「ゼァァァ!」
「がはっ!?」
サツキの亜音速で振るわれた左拳がヴェルサの腹部に捩じ込まれ、間髪入れずに放たれた右拳で彼の身体が宙を舞い、壁に激突する。
彼が起き上がる前に追撃しようと一歩、二歩、三歩と少しずつ距離を縮めていくサツキ。その赤みがかった瞳に、殺意を灯しながら。
彼女が拳を振り上げたところでヴェルサは唾を吐いて起き上がり、隙だらけになったサツキの懐へ鋭い前蹴りを突き刺すように叩き込む。
が、サツキも負けてはいない。懐に入った彼の左脚を逃がすまいと右の脇へ抱え込むと、空いていた左手で肩を掴んで頭突きを入れた。
「ごっ……んなろ、ぉ!?」
壁にもたれ込む形で倒れ込み、ふらつく身体ですぐに立ち上がろうとするヴェルサの顔面へ、サツキは渾身のミドルキックをぶつけた。
とはいえ、体力の限界が近づいているのはサツキも同じである。脚を振り切った拍子に体勢を崩し、そのまま俯せに転倒してしまう。
傷口を押さえて蹲り、むせながら血を吐く。このあとジークリンデとの決闘を控えているため、ここで体力を使い切るわけにはいかない。
震える身体を起こそうとするも、鋭い痛みに耐えきれずバランスを崩し、再び俯せになるサツキ。しかし、それはヴェルサも同じだった。
「こ、んにゃろ……!」
そんな中、先に立ったのはサツキだった。そのすぐ後にヴェルサも立ち上がり、息を整えるように見せかけて血で汚れた拳を放つ。
サツキはそれを両手で包み込むようにいなし、流れるような動きでヴェルサを背中から投げ落とすと、すかさず彼の身体を蹴りつけた。
一回、二回、三回、四回、五回と容赦なく蹴りを入れ続け、鮮血が噴いたところで蹴りつけるのを中断。今度は顔面を三回踏みつけ、跳び上がって両脚を突き刺そうと構える。
「ぐぅっ――!」
迫り来る鋭い脚を、ヴェルサは強引に転がって回避する。空を切ったサツキの脚は地面に突き刺さり、亀裂と小さなクレーターを生み出す。
転がった勢いで危なげに立ち上がり、右手に爆撃弾を生成し始めるヴェルサ。だが、生成中は集中しているため動くことができない。
そこへサツキの繰り出した渾身の一撃が無防備な顔面に叩き込まれ、爆撃弾の生成を中断されたうえに奥歯が二本も抜け落ちてしまう。
体勢を整えようとするが、今にも倒れそうなほどにふらつくサツキ。意識はあるものの、目の焦点は合っていないようにも見える。
「はぁ、はぁ……オオラァ!」
息を乱しながらもヴェルサが顔を上げた瞬間に振るった右拳が、ジャストタイミングで顔面に直撃。さらにもう一度右の拳を後ろに引くと、身体を捻るようにそれを打ち出した。
「ごあァ……!?」
が、今度は血を吐いても倒れずに踏ん張るヴェルサ。これにはサツキも目を見開いたが、すぐに切り替えて後ろ蹴りを胸部へブチ込む。
続いてよろめいた彼の肩を固定するように掴み、左の連打を我武者羅に叩き込んでいく。大雑把な大振りを補うほどの、凄まじい速度で。
ヴェルサの身体から力が抜け始めたところで、めり込ませるように打ち込んだ拳をそのまま振り切って彼を地面に叩きつけた。
「ぐっは、あぁ……」
息が詰まり、仰向けになったヴェルサへ踏みつけの追撃を加えるサツキ。腹部ではなく胸元を踏んづけ、さらに息が詰まった隙に無理やり起き上がらせ、右のハイキックを繰り出す。
そして止めを刺そうと左のハイキックを放つも、ヴェルサが倒れ込んだことで空を切ってしまい、発生した蹴圧が壁を斬るように削り取る。
だが、サツキはヴェルサが倒れ込んだのを認識できていないのか、今度は右の大振りで虚空を薙いだものの、暴風気味の拳圧が蹴圧同様、地面と壁を抉るように削り取ってしまった。
「ぁ……?」
――直後。
突如サツキの身体から力が抜け、仰向けに転倒し後頭部を打ってしまう。それはサツキの限界が近づいていることを、より明確に示していた。
「あ、がァァ……!」
「ごっは……あァ……」
どん底から這い上がるように声を荒げ、我先にと言わんばかりに立ち上がろうとする両者。ヴェルサは深い傷こそないが無残な姿で、サツキはいつくたばってもおかしくない姿で必死に足掻く。
身近な存在に裏切られ、殺されそうになった。だから元凶のヴェルサを追い詰め、ブチのめした。しかしそこには何もなく、暗闇のような虚しさだけがサツキの心を支配していた。
「ぐ、うぅ――」
こうして勝負には勝ったし、命も奪われずに済んだ。だけど何か得られたのかと聞かれたら、何もなかったと答えるしかない。
勝ったのに何も得られない。それは今から約四ヶ月ほど前、ミッドチルダ東部の田舎で狂犬番長とやり合ったときにも感じていた。
傷を負ったわけでもないのに、胸の痛みが辛く感じる。ただ虚しいだけかと思えば、ないと思っていた悲しみも深いところにあった。
人間はこういうとき、悲しみや辛さという感情に圧迫され涙を流す。じゃあ、どうしてアタシの目からは涙が出ないんだ?
「――■■■■■■■ッ!!」
泣くように呻きながら上半身を起こすと、天に向かって獣の如き咆哮を、己の中で広がりつつある虚しさを訴えるように上げた。
違う、違うんだよ。涙が出たところで何になる。アタシはヤンキーでいたいんだ。普通の人間らしく泣きたいわけじゃねえんだ……!
虚しさを、悲しみを、全てを振り払うように咆哮するサツキ。その顔は、押し寄せてくる感情に流されまいと必死になっていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
音の嵐が終わると共に、サツキは顔をしかめて立ち上がる。ジークリンデとの約束を守るために、彼女と決着をつけるために。
だがその前に、まだ意識のあるヴェルサに言うことが残っていた。ズボンのポケットから財布を取り出し、唸るだけで動けない彼の元へ歩み寄る。
ヴェルサの射貫くような視線を意に介さず、お金しか入っていない財布を彼の目の前に落とす。彼にとっては天の恵みと言えるだろう。
「欲しけりゃくれてやるよ、こんなもの……」
見下すように口元を歪め、そう告げるサツキ。それがよほど堪えたのか、ヴェルサはボロボロの彼女をとても悔しそうに睨みつけた。
そんな彼の顔を軽く踏みつけ、気を失ったことを確認して踵を返したところで足を踏み外し、崩れるように倒れ込んでしまう。
「うぐ……クソがァ……!」
扉までの距離はそこまで離れていない。諦めずに歯を食いしばって転がり、指を食い込ませる勢いで壁に手を当て、どうにか立ち上がる。
サツキは先ほどブチのめしたヴェルサの取り巻き、そして壁にもたれ掛かった状態のサフランには見向きもせず、扉に向かう。
腹部の傷口から鋭い痛みを感じようと、躓くように体勢を崩そうと、口から血を吐こうと、何があっても止まらずに足を進めていく。
まだ間に合う。そう心の中で何度も復唱しながら、ついに廃工場から出ることに成功。そこでようやく立ち止まり、首に付けているチョーカーを人差し指でコンコンと軽めに叩いた。
「時間が、ねえから……単刀直入に言うぞ、アーシラト」
〈半年以上もほったらかしにしていたかと思えば、何ですかいきなり〉
アーシラト、通称ラト。チョーカー型のインテリジェントデバイスであり、今年で五年の付き合いとなるサツキの愛機だ。
サツキが競技選手だった頃は彼女を陰で支えていたが、最近はまともに魔法を使わなくなったサツキのせいでほとんどスリープ状態にあった。
久々に起動した愛機の軽い愚痴を聞き流し、サツキはある事を告げようと口を開く。
「――頼みがあるんだわ」
日没まで、あと五分。
「……今のは?」
平原のど真ん中。そこでストレッチをするジークリンデの耳に、この場を支配していた静寂を打ち破る咆哮とも言える音が入ってきた。
この辺りに猛獣はいないし、動物の鳴き声にしては変だ。つまり今のが咆哮だとすれば、それを発したのは人間ということになる。
頭を回転させていた彼女の脳裏に、一人の人物が浮かび上がる。こんな芸当ができる人間は自分の知る限り、一人しかいない。
とはいえ、これに関しては本人が来たら聞くことにしよう。勝手に決めつけるのはよくないと、頭を人差し指で掻くジークリンデ。
「ほんまに遅いなぁ……いつものサツキならもう来てるはずやのに」
日没まで五分を切った。それなのに、肝心のサツキはやってこない。周りを見渡しても姿すら見えない。いや、本当に来るのだろうか。
タイムリミットが迫っているせいか、とうとうサツキがこの約束をすっぽかしたのではないかと疑いそうになってしまう。
「魔女っ子、まだ連絡つかへんの?」
サツキへの疑いを掻き消すように首を振り、平原の片隅で通信端末を操作する金髪幼女のファビアに声を掛けた。その隣では金髪美女のヴィクトーリアが憂わしげな表情を浮かべる。
ファビアは居場所がわからない、電話に出ないと諦め気味だったが、何もしないよりかはマシだと思い連絡を取り続けていたのだ。
――尤も、使い魔を使役すれば済む話だが、不安に駆られるファビアにその考えはない。
「やっぱり探しに行った方が……」
「今からじゃ間に合わない。ただ……」
さっき耳に入ってきた咆哮のような音。無限書庫でもサツキの獣じみた咆哮という、これに近いものを間近で聞いたことがある。
日が暮れているときに廃工場のある方から聞こえたこともあって不気味に思っていたが、よく考えてみたらサツキの声に似ていた。
サツキは今日、この決闘を差し置いてまで大事な用があると言っていた。もしかして……。
「私、サツキの居場所が――」
「残念だが、その必要はねえ」
「――えっ?」
「!?」
居場所がわかった。そうファビアが言おうとしたところで突然、ヴィクトーリアの左耳に嫌というほど聞き慣れた声が聞こえ、肩を組まれる。
いきなり組まれた肩を振りほどき、声がした方へバッと振り向くヴィクトーリア。そこにはジークリンデの決闘相手であり、ファビア達が心配していた少女――緒方サツキの姿があった。
「さ、サツキ!」
「おう……待たせた、な……」
「全く、今までどこに――!?」
張り詰めていた心の糸が切れたのか、少し声を荒げるヴィクトーリアだったが、一歩前へ踏み出したサツキを見て声を詰まらせ、目を見開く。
ファビアもサツキの腰へ視線を向けたところで顔が青ざめていき、彼女達から離れた場所で立っていたジークリンデも思わず息を呑む。
――サツキの引き締まった身体が、血で真紅に染まっていたのだ。