もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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希え! 世界は君を選んだのだ!(中)

 

 早朝。

 世間一般では祝日と呼ばれる日に、アオイとパンジャは歩いていた。春の朝日は白々としている。それでも立ち止まり光を浴びているとじんわり手先が温まった。

 

 歩みの遅いふたりの歩む先では、バニプッチとヒトモシのミアカシが戯れていた。こおりとほのお。相性の悪いふたりはお互いの距離感を探り合っているようであった。バニプッチが近付けばミアカシは身を引き、ミアカシがそろそろと近付けばバニプッチは宙で距離を取った。

 

 ふたりに、ちょうどいい距離感が見つかれば仲の良い友人同士になれるかもしれない。アオイは仄に期待を寄せていた。

 

「…………」

 

 隣を歩むパンジャが足を止めた。

 

「腕は痛むのか?」

 

「いや……そうではないが……」

 

 何かを警戒するように頭を巡らせたパンジャは油断なく指先まで気を張っていた。

 

「どうした」

 

 アオイも周りを見るが、何も変わったものはみえない。公園の入り口。ゴミ箱。電柱。塀。代わり映えの無いイッシュ地方、シッポウシティの景色だ。

 

「……気のせいだといいが」

 

 パンジャ自身、言葉にしがたい感覚らしくその後の言葉は消えてしまった。

 

「あまり過敏になると疲れるぞ」

 

「分かっている。……分かっているが些細なことが目につく。例えば、あの樹木の葉の枚数は何枚だとか。きっと夏までには3万2千32くらいだと思うんだが、君はどう思う?」

 

 どう思うってどう思っているのだろう。考えてみたことがない。

 

「5万枚でどうだ」

 

「それでいこう。――ああ、むしゃくしゃする。アオイ、無視してくれ。こんなことを考えているなんていけないことなのに。わたしは頭がおかしいんだ。思考の指向性がばらばらで……。注意力が散漫でいけない。いけない。いけない……」

 

「あまり『いけない』と自分に禁止事項を作らないことだ。これまでの仕事が無くなってしまったから落ち着かないのだろう。だが、時間が解決する。新しい研究は右も左も分からないんだ。やるべきことはたくさんある」

 

「早く新しい宿題にありつきたいところだが」

 

 宿題。

 そんな単語に、アオイの重大な心残りを思い出した。

 

「そうだ。パンジャ。君に聞きたいことがあったんだ。メアリー・スーのことをどこで知ったんだ? 私は君に悪夢の中身のことまで話していなかっただろう」

 

「ああ……。そのことか。実は……わたしは君に謝らなければならないことがある。君はわたしの車にパソコンを忘れていっただろう?」

 

「え? あ。ああ……そう。ああああ!? 見たのか? 聞いたのか?」

 

 パンジャの言わんとしていることが分かったアオイは、その場で飛び跳ねた。

 アオイのパソコン。決してネットに繋ぐことが無いオフライン専用端末と化しているパソコンには、アオイ秘蔵の実験記録と論文が詰め込まれている。

 

 かつて、そのパソコンは定時にパスワードを入力しなければ該当のファイルが削除される設定が組み込まれていた。その習慣でアオイはパソコンを決して手放すことはない。例外は、その設定を解除していた悪夢の研究中と渡航したこの数日だけだった。

 その中身を、彼女は見たのだろう。文書のファイルには全てパスワードを設定しているが、音声はしていなかった――その事実を思い出したアオイの頬には、朱がのぼった。ほんの一瞬、憎しみが手足の自由を奪う。しかしそれは申し訳なさそうに目を伏せるパンジャを見ると気持ちが萎んだ。

 

「そこで君の実験記録を聞いた。ごめんね。すぐに言い出そうとした――ような気がするんだけど、辛くて記憶が飛んでいたようだ。思い出したのは、タワーオブヘブンだった。忘れていた時は……ええと、とにかくアオイを助けないといけないと思っていたんだ」

 

「だから、車の中で……そうか。私は、現実でもメアリーのことを叫んでいたのか。だから君は知っていた。そうなんだな?」

 

「ええ、そう。ところでメアリーって誰?」

 

 もっともな質問にアオイは気持ちを落ち着かせて話した。

 

「悪夢の管理者で君そっくりの性格の悪いヤツだ。人の分かりたくないことを、知りたくないことを、気付きたくなかったことを言う、本当に嫌なヤツだったよ……」

 

「わたしにそっくりだった?」

 

「色は違ったけどね」

 

 髪の色とか。

 パンジャは「へえ」と興味を惹かれたように頷いた。

 そのうち、彼女が悪夢に興味を示すのではないかと思い、アオイは手を振った。

 

「パ、パンジャ、誤解しないでほしいが。悪夢は、あまり良いものじゃないぞ。くれぐれも! くれぐれも! 言っておくが……」

 

 前フリじゃないからな、としつこく言い含めたアオイを見てパンジャは小さく笑った。

 

「でもアオイにとっては良い作用をしたようだ。今の君は、とても穏やかな顔をしている。……あんなに叫んでいたから、きっと苦しい思いをしたと思っていたのだけど」

 

 アオイは自分の顔に触れる。歩みを止めなかった。

 

「たぶん録音の9割は10回くらい死んでいた間の声だ。最後まで聞いたのか?」

 

「倍速を使わなかったから、まだ途中だ。開始から10時間程度の視聴を終えている」

 

 ――ということは、パンジャはタワーオブヘブンへ向かう日にほとんど睡眠をとっていなかったのだろう。どうりで眠そうにしていたわけだ。

 

(最後まで聞いていれば……彼女の行動は変わったのだろうか?)

 

 アオイは正気で聞いていることができなかったものを、彼女はよくも10時間も聞くことができたものだ。素直に感心した。……しかし、パンジャのメンタルはどうなっているんだろう。心配だ。

 

「外界から悪夢を観測するのは初めての試みだったのだろう? 倍速にするのはもったいないと思ってね」

 

「研究熱心で感心するよ。しかし、君には自愛が必要だ」

 

 彼女は自愛という言葉を不思議そうに唱える。

 アオイは、パンジャの手を握った。

 

「傷ついて平気なものはない。君は誰も傷つけてはいけないが、自分も傷付けはいけない。私が大切に思うものを君も大切にしてくれると嬉しいんだが」

 

「わたしにできるだろうか」

 

「できるだろう。きっとね」

 

 ふたりの視線の先で、ミアカシとバニプッチはちょうどいい距離をみつけたようだった。風上にいるバニプッチが小さな氷の粒をミアカシに降らせている。ミアカシは涼しい顔をして焔の火力を上げて水を払う。あれはあれで楽しそうに見える。

 

「ふたりは仲良くなれるだろうか」

 

「できるだろう。必ずだ」

 

 それを祝福するように見守るふたりは、歩き続けやがてシッポウ博物館――その奥にある研究所に立っていた。

 

「明かりがついている。あの部屋は、わたし達の部屋だ」

 

 パンジャが研究棟を見上げて呟く。アオイも気付いていた。

 

「ちょうどいい。ベルガ君に会いたいと思っていた」

 

「パンジャ?」

 

「――突然だが、わたしはシッポウでの仕事をやめようと思う」

 

 突然の告白に、アオイは頭の中が真っ白になってしまった。

 仕事をやめる。それは研究室からの退所を意味する。

 

「な、なぜだ?」

 

「…………」

 

 パンジャは分かっているだろう、という顔でアオイを見返した。

 心の内を透かされたのはアオイだ。彼女は、きっと分かっている。アオイがこれから行おうとしていることが分かっているのだ。

 

「君はこのデータを始末しようと考えているんだろう? 穏便に始末しようと。誤解しないで欲しいが、わたしは決してそれに反対しない。君のための知識だ。君が不要と断じるならば、わたしも要らないんだ」

 

 先に足を止めたのはパンジャだ。

 彼女は、アオイとは違い逃げることができるはずだったがここまで歩いてきた。

 目を合わせると、彼女は「ふっ」と息を吐いて笑った。

 

「そう、か。……パンジャ、ひとつ確認したい。君の作成したデータについてだ」

 

「何なりと」

 

 アオイはデータの使い途を考える前に、考えなければならないことがあった。

 

「私は君を研究者では無く技術者として扱っていた。壊すにも才覚が必要だったからだ。化石は貴重な物だ。壊しすぎてはいけない。君は私の知る中で最も優秀な技術者だったよ」

 

 アオイは確認するように言い、パンジャが頷くのを待った。そして。

 

「だが、研究室で行われた実験の結果は全て私が管理していた。そう。私の。私だけの知識のはずだ。――君はどうやってポケモンの蘇生論を作った? 発想が何も無いところから生まれることはない。そうだな?」

 

 責めているわけではない。アオイは杖を持っていない右手を挙げた。

 

「しかし、私の目を盗んで他の作業をしていたのか? いいや、そんなことはないはずだ。君の机はいつも金槌とたがねしか置いていなかった」

 

「君のその聡いところを……わたしは好ましく思っている。ええ。いつでも。いつでもだ」

 

 声音は穏やかで優しい、春の風のような柔らかさがあるというのに、顔はほんのちょっとも喜色を浮かべてはいなかった。順序を違えたちぐはぐさがアオイの不安を煽っては火を注ぐ。だが、黙ったままでは分からない。

 

「単刀直入に聞こう。君は私が事故前に作成したデータを持っているのか?」

 

 不完全な化石から完全なポケモンを復元する。実験の詳細を調査し続けたデータは、アオイにとって何よりの宝だ。

 だからその蓄積が夢まで遙か届くことはないとしても漏洩を許すつもりはなかった。

 パンジャは観念したように目を閉じた。

 

「……完全なデータではないが持っている。わたしは事故の1ヶ月前のデータをコピーした。君に落ち度は無かった。わたしが作為をもって君を嵌めたのだ」

 

「1ヶ月前? 具体的にいつのことだ?」

 

 頭の中のスケジュール帳を思い出しながら訊ねる。返ってきた日付の時分は研究室の発表があった頃だった。その事に言及するとパンジャは視線を流し地面を見つめた。

 

「学会が終わった後、わたし達は自宅に帰った。そこでふたりで飲む話になっただろう?」

 

「……う、ん? いや覚えていないな……」

 

「そうだろう。君をひどく酔わせたのはわたしだ。まあ、わたしは君に言われるまま注いでいただけだが……今それを言うのは公平ではないな」

 

 アオイは酒が弱い。飲めないことはないのだが、飲むと体が熱いし、あちこち痒いし、疲れて眠くなる。イッシュ地方にいたころはどうしても眠れないときに適当に飲んで寝ていたが、シンオウ地方に渡ったこの1年くらいはほとんど飲んでいなかった。そして、研究室内の付き合いでは「飲めない」ことにしているほど人前では飲まないことにしていた。無論パンジャやコウタの前を例外として。

 

「それでどうして君が私の研究データを欲することになるんだ。まさか小遣い稼ぎにどこかに売り飛ばそうなんて考えていたわけじゃないだろう」

 

「驚くことを言わないでくれ! わたしは、ただパスワードが知りたかったんだ」

 

 歯切れの悪い言葉にアオイはやきもきした。

 

「予想外に危ない理由で私は全然安心できないぞ」

 

 パンジャのことで安心できることなどほとんどないのだが、それでもこの問題は思ったよりも根が深そうだ。アオイは動悸で目が暗んだ。パンジャは弁明を続けた。

 

「君のパソコンには正午までにパスを打たないと消えてしまうデータがあるんだろう? そのことは薄々気付いていた。だから、その時間まではわたしは君の座席の後ろを通らないように気をつけていたんだが、でもある時、偶然、君がパスを打っている時に出くわしてしまって……その時にキーボードのどのあたりのキーを打っていたか覚えてしまったんだ」

 

「それだけで分かったのか? いや、それは何百文字とあるパスではないから記憶も不可能ではないだろうが……ええと、それで見たパスを確かめようとファイルをコピーしたと?」

 

「ま、まあ……そういう、ことになるかな?」

 

「それで確認した後は何に使っていたんだ? どこかに渡したのか?」

 

「だから! 渡していない! 君の大切なものを妄りに渡すわけないだろう! あまり疑わないでくれ、悲しい。わたしはどうにもしていないよ」

 

「でも普通は何を書いてあるか見るだろう。ずっと開かなかった箱があるとして、ようやく開けた鍵付き箱の中身を覗くだろう? 『何が入っているのかなー』って」

 

 アオイはつい先日、開けたくても開けることのできなかった箱を勇気を持って開封した。そのことを思い出すと言葉に熱がこもった。しかし、パンジャはどうして彼が熱弁を振るうのか分からないらしい。首を傾げた。

 

「いや、別に。何もしていないよ。事故が起きるまで文章は読んでいなかった」

 

「君はそれでも研究者なのか! 見ろ! 見てくれよ! 私が必死な思いで書いた理論を見てくれよ! 君は知る権利がある唯一の人なのに! ああああああーッ!」

 

 矛盾した思いだと分かっているのだが、パンジャが想像を超える無関心であったことに耐えきれなかった。アオイは膝が笑ってしまい、パンジャに支えられた。ふわりと花の香りが漂っていた。

 

「ええぇ……。だって、アオイのものだし……。それにわたしが見たらマズイだろうなって。知らないはずのものを知っていたらアオイもビックリしちゃうだろうなぁ、と遠慮していたんだ。ああ、研究熱心な私は見ていたようだがどこにも遺漏は無いよ」

 

「よし! よくやった! はははは、私の成果も無駄ではなかったのだ!」

 

「最終的に蘇生論の骨子に転生したからね。自信になったかい?」

 

「いや……なんかもう……最後の自尊心が粉々に壊されたって感じだ……。ああもう。それで? 君はいったい何をしたかったんだ?」

 

「君のファイルって、その、パスワードが……あの、わたしの名前の花だろう? だから……その、嬉しかったんだ」

 

 理由は、アオイにとって予想外でにわかに受け入れることはできなかった。それが本当なのか何度か会話を交わし、それが本当だと分かったときアオイは事情を整理して困惑した。

 

「つまり君は夜な夜なファイルを開いてパスを解いて、ファイルを閉じて満足感に浸るという――え……それだけ……? え? え? 嘘だろ……?」

 

「それがどれだけわたしの至福だったか。君にも教えてあげたいくらいだ」

 

 笑わない目に魅入られてアオイはようやくそれが真実であることを悟った。

 パンジャは、日常のささやかな出来事を慈しむことができるのだ。アオイとの違いはそこに原因があるのかもしれなかった。

 

「あれを幸せというのか……君は」

 

「君に頼りにされることが、わたしには何より誇らしく、嬉しいんだ」

 

 パンジャは、アオイに万一のことがあれば事業の全てを引き継ぐことになるだろう。一生を尽くすものが定められていたとしても彼女はそれでよいのだ。ほかでもないアオイからの贈り物だから。

 

「データのことは、分かった。……それで、パンジャ」

 

 アオイは彼女の献身に謝意を述べようとして、結局ありがとうしか言えない自分に嫌気が差した。感謝の気持ちはこれでは伝えきれないと思う。

 

「たしかに正しく君の成果だが、ここで生み出された以上はこの施設には責任はつきまとう。――私にその知識は不要だ。そして君も不要と言うならば正しい所有者としてアロエ所長になるべきだと私は考えている」

 

 ふたりの間に流れる空気は、穏やかだ。

 パンジャは研究室を見て頷いた。賛成だと告げるよりもそれは雄弁だ。

 

「……君は悪くない。君を追い詰めた私が悪かった。これを生み出した責めを負うべきは私だ」

 

 もしも、この情報が溢れたとしたらパンジャは世界中に狙われることになるだろう。世界の知識を何周も早回しにした技術者を誰もが放っておかない。有名税なんて言葉があるが、これはその程度では収まらないだろう。栄光に付きまとう罪は重くのしかかる。悪の組織に狙われるか。そうでなくとも不自由な身の上を強いることになる。

 そのことを考えるとアオイは気が重い。つい俯いているとパンジャがトントンとアオイの肩を叩いた。

 

「『君のため』は等号で繋がる『君の罪』ではない。いいかい、アオイ。罪ではない話だ。罰ではない話さ。償いでもない話なのだ。わたしがやりたくてここまで頑張っただけだ。『君のため』という言葉はごく最近の研究で偽であることが証明されてしまったからね。具体的には昨日なんだが」

 

「君の才能は本物だった。だが、正しく使うには時間が無い。もしも、正しく使うことができたのなら……君は世界の恐怖を殺せたな」

 

 それは作成期間、たった1年。

 

「なんともままならないものだ。けれど、それでいい。わたしの栄光は同時に君のものでなくてはいけない。――今度こそ最後までふたりでやるんだろう?」

 

 パンジャはアオイにデータが入ったUSBを手渡した。

 受け取ったアオイは、ほんの一瞬だけ、これで持って逃げてみたいと思った。

 

 世界は未だ知らない知識が、掌にある。

 その栄光は輝かしく、甘い毒のように善心を蝕む。

 パンジャは、手袋に包まれた手を自分の胸に当てる。腰を低め、抑揚のある声を張った。

 

「アオイ、栄光は君の手にこそ相応しい。おお、友よ。茨の冠を捧げよう。荒れた冬の海原を往くというのなら、我が手でそれを捧げよう。我が恋しき人、愛しき友、哀しき人よ」

 

 彼女はそれを咎めない。

 痛みを負う栄光を持ち、心中することも許すだろう。アオイには全てが許されていた。

 

 栄光を握りつぶすほど握り、アオイは研究室へ杖を動かした。

 

「それでも私達は、その道を選ばなかった」

 

 死んだジュペッタを蘇生させるという、パンジャの提案を却下した。

 理由は。その理由は。

 

「私達は未来へいく。そう決めた。決めたのだ。覆りはしない。ここに至るまで何度も間違えているんだ。今度こそ、正しい道を行こう。ふたりで」

 

 この栄光は、毒だが美しい夢を秘めていた。

 

 ――だって彼女は、ただひとりの心を救いたい。それだけしかなかった。

 

 栄光を彩る物語は人々を納得させるだろう。

 きっと他人は恋愛と見間違える感情は、アオイにとっても眩しいものだった。

 ひとりの人心を廃し完成させた、死を殺すための理論。

 

 夢のような魔法だ。魔法のような夢だ。けれど現実に立脚している。理論の鋼を纏い、絶対を鎧とした『死者を生者に変える』――世界の針を何周も早回しにする理論は完成した。

 

 そして、今日。

 

 理論は一度も日の目を見ることなく、ただひとりの人間の意志で棄却されることが決定したのだった。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

「ア、アオイさん!? ど、どうして……! あ、今は――ちょっと」

 

 パンジャと共に研究室の戸を叩くと、気怠げに見えた丸い眼鏡の向こうにある瞳が大きく見開かれた。

 その驚きにアオイはわずかに違和感を覚える。いるはずの人物が目の前に現れた驚き――ではないような気がしたのだ。彼女には悪いことをしている現場を押さえられた驚愕の色がある。

 

 いいや、勘繰りすぎだ。

 アオイはパンジャに釣られて過敏になっているのだと思った。気持ちを落ち着かせて、微笑んだ。

 

「お久しぶりです。お元気にしていたでしょうか?」

 

「せ、先輩……?」

 

 アオイは、どこまで知っているのか。

 無言のうちに質問するパンジャの後輩、ベルガは目を泳がせる。その問いにパンジャは答えなかった。その代わり右手を差し出した。

 

「用件は2つだ。ベルガ君。――1つ。わたしは仕事をやめる。2つ。今まですまなかった。君は君の道を歩むといい。わたしは何も言い咎めない。君の行き先へ祝福を、我が友よ。今日は私用のパソコンを回収しに来た。アオイはそのおまけだ」

 

 言うだけ言った後の沈黙が痛い。アオイは「ああ」と言葉を探すように呻いた。

 

「ま、まあ、そういうわけだ。とにかく急で申し訳ない。ベルガさん。我々はなんと言うべきか。ええ、精算時期にあるのだ」

 

 呆然としているベルガの隣を歩き、パンジャは自分の棚に置いていたパソコンを回収した。

 

「アオイ、用件が終わった。撤収する」

 

「了解だ。……しかし、いいのか?」

 

 アオイはチラとベルガを見る。かける言葉が少なすぎる。それをアオイは哀れに思った。パンジャが彼女と過ごした時間は短いものではない。アオイが後輩のマニと別離する瞬間があるのなら、もっと言葉を尽くすだろう。同じように、パンジャもするべきではないだろうか。もっと何かかけるべき言葉があるのでは――。

 

「無い。わたしと君の道は最初からねじれの位置に存在する。君が欲する正しさを果たすがいい。わたしには理解ができないが、君はそれが何より大切なんだろう」

 

「――――」

 

 怒りは一定のラインを通り越すと赤から白へ変わるらしい。今にもパンジャにつかみかかりそうな顔をしたベルガが口を開く。しかし、それは最後まで音になることはなかった。

 

「さようなら。君とはもう二度と会いませんように祈っている」

 

 彼女の言葉が少ないのは、語るべき言葉を失うほど彼女の尊厳を踏みにじった後だから――そう気付いたアオイは口の端が引き攣るのを感じた。

 

「あ、ちょっ。パンジャ――」

 

 それでも、アオイは不安になり振り返った。閉じる扉の向こうでベルガは、虚空を見つめ笑いと呼ぶには難しい苦い顔をしていた。

 

(ああ、ふたりの歪みは……この日まで)

 

 言うべきことを。

 語るべきことを。

 悟るべきことを。

 

(致命的なほど、避けて今日にたどり着いたのか)

 

 本来、人間関係の構築はパンジャにとってさほど難しくないことだ。アオイが同じ関係を構築する何倍も早く、強固な関係を築くだろう。誰にとっても都合の良い人として振る舞うことは彼女にとって息をする事と同等に容易いものであるはずだから。それが、もっとも研究室で身近な人物の間にできていないということは。

 

「アオイ、どうか私を責めないでほしい。私はやるべきことをやっていただけだから」

 

「分かっている。分かっているが……」

 

 彼女は、人間関係の不和で生じる障害よりも計画の迅速さを優先していたのだ。

 それが巡り巡り未来を侵すことがあるだろうか。まさか。

 悪い妄想を切り払うようにアオイは早足で歩いく。

 

 パンジャの振る舞いがかつての自分の姿と重なったことも、多少アオイを臆病にさせていた。

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

【シッポウ研究所、所長室】

 

 

 

 歩く者のいない廊下の真ん中。

 ゴシック調で彫刻された表札の前で、ふたりは最後に一度だけ目を合わせノックをした。

 

 

 

□ ■ ■

 

 

 

 シッポウ研究所。

 その所長、アロエは世間話の後に話された内容に困惑しているようだった。

 

 突然押しかけた退職者と同僚が見慣れぬデータを差し出して、裁定を待っているのだ。困惑も当然の事態と言える。

 

 アオイも、それは重々に承知だった。

 

「研究所有物の私的利用、書類の偽装工作とやれることは全部やりました。その結果がこれです。化石の復元を応用し、死体を権利ある生き物に復元――治癒と言った方が正しいかもしれませんが、ええ、ともかく――『元に戻す』理論です。理論の大本は、私が作成した部分化石の復元率を高めるための研究です」

 

「…………」

 

「私の退職後、パンジャに研究継続を依頼をしたのは私です。私が指示を行いました。所長も何度か見たかもしれませんが、退職後も私は論文の提供を受けていました。ハクタイの資料館の研究者、マニ・クレオの名を借りて――」

 

 アロエは浅黒い肌色の手を上げて、アオイの言葉を制した。その手で頬を押さえ、何度か客間のソファーに座り直す。彼女の目は鋭い。この研究室の暗部で蠢いていた何かを今、悟ったようだった。

 

「事情は……分かった。だが、厳しいと言わざるをえない」

 

「厳しいとは」

 

「君たちが上司に黙って研究、この場合、悪いことだ――それを行っていた。だが証拠が無い。末端からわたしのパソコンの中枢まで君達が全て改竄してしまった、だろう? それこそ、こちらには君たちの証言しか犯罪の証明が無い。理論データ? これを公に出すことはできないだろう。わたしやジュンサーに君たちをどうこうすることは、不可能だ」

 

「では私達は、このデータをあなたに渡したいと考えています」

 

「なぜ? 何かやりたくてこれを作ったんだろう? それこそ元に戻したいポケモンがいたのだろう?」

 

 パンジャは、テーブルに置かれたデータをしばらく見つめていたが、この言葉に部屋に入って初めて口を開いた。

 

「わたし達には必要がなくなりました。所長なら、正しく使うことができると思っています」

 

「わたしに……」

 

 アオイは、アロエを信用していた。そして今も信頼に揺らぎはなかった。アオイは一瞬でも「もしも」を考えた。だが彼女の瞳に迷いはない。栄光を夢見ることない彼女は誰よりも地に足を付けた研究者だった。

 

(所長には敵わないな……)

 

 いつか抱いたはずの憧れが喉を焦がし、アオイに今以上の謝罪と釈明を焼いていった。こんな人だから付いていこうと思った。――騙しきれると思ったのだ。

 

 告白を終えた彼は数秒目を閉じた後、杖を握った。

 立ち上がろうとするとパンジャが手を貸してくれた。

 

 この物騒なデータをどうするか。

 彼女のなかで処遇は、もう決まっているようだった。

 ならばもう、ここに長居はできない。

 

 アオイは深々と頭を下げてから、今度は歩ける足で退室した。

 

「それでは、私達はこれで失礼させていただきます。……恐らく、もう二度と会うことはないでしょう」

 

「所長の幸せを祈っています。それではBest Wish」

 

 平時と変わりないパンジャが、最後の別れを述べた。

 アロエは留めることはしなかった。平静だが、怒っているのだろうと思う。優しい人を怒らせてしまった。その事実がアオイの胸をチクチクと棘のように指した。

 

 バタン。重い扉が閉まった後で、パンジャがホウと息を吐く。

 

 ふたりの間に気まずい空気が流れた。

 明るく話し始めるのは場違いで気後れするし、暗い話をするのなら最初から話さなければいいと思う。気が滅入った。

 

 言葉を探すアオイの隣で、パンジャは前髪をくしゃくしゃとかき混ぜた後、困ったように笑う。

 

「ありがとう、アオイ。君のおかげでわたしは、こんなに穏やかでいられる。わたしはね、自分がもっと取り乱すかと――」

 

 思ったのにね。

 その言葉は途切れた。

 

 ふたりが背にした扉の向こう、重い何かがプラスティックを砕く音が聞こえた。

 

(ああ、やはり)

 

 アオイは目を閉じて、左手で顔を覆った。

 

(あの知識は、この世界にあってはならないものだった)

 

 パンジャは理解ができなかっただろう。何を壊した音なのか。しかし、理解が及んだ瞬間、言葉にならない声を上げアオイを押しのけて扉を開こうとする。彼は、その腕をつかみ首を横に振った。

 

「やめるんだ、パンジャ」

 

「あれはわたしのものだ! アオイ、君のための! 我々の夢なのに――!」

 

「それでも私達は選ばなかった。それで終いだ。終わったんだ! もうここに用は無い。行くぞ」

 

 パンジャの手を取り、アオイは歩いた。歩き慣れたはずの廊下が長い。彼に引かれて歩くパンジャは何度も振り返った。しくしくとすすり泣く声が聞こえた。

 

「泣くな、泣くな、私だって泣きたくなる……」

 

「だって、だって、壊すなんてあんな酷いことを! ……うぅぅ……酷い、酷い、あんまりだ……ああ、わたし達がいったい何をしたって言うんだ……!」

 

 とうとう立ち止まると彼女は嗚咽をかみ殺し、手当たり次第に壁を殴った。

 休日なので空室だろうが、彼女はいま怪我をしている。腕の傷に響くだろう。

 

「不正な実験だっただろう。当然の帰結だ。だからほら、壁を殴るのをやめるんだ」

 

「うぅ……壊すなんて……壊すなんて……壊してもいいのはわたしとアオイだけなのに……」

 

「それについては後でゆっくり話をしよう。さ、パンジャ。歩くんだ。……今の私には支えきれない」

 

「歩く……歩くから……く……うぅ……」

 

 アオイは今にも崩れ落ちそうなパンジャの背を撫でた。こうして――事故の後、自分を支えてくれた彼女を思い出していた。かつては何かを思う余裕は無かったが。

 

「君は強いよ。私はあの時、止まってしまったけど君は動いている。誰にもできることではない」

 

「アオイの前で……あまり無様を晒せないだろう……」

 

「それは無理を強いるな」

 

「いいや、好きでやっていることだ……はぁ……落ち着いた……。忘れたことを忘れることができないことはストレスだが、忘れないというのもストレスだが……湿っていてはカビが生える……」

 

 そういう彼女は、まだぐずぐずと鼻を鳴らしていたが、もう目は悲嘆に暮れていなかった。素早い気持ちの切り替えにアオイが戸惑うほどだった。

 

「考え方を変えれば、そう、生みだしたものの末路としては、無害で無難な結果になったということで良かったのでは? 君もわたしも新聞の2面記事に載っていないし、ジュンサーさんのお世話にもなっていないし、今日の晩餐は冷たいカントー丼とよろしくしなくともよいのだ!」

 

「えっ? ああ? そうだな? うん、そうだな。そろそろお昼だし何かおいしいものを食べに行こうか」

 

「とびきり美味しいものを食べよう。――さてフリィはどこに行ったのか、帰るよー」

 

 パンジャはアオイの手を解くと彼より先を歩く。白昼の真白な太陽に照らされて、長い髪がきらきらと光っていた。

 

(……慰めの良い言葉も思い浮かばないとは)

 

 アオイは手を引くことしかできなかった。

 彼の心には臆病でひび割れた隙間から冷たい風を感じていた。彼女が純真に慕ってくれることを良いことに、企みに乗せて失敗して傷つける――同じ事を繰り返すのではないか。そんな恐怖に駆られたのだ。

 

「モシモシ!」

 

 ヒトモシのミアカシがアオイのズボンを引いた。声をかけようとすると、彼女はとことこと歩いて行く。この地を知らない彼女が、いったいどこへ向かうのか。研究棟の裏。がらんどうに開けた視界の先は――。

 

「…………!」

 

 気付いたアオイは、その先で佇むパンジャを見つけた。

 

「事故の跡、実験棟は取り壊されたと聞いていたが……再建するのか?」

 

「ああ。もう一度、作るそうだ。……また誰かの夢を作るのだろう」

 

 わたし達と同じように。パンジャの言外をアオイは知っていた。

 

「アオイの作った基盤になる知識があったとはいえ、蘇生論はわたしでも辿り着いたのだ。――そう遠くない未来に、誰かが見つけるだろう。そう考えると我々の行いは、アロエ所長の善心を試しただけの無意味な行いかもしれない」

 

「それでも、あの知識は世界に生まれ出てくるには早すぎる。今ではない未来、ほんのわずか先の未来でもいい。いつか相応しい形で、あの知識が世界を変えることを願おう」

 

 この願いは、言葉にすれば絵空事で――綺麗だった。

 その美しさだけでアオイは満足を覚えていた。

 綺麗な夢だ。それはそれだけで価値がある。

 

 パンジャにも覚えがあるのだろう。笑わず、バニプッチを抱きしめた。

 

「願いか。……そうだ。君は、希ったのではないか? 世界に選ばれる特別な人間になりたいと」

 

 アオイの目を眩ました願いは、気付かれていた。

 

「知っていたのか?」

 

「分かっていた。君が誰かにとって特別な何かで在りたかったことを。ただ、それだけが望みなのだと。それが叶わないから、全人類とポケモンのための献身しているのだって分かっていた。……ああ、わたしも夢を見た。君の夢に憧れた。君の夢をわたしも見たかった。だから君になりたかった。もっとアオイのことが理解できるようになりたかった。……わたしは、君と同じ夢に触れたかった」

 

 かつて痛烈に思い込んだ願いは、彼女が知っていた。

 心のどこかで痛んだ傷が埋まった。理解しがたいと思えた壁が消えた。

 

「かつては、そうだった」

 

「今は……思っていないようだ。わたしも君も。前は……そんな顔をしなかった」

 

 夢の廃墟は、新しい夢を育む施設へ姿を変えるだろう。

 それを悲しいとは思わない。これまでのことを無意味とは思わない。

 ただ、ひとつの夢が『終わった』のだとふたりは思った。

 

「行こう」

 

 消えない焔が、後に続く。

 そして。

 ふたりは、実験棟跡地に背を向けた。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

「どこだ! どこに――どこに行ったんだ……!?」

 

 亡霊は、いつも墓場からやってくる。

 埋めたはずの夢の残骸を人は振り返らない。

 それが他人のものであればなおさらのことである。

 

「逃げるな、わたしから逃げるなんて、許さないんだから!  許されないんだから!」

 

 彼女の名前はベルガ。ベルガ・ユリイン。

 

(あなたは最先端を走っている。それは間違いない。間違いないのに。そこで歩みを止めるなんて! わたしの目の前を歩いておきながら――ッ!)

 

 研究室は、あれはもうダメだ。現状からの飛躍を諦めている。足下ばかりを見つめた先で何を見つけるというのだろう。

 研究室に課せられる厳しい制限のなかでは、革命的な想像は生まれない。

 

 だが、例外があった。アオイとパンジャだ。

 彼らは研究室の隙間をかいくぐり、個人的な研究を行っていた。

 その結果は、全世界が傾聴に値する代物だというのに――何を血迷ったか。彼らはアロエ所長に提出する暴挙に及んだ。

 アロエが不燃ゴミの奥底に沈めたプラスティック片を見た瞬間、眩暈を感じた。

 

「ふざけるな! ふざけるな! こんなこと! 絶対に、認めないんだから!」

 

 イトマルの糸をたぐり、ベルガは走る。

 胸に抱えたモバイルが懸けた熱量の分だけ重かった。

 

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