有給(土曜日) が降りたのは予定よりも1週間遅れてからだった。
というのも、アフトクラトルの人型近界民が大きな爪痕を本部開発室や通信室に残していき、その復旧作業が休日返上で行われたからだ。開発室は震度7の地震もかくやという世紀末めいた有様に様変わりしていた。PCのディスプレイや会議用大型液晶の散り散りに砕けた欠片は、剥き出しのLEDライトに照らされ真夏の水面のようにギラギラとした輝きを見せる。ばらばらになったキーボードはまるで百円均一の50音ブロックのようで、ところどころにある血だまりとの組み合わせができの悪いダイイングメッセージを形作り、どうにもやるせない気持ちにさせられた。
亡くなった6名の職員の葬式はしめやかに行われた。僕はまだ、1年ほどの付き合いしかなかったけれど、他の開発室のメンバーはボーダーに入る以前からの友人だったようで、泣きに泣いていた。勇気ある優秀な方から死んでしまうという事実がことさら理不尽に思える。
春雨さんの奥さんは棺に入った彼女の夫の手を取り静かに自分の胸に合わせ、2人で一緒に長生きしようねって約束したじゃない、と噛み殺した声で叫んでいた。春雨さんが守った機材のおかげで、キューブ化から救われた彼の息子の目は赤くはれ上がっていて、その瞳は深い絶望と真っ直ぐな復讐に染まっていた。おそらく別の葬儀場や病院でもこれと似たような光景が存在しているはずで、明るい未来をかき消していった近界民の禍根は先の見通せない闇のように深い。
葬儀のあった夜にさえ、復旧作業は行われた。僕は必死の作業中に悪いと思いながらも、作業内容的にも心情的にもぐちゃぐちゃとしている間に、ボーダー上層部がスタンドアローンで管理している機密情報へのクラックを試みた。クーちゃんのためにどうしても、鳩原事件の真相が知りたかったからだ。
そこで得た情報は”雨取麟児”という名前と、鳩原未来、雨取麟児、他2名が
意外にも世紀末めいていた開発室はあまり時間をかけずに元通りになった。外壁や床や天井といった型枠があっという間にトリオンで修復されたからである。このような経緯があって、僕は今、初めての有給休暇を満喫できている。
「いや~、兄さんが土曜日に家にいるのも久しぶりですね」
凪は十字キーを器用に動かしテトリミノを自在に操りながら、感嘆の言葉を漏らす。テトリミノがすさまじい速さで消えるたびに高音程のSEが鳴るが、凪と僕はいちいちそれに喜ぶことをしない。僕たちにとってこれは作業同然ですらある。
「凪、朝ご飯当番を賭けた50本勝負をしているうちに、昼ごはんになる気がするんだけど」
「大丈夫ですよ。兄さんには大分ブランクがあるようですしねっ」
凪は語尾を撥ねさせながら棒を穴に刺してテトリス――4段同時に消すこと――をする。それが2回も続くものだから、僕の画面にあっという間にお邪魔ブロックが沸きあがり、瞬く間に物量圧殺された。これで、38対11である。ぷよぷよではなく、テトリスを選ぶあたりが凪の無い女子力を物語っているのだろうと
にもかかわらず、途中でクーちゃんがご主人手伝おうか、と救いの手を差し伸べると、凪はこれは私と兄さんの勝負です、と僕への助け舟を突っぱねた。どうやら、凪の耳はなかなか都合よく作られているらしい。
結果は50対24で負け。ブランチのような中途半端な時間に僕が朝ご飯を作ることになった。
ちょっと焦げ目がつく程度にこんがり焼けたトースト、グリーンサラダ、スクランブルエッグといった簡単な料理を白いクロスの敷いてあるテーブルに並べ終える。
「兄さんと一緒に、朝からゲームなんて久しぶりですね」
なんの脈絡もなく、唐突に凪が呟いた。
「今年は僕が働きはじめたり、凪の受験があったりで忙しかったからね」
「そうですよ、大晦日の99年桃鉄や正月三が日のRTA大会は毎年楽しみにしていたのに。まあ、そのおかげで兄さんと同じ大学に受かったんですけどね」
「いやー、本当におめでとう、凪。でさ、伝えたいことがあるって前に言ったでしょ。はい、これ合格祝い」
そう言って、僕はサービスカウンタにラッピングしてもらった辞書ほどのサイズの直方体をテーブルの上に置く。そのとき、僕は何故かチクリと胸が痛んだ。
「えっ、伝えたいことってこれですか…。破いていいですか、兄さん」
目を丸くしてプレゼントを見た凪は僕がどうぞと言うと同時に、ぺりぺりと封をはがしていった。
封がはがれていくに比例して、凪の表情からうかがえる機嫌がどんどん悪くなっているようにも見えるので若干不安である。そして、全部はがし終えると凪はため息交じりにつぶやく。
「…システム手帳ですか、兄さん。なんかこう、もっとなかったんですか。私が喜びそうなものは」
「なかなか、入学祝いにふさわしいものが思いつかなくてね。でも、周りを見るとボーダーと大学生の兼業は大変みたいだから、それを使ってスケジュール調整に役立ててよ。僕も頑張るから、そうしたら一緒に遊ぶ時間が少しは増えそうだと思ってね」
「に、にに、兄さん、そうですね、これを使っていい感じにスケジューリングします」
凪はニヤニヤと革張りのシステム手帳の表紙を撫でながら、朝ご飯が冷める前に食べませんと、と嬉しそうに牛乳が注がれたコップへと手を伸ばした。
無難な朝食を間抜けな時間に食べ終えると、僕は思い出したように呟く。
「凪も伝えたいことがあるって言ったでしょ。それって、何」
「え、あー…、そうそう…、そうです、お祝いですよ。お祝い。兄さんと一緒です。だからこれから買い物に行きましょう。そうです。それがいいです」
しどろもどろに目線を右上に走らせてから、急にはっとしたかと思うと、語気を強めて凪が言う。昔に比べると大分表情の変化が軽く、柔らかくなっているので兄としては嬉しい限りである。
「まあ、せっかく一級戦功でボーナスが手に入ったしね」
「そうですよ、80万ですよ、80万。どうしますか、兄さん」
「これはでも、多分にクーちゃんのおかげだからね。できればクーちゃんに何か買ってあげたいというか、使ってほしいというか。誕生日には、まだちょっと早いかもだけど」
「えっ、いいのご主人。じゃあ、僕もご主人から何かプレゼントが欲しいな」
声のトーンを上げてクーちゃんが言う。
思えば凪にプレゼントを渡し時に感じた心の痛みは、クーちゃんの前で凪にだけプレゼントを渡すという暴挙によるものだと得心した。
◆B級22位 八宮隊
・南西部地区から基地へ避難するC級隊員を援護。
・人型近界民を撃破し、捕虜にした。
・手際のよいオペレートでC級隊員の被害、一般市民への被害を最小限に抑えた。
・新型撃破数2(鈴鳴・八宮合同で撃破した4体を等分したもの)
クーちゃんのおかげというのはまさにその通りですね、と凪は目の前にAR(拡張現実) 化した戦功一覧から3番目の黒ポチを指さした。ついでに言うと、人型近界民撃破もクーちゃんによる功績が非常に大きいので、さすがはクーちゃんと賞賛の念を禁じ得ない。
「兄さん、服にしましょうよ、服。兄さんの内定1周年祝い」
電車に揺すられること20分。地方都市特有のやたら駐車場面積の大きい複合商業施設にたどり着くと、凪はメンズ系の服屋を指さしてはしゃぐようにして言った。
「じゃあ、それは凪に選んでもらおうかな。僕はクーちゃんに何か買ってあげたいし」
「え…、ああ、そうですか。兄さんも私に選んでくれましたしね。私のセンスがこれぞというものを選んできますから、期待しててください。いい時間になったら、メールで場所決めて落ち合いましょうね」
凪は踵を返しながら言うと、すたすたとローファーで地を踏みしめ歩き出した。澄んだ冬の空気になびく長い黒髪と黒いロングコートはどこか寂しげに映った。
「ご主人、よかったの? 」心配そうにクーちゃんが言う。
「うーん、少し悪いことをしたかも。クーちゃんさえよければ、凪に付いて行ってあげて欲しい」
「わかったよ、ご主人。今、僕は3人ほどいるから1人凪の方に行ってくるね」
「ありがとね、クーちゃん。それと、凪が変な服を買わないようにそれとなく、言ってあげて」
「了解、ご主人。でも、ご主人も大概だからね。何その、バーテンダースタイル」
クーちゃんが言うように、確かにショーウィンドウのガラスには、黒いスラックス、白いカッターシャツに黒いベストといった出で立ちの男が動揺した表情で立っていた。
「え、そうかな、クーちゃん」
「まあ、ご主人は背があるからその恰好は悪くないけど、周りから浮いちゃっているよね。二宮さん的なシュールギャグにもなれてないよ」
「はは、恰好悪くないなら、まあいいか」
と乾いた笑みを浮かべて、僕は肩をすくめてみせる。
土曜日の昼時なので、複合商業施設はイモ洗いのように人でごった返しになっていた。父親と母親に両手を握ってもらっている子供や、幸せそうに恋人つなぎをしているカップルの姿が見え、2週間ほど前の大規模侵攻は市民の中で早くも風化しつつあるのだと感じる。
「でさ、クーちゃんは何か欲しいものあるの」
「………」
「クーちゃん?」
「ああ、ごめんね、ご主人。僕もご主人の手を握ってみたいって思ってね。それで少し周りに見とれちゃって」
クーちゃんの言葉に反応して僕は自然と自分の右手を見つめていた。すると、あの日のクーちゃんの柔らかな手の感触がよみがえってきたかのように感じてしまう。
「な、なるほどね、クーちゃん。それについてなんだけど、ちょっと考えていることがあるんだ。凪と合流したら説明しようと思う。話を戻すんだけど、何か欲しいものある、クーちゃん」
大規模侵攻があった日の夜を思い出してしまい、精一杯平静を保つように努めて言った。
「えっ、ご主人、何かアイディアがあるの」
「まあね」僕は少し得意げに言って見せる。
「じゃあ、プレゼントはまたご主人の30分がいいかな。今は一緒にウィンドウショッピングを楽しみたいよ。ね、岬」
「ちょ、ちょっと、クーちゃん、それは反則。30分でも1時間でもいいから、名前をふいに呼ぶのはだめ」
クーちゃんの言葉にクーちゃんを抱きしめていた感触まで思い出してしまい、僕の顔は湯気が出てしまいそうなほど朱に染まっている自信がある。どうにも、自分の名前を直接言われてしまうと、落ち着かないというか、ドキドキするというか、胸が高まってしまうからだめだ。
それを察してか、クーちゃんがなだめるように言う。
「わ、わかったよ、ご主人。じゃあ、電化製品のところを見て回りたいな」
最初はレプリカ先生に一番似ている炊飯器はどれだと真剣に探していたが、家電屋、本屋、家具屋をひやかす僕の目線は次第に陳列されている商品でなく、恋人たちの手に吸い込まれていった。僕の視線はクーちゃんの視線でもあるので、本当に恥ずかしい限りであるのだが、不思議とクーちゃんは何も言ってこなかった。
ほどなくして凪からメールをもらい、昼食と夕食を抱き合わせた物をファミレスで取ることにした。中途半端な時間にもかかわらずそこそこの席数が埋まっており、家族連れやカップルが幸せそうに安っぽいスイーツに舌鼓を打っている。僕と凪は周りからどのように映っているのだろうか、といらぬ心配も脳裏によぎる。
「では、これより今期における八宮隊のランク戦の作戦会議を始める」
先ほど凪から頂いたPC用メガネをクイっと動かして、城戸総司令の声
プレゼントで貰ったブルーライト遮断グラスをくいくいと動かして、僕はわざとらしく声を作りながら続ける。
「今期の目標はA 級へ入ること、以上」
突飛な言葉に現実に引き戻された凪が目の前の烏龍茶をごくりと飲み込んで口を開く。
「A級ですか、兄さん。まあ、二宮隊、景浦隊が昇格せずに、B級3,4位が昇格候補になるなら、やってやれないことはないと思うんですけど。何か理由があるんですよね」
「もちろん理由はあるんだけど、順を追って話した方がよさそうだね。クーちゃん、クーちゃんをARしてもらってもいい? 」
「大丈夫だよ、ご主人。結構容量が大きいから、2人ともちょっと時間ちょうだいね」
コンタクトの右上に進捗状況が数値で表示されると、それは99で少し止まり、やにわに100になった。
「え、これが、クーちゃんですか」
目をぱちくりとさせた凪は僕の右隣にちょこんと座っているクーちゃんを見る。薄緑の髪をセミロングに切りそろえた中性的な顔立ちの子は、白いシャツをサスペンダーで留めるといった装いだ。クーちゃんは凪の方を見てからぺこりとお辞儀をする。
「へへ、この姿で凪と会うのはじめましてだね」
凪はよろしくねと返事をして握手をするべく手を伸ばしたが、クーちゃんは手を横に小刻みに振ってそれを制した。
「今の僕は2人のコンタクトを通して映している映像に過ぎないんだ。だからご主人にさえ、触れることができないんだよ」
そういってクーちゃんはテーブルに立てかけてあるラミネート加工されたメニューに手を伸ばす。だが、クーちゃんの手はトンネル効果のように長方形のメニューを貫通してしまった。
周りからしたら、凪が何もない空間に握手をしようと手を差し出したように見えているはずなので、僕は話題を変えるようにして話し出す。
「というわけで、これを見て欲しい」
そう切りだして、僕は指で空を切り長方形のディスプレイを形作る。
切り取られた空間から再生される動画を見て、凪がとつとつと呟いていく。
「あ、これはあの人型近界民の爺さんと特級戦功で噂になったユーマ君ですね」
2人の近界民は文字通り人外の動きを見せ、目で追うのがやっとな激戦を繰り広げている。ユーマは長い鎖や重くなる弾――鉛弾――を活用して、絡め手を織り交ぜながら隙を作り人型近界民の老爺に肉薄する。対する老爺は圧倒的な攻撃範囲と速度を活かして、割り切った老練な戦いかたをしているように窺える。
「あのとき、この爺さんが本気をだしていたら、私たち一瞬でやられてましたね」
凪が恐ろしい想定を述べている間に、2人の戦いは終局に近づいていった。
ユーマは速度勝負一本に絞り、最大限に加速して接敵を試みる。だが、老爺のトリガーである周回する刃が恐ろしい速さで迫るユーマを見事に捉え、一刀両断した。
ユーマのトリオン体が白いポリゴンの欠片となって霧散していく。
微細なポリゴンの霧の中で何かが瞬いた次の瞬間。
制服姿のユーマの右腕が唸りをあげ、老爺の躰の中心に大きな風穴を空けた。
「え、これって、つまりどういうことですか、兄さん。ユーマ君って最初からトリオン体だったということなんですか」
質問をしといて自己解決するあたりが理解力のある凪らしい。
「ユーマに訊いたんだけど、どうもそうらしいんだよね。さらに尋ねてみると、どうやら向こうの世界にはトリオンで義体を作る技術があるらしいんだ」
凪は納得したとばかりにぽんと手を打つ。
「なるほど、兄さんがA級を目標にした理由がわかりました。近界遠征のメンバーに入って、あわよくば向こうの技術を学んで来て、クーちゃんにトリオンの体を作ってあげようというわけですね。」
「まあ、そんな感じだよ。冬島さんを押しのけて遠征艇付き技術士になるか、遠征メンバーに選ばれるかしか、向こうに行く方法がなさそうだからね。遠征艇がもう1隻作られれば、遠征艇付き技術士枠に可能性があるのだけれども」
「ご主人、それが上手くいったら、僕はユーマ君みたいにトリオンの体で歩いて、触って、見て、聞いてができるようになるってことだよね」
AR化されたクーちゃんは僕の目を見て言う。表情からも目の輝きからも声音からも、隠しきれない興奮と喜びが伝わってくる。
「うん、そうだよ、クーちゃん」
「ご主人、ありがとう!」
言うや否やクーちゃんが僕にとびついてきた。でもその躰は僕をすり抜けてファミレスの通路にまで跳んで行ってしまい、注文に追われた店員がそこには何も存在していないかのように、クーちゃんの上を横切って行った。
静かに立ち上がったクーちゃんは
「へへ、早くご主人に触れられるようになりたいな。もちろん凪にもね」
とはにかみながら強がって見せた。
僕の動機なんてものは、とびついてきたクーちゃんの溢れんばかりの笑顔と、必死に強がってみせたクーちゃんの固く握られた拳、それだけで十分だった。
目指すは≪中継貿易都市国家トランタ≫
いわゆるちょっと特別な日常。
クーちゃん視点や凪視点でも書きたい気がする。
供給はそれ自身需要を生み出すので、書きたいものを書きましょう(セー並感)