火花散らす二つの陣営を飲み込んで激化するのは唯一無二の個が二つ。
共にかけがえのない者から託された二刀を己が意のままと操り、旋律と奏でる斬撃を放つ響。
化け物としての本懐を発揮し、あらゆる全てを己へと隷属させ、無限氷獄にて世界を食いつぶしていくエヴァンジェリン。
互いに放つ一撃の全てが必殺。直撃が死に等しいというぎりぎりの攻防の中、響は全身に纏わりつくエヴァンジェリンの殺意に笑い、エヴァンジェリンも響の奏でる音色に酔いしれていた。
そんな彼の演奏をより引き立てようと、天より惜しみなく氷槍を降り注がせ、その片隅で機械人形と鬼神へ号令を飛ばして、冷気に浸食された破壊の光を轟かせる。氷の茨は万雷の拍手を送る観客の如く響という演奏者へ殺到し、そのどれもが一刀の間に千を超える勢いで両断された。
「想像以上だよ青山」
響の斬撃を受けても斬り捨てられることなく無限に増殖し、無限に一切を凍らせるエヴァンジェリンの切り札、『終わりなく赤き九天』。その赤棘は一つ一つが独自の命を持つがゆえに、響が放つ根源を断つ刃ですら消滅は困難な魔法は、本来ならあらゆる相手に対して展開が即死に繋がる究極の氷結魔法だろう。
だがもしも世界樹の魔力を根こそぎ奪い、超が操っていた機械人形と鬼神を隷属させていなければ、きっと自分は『終わりなく赤き九天』を発動した状態で対峙しても、数分もせずに首を斬り捨てられていたはずだ。
今の響はそう言った次元の存在なのだ。化け物としての全力に世界樹の補正と、人形使いとして培った技量を行使し、ようやく自分はこの男の足元に追いすがることが出来ている。
だが、気を抜けば瞬く間にその首が飛ぶと分かっていても、エヴァンジェリンは冷たい体の芯を焦がすこの憧憬を叫びたい気持ちでいっぱいだった。
どうだ。これが青山だ。
私を私にしてくれた。私が私になって初めて愛した男だ。
その眼光はあらゆる猛者すらすくみ上らせ、その一閃は千の猛者を両断する。
舞踏のように優雅と舞いながら、流れる切っ先はこれまで味わったあらゆる鋼鉄もあらゆる魔法も児戯と落とす冴え。
短き人の生の全てを圧縮しても尚届かない極みを超えた先、才覚と狂気が合わさった美麗の毒蛇。
青山だ。
私だけの、私が愛した青山だ。
「青山! 貴様も私を感じろ! 私がどれだけ貴様を愛しているのか、どれだけ貴様に恋焦がれてきたか! この私を余すところなく味わい尽くせ!」
吼えながらかざした左手を勢いよく振り下ろす。際限なく全身に渦巻いている化け物としての魔力と世界樹の魔力を合わせた力は、詠唱を行わずに空一面を覆い尽くす氷槍を具現化。それらが全てエヴァンジェリンの名の下に、たった一人の個である響へと降り注いだ。
赤棘を斬り払い、人形の砲撃をぎりぎりで回避していた響が空より迫る殺意に気付き僅か目を細めた。
そして、着弾。爆風の代わりに、槍が突き立った場所を中心に爆風の形に広がった氷山が次々に生まれていく。既に神鳴流本部は跡形も無く消滅しており、飛来する氷結魔法の掃射は、かつて響が受けたリョウメンスクナの砲撃すらも容易く凌駕していた。
だが、響は踊っている。己に迫る槍は斬り払い、氷の爆風を虚空瞬動で逃れ、ジグザグに動き回りながらエヴァンジェリンの元へ迫り――飛翔。
「まだだ!」
互いの表情が分かる程度の距離を割って入ったのは鬼神の一体。かつての大戦で猛威を振るった怪物の一体は、エヴァンジェリンの魔法による強化も相まって、当時の数倍以上の能力を秘めていた。
装甲に閉じられた鬼神の口は既に開ききり、その口内に収束する魔力。さらに胸部から無数の魔法陣が無数と並列して、術式に注がれた魔力が絶対零度の魔法を編む。
「狙い通りさ!」
駄目押しとばかりにエヴァンジェリンは己の体に予め装填しておいた術式を解放。その瞬間、響は己の周囲の温度が劇的に下がっていくのを感じた。その身を取り囲む全てが凍てついていく。空気すら凍り付く冷気の突風が充満していくが、その冷たさから逃れようにも眼前の鬼神はそれを許さない。
肌をひりつかせる冷気と、目の前の巨躯より吹きすさぶ魔力の息吹。そして全てのタイミングが噛み合った機を狙われた響へと、鬼神の砲撃が叩き込まれた。見ただけで眼球が凍てつく収束砲撃。放射は同時に死を意味する絶望をしかし、響は難なく斬り払う。
鬼神の極みでは、響が手にした極みを崩すには遥か足りぬ。斬刑に処された魔力を伝って、そのまま鬼神本体すらも鈴の音色に合わせて百の肉塊へと分解された。
直後、世界が止まる。
急激に下がった大気が一瞬で凝固し、鬼神の死骸もろとも響を中心に周囲の空間が凍結したのだ。
そしてその絶対零度を繰るのは恐るべき化け物。響の封じられた氷の山へとその小さな掌を優しく重ねると、凄惨な笑みを象る真っ赤な唇より全身を満たす殺気を乗せて、美しく残酷な言霊を紡いだ。
「『おわるせかい』」
本来なら長大な詠唱を必要とするエヴァンジェリンの必殺『
だがこの程度で響を殺しきれるはずがない。砕け散った氷塊の内側より天に伸びる漆黒の鋼鉄がエヴァンジェリンの期待に応える。
絶対零度に内包され、もろとも砕かれたはずの響は傷一つなく立っていた。蒼と黒の眼は平然とエヴァンジェリンを見据え、天地に構えた二刀は絶対零度も無意味と斬ったのだ。
「楽しいなぁ、青山」
「エヴァンジェリン。俺は――」
何か告げようとする響を鼻で笑い、エヴァンジェリンは掌に集めた冷気を臓腑でも弄ぶように指でなぞった。
「知るか。私には貴様だけが青山だ。貴様以外に青山を認めてたまるか」
その思いに青山は押し黙る。そして数秒後、観念したかのように溜息をつき「あぁ、ならそれでいいさ」と告げると、嬉しそうに喉を鳴らした。
確かに俺はお前にとって青山なのだろう。
既に斬った残滓を知りながら、青山を超えた俺すらもお前だけは青山と言ってくれる。
「ありがとうエヴァンジェリン」
「ん?」
「斬りたくないくらい、俺は今すぐ君を斬りたい」
「あ……」
響なりの賛辞にエヴァンジェリンは目を剥いた。次いで仄かに頬を染めて俯き、何度か顔を上げて、何かを噛みしめるように唇を食み、口を開き、躊躇い、もう一度前を向いて、笑う。
「嬉しいよ。嘘じゃない。本当に、嬉しい」
――私は貴様の敵になれたのだな。
形振り構わず相応しい在り方を作り上げ、歓喜の赴くまま馳せ参じ、こうして真っ直ぐに己は立ち塞がっている。
人間を極め、もう既に極めた先にすら至ったのだろう修羅が、惜しいと思える化け物として見られている。
その歓喜を誰が分かろうか。響に全てを斬られたエヴァンジェリンが唯一懐かせた殺意を祝福してくれているのだ。神の啓示ですら及ばぬ言霊の魔力は酒精の如く全身を走破した。せめてと欲した男の眼はここにある。
「……でも、駄目なんだ」
だからこそ、エヴァンジェリンの頬を冷たい涙が伝った。
「この短き間で理解した。貴様を殺すために練り上げた魔道の極み、貴様に見合うために貪り食らった世界樹の恵み。これら全てを合わせたというのに……私は、貴様に届かない」
世界樹の魔力。終わりなく赤き九天と、その茨で氷の軍勢と化した人形と鬼神。出し惜しみ注いだ全ては未だに響の体に裂傷すら刻んでいないのだ。
勿論、まだ全てを絞り出したわけではない。余力は十二分に存在し、砥いだ牙は響の修羅に一矢報いることは出来るだろう。
だが違うのだ。
その程度で満足するのなら、当の昔に自分は死を選んでいる。
戦うだけでは足りない。勝利だけでも足りない。
「私は貴様を殺したいのに、今の私は貴様の敵になれても、脅威にはなりきれない。……嬉しいのに悲しいよ青山。何よりも、貴様を満足させられない自分に腹が立って仕方ないんだ」
臨んだのは血を望んだから。その血を飲める道筋を辿る果てに、この体を斬り刻まれるならいいだろう。しかし善戦などという無駄死で終わるつもりはさらさら無かった。
故に、エヴァンジェリンはこの闘争の最中に編んだ次の一手を打つことにする。
「これは……」
響は眼下に広がる氷の世界に、いつの間にか大規模な魔法陣が描かれていることに気付いた。そしてその中心は自分とエヴァンジェリン。その周囲を取り囲むように人形と茨の軍勢は並んでいる。
「だから殺してやる」
エヴァンジェリンは腹の底より祈りを絞り出す。
殺してやる。
必ず殺す。
有象無象の区別なく、貴様を殺すために私は全てを殺してやる。
「私は貴様を殺す。私が貴様を殺す。私だけが貴様を殺す。その魂の一片まで殺し、その腸を私の胎に注いでみせよう。それだけが私が望む今だ。踏破した膨大な過去も、踏破する膨大な未来も要らない。青山、貴様だけなんだ。私は、貴様だけでいいんだ。」
だから、そのために何もかもを道ずれにすることも構わない。
魔法陣が輝きを放つ。世界樹の魔力を用いた巨大魔法陣は、しかし響にもエヴァンジェリンにも害意を与えるものではなかった。
「やはり、お前なんだなエヴァンジェリン」
光の波に体を任せて、響はエヴァンジェリンの切望に感謝した。
誰も彼もが忌み嫌い、その果てに自分を許してくれた姉すらもこの手にかけた自分をまだ好いてくれる誰かがいる。
それはきっと奇跡と呼んでもいいことだろう。例え相手が人間でなくても、人間ではないからこそ自分を求めてくれる。
人間ではないからこそ人間に焦がれている化け物に認められる。
つまり、自分は誰よりも人間なんだと思えるから。
そして、光の波が消えた先、視界に広がるのは一面の荒野だった。
「ようこそ、青山」
転移魔法による戦場の移動。だがそれにしては先程使用された魔力の量は異常だったと思い、響は即座に異変に感づいた。
その反応にエヴァンジェリンは笑みを深くする。喜んでもらえたようだと笑い、そして、まるで存在を主張するように右手の冷気を天高く放出した。
遥か空に伸びた冷気の塊は、山脈すらも超えた高さに一気に到達する。まるで、空に新たな星が生まれたと思った矢先、氷の塊はガラスが砕かれたような音を奏でながら世界へと拡散した。
「……ここは、何処だ」
魔法による環境改変。広がる冷気の下の大地が一気に凍り付き、その浸食が止まることなく世界中に広がっていくことを無視して、響はエヴァンジェリンに問いかける。
その問いに、エヴァンジェリンは大仰に両手を広げ、真っ赤な舌をのぞかせながら答えた。
「魔法世界。地球とは別の場所に存在する、魔法使い達が住まう土地……そしてここはその辺境にある白けた荒野さ」
「ここが、魔法世界……」
話には聞いていたが、初めて訪れた魔法世界に響は目を白黒させる。だがそれも僅か、ゆっくりと視線を戻す頃には、再び響の眼はエヴァンジェリンだけを迷いなく見据えていた。
場所などどうでもいい。俺はお前を斬るだけだ。
言外の宣誓に股座を濡らしながら、エヴァンジェリンもまた内心で強く宣誓する。
今の私では貴様の足元にも届かない。
だが心配するな。
だが不安にならないでくれ。
貴様の前に立つためならば私はなんだってしてみせる。
汚泥も舐めよう。
辛酸も味わおう。
尻も振って惨めに懇願すらしてみせよう。
何よりも――。
「何億だ?」
「……何?」
エヴァンジェリンは、多重魔法を展開しながら、問いかける。
「貴様の頂に至るには、何億の死骸を積み重ねればいい?」
その言葉の真意を問いただす余裕はない。再び始まった修羅と化け物の極限を超えた激突は、魔法世界の隅にまで響き渡る福音を鳴り響かせていった。
―
何故、傷つくことを恐れない。
何故、癒されることを拒絶する。
「なんで? 皆、痛いのは嫌やろ?」
只、自分は癒したいだけなのだ。だから手を差し伸べて、抱き締めて、慈しもうとしているだけなだというのに、ネギ達は木乃香が伸ばす掌を拒み続ける。
「貴女のそれは偽善ですらない! それすらも分からない今の貴女に! 僕達の痛みが分かってたまるか!」
先陣を切るネギの雷轟無人が道を作る。その愚直な進撃を傍で支える明日菜と、背中を押し出すアルビレオを筆頭とした魔法先生達。
最早、何が正しく、何が間違いなのかを思考する余裕は無かった。彼らもまた、眼前で猛威を振るう外道の在り方を受け入れられぬため、戦い続けているだけ。
それはタカミチも近右衛門も同じだ。既に教え子だとか孫娘だとかという認識は捨て去った。捨てざるをえなかった。
何より、手心を加えれば、その次の瞬間に自分が木乃香に汚染されるのが分かっていた。こうしている間にも四方から迫る木乃香の手が、ヘドロのような温かい光を纏って体に触れようとしてきている。
「おぉ!」
咸卦法を用いて放った居合い拳が木乃香達を纏めて薙ぎ払う。教え子が肉塊と化すのに当初は嫌悪感を覚えたが、瞬きの間に再生するのを何度も見る内に感覚は麻痺していた。
撃つ。
ひたすらに撃ちこむ。
終わりなど永遠にないと思考の隅で思うが、迷いは余分だと振り払う。
そうしてタカミチがネギの背後を支え、アルビレオと近右衛門が左翼と右翼をサポート。その壁の内側から超を司令塔に置いた魔法先生と真名の魔法と銃撃が取りこぼしを吹き飛ばす。
前線は再び膠着状態に陥った。だがこの拮抗もいずれ崩れ去る。予感ではなく確信として、超は号令しながら、自分達が数分も戦線を維持できないだろうと理解した。
「次弾! ネギ先生へ! 装填終わったら遠慮なくぶっ放すネ! その後障壁再展開! 一秒持たせるだけで前線は相手の攻撃から逃れられる! 障壁組は急ぐヨ!」
どんな致命傷も間隙なく再生して襲い掛かる木乃香達を相手に、ネギと明日菜はたった二人で抗っていたのか。その手腕には恐れ入るが、自分でも圧倒的と思える二人ですら、木乃香という修羅外道には二歩も三歩も及ばない。
(決定打が足りない……! 物理的な、あるいは精神的な、どちらかでもいいから早く見つけねないと……!)
だがそれには情報が圧倒的に足りない。超は体の刻印を励起させて、前線で抵抗を続けるネギへと念話を飛ばした。
『ネギ先生! 何か決め手はないのカ!?』
『あるのならすぐにやっています! ですが、刹那さんはもう……』
『刹那サン? まさか、刹那サンは!?』
『超さんの真下にある小さな氷山の中です。木乃香さんの一人と一緒に、彼女は……』
ネギの悔恨の言葉に超も表情を歪める。刹那が木乃香とどういった関係なのか詳細は分からないが、おそらく直接的な手段ではなく、木乃香を説得する唯一の手段が刹那だったのだろう。
だがそれも最早失われた。氷山に飲まれたというならば脱出は不可能だろう。木乃香を救い出そうとして、返り討ちにあって凍らされる。その末路を哀れとは思うが、超は即座に刹那のことは思考から捨てた。今は些細なことにも思考を使う余裕はないのだ。
「学園長の補佐を重点的に! 急ぐヨ! 一角のどれかが突破されたらそこで終わりと思うネ!」
命令を飛ばしながら高速で思考を回転させて反撃の切っ掛けを見出そうとする。そしてそれはネギも同じなのだろう。拳を振るいながら、その拳と同じ勢いで木乃香へと言葉を投げかけ続けている。
だがネギと明日菜の声は木乃香には届かない。唯一可能性のあった刹那も既に氷山に飲まれた。説得という点はもう無いと見た方がいいだろう。
そんなことを考えている間に、近右衛門の直衛に回った魔法先生が一人木乃香に触れられて癒しつくされた。時間はもう殆ど残されていない。
「くっ……!」
前線で唯一、未だ動揺を隠し切れない近右衛門が穴となっている。無理もないとは思うが、悪態をつきたくなる気持ちをぐっと超は堪えて――ふと気づく。
「氷山に飲まれた?」
エヴァンジェリンが展開した氷の世界。木乃香の群れは先程からその余波に飲まれて凍り付いている者も存在したが、その都度内側から氷を癒して即座に前線へと復帰していた。
ならば、刹那を飲み込んだ木乃香もすぐに氷山を癒して復活するはずだ。
『ネギ先生! 刹那サンは本当に木乃香サンもろとも氷山に飲まれたままなのカ!?』
『えぇ! そのはず……です!』
一際巨大な轟雷を解放しながら、超の飛ばした念話にネギは苦しそうに答える。だがそれが何だと言うのか。今更、死してしまった刹那のことを掘り返して――。
『刹那サンを助け出せる可能性がまだある!』
「ッ!?」
超の予想にネギは思わず息を飲んだ。
まだ、刹那を助け出せるというのはどういうことか。ネギはその真意を考えようとして、それを許さぬ木乃香の群れに顔を顰める。
だから代わりに超は叫ぶ。この状況で残された唯一の打開案を。
『木乃香サンに癒されたら誰もが浸食されていずれは木乃香サンと同じ存在となる! だとしたら氷山に飲まれた刹那サンが氷を癒して現れないのはおかしいはずネ!』
『じゃあ、まだ刹那さんは!?』
『そうヨ』
超はネギが先程教えてくれた刹那の落下地点を見下ろした。一部だけ盛り上がった小さな氷山。赤く染まっている氷のため中まで見通せないが、間違いない。
『刹那サンは、まだ戦っている』
確信を持ったその言葉こそ、残された希望。抗い、這い上がり、切り開こうともがく少女の思いがそこにあるのだと知った超とネギは、暗闇に走った一筋の光を手にするために戦い続けるのだった。
―
――あの日まで、私は名前のない怪物だった。
桜咲刹那は化け物をその身に宿している。それが何の因果か化け物を滅ぼす組織に属し、化け物を滅ぼす術を学ぶようになったのだ。
矛盾している。
だが、半人半魔の肉体はその矛盾すら受け入れることが出来た。
忌み嫌われた化け物。
迫害される己の肉体。
その過程で育った化け物は、成長した今でもこの体の奥深くから、ジッと自分を見上げていた。
羨むように。
妬むように。
だが、化け物はそれ以上に嬉しかった。
何故?
問いかける声に答えるのは、心の奥に閉じ込めた少女の声。
『せっちゃん』
――その声を、覚えているのだ。
「……そう、だ」
温かな陽だまりに揺り起こされるようにして、刹那はゆっくりと瞼を開いた。
体を起こして、血を吐き出し、激痛に唸り、意識を連続して失いながらも、震えている両足に気付いて薄く笑った。
「知っている」
青山が木乃香の中に育ませ、魅せつけられた狂気の産物。人間の混沌渦巻く純粋さを理解して、平静でいられるはずがない。
そしてあの瞬間、桜咲刹那は近衛木乃香に癒し尽くされて消えたはずだった。
だというのに、自分はまだここに居る。
それどころかまだ立ち上がれたのは、きっと――。
「忘れてはいない」
脳裏に浮かぶ笑顔。
名前のない怪物だった自分に、桜咲刹那という
――木乃香お嬢様。
――貴女が『ここに』居るから、まだ私はここに居る。
「情けない」
弱弱しく涙して消滅した己を唾棄する。
しかし、そうしても結局は己自身。どんなに蔑もうが、癒されて消滅した自分もまた、自分。
「逃げ出して、縮こまった、それでも助けたいと思って……全部含めて、私だ」
そして半身を失っても尚歩めるのは、己の中に居る何かが芯となっているからだ。
「どうして?」
「どうしてでしょうね、お嬢様」
眩むような陽だまりに目を細めながら、刹那はこちらを見つめる木乃香に笑いかけた。
だが木乃香はそうはいかない。注いだ癒しの力は刹那の傷を治そうとしているのだが、何故か刹那に刻まれた傷は癒される様子は無かった。
「どうして、治らんの?」
「決まっています」
傷つきながら、笑う。癒されながらも否定した。癒し尽くされて尚も抗った。
何故抗えたのか、そんなことは、当たり前。
「この傷は、貴女が注いだ優しさです。幼いころ、化け物だった私に刻んでくれた熱い血。私が羨んだ人間を、例え貴女であっても癒されてたまるか」
刹那はここが現実世界とは違う場所なのだとすぐに分かった。『最期』の記憶が正しければ、自分の傷は癒されて、もう現実では自分の自我は残っていないだろう。
では、ここに居る自分は何なのか。
決まっている。刹那は苦笑した。
「そう、私は化け物だ」
その化け物が優しさに触れて、半分流れている人間を色濃くさせたのが桜咲刹那という少女だった。
だが木乃香の手によって刹那の中の人間性は全て癒され、欠片も残っていない。
残っているのは、化け物の自分。
優しさに傷ついた名前の無い怪物。
「だから私はここに居る。裂かれた傷から流れる熱に感じる、人間に焦がれる思いだけは、決して癒されない」
だから立ち向かえる。
人間、桜咲刹那では貴女の手にした残酷には抗えないけれど。
怪物、桜咲刹那は、貴女の残酷にも焦がれることが出来るから。
「まだ、胸に残っているのです」
真紅に染まった胸元にそっと掌を乗せて刹那は笑う。
ありがとう。
お疲れ様。
でも、もう一度、頑張って。
「お嬢様。私に
――その場所まで、今度は私が連れて行ってみせるから。
「■■■■■■■ッッッッッッ!」
灼熱よりも尚熱い。獣の如き遠吠えを轟かせて、化け物、桜咲刹那は眼前の木乃香の喉元に食らいつく。
人間を見つけた化け物がそうするように。
『せっちゃん』
桜咲刹那に残された化け物は、あの日焦がれた人間を欲して、溶け続ける夜へと再び立ち向かうのだ。
次回、返したもの、返されたもの。
せっちゃん、ラストラン。