もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

66 / 107
あなたはそんな顔で泣くのですね

 

 

 涙の音がする。

 心が軋む音がする。

 

 もちろん。そんな音は存在しない。聴覚に伝わるものはない。 けれど、そう考えてしまうのは人間もポケモンも誰かの痛みを自分の痛みとして感じる心があるからだろう。しかし、自分にもその感覚があったことは驚きだった。摩耗して無くなったと私はこの時まで思い込んでいたのだ。

 

 

 

◇ ◇ ◆

 

 

 

「あなたはそんな顔で泣くのですね」

 

 丸い眼鏡の向こうで冷え冷えとベルガは言った。研究室の椅子に座るパンジャはそれに応えなかった。言葉は要らない。息継ぎする音だけが静かな研究室に満ちていた。やがて。

 

「他人の泣き顔を見るのは……あまり良い趣味とは言えない」

 

 顔を上げたパンジャは歯を食いしばりキツく目をつりあげ、仇でも見るかのような顔だった。彼女の正面に立ったベルガは、それにわずかばかり目をみはり顔を逸らした。パンジャは実際には何かを悔しがっているのでも誰かを恨んでいるのでもない。ただの泣き顔がそれなのだ。

 

 頼まれていた書類と一緒にティッシュケースを渡して「それで、どうしたんですか?」とベルガは言う。

 

「どうしたんだい、急に……」

 

 書類だけ受け取ったパンジャは動揺して言葉が最後まで続かなかった。その彼女にティッシュを押しつけたベルガは顔を赤くして言った。

 

「わ、わたしが溺れてるポチエナを見て棒で叩く人間に見えるんですか?」

 

「そう思っていた」

 

「慰めてあげようと思っているんですけど要らない気遣いだったでしょうか、先輩」

 

「……その、ええと、ありがとう。君に対する認識を改めなければならない」

 

「そうしてくださいよ。まったく……」

 

 こうして彼女はパンジャのなかで「溺れているポチエナは棒で叩かず、溺れている人間を棒で叩く人間」に昇格あるいは降格したのだがそれはさておき。

 

 ティッシュで目尻を拭きながらパンジャはこっそり息を吐いた。

 

「どうして泣いているんですか?」

 

「……わたしにも泣きたい時がある」

 

「なんですか、アオイさんに別れ話でも言われたんですか」

 

「どうして君たちはわたし達をそんな目で見るんだ。わたしとアオイは文房具程度の愛着をもった友人関係だ。違うよ……」

 

「それでは、なんですか?」

 

 うつむきがちにパンジャは言った。

 

「……目で見える変化は成長だが、見えない変化はただの変質だ。わたしはそれが悲しい」

 

「アオイさんに何かあったんですか?」

 

 その言葉に、カチリとパンジャのなかのスイッチが入った。ごしごしと白衣の袖で目をこするとティッシュケースを遠ざけた。

 

「わたしは彼の秘密を守ろう。彼の望まないことはわたしの本意ではない。君も仕事に戻りたまえ。何なら今日はもうあがってもいい」

 

「感心ではありませんね。厄介払いするつもりですか」

 

「君が本当にわたしを思いやってくれるのならひとりにしてくれないか」

 

「別室で資料を探してきます。帰るときは声をかけてください」

 

「了解した。…………ベルガ君」

 

 パンジャは筆記用具をポケットに入れて研究室を出ようとする彼女を呼び止めた。

 その頃のパンジャはひとりで立つことはできても体は支えを欲していて壁に寄りかかっていた。こうして彼女を呼び止めようという発想自体が疲れている証拠だった。

 

「なんですか?」

 

 それでも誰かの言葉が欲しかった。

 

「君は『成果のない変化を成長といえるか』どう考える?」

 

「先輩がわたしにどんな返答を期待しているのか、分かりませんが――」

 

「君に何も期待していないよ」

 

 じろりとふたりは睨み合い、やがてベルガは視線を外した。

 

「わたしは……成長の定義に成果を求めません。成長の果てに何かの成果が成り立つのかもしれません。けれど成果ありきの成長をわたしは成長と呼びません。それはただの経験です。あなたは……わたしに質問する先輩はどう考えているのですか?」

 

 パンジャはうっすら口を開き、かすかに目を緩ませる。ベルガは漠然とした質問の中からパンジャの意図に一番近い答えを引き当てる力があるようだった。期待していない。そう言ったが早計に過ぎただろうか。こちらの評価もいずれ見直さなければなるまい。

 

「先輩?」

 

 顔をしかめて、手を伸ばしかけた自分に気付き彼女は体の後ろに素早く手を回した。さっさと何か言ってくださいよ、と目が語っている。パンジャは「ああ」と無意味な感嘆を呟き、ますます笑みを深めた。彼女を手元に置いて可愛がりたくなる気持ち、たまに意地悪をしてあげたくある気持ち、アオイには分かるだろうか。優秀な部下に恵まれた感謝をどこかの棚に置く。壁に寄りかかりながらパンジャは自分の見解を述べることにした。

 

「人間は成長しなければならない。知性と技術の両輪が等しく回り続けるように。正しくない成長は成長とは呼べない。それはただの変化だ。そして成長するならば人間は進歩しなければならない。だから成果が必要だ。人の生を成長と呼ぶために」

 

「だから見える変化を? へえ、そうですか。先輩とわたしの考えは違います」

 

「知っていたよ。でもその考えには同意しよう。ありがとう。……対話は必要だ。我々は違う人間なのだから相互理解のための会話は不可欠だ」

 

 それには同意します。ベルガは形ばかりの会釈をして退室した。パンジャは振り返り、アオイの席――だった場所に座った。

 

 そこに手紙が置いてある。1枚目は海のことが書いてある手紙だった。2枚目は彼の夢のことが書かれていた。読めば読むほどパンジャは彼のことが分からなくなっていた。あなたの見ていた風景を見たい。そう思って席に座った。

 

 パンジャは変化を恐れている。自分の目の届かないところでアオイが変わってしまうのが恐い。

 

 海は嫌いだと言っていたのに好きになるなんてどんな海を見たのだろう。分からない。彼は何を感じたのだろう。分からない。どうしてマニを信用して夢を渡そうとしたのだろう。分からない。あなたは、わたしにさえ教えようとしなかった情報をどうして彼には渡そうとしたのだろう。分からない。分からない。分からない。何も分からないのだ。

 

 彼のことを完全に理解したつもりはない。それでもこうしてまじまじと変化を見せつけられるのは彼との距離が離れていくようで怖い。空いている穴はそのままに。別のもので埋めてしまうなんてとんでもない。形を変えてしまうなんてひどいことをしないでほしい。

 

(アオイ、何をやっているんだ。あなたは……養生していればいいのに)

 

 大人しくしていればいい。ゆっくり眠ってくれたらいい。そのためにあなたはそこにいる。研究の陰で苦しむためではない。自分を責めるためではない。心の休息のためにそこにいるはずだ。息継ぎをするために移住したはずだ。それなのに今のアオイは心を軋ませている。何が彼を駆り立てるのか。――彼の夢はすでにわたしが継いでいるというのに。

 

 しかし、どんなに現状が不可解な正解の体を成していてもアオイが与えた課題と受け取りパンジャは全てを許容する。

 

 彼が何かに必死になってあがいているのならばそれでいい。彼のなけなしの情熱を傾けるに値するものがそこにはあり、結果は良かれ悪しかれついてくる。だから許した。マニに情報を仄めかしたことも何もかも許した。アオイのすることにパンジャは異議をはさまない。きっと彼にはパンジャの知り得ない思惑があって策を立てているのだろう。そうした思考の果てに辿り着いた。

 

 あ、と天井を見上げる。

 

(そうか! 保険だ! わたしが失敗した時の保険だ! あなたの研究をわたしが継いだように、わたしができなかったことを後に託すのだね! 素晴らしい考えだ!)

 

 この考えは当初、良い発想のように思えた。

 

 終わるのが嫌いなアオイならばそうするだろう。考えれば考えるほど合理的で納得のできる考えだった。そして辿り着いて理解する。その瞬間に涙が出てきてしまった。あまりに不意で意図しない感情にパンジャは戸惑った。痛いこともない。苦しいこともないのに。頬を伝う涙は熱量の分だけ彼女を狂わせた。頭のなかでガリガリと音がする。この音を彼女は知っている。裁断機の音だった。

 

 しばらく泣き続け、やがて涙の正体が分かった。

 それは悲しみ。心を淀ませる悲しみだった。

 

「あぁ……。なんということを! なんということを! わたしはいつだってあなたの理想の『わたし』で在りたいというのに……! つくづく友情を信じていない人! でも、そんなあなたの言葉一節でわたしはたやすく死んでしまうと言うのに……」

 

 溜息に混じり「あぁぁ」というかすれた声がこぼれた。天井を見上げたまま、両手で顔を覆う。物言わぬ天にさえこの顔を見せたくなかった。恨みがましい顔をしていることだろう。そんな気持ちは髪毛一本ほど持ち合わせていないのに。

 

(わたしはアオイに期待されていないのだ)

 

 それがただ悲しい。

 後継を用意するとは、つまり、そういうことだろう。最初から失敗すると思われているのだ。無理だと。君にはできないと。パンジャがベルガを侮ったように、アオイもまたパンジャを軽んじているのだ。

 

 手足の力が抜けて彼女は椅子の上で動けなくなった。思考が停止して呼吸さえしばらく止まっていたかもしれない。嗚咽だけが痙攣のように身体を震わせていた。献身に対価など求めたことはないけれどその結果がこれか。この様か。相手がアオイでなければ危うく失望してしまうところだ。

 

 ようやく動いた頭はひどく単純思考だった。

 

「成功を。成功が欲しい。ただの一度だけでいい……」

 

 ベルガが欲しがるような栄光は要らない。

 たった一度の成功が欲しい。それだけで十分だ。

 

(わたしの研究が成功すれば……成功さえすれば、アオイはまた歩き出せる)

 

 また一緒に夢を。だからどうか望みを果たさせてはくれないか。祈りはどこへ届くのかパンジャにも分からない。それでも祈った。

 

(あなたの考えをわたしは知らない。あなたの見ている景色がわたしには分からない。それでも同じ夢を見ることはできる。一緒に見ていたはずだ、遙かなる君の夢)

 

 のろのろ顔を上げ、青白い光を放つパソコンに顔を向けた。『彼』が納められているポケットをなぞり考える。彼女を動かすのは常に親愛なる彼へ捧げる友情を「正しく」果たすためだった。履行することで彼の望む自分でいられる。私が好きな私でいられる。――たとえそれが報われることのない友情の成れの果てだとしても。

 

(あなたのなすことをわたしは肯定しよう。あなたの決めたことをわたしは……否定しない。それがどんなことであっても)

 

 パンジャは緩慢な動作で手紙を鞄に入れた。

 彼の決めたことを覆すことはできない。

 パチンと鞄のふたをしめる。

 後戻りができないように。

 

(けれど。それでも。だからこそ。わたしはあなたに期待を――)

 

 その時、頭のなかで裁断機の音がした。ガリガリと何かを削り落としていく。慣れている。けれど嫌な音だった。

 

「あっ……」

 

 立ち上がりざま平衡感覚を失いよろめいたパンジャは「おっとっと」と慌てて一度壁に手をついた。それから頭を振り、長い髪を払う。ぼんやりと研究室を見回し自分がアオイの席だったところにいることを認識した。

 

「……どうしてわたしはアオイの席に? あ、そうだ、ベルガ君、頼んでいた資料は? あれ? あるじゃないか。いつの間に……」

 

 あるのであれば研究再開だ。何の問題もない。

 パンジャは何事もなかったかのように自分の席に座りパソコンの画面を開く。

 

「えっ?」

 

 ぱちりと瞬きする。途端に零れ、頬を撫でた水滴にパンジャは理由がわからず困惑した。それでも時計で時刻を確認すると、また時間が跳んでしまったのだな、という実感を得て手の甲で目をこすった。

 

『辛いことならば忘れてしまっても大丈夫だ』

 

 かつてアオイが言った言葉をパンジャは思い出していた。

 正しく生きていくためには必要なことだ。だから何も問題は無いのだと今日も信じられる。アオイはいつも自分を救ってくれているのだから忘れていても、やはり何の問題も無さそうだった。

 




【確率は運命を囁くか】編は本話にて終了になります。
この章と話で物語は内容的な意味で折り返しを迎えました。
投稿開始から2年と6ヶ月経ちました。休憩を挟んだこともあり長い……あまりに長い……時間的にも文章量としても……。しかしその分、中身がたくさん詰まった作品になっていたら良いな、と思っております。

さて! 
後半戦もどうぞお楽しみいただければと思います!

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

  • 登場人物たち
  • 物語(ストーリーの展開)
  • 世界観
  • 文章表現
  • 結果だけ見たい!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。