もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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鐘が鳴り終える前に、花を摘め (上)

 

 

 シッポウシティ。

 ここはアオイの生まれ育った街だ。

 

 穏やかな古代の歴史の残り香が漂う街を、アオイは好きだった。

 人の歴史は好まないが、世界の歴史は好きだ。

 それが文字の羅列に過ぎずとも、この世界は顔の知らぬ誰かが生まれ、繋いできたと感じることができる。大きな歴史の掌に抱かれるような感覚だ。愛を知らぬ我が身であるが、ひょっとすると愛とはそのような手触りのようなものかもしれないと思う。

 

 流れる景色が見覚えのあるものに変わっていく。

 街の残る残雪が懐かしく、ほんの数日前までは別の地方に住んでいたことを忘却していた。

 

 自宅の前に降りたアオイは、パンジャの手を借りて荷物を下ろしていた。

 コウタと預かっていたラルトスは一旦分かれた。明日、積もる話をする予定だ。

 

「アオイ、わたしが荷物を持とう。鍵で扉を開けておいてくれないか」

 

「任せる。ミアカシさん、入り口はこっちだ」

 

 家の扉を開けるとあちこちに埃が積もっていた。

 覚悟していたが、現実を目にすると凹む。旅疲れのうえ掃除をするのは骨が折れそうだ。立ちすくむアオイを寄せ、荷物を入れたパンジャが「これは、また……」と言った。

 

 荒れてはいないが、埃だらけの自宅に招き入れるのは人並みに恥ずかしい。

 

「送迎と荷物をありがとう、パンジャ。それで、その……」

 

「?」

 

 帰ってくれないか、はいくらなんでも失礼すぎる。

 アオイは半笑いで「ああ、いや、けっこう汚れているから」と言う。

 

「駄賃にもならないが、お茶でもどうかな、と……」

 

 彼女は、何を言っているんだ、という顔をした。

 そんな顔をされるなんてアオイは正直ショックだった。

 

「これから掃除するんだろう? 寝室だけでも掃除しておいたほうがいい」

 

「あ、いや、それは自分で。自分でやるよ……」

 

「君だけではなく、ミアカシさんも生活するんだろう。君はテーブルを拭いて、座っていてくれ。お茶でも用意しながらね」

 

 靴を脱いだ彼女は、スリッパを履いてトコトコ行ってしまった。ミアカシがそれに倣った。床に足跡がつくのが面白いらしい。パンジャは彼女を煩わしがることなく、好きなようにさせていた。

 

「君にそこまでさせるわけにはいかないだろう」

 

「慣れないことをして転ばれる方が困る」

 

 ぐうの音も出ない正論に、アオイは引き下がった。

 すごすごと部屋の確認をして回りながら、アオイは思考を回した。

 

(どうにも調子が狂う……。悪夢のせいだな、これは)

 

 責任転嫁ではない。悪夢のなかで、パンジャとの会話は事故前の恐らく数年分の会話をした。そのせいで、気を抜くと気安く話しかけてしまいそうになるのだ。

 

(もっと自然に……自然に……自然に……)

 

 アオイは、杖を置いて布巾を絞る。お湯を沸かそうとしたところで、気付いた。

 

(あ……お茶がない……。そうだ。出て行く前に食料品は全て処分したのだった……)

 

 去年まで生活していたとは思えない生活感の無さは、伸ばした手を引っ込める時に、よく感じられている。

 とはいえ、これは参った。買いに行くか。いやしかし、掃除を任せて買い出しに行くのは……いやいや、今さらかもしれない……。ここは正直に事情を話しておこう。

 部屋へ向かおうと杖を取る。ちょうどパンジャが戻ってきた。何か問題があっただろうか。

 

「アオイ、君のベッドの下に」

 

「ななな、な、んだ……」

 

 彼の思考はあっさりクラッシュした。何があったか覚えていない。

 言うことを憚る何かを置いていた覚えは無い――と思う。あ、ダメだ。自信が無い。全然無い!

 

「靴下があったから洗濯機に入れておいたよ、というだけなのだが」

 

「ああ、ああ、そうか、ありがとう」

 

「アオイ……君……」

 

「?」

 

 何かに気付いたように、パンジャの動きが止まる。

 眉を寄せた彼女は佇まいを質した。

 

「大したことではないのだが……君、礼を言うようになったのだな」

 

「え? 前から言っていなかっただろうか……?」

 

 聞いてしまってから、ひどい愚問であったことに気付いて手を振った。パンジャが言うには、以前の自分はそうだったのだろう。この言葉は無しだ。けれど言葉はもう形になってしまっている。

 

 パンジャの感情は薄い。怒っているわけではなさそうだ。

 だからといって、取り繕う必要がなくなったわけではない。

 何か話さなければと思うのに、紙の上で饒舌に跳ねる脳内のペンは哀れ絶筆状態にある。アオイは言葉を失った。

 

(どうして自分はパンジャと話すのに言葉を窮しているのだろう)

 

 かつての自分は、パンジャとの会話に頓着していなかった。面倒くさい人間関係を抜きに、自分の所感を伝えることができた。彼女にかける言葉を、一句一句、吟味し考えた機会は、きっと少ない。

 

 パンジャが、ふいと視線を切った。

 

「いやなに。ちょっと気になっただけだ。……わたしが忘れているのかもしれない。作業に戻る」

 

「あ、ああ……。ああ、そうだ、パンジャ。お茶が無かったんだ。買い出しに行ってきていいだろうか」

 

「わたしの鞄に水筒が入っている。温かいコーヒーを持ってきたから飲んでくれ。君に倒れられると困る。……それから、わたしは君にあれこれ指図したくはない。言わせないでくれよ」

 

 彼女は目で一瞬だけアオイを見る。冷たいわけではないが、言葉には無視できない棘がある。頷くしかなかった。

 

「分かった。助かる。…………はあ、私は何をしているんだ」

 

 パンジャはコーヒーを飲まない。

 予めこうなることを見越して作ったのだろうなと思う。――本当に、私は何をやっているんだ。

 

 情けなさに肩を落とす。そして、数時間後。のんきにも昼だな、と思った。この間、アオイが行ったことといえば、テーブルを拭くことと窓を開けて換気することだけだった。わずか十数秒にてアオイの今日の仕事は終了した。

 どうしよう。世間では、昼だとしても食料品は無い。冷蔵庫を使うことでさえ時間がかかるだろう。

 

 外食ならどこが良いだろうか。

 モバイルで調べていると、パンジャが戻ってきた。

 

「1階の掃除は終了だ。2階には行かないだろう?」

 

「ああ、今は。当分の間は1階で生活する」

 

「生活に必要な物品の手配は?」

 

「数日宿泊するだけだ。何とかなるだろう。……それより、昼食のことなのだが」

 

「サンドイッチを作ってきた。それを食べよう」

 

「……あぁ。何から何まで、気をつかわせてしまったな。すまない……」

 

「わたしが好きでやっていることだ。あまり気にしないでほしい」

 

 パンジャが車へ向かうと、入れ違いに家の中を探検してきたと見えるミアカシがやって来た。

 

「何か珍しいものはあったかい?」

 

「モシモシ!」

 

 興奮した様子で、廊下へ行く扉を指差す。

 何だろうと見つめていると、バニプッチが現れた。

 パンジャのポケモンのうち1体だ。

 

 バニプッチもミアカシに興味津々といった風で、微妙な距離を保ちながら宙に浮いている。

 

「やあ、バニィ。元気にしていたかい?」

 

 カチコチ、と氷の音が聞こえた。アオイが手を伸ばすと、指先にチョンと触れた。バニプッチは、からだの構造が氷でできているのであまり触ると溶けてしまう。

 そう考えると、ミアカシとバニプッチの相性はあまり良くないのかもしれない。

 

「ミアカシさん、彼女はバニプッチ。パンジャの友人のうちのひとり、1匹? 1本?……まあ、友人で、氷だからあまり近付きすぎないように――って、あーッ!」

 

 そう言ったそばから、ミアカシはテーブルをダッシュして突撃していったので、アオイには止める術がなかった。

 ミアカシを、ひらりとかわしたバニプッチはその後壁にぶつかってしまったミアカシを見て、クスクス笑った。ちょっかいを出して、からかっているらしい。

 

 床を目を回していたミアカシが、気を取り直した。

 スクッと立ち上がり一心に手招く。

 

「あ、こら、ちょっと――」

 

 この半年で、ミアカシにはちょっと変わったことがあった。

 きっかけは、コウタのラルトスだ。

 ミアカシはアオイの休日の日は外に出て庭に現れるポケモンを退治したり、追いかけたりして過ごしているのだが、それに付き合ったり付き合わなかったりしているラルトスもバトルの経験をそこそこに積んだらしい。『ねんりき』を使えるようになったのだ。それだけなら、大した問題ではなかったのだが――どういうことか。ミアカシは、とてもショックを受けたらしい。

 

 ラルトスに事情聴取した結果。ショックの理由は『ラルトス』と『自分』は決定的に違う種類であることを自覚した為だということが分かった。

 

 どうやらミアカシはラルトスのことを同じ種類のポケモンであると認識していたらしい。つまり、ラルトスは『ヒトモシ』であると。

 

 ここからはアオイの推測だが、恐らくミアカシは厳選に漏れたことが確認された後、すぐにボールで保護され、アオイの元にやってくるまで自分の姿と自分と同じ種類のポケモンを見たことが無かったのではないだろうか。

 

 そして、出会ったポケモンのうち、手は2本、足もある。目もある。似たような構造のポケモンを自分と同じ種類だと思い込んでしまったのだ。しかも相手のラルトスは『きもちポケモン』。相手の感情をよく読み、協調性が高い。数多存在するポケモンのなかでも、トップクラスに温和なポケモンだ。

 きっと『姿が似てる!』→『気が合うね!』→『仲間だ!』くらいのノリでラルトスを同種だと思っていたのだろう。(ミアカシさんならあり得る)と当時のアオイは頷いたものである。

 

 そういうわけで。

 

 ある日突然、ねんりきを使えるようになったラルトスにミアカシは驚き、ショック状態になってしまったのだ。

 

 ポケモンのショック状態には主な理由がある。最も知られたものは、進化前後で姿が大きく異なり、自分の状態を受け入れることができずに恐慌状態に陥ってしまうパターンである。しかし、自他の存在に理解が及んだことでショック状態になる事例は、アオイにして初めて見た。

 

 アオイは、どうすべきか迷った。

 時間が解決する問題ではなさそうだったのだ。

 しかし、諭すのも無駄だろうとも思われた。

 

 彼の選択は、通販で『わざマシン』を購入することだった。

 

『一見、君と彼の差は埋まったように見えるかもしれない。けれど、どうあっても君と彼は違う「ポケモン」だ。これはその「差」が目に見えて分かりやすくなるためのものだ。同じことは悪いことではない。同じように、違うことも悪いことではないのだよ。いつか、理解できる日まで大切に使いなさい』

 

 それは、わざマシン29。

 

 宙に浮いてニマニマと笑っていたバニプッチが見えない手で引っ張られたように、ミアカシに引き寄せられる。驚いたバニプッチの体がコチリと割れる音がした。

 

 サイコキネシスだ。バニプッチは、大きく氷色の目を見開いた。もがいたが、だいぶ遅かった。バニプッチが引き寄せられる先では、ミアカシが大きく口を開けて待ち構えていた。

 

(あ。アイスかー。なるほど……)

 

 美味しそうに見えたんだろう。たしかに、バニプッチのシルエットはどう見てもアイスだ。しかし、無情なるかな。アオイが「あッ」と目を瞑った瞬間。カキン、と氷結の音が響く。

 

「戻ったよ。ポケモンたちの分も作ったんだ。……ん。なにしているんだ」

 

 パンジャはキョトンと目を丸くしてリビングを見渡した。

 

「ちょっとミアカシさんが氷漬けになってしまったから、氷割りピックを貸してくれると嬉しいんだが」

 

 大きく口を開けたまま氷漬けになったミアカシは、驚いた顔をしていた。アオイも驚きである。せめてつついてから、やたらと口に入れずに、安全を確認したものだけを口に入れてほしい。

 

「良い教訓になったかもしれないが……。ごめんよ、バニィ。驚かせたね」

 

「はい、これ」

 

 頼んだ品を受け取る。

 アオイはそれを慎重に氷へ差し込もうとして、ハタと気付く。

 

「ありがとう。…………これ、どこから?」

 

「ポケットからだが」

 

 これだからパンジャはパンジャなんだよなぁ、とアオイは思った。

 

 

 

◇ ◆ ◆

 

 

 

 それは、食後のでき事だった。

 

「食後の――ホッと空気の緩む空間が、懐かしい。好ましいと思う」

 

 言葉がポロリと口をついた。

 午後の春の日差しが、眠気を誘う。

 

(ああ、このまま眠ってしまったら)

 

 アオイは考える。

 本当はまだ悪夢で自分の意識は『選ばなかった未来』を選んだ世界で生きているのではないかと思うことがあった。その度に、立ち上がり走ろうとして転ぶ。リハビリ中の身体は間違いなく、現実だ。

 そうして、私は現実に生きているんだと確認したのは数度では足りない。

 

「私は、夜が怖い」

 

 俯きがちに呟く。

 心情の吐露は、何とはなく、取り返しのつかないことだと分かっている。言葉にすると、霧に似た恐怖が明確な輪郭を持ち襲ってくる。そんな予感があり、怖い。

 だからこそ、事故の前は何も言わなかった。弱音を吐かない強い自分でいたかったし、彼女もその在り方を望むだろうと思ったのだ。

 

 この時、パンジャは水を飲んでいた。静かに、重いグラスを置いた彼女の心情をアオイは推し量ることができない。

 

 彼女との微妙な距離感が長らく離れていた緊張感以外の、悪夢に起因することを知っている。

 ――あの時、何があったか知りたい。何を思っていたか分かりたい。

 きっと、彼女の納得には理由が必要だった。

 

「明日、コウタの同席がある時に話そうと思っていることがある。でも、私自身の整理のために、今……話せることを話してもいいだろうか?」

 

「君の望み通りに。ただ、その前に」

 

 パンジャは、バニプッチやほかのポケモンに指示を出した。庭へ駆けだしていく彼らを見守った後で、アオイと見つめ合った。

 

「久しぶりだ。本当に、久しぶりだ。アオイ。君と話せることを嬉しく思う」

 

「……手紙やメールに返信しなかったのは、どうしてなのか聞いてもいいだろうか?」

 

「ああ、深い理由は無い。なんて返事を書いたものか、分からなくて……手紙で問い詰めるのは、何だか誤解されてしまいそうで。かといって何も無かったように振る舞うのは、違うだろう?」

 

「そんなことをされたら正直……気に病む」

 

「君には心配をかけてしまったが、どちらもやらなくてよかったと思っている。アオイは、すこし変わったから……」

 

「どう変わったように見える?」

 

「柔らかくなった」

 

 印象の問題だろうか。アオイは自分の頬を撫でた。

 その仕草にクスリと小さく笑い、彼女は言った。

 

「以前は、ずっと緊張していたように見える。でも、今の君は今は心にゆとりができて、リラックスしている感じだ。君の心が穏やかであることを、わたしは嬉しく思っている」

 

「緊張感の無い男になってしまったかな。堕落しているつもりは無いのだが……」

 

 これまで彼女の前では、常に虚勢だった。

 賢人のように振る舞っていた過去と比べて、彼女が幻滅しているのではないか。それを恐れていたアオイは、今のところ彼女の言葉が好印象なものであることにホッとしていた。

 

「誰も歩けるようになったあなたを怠惰とは呼べないさ。印象の問題だ。君の表情が明るいとわたしまで嬉しくなる。――しかし、その心境の変化の理由は悪夢に由来するのか?」

 

 彼女らしい話題の切り出し方だった。

 単刀直入は無粋過ぎるので自制してくれたらしい。

 会話の間に、アオイにも心の準備ができていた。

 

「そうだ」

 

「何が変わったんだ? わたしの予想では、物の見方に変化があったように思えるが」

 

「失ったことに目を奪われていたが、地面に足を付けて歩む『今』こそが大切だと思えるようになった。物の見方が変わったという君の指摘は、その通り、だ……ふむ」

 

 記憶のことに言及すべきかどうか迷う。

 パンジャに記憶の欠落を話すのは、それが彼女自身の問題ではなくともストレスだろう。けれど、ここで話さず後で話すというのも不信に思われるだろうか。アオイは努めて明るく「深刻な問題ではないのだが」と前置きした上で話すことにした。

 

「悪夢の世界から出て来る際に、記憶をすこし失った」

 

「……それは。それは、どんなものを?」

 

 わずかな動揺が、彼女の声を震わせた。

 

「『彼』――ジュペッタに関する記憶を失った。一緒に生活して、過ごした時間があったことは覚えているが、中身を覚えていないという…………感覚だ。この説明で分かるだろうか?」

 

 アオイの語彙では、これが限界だった。

 いつまで経っても教書程度の語彙しかない彼は、自分のボキャブラリーの少なさに肩を落とした。

 

「つまり、食事はしたことを覚えているが、何を食べたか覚えていない――のような感覚だろうか?」

 

「適切な例だ。言葉にするとたいへん誤解を招くが……。ともあれ私の執着は失われた。でも、私はそれを惜しく思っていないんだ。私は自分の知りたいことを知ることができた。それだけで、満足だ」

 

「何を知りたかったんだ?」

 

 パンジャの問いに、アオイは思い出したことがある。

 

(そうだ。――彼女は本当に、実験の結果を見たのか?)

 

 パンジャは、事故を起こした実験の当時、半端に復元したカブトプスを見たことがあるのだろうか?

 アオイが悪夢で見た実験では、成功していた。

 悪夢の中は物理現象が再現されているとはいえ、自分の認識の範囲内だ。現実でも必ず同じであるとは限らない。

 

 彼女の話を無視して、質問しそうになったアオイは、じっと見つめられていることに気付き衝動を心に押し込めた。そして。

 

「私は可能性を知りたかった。私に『ジュペッタを助けることができたか。どうすれば助けることができたか。あるいは、助けられないのか。どうして助けられないのか』。結果は、現実と些細な違いだった。私のひとこと、たったひとことが足りなかったゆえに起きた事故だった」

 

 パンジャは、それからしばらく黙った。

 彼女の慎ましい人差し指が唇を撫でた。

 その仕草は、とても自然だ。ずっとそういう癖があったのだろうとアオイは思う。そんなことに今さら気付く、自分に驚いている。

 私は、どうして彼女をもっとよく見ていなかったのだろう。この日常こそ大切なものだったに違いないのに。

 

 彼女は、じっと見つめてくるアオイの視線から逃げるように、テーブルを軽く叩いて注意を引いた。

 

「……君に意見するつもりは無いのだが、どうしてそれで納得したんだ?」

 

 パンジャは、言うべきかどうか迷ったらしい。しかし、その末で彼女にしては珍しく「理解しがたい」とハッキリ言った。

 アオイは真っ向から疑義を投げつけられる立場になった。

 

「悪夢のでき事は、たしかに、貴重な体験なのだろう。前代未聞だ。資料的価値は十分ある。それだけで論文ができるだろう。しかし『何物にも代え難い』わけではない。君のそれは想像実験の類いだ。――現実の因果関係に何一つ影響を与えない」

 

「…………」

 

 唇を撫でた彼女の指は、次に正気を確かめるように頭を差した。

 

「すべて君の頭の中のでき事だ。『たかが、それ』だ。だからどうして、それでいいと言えるんだ? 悪夢に現実感があった? 心慰めることを言われただろうか? だが、それで? それが何だというのか? 現実は何も変わっていない。変わったのは、変わったと思い込んでいるアオイだけだ」

 

 わたしは悲しい、とパンジャは言う。

 そして理解の及ばない、という顔をして首を横に振った。

 

「生きて変化し続ける限り、それは成長と呼べるだろう。だが、時に。正しくない成長もある。きのみの木をいいかげんな環境で生育すると、徒長するだろう? 背丈は伸びる。だが、葉が無い。花が無い。種子がない。これは成長ではない。無駄である。君の変化とは、この類いだ」

 

 アオイは反論のため息を吸い込んだ。――それは違う。

 

「君が軽視する、内心の充実こそが問題なのだ。現実における過去の因果関係を『今さら』変更することはできない。変えることができるのは過去ではない。未来ではない。我々の生きる現在だ。そして、変えることができるのは常に『自分』なのだ。そして自分の変えるべきは何か。それは物事の見方、ひいては思考の変遷だ」

 

「君は、引くに引けなくなって自棄になっているのではないだろうね? 変わってしまった自分の正当化ほど空しいことは無い」

 

 彼女は、そこで皮肉っぽく笑った。できれば、アオイも笑って欲しいと言うように。

 だが、こんなこと笑えるはずが、無いのだ。

 

「我々が研究室で行う実験は、正確ものだ。因果関係を調査するためには、比類無き正確性が得られる手法であることは疑うことはない。時間は不可逆だ。決して逆巻くことはない。我々の誰もが時を戻して探査することができなかったように。……そして、私が求めたのは因果関係の証明だが、当然のことながら、現実で失われた事物に対し研究室で行うように証明作業はできない。だから新しい手法が必要だ。悪夢を利用した究明は、一定の成果を得たように思われる。だが、君の懸念するとおり、この研究がその性質から主観に依存せざるを得ず、客観性が保全されていないことは認めよう」

 

 回答は、淀みない。

 アオイはモバイルのなかにはあるデータ、論文をパンジャに見せた。

 

「君は……! 命からがら起きたんだろう。黙って、大人しく寝ていればいいものを。……またこうやって無理をする。どうせ寝起きの身体に鞭打ったんだろう」

 

 そう言われて、アオイはギクリとした。

 パンジャはアオイが現役の時から夜更かしを快く思っていないのだ。

 

「あー、あー、あー! ところで、パンジャの懸念は何なんだ? 研究として悪夢の関することか? 私の思考に不具合が発生していないことか? それとも、私の人格に関心が?」

 

 これは、一歩だけ踏み込んだ話題だ。

 彼女は長い髪を一房つまんだ。

 

「わたしは君に開示しうる全てを求めている。まあ、感性に些かの曇りがないようで安心している。思考には些か補正の余地があると感じるが。……会話のレベルを下げよう、アオイ。今は高学歴な話をしたくない。君への負担を強いるだろうからね。所感でいい。自覚しているところで、自分自身に変化を感じることは?」

 

「火を見ると身体が竦むな」

 

「ストレス障害?」

 

「いや、病名が付くほどでは無い。ちょっと血圧が下がる程度だ」

 

「トラウマになっているじゃないか」

 

 パンジャが苦笑した。それから、食事は大丈夫かどうか訊ねた。問題ないと応えた。

 

「君こそどうなんだ。あの、手は、どうなんだ……」

 

 パンジャの手は、アオイを火事の最中から引っ張り出した時にひどい火傷を負っている。女性の肌を傷つけた。しかも、自分のために。――そのことをアオイも気に病んでいた。彼女は何度も「わたしが望んでしたことだから」と言ったが、だからこそ、気がかりだった。

 

「ブルーレアというところかな。――いやいや、笑ってくれよ」

 

「笑えるわけないんだよなぁ。すまない、痛い思いをさせているだろう。……何か、私にできることは、な、ない、だろうか?」

 

 パンジャがモバイルを返すため伸ばした手を、アオイは握った。

 手袋に覆われて見えないが、きっと肌は今も引き攣っているのだろう。

 

 初めて彼女に告げた言葉は、もつれて、口から転がるように出た。本音で話すのは、恥ずかしい。これだから言いたくなかったのだ。アオイは真っ赤になった顔を伏せた。

 

「アオイ……! ……そんなに触られると、困る……!」

 

 募る思いに目を伏せていたアオイは、その言葉に手をパッと離した。

 彼女の顔は真っ赤だ。同じようにアオイも照れた。手袋越しとはいえ、女性の手をなで回すのは紳士的な行いではない。

 

「すっ、あ、すまない……いや、他意は無い、無いんだ」

 

「わたしは君が元気であれば、それだけで嬉しい。嬉しいんだ。――でも、前の君はこんなこと気にしなかっただろう」

 

 胸の前で手を合わせる彼女を見て、申し訳ないと思う。

 アオイはそれを伝えるタイミングを逸した。アタフタしてしまったのだ。

 

「前の私は、研究に一途過ぎて人間としてちょっとダメだったと思うんだ」

 

「そうか?」

 

 パンジャはアオイの自覚とは違うようだ。

 彼女は熱っぽく語った。

 

「君は格好良かった。人間としてダメだったとしても、夢を追う君は格好良かった。どうか恥じないでほしい。後悔しないでほしい。まあ、それはそれとして、君に感謝されることは悪い気分ではないな。うん。気遣われるのも悪くない。ふふ、こそばゆい思いだ」

 

「パンジャ、ありがとう」

 

 アオイは、今度こそ照れずに伝えた。

 

 こうして。

 

 流れていく穏やかな時間が好きだ。

 お互いを尊重して、帰宅までの時間を惜しんで過ごす時間が好きだった。

 

 けれど、これは作り物なのだ。

 学生の時のように、自然ではない。

 

 これからの話は、コウタの前ではできないだろう。

 けれど、ここに来たのはこのためだ。

 

 アオイは、話を切り出した。

 

「……パンジャ、君に2つ。お願いがある」

 

「何か?」

 

「私と君の友情を再定義したい」

 

 パンジャは目を開いたまま、わずかに口を開いていた。

 か細い呼気が、音もなく零れる。視点が定まらない。混乱しているように見えた。

 

「…………なに、を? 不備が? わたしに、不備が? あった? だろうか? え……? え……? わたし、君に何か……不利、不利益を?」

 

 彼女は、言葉をまとめようとしてできなかったようだ。

 理解が追いついていない。いや、理解を拒否している。

 

 アオイは、自分の席に置かれたグラスをわきに置いた。

 

 彼は、パンジャのことが大切だ。

 ふたりの友情には、夢の実現まで互いに利ある限り友情は約束される。――という契約がある。この歪な状態を、アオイは改善したい。

 たとえ約定が無くとも、彼女を助けたいと思う。支えたいと願っている。

 

 その結果、彼女が離れていくのならそれは……それでも、仕方が無い。それを覚悟している。かつての臆病な自分が、彼女にかけた呪いを解きたい。

 

「研究における君の働きに私は満足している。君には不足も不備も無かった。だからこそ、私は対等に君と付き合いたい。『夢の実現まで、互助の関係である限り友人』――このような約束が無くとも私は君を親友だと信じている。願うことが許されるなら、君にも私と同じように……思ってほしい」

 

 アオイは握手を求めて手を伸ばした。彼女が手を握ることを期待していた。

 だから。

 何かを恐れるように、顔を険しくしたパンジャが立っていることを、アオイは想像だにしなかった。

 

「ダメだ! 許されない! 誰が! 誰が! 誰がこんなことを――アオイ!」

 

「なっ? な、なに……?」

 

「誰だ、誰だ、誰なんだ、君にこんなことを吹き込んだヤツは!? コウタか? マニさんか? ……わたしは、誰だと聞いているんだ! 答えてくれ!」

 

 パンジャがテーブルを拳で叩いた。

 存在しない誰かに矛先を向ける彼女は、絶不調に似ていた。

 つまり、パンジャが今まで忘れていたはずのことを思い出してしまった時の精神状態だ。

 

 疑心暗鬼に陥る彼女はぐるぐると何かを考えているようだった。――恐らく、碌でもないことを。

 アオイは努めて冷静を装った。

 

「あの、パンジャ。私は、誰にも助言を受けていないよ。自分で決めたんだ。私は歩けるようにはなったが、走ることはできない。リハビリは続ける予定だが、完治は難しいと医師に言われている。一生このままかもしれないし、高齢になれば誰よりも先に歩けなくなるだろう。このままの契約関係では、君にばかりフィールドワークをさせることになる。それは対等ではない。きっと私は、君に対価を払うことができない。心苦しいんだ。どうか分かってくれないだろうか?」

 

 パンジャは、何かを打ち払うように一度首を横に振って――アオイを見た。

 

「あっ、いや、違う、ごめん。アオイ、君を否定するつもりで……そういうつもりで言ったわけではないんだ。ただ、その、わたし個人の問題なんだ」

 

 先程までの強硬さが嘘のように無くなったパンジャは、気弱に言った。それから「大きな音を立てて、ごめんね」とも。

 急激な感情の起伏は彼女自身、変えることのできない性質として諦めている。アオイも理解があった。それに、この問題は一筋縄ではいかない。彼女にある複雑な内面、曰く複数存在する人格のうち何人かの成立に関係することだ。きっと彼女自身の決定に時間を有するのだろう。

 

「たしかに、君の都合もあるだろう。急な話ですまなかった。だが、考えてくれないだろうか? ……向こうに渡って、私はマニさんと話していろいろなことに気付いた。たとえば、友人であることに対価は必要無いこと、とか。一つの考え方だと思っていたが、なかなかどうして、心地良いものに思えた。ぜひ君との関係も穏やかなものにしたい」

 

 アオイは、できるだけ誤解の少ない正直な物言いをした。

 これまでにない提案の仕方に、パンジャは理解を示した。

 

「検討は、する。君の願いだ。叶えよう。ただ、わたしは、わたし個人としては――現在の関係に満足していて、変化させる必要性を感じていない、ということだけ伝えておく。不安なんだ……ひどく、不安なんだ」

 

「何を恐れている? 私は君を裏切らない。君が私を信じてくれるように、私も君を信じている」

 

「嬉しいことをありがとう。やはり君は分かっている。――だが、そうじゃない。これは、そういう話では無いんだ。とにかく困る。懸案事項として優先する。要検討だ。だからこの話は、もういいだろう」

 

 パンジャの顔色は暗く、話を打ち切られてしまった。

 これ以上、伝えることはできないのでアオイも黙る。感情的に拒否されずに「検討する」という言葉が得られただけでも収穫だろう。彼は頷いて引き下がった。

 

 最悪の予想が外れたことで、アオイは安心してしまったのだ。

 もし、未来から振り返るとすれば『この、今』を、慎重に選択すべきだったかもしれない。

 

「別の件だが、明日の朝に私をタワーオブヘブンに連れて行ってくれないだろうか?」

 

 うまくいったと思った時こそ、警戒すべきだと知っていた、はず、だった。

 自分の迂闊さに気付いた時は遅い。あまりに遅すぎた。

 ほんの一瞬。パンジャの顔から一切の表情が抜け落ちた。

 

 嫌な予感などという曖昧なものではない、身に迫り、目に見えた危機だった。

 

 アオイは気付いた。――こんなことを気付きたくはなかったが。

 

(パンジャは、私の変化をまったく歓迎していないのだ)

 

 自分は変わったと思う。アオイは、それでいいと思っている。

 けれど、彼女にはとっては良くない。アオイのなす、何もかもを快いと思っていないのだ。

 

「アオイ」

 

 その先に続く言葉を、アオイは、きっと分かる。――君に、変わって欲しくなかった。

 ふたりは、しばらく見つめ合った。

 会話を切り出したのは、アオイだった。

 

 ただひとつ、誤解されたら耐えきれないことがある。

 絶対に譲れない。アオイには、譲れないことがあった。

 

「パンジャ。私は、夢を諦めていない。この期に及んで、だ。君だけに伝える。私は、夢を見たい。誰も見たことがないものを、聞いたことがないものを、知らないものを、世界に知らしめてやろう。――ずっと、私の夢なんだ。たった一度の失敗で諦めない。私はまだやれる」

 

「後悔は無いのか?」

 

 たくさん失っただろう。

 言外に示すさまざまなものに、パンジャは心を痛めているようだった。

 だが、アオイはそれを退けた。

 彼に言わせれば、それこそが『たかが』知れたものだったからだ。

 

「無い。何一つ、私に後悔は無い。――けれど君にもジュペッタにも申し訳ないと思う気持ちは本当だ。傷付けたことを償いたいと思う。悪いことをしたと思う。仕方ないと思ったことは誓って無い。ああ、祈ることが許されるのならば、君たちへ永く幸せを祈っていたい。――それでも、私は正しい行いをしたと思っている。悪くとも間違ってなどいなかった。これからも試行錯誤をやめない。そして、私はわがままなので、君にこうして希う」

 

 アオイは、もう一度、右手を差し出した。

 

「君には私の隣を歩んでほしい。前ではない。後ろではない。私の隣こそ、君が歩むに相応しいものにしよう。私が夢を見る時、君にも同じ光景を見てほしい」

 

 パンジャの頬に、羽箒でサッと掃いたような朱が差した。

 アオイの顔も赤くなっていた。言い切ってしまうと緊張して、戒めのようにどんどん早口になってしまった舌を噛んだ。

 返答までの数秒が、永遠の長さに感じた。

 

「君は、プロポーズのようだ……分かっているのか?」

 

 彼女は顔を背けて、ぽつりと言った。

 アオイの頭は今日に限ってポンコツで、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

 そして。

 理解した時、頭の芯から沸騰した。

 

「はっ……? い、いや、あ、わ、私は、決してそういう、つもりじゃ……ああああああ! いや、だから、その、そういう、つもりじゃあ、ああああ、その――」  

 

 パンジャの言葉を否定したいが、否定するのは、とっても失礼にあたるのでは?

 研究者にあるまじき忖度に心の端を焦がしたアオイは、頭を抱えた。

 

 その様子を、たっぷり鑑賞した後で、パンジャが「まあまあ」とアオイを落ち着かせた。

 

「冗談だよ、アオイ。すまないけれど、これも検討させてくれ。あまり時間を取らせないよ。どちらも明日には返答する。それでいいだろうか?」

 

「いいが! ……いいのか、明日で。急かすつもりはない」

 

「時間は貴重なものだ。君の時間をむやみに浪費させるのは、わたしの本意ではない。明日には必ずだ」

 

「君がそう言うのなら、そうするが。…………もうひとつ、聞いていいだろうか? パンジャ、君はどうして研究者の道を選んだ? 私が君へ協力関係を求めたのは仕事に就いた後のことだ。学生の頃の君は何を求めて研究をしていたんだ?」

 

 アオイの疑問は、彼女から離れてしばらく後に気付いたことだ。

 言い渋るかと思いきや、パンジャは手袋に包まれた指を擦り合わせながら答えた。

 

「ああ、言っていなかったか? 何のことはないのさ。わたしは、我が愛しの母上から『良い人間になりなさい』と教育を受けている。では『良い人間』とは何か。わたしの考えるその定義は『最大多数の人間を幸せにすること』だ。世界を良くするためにわたしは研究していて、手段を選ばない。……君の研究は、わたしにとって乗り合わせた舟のようなものだ。漕ぎ手が良い、舟だとも」

 

 パンジャは、そう言って、ゆるりと目を伏せた。

 

「重荷に思っていただろうか、アオイ。わたしは、君の役に立っていたいだけ……だったのだが」

 

「重いは重いが、君の期待は心地良いものだった。しゃんとしていたよ、昔の私は。今よりずっと余裕が無かったが……」

 

「…………」

 

 彼女の顔色は、複雑だ。

 肯定と否定。内心では相反する感情が渦巻いているのだろう。

 

 昔と今。比べることはできる。

 でも、今を昔に戻すことはできない。

 不可逆性を認めなければ、彼女は歩き出すことができない。

 

 テーブルに置いたアオイの指とパンジャの指が絡んだ。

 

 これまで語らなかったことを話した。

 今は、これ以上の言葉は無い。

 それなのに、理解を拒む壁は薄く高い。

 

 手袋に包まれた指先が馴染まない体温を惜しんでは撫でて、去って行く。

 それをアオイは黙って見ていた。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 悪くとも、間違いは無かった。

 

(ああ、君は……そう言うのだね、アオイ)

 

 自宅の車庫へ戻ったパンジャは、アオイの言葉を思い出し安心感を覚えていた。

 

(――これまでの『準備』は無駄になったかもしれない)

 

 二重に隠したポケットに入れた『彼』の部品を撫でる。

 パンジャは1年ぶりに波風のない穏やかな心でいられる自分に気付いた。アオイがいるから、こうして静かにいられるのだ。

 車のエンジンを切った後。パンジャは車から降りず、ゆっくり降りてくるシャッターを見つめていた。

 

 アオイは、変わった。――というより、元に戻った、が正しいのかもしれない。

 手のことを気遣われた時に、パンジャも思い出したことがあった。

 

 ――ああ、この人は、優しい人だった。顔も知れない誰かのため、名前も無い誰かのため、決して報われないと知りながら険しい道を歩いて往ける人だった。

 

 最初に自分が救われた時、彼に感じた光をパンジャは思い出していた。

 だから、もう、自分は頑張らなくていいのかもしれない。

 パンジャの時間と労力こそ無駄になったが、これもいつか何かに役立つ研究になるかもしれない。それだけで対価は十分だ。

 それに、今の彼に必要なのはジュペッタではなく、楽しげに彼を照らすヒトモシこそ相応しいのではないだろうか?

 

(わたしは君に謝罪を求めているわけではないから……君が前向きにいられるのなら、わたしも、それで構わない。構わなかっ――)

 

 その時、彼女の頭に到来したのは刃物で刺されるような鋭い痛みだった。

 こめかみを押さえて、ハンドルを頼り頭を抱えるパンジャは思考にガンガン響く音に呻いた。

 

(正しくない! 正しくない! アオイは、以前のアオイはもっと『鋭い』人だった! 何の犠牲も躊躇わない男だった! 弾劾せよ!)

 

 うるさい。

 

(いやいや、アオイは前からああいう風だっただろう。彼の甘言は今に始まったことではない。それよりも。まだ『我々』に利用価値があるから、今回は戻ってきたのだろう。悪夢の実験にはサンプルが必要だ。その数は多ければ多いほどいい。――研究室の後ろ盾が無い彼には『何をしても文句の言わない』人材が必要だ。分かるだろう?)

 

 うるさい……。

 

(――君、そんなことを言ってはいけない。アオイをもっと信じなければ。彼は、まだ何もしていないじゃないか)

 

 うる……さい。

 

(手遅れになる前にやるべきだ! 彼が周りの制止を聞かずに実験をした憤りを忘れたわけではないだろう! 今度こそ、遅れてはいけない! アオイにも! コウタにも! 先手をとられる前にやるべきだ!)

 

 う………………。

 

(まあ、それもそれで良い選択なのだろう。帳合すべき過程は、既に整合性をかなぐり捨てている。評価されるのは常に結果だ。その結果により、現実を裁定するというのも今であれば、私にはそう悪くない選択肢に思える。しかし、肝心の『わたし』は、あまり乗り気ではないようだな。まあ、アオイを疑うことのない人格なので仕方がないか)

 

 ……………………。

 

(タワーオブヘブンでアオイの動向を見極めてからでも遅くは無いのでは?)

 

(その選択は遅くはないが、早くもない。先んじる利点を失うのであれば、それは0ではなくマイナスである)

 

(だが、他に我々の選択肢は――)

 

 バタン。

 現実世界に起きた音に、パンジャの目は覚めた。

 頭の中の声は、最初から無かったように立ち消え、頭痛も引いている。

 長い夢を見ていた感覚だが、これが夢ではないことをパンジャは知っている。焔の夢を見ることは無さそうだと安心した矢先に、これだ。

 

 しかし、何の音だろう。

 

 憂鬱に車内を振り返ったパンジャは、そこでアオイのパソコンケースを見つけた。

 

「アオイの忘れ物か……。はあ……」

 

 車内に立てかけて置いてあったパソコンが倒れてしまったのだろう。

 また顔を合わせなければならないのは、本当に憂鬱だ。

 せめて明日までは会いたくない。これから考えなければならないことがたくさんあるのに。

 

 ――ああ、また頭が痛くなってきた。アオイには悪いが、この仕事は明日にしよう。

 

 ズキズキと頭の内側を刺激される痛みに、顔をしかめる。

 パソコンをどうしようかと迷ったが、車内に置いておくのはよくないだろう。

 

(あとでバニィに氷を出してもらおう……)

 

 今は、頭が酷く痛んで思考どころではないのだ。

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 深夜。

 

 頭の冷えたパンジャが、部屋の隅に置いてあったアオイのパソコンを開いたのは、ちょっとした好奇心だった。

 

(……アオイの、小説は……どこだろう……?)

 

 アカイ・シオフキ、というペンネームで執筆している、小説が気になって仕方がない。

 ネット上にアップロードされている小説は、アオイが悪夢の実験を始める数日前から更新が停止していた。

 

『透明なモンスター・ボールが発明された世界で起きる諸事情』というタイトルの小説は、もとは1話完結の短編であった。しかし、今アオイ――もといアカイが書いているのは、短編を長編に編み直した作品だ。

 パンジャにアカイのことを教えたのはアクロマであった。彼のことを疑うつもりはないが、それでも、本当にアオイが書いているのか気になってしまったのだ。

 

 アオイのパソコンの中身はファイルがごちゃごちゃになって置いてあった。一見、ファイルの題名では何を書いているのか分からない。

 更新履歴で並び直せば見つかるだろうか。

 いくつかの操作をして、整然と並んだファイルの羅列をひとつひとつ見ていく。

 

 その中で、パンジャはファイル名が言葉の体を成しているファイルを見つけた。

 

(『実験記録1-7』。作成期間は悪夢実験の当日……しかし、ファイル容量が大きいな。いったい何だろう……?)

 

 それにこれだけ文書ファイルではない。音声ファイルだ。

 古い作成日のファイルを見ても、アオイのパソコンには音楽ファイルのひとつ無い。そのなかで、これは異質なものに見えた。

 

 とはいえ、パンジャが探しているのは小説のある文書ファイルであって、膨大な音声ファイルではない。

 理性ではそう思う。良い人間の行うべきことではない。それを理解している。

 

 しかし。

 

 どうしても作成日が気になる。何が入っているのだろう。

 

(1-7とは? 時間? 講義の単位数だろうか? それとも段階? あるいは……?)

 

 アオイには後で、これを聞いたことを正直に謝ろう。

 パンジャは、そのファイルを開くことにした。

 壁に掛けてあるヘッドフォンを取り、パソコンに繋げる。

 

 そして、再生ボタンを押した。

 

 

 

 ――――

 ―――――――――

 ――――

 

 

 

 これは『もしも』の話だが。

 

 彼女が見つけたのが、マニに夢と希望を託した『ダークライの悪夢による現実解釈の多相性について』であった場合、未来の行動は変わっただろうか?

 

『アオイの行動は自棄ではなかった。自暴ではなかった。自己犠牲ではなかった』

 

 そうして。

 

 一度受け入れようとしたように、変化しない自分に手を振ることができただろうか?

 現実に足を着け、未来を見つめ、進むための選択だと心から信じることができただろうか?

 今度こそ、アオイの手を取って隣を歩くことができただろうか?

 そして、アオイが夢を見る時、彼女も同じ光景を見ることができただろうか?

 

 

 

 ひょっとすると、ふたりで未来の話をしながら……お互いを大切だと思う以上の『何か』を学ぶことができたかもしれない。

 

 

 

 あくまで『もしも』の話だ。

 

 現実は、そうではなかった。

 

 彼女が見つけたのは、誰よりも大切な彼の――7日間の絶叫を記録したものだった。

 

 

 

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