないことが情報リソースの強みだ。

 ミニマップに映る青色のマーカは基地周辺に集中していた。イベントタイマーは先ほど零からマイナスへ移り、ガロプラ組が夥しい軍靴で戦線の口火を切っていた。現れた黒色のマーカは基地に乗り込もうとしている真っ最中。大きな黒いマーカが人型トリオン兵で、小さな黒いマーカが四脚型。四角いマーカがガトリン達欺瞞組。

 ピッ、と電子音が鳴った。

 それを合図に小さな黒いマーカがボーダー基地屋上に現れる。

 猫の額のように小さい屋上を、瞬く間に真っ黒へ埋め尽くした。レギーとコスケロが上手く事を運んだらしい。

「クーちゃん、イルガーのエンジン始動」

「出来てるよご主人。いつでも最大戦速出せる」

質量子相互作用抑制装置(ヒッグス・ダリアー)の初期起動」

「OK。先発17機の質量子相互作用抑制装置(ヒッグス・ダリアー)の正常起動を確認」

(ゲート)の座標指定を広域マップに表示。誘導装置の誘因効果を忘れないように」

「大丈夫。誘因効果は相対的に減退できるから無問題だね。重力偏差も地球の曲率も何もかもが計算済み」

 sAIがそう言うが早いか、船内に電子的なSEが鳴った。広域マップの17ヶ所に大きな黒いマーカが点線で表示される。一つは基地の真上、高度500。他の16は基地から距離3000で八方位に2機ずつ。門が繋がれば、それは実線に変わる。

「曲率の同期を開始。同期率の読み上げをお願い。小数点以下は切り捨てでね。誤差±1%雰囲気が3秒以上の安定で起動」

「了解、ご主人。読み上げ開始――+10――-11――+7―――-12――+5――-11」

「いいね。絶対値は近づいてきてる。負の方向に絞って」

「了解」

 スクリーンの同期グラフはオシロスコープのように波を打った。中心の基底線が玄界の時空曲率であり、揺れる波が遠征艇に装備された(ゲート)発生装置の曲率を簡易的に表している。時空曲率というのは相対論と位相幾何学から引っ張ってきた用語だ。誰が教え伝えたか、それともアインシュタインやポアンカレが向こう側に存在していたのか、どういうことか≪キオン≫でも用いられていた言葉だ。相対論の世界、つまりミンコフスキー空間では時間を実数として扱い、空間を虚数として扱う。この導関数的文脈は時空間を実数と虚数の二軸のグリッドに描くことを可能とする。その直線、あるいは曲線の勾配は端的言って光速度に対しての時空間の座標であり、それが持つ曲率は玄界と玄界との境界接触面では僅かに異なる。

 現在はそのズレを修正している真っ最中だった。暗黒の海の天文学的に広大な面積に対して雀の涙ほどの距離もない境界接触面でさえ、(ゲート)の確立には膨大なエネルギィを要する。惑星間直通(ゲート)の難しさは推して知るべきであり、それゆえに暗黒の海の交通手段は古来より遠征艇である。

 門は便利な移動手段であるが、万能ではない。おまけに工学的な仕組みはブラックボックスそのものだった。岬にだって、ライセンス持ちの遠征艇整備士にだって、入力から出力までのエネルギィの変異を完全に理解していない。極め付けに設計主任でさえもその有様だった。

 といってもマニュアルさえあれば、高校生でも門発生装置を使用することができる。そもそも技術は便利になればなるほどブラックボックス化していく性質があるものであり、文明が進むたびに一つの工業製品に携わる人の手は増えていく一方である。一人一台持つのが当たり前になった個人端末でさえ、石油の精練方法からカバーの研磨方法、さらにはOSの設計まで全てを知り尽くしている人物は一人だっていない。およそ現代の多くが高度に専門化された技術の結晶であり、寄せ集めだった。

 ブラックボックスでも要は上手く使えればいい。物理法則云々が気にならないはずはなかったが、岬は楽しみは後にとっておく性質だった。

 指は『起動』のスイッチに置かれ、今か今かと震えながら待っている。

「――+4――-2――+3――-1――+2――-1――0」

 sAIの合成音声が淡々と読み上げた。

 波の振れ幅は次第に小さくなり、基底線に収斂していく。

 境界接触の可視化だった。

「――+1――0――0――0――0――曲率同期」

「同期確認」

 声を上げ、プラスチックのカバーを開き、赤色のスイッチを押し込む。

 どん! と突き上げるように船体が揺れた。イルガー放出による質量減がその原因と、岬は判断した。質量子相互作用抑制装置(ヒッグス・ダリアー)とはいえども、イルガーの大質量全てを消失させることはできないのだろう。

 スクリーン上に現れたのは黒い大きなマーカ。予定通りそれが17個。

 ボーダーの隊員を示す青いマーカがイルガーを追いかけるように散っていった。

 岬はイルガーを手動操縦モードに切り替える。

 画面いっぱいにHUDが広がった。

 

 

 視界がぐるんと折れ曲がり、急遽地上を向いた。

 姿勢指示器はスロットマシンのようにぐるぐると回転を続ける。

 イルガーのきりもみ急降下だった。

 上も下もない。

 アラートが鳴り、『制御不能』の赤文字警告(レッド・アラート)が画面を覆う。

 地上とのキスは避けられそうもない。

 かつてはミニチュアに見えた家々が急速に大きくなる。周りの景色は飛ぶように流れ、明かりの消えた一軒家が視界いっぱいに広がる。

 音声こそなかったが、自殺の方法で投身は選ばないと岬は誓った。

 スクリーンは全面砂嵐。

 通信は途絶えていた。

「轟沈! 轟沈しちゃったよ、ご主人」

 sAIの自然で人口的な慌て声を聞き、岬はそっちもかと肩を落とした。

「悪魔か太刀川は……。こっちは二宮にやられた。イルガーの横っ腹がハチの巣」

 役目をまっとうしないまま、瞬く間に2機が落とされていた。イルガー1機のお値段を考えると、太刀の一振りで落とされることが割に合わないと嘆きたくなる。≪キオン≫王都に土地ごと家を買えると思うとぞっとしなかった。

 それ以上に舌を巻かされたのは彼らの技量だった。個人ランクで1位2位を争っている人たちは戦闘に対してのセンスが尋常ではない。自爆シークエンスに入ったイルガーを弧月や通常弾(アステロイド)性能限界(スペック)で落とせるはずがないのだ。

 個人の技量が武器の性能を凌駕している。弧月や通常弾(アステロイド)のパラメータとイルガーのパラメータを見比べれば、岬はそう称賛を上げざるを得なかった。

「訊かせてもらうけどさ。通常弾(アステロイド)でこんなことできるの? 」

 sAIがヘッドセット越しに言う。僅かな期待と切望、それと大きな諦観が含まれた声音だった。

「ご主人も一応射手でしょ。ご主人の通常弾でイルガーの装甲破れる?」

 僅かな期待というのは自らの慕う人が強くあってほしいという幼心であり、大きな諦観というのはそのままの意味――つまりその希望は果たされないことを既に知っていることからくるものだ。

 岬の返答は案の定だった。

「まさか」諦めるようにハンズアップをする。「徹甲弾(ギムレット)すらできないのにどうやってよ」

「ああなるほど。二宮は合成弾つかったのね」

 sAIはワンテンポ遅れて理解を得た。それから再び、僅かな希望を込めて言う。「じゃあさ、ご主人は徹甲弾(ギムレット)以外の合成弾ならできるの?」

「できるよ。……ラーメンが作れるくらい時間をかければね」

「お湯入れて30秒でできるタイプ?」

「きっかり3分が好みだから」

「ご主人? それ、使えるとは言わない」

 sAIは素直であり、ジョークをジョークで返すほどユーモアがなかった。

 はっきりと真実を突き付けられた岬は降ろしたてのように真っ白い白衣が床に着いてしまうほど肩を落とす。非力は自分が誰よりも認めることだが、突き付けられ、改めて自覚した。

 思えば、この作戦自体が無謀な試みかもしれない。誘導弾も弧月も6500に届かない似非(えせ)オールラウンダーがボーダー全体に歯向かうだって? 冗談もほどほどにしたほうがいい。変化弾(バイパー)の軌道を即時的に描けるわけでもなければ、合成弾すらまともに撃てない奴が巨大な組織を相手にしようとしている。

 ゴリアテに立ち向かうダビデの絶望感も今なら分かろうというものだ。我ながらばかばかしいと岬は投げなれた(さじ)(ほう)った。

 そう嘆いている間にも、別のスクリーンに映されていた景色がぐるんと折れ曲がる。

 ジェットコースタもびっくりの急角度だった。

 レーダによればやったのは小南。

 胴部を一刀両断する見事な太刀筋であり、これも岬にはないものだった。

「クーちゃん、太刀川方面の残った一機を手動(マニュアル)操縦で操作お願い。質量子相互作用抑制装置(ヒッグス・ダリアー)を全開にしていいから、5分だけ持たせよう」

「OK。4機くらいなら手動操縦できそうだよご主人。残りはランダム回避行動させる」

「それでいこう。一度市街地の上に飛び上がればこっちのものだからね。撃ち落されても残骸が生じるだろうから、そうそう手出しはできないはず。こっちは小南方面の残った一機を操縦する」

 

 レーダ・スクリーンに一つ光点を認めると、岬は絶望的な気分になった。あんなに離れていたのに、もう真後ろにつかれている。高度にしたって低くない。ここに東京タワーがあれば、天辺が眼下に見えてもおかしくない高さだ

 どうやら小南は高所恐怖症じゃないらしい。

 正確な距離を得るべく、HUDカメラを後方に切り替える。

 禍々しい死神の大鎌が死を予感させる鮮烈な光を放つ。そんな錯覚を覚えた。

 宙に散りばめたグラスホッパーをテンポよくリズミカルに踏みつけて、小南が急速接近中。距離は縮まる一方で何か手を打たないと真っ二つになることは明白だった。

「クーちゃん、これ何とかならないの。このイルガー原チャリよりも遅い」

 速度計を見る岬の表情は焦燥を浮かべていた。

「ご主人、駆動系にアラート出てる!」

 イルガーはもはや、羽を生やした巨大な風船だった。

「くそっ、さっきのメテオラだ。これ何とかならないの?」

「こんな大きな物体が飛んでるだけで奇跡なんだってば、ご主人!」

 まったくその通りだ。逃げるよりも撃退を選ぶべきだろうか。

「空対空兵装ってなかったけ?」

「設計思想が爆撃機なんだよ」

「背中に装備された射撃トラップは?」

「砲身が内向きにしか曲がらないから使えない」

「なんだってそんな仕様なのさっ!」

 岬は叫んだ。ここに設計者がいたら改善案の一つや二つを数十の文句とともに叩き付けている。

 その射撃トラップはイルガーを切り伏せようと背中に乗ってきた敵を排除するための迎撃装置ではあるが、小南や太刀川はそんなまどろっこしいステップを踏まないことは既に鉄くずと化した2機が証明してくれた。彼らは通り抜けるように一太刀を浴びせるだけであり、そうとなってはもはやトラップはこちらを縛る重石でさえある。

「≪キオン≫のお偉方に提案してみたら? 空対空兵装が採用されるかもしれないよ。少なくとも射撃トラップよりはマシだと思う」

「ボーダーに記憶が消されなかったらね」

 悪いジョークだったが、sAIは取り合わない。1.5倍速の合成音声が返ってきた。

「市街地まで安全な空を旅をお願いね、ご主人。――一旦切るよ、こっちは4機も操縦してるから作業記憶(ワーキングメモリ)が足りない」

 プツリと途切れ、ヘッドセットは何も言わなくなった。

 少しの加速にも役立たないやり取りをしている間に小南が迫っていることは半ば必然的であり、大斧は既にイルガーの船尾に届きそうである。

 岬は高度を下げて加速を得ることを選択した。無理に上昇への舵を切れば、速度を失いかねない。

 スロットルを倒し、機首を下げ、同時に質量子相互作用抑制装置(ヒッグス・ダリアー)をOFF。

 大質量の落下を左右対称6枚の複葉でコントロール。

 ラダーを切り、不格好なスプリットS反転。

 イルガーの高度がみるみる下がる。

 半ラダーで微修正。

 機首は水平マイナス4度。

 岬は眼下をにらみ、東西に走る幹線道路の一つに目標を定めた。

 地表が急速に迫る。そのレース織りのような模様は、みるみるうちに縦横に走る道と敷地に分離し、次いで歩道と車道、街頭、道路標識、屋根と壁と窓、門柱や垣根や電柱になった。風景が近いところからぶれ始め、あらゆるものが前方の一点から手前に、放射状に飛び去ってゆく。

 

 質量子相互作用抑制装置(ヒッグス・ダリアー)はイルガーを飛ばすためのテクノロジィだ。横長の小学校くらいの体積が空を自在に飛ぶのだから、中身が空洞でないかぎり、玄界のテクノロジィでは不可能であり、ないしコストパフォーマンスが悪すぎて企画にも上らない。巨大空中空母なんてSFの読みすぎだ。

 もちろん、イルガーの中身は空洞ではない。その実用化にあたって、物体の動かしづらさ、つまり質量による影響を軽減させる機構が必要とされた。大戦を前に控えた当時の≪キオン≫軍部はマンハッタン計画のようにあるいはブレッチレーに学者を集めた英国の如く、人材を掻き集めることに奔走した。結果、有力七諸侯やその系列大学から引っ張り出された、気難しい本の虫や図書館の主、人間よりも機械と話すことを好む偏屈が一堂に会することとなった。

 ≪キオン≫技術者の狂気の結晶である質量子相互作用抑制装置(ヒッグス・ダリアー)は戦争を変え、遠征による戦闘を一方的な略奪へ様変わりさせた。制空権を握ることが勝利への至上命題であることはWW1以来の常識であり、体系的な戦史は古今東西変わりなく、暗黒の海に包まれた惑星国家群でも同様だった。イルガーは当時の先端技術の粋であり、空から地上を灼く機械の群れを邪魔する(すべ)は何一つなかった。英雄的な強さをみせるイレギュラーを除いて、空飛ぶ爆撃機に敵はない。

 が、玄界にはイレギュラーが勢ぞろいしていた。

 グラスホッパーで空中を駆け回る縦横無尽の無限の軌道は狂気の域に達している。空中に浮くトランポリンを蹴って、別のトランポリンを再度空中で蹴ることの難しさを想像してみるとよい。おまけにそのトランポリンの大きさは文庫本サイズときたものだ。中国雑技団にだってできやしない。

 その狂気を可能にする女子高生が後方距離30で大斧を軽々と担いでいる。

 シールドを張って迫る小南は迷いがなく、その空中機動一切の狂いはない。

 空気を震わせる高振動の大斧は夕焼けにさえくっきりと、テールランプのように橙の筋を刻んでいる。

 グラスホッパが展開され、

 小南は弾み。

 光が閃き、

 小南は跳ぶ。

 右へ左へ。

 上かと思えば、

 さらに上へ。

 アタッカー3位ってのはこういうことだ。

 鋭い角度でグラスホッパを蹴って。

 踏みつけて、

 急降下でイルガーに迫る。

 双月の発熱光が橙の線を一段と色濃く引いた。

 急降下中でさえ小南は躰を自在にコントロール。

 岬はトルクで機首を修正。

 だめだった。

 空気制動だけじゃ全然足りない。

 大斧を肩越しに構え、獲物狙う鷲の如き急降下で迫りくる小南。

 身の丈以上の双月が大きく振りかぶられ、

 突然、白い立方体が岬のHUDを覆った。

 真っ赤に弾け、

 直後に大きな縦揺れ。

 メテオラだ。

 粉塵と火を噴く金属塵で岬の視界はいまひとつ。

 このままじゃまずい。

 気づいた時には真っ二つってのじゃ最悪だ。

 幸い制御系に異常はなし。でも駆動系はお陀仏。

 その他にちらほらとアラートはあるけれど今は無視。

 早く煙を抜けないと、早く。

 フルスロットル。

 18気筒エンジンが身を焦がして吹き上げる。

 半ラダー。

 巨体を無理やりスナップ。

 視界は右へ90度。

 煙を抜けると、小南は――目と鼻の先!?

 強い縦揺れ。岬の視界が上へ跳ね、反射するように急降下。

 HUDは緊急警告(レッド・アラート)の嵐。

 イルガーの船尾が切断されていた。視界の隅に無残に落ちていく尾翼がこの機体を運命を暗示するようだ。

 燃料系は幸い要修理要請(イエロー・アラート) 

 岬は決断に迫られていた。

 間に合うのか。

 というよりも、大丈夫なのか?

 強制起動なんかして。

 ボタンをクリック。

 <警告:チャージが完了してません。このシークエンスは実行できません。>

 クリック。

 <警告:チャージが完了してません。このシークエンスは実行でいません。>

 クリック。

 <警告:チャージが完了してません。このシークエンスは実行でいません。>

 このポンコツッ!

 ええい、かまうな。

 管理者権限で実行――クリック。

 その瞬間、質量子相互作用抑制装置(ヒッグス・ダリアー)に大電流が注がれたその瞬間、岬の視界は溶けた。

 高度指示器は4桁を示し、小南はすでに豆粒のように小さい。

 

 高度を上げてからは快適な空の旅となった。気を付けるべきは狙撃銃と迅の遠隔斬撃。もっとも後者は対処の仕様がなく、既に2機落とされてしまった。機翼のジョイント部を狙われたのだ。おそらく腹部に予告線を走らせたのだろう。そこから浅い角度で斬撃を発生させたに違いない。見えるところ全てを斬れるだなんてて敵に回したらお話にならなかった。

 それでも、どうにか6機は生き残った。

 岬は手動操縦に切り替えて、市街地をロー・パス。イルガー頭部に装着したカメラが相対的に大きくなった家々を捉えた。人々は慌てふためくのが8割、残りの2割は個人端末を向けてきた。

 ここで待っていれば嵐山さんや出水さんが助けに来てくれるに違いない。「大丈夫かい? お嬢さん」なんて言われて、そこから恋が芽生えるかもしれない。

 ボーダーはある意味でアイドルであり、彼らのファンは少なくなかった。イルガーはかつて重傷者を出す被害をもたらしていたのだが、どこにでも――箍の外れた自分の身さえ顧みない――ファンは一定数いるものだ。

 岬はお気に入りからSNSのアプリをスタートした。

 案の定のタイムライン。

 飛び交うイルガーの群れがアップロードされていた。ハッシュタグで『#ボーダー』を検索すると、ボーダーに対しての批判が4割、それへの再批判が4割、そんなことより那須さんが御降臨なされるかもしれないぞ! 皆カメラを持てい! が2割だった。

 愉快、愉快と岬はつぶやきそうになったが、危うく指を止めた。後ろからの気配に気づいたのだ。

「不謹慎ですよ、兄さん」

 いつの間にか、岬の肩越しから個人端末を覗き込んでいた凪がトーンを一段落として言った。

「私たちが上手くことを運んだら、千佳ちゃんが死んでしまうのに」

「……分かってるよ。でも上手くいかなかったら、エルが死んじゃうし――」

「ついでに兄さんの記憶も消し飛ぶ」まるで合いの手のように、凪は間髪を入れなかった。

「凪もボーダーから除隊」

「で、兄さんは無職」

「バイトしてでも大学だけはいかせてあげるから」

「私のことはいいんですよ。でも、兄さんのことが心配で。私には兄さんしかいないから」

 掛け合いのようにリズミカルな告白だった。

 岬は一度言葉に詰まってから、妹の目を見ずに質問で返した。

「凪は記憶が消えてもまた遊んでくれる? ゲームとか、ボードゲームとか、しりとか」

 失敗も視野に入れた、後ろ向きな質問だ。

 仕方がない。思い返してみれば、楽しい記憶のほとんどが妹と一緒に遊んでいたときのものだ。それがどのような種類の感情なのかは置いておくにして、凪との遊びが常に優先順位のほとんど一番上を占めていた。半年前から24時間を共にしているsAIとの生活も喜びに満ちていたし、エルフェールに引っ張りまわされた2週間もエキサイティングだったけれど、思い出の大半を占めるのがやはり凪のことだった。

 記憶凍結されるのがボーダーに関する記憶だけとはいえ、この一年間、ひいては凪がボーダーに入ってからの3年間、もっと言えば≪キオン≫に飛び立つ直前の告白、これらの思い出が消失するとなれば、正常でいられる自信がない。

「フラグですか? 縁起でもないことを言わないでください。それに、答えはいいえです。」

 氷よりも冷たい言葉だと、岬は思った。妹の顔を見るのが恐ろしく、目を背け口を噤んだ。

「記憶がなくなるってことは、それはもう兄さんじゃありませんし。だから、たとえここで私がはいって言ってもあまり意味はありません。記憶がなくなるっていうのはそういうことじゃないですか」

 いいえと断られたことに少なからぬ動揺を覚えた岬だったが、すぐに得心がいった。冷え切った心臓はやや早や回しで正常運転を取り戻しつつある。

 たしかに凪なら、記憶のなくなった自分の隣で一緒にテレビゲームをして、ボードゲームをして、100本先取のテトリスを夜が明けるまで繰り返し、肩を並べてホラーゲームをしてくれるだろう。時には≪キオン≫であったみたいに、キスをしてくるかもしれない。けれど、そいつは自分じゃない。

 そこに今の自分はいない。

 記憶の連続という自己の同一性の絶対条件がどうしよもなく吹き飛んでいるのだ。今の思い出を持っていない人が凪と仲良すると思うと、胸の奥がチリチリと焼け付いた。

 自分の躰に嫉妬を向けるのは馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、それでも、それはやはり寝取りではないだろうか。

 凪を取られるのだけは耐えられない。要は絶対に成功させなくちゃいけない。

 妹は焚き付けてくれたのだ。見上げてくる凪の表情は、不思議と嬉しそうに微笑んでいた。

 嫉妬させたがりという奇特な独占欲を妹が持っていることに、岬はうすうすながら感づいていたが、まさか今の自分を含まない自分自身に嫉妬するとは思ってもいなかった。凪は心の中を見透かしたように少しだけ赤みの差した頬を緩めている。

 自然と手は繋がれ、口は言葉を紡いだ。

「さあ兄さん、少し不謹慎ですが、一緒に遊びましょう」

「これからもずっと遊べるようにね」

 




鈍足展開に自分でもびっくりです。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
文章を書くのが楽しいのが一番だと思っています。久しぶりに一文の長い文章をたくさん書きました。ここで何を言っても予防線になってしまうのですが、評価を気にせず書きたいものを書いています。

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