『思考する機械:コンピュータ』
「あの、ミサキですよね! それで、私を助けてくれたんですよね! 一目惚れした殿方に助けてもらえるなんて、そう、これは運命です! そうに違いありません! 」
語尾で言葉が途切れるたびに、長い栗色の髪の先端が跳ぶように揺れる。蒼い瞳は元気のよさと意志の強さを表して、いきいきと輝いていた。しゃんと張りのある声は間違いなく僕に向けられていて、狭い馬車の中で幾重も反響する。
「ちょ、ちょっと待って、本当にもうギリギリだから。お願い、耳を塞いでおいて、お願い……」
「ご主人、本当にボトラーになっちゃうの? まあ、漏らすよりは幾分ましだと思うけど……。いや、本当にましなのかな、ご主人」
クーちゃんが首を
10名のテロリストを鎮圧して、ひと段落が着いた頃。「急いで! 官憲に見つかるから! 」そう口走って、彼女はヒロシゲ号へと駆け込んだ。彼女の手には僕の手が握られていた。踏ん張りの利かない僕はあれよあれよと駆け込み乗車。
ヒロシゲは馬の如く馬力を振り絞り、石畳の地面を力強く叩いた。その振動が僕の膀胱の門を止め処なくノックした。溢れんばかりの尿意に思考の全ては覆い隠されてしまっていた。
かくして、僕はペットボトルを片手に蹲っている。
そして、解放感と共に、一線を越えてしまった。
一目惚れをしてくれた相手の前で、こんな醜態を晒す羽目になるなんて……。
運命を呪った。
というよりも、不敬罪により首を刎ねられことさえ容易に想像できる。
キャップを力の限り閉めて、恐る恐る振り返る。幸い窓ガラスが割れていたせいで、
「なるほど、玄界の殿方はそうやって用をたすんですね! 一つ勉強になりました! これが異文化こーりゅーってやつですよね! 」
天真爛漫、天衣無縫な笑みを見せて、彼女は言った。
僕は白衣の内ポケットからハンカチを取り出して手を拭いた。そして、一つ息を吐く。
「……玄界の方々の名誉のために弁明しておくけど、みんながみんなこうするわけじゃないよ。正規分布の左端の左端、あるいは外れ値の人がこれをやるんだ」
「ふむ、そうだったのですか。あやうく誤解するところでした。玄界には面白い風習が多くあると聞いています! 例えば、切腹とか、土下座とか、腹キリとか……」
彼女はふうむと手を口元に当てて、何やら思い出しているらしい。一拍おいて、手をポンと鳴らした。そして、ふいに腰を90度綺麗に曲げる。その所作は繊細かつ優美であり、育ちの良さが滲み出ていた。
「これからよろしくお願いしますね、ミサキ。仲良くやっていきましょう! あなたしかいないのでござる、殿! 」それから、伏し目がちに顔を上げた。「これは知っていますよ。お辞儀というやつですよね! 」
「…………玄界を相当誤解しているでしょ」僕はそうこぼした後、声量を絞ってクーちゃんに問いかける。「ねえ、クーちゃん、僕はどうすればいいと思う」
「知らない、ご主人の勝手にすればいいじゃん。……とりあえず、名前でも聞けば」
クーちゃんの声音はツンとしていて、少しの刺が含まれていた。
どのように話を切りだそうかと思案していると、ヒロシゲのダンディな声が切っ掛けを与えてくれた。
「殿下、まだ自己紹介をしておりませんぞ。殿下が八宮の名前を知っていても、向こうはこちらに来てからまだ日が浅いですからな、ヒヒン」
「あ、そうでしたね。うっかりしていました。わたしエルフェールって言います! エルエルと呼んでください! 」
「…………エルでいいんじゃないの」
「はい! ただこっちの方がプリティかつラブリーでお気に召していただけるかと存じまして! 」
僕は返す言葉を一瞬失った。
「クーちゃん、ひょっとしなくても、このお姫様ってちょっとおかしいんじゃない……」
「少なくとも、淑女っていう感じじゃないよね、ご主人」
ARされたクーちゃんはじろっとエルフェールを見ていた。
彼女の容姿自体は、むしろ大人しく見える。顔立ちだけなら、おっとりとして落ち着いた印象さえ受けるほどだ。だが、服装はシックに洗練されていて、無駄なく動的である。ナチュラルワンピースのコートはとても清潔なのだが、所々に
「もう知っているみたいだけど、僕の名前は八宮岬。今はsAI(補助人工知能) のクーちゃんと妹の凪と一緒に旅をしている」とりあえず、軽いを自己紹介。
「へえ、sAIですか、ヒロシゲと一緒ですね! ねえ、ミサキ、もっとミサキのことを色々教えてください! 」
好奇心を宿した瞳を
一を話すと十聞いてくるエルに困惑しながらも、僕とクーちゃんは当たり障りのない自己紹介を行う。そんな3人を乗せたヒロシゲのギャロップ走行は、心地よく軽やかであった。おそらく、
車窓に映る街並みは、さすが王都といった具合の華やかさ。中心へ近づくにしたがって、建物の背丈が高くなり、人々の息づかいが聞こえてくる。
色鮮やかな
異国風情な景色に見とれている間に、お
「ねえ、どうして真っ直ぐにいかないの、ヒロシゲ? 」僕は訊いた。
「それはですね、私のお転婆がばれると
「お転婆って、自分で言うのね」
「狭いお城の中は、もう飽き飽きですからね! あとで、玄界の話をたくさん聞かせてくださいよ、ミサキ! 」
溢れんばかりの笑顔を見せたエルの表情には、純真な知的好奇心の光が浮かんでいた。
パカラッパカラッという子気味良いリズムが鳴り止み、食糧や物資の搬入口へたどり着く。正門に比べて簡素な造りの門であった。僕は
貨物の搬入口ではスイカ大のジャガイモが木箱に詰め込まれていて、それが運送されている真最中。
それを横目に見た僕とクーちゃんは、また会おうね、とヒロシゲにお別れを告げた。
「ミサキ、堂々としていてくださいね! そうしていれば、たぶんばれませんから」
エルは自信満々に先陣を切って、物資の搬入口へ足を踏み入れた。
彼女は勝手知ったる我が家と言った調子で、赤絨毯の上を優美に歩く。思った以上に人に出くわさなかったのは、彼女がこのお城を知りつくしているからだろう。
「ミサキ、こっちが母屋です! 」
「このステンドグラス、王家の家紋なんですよ、ミサキ! 」
「ミサキ、ちょっと埃っぽいですけど、我慢してくださいね! 」
「どうして、こんな排気口みたいなところを通るのさ、エル? 」蜘蛛の巣を払いのけてから僕は言った。
「それは私の政略結婚相手に出会いたくないからです。」
「なるほどね、ちなみに、それはどんな奴なの? 」
「黒タキシードのキザで嫌味な奴なんですよ! そのくせ外面はいいから困ってしまうんですよね!」
ぷんすかと言った調子でエルは吠えた。それなりの鬱憤があるらしい。
「まあ、向こうにも事情があるんじゃないの」
「まあ、それは一理あるんですよね。先の大規模侵攻で、彼の家の家長が亡くなってしまったらしく、それで長子である彼は、中央での発言力を求めているんですよね」
「うーん」僕は一度首を捻った。「やっぱり、王女様ってのも大変そうだね。物語は綺麗な部分だけ見せてくれるらしい」
「ミサキ! 同情するなら金をくれ、です! あっ、間違えました。うーん、同情するなら婿になれ、ですかね」
「…………その話は今は置いておこう。ここ、埃っぽいから」
蜘蛛の巣を頭にかぶった僕は適当に呟いて、お茶を濁した。
城内を右に曲がり左に曲がり、昇って降りてを繰り返して、ようやくエルは足を止めた。
「さあ、ミサキ! このフロア全てが私のお部屋です。今日は取り急ぎこちらのお部屋を使ってください! 」
得意げに言いながら、エルは扉のノブを回す。
柔らかそうなソファ、大き目のベッド、石造りの暖炉、筆記机。それら良質の調度品がまず目に飛び込んだ。エルに案内された場所はホテルの一室みたいな部屋。客間にあたるのだろうか。
「お邪魔します」僕は及び腰のままに挨拶を済ませ、部屋の中へ踏み出す。
「ミサキ、私はこれから王女としての務めがあります。明日の17時に迎えに来るので、それまでダンスの練習をしていてください、お願いしますね。教則本はその机の中に入っています」
「ダンス? 」
事態がまったく呑み込めておらず、間抜けにもそのままオウム返しをした。
「そうです! 舞踏会があるんです。その時に一緒に踊りましょう! あ、大事なことを忘れていました。……ミサキ、迎えに来るまで部屋から出ないでくれるとありがたいです。では、私は根回しに行ってきます! 」
捲し立てるようにエルは要求を告げ、足早に部屋から出て行った。
ノブのシリンダがゆっくりと回って、扉が閉じた。壁にかけられた時計の文字盤は28まで刻まれており、その短針は20を示している。あと、25時間。
「ご主人、現状どうなっているのか整理した方がよさそうだね」
AR済みのクーちゃんはそう言って、ベッドに腰掛けた。クーちゃんには実体が無いので、シーツの形状に変化はない。僕もクーちゃんの隣に座った。スプリングが柔軟に軋んだ。少しだけ、ベッドの形が歪む。それに合わせて、違和感のないようにクーちゃんが座り直した。それから僕を見上げて、
「ご主人、正直に言うとね。僕はあのエルフェールって人好きじゃないな」
と、呟いた。
「まあね、僕だってそうだよ。まだ、知り合いか友達ってレベルでしょ」
「うーん、そういうことを言いたいんじゃないんだよ、ご主人。……だってさ、ご主人のことを名前で呼ぶのは僕だけだったでしょ。それなのにさ、あの女は……」
「大丈夫だって、クーちゃん。エルに名前を呼ばれたって、全然ドキリとなんてしないから」
「……ご主人、ずるいよ、そんな不意打ち」クーちゃんは縋るように僕を見つめてきた。
「大丈夫だから、クーちゃん」
「ありがとね、ご主人。でもね、語彙が貧弱じゃない? 大丈夫って言葉を使い過ぎだって、ご主人」
「いいから、それも含めて大丈夫だから」
「へへへ、分かってるって、ご主人」
クーちゃんはそう言って、ベッドの縁を平行移動した。暖炉の火だろうか、クーちゃんの頬には少しの赤みが射している。
2人の相対距離は10cm。
クーちゃんの頭を撫でようと手を伸ばす。んっ、と小さな吐息がヘッドセットから聞こえた。触れている感触はまるでないが、撫でる手に合わせて薄緑の髪がさらさらと流れる。クーちゃんは心地よさそうに目を細めた。
「さっきね、ご主人がぼろぼろにされちゃったでしょ。本当に怖かったの」
「大丈夫だって、クーちゃんと凪がいる間はどこにもいかないから」
クーちゃんの像から温もりが伝わる。錯覚かもしれない、とは自分でも思う。でも、もう少し撫でていたかった。錯覚も、それを貫けば事実になることを僕は知っている。想像だけで、火傷する例があるように、ひたすら懸命に思い描いたことは必ず具現化するのだ。
ただ、錯覚で止めるつもりは毛頭ない。≪貿易都市国家 トランタ≫に必ず辿り着く。クーちゃんの頬を伝う雫を見て、そう再確認した。
「ご主人、気づいたら、結構時間が経ってたね」
「ああ、うん」僕は歯切れの悪い返事をした。「ええと、これからどうするかを真剣に考えなきゃね」
「本当にそうだよ、ご主人。……現状、凪が人質に取られているわけでしょ。ご主人がどんなことを仕出かしたら、凪が追い詰められちゃうんだろうね」
「うーん、そこが分かんないんだよね。仮にだよ、僕が今ここで逃げたら、凪はどうなるのかな」
「その情報がスノリアに伝わって、最悪の場合、凪の無残な写真が送られてくるまでありそう」
クーちゃんの声のトーンは恐ろしいほどに低かった。あまりよくない想像が脳裏に
「じゃあ、僕がエルを振ったらどうだろう」
「いやあ、やってることは結局変わらないでしょ。最悪ご主人の身も危なそう」
「やっぱりさあ、振られる、あるいは振ってもらうという選択肢しかないよね」
ため息と共に僕は言葉を吐き出した。
「うーん、それで上手くいけばいいけどね」
クーちゃんは一応の同意を示してくれるも、難しい表情しながら言葉を続ける。
「ご主人、人質を取られることの本質ってどこにあると思う? 例えば、自殺しないと凪を殺すって言われたら、ご主人はどうするの」
僕はごくりと固唾を飲み、二の句を継げなかった。
暖炉にくべられた木々はぱちぱちと弾けて燃えるが、この沈黙が生み出す時間は火に溶けてはくれなかった。じとっとした汗が背を伝う。
「その問いに答えるだけの情報を、今は持っていないかな」
捻りだした回答がこれ。クーちゃんは頷くだけで、何も言ってこなかった。
それっきり、僕とクーちゃんはこの話題を口にしていない。
じっとしていると、悪い想像ばかりが膨らむので躰を動かすことにした。
「へへ、ご主人。なんだか、役得だね、ご主人と一緒に踊れるなんて」
「まあ、練習をしろって言われたから、一応はやっておかないとね」
教則本の内容は典型的なモダン・ダンスだった。少しだけ、スローフォックス・トロットの動きも混じっている。幸い高校生の頃に少しだけやったことがあった。膝と足首の柔軟な動きがコツだった気がする。弦楽器の緩やかな音色をBGMにして、2人でくるくると踊った。音源はレコードだった。いま一つ、この国の技術水準がつかめない。
ダンスの練習もそこそこにクーちゃんのドローンを使って、城内を探検することにした。これは遊びではなく偵察である。お城の見取り図を作るために必要な仕事だ。
「ご主人、ここって食堂かな、何だかホグワーツみたい」
「ご主人、すごいよ。みんなドレスを着ている。結構カラフルだね」
「クーちゃんも着てみたい? 」
「うーん、僕はいいや。
「いや、そうじゃなくて、躰ができてからの話」
「え、うーん、どうだろ、僕に似合うかな」
「まあ、楽しみは、追々ってことにしようか、クーちゃん」
仕事とは言っても、21世紀を生きる僕達にとって生きているお城を見ることなんて滅多にない機会であり、僕とクーちゃんは目を輝かせて隅々まで探検した。当然ここは夢の国でなく、見えるのは
「ご主人、あの模様って、テロリストのナイフと……」
「うーん、なんだかちょっときな臭くなってきたね、クーちゃん」
そんな発見もありながら、最終確認のために、ぐるっとお城を周回飛行する。
「なんか、絵本で見るようなお城だけど、がっかり感が漂ってるよね、クーちゃん」
「そうだね、ご主人。何と言うか、裏側も透けて見えちゃってるよね……」
クーちゃんのその言は正しく的を射たものだった。
何というか、汚いのだ。掃除はもちろん行き届いているのだが、人の表情と心がぎとぎとと油の糸を引いていた。嫉妬と欲望と策謀が脂ぎった大人の目を濁らせ、
一通りのお城の探検を済ませ、CAD(コンピューター支援設計)ソフトで見取り図を作り終える。余程集中していたらしく、いつの間にか時計の短針は16を指していた。
「ご主人、やっぱり、バーテンダースタイルなの? 」口を斜めにしてクーちゃんが言った。
姿見には白のカッターシャツ、黒ネクタイ、黒のベスト、黒いスラックスを着た男が立っている。
「まあ、白衣で出席するわけにもいかないでしょ。ドローンも持って行こうかな、ずっと同じ場所じゃあ退屈だと思うから、自由に飛ばしていいよ、クーちゃん」
「ありがとね、ご主人。じゃあ、最初は舞踏会を見て、それから王都の観光に行ってこよう――」
空気の振動が音となり、クーちゃんの言葉を遮った。ドアが勢いよくこじ開けられ、それが壁にぶつかり、もう一度閉じていた。凄まじい大音量であった。そして、ノブが回りゆっくりと開く。
「ミサキ!! お待たせしました。さあ、参りましょう! 」
エルは栗色の髪を跳ねさせながら、溌剌と声を発した。爽やかな黄色のドレスも、ふわりと宙を舞う。
お姫様然とした恰好をしているが、中身は変わっていないらしい。たてつけの悪くなってしまったドアが彼女のお転婆具合を物語っている。
案内されるがままに僕は連れて行かれた。
そして、僕は王宮の闇を知ることになる。
このお姫様かわいく書けてますかね。
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