もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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さよなら、君と私の小さな世界

 

 

 

 悪夢から戻ってきたアオイは、ときどき考えることがある。

 夢を果たした後、自分はどうなってしまうのか。新しい研究を続けるのだろうか。アオイと同じように研究を続けているアクロマなら、どうするだろう。燃え上がる情熱を持った青年だ。『ポケモンの力は何によって引き出されるか』というテーマを果たした後、きっと彼なら別の研究テーマを見つけるだろう。

 

 私はどうするだろう。

 

 きっとその時に私は止まってしまうかもしれない、と思う。ひょっとすると研究の完結を待たず母の喪失を迎えた時点で、気力が尽きて何もかも放棄してしまうかもしれない。

 

 ――夢の頂上まで手が届けば、母も私を認めてくれる。私を見てくれる。

 

 その思いがアオイを動かす。動かしていた。

 今日、たった一枚の現実に打ち砕かれるまでは。

 

「あ……あ……そ、んな……嘘だ……うそ……あの人が……」

 

 ヒイロ。遺体回収。喪失。

 ぶつ切りの単語がアオイから現実感を奪っていく。

 嘘だ。信じられない。現実が嘘じみている。

 

(だって、たった30時間前は生きていたのに!)

 

 目の前が暗くなる。衝撃で涙が出ない。ぐるぐると体が回るような感覚に襲われたアオイは、眼前の紙面さえ見えなくなっていた。

 辛うじて段ボールから取り出した太く薄い柄の片眼鏡が、強張るアオイの酷い顔を映していた。

 

「アオイ……? どうしたんだ? ……荷物?」

 

 廊下でヒトモシのミアカシとリグレーがしきりに騒ぐ。その騒ぎを聞きつけてやってきたパンジャが、動かないアオイを揺すった。

 

「どうしたんだ!? アオイ、アオイ、どうした!?」

 

 現実をどのように解釈するか。そのことに気を取られていたアオイはパンジャの声に我に返った。

 

「お母さんが……お母さんが……お母さんが……」

 

 アオイはパンジャに紙を渡した。それを見た彼女が息をのんで体を固くした。

 

「君のお母様が? これは――っ!? い、いや、しかし、これは? これだけか? 他の証拠は?」

 

「やめろ!」

 

 段ボールに手を伸ばそうとするパンジャの手を払ったアオイは、怒鳴りつけた。

 

「触るな! 触らないでくれ! これでお母さんは私のお母さんなんだ! 研究者じゃない、私の、私だけの普通のお母さんになれるんだ……! だから、もう放っておいてくれ……あの人を休ませてくれ……」

 

 パンジャは、段ボールにしがみついて泣き出したアオイの背中を撫でる。彼女も内心が揺さぶられていたが、目の前で激情を露わにするアオイを見て一歩踏みとどまることができた。落ち着かせるように、ゆっくり声をかけた。

 

「分かった。触らない。触らないから、どうか落ち着いて。……でもアオイ。ちゃんと確かめないと。文章では何とでも言える。肝心なことは確かな真実だ。君のお母様が『どうなったか』ということだ。紙袋のどこかに実験の書類が入っているのかもしれない」

 

 パンジャの言及はもっともであり、この場では理想的な提案だったが、しかしアオイはそれどころではなかった。

 ミアカシがアオイとパンジャを交互に見て、パンジャの前で手を上げた。『ちょっと待ってほしい』と言うような仕草に、パンジャは頷いた。

 

「アオイが落ち着くまで待とう。……そばにいようね」

 

 不安そうな顔をしてアオイに寄り添うミアカシは、灯っていた焔を消した。燃やすのには痛々しい感情だったのかもしれない。

 

 彼らは段ボールに泣きすがるアオイに寄り添って経過を見守った。例外は、アオイの頭上を飛び回るリグレーだけだった。彼は段ボールの中身が気になっているらしい。しきりにキュル、ピピピと高音を鳴らした。

「うぅ……お母さんが……そんな……私に会って、未練も何も無くなってしまったのか……? 実験の目処はついていないと言ったじゃないか……! 会う前からきっと後悔すると思っていたが……こんなこと……お……うん?」

 

 リグレーがアオイの頭をノックするように小突いた。

 

「なんだリグレー……あれ、母さんがいなくなったこと……認めたくないのは分かるが……んんん……?」

 

 リグレーは小突くのはやめない。アオイの視界の外でパンジャがハラハラする頃、アオイは鼻をすすり袖で涙を拭った。

 

「ああ、もう……! 何が気に入らないんだ? ちょっとくらい悲しませてくれないか……」

 

 便宜上、彼とする――リグレーは段ボールの中からヒイロの片眼鏡を取り出した。

 耳にかけるツルは幅広で薄い。ふたつに折り畳まれていた。昨日までこの薄いレンズ越しにあった冷徹な瞳を思い出すと新しい涙が零れた。

 

「お母さん……。ああ、本当に……。もう右目は見えていなかったのだろうか?」

 

 レンズに触れないように片眼鏡をリグレーから受け取った。

 目が焼ける何を見たのか。そういえば聞いていなかったとアオイは後悔した。

 

(しかし……だ)

 

 手の中で眼鏡を回し続けるアオイは、思考に淀みを感じている。よく考えてみれば、視力は眼鏡をかけていたということは矯正することができる、ということだ。ほんのすこし見えていたのかもしれない。

 

「……はぃ?」

 

 ヒイロの眼鏡の度は、よほど強いのだろう。そんなことを考えながらレンズを覗いたアオイは間の抜けた声を上げた。

 

「どうした、アオイ?」

 

「度が無い……え? え? どういうことだ……パンジャ、この眼鏡の度は無いよな?」

 

 どれどれ、とハンカチ越しに受け取ったパンジャは裸眼の見え方とレンズ越しの見え方に差が無いことを確認した。レンズ越しなのに、床の板目が歪んでいないのだ。

 ふたりは顔を見合わせて困惑した。

 

「アオイ、誤解しないで聞いてほしい。君のお母様が嘘を吐いたと言うつもりはないが……目が悪いのは些か誇張した表現だったとか考えられないか?」

 

 ヒイロの目について、挨拶程度の会話しかしていないパンジャには判断が難しい問題だった。

 アオイは記憶を振り返り、首を振った。

 

「それは違う。誇張ではない。お母さんは本当に、右側の視界が見えていなかった。私も立ち位置に気をつけるように言われたし、右側を振り向くときは普通以上に首を傾けていた」

 

 しかし、そういう「フリ」だったと言われてしまえばそこまでの話だ。参考程度にしようとふたりは頷き、視点を変えることにした。

 この眼鏡の存在意義である。

 

「君のお母様の生死は話題の棚に上げるとして、ここにある以上、これは予備なのだろう。とはいえ……予め備えるものに、レンズが入っていないということはどういうことか?」

 

 パンジャの疑問に、アオイは苦しい声で答えた。

 

「『使う予定が全く無い物品』ということになる。だってそうだろう。役に立たないのだから。備えですらない。……しかし急ごしらえというわけではないのだろう。片眼鏡はその辺の眼鏡屋で売っているのを見たことがない。これは度が入っていないが、偏光レンズだ。だから光の角度で水色に見える。きっと特注品だ」

 

「なぜ送られてきたのが、これなのだろう? 度入りの眼鏡が送られてくるのなら分かる。それは予備たり得るからな。だが、これは君の推測では予備ですら無いようだ。それでは度入りの予備はどこにあるのだろう?」

 

 ちらりと段ボールに視線を移したパンジャが言う。そこにあるのか。言葉無く問うパンジャにアオイは、不思議な確信を持って首を横に振った。

 

「それは……お母さんが持って行ったよ」

 

 研究者として、目は命と脳の次に大切なものだ。

 考え、実行する、結果を見る。観測に欠かせない目を彼女は既に片方失っている。

 目に関する物であれば何であれヒイロは大切にするとアオイは思う。たとえそれが、使うことの少ない予備であろうとまだ使用価値がある限り、彼女は大切にする。

 

 パンジャが床の板目を数えるように、じっと動かなくなった。

 

「可能性としては最も高い発想だ。妥当性もある……が、実験中に必要のない割れ物を持ち歩くだろうか?」

 

 アオイの意見は「持ち歩かない」だった。

 しかしその瞬間、泣き濡れた思考に乾いた薄氷が差し込まれた。

 

「ああ、いや、違う違う、違う。そうか、アオイ。ヒイロさんは『持って行った』……そう、ヒイロさんは『必要だから』持って行った。まだ『自分が』使うから持って行った」

 

「だが、待て、それでは――」

 

 アオイは言葉を探した。

 その推理が正しいとすると、ひとつ前提が覆る。先ほど棚に上げた話題はまるで無価値になるのだ。

 

「『必要だから持っていった』ならば、お母さんが死んでいないことになるじゃないか……? パンジャ? どういう……ことだ? これは……」

 

「アオイ、結論を急いではいけない。だから……その、つまり……どういうことだ? 生きているのなら、なぜこんなものが届く? 所属先では死んだと思われているのか? それとも『生きている』ことを偽装する必要がある事態に陥っているのか?」

 

「誰を欺くと言うんだ? 私か?」

 

 パンジャは段ボールの送り先表示を確認した。

 

「……アオイ、これは誰から受け取ったんだ?」

 

「先ほど郵送の青年が来た。私よりすこし若いくらいの……」

 

「顔は見たか? 配達の業者はどの業者だった?」

 

「いや、帽子を目深にかぶっていて、暗かったから……顔もマークも見ていないが……」

 

「そう。そうか…………いいや、無駄だな」

 

 パンジャは剣呑な目で玄関先を見つめていたが、やがてフッと目を離した。

 

「何が無駄なんだ?」

 

「今のところ最も確信に近づける方法は、配達に来た青年を捕らえて知っていることを吐かせることだが……いいや、よそう。きっと雇われただけの人だな」

 

 アオイの頭は感情的で熱っぽく、しかもぼんやりしていて、事態の整理ができなかった。唯一、ギリギリのところで冷静さを保っているパンジャの言葉を聞くために、アオイもポケモン達も息を殺していた。

 

「せめて、もうすこし情報が必要だ。――アオイのお母様の研究テーマとは何なんだ?」

 

 その言葉に、アオイは大きく目を見開いた。

 

「『なぜこの世界に人間が、ポケモンが存在しているのか』だ」

 

 口にすればするほど、途方も無い大きな夢の輪郭に押しつぶされそうになる。

 憂鬱に暗むアオイに、パンジャは訊ねた。

 

「どこの研究所に所属しているんだ? 連絡を取り合う前にカントー地方の主な研究所について話をしただろう。君のお母様はそのどこにも所属していなかった。そうだろう?」

 

 アオイは言い訳を投げ捨てて、キレた。

 

「私は……私は……聞かなかった。――悪いか! あれこれと余計なことを聞いて、嫌われたくなかったんだ!」

 

 アオイは我ながらむちゃくちゃだと思いながら、逆上した。

 それを両手を上げてなだめたパンジャが、ひとつ納得を得た顔で頷いた。

 

「責めていない。むしろ、分かったよ。……アオイ、もうひとつ質問だ。わたしがヒイロさんへ挨拶して、君から離れた後に、ヒイロさんは君に『研究室を空けてきてよかったのか』ということを聞いたんじゃないか?」

 

 わたしは歩き続けていて距離があったから、そんな雰囲気の言葉を聞いただけなんだけど。そう言ったパンジャにアオイは答えた。

 

「聞かれたが……!? 私は研究所を辞めたと言った。辞めた原因が怪我の話にもなった」

 

「君が研究所を辞めたことを知らない程度には関心が無かったらしいヒイロさんは、どうしてアオイが研究所に所属していると思ったんだ?」

 

「研究者なら普通そうすると思ったんだろう。何を研究するにしろ金がかかる――」

 

 自分の口をついた常識的な言葉に、アオイはハッと息を呑んだ。

 そして焦点のつかめなかったパンジャの関心に理解が及んだ。

 

『ヒイロの研究資金は、どこから出たものなのか』

 

 この段ボールを送ってきた団体とヒイロの研究資金の出所は同じだろう。アオイはヒイロの研究について語っていた記憶を彼女に伝えた。

 

「フジのご老体……と言っていた。あれは、同僚のような口ぶりだった」

 

「フジ?」

 

「知っているか?」

 

「君が知らないことなら、わたしも知らないよ。けれどご老体というくらいなら、彼/彼女は老人なんだろう。何かしら研究成果がヒットするかもしれない。後で調べよう。ヒイロさんは他に研究所のことを何か言っていたか?」

 

「今のところあの人の目標は因果律の破壊にあるはずだ」

 

 驚愕に彩られたパンジャの顔は、奇妙に強張っていた。アオイを不安げに見上げるミアカシはどうして彼らが驚いているのか分からないのだろう。正直なところ、アオイもミアカシと同じ困惑のなかにいる。因果律の破壊。ポケモンの手を借りたとして――むしろ借りるからこそ――具体的な手段が分からない。

 

「何をどうするつもりか分からないが、いま分かることはひとつ。一個人の事業として不相応であることだ。絶対にどこかの組織に所属していたはずだ。ヒイロさんの実験は、かつて前例の無い実験になったんだろう。機材は巨大で真新しいものが必要になる」

 

 カントー地方において、最も権力を持っていたものは何か。

 現状の維持では無く、未知の可能性に投資することができた団体組織とは何か。

 アオイの脳裏には、嫌悪に曇るマニの顔がチラチラと過ぎった。

 

 思考を回しながら、眼鏡のツルを指でなぞる。その時。爪先がツルに引っかかった。

 

「……? パンジャ、明かりを点けてくれ」

 

「ああ。……これでいい?」

 

 廊下の明かりが灯る。アオイはツルに目を近づけた。指で触らなければ分からず、ピンセットを使わなければ開くことができない溝がある。その中身はメモリーカードだった。

 

「うぅん……。あまり良い思い出が無いな」

 

 ふたりは居間に戻りパソコンの準備を行った。

 パンジャは苦い顔をしてコンセントを差した。

 

「そういえば、君はうっかり私の絶叫音声を聞いていたな」

 

「ああ、とても貴重な時間を過ごしたよ」

 

「そ、そう? 君のそれがどういう感情か分からないんだが」

 

「まあまあ、わたしのことは良い。――問題は眼鏡のツルに入っていたメモリーカードだ。市販の製品の中で最も小さなサイズのようだが」

 

「露骨に話を逸らすな。後でちゃんと話をするから、逃げないでくれよ。……さて、これだ。わざわざツルの中に隠しているのだ。考えられることは2つ。肌身離さず持っていたいほど大切なデータか。隠さなければならないほど重大なデータなのか。……どちらだと思う?」

 

 パンジャはパソコンを立ち上げ終わった後で、手をすり合わせた。考え事をする時の仕草だった。

 

「ヒイロさんが根っからの『研究者』なら手放したくないほど大切なデータだと思う。でも、わたしは、ヒイロさんが君に見せたいデータなのだと思う。……アオイがヒイロさんのことが好きだってことは、きっとヒイロさんも分かっているんでしょう? 実験にしろ……その……最悪なことになっていたとしても、何かを伝えようと思ったのではないかな」

 

「私は母のことを……そんなふうに思えていたのかな」

 

 アオイは短いロード時間を、流し見した。

 長い間、離れて暮らしていたので胸に抱える思いの温度に慣れない。母への愛とは、これなのか。この胸にあるぬくもりがそうなのか。

 シャツのボタンを引っ掻く指を、パンジャが止めた。

 

「自信を持って、アオイ。君がとても大切にしていることを疑ってはいけない」

 

「パンジャ……」

 

「大切だから、大切にしているんだ。無くしたらきっと後悔する」

 

 隣に座るパンジャが、自然に体を寄せた。恐怖に竦み、傷ついた心をひとりで持てあましているアオイにとって、その温度はささくれを癒やした。

 

 心配そうに近付いてきたミアカシが、アオイの手をちょんと引いた。小さな所作に、アオイは揺さぶられた。

 

「最近……涙もろくていけない……悪夢から戻ってきて、ずっと、こんな調子だ……」

 

 ミアカシの焔がポッと灯った。段ボールを開けてからずっと消えていた焔だ。それがきっかけでアオイは顔を覆って泣き出した。

 

「ああ、だめだめ……こうしちゃいられない……データ、確認しないと」

 

 ぐしぐしと袖で顔を拭いたアオイは、カードを押し込んだ。

 

 データは、もっとも簡易なメモ帳ファイルのデータがひとつだけ入っていた。作成期日は、アオイとヒイロが再会した日だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 私の名前は、ヒイロ・キリフリ。

 このデータは、アオイ・キリフリが受け取ることだろう。これは研究レポートでも論文でもないので、好き勝手に順序立てずに書くことにする。まあ、時間のあるときにゆっくり見るがいい。

 

 さて、私がこのファイルを書き始めたのは、お前と再会して数分後のことだ。そして、これが確認できる頃、私は死んだことになっているだろう。では、本当に死んだのか? んなワケない。先も述べた通り、私には果たすべき研究テーマがあり、叶えるべき夢がある。あの場では監視があったので、全てを話せなかった。ゆえにこの資料を作成している。

 

 どうして、このような事態になったのか。さぞ困惑していることだろう。――私はお前との会話でいくつか嘘を吐いた。許せとは言わない。「察せよ」と言いたいところだが、ノーヒント状態であることを思い出した。そのため丁寧に書き綴るとしよう。

 

 結果を誤解を恐れず言うならば、これは私が焦るあまり冒した自業自得なのだ。

 

 研究にはとにかく金が入り用だ。研究者ならばいくつか工面する方法がある。……研究室に入ることができればよい。同じ志を共にする仲間がいればよい。スポンサーがいて用が足りるならばよい。

 

 いずれかの方法で済んだならどれほど最短を進めたはずだろうか。私は過程で発生する苦労を惜しまないが、正攻法で済めば、せずとも済んだ苦労を憎まぬほどお気楽ではいられない。お前にも指摘されたが、私にはとにかく時間が無い。

 

 しかし、私の研究に金は集まらない。なかなか人に理解されないからだ。(教祖にならないかと逆アプローチをかけられたことは数度ある。もっとも最終的にあらゆる生物の幸福を定義するという点でのみ、私は似た立場に成り得るかもしれないが、私が発見し布くものは生物にとって生存の故を解明する絶対定義であるため、相対主義の幸福論とは相容れないと判断した。)

 

 私の研究資金について語る前に、ひとりの共犯とも言える研究者について話さなければならない。

 さて私の研究に転機が訪れたのは、今から15年前。イッシュの家を出た時分にあたる。

 資金が必要な私のことをどこからか聞きつけたフジ博士だった。

 

 フジ博士は、とある組織に所属する研究者だ。私を引き抜き、まあ、スカウトをした人物だ。

 

 ところで滅びをもたらす睫の話は知っているだろうな。東西南北の研究者の間で語られている、あの噂話。火の無いところに煙は立たないとはよく言ったものだ。火は確かにあった。何なら燃えた証拠まであった。

 

 滅びの睫とは、ミュウの睫――の化石だ。

 

「オリジナルは焼失した」とフジ博士は言っている。研究室内では疑う目も多少あったがそれは後の研究が不在を証明した。ミュウの後継機を作るという、まるで夢のような話だ。……くだらぬ仮定の話だが、もし、まだ睫の化石が存在していたら彼はお前達の『蘇生論』に齧り付いたことだろう。再びミュウを探す手間無く、DNAの全てを解き明かせるのならば、その後の研究の手間が省ける。

 

 ここからは事実の話。

 フジ博士の専門分野は遺伝子研究だ。しかし研究目標は死者の蘇生だ。ずっと昔に死んだらしい「アイ」とかいう娘をどうしても取り戻したいらしい。そのためにすべてのポケモンのDNAを持つとされるミュウを復元させようとしている。

 

 なぜ死者の蘇生に、ポケモンであるミュウが必要なのか? これは私の目標と同じだ。人間の持つ科学力では、目標に届かない。困難を打破するため、根源であるポケモンを求めたのだ。

 

 では次になぜそのポケモンを探しに歩かないのか。そんな疑問を持つはずだ。

 

 ミュウは世界各地に目撃情報がある。その数は少なくない。カントー地方しかり、はじまりの樹しかり……。だがついぞ捕獲したという情報は聞かない。存在の稀少さが困難の壁を高くしているのだ。

 

 だから、博士は発想を逆転させた。捕まらないのならば『ミュウを創り出す』ことにしたのだ。

 

 全てのポケモンのDNA情報の全てを持つポケモンをミュウとするなら、全てのポケモンのDNAを持つ生物を成立させることができたなら、それはミュウになるのだ。

 

 カントー地方を中心にポケモンを強奪している組織を知っているか。その目的が分かっただろう。やみくもに集め、悪だくみに使うのは表向きの方便に過ぎない。全ては人間の手でミュウを創り出すための『過程』なのだ。

 

 ここまで語れば分かるだろう。――私は、ロケット団に所属している。

 

 私にはどうしても資金が必要だった。私の所属した組織が何を行っていようと誰を害そうと私は知らない。後悔もしていない。組織が生みだした不幸よりも、私が未来に約束し生みだす幸福のほうが多く、素晴らしく何より優れているからだ。だから私には関係無いことだ。

 

 

 

 

 ――と。ずっと、そう、思っていたかった。

 

 

 

 

 私はお前に嘘を吐いてしまった。

「胸を張れ」と、そんなことお前にを言えるほど私は優れた人間であっただろうか? 『未来のために現在を犠牲にする』とは聞こえは良い。正しい行いだ。あらゆる困難を打倒する英雄として仕方の無いことだろう。だが私の犠牲にした者の中に、運良くお前がいなかったから犠牲にできただけなのだ。ただ一つの例外で瓦解する決断ならば、それは私の身命を捧ぐに値しなかった……。

 

 私は、自らの研究テーマと夢に対し真摯でなければならない。過去現在のあらゆる判断において真摯でなければならなかった。ゆえに手段は選ばなければならない。私は、まだ英雄ではないのだから。

 

 さてロケット団では、博士も私も堂々とこのテーマを掲げていたわけではない。私の研究の表向きは、なんと『タイムトラベル』になっている。(正直、名付けたフジ博士のセンスにはツボる。 無論、原理的にできないわけではないが、元の世界へチャンネルを合わせることは演算装置の出来によるため、外の世界へ出た後で、外部の演算器に同等以上の性能が無ければ帰って来れない可能性が非情に高い。)……もっとも、片道切符であることはお偉方にバレるまで内緒だ!

 

 私の目標到達には、世界の『外』の目が必要だ。不確定な世界線を不確定なまま、可能性を閲覧する必要がある。

 

 以前の予定では、可能性を閲覧する『目』の機械を作り、それを世界の外側たる反転世界、通称『やぶれた世界』に放り込み、近似世界の未来へ座標を合わせる――予定、だったのだが。

 

 どうしても私は待てなかった。

 

 右目はその時に失った。生身の人間が可能性の閲覧を行うには特殊な光学フィルターが必要だったらしい。実験前から分かっていたはずのことだったが、私は覗き込まずにいられなかった。「if」の可能性に取り憑かれたのだ。――私の作成した高密度演算用装置が、那由他にある未来の『近似』値を導き出した。我々が住まうこの世界に近しい未来の情報を見えるかもしれない。それだけで私は堪えきれなくなってしまった。私の右目は、たしかに未来の光を見た。可能性の閲覧、その目標に触れたのだ!

 

 しかし、今思えば、これらは正しい行いではなかった。

 目標に迫る最短だったかもしれない。

 それでも、きっと組織を利用することは正しくなかった。

 

 私はロケット団をやめることにした。

 

「アオイのため」、「世界のため」を思う精神は何にも代え難い尊いものだ。しかし、その素晴らしい結果を導くために反社会的な組織に属することは、その精神を貶めることになるだろう。不正な手段で目標を達成したとして、私はお前にその成果を誇れない。胸を張れと言った手前、まずは自分がそれを成すべきだ。親ができないことを子に諭すのは愚かなことだから。

 

 以上のような決意をした私に、問題が発生した。

 やめようとしてやめられるのなら、多くの一般人を巻き込んだ犯罪組織になっていないのだ。ロケット団は基本的に終身雇用制だ。カントー地方の悪しき風習だと私は再三言っているのだが、どうやらカントー人にとってはそれが普通らしい。ともかくも、マフィア化している組織に辞表を送るわけにはいかない。先んじて消されかねない。

 

 穏便にやめるため私は考えた。そして閃いた。アオイのように事故を起こせば良いのだと!

 

 

■ ■ ■

 

 

 アオイは文章の途中だったが、スクリーンから目を離した。

 文中、涙ぐむこともあったのだが。

 

「なあ、パンジャ……」

 

「な、なにかな!? ア、アオイ?」

 

「……あの人は、本当に、とことん過程を尊重しない! わりと取り返し無しのつかない時点で気付くなんて、血は争えない……!」

 

「誤りに気付いただけよかったじゃないか! よか、良かった、良かった……? 良かったじゃないか? んん、ん?」

 

 次第に疑問が増えていくパンジャは、アオイを励まそうとしてくれていたが、次第に彼女もワケが分からなくなってしまったらしい。しきりに天井へ視線を飛ばした。そして。

 

「ええと、その、ああ、あれだ! 死ぬつもりはなさそうだった、ということが分かって良かったじゃないか。どうやら事故も故意に起こそうとしたものらしい」

 

「……私を見て事故を起こそうと思った、という点で私の地雷を満遍なく踏みにじっていった。あの人は過程だけでなく人の心も尊重していないらしい。研究者だからといえばそうだが……」

 

「今度会ったら一発殴っても許されると思うよ」

 

「ナイス・アイディアだ。それはいい。考えておこう」

 

 すっかり涙も引いた。アオイは手の甲で熱い目元を撫でた。

 

「しかし……お母さんはマフィアの金に手を出したのか。だから、うかつに研究室のことを話せないし、検索しても出てこないわけだ。なるほど」

 

「手段選ばなさすぎじゃないかね。いや、これ以上は我々にとってもブーメランになるかもしれないからやめておこう」

 

「きゅうしょにあたる……」

 

 血は争えないし、拭えないらしい。

 アオイが胸を押さえるフリをすると、ミアカシも真似をした。ほんのすこしだけ微笑ましい気持ちになったところで、アオイは画面の続きを読んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 私がロケット団をやめる理由は、もうひとつある。

 

 高密度演算装置の完成をもって私の研究には、ひとつの区切りがついた。当然の如く次のプロジェクトに駆り出されることになるのだが、その次のプロジェクトは私の信条に反するものだ。フジ博士の研究テーマは『最強のポケモンを作ること』。その研究が、実験段階へ動き出す。現在確認されているほとんどのポケモンのDNAの採取に成功したのだ。

 

 ミュウを造ること自体は、正直なところ、私にとってどうでもいいので好きなように造れば良いと思う。だが、その礎にポケモンを据え手を加えることは許しがたい。メタモンが可哀想だ。

 

 私はポケモンが好きだ。彼らもこの世界の仲間だ。人間にそうあれかしと望むよう、私も彼らを望もう。いずれも幸福であらなければならないと思う。

 

 今回、お前と再開せずともいずれ私はロケット団をやめていたかもしれない。しかし、現在の『私』が最善で最良なのだと感じている。自らを省みること無くロケット団をやめたところで同じ過ちを繰り返しただろう。

 

 さて、偽装といえばオーベムの出番だ。生態の観察のため、それと私にとって不都合なことを覚えている奴らの記憶修正を行うために手を貸してくれている私の友人だ。『爆発が起きた後に私が行方不明になった』という記憶の植え付けをする彼らの力に加え、実際に爆発を起こすため現在片手間に爆弾を作成している。これまで私が作り上げたものを破壊する。実に憂鬱な作業で、今は手がなかなか進まない。

 

 これに関して私には悩み事がある。

 

 ロケット団をやめることは、これまで作り上げた高密度演算装置を捨てることに他ならない。これも爆破で完全に壊れることだろう。

『作り直せばいい』と思うか? 設計図は私だけが知っている。私の終焉と共に演算装置もお終いだ。もちろんこれは冗談でもなんでもない。

 あれは私のための、私の夢だ。誰にも触れさせない。誰かが触れるのなら無くなってしまえ。……お前は墓碑地下で傲慢に飼い慣らされた尊大な夢を笑うが良い。今まで機密情報だ何だと隠し通してきた甲斐があったというものだ。

 

 たとえラボを爆破したとして私だけは、何も問題ないのだ。肝心の情報は私が持っている。ただ……所詮、機械である。また作り直せば良い。……私も実際そう思うのだが、あの演算装置を思う度に後ろ髪を引かれる思いがする。

 

 アレはお前に捧ぐべき執着を注ぎ続けた『結果』だ。

 

 破壊すべきそれを前にした時、私はどのような行動をとるのだろうか。推し量ることができない。私は本心のところ自分で作り出した演算装置を使いたい。ドローンに頼る外界の『目』など本当は使いたくない。

 

 演算装置を作った手は、組織の闇に汚れた手だった。それでも、上手に汚し続けた手だ。どんな手垢に塗れていようとここまで辿りついた私の成果だ。ロケット団という組織に属し不正に得た成果だろうと私の情熱は何の曇りも陰りも鈍りもない。私は、壊す前にもう一度だけあの装置を使ってみたい。

 

 

 これから爆弾を作り終え次第、私は最後の実験に挑む。

 外の世界へ『目』を放る試みだ。

 

 

 これは失敗が約束された実験だ。

 

 

 しかし私は実験の隙を突いて、反転世界へ身を投げるかもしれない。――いや、分からない。いざとなれば恐怖に足が竦んで、やめるかもしれない。分からない。今の私は感情的になっていて論理的な思考が阻害されている。混乱しているのだ。あちらの世界はどうなっているのか分からない。恐怖がある。それでも私はその時になったら、お前と捨て置いた時と同じように最後は自分のやりたいことを貫くかもしれない。

 

 

 

 どうしても、私は、私の『目』で真実を知りたいのだ。

 

 

 

 ……さて意外なことに話が長くなった。

 最後にひとつ。

 

 アオイ。お前との会話はなかなか楽しかった。また会おう。愛しているよ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 文章を読み終わった後で、ふたりは段ボールの中を開いた。

 なかには薄汚れた白衣が入っていた。

 実験で汚れてしまい、洗濯に出すのが億劫だったのだろう。紙袋の中に無造作に詰め込まれたしわくちゃの白衣を、ひとつ手に取った。抱きしめると薬品に混ざり、母の匂いがした。

 

 最後の紙袋を取り出すと段ボールの底に、1枚の写真が貼ってあることがわかった。

 

 不敵に微笑むヒイロ――彼女に並ぶのは、堅い表情の車イスの老人。恐らく、これがフジ博士だろう。白髪に鋭い眼光の研究者だ。その光は往年と変わらないものなのだろう。ヒイロに認められた、唯一の研究者だ。張り付けられた写真を手に取った。

 

「…………パンジャ」

 

 静かに名前を呼ばれた彼女は、力なくキーボードに置かれた彼の手に触れる。

 涙に潤むアオイの瞳が、大きく見開かれていた。

 

「私達の悪夢の研究は、ほんのすこし、寄り道をすることになる。お母さんを探すために反転世界とやらの研究をしなければならない。……それでもいいだろうか?」

 

 震えた声の提案に、彼女は頷く。

 抱き寄せた体が脈打っていた。声が「ああ」と零れた。

 

「ありがとう……本当にありがとう……君がいてくれてよかった」

 

「こちらこそ。……君がいてくれて、良かったよ」

 

 目を閉じて体を寄せたパンジャは、未来へ思いを馳せた。

 薄いレースカーテンから差し込む黄昏の日だまりに、薄ぼんやりと月が浮かぶ。彼らの小さな世界を、守り閉ざすようにそれは曇った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「アオイさんのお母さん……? そんなことに……」

 

 図書館にある小さな相談室で、マニ・クレオは顔を曇らせた。

 アオイが家族の話をしないことを彼は知っている。

 仲が悪いのだろうと簡単に考えていたが、事は重大だった。

 

「あの、僕に話していいんですか? 隠したいことじゃないですか?」

 

「君に知ってほしいんだ。隠し事は疲れた……。それに君の話も聞きたいからね」

 

「妹はあげませんよっ!?」

 

 大きな声を出してしまったマニは、アオイの強張る顔を見てハッとした。ふたりは慌ててドアを見つめ、運悪くパンジャに聞かれていないことを祈った。

 誰もいないことを確認したアオイは、ゆるゆると息を吐いた。

 

「いや、別に狙っていないんだが……。まあ、普通の家族の会話を知りたいんだ」

 

「普通のですか?」

 

 きょとんとした顔でマニはアオイの言葉を繰り返した。

 

「そう、普通のね。それに、君と話をすると心が整理されるような気分になる。私は君ともっと話したいし、私の話をもっと聞いてほしい」

 

「アオイさん……。し、仕方ないですねぇー、そこまで言うなら聞いてあげないわけにいかないじゃないですかぁー! ええ、ええ!」

 

 マニは真っ赤になった耳を両手でつまんだ。しかし、長くは続かなかった。不安そうな顔でアオイを見つめた。

 

「それで、あの、アオイさん、ヒイロさん、が行ったというやぶれた世界……そんなものが本当にあるんですか?」

 

 まだ宇宙の方が話が分かりそうだと思う。マニは首を傾げた。アオイは、あっさり手を振った。

 

「いや、正直分からない。私にとって本当に専門外なんだ。だから君に神話を聞きたい。そういう話は無いか? 世界に追い出されたとかそういうポケモンの話は」

 

「あるといえば、あるんですが……」

 

 そうしてマニは図書館から何冊か本を持ってくると、アオイの前で開いた。

 

「乱暴者で追い出されたポケモンの神話があります。世界を創世した話がメジャーであれば、これはとんでもなくマイナーなんですけど……」

 

「どうしてマイナーなんだ? 主神の敵対者、いわばライバルだ。盛り上がりそうなものだが」

 

「文学的要素になるので僕もあまり詳しくないんですが……。印象の問題じゃないですかね。彼、ギラティナはアルセウスに生みだされたポケモンとされているんですが、アルセウスは創造神なのに、ギラティナは乱暴者でしまいには追い出される。反転世界の王様というか支配者というか……まあ、そういう存在になるのは追い出された後です。ライバルとするには格が釣り合っていないじゃないですか。まともに戦ったら、世界を創るほど力があるアルセウスが圧勝するんでしょう。だから弱い者いじめを連想してしまうんですかね。シンオウ神話のなかでも人気がない神様ですよ」

 

「ギラティナ……ふむ。もっと資料が必要だな。ポケモンの痕跡を集めなければ……時、空間……時間か……」

 

「フリーで研究している人なら知ってますよ。もしかしてアオイさんの知りたい分野にかすっているかも」

 

「誰かな。どんな情報でも今はかき集める時だ」

 

「アラモスタウンにいる研究者です。ええと……名前……名前……なんて言ったかな……僕、会ったことなくて。年の割に優秀な人らしいんだけど」

 

「アラモスタウン? ……あ!」

 

 道路から遠くに見えた町並みを思い出す。そういえば高い塔があるようだった。そして、もうひとつ思い出した。ダークライだ。

 

「……そういえばアラモスにはダークライがいるらしい。森に住んでいるダークライから聞いた。君と同じ姿のポケモンに会ったことがあるかと聞いたことがあるんだ」

 

「へ? そんな噂、聞いたことないですよ」

 

「噂になったらダークライ狩りが始まる。バレないようにうまいこと暮らしているんだろう。悪夢の研究とに、どのみちアラモスタウンには行かなければならないな……」

 

 旅程を思案するアオイに、マニは笑顔で頷いた。

 

「車なら僕が出しますよ。最近、ギンガ団とか何とか治安がよくないみたいなので。ああー!? それともあれですか、パンジャさんのバイクで行くんですかね!? 僕、邪魔しちゃ悪いですかねえ!?」

 

「なんでキレ気味なんだ……。いや、助かるよ。さすがに遠距離をバイクは辛いからね」

 

「力になれることなら何でも言ってください。僕、頑張りますよ。」

 

「……ありがとう、マニ君。やはり君は相談役に向いてるよ」

 

 きっと他人なら何気ない言葉のように聞こえるだろう。荷物を片付けて鞄に詰め込むアオイさえ見ていない。けれど、マニはふにゃふにゃしてしまう顔を整えることができなかった。両手で頬を押さえた彼は、赤面した。マニは、誰かに自分の適性について話されたことがなかったのだ。

 誰かの話を聞く。相談相手は難しそうだ。けれど、それが自分の適性であるのなら、それを好きになってみることは悪いことでは無いだろう。

 

 マニの機微に反応したのだろうか。テーブルの上で遊びくたびれたメタモンが、ふにゃりと姿を変えた。なんともメタモンっぽいヒトモシの姿に、マニはつい吹き出して笑った。

 

 運命に頼ることはしない。

 彼は人知れず、自分で選ぶ清々しさを後悔しないことにした。

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 雑談を交わしながら、すっかり夏になった景色を眺めて歩く。

 帰りに喫茶店に寄ろうかとミアカシに話しかけるアオイは、階下からの怒号に文字通り飛び上がった。

 図書館に相応しくないどころではない。あるまじき怒号に応える声があった。

 

「な、なんでしょう……」

 

「行こう」

 

 杖をとり、できる限り早く歩くアオイを越えてミアカシが駆け出した。

 

 ――てめぇ。ほんとにこりねぇヤツだよなぁ、ああ!? あのデータは、いったい、どういうつもりだ、おおん!?

 ――だから、事故だと言っているだろう! わたしでも彼でもない。あれは事故なんだ。じ・こ!

 ――遺体の前で血まみれの包丁持ってるようなヤツが「俺じゃない!」って言う並に、信じられねえ言い草じゃねーの、それ!

 ――だから、そうじゃなくてだな――

 

「あ、コウタさんですよ」

 

「なに」

 

 マニの言は真実だった。親友コウタが、怒りの形相で怒鳴っている。どういうことなのか。

 来る予定は聞いていなかったのだが……。困惑するアオイに図書室のカウンター席を挟み胸倉をつかまれていたパンジャが助けを求めるように視線を送る。アオイが声をかけようとしたその時、コウタも存在に気付いた。

 

「アオイ! どういうこった、ああ?」

 

「いや、本当にすまない。あれは事故なんだ。……話すと長くなる」

 

「はい、こっち来てくださいねー、はいはい、暴れなーい。いい子ですからね」

 

「あ、おい、離せ!」

 

 アオイの目配せを受けたマニがコウタを別室へ連行した。

 

 彼の誤解を解くために、さらに30分を要することとなる。

 

「――というか、アオイ。コウタに話していなかったのか」

 

 首のタイを直しながら、ほんのすこしトゲのある目でパンジャはアオイを見つめた。

 

「えっ。すまない。何だか話すのが億劫で……私もそれどころではなかったし……」

 

「うーん、それじゃ仕方ないな」

 

「いや、ほんとうにすまない。きちんと話しておくべきだった。……君はもうちょっと私に怒ってもいいんだぞ。首は痛くないか」

 

「え……気が進まないなぁ……。でも、ありがとうね」

 

「――あのねぇ!? 僕の前でイチャイチャしないでもらえますぅ!?」

 

「そうだぞ、そうだぞ! なんだか知らんがいい雰囲気になりやがって!」

 

「ち、違う、違うぞ、あ、いや、違うわけではなくて、その違うんだ、あ、いや、違わないけど違うんだ」

 

 アオイは手を振って否定したが、パンジャを否定することになるためアタフタしてしまった。

 

「大丈夫だよ、アオイ」

 

「だからぁ、僕の前でぇ――」

 

「そうだぞ、そうだぞ――」

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 別室。

 

「なるほどねぇ……パンジャの部下……ヒイロさん……そっか、そういうことならしょうがねえな――と言うわけねえだろ! って言いたいけど……こればっかりは巡り合わせが悪かったとか、そういうレベルの話なんだろうな……」

 

 同調性に欠けるコウタは、それでも思うことがあるのだろう。しみじみと言った。

 

「これでわたしの誤解は解けたと言うことだな、さあ、謝るが良いよ」

 

 やれやれ、と口角を上げたパンジャに、コウタは舌打ちをした。

 

「――前言を撤回するわ。やっぱ、こいつが悪じゃね? コイツがそもそも暴走しなきゃ良かった話じゃね? アオイ? お? お?」

 

 アオイは額に手を当てた。まあまあ、となだめたのはよりによってパンジャだった。コウタは今にも噛みつきそうな顔をした。

 

「それを言うのなら、パンジャの気持ちを尊重できなかった私が悪いし、心的圧力をかけつづけていたパンジャのお母様、ヴィオラさんが悪いという話になる。ベルガさんを理解しようとしなかったパンジャはもちろん悪いし、抜けがけして自分の願いを叶えようとしたベルガさんも悪かった。犯人捜しなんて意味が無いんだよ。誰もが悪かったし、悪くなかった。ただ……誰も悪意を持って悪いことをしようとしたワケじゃなかったんだ。ただ、みんな魔が差して間が悪かっただけで……」

 

「……はぁ。白けたぜ。まあいいさ。詮索はやめる。俺は俺だ。何も変わらない。それに満足できる。これが俺だ。……なあ、アオイ、パンジャ。お前らはこれからどうするんだ?」

 

「私は研究を続ける。今度こそ、正しい道を選ぶために」

 

「わたしもそうしようと思う。研究の道を続けていけば、過去とは違う選択をできるかもしれない。……それに、わたしはアオイと一緒にいたい」

 

 コウタはくしゃくしゃと前髪を掻く。明後日の方向を向いた彼の顔は赤かった。

 

「勝手にしやがれ。……大事にしろよ、お互いな」

 

「ありがとう、コウタ」

 

「…………」

 

「パンジャ?」

 

 振り向いたコウタは、目を見張った。

 パンジャは、知らない顔をしていた。喜怒哀楽、さまざまな感情が一度に起こったようだった。自分でも整理しがたいのか、彼女は隣にいるアオイの腕を掴んだ。

 

「……『わたし達』は、温い泥濘の中でよかったの。不安定で壊れやすいものを、わたしは壊したくなかった。でも3人でいられる時間は『わたし達』が壊してしまった。……ごめんなさい。それでもわたしは、誰も悲しませたくなかった。ああ、矛盾している。なんて酷い矛盾。わたしはずっと前から支離滅裂なんだ」

 

「あまり頭でっかちなことを考えるなよ、パンジャ。永遠に離ればなれってワケじゃない。ちぎれたら、くっつければいいのさ。お前が壊せるのは、いつだって物だけだ。形のないものは壊せない。まあ、なんだ、以前はふたりでポケウッド観賞に行ったが、今度は3人で行こうな」

 

「……! うん……アオイが行くなら……」 

 

「あーッ! なんで俺様がお前のこと考えなきゃならないんだ、くぅ、悔しいっ! もっと俺のこと考えろ、もっと! もっとだ!」

 

 アオイは、薄く口を開けて成り行きを見ていた。パンジャをかき混ぜた感情のなかで、彼女は最後に『喜』を選んだようだった。

 

「うふっあははは、おかしい、コウタ、おかしいっ、君ってそんなこと考えていたんだね、いつも平気そうな顔していたのに」

 

「うるせえやい。俺は現状に満足できる性情だが、べつによそから向けられる感情に鈍いワケじゃない。好意だったら、そりゃあ嬉しいさ」

 

 試すように、パンジャが手を広げた。その姿に、一瞬だけ、コウタがビクリと震えた。

 

「ハグとか、は、恥ずかしいっつーの……!」

 

「ふぅん。はっ。いけない。いけない。あまり隙を見せないでくれ。管理したくなってしまう。――ところで、コウタはなぜシンオウ地方に?」

 

「あ? ああ……ラルトスを連れてきたくてな。この前にイッシュに来た時は、アオイは例いざこざがあって突然帰っちゃっただろう。本当はちゃんと会わせてやりたかったんだ。いきなり離すのは良くないだろう」

 

 彼らが過去の清算を行っている間。

 ポケモン用のフリースペースでヤドンを囲んでわちゃわちゃ遊んでいるポケモン達を一瞥したコウタが目を細めた。

 

「ラルトスはちょっと変わったぜ。前は引っ込み思案でにっちもさっちもいかない様子だったんだが、今はちょっとやそっとじゃ驚かなくなったみたいだ」

 

「ああ、まあ、ミアカシさんと一緒だったし、うん、うん。度胸もつくだろう。つかないと側にいられない」

 

 アオイは、ダークライとの初対面時のことを思い出していた。車イスの車輪が泥に嵌まって動かなくなってしまった時。まっさきに飛び出したのはミアカシだった。

 

 (……私は、彼女に何をしてあげられるだろうか)

 

 小さな疑問が、アオイに生まれた。

 ミアカシが生まれて1年が経過した。ラルトスが変わったように、ミアカシは変わっただろうか? 自問自答する。悪夢の中で命を助けられたアオイは、自嘲の色濃く微笑んだ。

 

 彼女はコウタと同じだ。きっと、どれほど時間が経っても本質は変わらない。けれどそれは成長を否定することではない。アオイの心が救われる、素直な『むじゃき』さは変わらない。アオイは心慰められる思いでミアカシを見つめた。彼女はラルトスとの追いかけっこをしているようだ。ラルトスはヤドンの尻尾を飛び越える。ミアカシは得意げに尻尾を持ち上げて――焦がした。ふわりと空間を漂った香ばしい匂いにヤドンが涎を垂らした。

 

「ちょちょちょちょ、ちょっと待つんだ、ミアカシ、焦がしてる、焦がしてる!」

 

「アーッ! 困る、困ります! ヤドンの尻尾が美味しいことを知った人間を生かしておくことはできないんですよ!?」

 

 コウタとパンジャは、全力疾走で駆け寄るアオイとマニの背中を見送った。

 パンジャにとってはいつもの風景なのだが、コウタは感情が無になっていた。

 

「え、ちょ、なに、アイツ、こわ」

 

「マニさんはいつもあんな感じだよ。アオイと気が合う友人は珍しいよね」

 

「浅学非才の苦学生って面だったが……意外とアレなヤツだったんだな。うーん……」

 

 そこでコウタはちらりとパンジャを見た後で、意地悪に笑った。

 

「ま、お似合いってヤツかもな!」

 

「――この前、答えを聞いていなかったんだが君って海が好きだっけ? 山が好きだっけ? 川が好きだと私が嬉しいんだけど」

 

「よしッ! 俺、帰るわ。ラルトス、行くぞ―。テンガン山を観光して帰るわ! じゃあな、アオイ。また来るぜ」

 

「ああ、今度は家に来てくれ。歓迎するよ」

 

 コウタは遠くで手を振るアオイに頷いた。

 

「あばよ、パンジャ。……大切にするんだぞ」

 

 ありがとう。小さな声で呟いたほとんど呼吸のような息は、きっとコウタに届いていない。それでも。彼はニッと笑った。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 夏の日差しは、早朝であっても鋭い。

 帽子をかぶる頭が蒸れて熱かった。

 

 木の陰にはいると、アオイは帽子を取った。興味の赴くまま宙を漂っていたリグレーがピコピコと音を鳴らして、帽子を受け取った。ひょっとして――便宜上彼

とする――も暑いのだろうかと気をつかったが、どうやら違うらしい。額の汗を拭い終わると、リグレーは帽子を差し出した。ありがとう。受け取るとリグレーは再びピコピコと音を鳴らした。その音は、不思議とアオイもはしゃぎたくなるようなリズムだった。

 

「よし」

 

 深呼吸で整えた心で、アオイは森のひらけた空間に声をかけた。巨木が倒れた後に現れたこの空間が、ハクタイの森に生息するダークライの住処なのだ。

 

「ダークライ、いるだろうか」

 

 寝床にしている巨木の虚から「ィナーイ」という力のない声が聞こえてきた。

 

「ごめん。寝ていたか……」

 

「寝テタ。ドゥシタ……? ……ヤメロ……ウゥ、ヤメロ……」

 

 朝から絶好調のミアカシが影から生えたダークライを小さな手でつつきまわす。ダークライは虚の影に消えた。アオイはミアカシをつかまえてちょっかいを出すのをやめさせた。『今日のダークライは「残念、ソレハ残像ダ」ごっこはできないんだよ』。そう告げるとミアカシはしゅんと焔も小さく大人しくなった。

 

「私はこれからアラモスタウンに行ってくる。以前、ほかのダークライのことを知っていそうだったから、その話が聞けたらと思って」

 

「会ッタコトナイ……近寄ルト、黒イノ、撃ッテクルシ……」

 

「そ、そうか……」

 

 野生のポケモン同士であれば、何も珍しいことではない。縄張りを荒らされたと思い、攻撃するのだ。しかし、その現象が高度に思考可能なダークライ達の間で発生していることが意外だった。

 

「どのあたりにいるか、知っていることはないか? できれば接触を図――ええと、会いたいと思っているんだ」

 

「庭。大キナ庭。……前ハ、ソコニイタ」

 

「庭……ああ、噴水のある公園のことか……ふむ。当たってみよう。他に何か思い出したことがあればいつでも言って欲しい。あ、私達の留守中は二階の窓から出入りしてくれ」

 

「…………」

 

 杖を握り、ミアカシを地面におろしたアオイはダークライの返事を待つ。だが、いつまで経っても彼は話してくれなかった。

 

「ダークライ、どうしたんだ?」

 

「怖クナィカ。悪夢。悪イ夢……痛イ、苦シイ……タクサン、アッタロゥ……」

 

「ああ、実験のことか……そうだな、決して、楽ではなかった。楽しくもなかった。簡単でもなかった。それでも必要なことだった」

 

「ドゥシテ、笑ッテイルノカ」

 

「この世界に幸せに感じられることがあるからだ。……悪夢のなかでは、感じにくいことだった。苦しいことも悲しいこと、それは生きている以上、避けられないことだ。それでも、この世界はそれだけではない。楽しいことも嬉しいこともある。それが私を幸せにしてくれる」

 

「…………」

 

「しかし、悪夢に入る前の私の目が暗んでいたのはたしかだ。……ギリギリで追い詰められなければ本当に大切なものが分からなかったことは、本当に情けないと思う。君にも苦労をかけているな。でも、まだ私を信じてほしい。この研究は始まったばかりだ。可能性は『かなりアリ』だ。一緒に生きていこう。この研究は、きっと君を支えていけると思うんだ」

 

「…………。気ヲツケロヨ」

 

 ひらりと動く指先が、影から現れる。ミアカシがそれにバイバイを返した。

 

「分かってくれてありがとう。――さあ、ミアカシさん! 行こうか。これから向かうのはアラモスタウンだ。時空の塔が名物だとか。あと暑いからね、アイスとか食べたいところだが……え、バニプッチ? いやいや、ダメだ。さすがのパンジャも怒るだろう……」

 

 ハクタイの森を歩く。隣の町の境近くの歩道が見えた。「あっ」と彼は声を零した。思わず行き先を変えて、歩道へ向かう。ソノオタウンの入口がそこにあった。腰の高さもない、小さな垣根を越えるとそこは別の町だった。

 

 アオイの視線の先には、違う街に暮らす人々の営みがあった。花の香りが、彼らを包んだ。知らない香りだ。シッポウにもハクタイにもない香りだった。

 

 まるで違う世界に迷い込んでしまったように感じられる。けれど振り返ればハクタイの森がある。ここは現実なのだ。

 

「……ほとんどこの町で過ごしていたんだな、私達は」

 

 アオイは、怪我の後遺症で歩くことができなかった。だから、ごく自然にアオイとミアカシの世界は小さく限定されたものになっていた。それを不自由に感じたことは無かったが、今では歪なことだったのだと感じた。疑問さえ抱けなかったのだ。

 

 けれど。

 この時、アオイは歪みに気付いた。 理解が追いついたならば、選ばなければならない。

 

「――ここまでだ」

 

 彼は振り返った。

 木々が立ち並ぶ暗い森。吸い込まれるような景色に告げた。

 

「さよなら、君と私の小さな世界」

 

 これまでのハクタイシティでの生活は、温かい泥濘のような時間だった。

 ひょっとすると他人はそれを停滞と呼ぶかもしれない。

 それでも無意味ではなかった。

 

「私は、私達は、もっと世界を知らなければならないんだ。この世界は素晴らしくて、命が生まれてくるに値する世界なのだと……いつかジュペッタに出会った時に誇れるように」

 

 森が大きな呼吸をするように風を吹いた。それが、ふわりとアオイの切りそろえられた前髪を揺らす。

 

 彼は数十メートルを歩いて、ソノオタウンの小さな花屋を訪れた。そこで、鐘のような白い花が連なっている花を買った。それが目にとまったのは、庭先で見かける花だったからだ。

 

 帰路、アオイは珍しく歩道を歩いて帰ることにした。午前の歩道は、風の通り道で向かい風になる。それでも歩いた。全身で受ける風が心地良い。たしかに、私は自分の脚で歩いている。その実感が嬉しかった。

 

 ようやく森のそばにある自宅に着くと、パンジャが心配した顔で駆けてきた。

 

「遅かったから心配した。何か問題があったかと……」

 

「大丈夫。何もないよ。心配させてごめん。……あの、パンジャ……これ……」

 

 アオイはずっと抱えてきた小さな花束を差し出した。実のところ花束は達成感で衝動買いしてしまったのだ。

 しかし、可憐な小さな花をアオイが渡すとしたら、その相手は彼女だけだ。

 

「ソノオタウンの近くまでまで歩いてしまって、買ってしまった」

 

 言い訳のように早口で呟いた。

 パンジャはパッと顔を明るくして、アオイをジッと見つめた。

 

「わたしのために?」

 

「は、恥ずかしいな。贈り物は好きな方なんだが……。君に花を贈るのは、センスがなかったかもしれない! ああ、きっとそうだ! わ、私は花言葉を知らない。これがどんな意味を持つかなんて知らないんだ。綺麗だから、ただ、買ってしまっただけで……」

 

 差し出した手が、くぐもる言葉と一緒に落ちていく。

 

 それでも。

 

 掬い上げた手が、花束ごとアオイを抱きしめた。

 

「パンジャ――」

 

「何のためでもいい。君がわたしのことを思ってくれるだけで……わたしは嬉しいの」

 

 アオイは、かすかに震えた手で彼女の背を撫でた。

 パンジャはそっと手を離す。そして花束を抱えて微笑んだ。

 

「ありがとうね」

 

「……花言葉は、何なのか。君は知っているのか? できれば、私も知りたい」

 

「これはスズラン。『再び幸せが訪れる』。アオイのセンスは良いみたい。私達の新しい門出に相応しい!」

 

 思いがけない言葉に、一度だけ深く帽子をかぶる。そして、彼は帽子を取った。

 

 アオイは、かつてそうありたいと願った自分になりたかった。弱くても、真摯な人間になりたい。

 間違え続けた今だから、今度こそ正しい道を選びたい。正しさのために後退したヒイロのように。そして、夢を追い求めたい。この世界を、もっと良いものにしたい。

 

 その時に。

 

「パンジャ、これからも私の隣を歩いてくれないか」

 

 手袋を外す。そして差し出した手に、彼女の手が重ねられた。

 ほんのすこしだけ潤んだ、彼女の声に聞こえた。

 

「はい。君も、わたしの隣を歩いてね、アオイ」

 

「ああ、必ずだ」

 

 力強い握手を交わした。

 帽子を被った後。アオイは杖を動かした。

 全ては仕切り直され、旅程は始まったばかりだ。

 新しい研究分野は、何から手を付けるか、アプローチの方法さえ掴めない。

 それでも、アオイは悲観していなかった。

 

 

 花束から、ほろりと落ちた鈴なりのひとつ――小さな花房をミアカシがつかまえた。それをバニプッチに手渡そうとして、彼は溶け出してしまった。慌てて離れるミアカシにリグレーが近寄った。仲介するつもりだったのだろう。けれど、ミアカシはそれを断った。代わりに小さな花をサイコキネシスで浮遊させた。バニプッチの手元に転がり込むように渡された花がコチンと音を立てて凍る。バニプッチは嬉しそうにそれを抱えて、パンジャに見せていた。

 

 ほっとした思いでで彼らのやりとりを見守っていたアオイは、パンジャがもう一つ小さな花房をちぎるのを見ていた。それをミアカシへ渡す。ミアカシは合点のいった顔をして、それをリグレーへ渡した。不思議そうに花を見ていたリグレーは、ある時、キュルキュルと3つの指を点滅させた。たぶん、感謝の気持ちだろう。

 

「アオイ。……ね?」

 

 アオイは、パンジャに指を差されてシャツの胸を見た。花を胸に抱えて歩いていたせいだろう。ひとつだけ花房がくっついていた。それをつまんで取った後に。

 

「ミアカシさん、これからもよろしくね」

 

 身をかがめて花を差し出したアオイは、嬉しそうにミアカシが頷いたのを見ていた。

 

 生命を燃やす青い焔が、真白な日の中できらきらと輝く。――この光に、美しさに、何度も励まされている。今でさえそうだった。

 

 もっとミアカシに世界を見せてあげたい。胸に湧き上がる願いをアオイは必ず叶えることを自分自身に誓った。

 

 

 この世界は、私達が生まれてきた世界は、生きている世界は、生まれて来るに値する素晴らしい世界だとアオイは信じている。だからいつかミアカシにも同じように感じて欲しかった。

 

 

 だからこそ。

 

「さあ、行こう。夢は遠いが、ふたりで――いいや、彼らと一緒なら辿りつける」

 

 今日は、雲一つ無い快晴だ。

 前を向いて、歩き出す。そうして、彼らは小さな世界を旅立った。

 

 

 

 

もしもし、ヒトモシと私の世界 (了)

 

 

 

 

 

 




【ここまでお読みいただきありがとうございました!】
 これまでご感想、ご指摘、マシュマロ等、応援ありがとうございました。書いた物について、反応が無かったらここまで書き続けられなかったと思います。
 今後の参考にするため、さまざまなご感想をいただきたいと考えています。「いや、文章考えるのはちょっと……」という方は、アンケートだけ「ポチッとな」しておいていただければ幸いです。でも、気軽に感想投げていいんですよ! 筆者の長文返信コメントが怖い方は、ツイッターからマシュマロを時速150kmで投げてください!

 最後に、まだまだ誤字脱字、語弊誤謬たくさんあると思います。宣言通り、これから半年くらいかけて修正・加筆していきたいです。ご指摘はいただいたものは参考にさせていただいております。こちらも併せてありがとうございました。

【筆者の野望が達成されました!】
「プロットはあるので完成します!」と宣言した筆者が諸事情によりいなくなってしまうのはいずれのサイトに関わらず、世の中よくあることですが、ノノギギ騎士団は(作品の出来はともかく)宣言通り、達成しました! ……なーんてことを稀な経験として頭の片隅においていただければ幸いです。(自分で書いていて恥ずかしいですね)

【15年前、すべきことをしなかっただけの話(ヒイロ)】

【挿絵表示】


【主要人物の小テーマ】
アオイ(信念・夢・選択)
 彼は、抱いた「信念」がどれだけ間違おうと「夢」のため、きっと正しい道を「選択」できる。彼はそんな人。

【挿絵表示】


パンジャ(盲目・破壊・分離鏡面)
 彼女の「盲目」は脆弱と頑強を両立させている。主体性の薄い彼女は、けれど本心のところ全てを「破壊」することで、何もかもを支配したいのだ。変えることのできない本性は「分離した鏡面」の如く、いつでも本当の姿を見せる。けれど、彼女が嫌悪するその危うさを彼は大切にしてくれるので――ようやく、彼女も自分自身を大切に思えてきた。

【挿絵表示】


コウタ(方舟・循環・閉鎖)
 彼は変わらない。その有様は定型を定められた「方舟」のよう。感情は努めて平坦に「循環」させることで平穏を保っている。そんな自分を大切に思っているし、これでいいと思っている。ただ、ほんの時々だけ、「閉鎖」された心が暖まる場所が欲しい。……そんな場所を彼はもう見つけていた。

【挿絵表示】


【基礎・設定開示】
※「もしもし、私とヒトモシの世界」を本拙作と呼称。……ちょっぴり名前が長いからネ。仕方ないネ。

・本拙作は、BW2時系列だがBWから2年後にプラズマ団イベントが発生しなかった。
・イベントが発生しなかったのはベルガの合流によりアクロマ達の研究目処が5年に設定されたため。
・ベルガ合流により、Nが好まないことから停滞していた化石の復元研究が再始動。(目的:復元させ兵器ちして活用する。名付けて、P2・5カ年計画)
・フジ博士は亡くしたものを取り戻す研究を続けている。

【プラズマ団の戦略について】
・プラズマ団(もとい本命はゲーチスの願望)の戦略は、ポケモン世界の状況を鑑みるに決して的外れな方針ではないと思う。
・組織を無力化する場合、戦闘になればその主役は使役されるポケモンになる。
・ポケモンの捕獲妨害ができるのなら、ボールから出すことの妨害もできるだろう。
・世界を掌握するには、使役されるポケモンの数を減らせばいい→【ゲーチスの勝利条件】もちろん、その際、人もポケモンも殺す必要はほとんど無い。『ボールから出さない』ことができればそれだけでいいのだ。
・プラズマフリゲート集団戦において、ジャミング系妨害は所謂マップ兵器になり得る。戦力によってはゲーチスの野望通り、ポケモンを使う一方的な蹂躙も可能だろう。

 ↓

・プラズマ団イベントにおいて、ゲノセクトの役割とは何か。

 ↓

・統率の取れた群体による神がかりの速さによる索敵・敵性分子の排除。
・あらゆる戦略の要である補給、特にエネルギー供給においてプラズマ団は性質上プラズマフリゲートに捕獲しているキュレムに依っている。
・プラズマ団の勝利条件は【キュレムの保守】。ゼノセクトは攻守において要になる。


■ ■ ■


【ゲーム・映画等の参照】
・ゲノセクトは高性能であり理屈ある思考を行っている。
・ほか映画からうっすら予想できること。
・P2ラボは、恐らく成功した研究室だった。しかし改造が上手くいきすぎたため、ゲノセクトの制御することができなかった。
・プラズマ団には後に後にキュレムを拉致、捕獲に成功している実績があるためP2ラボ側の慢心か、技術があと一手足りなかったか、あるいは予測不能の偶発的事故が発生→破壊、逃走……という経緯があるのかもしれない。


■ ■ ■

【筆者の後書きと感想】

 BW2が発売され、しばらく経った頃。
 「俺のゲノセクトは最強なんだ!」ということをつらつら考えていました。「作中時間5年あれば(というか、時間をかければ)ゲノセクトも制御できるんじゃない? 熱くなれ、アクロマさんよぉ。ホントはできるんだろ、ええ? とんでみなよねえ?」と考え、本拙作のプロット作りをスタートしました。

 BW2イベントを中心に書こうと考えていましたが「有能研究者を1人混ぜました。それにより、研究が進みBW2イベにゼノセクトが参入しました」ではあんまり面白くない(書くのは、まあまあ面白そうではあるが……)。また、できればゲーム主人公達のように組織の野望を抑止する立場の人間を書きたいと方針を定めました。

 そんな方針で、作品の傾向がまとまっていきました。そのため、中期プロット(少年漫画的ストーリー)におけるアオイとパンジャは、主義主張の致命的な敵対関係にある予定で別組織に所属する2人に焦点を当てることでプラズマ団の内外を描写する、という目論見があった――ものの、断念。

 別話のあとがきに書いた「ゲーム本編でよくね?(禁句)」の理由以外に、本拙作以上の群像劇になるため長々編になることが予想され、筆者は構想段階で早々に挫折しました。当時では実力が足りないと思ったんですよ。

 だって書くのであればプラズマ団周辺の設定、ゲーム作中あんまり出番が無かったものに独自設定を付与して拙作内で動かしてみたかったのです。気になる設定が多すぎる。七賢人とは何ぞや。女神って何だ。何でNは王様なんだ? じゃ、臣下にあたるのは人間? ポケモン? しかし本編ではトモダチって言っている。トモダチを友達とするなら関係性に上下はないのではないか。王とトモダチの言葉関係の相性は良くない。すると彼は普通とは別の、特別な価値観(出自に由縁する?)を持っていることになる。王とトモダチをイコールにする価値観とはいったい? ダークトリニティの身体能力はさすがに異常じゃないか、キリキザンが泣くぞ。アクロマは最後に納得した風だったが、あれは人間とポケモンの関係性による進化以外の成長の示唆(サン・ムーン要素の匂わせ)なのか、人間の進化の可能性まで見越したものなのか。云々かんぬん……。

 それらに意味を持たせ補完的な二次創作を作りたい、というのが筆者の夢です。まだ諦めていないので、ちょっと休んだらまた書き始める予定です。俺たちの戦いはこれからだ!

 さて、話を戻しBW2イベントをどう書くか、ということは、長らく筆者にとって難しく、悩ましいことのひとつでした。

 結論を述べると、アオイの人生の一旦の決着に舵をきった時点で、本拙作はBW2イベントを書く素地にはなっても物語を展開することはできない、ということにしました。

 プラズマ団を魅力的に語るには、団体の内外から描写する「目」が必要だと考えているからです。

 本拙作のなか唯一、オリジナルの登場人物でプラズマ団にいるベルガはパンジャへの劣等感と偏愛をこじらせて色眼鏡を三重、四重にかけている状態なので、冷静であっても平常とは言いがたいことも拍車をかけています。またキャラクタの性質上、研究室に閉じこもり気味であることが、本当に頭が痛い。今さらですが、フィールドワークが好きとか設定を載せておけばよかったと後悔しています。そうすれば、本拙作中にBW2イベを組み込むことも、アリだったかもしれない……。いや尺的に無理だったかな……ま、可能性の問題として……。基本的にベルガの設定は、礎にマニありきの対を想定したものです。マニが没個性なら、ベルガは自己保存という我の個性があった。マニが動なら、ベルガは静。――というように。
 ところで描写が難しいキャラクターは多いのですが、なかでもパンジャ影響下のベルガの描写は本当に難しかった。というのも、主な会話相手のパンジャの性格(基本人格は自分で行う事業にかかりきりのため後輩を育てるつもりが無い。どの人格も究極のところアオイ以外どうでもいいと思っている。特に、基本人格はアオイがいないとやる気がでない、夢も現も無い状態)のせいで、本来会話が無い関係に何とか会話をさせるという苦行をやってしまった。
 ベルガ自体はマニありきの対の存在ですが、劣等感に溺れたアオイ・リメイクの心算で作られたキャラクターなのでもうひとりの主人公に成り得るスペックだけは持っているのです。きっと彼女を主役に置いて書けなくはないけど、たぶん、俯瞰描写はできないだろうな、と思います……。

 そんなこんなで、本拙作でBW2イベントを書くには観測する登場人物の「目」がほんの少し足りないのです。これはとても良くない。BW2のプラズマ団イベントは、文字通りイッシュ地方における総力戦の有様だと思うんですよね。なので、規模をできるだけ大きく書いていきたいと考えています。

 そのため、それぞれのキャラクターに接触していく登場人物を新しく作る予定です。
 
 BW2イベントについての小説は、『星彩のレシピエント』(仮)。主人公はたぶん女の子です。
 レシピエントとは「価値あるものやサービスを受け取る存在」という意味です。テレビや新聞で見る文脈では臓器提供等のドナーから臓器」(身体の一部)を「受け取る人」を「レシピエント」と指すことがあるようです。
 本拙作は、「大切なものを喪失する」が別のもの、同じように価値のある「大切なものを見つける」話でもありました。しかし、この作品は「大切なものを奪い合う」話になると思います。さまざまな人の持つ「価値ある物(こと)」は登場人物達の夢や願い事に相当します。全員の夢や願いが叶うことは、稀なことです。本拙作のなかでも、アオイとパンジャの「幸せであってほしい」という願いは両立しがたいものでした。今回は小さな人間関係に留まらず、イッシュ全土をひとつのパイとしてそれらを切り取り合う抗争に発展していきます。本当に価値のある物とは何か。最後に立つのは、受け取るべきものを受け取る価値のある人か。できる限り楽しめるものを書いていきたいと思います。
 
 そして、もう一本。BW2イベ主眼作品の前に、DP映画2作目、ディアルガVSパルキアVSダークライの作品を書きたいと考えています。(仮題『観測者たちのアラモス』)ヒイロが失踪したことにより、アオイがアラモスタウンへ行く理由が発生したためです。本拙作中、こそこそとアラモスタウンのことを描写にいれていた理由とは、このためでした。
 本拙作と異なり、劇場版を基礎にするため主な物語展開が決まっており(ありまえですね、ほんと)アオイ達は物語のペースに入り込む形になるので、大長編にはならないです。本拙作ではペース配分を間違えすぎた(特に前半。今ならもうちょっとスマートな形で書けると思う)ので、次回こそリベンジ! そこそこの文章量で楽しめる作品を作っていきたいと思います! ……4年、80万字弱はさすがにやりすぎました。
 これは『星彩のレシピエント』(仮)の前に書くと思います。時系列的に、アオイがアラモスに行くのが先なので。
 最後に。蛇足になりますが、ポケモン小説の執筆をお休みする間(息抜きですね、はい)、オリジナル小説を書きます。そのうち書き始めたら(趣向の合う方は)ちょっぴり覗いていただければ幸いです。(タイトル「人間×ダンジョン」)


■まとめ。これから書くもの(予定だよ。変更もたぶんあるよ)
・オリジナル作品:「人間×ダンジョン」
 →TS作品。魔族運営ダンジョンに人間が配置されている話。
・劇場版2作目再構成:観測者たちのアラモス(仮)
 →時間と空間。ポケモン世界の科学について考えを深める話。
・BW2イベ主眼作品:「生彩のレシピエント」(仮)
 →イッシュ地方最大抗争。誰もが正義だったので、敗者が間違いになる話。併せて。ポケモンの力は○○によって引き出されるという話。

ここまでお読みいただきありがとうございます!
今後も「ほへー、そうなんだー」程度でお楽しみいただければ幸いです!

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ここまで読んでくれて、本当にありがとうございます!

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