数ヶ月前の出来事。
(なんて運が悪い人だ)
わたしは違う。わたしはこうはならない、失敗だってするもんか。こんなザマになったら死んだ方がマシだ。きっとそうだ。
「初めまして。わたしがアオイ・キリフリ。まあ、自己紹介するまでもないかもしれないが。物事には順序というのがあるのだ。忌々しいことにね。さて、せっかく来ていただいたのだ。本題に移ろう」
力無い笑みを浮かべているのは、これまで眠っていたからだと言っていた。
アオイが右手を挙げるとベッドのそばに控えていた彼女――パンジャが書類を渡した。
「ご苦労、パンジャ。……すまないが、彼女と二人にさせてくれないか。時間は、そうだな15分くらいで済むだろう。気分転換に散歩してきてくれ」
「了解した。何かあれば連絡をしてくれ。すぐに来るよ」
彼女が部屋を出て行くとアオイは「はあ」と大きく息を吐いた。
「彼女はとても心配性なんだ。……ありがたいことではあるのだが、私は、彼女に」
後半は独り言のようになり消えていった。もう一度、溜息を吐いて彼は書類の説明をしていった。ほとんどのルーティンは作業が確立されているので資料を確認しながら作業すれば大丈夫だということを説明された。それから何か分からないことはパンジャに聞くと良いことを言われた。
新しい仕事に就くことに不安を感じていないわけではない。だから彼がくれたお手製の手引き書には安心した。
「ありがとうございます。なんとか、やっていけそうな気がします」
「ええ、頑張ってくださいね。情けないね、君のような人にこんなことしか言えないんだから」
「……いまは静養することも大切ではないでしょうか」
ここまで話していても、ベルガにとって彼は別の世界の人のようだった。
(運が悪い人……)
この場合の「運」とは、さまざまな要因が絡む。こんな様になるために、彼は何か迂闊で愚かなことをしたのだろう。そう思った。
侮るほど感情は明確ではなかったが、彼はベルガの向ける何かに勘づいたかもしれない。
「つかぬことを聞くようだが……君は何のために研究者になったのですか」
「ポケモンと人間のよりよい共生に貢献するためです」
「そう。大切だよね、共生」
彼は、ふふっと笑った。それに、ベルガはムッとした。
彼の笑みは口の端のどちらかが上がるものらしい。今になって思えばそういうものだと受け入れられたけれど、初対面では気付きようがない。皮肉っぽく笑われたとベルガは体が火照るのを感じた。
感情が「軽率」に口を滑らせていた。
「あなたは、何のために何をしたんですか?」
「…………」
口元には相変わらず愛想笑いのような笑みがあるのに、目だけはどこか別の次元に焦点があって虚ろだった。
言ってしまってから病人に対してとんでもないことを言ってしまったと後悔したが、すぐに思い直した。――目的をバカにする人を言い質して何が悪い。目的も向上心もない人が惰性で起こした事故だとこの時まで心から思っていたのだ。
「私は夢のために私が成すべきことを全うしただけだ。……結果は、ご覧の通りだったが」
「夢とは? あなたの夢とは何なんですか、アオイさん」
「今さら言葉にするのもおこがましい。けれど君が望むなら答えよう。後発の君にはその権利がある。――『誰も成し得ていないことを私が成し遂げよう』と。私の夢とはただのこれだ」
ベルガは呼吸を止めた。
(この人もまたわたしと同じ夢を抱いていたのだ……!)
彼女は明るい瞳をパッと見開かせた。それなら――。
「私は選択した。結果、その選択は誤ちだったと証明された。何事でもそういうものだ。選択には行動があり、行動には結果が、結果に責任がある。そして誤れば代償を払うのだ。それが私の場合『私』だけでは精算できなかったのは計算外、いや、本当に申し訳ないと思っている。こうして出会ったばかりの君にまで迷惑をかけてしまっているのだからね」
「い、いえ……わたしは、別に」
あなたがここをいなくなるおかげで仕事を得た。
もし、この事故で利がある者がいるとすれば、それはベルガ・ユリインただひとりだった。彼もそれを分かっているのだろう。だから謝罪には心がこもっているとはお世辞にも言えないものだった。
「あなたは……あの、あなたの実験は? 具体的に何をしたのですか?」
「私は君に伝える回答を得ない」
アオイの言葉はこれまでのどれもと温度が異なるものだった。
熱くもあり冷たくもあった。きっと外と内で温度が違うのだ。ベルガは思った。
「私は秘密を守ろう。それが我々の約束だ。私にもまだ……いや、命があるからこそ守らなければならないものがある。ああ、すまないね。君が優秀になりそうだということは何となく分かるのだが、そしてきっと私達と同じ結論に辿り着くだろうことも想像できるのだが、これだけは言うわけにはいかない。君には正しく研究者であってほしいからだ。くれぐれも『わたしだけは失敗しない』等という思い上がりをしないように、先輩面して戒めたいと……それだけだよ」
その時、まるで図ったようなノックの音が聞こえて会話は中断された。
「お喋りが過ぎたようだ。やれやれ、女性との話はつい弾んでしまう。これも寂しい男の悲しい性というものかな。不愉快にさせてしまったのなら謝るよ。――今日は休日にご足労いただき感謝する。ありがとう、ベルガ・ユリインさん。私の後任があなたのような人でとても嬉しい。私個人のお願いをしても許されるなら、どうかパンジャと上手くやって欲しい。彼女ともよく話し合っておくよ。では、どうかあなたの人生に幸運が訪れますように。……Best wish」
もっと話したいことがある。もっと彼のことを知りたい。
けれど約束の時間は訪れてしまった。
今日時間ギリギリにやってきた過去の自分を呪いながらベルガは帰路についた。
病室を見上げると、彼が包帯に包まれた白い手を振っていた。一礼する。もう一度窓を見ると、パンジャが包帯を巻いた指でカーテンを閉めるところだった。彼はきっとまた眠るのだろう。いくら睡眠をとったとしても脚に負った大きな怪我は治らない。それでも彼は眠るのだろう。もしかしたら傷ついた魂の安らぎのために眠るのかもしれない。
そういえば、
『約束』
と言った。
『秘密を守ろう』とも。
約束の意味は、この際はいい。考えても分からないからだ。
だが『秘密を守ろう』という言葉は気にかかる。うちに秘めた物事を隠すだけならば、「言いたくない」とひと言だけ言えばいい。『約束を守ろう』とはまるで宣誓だ。ここにはいない誰かへ宣言している。何かを誓っている。いったい誰に? 彼は『我々』と言った。では、我々とは誰だ? 複数形。パンジャのことだろうか?
ふたりの仲はいい。それもかなりいい。
以上から仮定する。
お互いがお互いに『何か』を誓い合っているとすれば、どうだろう。
『何か』は『約束』としてもいい。
『約束』された特異な協力関係にあるとすれば互いへ利をもたらそうとする行動の説明になるではないだろうか?
何を約束しているのだろう。
あのふたりの間に何があるのだろう。
絡まり綻びた糸が解かれていく感覚に、あの日の夜からベルガはその思考を絡め取られていた。
【やれやれ。「あとがき」の話はつい弾んでしまう。これも寂しい「あとがき」の悲しい「あとがき」というものかな】
今話は前衛的でありたいベルガ・ユリインの回想でした。アオイとの面会はこの一度だけ。内容は仕事の話ですが私的な呼び出しでひっそり行われたという今後の物語にまったく関係のない設定があります。(アオイの精神的なアレコレで研究室に物理的に近寄れなくなることを彼が危惧した為、ひとまずの心の静養を保てるタイミングで仕事の引き継ぎが行われた。という蛇足の蛇足)
筆者というのはこういうまるでどうでもいいところに凝ってしまうという悪癖があります。
【ベルガ・ユリインの「軽率さ」】
軽率というといかにも注意散漫で迂闊で、という印象が付きまとう言葉(と筆者は勝手に思っているの)ですが、彼女の今話のなかの軽率さは後になって思ってみれば軽率は軽率に違いないのだけど、アオイの態度が他人に対して無難なものではなかったことがひとつのトリガーになっています。なので「軽率」という言葉以外の表現の仕方もあるのだと思いますが、言ってしまった後のわりと早いタイミングで「やっちまった」と気付くのがベルガの良いところでもあるので軽率な言動をしやすい彼女の癖がチラ見えしています。それでも咄嗟の判断で挽回する機転と発想がある、というどう生かせばいいのか分からない初期設定があったりして初案考えた筆者は頭がどうにかなっていると現状ひぃひぃ言いながら書いている現在の筆者は思います。
【アオイの初対面の印象の悪さ】
アオイが初対面の人に対して皮肉屋の印象が持たれることの多い理由は笑った時に筋肉が左右対称に動かないことが一因です。なので写真撮影の時、アオイは苦労するというこれまたどうでもいい設定があったります。じゃあそれをきちんと書けよって話ですね。
アオイは自分が多くの人にとってたいてい好印象を持たれないことを知っているので、対面的なことは一見物腰柔らかでそこそこに親しみやすく真面目な印象を持たれているパンジャに任せっきりにしています。持つべきものは自分ができないことをできる友であるとアオイあたりは真面目に考えていそうです。
【ここまでお読みいただきありがとうございます!】
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