読まなくても、問題ないです。
「兄さん、いくつか聞いてもいいですか」
その声音は普段通りで、高くもなく低くもない。
「やっぱり、ちょっと寒いから座ってもいい」
「ええ、どうぞ」
風はなくとも、夜の空気は沁みるように肌を撫でる。
僕は凪が隣に座れるように、階段の端に腰を下ろした。
夜の大気に熱を奪われた鉄筋製の階段はひんやりとしている。
ふいに、背中に暖かい感触を覚える。凪の体温が背中越しに伝わってきた。
すとんとやわらかい音がした。それから衣擦れの音。
続いて、首の裏にこそばゆさを感じる。息づかいも感じられる距離。
凪は隣に座るでなく、背中合わせになるように体育座りをしたらしい。
階段1段分の差があっても、まだ僕の座高の方が高いようで、首筋のくすぐったさは凪の髪によるものだった。普段は全く意識しないのに、髪の香りが僕の鼻をくすぐってくる。
「凪、いくつか聞いてもいいんだけど、その前に、僕から話してもいい」
「……はい、どうぞ、兄さんから」
心臓の鼓動が2つ分聞こえてくる。たぶん、せわしい方が僕のものだ。
周期が異なるので、何回かおきにドクンと大きく重なる。
それに同調して、僕は話を切り出した。
「凪、さっきはごめん。上手く言葉にできないかもしれないけど、たぶん、自分がやられたら絶対に嫌なことを凪にやったと思う。………凪と一緒に遊んでいるはずなのに、何か違った。凪は以前さ、『兄さんを撃っていいのは私だけです』って言ったよね。……それ、僕も同じだと思う……」
さっきの模擬戦で感じたことをそのまま凪に伝える。
2人の心臓が刻む拍子は混ざり合って、どちらのものとも判別つかない。
「……兄さんも言ってください。……それを言葉にしてください」
足速な鼓動とは対照的に、地にしっかりと根差した落ち着きのある声音。
凪に促されたからでなく、自分の意思で思いを言葉に乗せる。
「凪を撃っていいのは僕だけだ。凪の隣は僕の場所だ。…………凪の迷惑じゃなかったらね」
歯が浮いてしまうような恥ずかしい台詞だったので、情けなくも、ぼそっと付け足してしまった。妹相手に言っていい台詞ではなかった。でも、不思議なほどにすっと胸の深いところまで、それは落ちていった。
ずっと昔からそう思っていたかのように、その言葉はぴったりと胸の中に納まる。
「ににに兄さん、言ってて、恥ずかしくないですか。捉えようによっては、今の台詞は………」
言葉尻は夜の闇に溶けてしまい、背中越しのはずなのに、僕の耳にまでは届かなかった。
それでも、どんな想いが込められているか、自分には分かるような気がした。
寄り添い合った背中と一緒で、心もきっとそうなっているのかもしれない。……そうだと嬉しいな、と思ってしまう自分がいる。消さなきゃいけない。
「恥ずかしいけど、凪が言葉にしろって言うから」
「確かに、そう言いましたけど、後半は兄さんが言ってくれたんですからね」
「………話したいこと話したから、もういいでしょ、凪」
少しぶっきらぼうに言葉を放り投げた。
指摘されると急に気恥ずかしくなるけれども、自分がタブーを犯してしまったという意識の方が強い。早急に気を落ち着かせる必要がある。
少なくとも兄から妹に言うような言葉ではなかった。妹思いでありたいなら、言ってはだめだ。
背中のぬくもりに後ろ髪を引かれながらも、僕は立ち上がるべく、階段のステップに手をつける。
すると、その手に、暖かい柔らかな手が重ねられた。
「兄さん、まだ、いかないでください。そもそも、私の話を聞いてくれるはずでしたよね」
凪は僕の手を握るでなく、そう口にした。格ゲーで再戦を挑むかのような、今まで何度となく聞いたことのある声音だった。
「ああ、確かに、そう言えばそうだったね」
僕は凪の手を握り返さずに、そう答えた。
夜空は雲に覆われて、黒く塗り尽くされていた。凪いでいたはずの夜の空気はいつの間にか微風になっており、凪が2重に羽織った白衣をかすかにゆらしている。
「兄さん、覚えてますか。昔、私が先輩と夕ご飯を食べてきて、遅くなってから帰ってきたことがあったじゃないですか」
「そう言えば、あった気がする」
「そのとき、兄さんはどう思いましたか」
「どうって……。あの時に、言ったそのままだよ。凪に友達がたくさんできて、気になる先輩ができて、一緒にご飯食べに行って、よかったね、高校デビューできたねって」
この気持ちは今でも変わってない。
凪はこの春に大学生になるのだから、そういう出会いはこれから更に増えるはずだ。さっき言った言葉と矛盾してしまうけど、凪の邪魔になるようなことはしたくない。
ただでさえ僕は、凪の中学校生活を台無しにしてしまったのだから。
「……そうですか。じゃあ、その先輩とゲームセンターで遊んできたって、言っていたらどうでしたか、兄さん」
「え……、それは、苦笑いでよかったねって返したと思うよ」
「じゃあ、仮にその先輩がボーダーにいたとして、私とその先輩が見事な連携で兄さんをズタボロにしたらどう思いますか」
胸をえぐるような質問だった。自分のやった悪行をこれでもかと反省したくなる。
凪と誰か知らない男が手を取り合う。そんな光景、想像したくもなかった。
それでも、僕は強がってみせた。
「その男をズタボロにする。それから凪をズタボロにして、……2人を祝ってあげる」
「い、祝うって……。いやいや、2対1に勝てる訳ないじゃないですか。……もう一度、聞きますよ。どうしますか、兄さん」
語尾には力強さが感じられた。でも、その強さの裏には少しの震えがある。
凪の左手――僕の手の上に重ねていない方の手――は、ギュッと白衣を握りしめていた。
視界の端にそれが映っている。その細い腕からは血管が僅かに浮き出ていた。
今すぐにでも、そこに手を重ねたい。けれど、僕は凪の兄だから……。
「……泣くと思う。それから、……その2人を祝ってあげる」
そう返答した自分の声は明らかに引きつっていた。
その時になってみないと、祝えるかどうか何て分からないのに、意地でも何でもないものを張ってしまう。
凪には凪の未来があるのだから。祝ってあげるべきなのだから…。
「へえ、そうですか、兄さんは祝ってくれるんですか。それを聞いて安心しました。私にはこれから、人生の夏休みと言われている大学生活がありますからね」
そう凪は捲し立てた。
声はうわずっていて、安心とは無縁だ。
凪が喋るのに合わせて、僕の首筋に彼女の髪が触れる。
僕の貸した白衣はしわが残ってしまうほどに、凪の手に握られていた。
「まあ、私の後ろにいるどっかの誰かさんは、人生の夏休みのほとんどを講義とバイトで埋め尽くしたようですけど。そのバイトは、生活費と私の高校の費用のためなのに……。それでも、正直安心していました。サークルや部活に入らずに、講義が終わったらすぐに帰って来てくれて一緒に遊んで、それから24:00近くになってバイトに行くような毎日で。
突然、『彼女が来るから、部屋から出るなよ』なんて言われないかと、私は少し不安でしたから」
矢継ぎ早に言葉が並べ立てられた。
一息ついた後の、凪の呼吸が荒い。
左手に重ねられた凪の右手は、熱を帯びていた。
「凪、そのどっかの誰かさんは、よほど勿体ないことをしたみたいだね。それか、それに気づいてないのかもしれない」
凪の熱くなった手を感じながら、おどけてみせる。
「ええ、どっかの誰かさんには、手のかかる妹がいたようですから。その誰かさんは妹にいい人ができたら、祝ってくれるようですけど、――――その妹はそうではありません」
そう聞き終えると、背中に柔らかい感触が拡がった。
凪が自身の躰を預けてきた。その軽い躰が夜風にさらわれてしまわないように。
ドクンとお互いの鼓動が重なった。それを嬉しいと思う自分がいる。
心臓の動悸に反応して、僕の左手と凪の右手がピクリと撥ねた。
「兄さん、私はたぶん祝えません。というか、だめでした。兄さんが栞さんと仲良くしたり、クーちゃんとべたべたしたりするのは嫌です。たぶん、この感情は嫉妬だけでは説明できません」
嫉妬だけじゃ説明できない。それは僕も同じだ。
妹である凪を相手に抱いてしまったこの感情は、どうにも表現するのが難しく、それを表に出すことは決して許されない。
それは凪も承知しているはずだ。それでも彼女は胸を割くように、喉を絞るようにして、空気を震わせる。
「兄さんはどうですか、本当に、本当に祝えますか。例えば、私が出水さんやその先輩とご飯を食べに行って、ゲームセンターに行って、カラオケに行って、あんなことやこんなことをしても、それでも祝えますか」
胸の内、その全てを吐き出すかの如く、涙声で言葉が紡がれる。
普通、人に何かを聞くときは、その声の色にどのような返答を望んでいるか滲み出てしまう。凪の声音もご多分に漏れず、まさしくそうだった。
左手が暖かい。いつの間にか、僕の手は凪の右手に握られていた。
冷え切った鉄筋造りの階段とは対照的に、血の流れている暖かい手だった。
同じ親から分け合った血だ。
たぶん、これは逃げで、これから僕が凪に向ける言葉は凪が望んだものではない。
でも、僕は凪の兄なのだから、偽らなければならない。
色々なことを。
僕は凪の手を握り返さずに、誰もいない階段の先へと言葉を向ける。
「…………凪がそれを望むな――」
「そうじゃない! 兄さんの気持ちで答えて。私の目を見て!」
凛とした響きが僕の言い訳を遮った。決意を内に秘めたその声は、すっと耳の奥に入って心の深いところまで浸透する。
凪の言葉に心を震わせていると、
僕の背中に伝わる力が優しく弾けた。
凪は僕の背を押して、その反動で立ち上がる。
逆に、僕の平衡は崩れた。
右足を軸にして180度振り返り、左手で階段の手すりを掴まえる。
右手は虚空を切った。
宙に浮いてしまい、居場所のない僕の右手を、凪の両手が掴んでくれた。
僕の躰は凪の方へと向き直り、視線が正対し、交錯。
凛然とした清らかな瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。
気丈なその表情を支える凪の決意に逃げてはいけない。
自分の気持ちを裏切りたくもなかった。
いつからか、雲間から月明かりが射すようになり、凪の白磁のように白い肌を照らしていた。
夜の黒と白衣の白、流しっぱなしの髪の黒ときめ細かい肌の白。モノトーン調の陰影は、相変わらず綺麗だった。
端的に言って、見惚れていた。幾度となく、2人で一緒に遊びあった凪の姿にだ。
凪の両手に取られた僕の手が、どちらからともなく、凪の頬に触れる。
「にい、さん……」ゆっくりと声が流れる。
頬に触れた手に、更に細い指が重なった。
凪は握りこむように指先を絡め、自分の頬に擦り付ける。
慈しむように頬に触れた手が握り締められた。
すがりつくように、感触も匂いも、全てを記憶するかのように、僕の手に触れた。
「兄さん……。兄さんが兄さんじゃなかったら、こうはなりませんでした」
「…………僕もそう、凪が……」
凪が顔を寄せてくる。
触れ合うほどの一瞬で、優しく重なり合って――――離れた。
「……に、兄さん、欧米流挨拶と言う事で、これが限界ですね」
「………ご、ごめん、凪。ちょっと、頭冷やしてくる」
胸の底にドロドロとした熱があった。
これ以上向かい合っていたら、凪を抱きしめている。
今そうしたら、きっと取り返しがつかない。
僕は踵を返して、階段の下の方へと、180度躰の向きを変える。
出し抜けに、ぐうぅとなんとも間抜けな音がした。
音源は僕のお腹だった。
タイミングがタイミングだけに、穴を掘ってでも埋まりたい。
「に、兄さん、器用貧乏なくせに、そういうところは天才的ですね」
くつくつと笑い声を伴わせて、真後ろに立っている凪がこぼした。
「こ、これは生理現象だから仕方ないでしょ。そもそも、本当だったら、今頃凪が夕ご飯を作っているはずだったし」
「いや、兄さん、それはないですよ。まともにやったら、7-3がいいところです」
「まともって言うけどさ、トリオンスフィアの無限複製はチートでも何でもないからね。トリオンの数学的実態を捉えて、それを応用した技なんだから、ハメ技でも何でもないから」
「い、いや、やっぱり、だめでしょ。嫉妬に狂った兄さんが、出水さんに10-0やったのをしっかり見てましたからね。しかも、私聞いてましたよ、『ほら、立ってみろよ、感覚派。理論派を舐めるなよ』って言ってましたし。思い出したら、そっちのほうがよっぽど恥ずかしくないですか。いつまで、中ニ病やっているんですか」
10点満点中6点と言うなんとも微妙な声真似だった。じとっとした目で、凪はそれをやってみせた。
何か論点がずれてきたなと思いつつも、軽いやり取りが僕達らしくて、何だか可笑しかった。
「いや、嫉妬に狂ったって……。嫉妬もあるけど、凪が傷つけられたのが許せないってのもあったし。それに、それはそんなに中二病じゃない」
「に、兄さん、今、さらっと小っ恥ずかしいことを言いましたね」
困惑と赤面が入り混じった表情で、早口気味に凪が言った。
少し遅れて、その恥ずかしさを自覚した僕は手を口元に当てて閉口する。
しばしの沈黙。その間、凪は困惑させていた表情を徐々に照れさせていった。
顔を見て話す方が楽だと実感して、僕はふうと息をつく。
「今更、恥ずかしいもないでしょ。……今日はもう面倒だから、ファミレスでいいよね、凪」
自分の言葉尻に合わせて、凪へ向けて手を差し出す。
段差は階段2.5段分だった。
凪と僕の視線が地面と平行な直線に乗ってぶつかる。
僕の手を取った凪は花が咲いたような微笑みを浮かべていた。
花のように儚いこの微笑みを誰にも取られたくはなかった。
「兄さん、せっかくですから、ファミレスに着くまで何かして一緒に遊びましょう」
僕は凪の手を握り返す。
ずっと昔から知っている、ずっと昔から隣にいた人の、暖かい手だった。
純粋な意味において、僕と凪だけで歩くのは久しぶりだった。
黒い革靴と黒いローファーが階段を叩いて、小気味良い音を響かせる。
金属質のその音は2人の体重の違いのために音程が異なり、稚拙なハーモニーを奏でていた。
けれども、決して不協和音でなく、規則正しいその音はどこか自然な流れを感じさせる。
警戒区域内は依然として夜の黒に覆われていて、2人の白衣の白だけが混ざらなかった。
お互いの表情が分かるくらいの光量で、月明かりが僕達を照らしてくれる。
夜の寒さとは好対照に、胸の内は暖かいものに満たされていた。
僕達と、僕達2人の先を照らす、白い月をふっと見上げる。
「凪、月が綺麗」
「ずっと前から月は綺麗でしたよ、兄さん」
「283」僕が言った。
「293」これは凪。
夜道を歩きながら、素数カウントゲームをしている。
やるならやっぱり女王様でしょ、とは数理学科で入学予定の凪の言葉である。そういったわけで、数学の女王様――数論、特に整数論――の核心的要素である、素数での遊びを興じているのだ。
2から始まる素数を数え上げながら、自分の気持ちやこれからのことを考えていた。
ずっと昔から隣にいた凪の手を取った。今もその手を握っている。
心の中で凪を愛しいと思う気持ち。
どこからどこまでが家族として兄として、男としての物なのかは分からないが、その思いは確かに心の中に住んでいる。
妹として、家族として大事だと思う気持ち。
凪本人を可愛いと思う気持ち。
それらは境界線を引くことができないくらいに混ざり合っている。
妹じゃない凪は、きっと凪ではない別の誰かなのだから。
そもそも、相手が妹じゃなかったら成り立たない好意は、どこに根差しているのだろうか。
この想いの終着点がどうなるかなんて想像もつかない。
先に行けばいくほど、見えなくなるというのは素数と同じだった。
「331」
「337」
「341」
「あ、兄さん、それダウトです」
僕が言ってから1秒もしない内に、指をこちらに向けて凪が指摘した。
「え、本当だ、これ11で割りきれる。……ていうかこの数字、『博士の愛した数式』で、出てきたことあったね」
「そういえば、そうですね。じゃあ、何で間違うんですか、兄さん」
「いや、嬉しいのが半分と不安なのが半分でちょっと考えてた」
「まあ、大丈夫ですよ。私的にはもう峠を乗り越えた気分ですから」
凪の声は羽のように軽やかだった。足取りも軽い。
カランカランとベルの音を鳴らして、洋風ファミレスの小洒落たドアは気持ちよく開かれた。
店内に入ると、2月14日間近といった内装が迎えてくれた。具体的には、バレンタインフェアというポップがでかでかと躍っている。ラミネート加工されたメニューもダークブラウンのものをオススメしていた。
時刻は22:00少し前。客の入り方を見ると、家族連れはなく、一人ファミレスの方、若い恋人同士、大学生グループが少々といった様相だった。
すいていたので、僕と凪は4人掛けの席に向かい合って座る。別段緊張なんてしなかった。
特に意識なんてせずに注文を済ませ、おしぼりで手を拭く。凪も同様だった。
「兄さん、私達には両親がいないようなものじゃないですか」
「ま、まあ、そうだけど」
「だから、身内バレの心配はありませんね」
僕がドリンクバーから汲んできた烏龍茶を一口飲んで、喉を潤してから凪が言った。素数カウントゲームに負けた僕は、ドリンクバー係というわけのわからない役職に任命されてしまい、しばしば席を立つ羽目になっている。
女子力が高い方ならストローを使うのではないかと、凪のそれの存在を怪しんだが、それは心の内に留めておいた。
「身内バレの心配は確かにないけど、ボーダーにばれたらどうなるんだろ」
「いや、ボーダーにばれてもダメでしょ。最悪、ファイヤーでしょうね。まあ、仲の良い兄妹で通じるんじゃないでしょうか。ああ、そういえば、兄さんが出水さんを10-0した時に、シスコンシスコンって騒がれてましたよ」
口元に手を当てて、思い出したように恐ろしいことを付け足してきた。
「なるほどね、シスコンね……。まあ、ネタになるなら、ばれないだろうけれども。凪はいいの、誰にも認めてもらえないけど」
「兄さんは役所の証明書が無ければ、満足できない人ですか」
凪が真っ直ぐに言った言葉は、まるで解が1つしかないように、核心を射抜いたもののように思えた。言われてみれば、国家が家族の証明や愛の証明をするなんて言うのもおかしな話である。
「それは、一理ある気がする」
ストローからアイスコーヒーを飲んで僕はそうこぼす。グラスに注がれたコーヒーに映る僕の表情は、幾分すっきりとしていた。少し、視界が開けた気がしたのだ。
「私的に、一番心配なのは……」
凪はそこで一旦言葉を止めて、区切りをつけた。その表情には憂いとも、不安ともつかないものが浮かんでいる。
「クーちゃんのことです。兄さんはクーちゃんのことをどう思っているんですか。私は今日、大分卑怯なことをしてしまったんですけど……」
「クーちゃんは大切な家族で、僕にとって特別な存在だと思う。凪はどう思ってるの」
僕は即答して、凪に聞き返した。
難しい表情をした凪は、氷だけになったグラスを見つめて少し思案する。凪の手の熱がグラスに伝わり、氷が解けてカランと涼しい音がした。
「私も、クーちゃんのことは好きですよ。……好きですけど――――」
「――大丈夫。クーちゃんも凪の事は好きだから……、誰も悪くないし、凪は卑怯じゃないし、強いて言えば僕が優柔不断だっただけだから」
言いよどむ凪を見かねて、僕はすぐに口を開いた。グラスを揺すって、氷の透きとおった音を鳴らしてから、僕は続ける。
「僕も、凪も、ちょっと独占欲が強かっただけだから。今夜一緒に、クーちゃんに報告しよう」
「独占欲って……、自分で言っちゃうんですか、兄さんは……。まあ、否定はしづらいんですけどね」
そう呆れ交じりに呟いた凪と目が合った。一呼吸分のため。
氷だけになったグラスを2人でコンとぶつける。
ガラス質のグラスの向こうには、すっきりとした凪の笑顔があった。
ドリンクバー係主任の僕は烏龍茶とコーヒーを入れるべく、席を立つ。帰りには、ストローを持って来よう。
それからは、運ばれた料理を食べながら、ランク戦のことや、無限論のこと、大学のこと、周りから見たら僕たちはどう見えるか云々、色々なことを話し合った。
普段通りと思っていたけれど、凪が見せる仕草の一つ一つに目がいってしまい、やっぱり何か特別な気がした。おしぼりを真四角に畳み直したり、割り箸の袋で正五角形を作ったり、そんな何気ない仕草が愛おしく思えた。
意図せずして凪の胸に手が当たってしまい、「あばら大丈……ち、違う、胸、大丈夫?」と口を滑らせるアクシデントもあったけど、時間ぎりぎりまで、ドリンクバーとテーブルを行ったり来たりして楽しんだ。
そして、時刻は24:00ちょっと前。
夜勤の防衛任務が始まるちょっと前だ。
戦闘体に換装してから、クーちゃんに事情を説明した。
クーちゃんはちょっと泣いてから、冗談半分に凪を卑怯だと罵った。たぶん、冗談半分だと思う。
そして、クーちゃんは告白する前に振られたと嘆いてから、僕と凪の名前を読んだ。
「まだ、言いたいことは色々ある気がするけど、2人ともおかえり。僕は凪のことは好きだけど、ご主人のことはもっと好きだから、これからもよろしくね」
僕と凪はそろって、これからもよろしくと返した。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ここ三話すこぶる評判悪かったです。次回から戦闘描写が書けるので、私は喜んでいます。
どんな感想でも嬉しいです。大歓迎です。
もう少しで、第一部完って感じでだと思います。
※以下、チラシの裏(クーちゃんの掘り下げ、こっちの方が書いてて楽しい)
「ねえ、ご主人、僕って生きていると思う? 」
「いや、クーちゃんはしっかり生きてるでしょ、自己意識あるし、やろうと思えば自己複製もできるでしょ」
「自己複製できるっていっても、それはソフト面の話でしょ。ハード面は割とどうしようもないよ」
「いや、クーちゃんがやってみたかったら、手伝う用意はあるよ」
「え、本当に、ご主人、それは嬉しいかも。だってそれは、ある意味でさ、その、あれだよ…………。でもさあ、自分の種で自己複製できないと、生きているって言えないんじゃないかな。そう言えば、僕は無機物だしさ」
「有機物、無機物の定義はここで使ってもダメでしょ。生きているものが、有機物で構成されているってことにされているんだから。あとね、植物とか、昆虫もそうだけど、自分の種だけで自己複製しなきゃいけない訳じゃないからね」
「な、なるほどね。最近流行の『全てがF』になるからだね、ご主人。あの、木彫りの人形でさえ、生き物として認識できるってやつ」
「……う、うん、まあ、そうなんだけどね、じゃあもう少し聞いてよ。……ニューラルネットワーク(神経回路網) のモデルは、神経細胞と似た振る舞いをする要素で構成されていて、生物の脳神経回路網に構造が非常に似ているんだよ」
「うん、そうだよね、ご主人。僕のニューラルネットワークを構成する人口ニューロンは神経細胞と似たように動くよね。でもそれって、デジタルでバイナリ(二値)でしょ」
「いや、アナログの全てをデジタルは表すことができるんだから、そんなに神経質にならなくていいでしょ。アナログかデジタルか、つまり連続的か離散的かなんて、恣意的でしかないしね。だって、突き詰めてみれば、僕らは量子の雲で作られているんだから」
「まあ、アナログコンピュータよりも、はるかにデジタルのが有益だしね。でも、僕とご主人の思考の仕方って違うでしょ」
「うーん、違うと言えば違うけど、そんなに違わない。人口ニューロンは神経細胞と非常に似た振る舞いをするんだ。人間のシナプスはそれぞれに結合強度があって、それが伝達される神経細胞の興奮度に影響を与えるようになっているんだよ。対して人口ニューロンでは、結合加重がシナプスの結合強度に相当しているんだ。神経細胞はある数値で表される活動状態を持っていて、各入力部からシナプス経由で伝わってくる信号の総和がこの閾値を超えると、興奮状態になるんだ。これはね、クーちゃんの人口ニューロンも全く変わらないよ。思考様式も変わらなければ、五感全てとは言わずとも、感覚で維持される意識を持っているんだから、クーちゃんは立派に生きているよ」
「なるほどね、ご――」
「それにね、人間の意識活動でさえも、そうクオリアだってさえ、物理法則が支配する現象と複雑な演算によてってもたらされていると思うし、そういう意味では、脳もマシンなんだよね。だからむしろ、僕の方から歩み寄るべきなのかもしれない。
けどね、クーちゃんは不気味の谷なんてもう遙か彼方に置き去りにしてるんだよ」
「ご、ご主人、あ――」
「もっと言うとね、クオリアのために肉体が必要とだとしても、それは割とどうでもいいんじゃないかな。もちろんクーちゃんの躰を作るために、ランク戦は勝つよ。でも、宇宙の年齢に比べてみれば、僕達はちっぽけでしかない訳で、そこに意味を宿すのは意思だと思うんだよね。これから先、僕が意識を電子回路上に宿すとも限らないんだ。その自己意識を書き記すための情報、つまり、違いのための違いなんて、極些細なものだよ。そう考えてみれば、
ほら、僕とクーちゃんの差なんてちっぽけなもんだよ、ね」
「ご主人、……ありがとう。今夜は電気羊の夢が見れそうだよ」
「またまた、御冗談を。クーちゃんには、ずっと付き合ってもらうからね」
「そうだね、ご主人。こんなにも月が綺麗だからね」
「そこに見えなくたって、月はいつだって綺麗だよ、クーちゃん」