もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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遭遇あるいは邂逅(下)

「あてもなく歩いていちゃだめだね。――時には専門家の意見も聞くべきってね」

 

 ナタネは草むらを掻き分けながら森を歩んでいた。先ほど出会ったアオイという青年は学者らしい。彼の言う、森の異変――その原因は貴重な意見だと思う。ふむ、と彼女も腕組みをして考えた。ポケモン同士の関係に人間がむやみに手を差し伸べるのは良いこととは言えない。時には人間の自制、傍観も必要だ。

 

 それにしても、アオイという人物は不思議だ。

 

 空気がピリリと『締まらない』。ナタネの知る学者はもっと貪欲でギラギラしている印象を持つ者が多いが、彼はそういった光が少ない。でも、これこそが彼のここにいる理由かもしれなかった。

 

「ふーふん、ふふーん、ふーん……あっ」

 

 ナタネは脚を止め、振り返った。

 風が吹いている。この風で思い出した。

 

 ――そうだ。森で迷った時に、うまく抜ける方法を彼は知っているだろうか。

 

 彼女の頭の中では、研究者だからそれくらい――でも、ずっとデスクワークのひとだったら知らないかも――勉強すれば――海のひとだったら――さまざまな考えが巡った。そしてなにより。

 

「おばけっ――じゃなくて、ゴーストタイプの子がいるしなぁ……」

 

 できれば近づきたくない……気がする。嫌いなわけじゃないだよ! 苦手なだけだよ! 自分に言い訳をしながら、パタパタと落ちてくる雨上がりの滴を見つめた。くぅ、と呻いたのはそう長くない沈黙の末だった。

 

「森って、ぬかるんでるよね……」

 

 不意に地面に視線を落とせば、泥だらけのランニングシューズがあった。

 

 ――今どきの車イスって、こういう状態にも強いんだろうか。

 

 そこまで考えて頭の中を整理すると、ナタネは走り出す。

 

 経年のために重なった木々を越え、腰高まで伸びる草むらを掻いた。

 

 なぜこんなことをしているのだろう。息苦しくなるまで走る彼女は、ほんのすこし、そんなことを思う。

 

 でも、仕方ないじゃないか。

 

『何かがあってからじゃ遅い』ってもう知ってしまっていた。

 

 

 

 ◆ ◇ ◆

 

 

 

 

「大きいな……」

 

 

 アオイは森を抜け、屋敷を見上げていた。建物の正面から見た時に、ちょうど右壁にあたる場所に出ることが出来た。方角としては東である。春の日差しを浴びた壁面はほのかに温かい。

 

 俗に森の洋館と呼ばれるこの建物は見かけは綺麗なものだ。汚れが付かないように壁に特殊加工をしているらしい。この壁は水滴と共に付着した粉塵を洗い流している。だから人がいなくともこれほど綺麗なのだ。とりあえず外装は。

 

 しかし。

 

 壁の加工は便利だが当然、普通の壁を作るよりも金がかかる。これを広大な屋敷の、恐らく全面に施しているのだからこの建物の持ち主は相当の金持ちに違いない。

 

 それにしても、だ。

 

(まだ新しいな……とても古いものとは思えない)

 

 森の洋館――アオイはてっきり昔の道楽人が立てた別荘だと思っていたが、この様子を見るに違うだろう。

 

「生活するために作ったんだな……」

 

 建築は、実験で壊してしまった研究所について報告するために知識を囓った程度だが、そうだろうという判断できた。

 

(生活。――生活?)

 

 ここで? この森の中で?

 

「…………」

 

(――まあ、難しくもないか)

 

 アオイはヒトモシのミアカシが近くにある茂みの中から顔を出した瞬間にそう思うことができた。アオイでも街から来ることが出来たのだ。健常者であれば難しいことはないだろう。

 

 屋敷の正門側を見た。こんなところに建物を建てる財力があるのだ。金持ちにかかれば森の中に道を通すくらい簡単にやってしまうものかもしれない。ここはリリさんが友人と一緒に歩いて来ることができるところなのだ。正門側の森にはもう整備道があるのかもしれなかった。ハクタイ生活支援センターもあることだ。その気になれば一歩も外へ行かずに生活ができそうだ。

 

「もう昔の話だがね。いまとなってはゴーストタイプのポケモンのたまり場だ。――ミアカシさん、あまり近づいてはいけないよ」

 

 綺麗な壁だが、窓はところどころひび割れていた。太陽でも照らしきれない薄暗い闇のなかに、あやしげな瞳が光っている。

 

「ミアカシさん、そろそろ戻ろうか。やはり森の変化には継続的な調査が必要らしい。……ポケモン同士の問題であるのならなおのことだ」

 

 ミアカシを拾い上げ、膝の上に載せると彼女はすぐに腕をよじ登って頭の上に来た。

 

「君も好きだね……いいけど。いいけどね」

 

 頭の上でよろめくミアカシを支えて、アオイは車イスを動かした。

 

 ミアカシがハイテンションになるとアオイのなかで何かが消費されて感情が希薄なってしまいそうになる。小さい彼女だからまだ大丈夫だけど。たまに疲れてしまう時があった。

 

 でも今日はもう帰るだけだ。

 

 濡れたノートを片手でパタパタと乾かしながらペンを胸のポケットに差し込んだ。

 

「帰ったら、レポートを作ってから、ケーキとか、何か甘いものを作ってみようか」

 

「モシ?」

 

「ケーキって分からないかな、甘くてふわふわしてて美味しいやつなんだけど……」

 

 写真を見せてみよう。新しい予定を作りながらアオイは何気なく肘置きに腕を置いた。

 

 その瞬間、体がガクリと傾いた。

 

「あっ――」

 

 気付いたが、もう遅いと考えるまでもなく感じた。

 

 ミアカシを頭の上に乗せ、極力動かさないようにしているため足下への注意が疎かになる。ぬかるんだ地面に右側の車輪が沈んでしまっていた。

 

 地面に投げ出されたミアカシがキョトンとした顔で逆さまの私を見ていることだろう。――手を伸ばしたまま、アオイは固まった。

 

「ミアカシさん……だ、大丈夫?」

 

「モシ!」

 

 ショック状態から回復したミアカシがピョンと跳ね、彼のすぐそばまで来た。

 来てくれるのは嬉しいが、ほんのすこしの体重移動で横転してしまう状態のアオイはほんのすこしも迂闊に動くことが出来なかった。

 

 それでも目を動かして車輪の周囲を見れば現在の状況が分かった。

 

「うわ……」

 

 水をよく含んだ粘度質の土に沈み込んでしまっている。枯れ葉の下がこんなことになっていたとは気付かなかった。

 いっそ車輪を動かして脱却を計るというのはどうだろう。無理だ。左の車輪が完全に浮いてしまっている。ここで右を回したらバランスを崩していよいよ地面に投げ出されることになるだろう。

 

「どう、するかな……」

 

 助けを呼んできてもらうか。いや、そんな都合良く来るだろうか。ミアカシが方向音痴だったり迷ったりしたら目も当てられない結果が増えるだけだ。

 

「そうだ――」

 

 あまり頼りたくはなかったが、モバイルでチャチャさんを――ゆっくりポケットに手を伸ばし微かな熱を持つモバイルに触れた。

 

「う……うん…………?」

 

 モバイルは途端に電池切れの表示が明滅し、アオイは不運を感じた。彼はすっかり忘れていたのだ、位置情報を送受信し続ける機能は旧型モバイルの電池を著しく消耗させることを。

 

 アオイはまるで画面を見なかったように振る舞い、調子外れの鼻歌を鳴らしながらモバイルに車イスを繋ぐ。それから景色を楽しむために立ち止まっているのだと――自分に言い聞かせて、心の平穏を保った。

 

「ミアカシさん……ちょっとだけここで待ってみようか」

 

「モシ?」

 

 早く帰ろうという目に、アオイは耐えきれなくなり浮いた車輪を空回しした。

 

「すまない。動けないんだよ……」

 

「モシ?」

 

 浮いた車輪と泥にはまり込んだ車輪を見合わせて理解したのか、ミアカシは納得してくれた。アオイは彼女が車輪と泥の因果関係を分かってくれたことにささやかな感動を覚えた。

 

「それにしても運が悪い。いや、ツイていたことなんて無いが、それにしてもだ。何かを頑張ろうとした矢先にこれだ……情けない」

 

 さめてもの幸いは今日がとても天気が良いということだけだ。地面が乾いてくれればいいのだが――

 

 地面に視線を落としたアオイはそこでおかしな光景に出会った。

 

「は……?」

 

 地面が乾いているのだ。

 

「――――」

 

 しかし、車輪はぬかるみに埋まっていた。他の地面が乾いてるのにここだけが濡れている。それに気付くのにそれほど時間はかからなかった。

 

「ミアカシ、来るんだ」

 

 低く、感情を押し込めた声でアオイは呼んだ。素直に来てくれる彼女を不自由に抱える。ひどく嫌な予感がした。

 このぬかるみは、土の質が他とは違う。――気付いてしまったせいか正気が削れそうだ。

 

(誰かが持ちこんだ? 子どもの悪戯だろうか……?)

 

 しかし、こんな森のなかでそんな質の悪いことをするだろうか。

 

 ではポケモンか?  巣か何かの材料にするために持ち込んだ、とか。だが、疑問の方が多い。森の中にわざわざ土を持ち込まなければ生活が成り立たないポケモンがいるだろうか。考えれば考えるほど状況はアオイに不都合だ。

 

 アオイは周囲を見回した。何か――何かおかしい気がする。そういえばここまで一度もポケモンに出会わなかった。運が良いのかと思っていたが、こうなればもう何もかもが考えているものと違う。

 

「――モシ!」

 

 ミアカシが指を差す。アオイもその方向を見つめた。森の暗さに慣れた目はすぐにその異形を認めた。

 

「…………」

 

 それは、人間の姿形ではない。

 人間か、ポケモンか。二択で言えばポケモンだ。

 

 しかし、アオイはそのポケモンを知らない。見たことがない。聞いたこともないだろう。記憶にあるポケモンを片っ端から左右反転し、似たシルエットを見つけようとしても適合するものは見つからない。

 

 実物も、図鑑でも、見たことがない――そんなポケモンが視界にいる状態に、アオイは困惑し恐怖した。それをさらけ出してしまわないのはミアカシがいるからだ。

 

 地面から浮いている。――タイプはゴーストか、あくか、あるいはひこう? つばさは見当たらないからひこうのの線は無いか。でもドードーよりはひこうが属性で付属しいてもおかしくない。

 

 陰じみた姿が動く、煙のように揺れる頭部に、木漏れ日が差す。その一瞬、鋭い眼光が見えた。

 

(目がある)

 

 アオイは微かな期待を抱いた。人間にしてもポケモンにしても目というのは感情を語る。

 

 それにしても。

 

(このタイミング――『ポケモンが道具を使って人間を嵌める』?)

 

 ただの泥だが、それでもアオイの足止めには十分すぎる。 

 

(ありえるのか? そんなことは……)

 

 アオイの頭は瞬く間に反論を掻きたてる。カントーではゼニガメによる組織的な非行行動が目撃されていた。意思があるならば目的もある。では、目的、目的とは何だ? この場合、何が目的だ? 私を森から追い出すことか? あるいは他の――?

 

 じっと堪えるように待っていると焦れたミアカシが飛び出した。

 

「ミアカシっ!」

 

 啖呵を切るように焔が高くあがった。指先からスゥと血が引いていく。

 

「待て、待つんだ、待ってくれ、ミアカシ――先制攻撃が許されるのは不意を打った時だけだ」

 

「モ、モシ?」

 

「と、とにかく、こちらから攻撃してはだめなんだ!」

 

 こちらが攻撃すれば間違いなく攻撃される。野生のポケモン相手は特にそうだ。そしてこの場合、攻撃されるとミアカシもアオイも最悪だ。しかも相手は知的な行動をしている――かもしれない。

 

 アオイの言葉に何か感じることがあったのか、ミアカシの焔は小さくなった。

 

「…………」

 

 そのポケモンは止まった。

 

 腕にあたる部分は妙に人間らしい、手は爪か。脚はやはり無い。赤い部分は硬いのか柔らかいのか――アオイは見れば見るほどそのポケモンに疑問を持った。生態が想像できない。そもそも『ちゃんと』した『まとも』なポケモンなのか? 彼の脳裏にはなぜか滅びの呼び水になった睫が浮かんでいた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

 ポケモンは、ゆるゆる動いてそばまで来たのに無反応だ。表情は思っていたよりも読めない。森の匂いと不気味な沈黙が、アオイの神経をすり減らした。

 

「…………」

 

 いつか誰かが声を上げなければならない。口火を切ったのは、やはり、というか、当然というか、彼らほど空気を読めないミアカシだった。

 

「モシ、モシモシ? モシ! モシモシ」

 

 ミアカシの言葉が分からないことをこれほど悔しく思ったことはない。何か威勢の良いことを言っている……気がする。それも畳みかけるように。

 

 そのポケモンは何か頷くように身体を揺らしたように見えた。――のだが、窺うように見つめられた。

 

 見つめられても困ってしまう。体重移動に気を遣いながらアオイは手を振った。

 

「すまないが、わたしも彼女の言っていることは分からない。さっぱり分からないんだ」

 

「…………」

 

「ポケモン同士の方が『まだ』わかり合えると思うんだがね」

 

 アオイこそガッカリした顔を作り、そのポケモンを見つめた。

 今度はあちらが居心地悪そうに身動ぎした。

 

「……ソゥともかぎらない」

 

「ああ、そうか。ポケモン同士でもやはり言葉を解するのは難しいと。当然だな。……?」

 

「…………」

 

 アオイは、かすかに口をひらいたまま、たった今の自分は誰と話していたのか呆然とした。

 

「いましゃべった――」

 

「モシモシ!」

 

 ミアカシも驚いているらしくポカンと口を開けている。

 

「ナガイ時間生きているんだ……しゃべるだろ……エ?」

 

「ええ? ま、まぁ、可能性としては、ありえなくもないだろうが……」

 

 研究者にあるまじき鈍い反応をしていると自覚ができた。人間、驚きすぎると平凡な反応しかできなくなるらしい。

 

(ポケモンがしゃべった? これは――?)

 

 キュウコンやフーディンなどの高等な知能を持つとされるポケモン、そしてラプラスやホエルオーなどはずいぶん長い時間を生きることができるポケモン――かれらを対象に人間の言葉を理解できるかどうか、意思疎通ができるかどうか、そういった研究はされている。だが結果が聞こえてこないところをみるとまだ成果が上がっていないのだろう。これからも期待はしていない。ラルトスやその進化形たちのほうが『感情』を通してわかりあえるんじゃないか――ずっとそう思っていた。

 

 これまでずいぶん狭い世界に生きてきたものだと、うちのめされた気分になる。

 

 ポケモンの可能性を見誤った自分を仕方ないと慰め、次の瞬間には浅慮を悔やみながら、そのポケモンに向き合った。こうなった以上、アオイに選択肢はないのだ。

 

「それで? 私にようがあるのだろう」

 

「……アタマがよいのだな」

 

「偶然出会ったにしてはできすぎている。森をうろうろするのが目障りだったかな?」

 

「ソゥではない……」

 

 ボソボソと声は低く、暗い。気分ではなくそういう声の質らしい。そのポケモンは何か考えているようだった。

 

「……キノミ」

 

「きのみ? きのみがどうかしたのか?」

 

「…………」

 

 ふらふら揺れたかと思うと近くの枝から実を取ってきた。

 アオイは、正直なところ嬉しくない。

 

「知ッテいるか、森のきのみはまずい」

 

「知っている。それが――」

 

「セツジツだ」

 

「セツジツ、切実、切実か。あ、ああ、うん……。だが、それだけのためにこんなことをしたのではないだろう。……え?」

 

 アオイは自分の状況も忘れて訊ねていた。

 それまで慎重に言葉を選ぼうと思っていのだが、すっぽりと抜け落ちていた。

 

「セツジツだ」

 

「切実」

 

「セツジツ」

 

「では、おいしいきのみを求めている――という認識でいいだろうか?」

 

「…………」

 

 そのポケモンは頷くような動きをした。

 

「……近々、私の家の畑にきのみの木を植える予定がある。それを食べたら――どうだろうか。私とこの子だけでは余るし、ジャムにするにも限界がある。もちろん、君がよければの話だが」

 

 アオイの提案は受け入れられたようだった。

 まるで夢のなかのように曖昧で薄ぼんやりとした感情を持てあましながら、彼は自分をかえりみた。このポケモンは驚異的だが迫る脅威ではない。それが分かっただけで十分だった。

 

「それから、もしよければの話なんだが、このぬかるみから出るのに手を貸してくれないか。私は見てのとおり脚が不自由なんだ。これが動かないとどうにも……」

 

 ゆっくりであったが、たしかに意志をもっている動きでそのポケモンが後ろから車イスを押した。

 

 電源を入れ直し再起動をかけると車イスの車輪が動いた。今度はぬかるみにはまることなく、土の上を転がった。ミアカシが嬉しそうにとびはねて膝をよじ登った。

 

「ありがとう」

 

「……オ前、思っていたよりもモノわかりのいい人間なのだな」

 

「ポケモンからそう言われるのは初めてだ。……約束は果たすよ。近々、畑へ来てくれるといいんだが」

 

 そのポケモンは頷く。アオイも頷きを返した。それからそのポケモンは森の緑、その深い暗がりに溶けるように姿を消した。

 

 ふぅ、と息を吐く。肩のあたりが強ばり首がうまく動かせなかった。かなり緊張していたらしい。

 ミアカシが気遣いをしてくれて痛みを訴える左肩を避けて頭の上にのぼった。

 

「不思議なポケモンだ。私の知らないポケモンだった……」

 

 言葉が通じる、という事態がアオイの常識に大打撃をあたえている。頭をコメットパンチされた気分とはきっとこんな感じに違いない。肩や首の痛みと脚についた泥がなければ白昼夢のように感じていたかもしれなかった。

 

「……戻ろう。ミアカシさん」

 

「モシ!」

 

 そう判断したのはアオイの気分が優れないという理由であったが、ミアカシのことも気がかりだった。

 

「大丈夫……ではないのかな、家でゆっくり休もう」

 

 謎のポケモンとの遭遇はミアカシにとっても負担を感じることだったのだろう――いや、アオイの恐れや不安が彼女には慣れないものだったのかもしれなかった、見上げて見える頭の炎が普段よりも小さくなっていた。できるだけ楽しく心躍るようなことを考えながら、来た道を戻った。

 

 アオイの頭のなかは、ここにきたことが良いことか悪いことか、判断材料を探して思考の焦点が定まらなくなっていた。

 

 幸いにも深く考えるまでに至らなかった。森を出ると、「ふほおおぉぉおっ!」という素っ頓狂な叫び声に驚かされた。

 

「いた!」

 

「ナ、ナタネさん!? どうしたんです、その、あの……私が、何か?」

 

 指をさしてとび跳ねるナタネはミアカシを見つけるとまた叫び出したくなっているらしかった。それをグッとこらえ、彼女は早口で言った。

 

「『森、危ないから気をつけてね!』って言いたかったんだけど……もう探検は終わったんだね」

 

「え、ええ、まあ……収穫もありましたし、あっ」

 

 アオイは迂闊に口を滑らせた。ナタネがミアカシに気を取られ、それに気付かなかったのは幸いだった。

 

「そう! また森に入る時は気をつけてね! じゃあね!」

 

「え、ええ。ご心配をおかけしました」

 

 慌ただしく彼女はまた森のなかへ駆けていった。

 

「なんだ、忙しいひとだな……」

 

「モシ……」

 

 ミアカシもことあるごとに叫ばれてすこしだけ疲れた「モシ」を繰り返した。

 

 

 

 

 家に戻るとラルトスが手持ちぶさたなふうでカーペットのうえでごろごろと転がっていた。しかしアオイ達が入ってくるなり衝撃の余韻と気疲れの気配を感じ取ったらしく気怠そうな鈍い動きになってしまった。

 

「甘いものでも食べれば落ち着くよ。ケーキは無理だけど」

 

 アオイは温めたモーモーミルクにミツハニーの蜜を混ぜてミアカシ用の小さなカップに注いだ。彼自身も自分のカップを持ち出してきて一口飲む。すこしだけ心が鎮まった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 この日もまた夢を見た。

 

(……夢だ)

 

 ただ、この日の夢はこれまでとすこし違った。

 

「アオイ、どうしたの?」

 

 パンジャが隣にいた。

 

「…………」

 

 夢のなかで、アオイは目を開いた。

 

 香りがある。研究室のなか、真新しい書類の香りがあった。

 

 重ねられた手には温度がある。いつもアオイのものよりちょっとだけ熱い彼女の手の温もり。ふたりの手はつい先程まで話をしていたゴシップ雑誌のうえにある。

 

 はっと息を呑む。

 

 喉に張り付くような湿度がある。赤い髪をほのかに湿らせる梅雨特有の空気だ。

 

「なんだ……ここは……?」

 

 アオイの目はたしかに現実をみているはずのに、その現実がまるで嘘じみている。

 

 ここに来るまでの出来事が抜け落ちてまるで分からないのだ。正確には「どうしてこうなっているのか」が分からない。アオイは思い出そうと顔をしかめた。温めたモーモーミルクを飲んで、ミアカシとラルトスの食事の用意をした後、部屋に戻りそこで転がったのだ。それからきっと眠ってしまったに違いない。森へ行った自分はずいぶん疲れていたから。

 

(眠る。そうだ。眠っていた……はずだ。そうだろう、だって私は――)

 

 整合性のとれない現実にアオイは正気を疑った。

 その手を握る彼女がいる。

 

「アオイ? どうしたの、ぼぅっとして……」

 

「パンジャ……? どうして、ここに? なぜいるんだ? 君は、だって君は、シッポウにいるはずだろう……?」

 

「ここがシッポウだ。どうしたの、アオイ。やはりどこか具合が――?」

 

 シッポウ。

 懐かしく――ありえない故郷の名前にアオイは立ち上がって窓の外を見た。

 研究室から見える景色は変わらない。ふたりの席は窓に近かった。窓に近づくと蒸し暑い夏の、喉を焦がすような熱気を感じた。

 

(待て。待てよ……いま、私は……)

 

 アオイの目がおそるおそると下がる。グレーのズボンを穿いているのは自分の脚だ。そしてその脚はいま、立っている。

 久しく忘れていた感覚だった。視線が普段より高い。アオイは驚いて椅子を倒した。

 

「立ってる……私が、歩いてる……?」

 

「どうしたの? さっきから、おかしいよ」

 

「見てくれ、パンジャ! 歩いてる! 私がどうして歩いているんだ?」

 

 両手を広げアオイは問いただした。

 

「なに? 哲学の問題? 怪我していないんだから歩けるのは当然だろうって……え?」

 

「怪我ならしただろう! とぼけているのか!? 忘れたなんて言わないだろう!」

 

 ここがいつでどこなのか忘れてアオイは怒鳴った。『彼』とのことをパンジャが忘れるとは思えなかった。それなのに、こんなくだらない嘘をつく。――それがアオイを怒らせた。久々に出す大きな声は掠れて裏返り、まるで金切り声だった。

 

「け、怪我なんてしていないだろう。忘れてもいない。それともなにか、アオイはわたしの知らないところで怪我をしたのか?」

 

「君の目の前で金属破片が貫通したはずだ! 脚を……だから私は! いや、君が私に教えてくれたんだ! 君こそおかしい。なにを言っているんだ?」

 

 パンジャが当惑顔で椅子を元通りに起こした。アオイはそれに座るとズボンの裾をめくっていった。

 

「ちょっと待て、アオイ――」

 

「だから、この前の事故で脚を怪我してそれから動かな、く、なっ――」

 

 傷のない自分の脚を見てアオイは今度こそ混乱した。

 

(傷も火傷も、ない――)

 

 アオイの脚は、炸裂した金属片によって切り刻まれた。

 

 たいていの怪我は直せる時世だが、ものには限度があり、初期治療が大切だ。

 本来痕をのこさないように治療に専念する時期に、家に引きこもり事故原因究明委員会に提出する書類を作っていたアオイの傷痕は、もう消せない状態にある。

 脚が動かないのは心の問題だが、『表面』上の傷跡も目に見えるものとしてアオイのなかに居座り続けている。――はずだ。

 

 消せないはずの傷がない。

 

 物理的にありえない現象にアオイは口を押さえるとズボンから手を離した。

 

「なんだ、これは、どういうことなんだ、これは」

 

「怪我なんてしていないだろう? どうして自分が怪我をしたなんて……?」

 

「違う、違うんだ、本当に怪我をしたんだ、だから私は歩けなくなって、『彼』は――」

 

 いなくなったんだ。

 

 アオイはたまらなくなってあちこちを見回した。

 

 そして。

 

「なっ――」

 

 研究室の壁につり下げられたカレンダーを見て、凍った。掌から汗が滲み、背中にはぞわぞわと寒いものが這い上がってくる。

 

「そん、な……はずが…………」

 

 

 

 

 

  7月 14日

 『彼』がいなくなった日のことを、私は生涯忘れることはないだろう。

  暑い夏の、身を焦がした――あの日のことを。

 

 

 

 

 

 書きかけのまま放置されている日記の一文が蘇った。

 

 この日は、そう――『あの日』なのだ。

 

 どういう理由か、夢か、現実か、分からない。

 

 しかし、アオイは『あの日』にいた。

 

 呆然と目の前を風景を見ていた。それが何なのか頭に入ってこなかったけれど。

 

「アオイ、よっぽど調子が悪いようだ。今日のところは休んだらどう?」

 

 それはダメだ。――アオイは滑るように離れていくパンジャの手を止められなかった。

 

「午後の研究はわたしがやるよ。装置を使って計測するだけだから時間もかからないだろうし」

 

 違う違う。ダメなんだ。その研究はうまくいかないんだ。――足音が遠ざかっていく。

 

「アオイは休んでいて。わたしがやるよ」

 

 その研究は失敗してしまうんだ。――アオイは弾かれたように振り返る。

 

 

 

 

 そして、目覚めた。

 

「はっ、はっ、はっ――」

 

 目の前がぐるぐると回り、気持ちが悪い。息が切れて喉が痛む。喉の奥が焼ける感覚にアオイはなんとか寝返りをうつと夢でそうしたように口をおさえた。

 

「うっ……」

 

 嘔吐まで至らないえずきが気分を最悪に突入させた。だが息をするたびに回転する感覚がおさまり、マシといえる状況に変わっていく。

 

(夢――)

 

 あれは、研究室の夢は――ただの夢だった。

 

 アオイは目を閉じて深く息を吐いた。

 

(事故当日に戻れたら……なんて、くだらない妄想をしたものだ)

 

 無意識の願望が夢に現れたのだろう。アオイは心底自分が嫌になって髪をくしゃくしゃに掻いた。

 

 虚ろな目を向ける。カーテンの隙間から見える天気は曇りだった。

 

 夕方からどれくらい時間が経ってしまったのだろう。起きなければ……。

 

 ミアカシとラルトスのことが気がかりになりアオイは起きて歩こうとした。

 

「ふべっ!」

 

 上体から床に落ちて顔を強かに打ち付けた。むちゃくちゃに痛い。

 

 痛みがある限りこれが夢ではないのだと――アオイは感じた。だが、夢かどうか確認する術はもっと賢い方法があったはずだ。

 

「うぅぅ……惨めだ、ばかなんじゃないか、私は」

 

 どうして歩けると思ってしまったのだろう。車イスにすがりついて体を起こすとようやく座ることができた。

 

 電源を入れ、車輪を動かす。

 

(たかが夢に動揺しすぎだろう……)

 

 そう、夢。

 

 夢なのだ。

 

 夢は夢で夢なのだ。

 

 それもとびっきりの『悪い夢』。

 

 アオイはリビングに繋がる扉を開いた。

 

「イィ夢見れたか?」

 

「ああ、最高だったとも――はっ?」

 

 人間ではない声にアオイは目を瞬かせた。

 

「えっなっ……どうしてここに」

 

 咄嗟に口をついた平凡な言葉。

 

 しかし、カチリと頭のなかの歯車が動き出した。夢から繋がれた記憶が現実と絡み合い、結論を弾き出す。

 

「いや――違うな、思い出した。思い出したよ――」

 

 

 

 

 

 

 

 アオイは、このポケモンのことを――を恐らく――何らかの形で知っている。

 

 

 

(夢を見せた意図はこのためか……)

 

 

 

 遭遇、あるいは邂逅か。

 

 ミアカシやラルトスとは違う意味を持ち、今後の彼の人生に大きな影響を与えるポケモンがそこにいた。

 

 

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