ボーダーに銀行の口座を差し押さえられていたらどうしようか。サラ金に頼るしかないかもしれない……。『界境保護機関』――通称ボーダーは超法規的な組織だ。公然と施される記憶凍結といい、公立学校との提携といい、奴らなら差し押さえくらい平気でやりかねない。
悪い想像がマイナンバを入力する岬の指先を震えさせた。
ATMを前にして目を瞑り、祈るように両手を合わせる。
『しばらくお待ちください』と、音声案内の淡々とした声。
作動音が終了し(この時点では紙幣が吐き出されているか分からない)、岬はゆっくりと目を開く。
不安は全くの杞憂だった。20人の諭吉は折り目正しく現れる。
人々の記憶を簡単に消すボーダーとはいえ、個人の日本銀行券には手を付けられないらしい。だが、ボーダーのスポンサーである三門銀行に預けていたら、結果は違っていたかもしれない。
空恐ろしく思う岬であった。
それと同時に、7人分の衣服と食事代は高くつきそうだな、と脳内のソロバンが囁いてきた。
週休2日(もちろん完全週休2日ではない) の勤務体系で、1日20時間働いていた岬でさえも決して楽な金額ではないだろう。とはいっても、≪キオン≫にいる間の衣食住はエルフェールやサエグサに助けられていたのだから、そのお返しと思えば、お金にけちけちする理由はない。
むしろ、≪キオン≫のみんながどんなふうに玄界を楽しむのか、それ自体が楽しみですらある。
足取り軽くATMを後にした。
銀行を抜けた途端、岬の目は点になった。
あってはならない光景が広がっている。
というよりも、想像してしかるべきだったかもしれない。時代錯誤的なエルフェールの服装に、眩い輝きを放つ豊かな栗色の髪。ドレスを身にまとった彼女が人を惹きつけないはずがなかった。
岬は血相を変えて走り出す。
自らの無策を呪いながら。
「ミサキー! 見てください」手を振って迎えてくれたのはエルフェール。
その周囲に人だかり。
パシャパシャとシャッタの降りる音。
彼女を二重三重に取り囲む個人端末の群れ。
それを支える腕、腕、腕。
まるで事情を分かってないエルフェールは満面の笑みを辺りに振りまいていた。
「読モデビューですよ! 雑誌の一面を飾るんです!」ぴょんぴょんと跳ねて一層の笑顔をこちらに向ける。人だからりからエルフェールの頭だけが飛び出し、栗色の髪は相変わらずさわがしい。「これが王女のカリスマですね!」
カクテルパーティ効果とでも言うのだろうか、岬には彼女声だけが聞こえていた。
だが実際には、ざわざわと賑やかな声がエルフェールを包んでいる。岬が撮影は禁止と叫んでも、人だかりが大きいせいで聞こえていないのか、それとも聞こえていないふりをしていうようだった。
「コスプレだ! コスプレ」
「シンデレラ! シンデレラがいる」
「なにあの黒の組織。麻薬とか売ってそう」
「ツイッター、ツイッターに上げよう」
血の気が引いていくのを岬は感じた。路上撮影=読者モデルではない、なんて悠長なツッコミをしている暇はない。敵が人づてに未来を読むのだから、人間関係のネットワークにおけるノードとピアは少なければ少ないほど都合がよいのだ。作戦を決行する前に目立つなんてぞっとしない。「今日あたしぃ、隣町でこんな面白い人たちを見たんだよー」とお喋りされたり、ネット上にアップされたら全てがご破算だ。
さて、どうやって切り抜けよう?
肖像権に訴えるべきだろうか。いや、現代の日本では、肖像権の地位は労働基準法の遵法意識と同じくらい危うい。
では開き直って、映画の撮影ですと定番の手を使おうか。だめだ、それこそ逆効果。
岬があれこれと逡巡しているうちに、群衆は――全ての群衆がその性質を持つように――エスカレートしていた。
集積したものはそれだけで本質的だ。
「キャッ!? 破廉恥ですね。下からなんて」
「おいおい、ねえちゃん、外人か? こっちの文化を教えてやるぜ」
「やめてください。触らないでッ。――ヒィッ、イヤッ! ミサキッ! ――ヒィイッ、エロ同人みたいにィ」
聞こえてきたのはエルの悲鳴。
心が急速に沸騰した。
自分が殴られたって、こうは熱くならない。
人込みにもまれることも気にせず、岬は分け入っていく。
ねじ込むように躰を前へ投げだし、おしくらまんじゅうの中を進む。
白衣がぼろぼろになった頃、その手につかんだのはエルに触れる汚い手だった。
捻って引きはがし、返す手で個人端末を取り上げる。
「ミサキ……」
安堵半分、恐怖半分の声。
雫を浮かべた瞳が見上げてくる。
黄色と白のドレスは少しはだけ、肌色が僅かに露出していた。
トリオン体に換装すればこんな人込み何でもないはずなのに、エルは自分との約束を守ってくれたのだ。トリオン体になったらその反応をボーダーが捉えるかもしれない、だから結構まで起動しないという約束を。よっぽど怖かったろうに。ここでは王女様ではないのだから。
「僕のツレなんで」
心の高ぶりとは裏腹に冷え切った口調で岬は言った。
「乱暴なことはやめてください」
「てめっ、痛えじゃねえか」
腕をひねられた男は声を荒げた。見れば、腕を掴んでいるのは白衣のひょろいのっぽ。口調もこの期に及んで丁寧語ときている。カタギの人間だろう。
最近治安の悪くなりつつある三門市周辺で裏路地活動をしているこの男にとって、こんなでくのぼうは拳一発で十分だった。久しぶりに暴れてやるのも悪くない。ぎりりと指に力を込める。
「ただじゃ済まさね――ふがっ!?」
男の口に個人端末が返却されていた。できの悪い郵便受けのように中途半端な入り具合。
「ほらエルッ、手だして。行くよ、電車に遅れる」
「ミサキ、こういう時はお姫様抱っこじゃないですか」
「置いてくよ」と岬。握った彼女の手をぐいっと引張り抱き寄せた。「個人端末を食べたくなかったら道を開けてください。電車に遅れてしまうから」
それだけを残して、逃げるかのように走り出す。
幸い黒づくめの自警団は取り囲まれるほど注目を集めていなかった。男女の差が理由なのだろう。サエグサを先頭に彼らも岬を追う。
角を曲がり、ビルとマンションの間――裏通りへ。
排気ダクトをくぐって、側溝を跨ぎ跳ぶ。
室外機を横目に通り過ぎ、腰を折って吊るされた洗濯物をくぐり抜ける。
コンクリートとトタンの迷路だった。
非常扉を10枚ほど通り過ぎ、光が差したと思うと、自動車と自転車の行進が視界いっぱいに広がった。クラクションが鳴り、信号機から漏れるとおりゃんせ。
三門市の隣、中核衛星都市六日町市。4年前から空間と時間の価値――つまり地代と人件費――が高騰した都市である。初めからここに出られたらよかったのだが、隠密潜航とはいえ
目の前に広がる初めての光景にエルフェールらは目を丸くしていたが、岬は彼らを引っ張り、なおも足を走らせる。
向かう先はブティックが軒を連ねるファッションデパート。
雪崩れ込むように入店。
自動ドアが開き、
「ミサキッ! このドア勝手に、ほらっ、ほらっ、見てください! 何度でも閉じたり開いたりっ!」
叫ぶエルフェールは跳んだり跳ねたり往復を繰り返す。
さっきのようなことがあったら玄界を嫌いになってしまうのでは、と岬は心を細らせていたが勘繰りのし過ぎだったらしい。
胸をなで下ろしていたのだが――
「こんなの初めてです! お城に持って帰りたいですね、この扉。 値段はやっぱり張るのでしょうか? ――すみませーん、この素晴らしい扉は売り物でしょうか」
鏡みたいに磨かれたデパートの床に、額を抑える岬が映った。
「ミサキ!? この階段勝手に動いています! 飲み込まれるステップの部分がなんだか怖いです!」
「ミッ、ミサキ!? 何で中にもない箱の前に人が並んでいるんですか。――なるほど、エレベータというのですね。中に入った人は原子にまで分解されて、任意の階の出口で再構成されると、なるほどなるほど」
「ミッ、ミサキ!? 人形が服を着ています! これが玄界人特有の何にでも魂が宿っているという考え方ですね! 何しろ八百万ですからね、私感動しました! ――えっ!? 商業用!? マネキンと言うのですね。まあ、たしかにあった方が便利そうですが……。≪キオン≫に帰ったら、こっちでもやったらどうかと大臣に言ってみましょう!」
「ミサキッ! 服が、お洋服が山のようにあります! 知っていますか、女の子のショッピングのパターンは大体3つに分かれるんです! 一つは本命を真っ先に。一つは本命を最後にとっておく。最後は、本命を既に決めていながらあちこちを見て回るパターンです!!」
栗色の髪を羽馬のように騒がせて、エルフェールは陳列棚へと駆けていった。
どこか浮世離れ、常識踏破なお姫様だと思っていたが、たくさんの洋服の前では一人前の女の子になるらしい。
最後のパターンは御免だと、岬は額に手をあてた。
立春を過ぎたとはいえ、まだ肌寒い。冬型の気圧配置が続き、北北西に発達した低気圧。歩くたびに冷たい風が頬をなでる。
岬と凪は手袋を手放せずにいた。一方スノリアのみんなはマフラーや手袋をするほどでもないといったふうに、穏やかな気候を味わっているようだ。
雪がないってのは素晴らしいと口々に言う。
一年中雪に覆われる≪キオン≫の気候と比べれば、夏同然、あるいはそれ以上に暖かいのかもしれない。
そうであっても、玄界の冬物(あるいは初春もの) コーディネートは≪キオン≫出身の彼らに快く受け入れられていた。
同様に洋服も彼らを受け入れているようで、有体に言えば着こなしている。岬がコーディネートしたわけでもないし、彼らが自分で服を選んだわけでもない。1人頭2万円で見繕ってくれとお願いすると、店員さんが快く了承してくれたのだ。女子に服を選ばせると時間はいくらあっても足りない。エルフェールはぷくっと頬を膨らませていたが、岬にとっては都合がよかった。
おそらく岬やエルフェール本人が選ぶより、大分見栄えが良いのだろう。彼女の身を包む藍色のワンピースコートは栗色の髪を一層引き立て、振り返る人が後を絶たなかった。でももしかしたら、黒いサングラスと大きな白いマスクに振り返ったのかもしれない。
「ふふふ、知ってますよ。これが定番の潜入用コーディネートですよね!」
予習は完璧ですよ、とチロリとサングラスを上げる。彼女の目に改めて玄界の景色が飛び込んできた。――すごい! すごいですよ! マンガや小説でしか知らない世界が目の前に広がっています! 自動車に信号機にファミレスにコンビニ! お城よりも高いビルの群れ。登ったらとても気持ちがよさそうです!
好奇心が目を輝かせた。
今すぐにでもはしゃぎだしたい、と表情がにやける。
よっ、ほっ、はっ、と元気のよい声を岬は
子供のようにお転婆なエルフェールがまったく嫌いじゃなかった。快活な笑顔を見ると、もっとたくさんの素敵なものを見せたくなってしまう。20歳を超えてもずっとずっと。
一方、スノリアの自警団は少し緊張気味だった。
歩幅はやや狭く、きょろきょろと辺りを見回す。
借りてきた猫がひどくおとなしくなるように、それは未知に対する怯えなのかもしれない。彼らが失敗すれば彼らの王女様の命が危ないのだ。緊張の一つは仕方がないのかもしれない。
(それにしても……恰好はそれぞれの個性がよく出ているのだから、もう少し堂々とした方がよくないだろうか……。あの王女ほどとは言いませんけどね)
内心で毒づき、凪はもう一度スノリアのみんなを見比べた。
――やっぱり、悪くない。と独り言ちる。
雪だるまを崩した帽子がポイントのカワカッコイイ系でまとめたサシャ。いかつい黒のジャンパのクラウダ。寒色系で落ち着いた印象を与えるサエグサ。黒のモード系で統一したノルン。
後ろ指をさされない程度にはさまになっている。
もっとも、7人で固まって行動したらどうしても目立ってしまうだろう。
予定通り、わいわいと昼食を済ませたのち、遠征艇補修班と物資補充班に分かれた。
◇ ◇ ◇ ◇
遠征艇補修班とは岬とsAI(補助人工知能) 、つまり一人と一機のことだった。
むべなるかな、工学の心得があるのは岬だけであった。多少の寂しさを覚えたが、凪に比べればいくらかましだろう、と心を慰める。今頃異国の王女や友人たちに振り回され、デパートを右往左往しているに違いない。
エルフェールと仲良くお買い物ができるだろうか。復路の食料や水分を無事に補給することができるだろうか。職務質問されないだろうか。
一抹では済まされない不安が過った。
だが、あちらを心配してばかりもいられない。こちらの先行きも十分不透明である。
はあとため息が漏れる。
ひんまがった配管の山に囲まれ、岬は途方に暮れていた。燃料系と動力系、操縦系をつなぐパイプの3割がいかれてしまっている。炭素循環系のパイプが無事だったのは不幸中の幸いだった。ここが狂ってしまうおうものなら、遠征艇の二酸化炭素濃度は簡単に2桁になっていただろう。
このありさまで暗黒の海へ飛び立てば空中分解必至だった。今でさえ姿勢制御用バーニアの燃料――ヒドラジンが漏れ出している。それが空気に溶け、にわかに白煙が生じ、少しの刺激臭が漂っていた。
幸いにも補修用具はある。情報と技術の見返りに、ガトリンが予備の燃料と補修用の配管をくれたのだ。この施しがなければ、ボーダーの遠征艇を略奪しようとさえ岬は考えていた。
右手にはアーク溶接機が握られている。
アークによって発生する熱で母材を溶融状態にし、溶かした金属を補充しながら固めて接合する方法がアーク溶接である。溶接機から伸びる炭素棒と溶接棒の間に電位差を与え、電極間に放電を起こし、強い光と熱を発生させる、という仕組み。
電力の供給源は遠征艇に装備されているトリオン≒電力インバータ(逆変装置)。目元にかかる溶接用遮光グラスで、岬の視界は僅かに緑がかっていた。
準備万端である。
だが、岬の手は様々パイプを掴んだり離したりを繰り返し、歪んだジャングルジムを作っていた。なかなかどうして、作業に取り掛かれていない。
「ご主人、これって典型的な計算性複雑の問題だよね」sAIがヘッドセットから言った。「計算量がすぐに発散しちゃう」
ナップザック問題だな、と岬は思った。それは古典的な数学の問題で形や大きさの異なる立体を最大限に詰め込むかをどうするかを問う。
配管の継ぎかえは、これよりずっと複雑だった。長さと重量と容積の制限に加えて、折れ曲がった配管の通り道を考慮する必要もある。耐油性や耐薬性、免震性等の強度も一つの制限であり、様々な変数を加味した上で全ての系をつなぎ合わせなければならない。
ナップザック問題のアルゴリズムは全探索法で解くこともできないことはないけど、NP困難な問題でこの変数量だとすぐに発散してしまう……。
岬はそう思い、駄目もとで頭の中にいくつかの配管パタンを描いた。
案の定、長さが足りず、肩を落とす。“長さ”で深さ優先探索をしてみたが、今度は耐油性がOUTになり、ついでに配管経路もかち合った。
「クーちゃんこういうの得意でしょ。何とかならない」
「今の僕の媒体は個人端末だから難しいかな。ざっと見積もって最適解まで8日と3時間かかりそう」
「そんなにかかるの」
「全探索するとしたらね」
「遠征艇の航法コンピュータは使えない?」
「軌道力学に専門化されているから難しい」
「もういっそ計画を変更しちゃってさ」空元気に岬が言う。「遠征艇ごと略奪しよっか」
「それを寄越せ。このでくのぼう」
唐突に若い声が響いた。岬の手から溶接機がもぎ取られる。
つかつかと声の主が歩き出すと、切りそろえられた薄い金色の髪が揺れた。左手はくの字に折れ曲がった配管を握っている。目元にかけられた遮光ゴーグルはとこどころが擦れており、年季を感じさせた。そのゴーグルを留めるバンドは中間で一度途切れ、別の布で延長されている。
若い声の主――レギンデッツは配管の始点に歩み寄り、バチバチと黄色のアーク炎を散らし始める。ネックになっていたバーニアと補助燃料を結ぶ配管だ。溶解され融着し、機関と機関がみるみる息を吹き返していく。
「おい、八宮。循環系のパイプを全部外してこっちに持ってこい。ばらしてつなぎ変えなきゃ足りない」視線を溶接部から逸らさずにレギンデッツッが言った。「ぼーとっつったてんな。早くしろ」後ろにも目がついているのかもしれない。
「ちょっと待って、何でレギーがここに。あと、本当にその溶接の手順で全部つながるの? アルゴリズムの根拠はなにさ」
「試合に勝ったからってレギーはやめろ」ゴーグルを上げてレギンデッツは怒鳴った。「隊長が計画を一部変更するって言うからオレが伝えに来たんだ」
「じゃあ修理は何で? それにまだアルゴリズムについて何も説明してない」
岬はレギンデッツの手元を注視していた。
レギーの手並みは鮮やかだけど、それでも、彼の作業手順でナップザック問題が解決するとは思えない。
「別に隊長の命令でも、てめえらが心配ってわけでもねえ。てめえの運転が酷すぎて船がかわいそうだったんだ。アフトやキオンは物のありがたみを分かっちゃいない」
「だから、アルゴリズム――」
「知るかよアルゴリズムなんてよ。アフトやキオンに全てを奪われてから、俺達はトリオン兵や遠征艇だって全部この手で作ってきたんだ。強いて言えば頭に入っている。俺達の船は俺が修理してんだ。てめえは言われた通り、配管を持ってこい」
レギンデッツは投げるように言い、すぐに溶接機から火を吹かし始めた。
岬は、言われた通り循環系のパイプを全て差し出す。不安はないではないのだが、プロフェッショナルの香りがレギンデッツからしたのだ。鬼怒田や≪キオン≫の造船局局長と同じような匂い。彼ら熟練の職人は、手触りや振動や匂いで機械の機嫌を読み取る。経験や感覚や直観はデータベースのようにお行儀よく整列していないが、無意識領域から彼らの手の動きを支え、導くのだ。
ガロプラの遠征艇の精緻な配管や滑らかな繋ぎ目、アナログ式の機械類の運動。それらがレギンデッツの手のものと分かれば、彼を評価せずにはいられない。おそらく、レギーがいなければ船は飛ばないのだろう。そういえば、四脚トリオン兵に対する接し方も他の隊員とは違っていた。機械の機微が分かる稀有なエンジニアに違いない。
岬の目はレギンデッツの手を追っていた。
レギンデッツの指揮のもと、補修作業は開始された。彼の見積もりによれば、4時間弱かかるらしい。
当然、作業中に無言というわけにはいかない。
手始めに、岬は激怒をもらった。
「殺す気か! ヒドラジン(NH2―NH2) が漏れているところで火器を扱わせるだなんて! 自己反応性物質だぞ。とりあえず、パテで漏出を止めておくからな。ああ、立派な遠征艇が可哀想だぜ、こんな奴を運ぶことになるなんて」
「ごめん、全然悪気はなかったんだ。ところでレギーはどこで化学を習ったの?」
「姉に教えてもらった」
「お姉さんは何をしている人?」純粋な興味で岬は訊いた。
「アーキテクトだった……」
「だった……ね」
悔しそうに下を向くレギンデッツの顔を見て、岬は訊いたことをひどく後悔した。≪アフトクラトル≫が≪ガロプラ≫に何をしたか、ついでに≪キオン≫が何をしでかしたかも十分聞かされていた。
暫く無言の作業が続いて、突然のタイミング。「おい八宮。今回の作戦、トリオン兵はできるだけ壊さないでやってくれ」
「分かってる。≪ロドクルーン≫からもそう頼まれているし」
「大国は捨て駒のように使うけどな、あいつらは一匹一匹大切に作られてるんだ」
ゴーグル越しに見るレギーの目はいつもと違って優しく見えた。
普通なら彼の思い入れを訊くところであろう。だが、岬は普通とは違って知的好奇心に素直だった。
「トリオン兵ってどうやって作るの? QC工程表とかってある?」
「企業秘密だろ、フツーに考えて」
「ほら、手作りって言うから気になっちゃって」
「今やってることと同じだ」レギンデッツは右手のレンチを示した。配管の終点をボルトで留めている。ギュッと締めて、それから言った。「それぞれシステムをくっつけていくだけだ」
「材料はどうしてるのさ」
「精練はあまり詳しくない。ティアスリー(Tier3) じゃなくて、俺はティアワン(Tier1)」
「じゃあ戦闘用プログラムは? 遺伝的アルゴリズムとか、評価関数はどうなってるの。とても参考にしたく思っている」
「そこはヨミに聞いてくれ」
レギンデッツは言い捨て、作業を再開した。岬はしつこく聞いてみるのが、それきりレギーはこの話題を受けながしている。こちらの世界で金属やゴムの配合比が社外秘のように、トリオン兵の製造工程は国家機密に近いのかもしれない。
口を閉ざすレギーから聞き出すことを諦め、岬はあれこれと考えを巡らせた。
ティアスリー、ティアワンだって? じゃあやっぱり、トリオン兵の製造も分業で成り立っているのだろう。考えてみれば当たり前の話だけど、トリオン兵のような複雑な兵器が一人の人間の手で作られるわけがない。自動車よりもよっぽど複雑なのだから。ということは、惑星国家ごとにトリオン兵の部品や武器の貿易を行っているかもしれない。異なる土地や技術があれば比較優位が生まれ、より強くより安くを、あるいは顧客の満足を求めるのなら交換しない手はないはず。
もちろん、物流(ロジスティクス) の問題はあるけれど。だからこそ、長楕円の軌道を持つ国家は貿易拠点として栄えているのだろう。レプリカ先生もたしかそう言っていた。
おそらく、≪アフトクラトル≫でさえ貿易は行っているはずだ。脳波直結インターフェイスという点だけ見れば、レギーの『剣竜』とヒュースの『蝶の楯』は共通の技術が基盤にあるように思える。人型という点にしたって、『ラービット』と≪ロドクルーン≫の人型は若干似ている気がしないでもない。
≪アフトクラトル≫のことを思い出したからだろうか。
岬は出し抜けに言った。
「こっちにエリン家のヒュースがいるらしいけど、それ知ってたっけ?」
「はあ!? ヒュースがだって!? 言うのが遅いじゃねえかっ!」
レギンデッツは岬を振り返り、目を丸くした。あまりの驚きように危うくアーク溶接機を落としそうになる。それを持ち直し、それから睨むように目を細め、ジロッと見上げた。
「それ、ガトリン隊長には言ったのか」
「言ってないです。ごめん」
岬は真っすぐに頭を下げ謝罪の意を示し、それから思案を始めた。
――何故こんなにもヒュースの名前に狼狽えたのだろうか。≪アフトクラトル≫が≪ガロプラ≫に対してやったこと、≪アフトクラトル≫と≪ガロプラ≫の関係はレギーから聞いていたけど、それにしてもの驚きようだ。
「おい八宮、いつまで頭を下げてんだ。悪いと思うなら質問に答えろ。ヒュースは今どうなっている」
「ボーダーの支部で捕虜をやってるよ。これは今朝調べたから間違いない。聞けば、居心地はそれほど悪くないみたい。メシが上手いってさ。日本に来た外国人はみんなそう言うんだ」
「そうか……」
と呟き、レギンデッツは口元に手を当てた。「オレたちの捕虜、というより身柄を保護してやれば、交渉の材料になるかもしれないな」
「交渉と言うと?」
「人質交換とか、みかじめ料の減額とかだ」
「エネドラが言ってたんだけど、ヒュースってアフトから捨てられたんじゃないの」
「アフトも一枚岩じゃない。ハイレイン一派が消したがっているということは、他の家にしちゃ利用価値があるってことだ。――それで、ヒュースはどこにいるんだ」
「なるほどね、利用はできそうだ」岬は頷いた。「場所は玉狛支部ってところ。紙とPDFで地図を送るよ。割と市街地に近くて、今回の作戦範囲外といえば範囲外」
「今、教えてくれ、すぐに」レギンデッツは個人端末を手早く操作した。そのまま岬の眼前に突き付ける。三門市の地図が表示されていた。「場所を指してくれ」
「川の近くにあるこの建物」
「これだな」
岬が頷き、レギンデッツはもう一度この場所でいいんだなと確認した後、「隊長に報告するから、10分休憩にする」
と呟き、個人端末とにらめっこしていた。
きっかり4時間で補修作業は完了した。
機関と機関をくまなく結ぶ配管は見事の一言。一種の芸術であった。
それは電子基板の精緻さと、自然の神秘である人体の複雑な血管を合わせたような職人の業。
岬は思わず呻り、感嘆の声を上げた。
横にいるレギンデッツもまんざらではなさそうだ。遮光用のゴーグルを外し、大事そうに持っている。バンドの中間を握りしめているようだった。
小さい頃から使っていて、彼の成長と共に、バンドを伸ばしたのかもしれない。物を大切にするレギーのことだ、きっとそうなのだろう。そう岬は考えたのだが、事実は重かった。
「どうしても、ヒュースを捕まえたい、絶対に」
ギュッとバンドを握り、レギンデッツは噛みしめるように話し出した。
「俺には年の離れた姉貴がいたんだ――」
レギンデッツには、工学者でありアーキテクトである姉がいた。理系女子よろしく、なかなか家に帰らず、研究室と現場を行ったり来たりを繰り返していた。左手のリストバンドが洗っても洗っても黒ずんでいたのは、
機械と格闘する姉が眩しかった。
機械じゃなくてもっとオレのことを見てくれよ、とも思ったが、レンチを振るう姉が一番彼女らしい。気づけば、自分も機械工学の世界に入り込んでいた。
たまに帰ってくる姉に機械工作を見せると、駆動部がうるさい、ジョイントの噛み合わせがよろしくない、CADからやり直した方がいい、と苦言を呈しつつ「さあ、改良だ!」とニッコリと笑うのだ。油と埃まみれになりながら、姉に叱咤をもらい、一昼夜ぶっ通しで工作に向き合った。
年季の入ったゴーグルは誕生日でもなんでもない日に渡された。聞けば、権威ある電磁工学の学会誌に自分の研究が乗ったらしい。理系女子よろしく、自分本位なところがあった。
「これでお前もいっぱしの技術者だ! さあ、改良にはげめ」
バンドを後頭部にまかれ、ぐりぐりと頭を撫でられる。これが9歳の頃。
素晴らしきもの全てがそうであるように、幸福は長く続かなかった。
≪アフトクラトル≫の遠征部隊が、レギンデッツの両親諸共、彼女をも襲ったのだ。これが10になる少し前。
涙でぐしゃぐしゃになった視界に、母を庇う父の姿があった。
躰は凍ったように冷たい。
血が嘘のように広がっていた。父は崩落してくる瓦礫を一身に受け止め、その胸の中に母を抱いていた。こと切れた2人の表情は決して楽なものではない開ききった瞳孔が、この世とは決定的に隔絶したことを語っている。
亡骸から目を逸らし、
レギンデッツは涙を拭った。
がむしゃらに走り出す。
――姉さんは!? どこにいるの!? 無事だよね!?
たくさんの大人に聞き、あらゆる首は横に振られた。
あきらめきれず、瓦礫という瓦礫をひっくり返した。
爪が割れても姉はみつからない。
代わりに、瓦礫の中に見つけたものがある。煤と油で黒ずんだリストバンドだ。死体がなければ、流血の痕すらない。
『――親愛なるレギーヘ――
向こうで工学を続けることになった。アンタの成長が見れないのが、少し残念。少し? ごめんこれは嘘、強がったかもしれない。本当はとても残念。向こうに行きたくないよ。
――姉より』
リストバンドの裏に、ミミズが張ったような文字で書かれていた。
乾いた笑いが漏れる。
――姉さんは捕虜にされたのかもしれない。向こうで酷い目にあわされていないだろうか。優秀な姉さんのことだ、向こうでもレンチを振るっているに違いない。必ず再開して、成長した姿を見せてやる。
そして必ず取り戻す。
「さあ立ち上がれ、改良だ」
岬はレギンデッツの話を自分の文脈に整理した。家族に降りかかる悲劇は向こうの世界ではよくあることだった。サエグサだって、サシャだって、クラウダだって、親が遠征先から帰ってこなかったり、捕虜で孤児だったり、移民との混血だったりだ。
悲惨な身の上話を聞き過ぎたせいで、岬は落ち着いて整理することができた。
つまり、レギーが言いたいのはこういうことだ。ヒュースの身柄を確保すれば、そいつを捕虜交換に使えるかもしれない。ハイレインを脅してもいいし、国に帰ったヒュースに働きかけてもらってもいいし、別の勢力にヒュースを渡してもいい。≪アフトクラトル≫まで届けられすれば、方法はたくさんありそうだ。交渉次第でレギーのお姉さんを助けられる。
分の悪い賭けじゃないと、岬は結論した。玄界の倫理感だった。
できることなら協力したく思う岬であったが、sAIが釘を刺した。
「ご主人、よく考えて判断してね。割と情にもろいところがあるんだから」
「うん、分かってるよ」岬は目を細めていった。レギンデッツのゴーグルに視線を移す。どうやらゴーグルのバンドの継ぎ目は、姉の形見のようなものらしい。「ガトリン隊長は何て言ったの? ヒュースについて」
「『不確定要素が大きすぎる。任務が第一優先だ。お前の気持ちもわかる。どうしてもやりたかったら、一人でやってこい。ヨミも手伝ってくれるはずだ。』って」
「そう……。もし行動するなら、突入部隊が成功してから?」
「そりゃそうだ。ドグとアイドラは俺が一番上手く使える。玉狛へ向かうのはその後だ」
「それなら――」
「ちょっとご主人、まさか手伝うなんて言わないよね」ヘッドセットからsAIがわめいた。「玉狛には迅がいるんだよ」
「僕と凪が直接行くわけじゃないよ。ねえ、レギー、スノリアのみんなに頼んでみればどうかな。計画を話したんだけどさ、みんな暴れたりないってうるさかったから」
LINEを操作して凪へその旨を送ると、3秒で返信が来た。
個人端末をレギンデッツに突きつけて岬が言う。
「ほら、敵の敵は味方だし。味方の味方はだいたい味方でほとんんどお友達」
◇ ◇ ◇ ◇
時刻は少し進み、午後5時20分。場所は遠征艇の居住棟。LEDライトが白衣を照らす。出航の時よりも船内は狭く感じられた。共用ロッカーには復路の食糧や水が詰め込まれたようで、いまかいまかと決壊を待つ戸は緩い弧を描いている。何をそんなに限界まで詰め込んだというのだろうか。
各々の居住スペースはお土産が三々五々に積み重なっていた。足の踏み場がない。聞いてみれば、業務用スーパーに連れて行った凪に原因がありそうだった。一人5000円のお小遣いでよくもまあこんなにと、若干呆れるほどである。
賑やかな船室を気にしないよう意識して、岬は作戦の説明を終わらせた。スライドが映されているプロジェクタスクリーンを停止させる。電気も有限だった。
「作戦は大体こんな感じ。何か質問は?」
「質問というよりも雑感なんですけど、ちょっといいですか兄さん」
手を上げて凪が言った。
「これ大胆過ぎませんか。敵を騙すには味方になれってのはわかるんですけど、何か怖いものなしというか、自作自演めいてるというか」
「仕方ないでしょ。だって、未来を視る人と嘘を見抜く人だよ」
「その“未来を視る”がよく分からないんですよね。私たちは作戦が半ば成功した後も騙し続ける『予定』じゃないですか。そんなのしないでも、とんずらすればよくないですか? タイムパラドックスが起こる訳でもあるまいし。私はホーキング教徒ですから」
「そう、時間順序保護仮説ね。まあ仮に迅が行為Pを条件に行為Qを許すとするよ。その場合、Qだけやろうとしたら、迅は絶対邪魔するでしょ」
「でもですよ兄さん。兄さんが誓って、<PとQを両方する>と決断したとしましょう。ではいざQを先にこなした場合、兄さんの自由意志はどうなるのでしょうか? 迅さんが許したということは、兄さんが条件Pをしない未来は見てないということなんですよ。もし仮に迅さんが<PをしないでQをする>未来を見ていたとしたら、兄さんは迅さんに邪魔されてそもそも行為Qができなかった。――違いますか? 未来を視る現在の迅が、未来そのものを決定的に決めるだなんて納得いかないですよね。迅が視てないことは<重要な範囲で>起こり得ない、なんておかしくありませんか」
凪はきょとりと首を傾げて見せた。じっと見つめてくる黒い瞳は底抜けに真っすぐで吸い込まれるかと錯覚する。
妹の論理だった論駁に岬は二の句を継げずなかった。
まさか自由意志が問題になるだなんて思ってさえいなかったのだ。
頭をこねくり回し、反論を探してみる。しかし、どうにもうまい理論はみつからなかった。未来視と自由意志の深い深い袋小路に入ってしまった気分。
そもそも迅は情報起源の問題を無視する人外なのだ。彼の前では熱力学第二法則も
岬はハンズアップで降参を示し、凪の意見が正しいと認めた。
「だけどね。だからこそ、僕と凪で未来を丸ごと騙すんだってば」
全部で13500字くらいでした。ここまで読んでくださってありがとうございます。文字数が多くてすみません。
アドバイスお願いします。
分割して話数増やしてもいい気がします。
迅の未来視を解釈しきれておりません。ワールドトリガー考察に自信兄貴は是非振るってご回答を。BBF持ち兄貴に回答していただければありがたい。
1.情報の起源に関する問題。
2.迅の視るいくつかの可能性が高い未来に含まれない未来は実現しないのか問題。(これは迅の予知対象が全て迅の知人の場合と、知人が含まれていない場合で分けて考える必要があるのかも問題だと思う)
3.また上に付随して、<起こりうる未来を事前に視る>副作用を持つ迅が視なかった未来は、読み逃さない限り起こらないのか問題。それに付随する自由意志の問題。
4.作中の読み逃しが風間のモールグローだけなので、読み逃しの条件がよく分からない問題。
5.物理法則介入(エントロピーの逆転)にまで関連する迅の未来視を副作用で片づけていいのか問題。
6.プライバシー問題。
6が気になりますね。小南のあーんなことや宇佐美のこーんなことも見えているのかもしれません。