「兄さん、行きますよ」
「え、ついてくるの?」
「兄さん一人だと心配ですし、それにボーダーでは私の方が先輩ですし」
鏡を見て、外出用の伊達メガネの位置を調節させながら、妹の凪が言う。
フレームの太い伊達メガネをかけるのは、目の下の濃いクマを隠すためだ。左右に分けた長い前髪もそのコンプレックスをなんとか目立たないようにと、苦心した結果だと思う。
凪にこれほどのクマを作らせた原因はほとんど自分にあるわけで、心苦しい。
「大丈夫。アポイントメントはとってあるから、ゆっくりでも間に合うよ」
ネクタイを締め、ジャケットを羽織り、返事をする。女性の支度はえてして時間がかかるものだ、ゆっくりと待ってあげよう。
電車に揺すられること20分。アポを入れた時間の10分前に本部基地に到着。
大きなエントランスに足を踏み入れる。受付のお姉さんはかなりの美人さんだ、それに話しやすそう。ボーダーに入ってよかった。
「あ、ああ、あの、八宮と言います。受付にこれを見せろと書いてあって…」
「ああ、あなたが八宮さんですか」
そう言って、受付の美人さんは僕が封筒から出した紙を受け取った。
「兄さん、どもりすぎ!」
凪からの刺すような視線が痛い。これ以上、妹に情けない姿をさらしたくない、落ち着け平常心。
受付の美人さんは左耳に装着しているヘッドセットに手を伸ばした。装置が緑に光ったので、たぶん起動させたのだと思う。
「こちらエントランスです。――課長、八宮さんがお見えです」
「――ああ、はい。わかりました。――通しておきます」
「エレベータを使って、三階のトリガー開発課まで行ってください。詳しくはそこで」
美人の受付さんは事務的に愛想笑いをしてくれた。
「八宮さん、いらっしゃい。僕がトリガー開発課の課長です。」
赤髪を真ん中で分けた横幅のある方が迎えてくれた。
その彼にソファーに座るよう、促される。
「君の『
「は、はい。とと、とんでもございません。お願いします」
凪の視線が刺さる。どもりを気にするでなく、課長は話を続ける。
「では、まずは『副作用』から説明します…」
「に、兄さん、すごいです。『副作用』ですよ。何か自覚ないんですか。耳がいいとか、目がいいとか、未来が見えるとか、他人の心が読めるとか」
凪が目を輝かせてこちらを見てくるが、生憎心あたりがない。今日の凪の表情は忙しいなあ。はしゃぐ妹の様子を気にする様子もなく、課長は続ける。
「八宮さん、あなたの『副作用』は……『睡眠不要体質』です」
・
・
・
睡眠不要体質。
睡眠不要体質。
睡眠不要体質か……、なにか思ってたのと違う。
凪も僕も肩を落とす、緊張していただけに拍子抜けだ。もしや、この体質が『副作用』かと思うことはあった。あったけど、『副作用』への先入観が僕たちを邪魔したんだ。
まあ、この体質は僕たち兄妹を崩壊させかけた、憎むべきものであって、当然『副作用』と言われても、まったく喜ぶ気にはなれない。
「気を落とさないでください。ボーダー基準の評価では、ランクBの特殊体質です」
「村上さんの『強化睡眠記憶』なら羨ましいのですが…。兄さんのそれって、24時間起きていられるだけですよね」
心ここにあらず、意気消沈の僕たちを気にせず、課長の話は続く。
「まあ、端的に言ってしまえばそうです」
「ですが、優秀なトリオン能力持つ人が『副作用』を発揮するということがわかっているので逆もまたしかり、というわけです。それに妹さんも優秀”だった”ようですし」
課長のその言葉は凪をうつむかせた。凪の手はギュッと、固く握られている。
気に食わない発言があったが、それを顔に出せる立場ではない。
今は耐えよう。
「そして、その『副作用』が八宮さんの勤務体系に関係しています」
「つまり、24時間働けるなら、24時間働けということですか」
そんなご無体な話があるかと、内心叫んでいるが顔には出せそうもない。
「まあ、言ってしまえばそうです。八宮さんはリーフレットを読んできましたか?」
「はい、”熟読されたし”とのことなので」
課長の細い目は細いままで、淡々と話が続く。
「ボーダーの主戦力が中学生、高校生、それと大学生で構成されているのはわかりますね。彼らには当然、学校があって、生活があります。当然、朝起きて、夜眠るわけです…」
つらつらと流れていた言葉が途切れる。少しのため。
「しかし、『近界民』のトリオン兵は昼夜を問わず、文字通り24時間襲ってきます。保護者からの圧力もあり、中高生に夜勤をさせるわけにはいきません。そのため、三門市の夜を守る隊員の人数が不足している、という現状があります」
「そこで、八宮さんに、昼はエンジニアリングをしていただき、夜は防衛任務を任せたいと上は考えています」
なるほど、なるほど。
これは、顔をしかめずにはいられない。
す〇家のソルジャーも泣いて逃げ出す勤務内容だ。
「もちろん、見返りはあります。給与体系を見てください。超過勤務手当に、超過勤務手当が重複されて、さらに深夜手当、早朝手当、危険任務手当もつきます。戦功をあげれば、これ以上の給与を支払う用意もあります。」
目の前には、およそ大卒が初任給でもらえるとは思えない金額が提示されている。
母さんのこともあるし、お金が必要なのも事実だ。
それに、24時間動き続けることは苦でも何でもない。
「兄さん、大丈夫ですか。私は兄さんがいいなら、一緒に仕事ができて嬉しいですけど」
凪のはにかんだ顔がこちらへ向く。
とどめを刺された。
YES以外の答えはありえない。
「ぜ、ぜぜ、是非お願いします」
僕は直属の上司になる課長の手を握り、ぶんぶんと上下に振り回していた。
トリガーに関する説明は別の支部の宇佐美さんという方がしてくださるそうなので、支持された場所へと向かう。そこには黒縁メガネの黒髪美人さんがいた。
「おーい、凪ー」
「栞さん、お久しぶりです」
握手をする二人の間には、それなりの信頼関係があるのだろう。
「あなたが八宮岬さんだね、噂は凪と林藤支部長から聞いてるよ」
「私は宇佐美栞 エンジニアの同士として、仲良くしていこうよ」
そう言って、彼女はメガネをクイと持ち上げてみせた。彼女の笑顔もフレームも輝いて見える。
「よよ、よろしくお願いします」
「こんなに兄だけど、栞さんお願いね」
「了解 (ラジャ)」
片手をあげて敬礼のようなポーズをとっている。彼女のメガネが再び、キラリと光った。
「林藤支部長が八宮さんの履歴書見ながら言ってたよ。『向こうには、確か寝ないで済む、サイドエフェクトもあったな』ってね。面接の日に軽く身体検査があったでしょ、そこでボーダーは八宮さんが『副作用』持ちだと確信したわけだよ」
「なるほど、そのような理由が…」
「それで、トリガーについて説明する役を代わってもらって、私はここにいるわけ」
「八宮さん、いや、八宮くんって読んでいいかな。これから
「あ、はい、どうぞ。お好きなように」
なんだか話しやすい。エンジニア仲間だからだろう、彼女からも独特の雰囲気を感じる。それは、徹夜をいとわず、好きなことをやり抜く心意気だ。
「ところで、八宮くんはトリガーについてどこまで知っているの?」
「えと、リーフレットを読んでそれから、添付されている映像資料を見ました。あと、凪からランク戦のビデオを見せてもらったり、トリオン兵との戦いの映像を見せてもらったりしました。それと、分からないところは凪に聞いて確認しました」
「ほう、なかなか勉強熱心だね。感心感心。習うより、慣れろ、という言葉があるように、早速だけど、これを持ってみて」
手渡されたのは、握りやすいようにグリップのついた直方体。片手に収まるくらいの大きさだ。
「凪も部屋に入って、色々教えてあげてね。じゃあ、いくよ――」
―― 一瞬で景色が変わった
――上下左右、白い正方形に囲まれた空間
――ここには、僕と凪しかいない
「兄さん、説明したことがあるけど、ここは仮想戦闘用に作られた空間です」
「兄さんも、換装したらどうです」
戦闘体へと、換装した凪の顔からはクマが消えていて、かわいいというよりかは美しいという面立ちになっていた。
心のなかで、トリガー、起動と、唱える。
『トリガー起動を確認。戦闘体生成。実体を戦闘体へ換装』
機械的な音声が頭の中へ。
――全身が宙に浮く間隔
――コンマ一秒後、白に橙のラインが入った隊服に僕は包まれていた
「八宮くーん。なかなか似合ってるねえ。30分くらい時間あげるから、色々なトリガー使ってみてよ。トリガー開発課なら、自分で使ってみなきゃね」
なるほど、一理ある。それに僕は、防衛隊員にもなる必要があるようだし、色々確認しておかなと。
弧月、スコーピオン、レイガスト
アステロイド、ハウンド、バイパー、メテオラ
グラスホッパー、テレポート、シールド、エスクード
全部試してみた。どれも興味深い。
エルゴノミクスという視点から見ると、弧月とスコーピオンの対比が興味深い。弧月は日本刀のように完成された万能の剣だ。”武器へ人が合わせる”という設計思想。
対して、スコーピオンはどこからでも様々な形で刃をだすことができる、とても取り回しのいい武器だ。人間の数だけ使い方があるように思う、”武器が人に合わせる”という設計思想だろうか。
「八宮くーん、なかなか楽しんでいるみたいだね。そろそろ、模擬戦いってみようか。凪も準備いい。勝負は10本ね」
右手に弧月、左手にスコーピオンを持って見比べていると、スピーカーからの栞さんの声が聞こえた。時間を忘れるほど夢中になったのは久しぶり。試してみたいトリガーの使い方が山ほどある。
テレポートの原理ってなんだ、レイガストの可変機構はどうなっているのだろう。そもそも、可逆性ありまくりのトリオンとは一体なんなのだろうか、一種のナノマシンのように思える。
思索にふけっていると、いつの間にか凪が目の前にいた。両の手にはスコーピオンが握られている。二本の切っ先は真っ直ぐに僕へ。
「兄さん、たとえ兄でも手加減しませんよ」
表情から本気度うかがえる。いつもの優しい笑みの影も見えない。
頷き、手加減は不要だと示す。
弧月を正眼にかまえる。
いつでもこい。
――ガキン
鋭い金属音。
音に驚き思わず目を瞑った。
何の音だ!?
辺りを見回す。
そうか。
二本の弧月を激しく打ち付けたのだ。
元いた場所に凪はもういない。
音に気を取られ、見失った。
右に気配。
そこか――
気配の方向へ首を向けながら、弧月を横なぎに振るう――
回した首の勢いが止まらない。
視界が回る――
そして急降下――
最後に映ったのは、こちら見下ろす凪の瞳――
『伝達系切断、岬ダウン』
耳障りな機会音声だけが残った。
「おおお!? 凪、すごいね。オペレーターに転向したらしいけど、まだ練習してるでしょ。さすが、木虎ちゃんと張り合っていただけあるね」
「あまり、ほめないでください。栞さん」
凪の目は鋭いままだ。10本終わるまでは、戻らないだろう。
「兄さん、立ってください。いきますよ」
聞いていた通り痛みはわずかなものだけど、それ以上に精神的にやばい。凪ってこんなに強いのか。ますます、情けないなあ、僕。
凪はスコーピオンの切っ先を僕に向け、構えた。
近寄らせちゃだめだ、近接戦で敵うはずがない。
よし、試したいことを色々やってみよう。
右手の上に27分割されたトリオンキューブを、ふわふわと浮かべる。
凪が動くよりも早く、
追尾対象は凪じゃない。
自分だ。
3*3*3 27のキューブが僕の周囲を舞う。
イメージは静止衛星。
自分を中心にトリオンキューブを等速運動させる。
「探知誘導」をプログラムされたキューブは脱出速度±0を維持し、中空を舞う。
できた。
誘導補正、キューブの速度を調整すれば、周回半径もコントロールできる。
さらに、27個のキューブを軌道に乗せる。
周回軌道する50発強のキューブを前には近づけまい。
凪の目は見開かれている、少しは見返してやれただろうか。
凪の口角はニヤリと上がった。
楽しくなってきたと、言わんばかりの面相だ。
近寄れない凪に向け、
どれも紙一重で躱される。
実力の差は歴然。
だが、工夫次第では一泡吹かせられる。
待っていろ。
――二本の白い閃光
近寄れないなら、必要ないと言わんばかりに、凪の手から二本のスコーピオンが空中に投げられた。
凪から目をそらさない。
中空でカキンという、金属が相打つ音。
コンマ一秒の意識のそれ。
意識を凪に戻すと――
凪の手には、黒光りした武骨な狙撃銃が握らていて――
閃光。
パキンと、僕のシールドが破砕する音だけが残った。
『トリオン供給機関破損、岬ダウン』
「おお!? 凪のそれ、久しぶりに見た。一瞬で持ち帰るやつ。八宮くんの
「兄さん、立ってください。いきますよ」
「よし、こい」
・
・
・
歯が立たない。
周回軌道バイパーは体の片側に張られたシールドで全て防がれ、空いた片手のスコーピオンに刺殺された。
シールドに浅い角度で当たったキューブは反射するという性質を使った奇襲も失敗。
こちらの命は凪のシールドを利用した
最後には、周回軌道のない真上から襲われて負け。
『10本勝負終了 勝者 八宮凪』
岬:××××××××××
凪:〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
疲れた。
最後はスコーピオンの足ブレードで踏まれて負けたのだった。
天井には無機質な正方形がいくつも並んでいる。
白い正方形を覆うように、黒い艶やかな線が垂れてきた。
「兄さん惜しかったですね」
凪が僕を見降ろして言う。手を伸ばすと握り返されて、そのまま僕は釣り上げられた。
「妹に負けるとは、まだまだですね」
家で見せる凪の表情に戻っていた。クマがあろうとなかろうと、とても魅力的な笑顔。
「いい試合だったよ。八宮くんの成長が楽しみだね。私は玉狛に帰るけど、二人はもう少しここ使ってていいから。あ、八宮くん、アドレスもらっていくよ」
「あ、はい。また、色々教えてください」
凪は目を輝かせてこちらを見ている。こちらにまで、わくわくが伝わるほどの表情。
「さあ、兄さん。楽しくなってきました。もう一セットやりましょう」
結果:10-0
・
・
「勝負はこれからですよ、立ってください」
結果:10-0
・
・
「惜しかったですよ、ワンモアセッ」
結果:10-0
・
・
「こんなに兄さんと遊んだのは久しぶりですね。楽しかったですよ」
結果:9-1
「こっちも楽しかった。B級に上がったらまたやろうね、凪」
睡眠不要体質の二足のわらじ生活が始まった。
課長はあの人です。エネドラッドにトリオンを注入した人です。
妹が中途半端な敬語なのは、およそ誰に対してもです。