もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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アオイは……ちょっとまだ出てきません。


間章
現状満足主義者の敗北


 

 ちくしょう。

 

 ああ、最低最悪だぜ……。

 

 コウタは地面に膝をついたまま動けなくなっていた。

 過去の音声が、頭のどこかで聞こえた。

 

『すまないな、コウタ。わたしは負けたくない、誰にだって何にだって負けたくない。ましてアオイのことで遅れなど取りたくない。――嗚呼! 友よ! 百年先回りしたってまるで足りてくれないのだ!』

 

 即興劇を気取った台詞を囁いて――何がおかしいのかコウタにはさっぱり分からなかった――ツボにハマったように笑う彼女は、それでも計算高いキュウコンのような顔をしていた気がする。

 

 負けたくない、と彼女は言った。

 その思いが無意識に『この出来事』を起こしたことだとすれば、彼女の意識外にある計算機はよほど優秀だ。コウタはうっすら浮かべていた笑みを消さざるをえなかった。

 

 指先が地面を差す。

 おあつらえ向きに雨が降ってくる。足早に誰かが後ろを走って行く音が意識の裏側で聞こえた。

 

(負けた。……どうもこうもねえ。負けだ……。負けるときってのはこういうもんだ。理屈じゃねえ、知識でもねえ、認識に上せるまでもねえ。脳みそで消化するまでもなく吐き出されたこのザマは紛れもなく『完全敗北』ってヤツだぜ)

 

 現状幸福信者は久方ぶりの絶望の味を舐めた。

 

「笑えねぇんだよぉ。ばかやろう。この俺が、この俺が笑えないなんてことあるなんてな……。お前らのことになると、こうも笑えなくな、る、ぜ……なんて、な」

 

 期待した音はいつまで経ってもモバイルから流れない。

 

 モバイルは、壊れていたのだ。

 

 喫茶店では動いていた。充電の数字も確認した。83%。数字だって覚えている。

 いつ、壊れたのだろう?

 決まっている。パンジャに殴られて地面を転がった時だ。仕事の癖でズボンの尻ポケットに入れていたのが悪かった。そこで、きっと壊れたのだ。そこしかない。

 

「……ふぅん。そうかい、そうかい。そういうことかよ。ははぁ、俺はひとまずテメーに負けたわけだ。そしてテメーは俺に勝ったわけだ。ブラヴォー。上出来だぜ、パンジャ。ムカついてもうちょいぶん殴っておきたいって衝動に駆られるくらいには上出来だ。……だがな、俺だってな、テメーらを野放しにできるほどおめでたくねえんだよ」

 

 ふらふらと全身がぐしょ濡れになりながら橋を歩く。靴の中が水たまりになっているらしい。歩く度にスニーカーはぐしょぐしょと嫌な感触を伝え、不快な音を立てた。

 

 ――俺は、確かに負けたのだろう。

 

 何が何でも止めてやるという覚悟が足りなかった。

 

 いつもの時間ならモンスターボールのなかで眠っているはずのチョロネコを起こしてバトルに起用するだけの非情さが無かった。『人間性』を賭けたあいつのほうが、よっぽど上手だった。――なにもかも。

 

 

 ――俺は負けた。『俺は』な。

 

 

 だが、それだけだ。

 

 まだ。――たったのそれだけの敗北。戦局をひっくり返す程度のマイナスではない。

 

『まだ』だ。

 

 まだ間に合う。

 

『どうにかしてアオイに連絡を入れる』

 

 それが現状を解決するたったひとつの冴えた方法だった。

 

(この際、アオイがどうなろうと知ったことか)

 

 物騒な考えに支配されコウタはうろうろと街へ向かう。

 

 頭のネジがぶっ飛んで絶頂中のパンジャを止めることができれば、ともあれこの『現状』に満足だ。

 

「電話……電話は……どこだ? どこだっつーの。最強の一手ってヤツが欲しいんだよ。アイツをチェックメイトで嵌め殺してやりたいんだよ。――チッ。この俺に欲しいものなんて、無いはずなのにな……ふへへっ。欲求不満なんてバカで愚か者で救いがたい奴らのすることだぜ……。俺は幸せだ。俺は幸せなんだ。俺にだってどうしようもなくどうにもできない。幸せっていう状態を誰よりも味わっているはずなのに……。俺は完璧な感覚を持っている人間のはずだ。俺は、どんな現状にだって満足できる。そのはずなのに、いまはこんなに不幸だぜ。こんな不幸。今まで感じたことがない。……この不幸って屈辱ってやつだろ? 胸が、苦しい、ぜ……」

 

 やがて。

 

 彼は、橋の麓に、四角い箱を見つけた。

 

「ふふふ……運命ってヤツはまだ俺を見捨てちゃいないみたいだな」

 

 ふもとにある公衆電話に入ったところで、とうとうコウタはこらえきれずに笑った。

 

「ふっふっはははははは……! 傑作だぜ! 小銭がねぇじゃねーかよ……! ついでに俺ってばアオイの番号とか知らねぇな!」

 

 公衆電話を殴りつけてコウタはうなだれた。

 

「だがな……俺は諦めねえ。現状に満足できるってことはどういうことか、テメ―らは知らねえんだろうな。想像さえしていねえんだろうな! 俺がどれだけの恐怖と戦っているかなんて問題の埒外ってヤツなんだろうな!」

 

 幸福とは何だ?

 それは、不幸でない状態だ。

 

 アオイやパンジャがもがいて悩んでいる間、その停滞が俺の幸福でもあった。

 いなきゃいないで、お前らは、この人生に、まあどうでもいい人間かもしれねえが、これまで共有の時間を過ごしたから、そこそこ失いがたい人間に分類される。

 

 現状に満足できる人間だって過去を振り返りたいと思う時はある。その時に、思い出を語らう人間がいないときっと未来の現状で俺が不満足に陥る。現状に満足できることは現状に対して欲求が無い状態とはイコールではないのだ。

 

 その状態を考えると恐怖を覚える。

 

 現状に満足しすぎて維持を怠った瞬間、現状の延長線上にあったはずの未来が崩壊する。現状では彼らがどうなたっていいと俺は本気で感じているかもしれない。だが、未来の自分にとって彼らはどんな存在になっているだろう?

 

 取り返しのつかない不可逆的な事態を看過すべきではない。

 希望的楽観は未来の幸福を危うくする。

 

「現状に満足できるはずの俺が悩むのはまったくらしくねえぜ。だが、仕方がない。こればっかりは……これだけは俺の信念として譲れねえな。俺は次の一瞬に世界が滅亡したって幸せに生きることが目標だからな」

 

 

 ――さあ、君はどうする?

 

 

(おい、パンジャ、ずっと前から思っていたがその芝居がかった気障ったらしい戯曲だか演目だかの言い回し、俺は嫌いだ。――テメーの言葉で語れよ)

 

 公衆電話を壊す前にコウタは外へ出た。

 

(ついでに自分の命とかそういう大切なもんをスナック菓子の感覚で差し出す態度が嫌いだぜ。――そういうのは大事にとっとくもんだろう。まあ、アオイは何か好きみたいだけどよ)

 

 雨は降り止まない。だが、彼の目はもう曇っていなかった。

 

「俺が、負ける時ってのはいつだってこれだ。こんな雨だ。だから雨ってヤツは嫌いだぜ。……だが、いいだろう。乗ってやるぜ」

 

 

 ――何のために、何を賭ける?

 

 

「俺の未来の幸福のために、現状の幸福を賭けてやる」

 

 

 

 テメエらの問題をサクッと解決して俺は幸福を掴むんだ。

 これまで通りの正しい日常に戻ってやる。

 

 俺は、現状に満足できる。きっとこの現状だっていつか満足になる。

 

 けれど未来に期待したい。現状に満足できたら、未来でも満足したい。幸せでありたい。

 

 これはそのために必要なこと、なのだ。

 

 天に拳を突き上げて彼は告げる。

 

「カントーじゃあこう言うんだろう。――『目に物を見せてやる』ってな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





【Oh...】
 主人公がしばらく不在中だが、大丈夫か? もうちょっとだけお待ちください。なかなか書き溜めがたまらないのです……ええ……。


【現状満足主義者の憂鬱】
 現在に満足できるのであれば、憂鬱はもちろん不安を感じないのではないか?
 という想像も無いわけではないのですが、未来の現状を憂えるのは人間らしいような気がしています。完璧な人間なんていないんだよ、なんてアオイあたりは言いそうな気がします。心底ホッとしたような顔をして。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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