「いいな。……俺も、退職したら畑やるかな」
午後。
気分よさげに鳴くスコルピが足下で土をほじくり返す。
いつも部屋の中での生活だからなぁ……。
こてこてと畝を作りながら、コウタは罪悪感を覚えたようで、よく整えられた眉を寄せた。彼らがはしゃぐ分、申し訳なく思う気持ちが強くなるのだろう。私もそうだった、とアオイは思い出していた。
「……退職したらってな。俺の場合、いつの話になるんだ?」
「夢中になっていればすぐだ。私もそうだった。いずれぱったりと絶えるように終わってしまうものだ」
悲観しているわけじゃない、とアオイは言った。
「未来は選択の連続だ。研究室に残り続けるという未来から分岐した、これもまたひとつの未来というわけだ」
「もっと分かりやすく、もう一回」
「『毎日が日曜日で最高だぜ』って話だ」
「それなら俺にも分かる。お前ってば、まわりくどいんだよ」
「私だってたまには格好付けたい時だってある」
コウタは額の汗を拭うと畑の隅に座るアオイを振り返った。
「よーし、アオイ、終わったぜ!」
「ああ、お疲れ。そろそろ苗が届くはずなんだが……」
車イスから降り、畑の隅で燃えるゴミの袋に雑草を入れていたアオイは、作業をヒトモシのミアカシに任せるとモバイルを確認した。
「チャチャさんからはまだ……連絡が無いな」
先ほど聞こえたトラックの音は支援センターの別の車両だったらしい。
「んじゃ、それまで俺らは暇なわけだ」
「そうなるな。こっちももうすぐ終わるから……な、なんだ」
ニヤニヤと見つめてくるコウタから視線を逸らせず、アオイはモバイルを隠すようにポケットに突っ込んだ。
「俺らって暇なだよな」
「だ、だから、なんだよ……」
「昼間、手紙でどうこうって言っていたけどさ。んな面倒くさくてお前がやりそうにないことはやめとこうぜ。無理せず今、電話しよう」
「『無理だから手紙にしようぜ』って話になったんだ。ちょっと熱があるんじゃないか?」
「そんなに嫌なのかよ……」
「嫌じゃなくて、こう、心の整理の問題だ」
「そっか? まあ、これ以上首突っ込むのはやめておく」
「そうしてくれよ。パンジャは私にとって特別な人なんだ」
「へぇ。そういう意識があったんだな」
「ああ、もちろん。私に欠けた専門分野を持っている。ふたりでやれば作業効率はグッと上昇する」
「……マジで言ってるわけないよな」
「もちろん。彼女には幸せになって欲しいからね。……もう二度と私の研究に付き合う必要は無いんだ。私が始めたことなのに彼女が負うことなど、何もない。しかし幼なじみだからと甘えるようにしてずいぶん長い時間をもらってしまった……」
「アイツだってまんざらでもなかっただろうさ。だって、アイツってお前のこと、わりと好きなほうだろ」
本来ならば、学生の時にしておくべき会話をふたりはしていた。
それもこれもアオイとパンジャの距離が近すぎたのだ。コウタはそう思う。けれどアオイは首を振った。
「私は彼女の好意をいただけるほどできた人間ではない。それに、私は……彼女に何も……彼女の体を……」
「そうか? アイツの男性観のハードル上げたんじゃないのか? 俺は知らないぜ?」
「そ、そんなことはない。あるか!……私ってクズっぽいキャラだったはずだ!」
「クックック。おーい、優等生様が何か言ってるぜ!」
えー、マジでー。
チョロネコの目は雄弁だった。決してアオイは(くそぅ)なんて思わなかった。
「まったく……」
「おい、アオイ、モバイルが鳴ってるぜ」
「ああ…………もしもし、アオイですが。チャチャさんですか、ええ、いま裏の畑にいます」
通話を切ったのを確認し、コウタがアオイに用件を訊ねた。
「いまから来てくれるそうだ。さて、真面目な話をしてもいいか?」
「おう。なんだ、藪からアーボックだな」
「ライモンに戻る前にシッポウ、いや、パンジャのところに寄って様子を見てくれないか?」
「おいおいガキじゃないんだぜ。大丈夫だろ」
「そうだ。大丈夫だろう。だからそれを確認して欲しいんだ」
「……ふん。ま、いいけどさ。お土産を渡さないといけないし、そうだ、俺が手紙を届けたっていいんだぜ」
「それは遠慮する」
「チッ。こっそり中身を見ようとしたのがあっさりバレちまったよ、チョロネコさん」
「にぁーっ」
コウタに可愛がられてごろごろ喉を鳴らすチョロネコを見て、そういえばミアカシさんはどこにいったのかとあたりを見渡すとラルトスと謎の通信をしていた。彼らは本当に仲が良い。
◇ ◇ ◇
「5センチ、いや10センチ……間隔でやってみましょう」
チャチャが持ってきた種を等分し、畝に植えるための穴を作っていく。
ミアカシの小さな手にもぽつぽつと黒い種が落とされた。
「それを、ここに埋めるんだよ」
アオイがすぐそばまでやってきて木の棒で指し示す。
じりじり。
緊張の面持ちでミアカシが穴に近づき、ささっと種を落とし土をかぶせた。その間、約3秒。
ミッションをやり遂げた顔でミアカシが「モシ~」と気持ちのいい溜息を吐いた。
「ごくろうさま」
「おい、あと30回はやってもらわなきゃ」
「だそうだですよ、ミアカシ嬢」
「モシ!」
頼もしい声を上げてミアカシがコウタから種を受け取った。
頼むよ、と声をかけるアオイは車イスの上だ。
「むにゃあ」
チョロネコが膝の上にやってきた。前肢をこねこねと揉むように動かしている。
「慰めてくれているのか?」
「にゃあ」
その声は喜色を多分に含んでいる。
種まきに参加できないアオイを慰めに来てくれたのだろう。普通ならそう思うところだが。
「私の前掛けを足拭きにしないでくれよ」
すなかけでもするように尻尾を向けて後ろ脚を動かすチョロネコを抱え上げた。
そんな顔で鳴いたってダメなものはダメなのだ。
◇ ◆ ◆
種まきは十分もかからなかった。畑とは言っても家庭菜園の枠を出ないものだ。でも、それくらいの大きさでなければコウタ一人で草刈りするのは難しかっただろう。とても時間がかかったはずだ。
じょうろで水をやっているコウタを見つめて、ぽつり。アオイは呟く。
「コウタ、私は植物を育てたことがないんだ」
「ん? そうなのか?」
「ああ」
膝の上でミアカシがすくってくれた小さな土塊を砕いてみた。野菜用の黒土と比べ路上の土は黄土色ですこし力を加えると簡単に砕けてしまう。土の香りがした。とても久しぶりに感じる匂いだ。
研究室を出てからこうした土に触れる機会も自然に無くなってしまった。
「泥遊びもしたことがないかもしれない。それくらい私には馴染みの薄いものなんだ」
「ふぅん……」
自分には思い出と呼べるものがないのではないか。一種の恐怖を呼び起こすその疑問にはフタをしたい。
それにしても、馴染みが薄い。関心が無いわけではない。だが、アオイにとって植物や地面は、できる限り遠ざけておきたいものだ。誰もがこの大地に支えられているのに、おかしなことだ。
「大地は、母に似ている。命の根元だとか生命を育む土壌だとか、そういう次元ではなくてね。私と私の母との関係に似ている」
水を微かに含む土は春の匂いがした。だから母を思い出したのだろうか。
「……とても遠いんだ」
アオイの母は、家庭を顧みる人ではなかった。
自分の研究に熱心でその為ならばきっと全てを犠牲にして捧げ尽くすことができる女性だった。
美しい生き方だ。それを否定することはできない。
だから、せめてアオイもその先にある光景を見ていたかった。母と同じものを見れば自分を納得させられると信じた。信じていたかった。信じさせてほしかった。
(私を捨て置く理由を、知りたかった)
アオイの変化に遊んでいたミアカシが膝の上に上ってきた。
その時に、指先が白くなるほど強く拳を握っていたことに気づいた。
(私を、見ていてほしかった……)
研究に身をおいた理由を今なら認められた。
地面の匂いは母を思い出す。
自分がちっぽけに感じるほど広大であり、憧れる存在だ。
けれど自然は牙を剥くこともある。恵みばかりを与えるわけではない。自然とはそういうもので、母も同じだ。痛みを与える存在でアオイにとっての棘だ。
母は、アオイの大切な人であるはずなのに触れがたい。大切なのに嫌いだ。届かない、近寄りがたい。……相反する感情がもどかしい。
「珍しいな。お前が家族こと話すなんて」
「心にゆとりができ始めたのかもしれない。母は偉大だから考えるのは疲れるんだ」
「何の研究をしているひとなんだ?」
「ポケモンの思考学だ。ポケモンが何を考えているのか、どうコミュニケーションをとっているのか……そういうことを調べているらしい」
「らしいって?」
「連絡をとったのはもうしばらく前だ。研究室も移籍したかもしれない。もう詳しくは分からない」
「ドライだな」
「私の母だ。当然だろう」
怪我があったとして生きてさえいればどんな状態でも大丈夫だと考えていそうな人だ。それを聞くとコウタは「俺は何も言わないぜ」とぼやいた。
「家族はいいものだ」
珍しい形をした小石を拾ってきたミアカシを撫でてアオイは言った。
「ならお前は大黒柱か?」
「家の長だからな、そうなる」
その歳で戸建て持っているなんて、まったく優等生サマサマだぜ。
じょうろの最後の一滴まで黒土に落とすとコウタは口笛を吹いた。
「ちゃんと、育てろよ」
それは野菜のことか、それともミアカシのことか。
恐らく両方なのだろう。
「……言われて初めて大切なことに気付くなんて、もしかしたら人の営みが地を離れているのかもしれないな。私たちは踏みしめて生きているのに」
ははっ。
コウタは笑って、ごく単純なことを説明するように爪先で地面を小突いた。
「踏んでるから気づかないんだろ」
アオイは再び膝の上を飛び出して地面をほじくりかえしているミアカシを見つめていた。
「ありがたみってのは大事だよな。停電があってはじめてトレインの大切さを実感するようなものだ」
「コウタは、何か育てたことはあるのか?」
「子供の時に、アサガオ育てたくらいかな。絵日記の宿題だったか」
そんなこともあったな、とアオイは頷いた。とはいえ記憶に無い。パンジャは聞けば覚えているだろうか。
何気なく隣にあった彼女の姿を探していることに気づくと彼はうつむいた。
「たった今、種を蒔いたのを見て、こんなふうに食べ物ができるのかと感心したんだ」
「お前にも素朴な感情ってのがあったんだな」
「失礼な、と言いたいところだが、自分でもビックリしてる。私はもっと冷たくて乾いた人間だと思っていた」
「お前は大人しすぎたんだよ。ガキん時からさ」
「そうだろうか」
「そうだよ。俺が友達と騒いで怒られている間、お前は何をしてたんだよ」
「本とか、読んでいた」
「俺が消しカスを前の席の奴に投げつけてる時なんてお前は次の学年の勉強をしていただろ?」
「そう、だったか」
「今さらだぜ。俺たちだって、今さらこんな話をしているんだぜ」
「おかしいな」
アオイは、笑った。
たぶん、普通の親友はこんな話はしないものなんだろう。だから『今さら』だ。
周囲と歩幅を合わせるように生きていた自分と飛び石を渡るように生きていた彼と、こんなところで調子がぴったり合うなんて思いもしなかった。
もっと早く話せばよかった。
なんでも話せる間柄だと思っていたが、それは思い込みだったのかもしれない。ただ『話せる』というだけだ。実際に踏み込んだことなんて話してない。
でも、これからは親友らしく『在る』ことだってできたはずだ。
今にして思えばつまらないプライドだった。目を閉じてアオイは微かに笑った。
「ここまで来るのに、ずいぶんな遠回りをした気がする」
「無駄じゃないさ」
コウタは、力強く肩を叩いた。
これまでを否定することなく、これからは受け入れて前向きに。
そういう生き方をしたい。アオイはこの時、素直にそう思った。同時に、母に抱くこの複雑な感情の置き場が見つかった気がした。
どんな感情でも温め続ければ新しい何かが生まれるかもしれない。
これは新しい希望だった。
「コウタ、ありがとう」
「礼なんてな、早いんだよ。バカかお前」
コウタがアオイの座る車イスのハンドルを握った。
「ほら行くぜ。舌噛むなよ」
「ここが綺麗な場所で良かった」
山の稜線を見ながらアオイたちは家を目指す。
ミアカシが戻ってきて彼の腕の中におさまった。
「私の出発点に相応しいところにしたいと思う」
「まったくだぜ。……なんの種か知らないが、枯らしたりするなよ」
「ああ」
緑が深まった森が金色に染まる頃、黄昏にふたり分の影が伸びた。
【更新について】
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