もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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見よ、私の在りさまを!

 現在、アオイは幸福感に満たされている。

 

  頭の中にふわふわととりとめのない思考が浮かび、へらへらと笑いながら天井を見ていた。多幸感。彼の思考を占めるのはこれから先の未来、思い出だけを抱いて生きていけるという確信だった。ああ、幸せだ。私はなんという果報者なのだろう。

 

 それなのに涙が止まらない。

 

 太陽の白い光がカーテンの隙間から差し込み彼の横顔を照らした。やがて眩しい光が目に入った。その目映さは彼を現実のものとして照らしていた

 

 朝早いアオイがまだ起きてこないことに不思議に思ったのか扉からヒトモシのミアカシが顔を出す。

 

 油の切れた蝶番がキィと高い音を立てた。それに応じた彼はかすれた声で名前を呼んだ。

 

「ミアカシ……なんでもないよ。ああ、何だってあるものか」

 

 ただの夢なんだから。

 

 

 

 ◆ ◇ ◆

 

 

 

 休日のその日、アオイは自室でパソコンの清掃をしていた。

 そのパソコンは見慣れない物だ。ミアカシは埃にまみれたそれを丁寧に拭うアオイを見ていた。

 

 その視線に気付いて彼は硬く微笑んだ。

 

「このパソコンは私の仕事道具だ。もう開くことはないと思っていたが。――ダークライの能力を活かす方法を思いついた。それにはまずダークライの悪夢を定義することが必要になる」

 

 アオイの瞳は前を見ている。悪夢は彼の背を押した。もう躊躇はできなかった。彼を変えたのは何か。それは。

 

「久しぶりだと思う。きっとあの事故以来に……私は恐ろしくなった。炎の熱さも煙の苦しさも私は覚えていないのだが、きっと焦がれるようなあれは期待で、冷めるようなあれは警告なのだろう」

 

 最初はミアカシへの説明のために始まった言葉は呼吸ふたつ分の沈黙の後で次第に独り言に変わっていた。

 

「あの悪夢の世界が壊れて……壊れてくれて良かった。きっと『彼女』の正体を暴くことがあの世界を終わらせる鍵だったのだろう。そして私の悪夢によりにもよって『彼女』がいたのも幸いだった」

 

 なぜなら『彼女』はアオイの望む『彼女』だ。

 裏切らず、よく自制し、求めず、害せず、認めてくれる。

 悪夢のなかでさえそれは破綻することがなかった。

 

 アオイの思う、理想のパンジャ。

 そんな妄想を彼女に押し込めようとする自分に嫌気が差す。あれでは子どもの人形遊びと何の違いがあるというのだろう。

 

(あぁ……願望が投影された彼女のことを思うと気がおかしくなりそうだ)

 

 現実のパンジャはアオイの物事の解釈に納得しないことがある。その時はどちらかが折れるまで話し合うことさえあるのだ。結果的にパンジャが折れて迎合し、納得したフリをすることが多いだけで彼女の内心は実のところよく分からない。

 

 だから『友人』の定義が変わった、ないし例外ができたことも彼女の内心にどれだけの影響を与えるのか。アオイは恐くて思考を放棄しそうになる時があった。

 

(彼女は私を優先しすぎる。それで自分が死んでしまうなら私を生かす価値など無いだろうに)

 

 その理由を自分で作っておいて言うことがそれか。彼女に理由を求めるあたり私など…………。違う違う。言いたいことは、本当に言いたいことはそうじゃない。――我々は、花落ちて実結ぶ植物ではないのだ。

 

 けれどそれを上手く説明するほど電話で言葉を尽くせるとは思えない。だから彼女への説明は今度、直接会った時にしようと思っている。

 

 アオイはフーッと息を吐いてキーボードに挟まった埃を神経質に取り除く。

 

「ミアカシさん、悪夢の世界で私は知ったことがある」

 

 あの夢のなにが悪夢なのか。

 悪夢とは? これは簡単だ。悪い夢のことだ。

 では「悪い」とは何なのか? これは難しい。

 けれど冷静な今ならば分かる。

 

 アオイはテーブルに転がるペンを見つめた。

 

「理想を過ぎれば悪夢と変わりない。現実こそが正解で、それ以外はどんなに都合が良くても、たとえ望んだものであっても偽だ。そんなこと分かっていたはずなのに理想回答を目の当たりにするまで諦めがつかなかったなんて……我ながら情けないことだ」

 

 彼女にあわせる顔がないよ、と彼は言う。

 

「ダークライの悪夢を侮っていたわけではない」

 

 きっとリビングに出しっ放しになっているであろうダーツを思う。

 

「あの力を過小評価できるはずがない。しかし想定外に再現性の高い夢だった。いいやあれは厳密には『再現性が高い』というより『私が納得できる出来』だったというべきか。人間の作る仮想現実はまだあの域に到達していないだろう。夢のなかに現れたパンジャの反応は私を満足させるに足るものだった」

 

 アオイはパソコンを置き、頬杖をついた。視界は限りなく狭い。俯いた視界は誰にも救えない。同じものを見て、考えて、感じるこことがなければ――。

 

(救済などありえない。自分を救うのは、いつだって自分自身だ)

 

 だからこそ。

 

「悪夢は私を納得せしめた。それもそうだろう。あれは私の理想を詰めこんだモノだったのだから。私が欲しいもの、私が望むもの、私が…………どれだけ手を伸ばしても手に入らないであろうもの」

 

 アオイは欲しいものがあった。

 それは現実に追いてどうしても手に入らないものだった。

 アオイは欲しかった。

 

『彼』を失ってなお、「生きてもいいよ」と言ってくれる理解者が欲しかった。だから夢を描いた。

 

 頭が傾く。腕が頭を支えきれなくなったのだ。

 それから彼はこうも言った。

 

「しかし、現実が何一つ変わるものではない。悪夢の出来事は現実を変えることはない。理想の世界から帰って来られない危険があるだけだ。でも、だからこそ可能性がある。現実ではできない経験が人を変えることができる……のではないだろうか」

 

 下手をうったら死んでしまうわけだが、じっととどまり続けているのならどちらでも同じことだ。

 

 人を変えるのは、不可逆の事象だ。

 

『彼』の喪失に貫かれたアオイの人生はそれを真理のように感じていた。

 

 こぼれた水はもとに戻らず。決して元に戻らないもの。それは人間であったりポケモンであったり大切な物だったりする。それが現れ、消えていく。それが人を変えるのではないだろうか。

 

(大切なものを)

 

 アオイは思い描く。ちぐはぐな親友。親愛と敬愛を捧げた親友。導く予定の後輩。まだ見ぬ花を咲かせるだろう少女を。

 

(失ってから気付くのなら、失う前に気付けばいい)

 

 それは。

 

 悪夢のなか、限りなく本物の質感を得た疑似体験。

 悪夢を悪夢の本質のまま活用する、画期的な手法を彼は見つけた。

 

「あっ」

 

 先の見えない混迷の思考に色が満ちた。

 

 真新しい思考が開く。散在していた知識が発想により結ばれ、系統を得た理論を編み出していく。本を開くようにアオイの世界は広がった。思考が実を結び、可能性が花開く。

 

 研究者であっても何度も味わうことのできる感覚ではない。

 この瞬間のために私は研究者になったのだ、アオイは思う。しかし。

 

(そうだ……。あの時も、こう、だった)

 

 

 アオイとパンジャの夢。

 

 化石になったポケモンを復元する。

 不完全に発見されたポケモンを復元できない現状。それを打破する方法をアオイは考案した。

 

 誰も成し得ていないことを私が成し遂げよう。

 この方法ならそれができるはずだ。

 

 確信さえ得ていた。

 

 復元する化石の不足を、メタモン細胞を用い復元と同時に癒着・同化を促し回復装置で完全体へ「治療」する。

 

 この技術さえあれば不完全に発見されたポケモンでも生かすことができる。

 

 5年前は可能性が低かった。

 10年前は不可能だった。

 15年前ならば発想すらなかっただろう。

 

 でも、今ならばできる。

 科学は発達した。成熟に向かうほど進歩した。

 

 人の夢。車輪の片方を過不足なく補える時代になった。

 

 そして、私がいる。

 考えて考えて考えて考えて考えて考えて、考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えた私がいる。

 

 私の夢。車輪の片方を過不足なく担える私たちがいる。

 

 

 そう。

 あの夢に気付いた時もこうだった。

 

 

 

 アオイは数秒だけ動きを止めた。

 もう答えは喉まで辿り着いていた。しかし激しい感情は無かった。ただ過ぎ去ったひとつの納得がある。

 

(……本当は)

 

 ダークライを一目見たときから気付いていた可能性だった。

 過去の清算でも、後悔の墓場でもない、未来へ進むために必要なものにできるのではないか。

 

 人が。

 希望を目指して歩けるのなら、そうすればいい。

 でも、明るいところばかりではどこへ行けば良いのか歩けない人間もいるのだ。私のように。

 

(限られた選択肢のなかで生きていたひとには……この世界は優しくて、温かくて、ちょっとだけ生ぬるい)

 

 いずれ全てが風化してしまうのだろう。感情も、決意も、後悔も、何もかも。日常は留まる水だ。そう思いついた時、アオイは日頃に感じていた焦燥感の答えを得た。

 

『彼』のことをずっと記憶に留めておけない。ずっと覚えておきたいのに忘れてしまう。一握の砂が指の隙間から零れる。そして落ちる砂は止められない。

 

「人が歩みを止める理由は恐怖ではない。杞憂でもない。悲しみでも。後悔でもありはしない」

 

 アオイの膝がピクリと動いた。

 

 ――あなたの認識した世界が、あなたの世界。

 ――なんだそれは。クオリアの問題か。君らしくない。哲学的な思考だ。

 ――自己理解の手法のひとつだよ、アオイ。

 

 在りし日の会話は花の香りがした。その蒙昧を振り切るようにアオイは顔を上げた。

 

「絶望が人の足を止める」

 

 アオイは呟いた。

 それでも。

 

「止まった足だからまた歩けるのだろう」

 

 悪夢は彼女の姿をもって突き放した。

 また現実で、この世界で、正しくふたりが歩めるように。

 たとえそれが幻であろうと構わなかった。

 アオイは服の上から胸を掻いた。

 

(私はもう歩かなくては……)

 

 ここになくした情熱を、土に埋めてしまった熱量を、探さなくてはならない。

 

 彼は暗がりに目をこらす。

 

(私は、負けたくない。もう諦めたくない! 繰り返したとしても、失い続けたとしても!――私は再び研究を続けるだろう)

 

 今とは違う姿でありたい。アオイは願う。たとえ重荷になろうとも全て負っていこう。

 

 アオイは不意に宙を見た。

 

「選ぶのならば、選べるのならば、次は……違う夢を見たい」

 

 ゆっくりと噛みしめるように言う。自分の言葉をよくなじませるように頷いて、ミアカシを振り返った。

 

「ミアカシさん、私が歩けるようになったのなら一緒に君の生まれ故郷に行こう。もし、いや、もしじゃない。きっと、いいや、必ず……!」

 

「モ……モシ?」

 

 言葉の意味はきっと分からない。けれど彼女は外出の気配を察したのか笑った。アオイにはそれで十分だった。

 

 締め切った部屋では薄く青い光が彼らを照らしている。

 アオイは背筋をただし旧式のパソコンの立ち上がりを見守っていた。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

「ねえ、アオイさん」

 

「ああ……」

 

「アオイさんってばあ」

 

「ん、ああ……」

 

「アオイさん」

 

 ここはアオイの要望通りの店だった。

 男ふたりで入るのは憚るような、お洒落な店だ。カーテンなんかレースでシャーって音のなるレールがない。すごくお洒落な店だ。入店の時、店をぐるりと見回した彼は「ふぅん、まあ、君の趣味は分かったよ」と言ったが、マニに少女趣味はないので勘違いしないで欲しいと思った。

 そんなこんなで注文を終え、やってきたチョコレートケーキはすごく美味しかった。マニは年甲斐もなく夢中になってしまっていた。

 

 天気が良い。窓にはめ込まれた色硝子がきらきらして床にぼんやりとした色を落としている。ぴかぴかに磨き上げられた床に反射して綺麗だと彼は思った。その感動を話そうとしたのにアオイといえばさっきからパソコンをぽちぽちしている。

 

 ネットカフェに来ているのではないのである。隣にはカップルがいるような、そんな素敵な店なのである。アオイさん、とっても空気を読んで欲しい。

 

 ケーキをかじる、その片手間にパソコンを叩くアオイにとうとうマニはキレた。最近の若者はキレやすいのであろう。アオイはフォークが三度テーブルを差したところで皿が召し上げられていることに気付いた。

 

「なんだい」

 

 ようやくパソコンから目を離してアオイは彼、マニの顔を確認した。

 

「なんだいって! いけしゃあしゃあとはすわこのことですね! 僕のことさっきから無視してくれちゃって」

 

「ああ……。ちょっと課題を作っていたんだ」

 

「課題? いったい何の」

 

「例年通りの展覧をすることになった君のだよ、マニさん」

 

「そ、それはぁ……」

 

 マニは期間限定の展示会に企画書を出せと言われていた。テーマは神話についてだった。その案件は彼を大いに悩ませることとなったが、ついに結果を出すにはいらなかった。

 

 彼の弁護をするならば彼は頑張っていた。アオイも時間を惜しむことなく何度も相談に乗り提案の助言を行った。彼は限界まで頑張ったが化石と神話はシンオウ地方において相性が悪いらしい。

 

 そうして結局、彼の上司がOKする企画は出ることなく、基本に忠実な展覧をすることになったのだ。

 

「前にも言ったけれど悪いことではないよ。目新しい発見だけが研究の全てじゃない。これまでのことを整理するのは今後を導く礎になる」

 

「それでも僕は何か新しい展示がやりたかったです」

 

 何と言ってなだめようか。思案をするアオイに勘づいたのかマニは「いいや」と口を尖らせた。

 

「まあ、思いつかなかった僕に落ち度があるんでしょうけどさ。でも、アオイさん、僕のことすこしは怒ってくれていいんですよ」

 

「私が君を? 君は何か私に不正をしたのかな」

 

「やってないですけど?」

 

「ではどうして」

 

「僕はあなたに成果を示すことができません。学んだ時間は短くとも、僕はあなたに何かを見せたかった」

 

 言葉は小さくぼそぼそと陰りを帯びる。それは焦りのような熱があった。

その言葉はアオイに、妙に心のすみが痒くなる気分を与える。窓の外にその理由を探した。

 

「君は……いいヤツだな」

 

「そりゃあ、あなたより綺麗かもしれませんが……」

 

 マニの言葉はアオイに届いたのか。彼は知らない。彼はずっと自分の手を見つめていたからだ。

 

「成長に成果を求めるのは正しいことだ。しかし必須ではない」

 

「でも、どれだけ成長したのかわかなければあなただって助言のしようがないはずだ。食べただけケーキが減る。それと同じように僕は、在りたい」

 

「目に見えることばかりが成長ではないよ。成長は見た目に表れやすい特徴を持つだけだ。あまり成果を求めると形のあるものを追い求めてしまう。気を付けないといけない」

 

「どういうことですか?」

 

「心の成長は計れない。計れないものを形にしようとすると歪になってしまう。たとえばこの世界は丸いが完全な球体を平面上に表示することはできない。どこかに歪みが生じる」

 

 つじつまを合わせるための嘘だ。

 アオイはこれまで必死で入力したパソコンの文字を風景のように眺めた。

 喉の奥で細い息を漏れた。

 

「無理に成果を作る必要はないと思う」

 

「アオイさん……? アオイさん、なんか弱気ですね? どうかしたんです?」

 

「……いいや、ただの所感だよ。それよりも! 私に成果を見せたいと望むのなら君に課題を与えよう」

 

 うげえ、という苦い顔をした彼は甘いチイゴの実を食べていたはずだった。

 

「か、課題って何ですか? 僕にもできる程度の簡単なものなのでしょうねえ? ヤドンと遊ぶ片手間にできる程度で頼みますよ」

 

 喫茶店に設けられたポケモンたちの休憩スペースで昼寝をしているヤドンを引き合いに出した彼は嫌な汗をかいているようだった。

 

「なんだい、課題は嫌いなのか?」

 

「いやですね、嫌味ですか? どーせ僕は二番ですよ」

 

「なんだ、そんなこと。私は君にしか課題を出さないんだ。君が最初で最後の一番だよ」

 

 それでおだてているつもりですか。嬉しいですよ、このこの。

 マニはどうにも頬が緩んでしまうようでバニラアイスを口にかっこんだ。呻いて頭を押さえた彼は、やがて悪戯を思いついた子どものように笑い、スプーンをアオイに向けた。

 

「課題なんて、アオイさんって先生みたいですね!」

 

「先生? そんな柄じゃないよ、私は」

 

「反面教師ってことですよ。あっ冗談、冗談ですって。おっかない顔しないでくださいよ。コーヒー追加しますから、ねっ! アオイ先生」

 

 マニの言葉の癖なのだろう。先生、と呼んでいるつもりらしい彼の言葉は何度聞いても「せんせっ」であった。

 

 それが舌っ足らずな子どもが呼んでいるかのように錯覚をして、アオイはその無邪気さに心を許してしまった。まあ、いいんじゃないかな、と照れるアオイはさぞかし青臭い青少年だったことだろう。

 

「やった、アオイ先生。課題、頑張って作ってくださいね」

 

「ああ。頑張るよ。……だから、君も」

 

「え?」

 

「君も頑張ってくれよ。どうか最後まで諦めないでくれ」

 

「諦めませんよ? だってアオイさんが採点してくれるんでしょ?」

 

 アオイはそれに言葉で答えることはしなかった。

 ただ曖昧に頷き、優しい味のするチョコレートケーキを食べた。

 

 なんだか今日のアオイさんは妙だぞ、とマニは思う。けれど彼はあまり考えずにこう思った。

 きっと課題の作成がうまくいっていないのだろう。 

 

「アオイさん、そういえば僕、イッシュに出張することになったんですよ」

 

「イッシュへ? なぜ……?」

 

 彼は驚いて目をぱちぱちさせた。

 

「僕の展示が研究成果をみせるものではなくなりましたから。いいものを見てこい、という主任のお心遣いですよ」

 

「そう、か。いいものを見てくることだ。常設展示だとしてもよく練られたものがあるだろう」

 

「ええ、ありがとうございます。そうだ。お土産は何がいいですか?」

 

「イッシュ人の私にイッシュの物を? ……私は遠慮しておくよ。君の気に入った物を買っておいで」

 

「そうですか? そう……うーん、じゃあ、そうします。アオイ先生っ」

 

 アオイは「ふふっ」と笑ってしまった。先生、と呼ばれる人生がまさか今になって訪れるとは思わなかった。

 

「…………その、先生って言うの、気に入ったのかい?」

 

「ええ、先生はいろいろなことを知っているから。だから先生って呼んでもいいでしょう。いいえ、先生と呼ばせてください。あなたは先生と呼ばれてもいい人ですよ」

 

「そんなこと言われたの初めてだよ」

 

「……僕は」

 

 マニは手で紅茶のはいったカップを両手で包んだ。

 

「あなたが行ったことを裁くことができません」

 

 午前の静かな時間が喫茶店に流れていた。

 この話をするのは、きっとアオイの自宅ではダメだった。博物館でもダメだっただろう。

 

 相応しい舞台は洒落た喫茶店しかなかった。ここは綺麗で可愛い、甘いお菓子にまみれている。

 

 現実にあるのに非現実じみている。アオイは思う。

 マニは人の心情を察することができる。妙に勘の鋭い子だ。彼の正しさはアオイの心を少しだけ軽くした。悪事は必ずバレるのだと当たり前のことを、改めて指摘されるより心が楽だ。

 

 彼はこれからアオイが行うことも察することがあるのだろう。

 

「先生、僕は悪いことが分かります」

 

 まっすぐな瞳がアオイを見つめていた。 

 

「でも僕は、反対にあるはずの正しいことが分からないのです。だからあなたのことも……僕は何も言えません。だからこそ全うします。後発は先達より賢くあるべきだと、僕もそう思います」

 

「それは私が君に言ったから?」

 

「いいえ。違います。僕は僕の目と耳をもって、あなたの正しさを、あなたの誤ちをたしかめます。いつの日になるか、分かりませんがいつか必ず。そのためにイッシュでちょっと勉強してきます」

 

「ありがとう」

 

「何の礼ですか、それ……。先生なんですからしっかりしてくださいよ」

 

 マニは鼻で笑った。 

 

「先生とは、先に生まれた者ではなく、先に生まれて死んでいくものをそう呼ぶのだ。という解釈が私には相応しいかな」

 

「……アオイさん、やっぱり、あの、どうか、したんですか?」

 

 いいや、何も。

 

 アオイはパソコンの画面を見て、唇だけ動かした。

 

 色硝子が照らす床が陰る頃、ケーキが無くなった。アオイは空になった皿を突いて美味しい物を食べていたんだな、と思った。

 

(ついさっきまで食べていたことすら思い出せないじゃないか)

 

 これではパンジャのことを言えないな。

 なんて。自然に笑うことができた。

 

 

 

 

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