秘密を作るまいと思っていても、アオイ・キリフリという男は大切に思えるものこそ心の奥底にしまい込むことが癖になっている。
それでも。
(これだけだ。これだけ。……今だけの話さ)
今日も空箱に指を入れて、底面と爪をぶつける夢想をする。
しまい込んだ秘密は、未だ誰にも悟られていない。
その存在を知る誰もが、地面の下に埋めたと思っている存在。
誰が持つべきか。
アオイは内実を失った記憶の残骸を抱えたまま、今も考え続けていた。
□ ■ □
「もう一度、入ってくるところから」
テーブルに肘をつき、長くなりつつある前髪を指に絡めたパンジャはアオイに指示をした。
対するアオイは「あぁー」と無感動な声を上げて、ホテルの堅調な椅子に座り込んだ。
「……母に会う練習をすると入ったが、部屋に入る前からやるべきことだろうか? 何度もドアを出たり入ったりするのは隣室に迷惑だと思う」
「ダメだ。もう一度」
アオイは天井の照明を見た。そして相談相手を間違えたとつくづく考えていた。パンジャが常日頃から「君に指示するのは嫌だ」と言っている理由は、まさにこれだ。
「早く。君には完璧を求めたい」
睨むほど真剣にアオイを見つめる彼女に急かされ、重い腰を上げた。疲れているせいで足が震えている。
(パンジャの悪癖だな、これは……)
これが単なる性癖の偏り、つまり凝り性であったのなら話は簡単なのだが、パンジャの人格に関わる問題が簡単なワケが無かったのでアオイは今にいたり予約済みの後悔をしている。
彼女は目に見えるもの全て、手の届くもの全てに対し管理するのが好きなのだ。――いや、趣向を超えている。憑かれていると言ってもいい。とにかくそれが彼女にとっての愛であり、加減を誤れば命へ至る病なのだ。
職探しの面接練習ですら心が磨り減るほど気をつかってノックすることはなかったが、今は真剣に叩かなければならない。アオイはもう何十分もノックし続けている。パンジャ曰く、完璧な振る舞いをするために。
「ノックは3回だ。秒針より早く、余韻を残しつつ、2秒より短く。余白が無いように扉を開くんだ」
正直なところパンジャが何を言っているのか、アオイは半分くらいしか分からない。正答が想像ができていないため何が良くて何が悪い振る舞いなのか、まったく検討がつかない。
かといって、パンジャの指示が的外れでは無いことをアオイは知っている。
彼女ならば「できる」のだ。人に対し魅力的に振る舞うことができる。『誰にどう見られるのか』。与える印象の取り扱いに秀でている。その一芸あればどんな集団でも彼女は馴染んでいけるだろう。――もっとも内面の分裂は苛烈になるだろうが。
ともあれ自分の挙動について理想と現実を一致させることができる彼女には、それができないアオイの心情を理解できない。だからきっと苛立ちが募るのだろう。彼女がときどき怪訝な顔をする理由もそうだ。「真剣にやっているのか?」という顔をされる時が最も困る。アオイも自分なりに真剣なのだ。
アオイは慎重なノックの後で扉を開く。
パンジャが弾かれるように立ち上がった。
「ノー! カットだ! カット! カット! 1ベルさえ鳴らせやしない!」
彼はドアノブに縋り付くように座り込んだ。まただ。
(何がダメなのかさっぱり分からない。1ベルって何なんだ……?)
アオイはつい、またか、という顔をしてしまったらしい。パンジャの指がイライラとテーブルを叩いた。
「そんな顔をしないで、君のためなのに」
「分かっている。分かっているとも。疑ったことなんてない。ただ、すこし休ませてくれ。足が限界だ……」
アオイが拒否する度にパンジャが傷ついた顔をするのも精神衛生上良くない。
本当に相談相手を間違えた。ヤバイ。アオイは頭を抱えた。間違え過ぎた。パンジャにだけは相談しないほうが良かった。目に見えた地雷を踏むとはまさにこのこと。分かりやすい選択の誤りをしてしまうほどに自分は追い詰めらているらしい。
彼は這々の体でベッドに腰掛けた。
「はぁ……しかしだ。私がこんなに磨り減っているのに、あの人は何も感じていないのだろうな……」
あの人とはアオイの母、ヒイロ・キリフリのことである。
しょぼくれた焔を灯すヒトモシのミアカシに慰められ、この頃のアオイは生きていた。
「モシモシ?」
「……何を考えているのだろうな。あの人は夢はそれほどまでに……むぐぅ」
ミアカシが顔にのしかかってきてアオイの言葉は途切れた。
ちょっぴり息苦しいが、情けないことを言う口を閉じることができてよかった。
「モシ!」
どうやら顔の凹凸が気に入ったらしい。もぞもぞしていたが止まった。どうしよう。さすがに息苦しくなってきた。いいや、ここは限界に挑戦すべきか――
「休んだか、アオイ。もう一度だ」
ミアカシをひょいと取り上げたパンジャが無情に言い放った。
「いいや、パンジャ……私は疲れたんだ、今日はもう休みたい。部屋に戻ってくれ」
「しかし」
「本番に倒れたら元も子もないだろう……ありがとう……実に参考になった。明日は上手くいきそうな気がするよ……君も休んでくれ……」
「……君がそう言うのなら、退こう」
ミアカシをアオイの顔に乗せるとパンジャは部屋を出て行った。
遠くなる足音を聞きながら、アオイはミアカシが焔を燃やす音を聞いていた。
「はぁぁ……何が上手くいくだ……そんなはずがないだろう……私は」
母、ヒイロの人間性と感性にアオイはまったく期待していない。
それなのに、ほんのわずかだけ、母について考える時心は何度でも揺らぐのだ。
低く唸り、アオイは手足から力を抜いた。無駄に終わった練習で体だけがひどく怠かった。
■ ■ □
太陽は昼に近い。
カントーの空は高かった。体にまとわりつく湿気さえ無ければ、ここは快適な土地だろう。
アオイは肩掛けの結び目を解くとパンジャに渡した。歩いてきたこともあり、体が火照る。ふうふう、と息を吐いた彼は胸を押さえてベンチに座った。
「シャツのボタンも外したらどうかな。暑いだろう」
「ありがとう。私の予想だが、きっと母は第一ボタンまできっちり締めてやってくるだろう」
アオイは天を仰いで溜息を吐く。もう数日分歩いてきたような疲労があった。喉の渇きを覚えていると、パンジャが鞄から水筒を取り出した。
「はい、水だ」
「ありがとう。本当に言わずとも察してくれるな……堕落しそうだ……」
アオイは水筒を開けるとフタに水を入れた。
「ミアカシさん、お水は飲む?」
ぴょんぴょんと日当たりを駆け回っていたミアカシは一度振り向いたものの、アオイのもとへ来ることはなかった。
「なるほど。よほど日差しが好きらしい……」
「意外だな。ゴーストタイプというと、もっと暗くて湿っぽいところが好きなのかと思ったが」
アオイが返した水筒から彼女も水を飲んだ。
「……普段は屋内ばかりだからだろうか。外出先くらい羽をのばしていいかもな」
ふたりは日陰のベンチから、あちこちを歩き回るミアカシを見守っていた。パンジャのバニプッチはすでにボールに待避している。
「バニィには悪いことをした。だいぶ溶けていたじゃないか……」
バニプッチは朝方にホテルを出発した時は大丈夫そうだったが、日が高くなるにつれて体が小さくなり、半分溶けそうになっていた。心配するミアカシは近寄りたいが近寄れず、あたふたしていた。心痛む光景を思い出す。
「すまない。バニィが『今日はいけそう!』な顔をしていたもので、つい挑戦させてしまった」
パンジャが日傘をベンチに立てかけた。
「お疲れのようだね。……あ、昨日は本当にすまなかった。君の足は本調子では無いのに、無理をさせてしまった」
「分かってくれたらいいよ。私も……なんというか、その、悪かった」
相談相手を間違えてしまった、とはやはり言えなかったので、言葉は曖昧になった。それでも何かひとこと言いたくなったが、適切な言葉は見つからず胸に溢れた余韻は溜息になった。
「君、溜息は吐かない主義ではなかったのか」
「今日は許してくれよ」
アオイは川の流れを見ながら、もう一度溜息を吐いた。
ミアカシはぴょんぴょんとアオイ達の座るベンチの前で跳ねている。
「ああ、許すとも。君には全てが許されている。ただ君が後悔しないかと思ってね。今ならまだ逃げれるだろう」
腕時計を確認して言うパンジャに、アオイは力なく笑って見せた。
「カントー地方にまで来た今、言うのか?」
「ここまで来たからだ」
「君なりに心配してくれているんだよな。……はぁ。私はまたきっと後悔するだろうな……この日、母と再会することを。自分で言っていて落ち込むが……なぜだろうな、分かるんだ」
「会う前から失望しないことだ。天文学的確率で素敵なお母様かもしれないだろう」
パンジャは――いや、この際、パンジャでさえアオイの母が『まとも』である可能性をほとんど考慮していないらしい。アオイも大きな期待を抱いていない。彼女の言葉を咎めることはしなかった。
「天文学的か。もしも、そんな思いをすることができたら」
「お祝いをしよう。白い花を添えて、美味しいものを食べよう、そして、ゆっくり眠ろう」
彼女にしては普通な提案だと思えた。
どんな顔をしてそんなことを言うのか。気になって隣に座る彼女を見た。自分の靴先を見つめたまま、彼女は言った。
「平凡かもしれないな。けれど、たまにはこういう祝い方があっても良いんじゃないかと思う。だって普通だろう? 親子の仲が良いということは」
「そう……だな。……普通だ。とても普通で自然なことだ……。それが、どうして私は、私達はできなかったのだろう」
「大きな夢を持つ人なのだろう。アオイのお母様という方は」
私よりも大切な? ――大人げなくパンジャに噛みついても仕方が無い。アオイはまた川の流れを見つめた。
「……君とは、たまにとんでもないすれ違いがよくあるが、君と一緒にいると私も心を安らぐのを感じる。不安を話せる人がいるのはよいものだな」
「そう言ってもらえるとわたしも嬉しいよ。……あ、やっぱり聞き流せなかったから教えてほしい。『たまによくあるって』そんなにある?」
「たまにわりとよくあるよ」
「そうかぁ……そうかぁ……気をつけようっと」
カントー地方までの道のりはアオイにとって気の重い巡礼だったが、パンジャにとっては気軽な旅行とも言えたはずだった。でも彼女だけ楽しそうにしていたらアオイは理不尽に怒りを覚えたことだろう。自分を慮ってくれる彼女は救いだった。
「しかし、それでも……その……ありがとう……」
「どういたしまして、だ。アオイ。……『お母様とのこと気に病むな』とはとても言えないが、自分と他人の違いは何か。それは秘密の有無だ。『あなたの知っていることをわたしは知らない』、『わたしの知っていることをあなたは知らない』。それが自分と他人を別つものだ。お互いを知る時間が必要だ」
「…………」
パンジャの言は理屈のある言葉のように思えた。
そのため。
アオイは足元に転がる小石を小突いた。
「では母と私はまるきり他人だな。……私はあの人のことを何も知らない。あの人もきっと私のことなど知らないだろう。ミアカシさんと私のほうがよほど家族をしている」
「人は遅かれ早かれ別たれるものだ。例外無く」
「心配してくれてありがとう、パンジャ。でも今回は私のために会うのではない。……ミアカシに私の母のことを説明するときに困るんだ。何と紹介すれば良いのか分からない。その曖昧を無くしたい」
気心知れたふたりの間に、素知らぬ沈黙が落ちた。
その理由は何なのか。
答えを探した彼は何となく今のパンジャを見つめてはいけないことを悟った。
「君が心を動かすのはいつだってポケモンのためなのだな」
「え?」
橋の下で一匹のコイキングが跳ねた。
時間がやけにゆっくりと感じる。
けれど重力に逆らいきれず水滴は落ちてしまったようだった。
「……わたしは心配だ。もうすこし君は自分のために人生を選択すべきだ。ミアカシさんのためではない。わたしのためではない。何よりも君自身のために」
「何を言っているんだ、パンジャ。私はずっと私自身の夢のためにやって来た。むろんそれは君の夢でもあったかもしれないが……」
パンジャは手袋に包まれた指を組んだ。アオイと同じ方向を見つめる目は決して交わることがない。この関係性をふたりは良しとしていた。――不意に指が解けた。
「今のわたし達は自由だ。『やらなければならない』ことは何一つ無い。君が本当にお母様に会いたくなければ、会わなくてもいいだろう。ここから先はただの旅行だ。『会うべきだ』、『会わなければならない』。そんなこと誰も命じていない。――自分を偽ってまで貫くことだろうか?」
「私は無理はしていない。……母に会いたい理由は本当はたくさんある。そのひとつがミアカシさんだというだけだ」
アオイはひとつ頷いて「ありがとう」と礼を言った。
彼女の言動は極端だが、それでも、この世界で数少ない真摯にアオイを思ってくれる人だった。
「君が無理をしていないのなら、わたしは、わたしはそれで」
「先日、君は言ったな。今だから良かった。この結末を選べたのだ、と。きっと今の私もそうだ。母のことは……あー……きっとガッカリするんだろうが、それでも結果を歪めずに受け取れると思う」
「…………」
喜びとも悲しみとも見える表情を見せ、俯きがちに顔を伏せたパンジャは、しかし、ある時、顔を上げた。ベンチに立てかけていた日傘を手に取ると、地面をコツコツ叩いた。
警戒の合図だ。
アオイは杖を取るとベンチから立ち上がる。日差しを受けてピョンピョン跳ねていたミアカシがアオイの後ろに隠れた。
パンジャの視線の先。
彼と同じ紅色の髪を風に揺らして、一人の女性がやってくる。
遠目で見た彼が抱いた第一印象は「細い」、「小さい」という平凡なものだった。
母の不在による概念の誇張は、彼のなかでヒイロの正体を2m近い巨体まで膨らませていたが、実際は1m60㎝のアオイの身長と同じか、ほんの数㎝の差しかない。
ただの女性だ。ごく普通の人だ。
「あ……の……」
アオイは訪れると知っていた動揺のなかで声を上げようとした。
けれど、これではダメだ。
何も誇れるものが無かったとしても、彼女の前に立つ時だけは胸を張って立たなければならない。――かつて、パンジャの前で虚勢を張り続けたように。
「――お久しぶりです」
すぐに呼吸を整えた。
彼女の前では、一分の隙も無い理知でありたい。
アオイは姿勢良く礼をした。
「やあ、見違えたな」
その女声は、懐かしい声だ。遠い記憶の奥底に聞き覚えがある。
そういえば、こんな声をしている人だったとアオイは思い出した。
近くで見るアオイの顔の構造は、父よりもこの母に似たものらしい。笑うと口の端が左へ上がる。ヒイロにも見えるその癖は、アオイと同じだった。
しかし、記憶とは違う物がある。
「――いいや、見間違えたと言った方が正しいな。その足は何だ」
以前には無かった片眼鏡から見える冷たい目が、まっすぐにアオイを射貫いた。
「これは……実験で負いました。その時の怪我です」
「怪我ねえ」
気に食わないという感情を隠そうとせず、アオイの母、ヒイロ・キリフリは彼の足を見た。残念ながらというか、当然というか、大して驚くことでも無かったがヒイロはアオイの怪我のことを知らないようだった。
そしてアオイも、ヒイロのことを知らなかった。
「――あなたこそ、その目はどうしたんですか」
ヒイロの右目にある片眼鏡は以前無かったものだ。
光の角度でレンズは薄い青に見える。
「ああ? 見てはいけないものを見てしまった代償を払ったのだ。深淵を覗く者は云々というヤツだ。なんだ、私の仕事に興味があるか?」
「ありますが……」
その時、ヒイロがパンジャに気付いた。
「初めまして、アオイのお母様」
「君は?」
「アオイの友人のパンジャです。今はシンオウ地方で一緒に暮らしています」
「一緒に? そうか。ふむ……良い友人を持ったようだ。これからもよろしく頼むよ」
ふたりの会話は彼ら互いにとって面会における唯一のものとなった。穏やかな会話を終えた後、パンジャはアオイを一度だけ見ると静かに離れた。アオイと彼女の間で予め取り決めた通りだった。
ふたりきりになった。
ヒイロは腕を組むとベンチをちらりと見た。
「さて。歩きながら話をしようかと思ったが、お前がその様ではな」
「構いません。歩きましょう」
「手短に、な。お互い忙しい身だろう。研究所を空けてきてよかったのか?」
「私は研究所をやめました」
「怪我とは、ああ、なるほど、実験中の事故か」
小さく笑ったヒイロは、ほんのすこし目を細めた。――気まずくなってやめたのだろう。彼女はそう言いたいのかもしれない。誤解されることは嫌だったのでアオイは伝えた。
「いいえ。実験で大切なポケモンを失ったので、化石からポケモンを復元する研究はやめました。あなたにも関わりの深いポケモンです」
歩き続けるヒイロは怪訝そうな顔をした。アオイに残したものはない。――そう思っているはずだ。
「あなたは手短にしたいのでしょうね。……あなたに渡したい物があります」
「何だ」
「これに見覚えはありませんか」
誰が持っているべきか。
この日まで迷い続けたアオイは、わずかな逡巡を捨て胸のポケットから小さな箱を取り出した。
「それは?」
「ジュペッタだった、ものです」
アオイはタワーオブヘブンにジュペッタの残骸を置いてくることはなかった。パンジャやコウタに対して一度もジュペッタと埋めると言ったことはない。
それは人に愛されたいと願ったポケモンが、人から離れることを望まないと思ったのだ。
「何を出してくるかと思えば……心辺りは無いな」
想像が容易いことではあったが、ヒイロはアオイとの会話内容に無関心だ。
会話に対し一応興味のある素振りを見せているだけ、アオイとの間に交わされる関係性は他者に比べ温度あるといえるのかもしれなかった。
アオイも努めて落胆の表情を見せぬように杖を動かした。
「あなたは、いつか私にぬいぐるみをプレゼントしようとしませんでしたか?」
「あ? ああー、そう言われてみれば、そんなこともあったか。しかし、プレゼントしようとしたとは? あら? 渡さなかったか?」
「ええ、渡さなかったんですよ、あなたは。バースデーカードとプレゼントは屋根裏にありました」
「結果としてお前の手に渡ったワケだ。当初の目的は果たされた。何の不満がある?」
この人は――。
アオイは言葉を見失った。
過程をまるで尊重していない。もちろん、それによって誰が何をどう思うかなど埒外だ。これはきっと今に始まったことではないのだろう。実の息子であるアオイに対してさえ対応が変わることは無いようだった。
奇跡的に不服を顔に出さないことに成功したアオイは、退くことをしなかった。
「……不満はありません。けれど、私はあなたから受け取らなかった。だから中身はまだあなたの所有だ。これはあなたに持っていてほしいと思います」
「どこへなりと好きなところに埋めてやればよかっただろう。腐る物ではないといえ亡骸を持ち歩くのは面白い趣味だ。褒めているのだぞ?」
「趣味ではありません。……彼が探していたのはあなたです。あなたに会いたかったのだと思います。だから、どうしてもあなたに渡したかった」
「たかがポケモン一匹のために骨を折ったものだな。研究室を辞める価値はあったのか?」
アオイは答えなかった。
ヒイロはほんのわずか笑い、ジュペッタの欠片を受け取った。
「これを私に預けて、お前は何を望むのだ」
「何も。今さら何も望みませんよ。あるべきものがあるべき形に戻るだけです。ただ、ジュペッタの望みは、きっと、私と同じようにあなたに…………。……いいえ。できれば、ずっとお側に置いてあげてください。どうか……どうかお願いします」
アオイは頭を下げた。
ジュペッタとの生活はすでに記録でしかないが、彼ならばこれを望むだろう。所有者に愛されてこそのぬいぐるみだ。
「……ふん。軽々しく頭を下げるものではないぞ、アオイ」
「では」
「胸を張れ」
思いがけない言葉に顔を上げたアオイの目の前で、ヒイロは受け取った金色の塊を指で弾いた。
宙に放られたそれをアオイは目の前で掴んだ。
「な、何をするんですかっ!」
「『子どもに愛されて』こそのぬいぐるみだ。そしてお前は愛したのだろう。だから、お前が持っていなさい」
「急に母親面されても困りますっ!」
受け取ってもらえなかった。
その事実に打ちのめされそうになっていたアオイは咄嗟に本音がこぼれた。
「おいおい、お前が生まれた時から母親している私に向かってたいそうな物言いだ――と言いたいところだが母親として大した働きをしていなかったから仕方が無い。甘んじて受けるとしよう」
「ダメです。受け入れられません。あなたが持っていてください」
「だって思い入れが無いんだ。愛しようがないじゃないか」
その言葉にアオイは一呼吸を飲み込む――けれど感情が堰を切った。
「ではなぜ、わたしにぬいぐるみを贈ろうと思ったんですか。思い入れが無いのはぬいぐるみだけではない。私だって同じでしょう」
ヒイロはわずかに眉を寄せ、苦しそうな顔をした。けれどきっとそれはアオイが思い描くような感情の発露では無い。きっとその時の自分が何をしようとしたか思い出そうとしているのだ。
そして。
「月並みの母親ならば、そうするだろう。子の誕生日なのだから」
「では私は月並みの息子ですから、こうします。絶対に、これはあなたが持っていてください。ほんのすこしでも私に愛着を持っているのなら……いいえ、持っていたのなら私の願い事を聞き入れてください」
「私も困る。いよいよ私からお前にあげたものがなくなってしまうじゃないか」
「とっておきの置き土産をもらっていますよ。ええ。無関心という名前なんですけど」
「…………」
ヒイロは露骨に面倒くさそうな顔をした。
それを見たアオイは息が止まるほど傷ついていたが、開き直ることに成功した。
「これまで意思疎通をしてこなかった精算をしているんですよ、私達」
対立する緊張感の狭間で彼女は歪に微笑んだ。
「そのようだ。ああ、やはり血縁とは厄介だな。無碍にできぬが無益なのだから。フジのご老体はこんなものをよくも取り戻そうと足掻くものだ。――アオイ、それを寄こせ、所有以降は肌身離さず持とう。そして眠る前の1分にジュペッタの生に思いを馳せるとしよう。お前の弔いとは『こう』なのだな?」
「あなたの信じるものに誓って言えますか?」
「私が愛し信じるものはこの私、ヒイロ・キリフリだけだ。ゆえに我は我に誓う。誓言を違えることは無い」
「…………」
渡す一瞬、指先が触れた。
再び質量の喪失を感じる。これでアオイと金色の塊との関係は終わりだ。
アオイは妙に空しさが残る胸を掻いた。
「なぜ、死んだ」
些細な仕草のはずだった。
見上げるためにわずかに顎を上げるヒイロが訊ねた。
間近で見つめる彼女は、わずかに体が動く。それは呼吸をしているからだ。そのことを認めた時、アオイは彼女が幻想の生き物では無く、現実に存在する人間なのだと感じた。初めて彼女のことを血の通った人間だと思えた。同時に、この人は本当に自分の母親なのだと。
「私は……実験に失敗したんです。研究室に内密に行っていた実験でした。目的は、欠損のある化石を復元させること。ジュペッタは……彼は、私の盾になってくれました」
「そうか」
彼女は、手の中の金色の塊に目を落とした。
「実験は役に立ったか?」
「立ちましたが、世界は変わりませんでした。何も。何も変わらなかった」
「お前は何をしたかったんだ」
感情の混ざらない声が、アオイに差し向けられた。
それは温度が無い。同情が無い。真理を求める探求者の声だった。
解答を探すアオイの頭の中を無数の言葉が溢れた。
理由も理屈も言い訳もたくさんあった。感情も思惑も、今のアオイを構築する全てが納得できる解答であり、理由になりえた。
それでも。
この時、ただひとつを選ぶなら。
「あなたに追いつきたかった。ずっと、ずっと、あなたに、ただ……私を見てほしかった……」
「ふははは、私の目も見ずによく言えるな」
彼女は笑う。嗤っているのではない。ただ、面白いことを聞いたと笑っていた。
震える手で口元を隠したアオイは、彼女の言葉に今度こそ何も言えなくなった。返す言葉が無い。何にも恥じないように生きていたかったが、結果は理想からほど遠かった。
「だが……しかし、まあ……」
ヒイロは初めて曖昧な物言いをした。
そして一歩踏み出すと、アオイの肩に手を置いた。
「お前も頑張っていたのだな」
ハッと顔を上げたアオイは鼻先が痛くなった。
何も知らないヒイロの障りない言葉が、彼が負った傷の全てを労った。
「私は! 何も……まだ何も……何も、あなたに……」
ボロボロと涙がこぼれて、言葉が続かない。目の前にいるはずのヒイロの姿が歪んだ。
「お前は――ひょ?」
ヒイロが手を伸ばしかけた、その時。彼女の体は文字通り宙に浮いた。空を掻く足先を一度だけ見たヒイロは、首を回した。
「な、なんだ? ――ああ? ヒトモシ? なぜカントーに……あ! おい、アオイ! お前のポケモンか!?」
「ぐす……ぐす……」
アオイが泣き出したことに敏感に反応したのだろう。
これまでじっと大人しく彼に付き添っていたミアカシがヒイロにサイコキネシスを仕掛けているらしい。
「おいおい、待て待て、ヒトモシ! もしもし、ヒトモシ! おい、アオイ! アオイ! やめさせろ!」
「すみません……思いがけず……泣いてしまって……ぐす……ぐす」
ハンカチを目に押し当てたアオイは、ミアカシを見ていなかった。
「あー! 飴やるから泣き止め! なあ、ほら!」
体を雑巾絞りされては堪らないとヒイロはアオイを呼んだ。
□ □ □
川の流れに沿い、並木通りを歩く2人の歩幅は奇妙なほど合っていた。
アオイにとって夢のような光景だった。本当に母が傍にいて、会話を交わしている。
(私は……私の望みは……これだけで本当は、良かったのかもしれない)
ジュペッタの件でも同じように思ったことを思い出していた。後悔を消したいと願いつつ、動いているジュペッタを一目見ることができたのならそれで良かった。同じようにヒイロとの関係も満足しかけている自分がいた。
「ヒトモシにまったくどういう教育をして……まあ、教育をしなかった私が言えることではないか」
「ミアカシさんは私でも制御できていないので、すみませんね。モンスターボールはだいぶ前に紛失しました」
小さな焔を灯すミアカシはアオイの腕の中でジッとしていた。ミアカシはヒイロに手を伸ばそうとして彼に遮られることを何度か繰り返していた。顔の作りが似ている人間を見るのは初めてなのだ。きっと興味深いのだろう。
「ボールを無くすなよ。……それで、名前を呼んでいたな。アカシア? あ、違うな。何だって?」
「ミアカシさんです。ミ、ア、カ、シ」
「いい名前じゃないか。ミアカシさん?」
名前を呼ばれ元気よく返事をしたミアカシとヒイロは握手した。
「この子に会うためにタワーオブヘブンに行ったのか? ついでに埋めてくれば良かったものを」
「違いますよ。タワーオブヘブンに埋めるつもりはありませんでした。私は鎮魂の鐘を鳴らしたかったんです。……この子は、職業トレーナーの厳選に漏れた子です。ちょうどいい機会だったので受け取りを申し出たんです」
「ふぅん。求める性格の不一致というヤツかな? 可愛い顔しているじゃないか。とても素敵な焔だ」
ヒイロが指先でくすぐるとミアカシは、アオイの腕の中で擽ったそうに笑った。
「お母さんだよー、などと言いにくいが、こんな時くらい言ってもいいだろう。私がアオイのお母さんだよー」
「や、やめてください……恥ずかしいじゃないですか……冗談でも言える精神に驚きですよ。どの口で言うんですか」
「私の口はこれっきり。ひとつしかないのさ」
ミアカシはヒイロのことをすっかり気に入ったようだった。しきりに手を伸ばしたがっている。
それを見て、ヒイロのキリリと尖った印象の強い瞳が緩んだ。
「そうだ。アオイが本当に小さかった頃に子守を任せていたポケモンがいるのだが、アオイは覚えているか?」
「あなたって人は本当に母親の風上に置けない人ですね……」
ははは、と笑いながら投げた3個のモンスターボールが光を放った。
「――――」
ピコピコと音を鳴らし、現れたのは2体のオーベムと1体のリグレーだった。
特にミアカシが敏感に反応したのはリグレーだった。以前、エスパータイプのラルトスと長く暮らした思い出があるためだろう。ミアカシはエスパータイプに懐く癖があるようだった。アオイの腕を飛び出したミアカシは、リグレーに近寄った。リグレーは突然現れたポケモンに驚いたようだったが、ヒイロが何も言わないことで警戒心を解いたらしい。お互いに興味を持っているようなので、彼らのことは流れに任せておくことにした。
「しかし、オーベムとは? 見たことがないわけではないですが、珍しいですね。なぜ……彼らを」
「リグレー、オーベムというポケモンに対し、いろいろと思うことがあってな。だって、人工物っぽいだろう」
「そりゃあまあ……そうかもしれませんが……?」
2体のオーベムのうち、1体のオーベムがアオイの前で立ち止まった。ミアカシに興味があるかと思えばその様子ではない。目の存在が曖昧だが、それでも見つめられていると感じた。
「この子が、もしかして」
「そう」
掌にある発光体をアオイに向けたオーベムは、音と光を放った。それは小さく周囲に聞こえないものだったが、何かを伝えられているということは分かった。けれど法則性が分からない。戸惑うアオイに、ヒイロが声をかけた。
「彼らの言語を人間に理解できる言葉にすることは難しい。恐らくあれは語彙ではなく感覚と結びついているからだ。これは、簡単なイッシュ式モールス信号。私が彼らの言葉を覚えるより、彼らがこちらの言葉を覚える方が早いとはな」
「それで、彼はなんと」
「『こんにちは、アオイ』と」
挨拶の概念を理解している。人間同士では既に型にはまった言葉だが、コミュニケーションの第一歩だ。
「こんにちは……だが、私は君のことを覚えていないんだ。ごめんね」
「気にしていないそうだ。『元気?』と聞いている」
「ああ、元気だよ。ありがとう。君もどうか元気で」
アオイは歩み寄って握手した。
無機物に見えた表情が、ほんのすこし喜色を浮かべているように見えるのは、きっとそう見えるだけの思い込みだろう。それでも、気持ちが通い合っていると感じた。
ミアカシを見るとリグレーと仲良くなっていた。ヒイロとアオイがそうしていたように、並木に沿い歩いていく。
「ポケモンがポケモンらしくしていることは、本当に好ましい」
再び歩みはじめたヒイロが先を行くミアカシとリグレーを見つめた。
好ましいとは、何か。
アオイは彼女が何を好ましく思うのか知りたかった。
「ポケモンはあるがままの姿が美しい。本来、人が手を加えるなどおこがましいことだ」
「おこがましい、ですか」
そうであれば、アオイが成そうとしていたポケモンを復元する夢は、彼女に言わせれば『おこがましい』事業なのだろうか。
答えを急ぐアオイを、ヒイロは笑った。
「そう忙しい思考を早回すな。拙であるぞ」
「む」
「お前の研究は良い。ポケモンから、この世界の根幹を解き明かす最も優れた接触法のひとつだ」
かつてならば、賞賛に聞こえた言葉をアオイは受け取ることができなかった。アオイが化石の研究に固執したのは、それが母に近付くのに最も手っ取り早い方法に見えたからだ。もちろん「人やポケモンの利益になるように」と願ったことも本当だ。
言葉を受け取るには心の準備が足りなかったのだ。
「根幹を解き明かす、ですか。……私は、ただ古いポケモンの姿から生態を知りたかったのです。あなたのように世界を俯瞰する目を私は持ち得なかった」
「そう。それが良かったのだ。お前の目的は、目前の事物に対し依存している。その結果を利用するのが私のような総括を前提とする研究者だ。今、この現在から時計の針を逆巻きに回して過去を特定する――という」
「それが、あなたの研究ですか? 過去の有様を知るということが」
「いいや、過程だ。――私の命題は『なぜこの世界に人間が、ポケモンが存在しているのか』。私はどうしても知りたいのだ」
果ての無い夢だ。
口にするのも憚られる、限りなく無謀に近い夢だ。
アオイはきっと歩き続けていれば目眩を覚えたことだろう。数秒前からずっと彼は立ち止まっていた。
「あ……あなたは……本気ですか……?」
「大いに本気だ。本気で無ければこんなこと言わないだろうよ。伊達や酔狂じゃいけない。この世界の生命が設計されたのなら、きっと『在る』ことに目的があるのだろう。だが、今は人もポケモンもその目的を知らない状態だ。この世界の誰もそれを知らないのだ」
「人とポケモンの存在証明をして……それから、どうするのですか? 分かって、それで人とポケモンの役割を理解して、それから、どうするんですか……?」
アオイは茫然と呟いた。
これが、これこそが、私を見捨てた理由なのだ。
アオイはヒイロが命を懸ける理由を遂に知った。
だからこそ、訊ねずにはいけなかった。
その夢はヒイロが一代で成すには困難だ。
独りで行うにはあまりに、あまりに、あまりに、あまりに夢が大きすぎる。その全容は、どうあっても人間の視界に収まりきらない。
(なぜ……ならば、なぜ私を……この人は捨て置けたのだ……?)
一代でたどり着けなければ、次代へ。
アオイが何としても研究を続けようと願ったように、彼女もそうすべきだった。
けれど、ヒイロは何も選ばなかった。今でさえ、彼女は誰も選んでいない。
「その先? いずれ辿りつく答えを見つけたのなら簡単だ。その道筋まで最大効率を求めたい。――そのために私は研究により逆計算を続ける」
「最大……効率……と、は……? あなたは、命を過大評価している。いいえ、いいえ、命が高尚なものならばいい。その証明は証明するに足る結構なものでしょう。ああ、価値があるのなら、それはきっと素晴らしいことだ。けれど、そうでなかったら? 生まれることに、死ぬことに、何も意味が無かったら? 私達が生きることに何も意味が無かったら? もしも、我々の設計が誤っていたら? あなたが望んだ結果では無かったら?」
アオイは、ヒイロの長い外套を掴みたかった。
独りで歩むには、辛い道のりだろう。
どうあったって彼女の歩む未来が、普通のはずがないのだ。
もしも、ヒイロが歩みを止めることができたら。
彼は夢想した。その時は、彼女は『研究者の女性』ではなく『アオイの母』になってくれるのではないか。ずっと見て見ぬフリをし続けた一縷の願いが眼前にある。
それでも。
ヒイロは足を止めて、アオイを振り返った。
「その時は、僥倖だろう。私達とポケモン達が自由になるだけだ。我々は、生まれてから死ぬまで自由で、全てが許された生き物なのだと胸を張って言えるようになるだけだ。何者の拘束を受けない、運命など存在せず、引力さえ我々を捉えることはできない! 私達は、世界に配置されたモノではない。ただひとつの生命として生きているのだ。――その証明ができる」
アオイは一度止めた足を動かした。不自由な足を引きずるように前に出た。
「あ、あ、あなたがやらなくていい……! どんなにたいそうな夢でも、いや、素晴らしい夢だからこそ、あなたがやらなくていい! どうして、あなたがやらなくちゃならないんだ! ふざけている! まったく! 許せない! ヒイロ・キリフリ! どうして、どうして、あなたは私の母であってくれなかったんだ!? そんな夢……そんな夢を……どうしてあなたが……!」
伝わらない。
きっと、この言葉は伝わらない。それでも喚かざるをえないアオイの不安を、恐怖を、何より心配を、ヒイロは一掬いさえ理解してくれないだろう。
けれどアオイの想像に反し、初めてのことが起こった。
ヒイロが笑みを無くした。
これから先、これが、これこそが何より重要なことなのだ。そう言うように、ヒイロは言った。
「アオイ、それでもこれが私の愛なのだ」
分からない。
何も分からない。アオイは叫んでしまいたかった。
「――お前を生んだ時、多くの母親がそう思うように、私もお前が愛おしく思ったよ。嘘は無い。嘘では無かったが、実に稀なことに、私は本能より理性が上回ったらしい。私はお前が望むように、お前を愛せないと感じた」
「だから」
捨てたのか。――再び「拙である」と右手を挙げて窘められた。
「だから、私の愛は形を変えたのだ。お前達の人生がより良いものになるように私は命を懸ける。――私は許せないのだ。何も分からぬまま生きて、死んでいく。その生き方の何と歪なこと」
それが普通であると思考を止めなかった果てが、この人なのだ。
アオイは我知らず握る手に力が入った。ヒイロの言葉は続いた。
「――朝起きて、顔を洗い、食事をして、歯を磨き、仕事をして帰る。これら全ての行為に意味があり、すべき納得がある。だのにそれを積み上げた人生に意味が無いのだ。生命活動の停止後に、その生命の意味が現れることを私は許さない。現れるのは何だ? 所詮、この社会に与えられた役割ではないか! 我々人間もポケモンも社会性ある生き物だが、生き物が社会のために生きるのは本末転倒の様である。だから私は逆計算し続ける。そして世界に我々が生きる意味とは何か。それを示して見せよう!」
ギュッと手を握るヒイロの目は輝いていた。燃える宝石に似た煌めきは、何人も冒すことができないのだろう。血肉を分けた子にさえ。最早やめろとも、やめてほしいとも言えない。アオイがかける言葉は何も無くなっていた。
彼女は、これまでに見た誰よりも正しく、人の為になる研究を行っていた。
だが、アオイの望んだひとりに捧ぐ愛ではなかった。大凡正常では無い。
けれど、これだけが唯一、ヒイロ・キリフリがアオイに示す愛なのだ。
はくはく、と苦しい息をしたアオイが声を低めた。
「あなたの夢はなんですか? これが全て『私のため』というのなら『あなたのため』はどこにあるのですか? 私は、私のためにあなたの人生を潰してほしくないのに……」
「心配するな。私の人生は充実しているぞ。きっとお前よりも! 私の夢は、目標の達成と同時に叶えられるのだ! 不可能の実現こそ私の夢! 子どもっぽい夢とお前は笑うかもしれないが、実はな、私は英雄になりたいのだ」
「英……ゆぅ……ですか」
ヒーローになりたいとポケウッドを見た子どもがはしゃぐように、彼女は言った。異なるのは、そのために現実的かつ長大な時間を要する手段を取ったという点だろう。誰もが夢想し諦める夢を彼女は、まだ持っている。
「そうだ。この世界で最も偉業と称えられるべき事業は何か、前人未踏の境地とは何か、私は生命の定義だと結論づけた。だからそれを達成した時、私は英雄となるのだろう。お前への愛と私の夢は同じなのだ」
「……そうですか……それは……」
感想らしい感想が浮かんで来ない。アオイは曖昧に頷いた。
ヒイロはその顔を見て、はにかんだ笑みを浮かべた。
「しかし、やはりお前と私は会うべきではなかったな」
「あなたが愛している私がこの様であると知るのは、研究にさぞ水を差してしまったことでしょう。陳謝しますよ」
皮肉に自虐をこめて言う。我ながらウザいことを言っている自覚はあったので地面を見ていた。
しかし、だからこそ。
「いいや、違う。まあ、私はお前の命があれば腕や足の一本二本飛ぼうが大抵のことはどうでもいいのだ。――とはいえ生まれた時、一般的な形で愛せないと思っていたが、しかし……こうして言葉を交わすと、愛おしく思えるものだな……」
ほんのわずか。よく聞いていなければ、聞き間違いの範疇であったが、かすかに後悔の混じる声音をアオイは聞いた。
早まるな。拙である。――その言葉は、本当にアオイにだけ正しく向けられたものだったのだろうか。
アオイの頬を撫でる白い手を――彼は掴んだ。
彼女がアオイを一般的な形で愛せないならば、アオイもまた彼女にその様式を求めるべきではないのだろう。だから愛の形を変えなければならない。
「――あなたのことだ、どうせ後継者を育てていないのでしょう。なぜ、私を指名しないのです。実績が不安だというのなら、示しましょう」
「ほう? 何だ何だ?」
「数ヶ月前に後悔されたポケモン蘇生論をご存じでしょう? あれを作成したのは私――と、先ほどいたパンジャです」
「ははは、本当か? なら面白いことを考えついたな。なるほど化石復元に携わっていればただの死体を復元することなど容易いものなのか? 検討は、しかし、違う、違うぞ、アオイ。私は後継者を作る必要がないのだ」
「見栄を張らないでください。あなたの寿命が尽きる前に、世界を解き明かすことはできない。あなたの能力が問題では無い。単に時間がかかりすぎるのです。人間とポケモンが生まれて何億年経ったかご存じでしょう。逆計算は子どもの虫食い算ほど簡単では無い。――断言しますが、正答に到達する前にあなたの寿命が尽きる。研究が私へのあなたの愛だとおっしゃるのなら、それを甘んじて受けましょう。だから、私があなたの事業を受け継ぐことも愛だと思いませんか?」
「アオイ、私は事業を受け継ぐことを愛とは呼ばない。それは、後継へ送る転嫁であり言い訳である。研究者としての敗北に他ならない。『申し送らなければ終わらせることのできない』程度の研究者であると自ら語るようなものだ。――研究者は自分の手段が尽きるまで、決して事業から手を離してはいけないのだ」
過去の自分に突き刺さる言葉をアオイは一息で呑み込んだ。
あらゆる説得が無駄だと分かっている。握りしめた手を離した。
「私が、あなたの幸福を願うとしてもですか?」
「私にこの先を言わせるな。……お前は、ずっと、私のいい子だから」
猛るアオイの唇を指先で撫でたヒイロは、一度だけ口を噤んだ。
「さて、私の寿命が尽きるまでに終わらないと心配しているな。そう。そうだな。普通ならばそうだ。賢いではないか。褒めるぞ。よしよし。ああ、普通ならば無理だろう。我々人間の科学力ならば、という前提があるが」
「なに――」
とっておきの秘密を教えるように、ヒイロはアオイの耳に唇を寄せた。
「もしも、計算過程を飛び越えることができたらどうだ? 未来で結果を見つけて、現在たる過去に持ってくる。それができるとしたらどうだ」
「タイムマシン構造? ダメだ。世界の因果律をねじ曲げるつもりですか。無理だ。できるわけがない。そんなことが起こりえたら――」
「起こりえるのだ。時空を、次元を、空間を、ねじ曲げるポケモンがいる。その力の再現ができたら可能性は0ではない1だ」
太陽が雲に隠れ、真昼なのに夕暮れのように暗くなった。
アオイがどれほど言葉を尽くしたところで、彼女は止まらない。かつてパンジャが感じたであろう葛藤をアオイは知った。
「いつですか。いつ……やるのですか」
「さあ。まだ調整中だ。近いうちとだけ。まあ、失敗しても『やぶれた世界』に吸い込まれるだけだから、なんとかなるだろう。生還者の例もある」
危険過ぎる……!
これが、あなたの最善で、いくつもの想定を重ねた結果なのか。何十年も積み上げ重ねた結果がこれなのか。喉の奥で留めようとした声が潰れた。呻いたアオイをヒイロは省みなかった。
「それでも、私はこの問題にケリをつけてしまいたいのだ。他の誰でも無い、この私の手で! これは私による私のための夢なのだ!」
「…………」
「そんな顔をするな」
見るに堪えない情けない顔をしているように見えただろう。アオイは顔を背ける。
(ああ、どうして私は――私達は――今しか無いんだ。今ならばあなたが理解ができたのに、きっと分かり合えるのに、ようやく触れるほど近くへ追いついたのに!)
彼はもっと早く会うべきだと心から後悔していた。
今この時にも残りの時間を惜しんで会うことができただろう。
けれど同時にお互いが無言のうちに理解していた。今だからこそ、お互いが何を思っているか分かった。きっと今でなければならなかった。
心の底に落ちてくる納得がある。それでも視界が滲んだ。
「許してください……私は、ずっと、あなたが私のことを嫌っているのだと思っていて……」
両手で顔を覆ったアオイは、涙を隠すのが精一杯だった。
「バカを言うもんじゃない。しっかりしろ、胸を張れ! お前の研究結果は悪いものではなかった。今の時代には、ほんのすこし早すぎたようだがな。私と同じ研究の道を往くのならば、お前は『私』を越えて往くのだ。顔を上げて歩けよ、アオイ」
「一度だけ、あなたに願いごとをすることを許してください」
「叶えよう、アオイ」
「『お母さん』と……呼んでもいいですか?」
それは。
ふたりが抱く夢に対し、あまりに小さく細やかな願いごとだったので。
「なんだ、そんなこと!」
ヒイロは小馬鹿にしたように笑った後。
「そんなこと……そんな、こと……どうして、そんなことでよかったんだ、お前は」
数歩の距離を走って抱きしめたヒイロの声は掠れていた。
体温がある母の存在は、これまでアオイが抱いていた虚を満たしていく。
この先に続く答えをアオイは告げることができなかった。
□ □ □
時間は既に夕暮れを差していた。
カーテンを閉じようとしたアオイは、窓を流れる水流に目を止めた。
この日、アオイとパンジャがシンオウ地方へ帰ってきた日は雨だった。
「どうにも天気が……じっとりするな……」
しきりに襟を触ったアオイは窓越しに辺りを見回してからカーテンを閉じた。ちょうどその時、廊下から荷物を持ったパンジャが居間へやって来た。
「アオイ、洗濯は明日にするが、問題ないか」
「ああ、そのように。――待て待て、明日の当番は私だぞ」
「バレてしまったか。やれやれ」
堂々と騙そうとしてくるパンジャの軽口を躱したアオイは、胸騒ぎを覚えていた。
何の予感であれ杞憂であればよいのだが。
そう願いながら、今は長旅から戻ってきて妙に気が逸っているのだ、と言い聞かせていた。
帰ってきたアオイの生活には、目に見える変化が現れていた。
「ミアカシさん、リグレーに寝床の場所を教えてあげてほしいんだ。寝床。ベッドだ」
分かるかい? アオイは慎重に訊ねた。
ヒイロから『この子をお前に預ける。公私ともに良い助けになってくれるだろう』と言われて預けられたリグレーは今のところミアカシと性格の不和は見られていないが、実際に生活するとなれば性格の不一致が出てくるかもしれない。そのことをアオイは特に気にしていた。
「モシモシッ!」
ミアカシの周りをふよふよ浮いているリグレーは、ミアカシに圧されるように廊下へ出てアオイの部屋へ向かった。できるだけ静かに杖を使って後を追いかけた彼は「モシモシ」と一生懸命説明しているミアカシを見守った。
部屋を後にしたアオイは、胸騒ぎは消えず首を横に振った。
「違う……違うな……これではない……私の心配事とはこれではない……」
「どうしたんだ、落ち着かないな」
とうとうパンジャが声をかけた。
居間に戻ってきてもカーテンをめくり何度も締め直そうとする自分を見かねたらしい。
「ああ、落ち着かない……何か胸騒ぎがある」
「忘れ物?」
「いいや、そういう類いではないと思う。座席を立つときは必ずふたりで置き忘れが無いか確認していたし……」
「わたしもそう思う。では君のお母様のことで、何か言い忘れたことがあるとか?」
「母のことか……言いたいことは言った気がするが……」
「すこし気が立っているんじゃないか? お茶をいれよう。さあ、君も座って」
「むぅ……」
アオイの思考には、ヒイロが抱える実験のことが見え隠れしていた。パンジャには、ヒイロのことをどう話したものか、整理がつかず話が中途半端になっていた。
お茶を飲みながら話をすれば、この不安も落ち着くだろうか。
椅子に座ってからもそわそわ体を揺すり、杖を撫でていると廊下から「モシモシ」とアオイを呼ぶ声が聞こえた。
「ミアカシ?」
居間からアオイの部屋へ行くためには玄関に面している廊下を渡る必要があるのだが、ミアカシとリグレーは途中の廊下で歩を止めたらしい。
――ふたりには何か気になることがあるのだろうか。まさか不安が伝染したわけではないだろう。アオイは立ち上がり半開きになっている扉を開いた。
「どうした……?」
ミアカシがこそこそ近付いてきて玄関を指差した。覗き穴を見ると大きな荷物を持った配達員がポケットからペンを取り出そうとしているようだった。
胸ポケットに差していたペンを取り、アオイは扉を開いた。
驚いた顔をした配達員が目を丸くした。
「あ、キリフリさん。お荷物です。サインをお願いします」
「サインの前に確認させてほしいのですが、荷物が来る予定は無いんです。どこから?」
「ええと、ちょっと待ってください。手元が暗くて……。あ、カントー地方シオンタウンからです。送り主は……ヒ……ヒイロ・キリフリ様ですね。ご家族ですよね?」
ひょっとしたら送り先を間違えているのかもしれない。そんな恐れを目に浮かべた配達員の青年は何度も瞬きしてアオイを見た。
「ヒイロ、は、私の母の名前です。ああ、サインを。荷物を受け取ります」
受け取った荷物は重かった。ラベルの表示を確認するが、壊れ物ではないようだ。
玄関の床に荷物を下ろすとミアカシとリグレーが段ボールに近寄ってきた。
「母から……贈り物など初めてだ……! はは、ど、どうしよう……!」
段ボールを撫で回し存在を確認する。ようやく実感が湧いてきたアオイは顔を紅く染め、笑うことができた。
アオイは、ほんの数分前まで抱えていた不安が吹き飛んでいた。
ヒイロからの贈り物は、これまでにない出来事だ。――これ自体がふたりの関係が無機質なものから、血の通った温かみのあるものに変わったように思える。それが何より嬉しい。今すぐパンジャを呼んで報告したいほどだった。ミアカシがワクワクしてアオイの体をよじ登って箱の中身を見ようとしている。
「何が入っているのかな。まあ、あの人のことだ。きっと参考書か何かなんだろうけれど……! ふふ、ふははは……!」
どうにも、にやけてしまう顔を抑える努力ができない。ミアカシが早く早くとアオイを急かし、リグレーもそれを囃し立てた。
彼は、努めて感情を抑制しながら控えめな手つきで段ボールの開封をした。本が納められているのかと思ったが、意外なことに中には紙袋が数個入っていた。その中で、最後に納められただろう一枚の付箋紙を手に取った。
『ヒイロ・キリフリ主任。実験失敗により存在が消失。遺体回収不能につき、遺品を送付する。私物取り扱いは遺言に拠るものである』
理解を迫る文面を、アオイは全身全霊で拒否した。
けれど。
頭上にある照明を受け、青色に光る薄硝子を覚えている。
あの日、ヒイロが身につけていた物と同じ片眼鏡が無機質にアオイを映していた。
【ヒイロ・キリフリ】
今回は、長らく存在は仄めかしながら、明示されることのなかったヒイロ・キリフリについて、語りたいと思う。
おまけ:ヒイロのイラスト
【挿絵表示】
◆作中、内包する小テーマは『英雄・母性・夢幻・災禍』
「英雄」とは何か。さまざま議論はあるだろうが、ヒイロは不可能と思われることを踏破した者という考え方を持っている。そして人間にとって最も難しく不可能と思われることは何か。生命の定義と考えたのは、「母性」が芽生えアオイが生まれてからの出来事だった。――この子の人生を良いものに。価値あるものに。意味あるものに。――多くの母親がそう願うように、彼女もそれを願う。では、と彼女は考える。善悪を計る物差しとは何か? ヒイロの試みとは、絶対的な物差しを作ることにほかならない。「夢幻」に形を与えようとする危うい事業は、あらゆる生命にとって前例のない「災禍」を証明する。けれど英雄とはそういうものだ。あらゆる犠牲を払い、進む。決して悪ではない。愛情は悪ではない。むしろ、あらゆる事のはじまりは善意であった。
試みるのは、愛のため。アオイを愛することは、彼女にとって自分を愛する事と等しい。「私が愛し信じるものはこの私、ヒイロ・キリフリだけだ。ゆえに我は我に誓う」。その言葉に、やはり嘘はない。自我の分岐した延長線に存在するアオイは、ヒイロの有り得た可能性でもあるからだ。だが未だ英雄に到達しないからこそ、久しぶりに話したアオイの言葉が、彼女の堅調な琴線に触れたようだ。
【あとがき】
本拙作において、悪夢から戻ってきた時系列でヒイロをどう取り扱いするかという課題がありました。理由は2点。
①「アオイの後悔の納得」に一段落ついたところで、作品が終わっても良かったのではないか。
②アオイの母ヒイロと対になる、パンジャの母ヴィオラの描写をだいぶカットしていること。
①が本当に悩ましいところだった。話が進むなかで、シナリオのまとまりを考えると103話「夢の果てに」でスッパリ終わってしまってもいいかもしれないと考えることが多くなった。ここでアオイとパンジャの関係、物騒な研究結果をどうするか(どうなってしまったか)について、ひとまず個人で決着をつけられる範囲の決着をつけることができるので、なんとなくでもまとまって終わったな、という落としどころにできるだろう、という考えがあった。
②は人物の関係性に集中するために、あえて削ってしまっていた箇所であり、アオイとパンジャの関係がほとんど決着した後。書くべきことが『母親との関係』だけになりはじめた時点で、書いてなさ過ぎるかもと考えていた。とはいえ、これまでの物語(友人同士の関係の云々)に、母親関係の話も組み込むのは、何だか子どもの喧嘩に親が突っ込んでくる野暮な感じもあった。
結論として、本拙作はアオイという人間の一旦の完結のために走りきることにした。
というか! 本拙作は、すでに群像劇の様相になっているので! どこで切っても尻切れとんぼの評価を免れず! もう仕方ない! やるだけやるぞ! スタートは4年前に切っていた、GO! という形で開き直ることにした。特にベルガ、ヒイロの結末とは本作において遺憾なことに既に尻切れとんぼの有様なのでこれでアオイの描写まで中途半端だったらこれまでの話は何なんだ、ということになりかねないので、注力することに決めた。――と決めたのが、悪夢の中の出来事を書いていた今年(2019年)1月の出来事でした。結果として、アオイが母に抱える思い、母がアオイに抱える思いを書くことができたので、この話(106話)を書いて良かったと思う。
【お知らせ】
次話が最終話になります!
もうちょっとだけ、お楽しみいただければ幸いです!
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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登場人物たち
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物語(ストーリーの展開)
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世界観
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文章表現
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結果だけ見たい!