もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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海溝の果てより近しい嵐を呼ばう

 この日、パンジャ・カレンは憂鬱であった。

 

 本来、この上なく素晴らしく一片の過失、風情の欠如が許されない今日にあるまじきことだが、嵐の到来を祈念すべき日になるかもしれない。

 

 なぜなら、ライモンシティの雪が消えてしまった。

 

 パンジャは、今にも跳ねて浮き足立ちそうな心を鎮めることに時間を要していた。目を閉じて、呼吸を整え、数を数える。頭のなかの音楽は、今日に限ってロックで激しい。バスドラを4つも並べてどうするというのだ。恐らく朝のラジオで流れていた音楽が悪い。

 

 彼女にとって雪と氷は格別の意味を持つ。

 セッカシティ。雪原に覆われた故郷の景色だからだ。

 

 心の中にいつまでも残る白銀の景色は何にも代え難く、シッポウシティに移った近年でもその光景を探すことさえあるというのに、今年はどうにもその気分にはなれない。春を待ち遠しく思うことが無かった彼女にとって、それは動揺をもたらす心境の変化だった。

 

 しかし、どうして都会で溶け残った雪は、灰色で汚く見える。

 薄い偏光グラスの先に見える景色は、美しくない。

 

 これからアオイを迎える街がこの現状であることに、パンジャの頭は今から痛い。

 

(溶け残った雪が惨めで、とても嫌な気分だ)

 

 もっと色の強い眼鏡は無かっただろうか。車中を漁るパンジャは、窓をノックされて顔を上げた。パンジャと似たような色眼鏡をちょっとだけズラして目を見せた。友人のコウタ・トウマであった。

 

「よおよお、ったく、ご苦労なこってさァ」

 

 停戦協定中の彼は助手席に乗り込むと、温風の噴出口に手を翳した。

 

「さぶいぜ……。アオイ、海で凍えてないといいなぁ……」

 

「足が悪いのだから、こちらに着くまで寝ているんじゃないか。晴れているが、海は荒れているだろう。まだ雪解けの水が多いからな」

 

 暖房を強めに調整しながら、パンジャは言った。

 信条上の理由で喧嘩中とはいえ、普通に話しかけられると調子が狂った。

 

 この喧嘩で生じるストレスは、いつものように忘れてしまうのが一番なのだが、よりにもよって抗争相手がコウタで、しかもアオイを巻き込むので、対応が後手に回るとマズイ。詰んでしまう。――そんな理由で彼女は忘れていなかった。それに対し『話が通じるじゃねーの』と雄弁な瞳で見つめてくるコウタを、パンジャは無視した。

 

「いやー、意外とヒョコヒョコ歩いているかもだぜ? なんたって、ヒトモシのミアカシさんがじっとしている感じじゃないし」

 

「……ふむ」

 

 一理ある、とパンジャはコウタの言を認めた。

 

 カノコタウンまで、サンヨウシティ・カラクサタウンを経由して数時間。到着した港は風が吹いていた。パンジャは降りて待つ心算だ。温かい車で待つであろうコウタに鍵を預けようとしたが、断られた。

 

「君にしては珍しい。律儀なことだな」

 

 ほんのすこし驚いて鍵を持つ手を引っ込めた。

 

「いくら俺でも死にかけて、病み上がりのヤツを待つのに、ぐうたらしねーよ。しかし、着港の30分前から待つのはどうかと思うぜ。……周り誰もいないじゃん」

 

 エンジンはそのままに。ふたりはそろって車外に出た。

 ざぱーん。

 気の抜けた波音がふたりの間を漂った。

 

「今日は……ふふっ……ちょっと、気分が乗ってしまってね」

 

「お前、そんな顔するんだな」

 

「な、なんだよ……」

 

 寒いため、しきりに足踏みするコウタがニヤニヤと温い顔で笑った。

 

「初デートで時間のずっと前に来ちゃった♪って顔さ」

 

「なんだコウタ、アオイに会いたかったのか。泳いでいくと良い。さあ、早く」

 

「ばかやろう! マジにするなっつーの!」

 

 パンジャは思いつきで背中を押した。

 

「寒かろうと思って気をつかったんだ。地上は氷点下だが、海中はきっと0度だ」

 

「ああ、なるほど。つまり海の方が温かいってか。んじゃ、ちょっくら浸かって――普通に死ぬわ!」

 

「…………」

 

「このジョークは使えるなって顔やめろ。アオイに怒られてもしらねーからな」

 

「今のはすごく良い。ああ、良かったとも。カントー=マンザイみたいだった」

 

「カントーかぶれめ……」

 

 ずっとカントーに憧れているらしいパンジャは、口元で笑みを作っていた。それが久しぶりに見る彼女らしい笑みのようで、コウタは彼女の隣に立つ緊張がフッと解けた。

 

 ふたりの会話は途切れ、しばらく何かを探すように遠くの海を見ていた。

 やや間を置いて、コウタが「なあ」と口火を切った。

 

「何だ。今日は喧嘩をしない、という話なら――」

 

「違うっつーの。俺が聞きたいのは、お前はジュペッタを再生する、何だ、実験? あれのことは……どこまで進んでいるんだよ」

 

 コウタは、パンジャに進捗を訊ねた。

 

 研究により技術が更新されるのはいい。それが人間の進化、ひいては可能性であるからだ。問題は、最大の問題は、彼女の研究と技術が倫理を度外視したものだからだ。

 

 文字通りの『論外』である。

 百歩譲って、実験を行うならば正統な手順を踏んでやってほしい。

 

 パンジャは肩に流れる長い髪を後方へ流した。コウタは隣を見た時、潮風にあおられて彼女の真白い項が見えた。

 

「復元に必要な専用機材の目処が立った。あとは不足を補うメタモン細胞の培養が済めば実験は次の段階へ移る。――君の邪魔する手立ては、いよいよ私を始末するしかないようだぞ」

 

 それは、今が好機だと唆しているようであった。

 コウタはゴクリと生唾を呑み込む。彼女の言葉の通りかもしれない。しかし想像すると手足が震えた。

 

「潮が良くない日だ。見ろ、早朝にも関わらず釣り人ひとりもいない。ええ?」

 

 彼女は芝居風に両手をあげて、煽った。

 

「やけに弱気に見えるぜ。まるで失敗してほしいみたいな――ん!? ははぁ、さてはパンジャ、アオイから許可を取れるかどうか、気に病んでるな?」

 

 パンジャは、ほんの一瞬だけ蔑むような視線を投げた。

 できれば永遠に隠しておきたいことをズケズケと知った面で言う、この友人が――パンジャは、こうして稀に、そして自然に、永遠にいなくなってほしいと思うことがあった。

 

「私は、間違ったことをしていない」

 

「学者様よ、会話になっていないぜ。まあ、いいさ。とことんやり合うといい」

 

 ニッとコウタは笑った。目だけ、ずっと遠くを見ていた。

 

「止めないのか」

 

「止めたいさ。今すぐ殴って止めたいさ。だが、それじゃ納得しないんだろう。それなら、納得するまでやればいい。納得しても続けるようなら、そん時はぶん殴って止める。パンジャだろうが、アオイだろうが。『納得』が一番大切なんだろう?」

 

「そうだ」

 

「俺もそうする。全部中途半端にまるめて仲良しこよしできるほど、俺たちはガキじゃないだろ。まあ、とはいえ、心配は心配だ」

 

 何が心配だというのか。

 パンジャは話を伺った。

 

「仮の話だが、アオイに『ちょっとジュペッタを生き返らせたいんだけど、この部品を使っていい? 実験したら無くなるけど』って言ったとして『ダメ』って言われたら、お前は諦めることができるのか?」

 

「彼の判断は全てに優先される。この実験は、世界のためにもなるが、元々彼のためのものだ。――ありえない、無益かつ無意味な仮定だが――彼が『要らない』と言うならば、私は退こう」

 

「ほんとか? それ」

 

「彼が不要と判断するものを押しつけたくない。……だから、彼が興味の無いと言ったカントー=マンガもトクサツも彼には薦めていないだろう」

 

「お、おう。なるほど。きっとありがた迷惑ってヤツだろうからな。お前の言葉が真であることを祈っているよ」

 

「アオイは私のことを分かってくれる。何より、必要としているのは彼の方だ」

 

 パンジャは、アオイにはいかにジュペッタが必要であるかを説いていたが、その言葉の半分は自分の判断と行動に過失が無いことを訴えていた。

 

 コウタはそれに気付いていたが、黙ることにした。

 船が見える。ここで言い争い、ヒートアップした彼女とアオイに会うのは、何だかマズイ気がしたのだ。

 

 

 

◇ ◇ ◆

 

 

 

「うぅぅん。私なら、オコリザルが勝つ方に賭けるが……え、リザード? ほのおタイプの肩を持つ心算かい?」

 

 甲板に広げられたフィールドでは、ポケモンバトルが行われていた。 

 眼下の様子がよく見える階段の途中。あれこれと歓声を飛ばす一団に混ざっていたアオイは、ヒトモシのミアカシが自信ありげにリザードを指差していた。

 

 イッシュ地方へ向かう船にしては、珍しいことにあれらはカントーのポケモンだ。

 

 シンオウ地方にいないポケモンが戦う姿にミアカシのテンションはアオイ史上、最高潮を記録している。――のだが。

 

 ミアカシはアオイをチラと見る。

 

「モシモシ……」

 

 こそこそ話のようにラルトスと顔を寄せ合う。

 そして再び、アオイをちらり。そして溜息。

 何を言われているか、さすがのアオイでも予想がつく。

 

「私のことを、甲斐性無しだと言う視線はやめなさい……傷つく……。ほらほら、諸君。もっと近くで見てみようか」

 

 アオイは杖と手すりをたぐり、階段を降りた。時間をかけて降りてくる頃には、カーン、という高い音が響き、目を回したオコリザルがトレーナーもろとも場外に吹っ飛ばされていた。

 

「すごいな、あのリザード。リザードンほどの力量は無いと思っていたのだが……」

 

 バサバサと船上で旗のようにはためくコートを抑えながら、アオイは喝采を受けるリザードとその少年トレーナーを眺めた。

 

 ラルトスが足下でズボンを引っ張った。

 

「うんうん、きっとよく育てられていて、信頼関係もよく積まれているのだろう。とても良好な関係だと思うよ。そういえばラルトスは、バトルは好きではないのか? いいや、向き不向きがあるだろう。強要することはないが……おっと、リザードに新しい挑戦者が」

 

 それが挑発しまくるヒトモシだったので、アオイはついミアカシを探した。そういえば、彼女は自分と同じ種類のポケモンを見たことがあるだろうか。無ければ、バトルが見れる絶好の機会なのだが――。

 

 ラルトスがアオイのズボンを激しく引っ張った。

 

「非社会的な行動はやめるんだ。どうしたんだ。それより、ミアカシさん、リザードがヒトモシと戦うんだけどって……いない! ミアカシさん!? どこだ!」

 

 どこを見てもいない。まさか、海へ落っこちたとか。

 最悪のことを考えてアオイは血の気を引いた。

 彼女はアオイとマニが釣りの腕比べをしている間に、海に落ちた前科がある。アオイは慌てて柵に向かって歩き出したが、ラルトスに止められた。

 

 ラルトスが指差す先は――。

 

 今にも戦闘に移りそうなリザード、そして対峙するヒトモシ。

 展開を理解したアオイは呻き、震えた。

 

「あ、ああああ! ミミミ、ミアカシさんんんん――! 見境無くバトルふっかけるのはやめるんだ……!」

 

 恐らく、ミアカシは知らないのだ。知人同士のバトルならいざ知らず、見ず知らずのトレーナー同士がバトルする場合、そこには金銭が発生することを。

 

 まさか、そっぽを向いて他人のフリはできない。

 挑発を続けるミアカシを止めるためには傍に行くしかない。結果的にフィールドに立つことになったアオイの足は、疲労以外の理由で震えていた。

 

「ミアカシさーん……ミアカシさーん……やめるなら、まだ、まだセーフなのだが……」

 

「モシ、モシモシ!」

 

 勇気凜々で元気溌剌の彼女を止める術が、アオイにあるわけがない。

 彼は、3秒で腹を括る。

 そして、背筋を伸ばし、震える喉で息を吸った。

 

「私はヒトモシのトレーナーです、リザードとそのトレーナーに勝負を申し込みます!」

 

 相手が断ってくれないだろうかと期待したが、何もすることが無い船上で断るワケがない。その結果をアオイは知っていた。

 

「うぅぅ……」

 

 心底、私は何をやっているんだと思う。衆目を集める我が身が憎い。耳の先まで真っ赤になっていた。

 

 だが、ミアカシがその気になってしまった以上は仕方がない。それに、と自分を励ます。たかがバトルの一つが何だと言うのか。――頑張れ、自分! ……いや、これから頑張るのはミアカシさんだが。ラルトスが特徴的な高い声で、ミアカシに声援を送った。

 

 善意で審判を買って出た青年が、開始を宣言した。

 

「――リザード、かえんほうしゃ!」

 

「ミアカシ、炎に構うな。おどろかす!」

 

 ヒトモシには、特性が3種類が確認されている。そのなかでも、ミアカシの特性――『もらいび』は、戦闘においてほのおタイプのポケモンに対し有利に働く。

 

 ミアカシは、リザードの炎を受けても傷つかないことに気付いたようだ。眼前いっぱいに広がった炎に動じることなく、大きな影を揺り動かした。

 リザードがいくら戦闘に慣れていても目の前に大きな影が現れたとしたら、驚いてしまうもの。動きが怯んだ。

 

 アオイの指示を待たず、ミアカシの頭上の焔が揺れた。あの挙動は『はじけるほのお』だろうか。勢いよく命中した焔により、リザードが身体を気にするようにミアカシと距離を取った。同じほのおタイプゆえ『やけど状態』になることはないだろうが自分とは違う焔の温度に対し、ピリついた雰囲気を感じさせた。

 

「すごいな、いつの間に……」

 

 ミアカシの動きは去年の春――コウタバトル大会に参加した時だ――あの時とは、見違えるほどの成長を見せている。

 シンオウ地方へ渡り、庭のきのみを狙うポケモン達に勝負を挑み続けた結果、大きな経験を得たのかもしれない。動きには油断が無く、間合いには迂闊に踏み込むことがない。彼女は自分が展開する攻撃の手が、どこまで届くのか分かっている。

 

 ラルトスが熱気にあてられて、さらに応援した。

 

「よし――」

 

 勝機は十分。

 アオイは我知らず、一歩踏み出していた。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 船が減速する。

 

 長い航海の果て、故郷の地を踏むために約1年を要した。

 あの時は、自分がこうして帰ってくる光景を思い浮かべることができなかった。そう思えば、今この状態は本当に稀なこと――世に言うところの、奇跡だった。

 

 トン、トトン。木板を軽く踏みならす音にアオイは目を開く。バトルに快勝したミアカシを休めていた彼は、いつの間にか眠ってしまったようだ。手荷物と時間を確認して、ホウと息を吐いた。

 

 ラルトスが軽快なステップを踏んでいた。細い手足が繊細に、けれど、しなやかに動き、淀むことなく舞う。それは美しいものだった。人は綺麗だと認めると自然に笑ってしまうものらしい。

 

「私は、故郷に帰れることを思いの外、喜んでいるらしい」

 

「…………」

 

「良い思い出ばかりではないのだがね」

 

 船が止まる。

 アオイは、眠っていたミアカシを揺り動かした。

 

「ラルトスも。コウタが迎えに来ているはずだ。久しぶりだろう。ミアカシさん、起きてくれよ。紹介したい人がいるんだ。仲良くしてくれるといいんだけど……」

 

 ミオシティより幾分、海の色が明るい。

 ああ、帰ってきたのだな、と思う。

 大きな欠伸をしたミアカシが、目を擦る。アオイは彼女を抱え上げた。

 

「ようこそ、イッシュ地方へ」

 

 

 

◆ ◇ ◇

 

 

 

 コウタは、乗客を見ていた。

 

 タラップを降りた乗客は、ターミナルやバスに吸い込まれている。いざその瞬間が近付いたと思うと、感慨にぼうっとしてしまい、ずいぶん長い間同じ景色を見ている気分になっていた。我に返り、時計を確認すると着港から5分も経っている。タラップを降りる客もまばらになってきた。

 

 パンジャ。アオイ、いないぜ。なんて、声をかけようと思った矢先。

 

 切り揃えた赤い髪を手で押さえながら、アオイが船から降りてきた。キョロキョロと辺りを見回して、誰かを探している。

 

(あっ)

 

 顔色が良い、とコウタは思った。

 アオイにかつて在った、人を近寄らせない攻撃的な雰囲気は和らぎ、落ち着いた青年に見える。笑顔も引き攣っていない。とてもリラックスした様子だった。

 

(――ああ、あんな顔もできたんだっけ)

 

 コウタでさえ忘れかけていた、ただの平穏で失われていた感性だ。

 彼の記憶では、アオイは常に皮肉っぽく笑って、斜に構えている癖に繊細な印象だった。

 

 もしも、彼が悪夢に没入したまま死んでしまっていたのなら、その印象はこうして覆ることはなかっただろう。

 

「……ッ。おぉーい、アオイ、アオイーっ!」

 

 コウタは駆けだした。走りながら、考えた。理由を求める。でも、動いているアオイを見たら、言いたいことが溢れて仕方が無くなってしまったのだ。

 

 アオイもまた、コウタを見つけたようだった。遠慮がちに右手を挙げた。

 

「あ、コウタ。久しぶりだ。……あの時は、本当に迷惑をかけた」

 

 彼は、目を伏せる。コウタは、距離をとって足を止めた。アオイの杖を持つ手が、わずかに震えているように見えた。

 

「申し訳ない。私のわがままに散々付き合わせてしまった。あの後、マニさんから聞いた。三日月の羽……探して、奔走してくれたと。本当に、君には申し訳ないことをした」

 

「どうだっていいさ。お前が生きてりゃ、それで、それで……俺は、それだけでいいんだ。たったそれだけで、これで、良かったんだって思う」

 

「…………」

 

 アオイは、また難しいことを考えているのだろう。きっと「生きているだけで価値があるのなら、この世に存在の価値は無い」とか。哲学っぽいことを。

 何となく気恥ずかしくなり、コウタは顎を掻いた。

 

(俺は、言いたいことを言った。アオイが何を考えるかはアオイの自由だ。それでいいと思う。溝は、どれだけ言葉を重ねても埋まらない)

 

 それでも。

 きっと、今だから心に響く何かは在るだろうから言った。

 

「ありがとう。……でも、感謝する」

 

「おカタイのねぇ。ん?」

 

 コウタはアオイの肩を叩いた。ふらついて倒れ込みそうな彼は、もういない。

 ふたりから、やや離れたところにパンジャが立っている。

 

 コウタは、妙だと思った。

 

「…………」

 

 彼女の唇は固く、まるで言葉を忘れてしまったかのようだ。かといって、無表情ではない。感情の種類を分別するには、あまりに曖昧な色の喜怒哀楽が混在している。

 

 コウタは、彼女がアオイの健在をもっと喜ぶと思った。それだけが願いで、コウタとパンジャの間の友情は絶交状態なのだ。それなのに。アオイに声をかけることなく、彼女は立ったままだ。自分がとるべき表情が分からなくなっているのだろうか?

 

 助け船を出してやるべきか。考えるコウタを遮るように、アオイが歩いた。彼も言葉を探すように「あぁ」とか「その」とか言った。控えめに情を乗せた声音は、彼女が相当怒っていると思ったのだろう。

 

「パンジャ、出迎えご苦労」

 

 その言葉に「ああ」と応えたパンジャは、顔を明るくした。

 

「――ではないな。『ただいま』と言うべきだったな。直接話すのは、本当に、久しぶりだ。元気にしていただろうか……?」

 

「おかえりなさい。わたしに変わりは無いよ。それよりも君の健康を嬉しく思う。リハビリをとても頑張ったのだろう」

 

「私のことはいい。……君に、とても負担を強いた。すまない」

 

「君に心配されることは何も無い」

 

 ふたりの会話は、コウタの分からない話題になっても続いていたが、頭に入ってこなかった。彼女の喜びと――わずかな絶望を、コウタだけが見逃さなかった。だが、口を挟む余裕は無いし、アオイも理由の分からない失望を告げられても対処のしようがないだろう。けれど、黙っておくには不穏である。どうするべきだろうか。

 

 迷うコウタの視界の端にチカチカと訴える光がある。コウタは目を落とした。

 

「お……? おぉう、ミアカシさんじゃないか。元気だったかー? ラルトスも元気かー? アオイがしょぼくれてるんで風邪引いていないかー? そうかそうか」

 

 ミアカシとラルトスは、コウタのことを覚えているようだ。ひとまずホッとした。しゃがむと、ラルトスが珍しく積極的に握手を求めてきた。温かい。そして、柔らかい手を握った。

 

(ああ、今は。今だけは……これでいい……)

 

 コウタは思う。

 本来、現実にこれ以上の幸福を求めるべきなのだろう。パンジャがもっとまともだとか、アオイの足がもっとしっかりするだとか。

 

 だが、コウタは違う。『現状に満足できる』彼は、これ以上を想像することはできても願うことはできない。だから、3人が生きていてポケモン達と交流できる、この現実だけでいいのだと思った。

 

(でも。どうして、こうなんだろうな)

 

 目を細め、涙を流したコウタは誰にも気付かれないうちに自分で拭った。

 

(誰もが正しいはずなのに。間違いそう。なんて)

 

 きっと嵐が来る。

 情熱が何もかもダメにして、破壊し尽くす暴風がやってくる。

 この予感は当たるだろう。

 

 コウタにはアオイを見た時から妙な勘があった。悪夢から目覚めたアオイは過去を見ていない。出会ってすぐに謝ったのは、決して上辺の辞令ではない。恐らくだが――事故に会う前のアオイならば、あそこで悪びれない態度を取るはずだ。

 

 そして、全てを精算しようとしているアオイに、パンジャも気付いている。

 

 彼女は切り出すタイミングを窺っているのだ。好機を逃さず、言葉を間違えなければアオイが快諾すると思っている。その判断を間違いだとは思わない。むしろ彼女だからこそできる道理があるように思える。

 

 未知の知見を重んじる『アオイの夢』を知っていれば、アオイは彼自身の一切を考慮から切り捨てて、実験を後押しするだろう。実験者は唯一無二の協力者なのだから、なおさらのことである。

 

 彼には夢がある。

 彼女には願いがある。

 どちらも互いの幸福を祈り、成功を望んでいる。

 

 だが。

 しかし。

 それでも。

 

 コウタは、今のアオイが頷くとは――どうしても思えないのだ。

 

 嵐の予感とは、それだ。

 

 目に見えた破滅の行く末に、コウタの目は曇る。気落ちしたコウタをラルトスがのぞきこんだ。ミアカシも興味を惹かれたのか、膝を叩いた。

 

 キラキラ輝く、ミアカシの青白い焔は生気に満ちていた。

 

(綺麗だ……こんなに綺麗だ)

 

 以前、コウタがシンオウ地方を訪れた時、焔はくすんでいたんじゃないかと思う。あの時は焔の色にも輝きにも目を奪われることはなかった。コウタは職場でシャンデラが、どれほどの光量で穏やかな生命を燃やしているか知っている。彼女――ミアカシは、この1年で、それに勝るとも劣らない輝きを得た。

 

「大丈夫。大丈夫だぜ」

 

 コウタは価値観の差異こそ3人の間に広がる海溝だと、知っている。

 見ている彼方が違うのだ。

 

 自由を尊ぶから、諍いが起こる。

 けれど、誰も譲ることはできないのだ。

 誰もが『これでいい』ではなく『これがいい』と信じるが故に、止めることができなかった。

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