もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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今回、あまり触れていなかった外見的特徴が話題になるのであらためてパンジャの外見図を掲載しています。苦手は人はスルーしてね。
パンジャ&メアリー・スー
【挿絵表示】



case10. 午後3時26分まで(中)

 

 アオイ・キリフリという男は、ことパンジャ・カレンの前では一切の愚痴を零さない人物であった。

 

『彼女にとって理想の存在でなければならない』

 

 その自戒は、アオイの覚悟だった。

 

 調子の良い甘言と目算でしかない夢をちらつかせて、自分の夢のために騙している自覚がある。だから、せめても最後まで騙しきることを覚悟していた。

 

 それが唯一、彼女に捧げることができる誠意だったからだ。

 

 その建前が壊れたのは、ここが悪夢であること――そして、癒えることのない疲労であった。

 

 

 

 回帰地点である研究室の自分の席でアオイは思考を停止していた。何も掴んでいない指先の感覚が、妙に鋭い。

 

 このままではいけないという焦燥ばかり募り、何もかも空回りしていた。

 

 何度巡っても研究室の窓は、夏風でカタカタと音を立てている。

 

(すこし休もう……。この際、いや、今さら慌てても仕方がない。この試行で10回目。隕石でも何でもいい、不整合の判決が落ちてくるまで休もう……)

 

 思考は相変わらず麻痺していたが、今回を捨て回とすることへの判断は早かった。

 

 机に肘をついて顔を覆う。呼吸を整えて、頭を空っぽにする。風の音以外聞こえない。とても静かだ。その静かさが、痛んだ思考をわずかに冷やした。

 

「アオイ」

 

 名前を呼ばれて、さっきまで見つめ合っていたパンジャのことを思い出した。まだ、ここにいたのか。もう研究室に行ったと思っていた。ああ、と溜息のような返事をした。

 

 世迷い言としか思えない自分の言葉を彼女はどう受け取ったのだろう。アオイに考える余裕はなかった。

 

「夢か。アオイ、この現実は夢なのか」

 

 ああ、と息を吐き出した。

 

「そうか。ならば。それは、左様で。それで、いい。いいの、だろうな」

 

 パンジャのそれは、感情の焦点が定まらない声だった。

 

 何がいいんだ、と聞くべきだろう。だがアオイは体が重かった。彼女の言葉は右から左へ流れ、聞き留めることができない。何か重要なことを言っている、と意識が爪を立てたが、どうしても動かない。

 

 ずっと考えすぎた頭はまだまだ痛かった。

 

 しばらく黙っていると、パンジャが席を立った。

 

「アオイ、君は疲れているんだろう。コーヒーを淹れてくるよ」

 

 三度目の息を吐く。彼女が去った後で、痛みが和らいだ頭を抱える。アオイは、この試行の場合、パンジャへ干渉することで『終わる』時間が変わるだろうかと考えていた。

 

 考えがまとまらないうちに、パンジャが戻ってきた。

 

「はい。目が覚めるよ」

 

 アオイはカップに手を伸ばし、何とか掴んだがそれ以上腕を上げることができなかった。パンジャの手が肩に触れた。顔を傾けて彼女を見ると、彼女は痛ましいものを見た時のように、心底同情した柔らかい目つきをしていた。

 

「いけない。いけない。アオイ、考えてはいけないことを、考えてはいけない。心は病むものではないよ」

 

 君に言われるなんて私も大したものだな。――そう皮肉を叩けたらいいのだが、残念ながら気力が無い。「はは、ふへへ」と不明瞭な声を出しては、泣き笑いのような顔をして、アオイは机を見つめていた。

 

 ああ、静かな空間が欲しい気がする。尖りきった神経に障らない、音の無い空間が欲しい。

 

 伝えようとしたその先で、衣擦れの音が聞こえた。もう一瞬たりと彼女と話すことはしたくなかった。

 

「ねえ、パンジャ……ああ、聞いてくれ、聞いておくれよ、君……私は……」

 

「いけない、いけない……! 嗚呼、アオイ! 君が! そんなことを言うのが! いけないんだ!」

 

 空咳を吐いた、その瞬間。

 パンジャが素早く、アオイの首にベルトを巻き付けた。

 

 首を絞めているパンジャは震えていた。きっとそれはアオイが抱くと同種の恐怖ではなかった。いつか夢を見た瞬間が、この瞬間に訪れたという喜びで震えているようだった。

 

 アオイは痙攣じみた笑い声のなかで、真新しい歓喜を聞いていた。

 

「病というのは不覚に、止むに止まれず病むのだろう! その病識をよく知っていた! 知っていたとも! アオイ!」

 

 不意打ちの攻撃に、アオイは声を出す間もなく、目を見開くことしかできなかった。

 

 何だ。――呼吸ができない。

 どうなっている。――首を絞められている。

 では、どうなる。――死んでしまう。

 

 この状況に、頭の回転が鈍いとは言っていられなくなった。椅子から立ち上がろうとしたが、文字の通り、彼女の方が一歩早かった。アオイは反射的に立ち上がりかけたが椅子を蹴り飛ばされ、膝裏を蹴られ、跪いた。

 

「ッ!? ア、――」

 

「『わたしは君のことを信じている』。この言葉のせいで、きっと誤解させてしまったんだろう」

 

 何の話か分からない。それよりも息ができない。苦しい。コーヒーをこぼした。熱い。首を絞めているベルトを引くが、不自由な体勢のせいか力が入らない。一方、パンジャが首を絞る力は緩まることがない。

 

 パニックになりそうな頭が、ギリギリのところで思考を保っているのは9回の試行で得た成果だろう。こんな時でさえアオイは自分を客観的に考えていた。

 

 パンジャは、いったい何のつもりでこんな凶行に奔ったのか。

 

 会話を思い出してみて――アオイはほとんど聞き流していたことに気付いた――それでも、落ち込んでいる自分にコーヒーを持ってくる程度の内容だったはずだ。それが、どうしてこんなことになってしまうのか。ここは悪夢でも、現実の世界を精巧に模倣した世界のはずだ。では現実でも、ひとこと間違えばパンジャに殺される事態が発生するのか?

 

 1コンマの思考で、アオイは結論を弾き出すことに成功した。

 

(否定できないのが、パンジャの良くないところだ……!)

 

 待て、の意味を込めて、アオイは机を叩いた――が、すぐに手を引っ込めた。余裕があると彼女が見間違え、念入りに首をへし折りに来たら、本当に死んでしまう。

 

(待てよ。この場合、試行はどうなるんだ。普通に考えて……11回目にいくのだろうな。するとここで死んだとしても、研究室で爆散したり隕石が降って来たりすることと大きな変わりはないのでは?)

 

 アオイはおかしな思考を切り捨てた。夢のなかであっても親友に殺人をさせてはいけないだろう。その一線だけは譲れない。それを許したら人間としてダメになりそうだ。それに現実に戻った時、パンジャのことを真っ正面から見ることができなくなる。

 

 それこそ、彼女に言わせれば「いけない」ことだ。

 

(まず話し合わなければ)

 

 けれど自問自答する。

 

(どうやって? 話し合えないから、こんなザマになっているというのに)

 

 私のどう聞いたって異常な妄言は、彼女にとって許しがたい事態だろう。目指した夢が途切れてしまう。諦めてしまうことは、絶対に許せないことだ。心を砕いているのは、この時代の私だけではない、彼女だって同等かそれ以上なのだ。

 

 きっとこのまま何もしなければ、本当に死んでしまうだろう。それでも、怒りによって殺されかける現状に納得している自分もいた。むしろ安心さえしていた。彼女が待ち焦がれ、自分は隣り合わせの未来だと感じていた――いつか起こる「ありえた出来事」だったからだ。

 

(私は、こうして彼女に怒ってほしかったのかもしれない。騙したな、と言って。君はずっと昔にそうするべきだったんだ)

 

 ベルトに食い込ませた指が諦めて、落ちそうになる。目が暗んだ。

 

「アオイ、わたしは君のことを信じている」

 

 首が絞まる。視界が赤い。

 

(信じているって、私の何を信じているんだ。どうしてここに至って、まだ私を信じていられるんだ、君は――)

 

 可能性はチラチラと頭を巡るが、思考はまとまらない。

 

「君を信じているから、わたしは君以外の何も信じていないんだ」

 

 声が遠い。

 けれど凜とした彼女の声が、荒い呼吸の隙間から滲んで聞こえる。

 

「君が、ここを夢だと言うのなら、あぁ……ああ、ああ! そうだろう、そうだとも、そうなのだろうさ! この現実こそ夢なのだ! 忌々しい君よ、ここにいてはいけない!」

 

 その言葉に――繰り返した痛みで鈍磨し、今では血が滞って鈍い思考が、浮き上がるように醒めた。

 

 この期に及んで――アオイは足掻いた。

 悪手を選び続けた末路であっても――口の端から泡がこぼれた。

 命運尽きる最期の瞬間まで――コップを持ち上げた。

 

(ああ、どうして……君の献身は)

 

 まだ私のためにあるのか。

 

「――現実に帰れ、アオイ!」

 

 咄嗟に、アオイは持っていた空のコーヒーカップを机の縁にぶつけた。鋭利な角ができたカップを後背に立つパンジャに投げつけた。

 

「っ!」

 

 顔に向けて投げられたカップを反射的に手で庇ったパンジャは、左手を離した。その瞬間、アオイは力の限り腕を振り抜いた。

 

 肘が鳩尾あたりにぶつかったらしい。とうとうベルトを持つ力が緩んだ。

 

 息を吹き返したアオイは、深呼吸ひとつして素早く立ち上がり、走った。

 

「ぐっ……それでも、私は……まだ、やりたいことが、あるんだ、パンジャ」

 

 その声を聞いた彼女は、すぐに追ってはこなかった。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 アオイは、走った。

 

(こんなことをして、何になる)

 

 走った。

 

(ここは末端だ。枝分かれした世界の果て。どこにも繋がることのない枝葉の先だ)

 

 走った。

 

(何をしても、何もかも無駄だというのに)

 

 走った。

 

(私は、君を幸せにしたかった)

 

 走った。

 

(この世界の誰も不幸にしたくなかった)

 

 走った。

 

(現実ではない、夢の世界でならば、それができると思った。可能性を見てみたかった)

 

 走った。

 

(ただ、見たかった。それだけ、たった、それだけじゃないか)

 

 アオイの走り続けた先には、化石保管室があった。

 

 夢の果てに、既に死を迎えて久しい物体があるとは。

 辛うじて生きながらえているアオイは、体の力が抜けて笑った。

 

 それでも。

 

(いつまでも、笑ってはいられない)

 

 アオイは、首まわりの跡をなぞった。

 死に損ねた彼は、妙に醒めた思いを抱えていた。

 

 

(恐らく、この世界には順序があるのだ)

 

 

 突拍子な考え。けれど確信の手触りを得た発想は、思考のなかで熱く脈をうち巡っていた。恐らく、実験に取りかかる前にパンジャと話し合うことが、この悪夢において致命的な重要性をもっているのだ。だから現実から著しく逸脱した今でも強制終了の事態になっていない。

 

 ジュペッタを救うのでは、届かない。

 パンジャを救うだけでも、届かない。

 

 順序を間違えると、全員が破滅する。これまでのように、今回のように。

 

(重要なのは、問題の根幹だ)

 

 パンジャが――主に自分のせいで――いろいろと拗らせているのは知っていたが、あの度を過ぎた献身をどうすれば止められるだろう。

 

 考えていると、遠くからでもよく響く足音が聞こえて、アオイは目の前の扉に飛び付いた。

 

「しまった……ここは出口が無い……」

 

 化石保管所は、保管物の特性ゆえに万全の空調と明暗が整えられた密室である。

 辺りを見回しても堆く、ところ狭しと大量の木箱が安置されている。気付いた事実を味わい、感傷に浸る間もなく、アオイは身体にひどい汗をかいた。

 

 咄嗟に振り返るが、恐るべき速さで保管室前に辿り着いたパンジャが扉を開けようとしていた。

 

(正面からパンジャを打ち破る、というのは)

 

 アオイは、ポカンと浮かんだ提案を即座に拒否した。血迷っている。きっと思考の疲労だった。脚をもつれさせながら、慌てて扉から離れた。

 

(無理だ! ムリムリ。今度こそ首の骨をへし折られるぞ!)

 

 足音が聞こえる。コツコツ、と踵の低い革靴がコンクリートを踏む音だ。気配を探るように、歩幅は小さく、慎重に歩いている。

 

 この音を、あの足を、止めるには、止めるには、そうだ、止めるには!

 アオイは、名案を思いつき咄嗟に化石棚を見上げた。――その先で、息を止めた。音もなく、のそりと宙に現れたのはフリージオだった。

 

「げっ! ま、待て、話し合おう。君とは仲良くやれそうだったじゃないか、私達!」

 

 フリージオは無情にも工作機械の起動音じみたカチカチ音を鳴らす。

 

 パンジャのフリージオは「せっかち」だが、人間における合理的な思考を持ち合わせているポケモンだ。無駄のない戦闘スタイルは、こだわりや癖がない分、芸術的な遊びがない。すなわち、状況においては「ぜったいれいど」の連打も辞さないフリージオなのだ。執拗に「おんねん」を食らわせようとするどこかのジュペッタとは大違いだった。

 

 アオイがそのスタイルにどれだけ感動したかは、我ながら情けない口上に現れていた。

 

 音を合図にアオイ達を取り巻く温度が急激に下がっていった。高山を連想させる気圧の変化だ。これは知っている「れいとうビーム」の挙動である空調の変化である。だからこそ、ポケモン同士の対決においてれいとうビームは実にわかりやすい技で対策法も満遍に伝わっているワケで、当然アオイも知っているワケで――光が急速に集まっていき、弾けた。アオイは横っ飛びで床を転がった。

 

 奇跡的に回避できた先で、アオイは第二波の予兆を肌に感じながら立ち上がり、走った。恐らく二度目は無いだろう。数メートル先の角を曲がるが、浮遊するフリージオの追跡をかわすことができない。

 

「アオイ! そこにいるのか――」

 

「ま、まずいっ」

 

 パンジャがおおよその方向を理解した次の瞬間、フリージオが真っ白な霧を吹き出した。視界を奪い、逃走を困難にする目的だろう。

 

 アオイは保管室の最奥へ駆け出した。足音を追うパンジャのことは気がかりだが、躊躇はしていられない。

 

「君のことだ。たぶん、私なら二、三回死ぬようなことでもケロリとしているのだろう。いや、本当にすまないが……!」

 

 アオイは背を壁で支えながら、靴の裏で化石が安置されている棚を蹴った。

 

「うぅ……せいっ!」

 

 固定が甘い棚は、非力なアオイの力でも倒れた。

 全てを倒す必要はない。ただ、最初のひとつだけ。あとはドミノ倒しの要領だ。

 

「ただの棚なら、君は止めてしまうかもしれないが、中身は石だ。重いだろう。――!」

 

 呟いたアオイは、見た。白い霧のなか、ついに追いついたパンジャが――たったひとつ棚を挟んだ先にいた。

 

「アオイ。わたしは、君を、救いたいだけなのに」

 

「…………」

 

 棚は倒れ続ける。君の献身は身に余る――と言うことはできなかった。

 

(今でさえ、私は)

 

『彼女にとって理想の存在でなければならない』と思うのだ。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 観測。

 

 それは「視る」だけの舞台装置。

 天体に浮かんだ悪趣味の眼球であり、悪性正義の現し身でもあるメアリー・スーは、持ち得た理性を総動員して呆れていた。

 

「さっさと次に飛ぶがいい、アオイ。――ここは悪夢のなかでも特に枝葉末節も極まる世界だというのに、どうしてこうも『長い』のだ。まったく無駄で、どうしようもない。まったく生産性の無い空っぽの時空だというのに」

 

 メアリー・スーがアオイの徒労を嘆こうと観測は続いた。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 静寂に満たされた保管室で、アオイはパンジャが目覚めるのを待っていた。

 

「君たちの親愛が、私はすこし羨ましい」

 

 この部屋には椅子が無いので、アオイはずるずると壁を伝い、終いには床に座っていた。彼の吐き出す息は白い。フリージオは何の迷いもなく、標的の追跡から友人を守護することに目標を切り替えたのだった。その結果、一瞬にして密室は冷凍庫同然のありさまに変貌していた。倒れかけた棚は傾斜を保ったまま静止している。光景を切り取れば、まるで時が止まったかのようだ。

 

「……君のような在り方ができたら、それはきっと良い人生なのだろう。君は人ではないが、まぁ、便宜上として」

 

 パンジャは倒れ込んだ棚に頭を強かに打ち付けてしまったらしい。それでも身体がつぶれていないのはフリージオの氷結が間に合ったからだ。しかし、依然彼女の身体は、傾きかけた棚の真下にある。アオイが近付くとフリージオが怒るのだ。氷は溶けそうにないので、こうして傍で見守ることにした。

 

「私とジュペッタの仲は……壊滅的だ。同族嫌悪なのだろうな。似ているからこそ、許せないし、許されたくないし、認めないし、認めたくない、愛せない。それでも、『そういうものだ』と認めて、仲良くできたら……良かったのだろうな」

 

 金属に似たフレームから冷え冷えした光が点滅した。

 

「君は、パンジャのことが好きか?」

 

 光が瞬く。応じてアオイは頷いた。

 

「それはいい」

 

 どこがいい、なんて、本当は聞きたかった。

 けれど問いの答えは知っているような気がしている。きっとそれは「全部」なのだろう。

 

「……………………ひどいひとね」

 

 薄い氷の上を滑る声音に、アオイは目を向けた。

 

「冗談。言ってみたかっただけだ」

 

 パンジャが俯せから億劫そうに寝返りをうつ。いたた、と言って髪留めを外した。右手で置き損ねたそれが滑り、アオイの革靴を突いた。

 

「君の」

 

「『冗談は笑えない』だろう。何万回言われたか、わたしは知っているぞ。けれど君こそ悪い冗談を言う。君は……わたしを殺してしまってよかったのに」

 

 仰向けで逆さまのパンジャが、痛ましいものを見るように目を細めた。その瞳の薄緑に浮かぶ色は、決して浅はかな同情ではない。慈愛に似た同調だ。

 

「そんなことするわけがないだろう。本末転倒だ」

 

「ああ、残酷な人! 私は、その隙間を埋めてしまいたかったのに!」

 

 アオイは、パンジャの言いたいことが何となく分かる。

 

 どこまで考えても「なんとなく」だ。

 この「なんとなく」がもどかしい。曖昧な解釈の余地が、ふたりのすれ違いを生む。彼女がいま絶望していることだけが、アオイの理解できるせいぜいだった。この「せいぜい」にも彼女は絶望しているだろう。

 

「パンジャ……」

 

「君はわたしを殺すべきなのだ! わたしが君を殺せるように!」

 

「パンジャ。君は、間違っていない」

 

 アオイは足下に転がっている髪留めを掴んだ。そして。

 

「だが、正しくなかった」

 

 彼女へ投げ返す。

 彼女の目が大きく見開かれた。

 

「お互いさまだ。私達は間違えてばかりだ。本当に……すまない」

 

「わたしは君に謝罪を求めない。報いなど要るものか! そんなものっ、そんなものがっ……あぁ、わたしは君に言わせたくないのに……!」

 

 アオイには、氷を溶かしてしまうほどに熱い涙を止める術が無かった。

 彼女のことが、分からなくなっていた。本音で話してこなかったツケが、ここにあった。

 

「パンジャ、私は君に何をしたらいいのだろう」

 

「何を……? 何もしないでくれ。何も。何もせずにそこにいてくれ。わたしが全部やる」

 

「それは、現実的では、ないだろう」

 

「――そうでもしなければ、わたしはずっと君を救えないだろう!」

 

 乱暴に涙を拭った彼女の右目が、憎々しげにこちらを見ていた。

 

「えっ……」

 

 涙を流したままの左目が、遠くを見ている。それが酷く心を掻き乱した。

 

「辛い。辛いんだ。アオイ。君は私を救ってくれるのに、わたしは君を救うことができない。それが、苦しいんだ。苦しい。とても苦しい。時に我が身を投げたくなるほど。時に君の首を絞めたくなるほどに」

 

「私は――違う。見返りなんて、私は、求めない。私は君を」

 

 助けたかったんだ。

 その言葉は、無意味な二酸化炭素に変わった。機を逸したのは、彼女が場違いに微笑んだからだ。

 

「無償の献身が、わたしには何より重かった。……あなたのそれは、くすぐったいくらい嬉しいものなのにね」

 

「私だって君の献身が重かった!」

 

 やめろ、とひとこと言えば、それで終わっただろう献身だ。

 

「でも、本当の独りになるのは、それ以上に耐えきれない」

 

 彼女を殺すのに暴力は要らない。死んでくれ。そんな言葉一節あればいい。それをしなかったのはなぜか。アオイだって嬉しかったのだ。彼女の重々しい、けれど真摯な献身が誰も触れない乾いた心に沁みたからだ。

 

 膝を、握りしめた。骨が軋めばいいと思った。いっそ砕けて歩けなくなればいいと願った。ずっと、冷たいここにいたかった。きっと人の温かさが感じられることだろう。

 

 アオイは抑揚の安定しない声で言った。泣き出してしまいたい。それでも歯を食いしばった。泣いてしまわないのは、中途半端に残った『彼女にとって理想の存在でなければならない』という覚悟のせいだ。中途半端が一番いけないことだと、もう知っていたのに。

 

 だとしても言葉を伝えたかった。

 

「わがままで、あきれてしまうだろう。でも、これが私だ。実に、大したことが無いんだ。こんな私の隣にいてくれた。……君の優しさに、救われていた」

 

 ただ、そばにいるだけで心が安らぐ瞬間があった。

 孤独で努力を続けることはできなかった。

 果てしない夢を追い続けることはできなかった。

 

「……そう、か。そうだったか。アオイ。君が、それでいいなら……わたしだって、それで構わなかったんだ」

 

 この部屋は、冷たい。

 息は白いし、手はかじかむ。

 身は竦むし、顎は震えが止まらない。

 ひどく寒いこの部屋で。

 

 それでも。

 

「君……意外と温かいじゃないか」

 

「君だって、あの、手が、柔らかい――ああ、いや、その、あったかいな」

 

 ずっと近くにあって、遠かった体温に触れた。

 

(私がやってきたことは……間違いではないが、正しくはなかったのかもしれない)

 

 だが。――脱ぎ捨てたお互いの手袋がくしゃくしゃになって転がっていた。

 

(こんな未来が『あった』かもしれない。――この可能性を否定することは、誰にもできない)

 

 パンジャの真白い手を握り返して、アオイは思った。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

「――というわけで、私はジュペッタを救うために悪夢を繰り返しているわけなんだが」

 

 事情を話しているのか、聴取されているのか、曖昧だが、パンジャの「どうしてあんなことを」という言葉で始まった独白は終わった。

 

 話を聞いていたパンジャがフリージオに鋭い氷柱を注文した。アオイが呆然と成り行きを見守っているうちに、彼女はためないなく槍のようなそれを投擲した。

 

「な、なにをするんだ! あぶない! アッ!」

 

 アオイは飛び上がった先で、つるりと滑って頭をうちつけて倒れた。

 

「わたしは信じていなかったが、ごくたまに、たまにだよ? 君の手段が迂遠に感じて仕方のない時があったが、これは……これは……思いきって言ってしまおう、愚かだ! 君は! どうしようもなく! バカじゃないか、このバカ、バカ!」

 

 とどめのように腹を蹴られてアオイは降参のために床を叩いた。

 ようやく止んでくれた時、パンジャは肩で息を切らしていた。

 

「バカだろう、君は! 君もわたしも人間だ! 死んでしまえば、例外なく、死ぬんだぞ! 当然のことだ。自然の摂理だ。だからこそ、決して逆らえない! 人間もポケモンも死ぬ時は死ぬんだ!」

 

「き、君は、私を殺そうとしたじゃないか!」

 

「それはここで死ねば現実に帰ると思ったからだ! 故なく君を殺そうとするわけがないじゃないか! それこそ君の言う本末転倒ってヤツだ! ――痛い目に合えば二度と同じことはしないだろう。重ねておいしいのは、つるぎのまいだけで結構なんだ! それなのに、君は、ああ、愚かな、あまりに愚かなことを。けれど理解できてしまうから、悔しいんだ!――その手があったかと夢を見た君を理解できてしまう。しかし、くぅ、悪夢に至った現在において、罵倒しても埒があかない。『今さら』で論外だ」

 

 パンジャはアオイの胸倉を掴み上げながら、思考をまわしているようだった。

 

「何か打開策が、あるか」

 

「そんなものは無い。――無いが、突破口はふたつある」

 

 それは。

 問いかけたアオイを椅子に座らせて、パンジャは凍てついたままの木箱の対面に座った。

 

「ひとつ。あまりオススメはできない。バグだ」

 

「バグ? それは、プログラムの誤りのことか?」

 

「そう。だからオススメはできない。その脱出法があったとして、想定された正規ではないからだ。絶対的に『間違いであり、正しくない』。そもそも存在するかどうか分からない。けれど手段として『無いわけではない』。検証しうる可能性として提唱する。以上である」

 

 彼女の話は、アオイには無い視点だった。

 

 物事を俯瞰的に捉え、悪夢を一個の算譜として思考している。

 彼女の思考は、どちらかといえば文系で――自分の感性や印象を判断材料に混ぜることがあり、アオイはこれまで参照程度に聞いていたのだが、今は傾聴に値した。

 

「っていうか、だいたい。アオイ。悪夢がどのように成立していると考えている?」

 

「私の脳に訴えかけているのだろう?」

 

「悪夢の中の物理演算をダークライが行っていると思うのか? いいや、違う。悪夢で人が死ぬ理由は、恐らく睡眠で休めないからじゃない」

 

「眠らなくても死ぬぞ」

 

「それは否定できない。だが、ダークライがやる意味がないだろう。手段だけで考えれば外敵の排除だとしても、さいみんじゅつで眠らせてから川にポイしたほうが簡単だぞ」

 

 それはその通りだ。アオイは黙った。パンジャが言うと妙な凄みがあったことは墓場まで持って行く内緒だった。

 

「悪夢による攻撃、その真の効果は情報量で脳を破壊することなのではないだろうか。なぜそんなことをするのか。それは想定される敵を想像すれば分かる。この世界で最も情報を持っているのは誰だ? 人間だ。命が途切れても、種は絶えず、別の命が知識を重ね、次の命の糧になる。様々なことを想定し、未来を計算し続ける人間には相性が悪すぎる」

 

「しかし、どうしてダークライはそんな性質を持っているんだ」

 

「シンオウの神話的解釈をするならば、知恵を持ちすぎた人間に対する、神ことアルセウスからのお使いではないかな。安穏を保証する、けれど消失に向かい欠け続ける三日月。知識を授け、その記憶を奪い、感情を授け、その悲喜を削ぎ、意志を与え、その意識を奪う、愛しくも忌まわしい神が使わされたように。――まあ、こんなことはどうでもいい。問題は次だ」

 

 パンジャは悩ましいと言うように目を閉じた。

 

「もうひとつは何の捻りも無い。正攻法だ。それが設定された世界ならば、それが最も良い解決法になるだろう」

 

「それが――!」

 

「『できればやっている』だろう。分かる。分かるとも。その挙げ句が、研究室での摩耗しきった君なのだろう。察するにあまりある。同情はこの辺にしておくが、可能性の提示をしてみてわたしにも分かったことがある」

 

「な、なんだ」

 

 やっぱり首を絞めて脱出しようと提案されるのではないかと不安になり、アオイは椅子から腰を浮かした。

 

「君は決して不利ではないということだ」

 

 なぜその結論に至るのか。確信めいた言葉が単なる応援なのか、根拠があるのか。彼女の言葉は続く。

 

「だって、君は未来を知っている。受け入れがたく、認めたくない未来だったのかもしれないが、それでも君は先へ続く未来を知っている。どんな絶望があったとしても、君は乗り越えて生きているんだ。それを忘れないで欲しい」

 

「……では、私の『別の未来を見たい』という願望は、特大のわがままなのだろうか」

 

 ジュペッタを失った。けれど自分は生きている。――その世界に生きているのに、別の可能性を夢見てしまう。自分でも罪深いことだと思う。

 

 パンジャは、優しく諭すように言った。

 

「酷いエゴだと認めるが、わたしはそれを醜いとは思わない。望めば叶う環境があるのならば、わたしもきっと願うだろう。わたしだけではない。過去を後悔で終わらせないために、後悔を塗りつぶすために、現実を今とは違う目で見るために――生きている現在と続く未来のため、選ぶ人は少なくないだろう。君が特別に欲深な人間というわけではないよ」

 

「……どうすればジュペッタを救える?」

 

「話してみたかい、君」

 

「え…………」

 

「彼は覚えていないだろうが、どうして自分を救ったのか聞くだけ聞いてみたかい?」

 

「だ、だって、ポケモンだ。喋れないだろう。それに、私の言葉の意味が分かるとは、とても」

 

「アオイ」

 

 責めるわけではない、と彼女は名前を呼んだ。

 彼女に寄り添うように、フリージオが頭上をくるくると回った。

 

「救われるだけは、辛いだろう」

 

「…………」

 

 アオイは、騒ぎそうになる内心をこらえるように胸に手を当てた。

 この痛みは、彼女に馴染みのある痛みだ。その病識をアオイも知っていたのだ。

 

「話せば、きっと楽になる。救うとか救われるとか、別として。話すことで心の整理をして、過去にできる」

 

「それは、そんなことは薄情だ。私は、ずっと抱えて生きていたい。忘れてしまうのが、嫌なんだ」

 

「でも、それに耐えかねているだろう。人は自分ひとりの命ひとつ、抱えるだけでいいんだ。――悟ったように言うけれど、わたしの信条だから、君に押しつけて良いものではないな。こればかりは君が悩んで、君が選ぶしかない。でも、ずっと抱えて生きることだけが優しさではないと思うよ。そんなことをされては、どこにもいけない」

 

 どこにもいけない。では、どこにいくんだ。

 行き着く先はあるのか。正しい場所があるのか。正しいとは何だ。

 考えても、分からない。これはアルセウスが平気で闊歩する世界の『外』の話だった。

 

「私達は、どこにいくのだろうな」

 

 ぽつりと呟いた言葉は、俯きがちで、アオイはパンジャの顔を見落としていた。

 

「ふ、ふふっふははは!」

 

 大きな声で笑われて、アオイは思わず前のめりに立ち上がった。彼女も立ち上がっていた。

 

「パンジャ! 笑い事じゃ――」

 

「そう! 笑い事じゃないさ! 未来だ! わたし達は、右も左も分からない未来へ行くんだ! だから、未来で待っているよ」

 

 アオイは、その言葉の後に続くパンジャの声が聞こえなくなったことに気付いた。声だけではない。氷を踏む音、フリージオが空を切る音さえ聞こえなくなっていた。

 

 これは、異常だ。

 

 アオイがメアリーに知らせようと宙を仰いだ瞬間。

 

 

「 このメッセージが見れるのは、おかしいなぁ 」

 

 

 誰でもない声が聞こえて、この世界は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 




【あとがき】
これまでの話で一番書くのが難しいものだったかもしれない……。遅くなったのは改めて描いていたイラストのせいではなく内容的なものでした。精神の復調は。階段を上がるようにはいかないの段。

【あとがき2】
気分的にもうラストスパートなので、頑張って書いています。もうちょっとだけ続きます。お付き合いいただければ幸いです。

【ありがとうございます】
更新が無い間に怒濤の誤字連絡がありました。後日参考にしていきたいと思います。

【ありがとうございます2】
今後も頑張ります! 楽しんでいただけたら幸いです!

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

  • 登場人物たち
  • 物語(ストーリーの展開)
  • 世界観
  • 文章表現
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