ガン=カタが嫌いな女の子はいません、況や男の子もしかり。
淡いガス灯の光だけが夜の
我を通したければ遊びで勝てばいい、幼いころに結ばれた2人だけの盟約に僕達は忠実に準じる。そういったわけで、僕達は2丁の拳銃を互いに向け合った。
構えた銃口の先に見える凪の雪のように白い白衣は、闇夜と月明かりでモノトーン調の陰影を描く。その美しさに息をのみ、しばしの沈黙。夜風に震える白衣の衣擦れの音だけが僕の耳に届いた。
互いの銃口は一切の躊躇なく、相手の躰へ向けられる。
静寂を破り先に引き金を引いたのは僕だ。凪は僕が引き金を引く直前には、射線が既に見えているかのように身をかがめて走り出した。
走る勢いにまかせて凪は左手を水平に伸ばし、トリガを引く。
マズルフラッシュが瞬く数瞬前には僕も回避行動に移っていた。銃口の角度や腕の向き、躰の構え方でコンマ1秒後の弾道が予見できるからだ。
凪が左手を伸ばしたのとは対照的に、僕は右手を水平に構え、走りながらトリガを引く。僕たちは互いを追いかけ合い、その軌跡は円を描く。発砲音の数が増えるにしたがって、旋回半径も小さくなり、遂にはアウトボクサーの間合いにまで2人の距離は縮まる。それでも、未来が見えているかのように銃弾を見切り、互いが被弾することは皆無だった。
相手の射線を確認しながら撃ちあう、これがガン=カタを扱うもの同士の銃撃戦だ。
ガン=カタとは膨大な銃撃戦のデータ分析から生まれた戦法だ。敵対者が幾何学的な配置であるならば、その動きは統計学的知見から予見出来る。統計的推計のために必要なものはそれなりに大きな標本数と、標本平均、標本の標準偏差であり、基本的にはこの3つで推定標本分布が作成可能となる。およそこの世の全て、数字で表記可能な事象、幾何学的に表せる有象無象は統計的に予見可能だ。故に、数直線にのせられた敵の銃撃は、CLT(中心極限定理) に導かれるようにして、膨大なデータから位置と弾道が予測される。
そのため、回避可能な銃弾を互いに撃ちあうガン=カタを修めた者同士の戦いは、相手の反応限界を上回るため必然的に近接銃撃戦へと突入する。丁度、握手が容易く行える僕と凪の間合いのように。
空気を撫でるように腕を振り下ろし、小柄な凪の躰に銃口を突きつける。が、凪の右手に僕の左手は鮮やかに捌かれてしまい、放った銃弾は凪の黒髪に傷をつけるにとどまった。
僕の左手を捌いた手を今度は僕が捌かなければならない。躰の正中線から遠ざけるように、右手の甲を銃身にぶつけて横なぎに弾く。
顔横でマズルフラッシュ。
鋭い発砲音が鼓膜をつんざき、幾重も脳内で反響する。
だが、臆してはいられない。こちらへと迫る凪の手に握られた拳銃を自らの銃のグリップで叩き落とすように地面へはじく。これで凪の平衡が下方向に崩れた。
好機だとばかりに見下ろすようにして引き金を引く。
やったか!? と思うと不意に脚に衝撃が走り、弾道が右へそれてしまった。僕の拳銃が吹き飛ばしたのは、凪の左腕のみだった。
脚への衝撃は思いのほか大きく、ようやく膝横を勢いよく蹴られたのだと得心したころには、僕は右手を地につけていた。
――ッッツ!!
マズイと判断し、左手の拳銃を凪へ向ける。
だがその手は膝で蹴り上げられ、放たれた弾丸は真上へと向かうのみ。
瞬く間に凪の右手に握られた銃口が僕を捉え、銃身越しに僕と凪の視線が交錯した。
トリガが引かれる。
最期の光景は眼前の眩いマズルフラッシュ。
『トリオン伝達機関破損』
聞きなれた電子音と共に、ボスンと黒いマットレスに落下した。すぐさま立ち上がり2戦目へ向かう。
夜の帳が降り切った市街地は相変わらず暗く、凪の表情をうかがい知ることはできないが、わざわざ見なくても分かる気がする。シールドやスコーピオンを使わずに両手の拳銃を使い続けているのがその証拠だろう。僕たちはどうしようもないほどに楽しんでいるのだ。
例の如く、戦いは近接銃撃戦へ。至近距離で接敵することは攻撃面でも防御面でも有効な手段だ。ガン=カタは銃を用いた殺陣であり、相手の銃口の狙いを常に自身から遠ざける必要がある。接敵することで、相手の躰の力点を押さえて動きを制しやすく、捌きやすくなるのだ。
接敵し、突き出すようにして銃口を凪に向ける。
スパンと風を切るような鋭い音。指を襲う痛みを知覚した頃には、僕の拳銃は真上に弾き飛ばされていた。凪の膝蹴りが鋭く振るわれていたらしい。
その膝に蹴りをかましてやろうと左足を少し振りかぶる。
意識の隙間を縫うような発砲音。
遅れてわずかな痛み。
右足を、つまり軸足を容易く撃ち抜かれた。
僕はあっけなく、両膝から崩れ落ちる。
最後の抵抗だと、右手の銃を両手で構えて銃口を凪へと向ける。だが、こともなげに繰り出されたローキックに振り払われた。
なすすべが無くなって、倒れ際に凪の方を見ると再び銃口越しに視線がぶつかる。
濃いクマの上にある瞳は爛々と輝いて見えた。
目線が絡まりあった瞬刻後、素早く引き金が引かれる。
『トリオン伝達機関破損』
胃の中を揺さぶられる不愉快な浮遊感を得た後にボスンと落下。
「ご主人、今回はあっけなかったね」
クーちゃんの呆れとも慰めともつかない言葉が迎えてくれた。
「いや~、凪の足癖ひどすぎでしょ。これは八宮家にとって由々しき問題である」
と語気を強めて声を出し、ディスプレイに表示されるボタンをタッチして3戦目へ。
案の定、踏み込んだ右ストレートが届くくらいの距離で接敵。
拳銃を突きつける。捌かれる。腕で宙に円を描いて相手の拳銃を捌く。突き出された凪の腕に絡ませるようにして、自分の腕を伸ばす。ボクシングで言うクリンチほどの距離に接近。空いた左手は拳銃を捨て、凪のもう片方の拳銃を押さえる。これで凪の両手を押さえたことになる。力は僕の方が幾分優るので、ぐぐいと力を入れてからませた腕を凪の頭部へと向ける算段だ。
右手に力を込めていると、不意に左手に違和感。いかばかりか軽くなったような感覚。握っていたのは凪の腕ではなく、拳銃だったと回答にたどり着くころには、ドガッという激しい音を伴わせて僕の顎が上方向に跳ね上げられていた。
凪の力強い掌底が僕の顎を強襲していたのだ。視界ががくんと空へと揺さぶられて強制的に天体観測をする羽目に。視界の端にオリオン座が映り、模擬戦の仮想戦闘空間は季節も反映するのかと無駄に関心していると、顎に金属特有のひんやりとした感触を覚えた。
顎に銃口を押し当てられ下を向くことすら敵わない。
カチリとトリガを引く音が皮膚を伝わって聞こえた。
『トリオン伝達機関破損』
「ご主人、今のはたぶん惜しかったんじゃないかな?」
「次こそは兄の威厳を取り戻す」
微妙なコメントでクーちゃんに迎えてもらうなり、決意を改めて即座に4戦目へ向かう。
近接戦は分が悪いと踏んで中距離からの撃ちあいに望んでみる。しかし、ガン=カタを修めている凪にはかすりさえしなかった。半身に反らした躰を最小限に動かし、全て紙一重で躱される。幾何学的配置、つまりコンパスと定規だけで表すことができる配置から僕らは逃れえないのだから、弾道を見切る凪には当てようが無いのだ。ちなみに、コンパスと定規だけで、任意の数n、+、-、×、÷、√を組み合わせることができるので、近似で見ればユークリッドの世界から抜け出せない僕が凪に銃弾を当てるすべなど皆無だった。まさか、虚数や無理数の世界から銃弾を撃つわけにはいかないからね。
中距離の撃ちあいを経た後に、相手の反応速度の閾値以下を狙って僕達の間の距離は示し合わせたように無くなっていく。銃口を振り下ろす。捌かれる。捌いた手を右にいなす。無遠慮に放たれた凪のローキックも何とか足裏で受け止める。
凪がフックの要領で斜め左から銃弾を放つ。
見えていたので、タタッとバックステップを踏む。
――タタッと踏むはずだった。
僕の跳び退りは”タ”の部分で凪に足をぐいと踏まれ、上半身だけ後ろに跳んだことになってしまった。反射的に両手を広げて受け身を取る。ここで、反撃しようという気概がないから勝てないのだと若干悟りつつも、自分の躰が本能に従って動くのを止めるべくはなかった。
ダダンと間断なく発砲音。
伸ばした両手が肩から消し飛んだ。受け身さえ取れずに、無様に尻から地に落ちる。文字通り手が出ない僕を見降ろして、凪は静かに近寄ってきた。その表情は月明かりが逆光になっており、妙に妖しい。
「兄さん、私一度壁ドンってやってみたかったんですよ。…でも、これじゃあ床ドンですねっ」
僕の顔横数cmから砂煙が勢いよく舞い上がる。アスファルトをひしゃげさせるほどに踏み抜かれた足が放つ空気の振動が僕の鼓膜をつんざいた。耳のすぐ側には数cmほどアスファルトにめり込んだ小さな足型が存在感を放っている。
「凪、……女子りょ――」
僕の言葉を断ち切るかの如く、時間を切り取る早さで引き金が引かれた。マズルフラッシュで表情こそ見えなかったが、残念なことに次の戦いには微塵の容赦もないことが予想されうる。
黒いマットレスに落ちるや否や、首跳ね起きの要領で立ち上がって5戦目へ。
ミニマップに表示されるマーカーを頼りに凪のもとへと走る。住宅街に挟まれた路地に着き、距離のほどは約5m。警戒して辺りを見回してみるが、闇夜に目立つはずの白い白衣は欠片も確認できなかった。
忽然にガシャシャンと音がした。ガラスが割れる細く高い音だ。90度右の一戸建ての窓が割れたのを視界の隅で捉える。
(ばかめ!! その反対側だ! )
とガラスの割れかたで石やら何やらを投げたと予想される方向へと銃身を向ける。
90度左に首を振ると、そこには白い壁ができていた。
否――白衣だ、と即座に答えにたどり着き、数発発砲。
4発目を放とうと、指先をトリガにかける。
――ッッツ!!
膝裏をトンカチで殴られる、そんな骨にまで届きそうな衝撃。
思わず銃身がぶれる。膝かっくんの要領、というよりも自分のかかとが腰の位置まで浮き上がってしまい、躰の平衡が崩れるとかいうレベルの話ではなかった。それでも、何とか体を捩じって、膝かっくんをしかけた彼女へと銃口を向ける。
しかし、向けた手には膝蹴りを食らわされ、拳銃は住宅の庭へと飛んで行ってしまった。逆の手を凪へと向けようにも、予備動作の段階で発砲音が聞こえて肩ごと吹き飛ばされる。さらに一泊おいて、ダンと乾いた発砲音。右肩にも風穴を空けられ、まさに手も足も出ないと既視感を覚えた。
「あ、兄さん、安心してください。欠損なんて特殊な性癖はないですから。ただ、……壁ドンはやっぱり手ですからねっ」
凪は仰向けになった自分に跨って、顔横をかすめるようにしてキレのある拳を振り下ろした。凪の顔が月明かりに照らされてやたら妖艶に見えたが、アスファルトを抉る壁ドンでそれどころではなかった。……たぶん、新しい性癖には目覚めていない。
「兄さんは、銃を当てようとするから上手くいかないんですよ。次は期待してます」
僅かな痛みを伴って胸に風穴が空き、あえなく緊急脱出。
二回の壁ドンを思い出しながら、黒いマットレスへと落下。シーツはもう大分ぐちゃぐちゃになってしまっている。
「ご主人、大丈夫? 凪はやたら大胆なことしてきたね」
「いやー、あれはたぶん死体蹴りだね。こっちを煽ってるんだと思うよ」
「そうかなあ、ご主人の目から見た凪の瞳はやたら扇情的に見えたんだけどね」
「扇情的って……」
そんな言葉どこから覚えてきたんだ、と突っ込みそうになったけど、クーちゃんには僕の隠しフォルダを見られているのでそこで言葉を止めた。
「ねえ、ご主人。そろそろご主人のかっこいいところも見たいな」
クーちゃんはそう言ってへへへと笑った。薄緑の髪の中性的な顔立ちの子の笑顔も、まるでそこかにいるかのように想起される。クーちゃんの姿はそれほどまでに、僕の日常になっていたのだ。
「よし、わかったよ、クーちゃん。僕はこれからレギュレーションを破る。クーちゃんは三本目の電極の準備をしてて」
「了解、ご主人。期待しているからね」
まかせてよと声の調子をあげて答えながら、第6戦目へ向かう。
僕が拳銃から放った
「レギュレーション違反ですよ、兄さ――」
とだけ残して、胸に数個の風穴を空けた凪は緊急脱出していった。
7戦目からお互いの装備は様変わりしていた。僕は本職が
7戦目は自身のトリオン体に誘導補正をかけた衛星軌道誘導弾とテレポートの合わせ技で、なんとか僕が勝利。
8戦目で隠し玉を出すことにした。射手界隈では常識だが、トリオンキューブには幾何学的操作を施すことができる。ほとんどの射手はキューブを立方体に等分割しているが、オサレロイド使いこと二宮さんは、立方体の任意の頂点から対角線に3本、重心から対称の位置の頂点に1本の直線を引いて3分割している。
これから僕が行うのは立方体から球体への分割だ。これは古代ギリシア、ユークリッドから考えられてきた“円積問題”の発展型、幾何学のテーマの1つでもあった“球積問題”への挑戦である。先に結論を言ってしまうと、残念なことに定規とコンパスだけで球積問題を解くことはできない。3分の4
しかしまあ言ってしまえば、近似値は求めることができるわけで、あとはアルゴリズムを組んでやればフラクタル幾何学を作成するように、自動的に極限までそれは近づいていく。1秒ほど時間をかけて僕の手元には3*3*3 27個のトリオンキューブ、否トリオンスフィアができあがった。
「兄さん、立方体から球体を作っても全然スタイリッシュじゃないですからね。それに球の充填率は74%程でしたから、それ大分無駄ですよ」
ケプラー予想の知識をひけらかしながら、個人防衛火器の火を噴かせて凪が言う。
「クーちゃん、模擬戦ブースの集中管理室にクラックしてこれから僕がやることは非公開に」
「了解、ご主人。…………終わったよ。ご主人の研究の成果を示すときがきたね」
しみじみと感慨深げにクーちゃんが言う。
バナッハ=ダルスキーのパラドクスというものがある。球を3次元空間内で、有限個の部分に分割し、それらを回転・平行移動操作のみを使ってうまく組み替えることで、元の球と同じ半径の球を2つ作ることができるという定理のことだ。数学的には可能だけど現実的には不可能だから、パラドクスということになっている。これができれば、ビー玉から地球サイズのガラス玉が作れてしまうことになるからね。
数学上の球体の断片は”明確な境界”も”体積”も持たない可能無限的な概念だ。ところがこの世界は実無限的な存在らしく、バナッハ=ダルスキーのパラドクスをそのまま現実に落とし込むことはできない。可能無限論的な数学の世界では”点”は大きさを持たないから、1つの球を2つにできるのだ。数学の世界の”点”は、原子はおろか素粒子さえ比べ物にならい程に小さい、というより概念でしかないってわけ。
つまり、この定理≒パラドクスは体積を持つこの宇宙の物質、森羅万象にはどうやっても適用できないのだ。――――と思っていたら、可逆性がある状態のトリオンにはこの”定理”が適用できた。どういうわけか、"パラドクス"が起こらなかったのだ。
というわけで、僕はエスクードに隠れながら三次元空間上の球の回転、平衡操作、幾何学操作を行っている。これもアルゴリズムに乗せて、自動的に作業は進んでいく。1つの球は2つに、2つの球は4つに、4つの球は8つに、8つの球は16に………、指数関数的に増えていく。もっともこの操作をするために、僕のトリオンを少なからず消費するので無限にとはいかない。
27と2の30乗の積は28991029248、つまり289億9102万9248個という天文学的な数とまではいかずとも、途方もない数のトリオンスフィアができた。正直なところ、辺り一面が淡い光を
「――えっ!! に、兄さん、兄さんの誘導弾バグってないですか!? というか、エスクードからすごい数がはみ出しているんですけど!!??」
凪の驚嘆の声を気にせずに誘導補正を一括入力。手を空に振りかざして一斉掃射。
エスクードに隠れながらのため探知誘導だが、この数なら関係がない。天の川銀河団がそのまま落ちてきたかのように、凪に向けてそれは殺到した。290億の白い流れ星はまさしくミルキーウェイ。
凪のトリオン体を消し飛ばした後に、筆舌に尽くし難い破壊の限りの音を響かせて290億のトリオンスフィアはアスファルトに叩きつけられていく。
全弾が撃ち付けられた後にエスクードの向こう側を見てみると、半径10mほどの空間がごっそり削り取られていた。局地的に見れば、天羽が大規模侵攻でやったときよりも
「ご、ご主人、や、やっぱりご主人の理論は正しかったっぽいね」
「……、う、うん、そうだね。帰ったらノートにまとめないと」
クーちゃんが若干引き気味に
■トリオンの性質まとめ:2/2更新
・物質を構成せず「力」を伝達する素粒子である?
・パウリの排他原理に従わず、同じ場所にいくらでも詰め込める。
・厳密には空間を構成しない。あるいは、仏教的なあり得ないほど極小の存在が最小単位かもしれない。
9戦目も28991029248個の誘導弾で吹き飛ばしてやった。10戦目は一度テレポートで躱されてしまったが、28311552 (2の20乗に27をかけた数) の誘導弾を5秒ほどで展開しなおして、同じように物量圧殺。この10本勝負は5連敗の後の5連勝でドローとなった。
「兄さん、ハメ技、バグ技はルール違反ですよ。もう10本やりましょう」
結果:凪6‐4岬
「まだまだですね、兄さん。さあ、もう始めますよ」
結果:凪7-3岬
「ばててきましたか、兄さん。もう一本だけやりましょう」
結果:凪5-5岬
「兄さん、惜しかったですね。ワンモアセッ!!」
結果:凪4-6岬
「兄さん、最後の2本TAS
相模隊という言葉に凪が表情を曇らせたので、その真相を聞くために模擬戦をやっていたはずが、僕は熱中しすぎて手段の方が大切になっていたらしい。それは凪も同じのようで、ブースを出た彼女の表情は憑き物が落ちたかのようにスッキリとしたものになっている。
「凪、次の相手の相模隊って」
「ああ、それは私をいじめてた奴らですよ。ひどかった時期に兄さんがいなくて、大変だったんですからね」
「……それはすまなかった」
「いいんですよ、最近は特になにも無いですから……えっ」
そんなことはへでもないと語っていた凪の表情が急に強張ってしまった。
僕達2人の前に、ちゃらちゃらとした面もちの男2人と女2人がぺちゃくちゃと喋りながら近づいてくる。奴らの顔は相模隊の顔写真と完全に一致した。特に女2人―― 一人は濃いめの茶発、もう一人はプリン頭――の目つきは明らかにこちらを見下していて、ひどくイライラさせられた。凪は再び僕の白衣を握りしめるもその手はぶるぶると震えてしまっていて、目線はタイル張りの床を
プリン頭が身長140cmにも満たない凪を見下すようにして、口を開く。
「おい、パンダがまた調子に乗ってんじゃねえか。目の下のクマ消してからこいって言っただろ」
微妙にかすれた声と凪を完全になめきっている視線に神経が逆撫でされてしまい、思わず手が出そうになるが必死にこらえる。凪は顔を足元へと向けたまま、うんともすんとも返さなかった。僕の白衣の裾を握った手はまだ震えている。凪の方がよっぽど強いはずなのに、何も言い返せていない。恐怖を植え付けるいじめ、人間関係の力学における歪みとはどうもそういうものらしい。
「お前、次のランク戦、わざと私に撃たれろよ」
濃いめの茶髪がさも当然のように言ってきた。勝手に群生的な秩序を作ってしまういじめの環境下では、これが正義であるかのようにいじめている側は言う。茶髪の態度と言動に、いじめというものがこれほどにも全能感を覚えさえるものだと如実に実感できた。いじめの全能感というのは、『その他者の壊れゆく息づかいと手応えを享受しながら完全に他者をコントロールする自己』から得られるのだから、人間関係の力学に翻弄される側は悲惨な事態を避けられない。
何を客観的に見ているのだと自分に突っ込みたくなるけれども、努めて冷静に分析的に考えていないと今にも手が暴力に訴えてしまいそうで、そうでもしないと自分を抑えられる自信がない。
凪はついさっきまで天衣無縫、天真爛漫に目を輝かせてスコーピオンを振わせていたのに、こいつらが来てから一度も顔を上げられていないのだ。
「……そ、それはダメです。私と、兄さんには成し遂げるべきことがありますから」
「……凪」
凪が喉を絞るようにして、か細く言った言葉にクーちゃんが返す。
「兄さんだってよ、こいつブラコンかよ。私に撃たれなかったら、またあれをばら撒くからな。ほら、兄さんだっけかお前も見てみろよ」
「…や、やめてください」
凪がなんとか振り絞って出した小さな叫びを気にせずに、濃いめの茶発がぐいと個人端末を僕の目の前に押し付けてくる。そこには一糸も纏っていない、あられもない姿をした凪の写真があった。男性が一緒に写っていたので、具体的に言ってしまうとR-18の禁を確実に破ってしまうだろう。僕は反射的に殺してやろうかという目で、ぺちゃくちゃと喋っている男二人を睨んだ。僕の拳は固く握られていて、それを感情のままに振うのも全く
「に、兄さん! それは私じゃありませんから。……安心してください」
理性を半ば失いかけていた僕を凪が何とか、こっちに戻してくれたらしい。
「……、クーちゃんあいつらの家の方にクラックして、僕は端末の方をやる」
「了解、ご主人。ネットの海に流れていたら完全に消すのは難しいけど、全力を尽くすよ」
僕が
「終わったよ。ご主人、凪」
濃いめの茶発が個人端末を慌てて操作している。それに釣られて、プリン頭も端末を開いた。
「後の2人にも伝えといて、そのファイルは癌細胞みたいに増えるって。…ほら、凪。行くぞ」
「……、え、は、はい」
白衣の裾を握る凪の手を強く握り返して、一度も振り返らずに模擬戦のブースを後にした。
カツカツ、コツコツと足音が通路に響く。
「凪、あんなの気にしなくていいから。凪はもう大学生になるんだし。高校行かなくていいんだし」
「……分かってます」
「前は助けてあげられなかったけど、今度は僕を頼ってくれていいし、今はクーちゃんもいるしね」
「そーだよ凪、僕もついているからね。あいつらの端末にはバックドアもつけたから、どうとでもなるよ」
「ありがとね、クーちゃん。……そうだ、兄さん。今日の夜勤の防衛任務、私も行っていいですか」
「うん、いいけど、寝ないで大丈夫なの」
「受験が終わった高校生には、学校何ていりませんからね」
ふふんと鼻で笑いながら凪が返す。
夜勤の防衛任務ために外に出ると夜空の星はいつも通り綺麗に輝いていて、夜風は少しだけ暖かい。透きとおった空気に混じった新芽の淡い香りが、僕たち三人にほんのりと春の訪れを感じさせた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。感想、お気に入り、評価とても嬉しいです。
空白が少ないんだよ、と文章形式に何か思うところがあれば言ってくださると書いている人は喜びます。
この話まで呼んでくれた読者様にアドバイスや批判を頂けると書いている人は喜びます。
岬君の上司の雷蔵さんが21歳という衝撃。雷蔵さんは海外の大学でPh.Dを取っているに違いない。
※以下はチラシの裏。
「ねえ、凪。凪は何で、紙切れを見ながらRPGやってるの」
「これはチャートって言って、攻略手順が書いてあるんですよ、クーちゃん」
「ねえねえ、凪。じゃあ何で、凪は同じRPGを10回もやっているの」
「それは、タイムを縮めるためですよ、クーちゃん」
「ねえ、じゃあ何で、タイムを縮めるの」
「…クーちゃん。縮められるものがあったら、縮めるというのが私達なんです」
「じゃあ、ご主人と凪の距離は?」
「――えっ!? はあっ!?」
「ああ残念、これがいわゆる、ガバガバプレイってやつだね、凪」
「まあ、時間はありますし、チャート改善してもう一回走りますよ」